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2012-12-25

オランデーズソースとは,フランス料理などで使われる黄色いソースです。

 

名前はオランダっぽいのになぜかフランスのソース・・・

 

なんでも,フランスの人がオランダのソースを模したことからと言われているそうです。(うぃき)

 

確かにもともとある自国のものに自国の名前をつけるのは変ですね。日本で例えれば,醤油を日本ソースというようなものか。ただ,日本には醤油というあまりに優れた調味料があるおかげでフランス料理や中華料理と比べてソース文化が発展しなかったとまで言う人もいます。

 

そういえば,ナポリタンもフランスでいうナポリ風(トマトソースを使っている料理)だったような気がします。そして,日本でケッチャップを使う独自の「ナポリタン」が生まれ独自に発展し普及していったそうです。

 

「あそこの国でやってることうちでもやっちゃおうよ。」的なノリで真似してみると意外と独自の面白いものが出来上がることがあるようです。

 

ただ色々な分野で,ある作品に少しでも似ているところがあるとパクリと認定されて特定のリスナーからバッシングされることがあります。

現在では,情報通信が発達したため以前より更に個々の作品を比較しやすくなりました。

 

確かに,呆れるほどにそっくりという作品もたまに見かけますが,オマージュというかどうかの線引きが難しいと思います。

 

ただ,それで商売する側にしたら売り上げに影響する可能性もありますし,自分が考えた著作物を勝手に他所でやられてはあまり気持ちいいものでもないでしょう。ということで著作権という知的財産権として個人に権利を認めています。(このへん,あまり詳しくありません)

 

著作者に著作物の保護を排他的に認める度合いによっては,相対的に他の著作者の創造するものに対して抑制がかかることにます。

そもそも,まっさらなところか何かを生み出すなんてある種の前衛芸術を除いて無理であって,先人たちの研鑽の上に蓄積された技術や理論を承継して地層のように厚みを増していくのが現代の芸術の形ではないかと思っています。

 

もちろん,著作者の権利を守らないとすばらしい著作物が世に出なくなってしまうのでよろしくないのですが,あまりに商業的になりすぎると著作物の保護が強くなりすぎてその先の発展性が失われるような気がします。

 

そして,ユーザーにとっては,やっぱり直接的には著作者への制限が少ない方がいろいろな物を選べていい訳です。色々選べた方がいいわけですから。

 

結局,いつものようにバランスが大事という話になりますが,そのバランスを支える要素として時のムードって結構大事ではないかと思っています。だからひとりひとりの心がけで割りと世の中って動くのではないかと。例としてインターネット掲示板が結構そんな感じになってきる気がします。

 

だから,不平不満もいいけど乗るときは乗った方がいいんじゃないでしょうか。って,違う話になりました。

皆様,ご無事ですか。

 

師走の終わりはもうそこまで来ています。

 

もう一息なのでがんばりましょう。

 

ここのところ寒波による冷え込みが強烈なのでちょっと危ない感じもしましたが,何とか今年も無病息災で乗り切れそうです。

 

体調管理といえば食生活は重要なポイントだと思います。

 

かつて,調理場で働いていた頃,賄い担当の当番が回ってきたときにあれこれと本を見ながら自作料理を考えたりしていたことがありました。当時,若かった私は肉や油をふんだんに使っていたため年配の人からはあまり受けがよくありませんでした。

 

そういえば,宗教上の理由で牛肉を使わない料理を注文される方やアレルギーのために卵を仕えないという方もおりましてそういった方に合わせて特別メニューを考えたりもしていました。

 

なお,職場にはおりませんでしたが,肉を食べないで野菜を中心とするいわゆるベジタリアンと言われる方もおられると聞きます。ベジタリアンにも宗教上の理由や健康管理の理由のほか動物愛護という理由の方もおられるそうです。

 

健康管理といえば,西武ライオンズ黄金時代を築いた広岡達朗元監督が選手に菜食を実行させたことは野球好きの間では有名な話です。

 

動物愛護を理由とするベジタリアンについては色々と議論があるようです。よく聞かれるのが植物も同じ命だろうという話です。まぁそりゃ確かにそうですが理由はどうあれ何を食べるかは本人の好きでしょうから動物性蛋白が不足しないようにお気をつけくださいと思うばかりです。

 

ただ,食事だけならまだしも動物愛護というスローガンを掲げた人たちの中にはちょっと行き過ぎと感じることもあります。

 

例の海の犬の人たちは,船にぶつかって玉砕したり心優しい人たちに助けられたりしても全く懲りずに不死鳥のように蘇り今日も妨害行為を繰り返していることでしょう。しかし,多額の寄付金が集まっているようで見過ごすことができないと思っています。もしかしたら政治にまで影響力を及ぼしかねません。

 

そういえば,動物愛護が大きく政治に影響を及ぼすことについて「生類憐みの令」というとてもいい例が日本にありました。この法令は悪法として伝わっていますが現在では見直す考えもあるそうです。犬のことだけが大げさに言われていますが,猫や鳥は当然虫や魚などの生き物のほか幼児や老人にまで保護が及んでいたそうです。(うぃき)

 

それ以前は街中の犬や猫も食されていたようなので,殺伐とした世の中に潤いを与える目的であると考えると結構優しさが垣間見られる法令ではあります。また,大っぴらにさえしなければ魚を釣るくらいはできたとの記録が残っているようです。

しかし,ちょうどその頃に元禄の大飢饉がありましたがその際に幕府8万匹の野犬を収容して食事を与えたそうでそれが批判の的になったのかもしれません。ただ,野犬が増えすぎたために治安維持の目的で収容したと考えることもできます。

 

「生類憐みの令」が廃止された後も犬や猫を飼う文化が庶民に生まれ逆に食することは無くなったようです。

そして,現在においても動物愛護法という動物において同様の趣旨の法律があります。

 

ちょっと前によく見かけた動物虐待のニュースにはやはりとても心が痛みました。

被害を受けた動物の心境や痛々しい姿に心を痛めましたし,同時に加害者の心理に言い知れぬ恐怖を抱いたということもあります。

 

一方で,宮崎県の口蹄疫が蔓延した時に泣きながら殺処分した農家の方々の気持ちも真実だと思っています。少ないながらも宮崎県司法書士会を通して募金させていただきました。

 

人間は生きるために理由とか意味を探します。もちろんあった方が全うに生きられるでしょうし,挫折があった場合でも立ち直るきっかけになるかもしれません。そして,それを動物にもそれを見出そうとします。

 

でも,実際に動物が自分達の生きている理由を自覚して活動しているかというとちょっと判りづらいです。たとえば,植物についたアブラムシを食べることがてんとう虫の生きている理由かというと植物を育てている人間にとってはそうかもしれませんが,てんとう虫にしてみれば生きている時間のうちの食の部分でしかありません。

 

だから,生態系というのは結果であってそれぞれが意識を持って起こしていることではありません。この無意識こそが人間の力の及ばないところであると思います。

 

意識があるからこそ自然という無意識な事を容認できずに発展したのが文明や科学や医学です。たとえば,自然の森の中ではどんな動物に襲われるかわからないから木を切り倒して集落を作り人間にとって住みやすく作り変えました。そうやって,発展を続けることにより自然に大きな影響を与えていることも事実です。だから,結局人間が完全に自然に溶け込むのは無理だと思います。ただ,人間が長い時間を掛けて続いてきた伝統や文化に自然が順応することもあるでしょう。

 

だから,極力自然に影響を及ぼさないようと考える慎ましさが大事だとおもいます。まるで知ったようにむやみに特定の動物が可哀想という理由で過剰に保護することが生態系にいい影響を与えるとは限りません。

 

そう考えると人間が動物や植物の命を奪ったり利用したりすることについて善いか悪いかの判断は人間の心の部分に問いかけることかもしれません。

 

食用にしたって取りすぎてはいけないし,動物を保護するにしても特定の動物だけ過剰に保護したら他の動植物に影響が出かねないし・・・

 

人間が自然のサイクルに完全には溶け込めない以上,もつべきものは慎ましさではないかなと。

 

そして,お肉も野菜も魚も敬愛の念を込めて食べさせていただきまーす!

 子供の頃,勉強が嫌いでして・・・

 

考えることが嫌だというよりあちこちに興味が移りじっとしていられないという感じでした。(今もそうか?)

 

ただ,読書とか映画は好きでしてハマると時間を忘れるほどでした。

 

いつからか,勉強が苦手というのは先入観となり「学校の勉強なんて社会に出てから役に立たない」などと生意気なことを言うようになっていました。

 

 

現在では仕事上さすがにそういう訳には行かないのでがんばっています。

 

ただ,好奇心をもって望むと学識というものに興味を持つことができるようになりました。

 

たとえば,今最優先で必要としている知識は仕事に必要な知識ですが実用するので覚え易くはあります。

 

 

それに付随して,論理的な知識については時間があれば触れる程度ですが,実はこっちの方が私は好きです。ただ,読んで考えるのに時間を要するので必要とする機会が無い限りなかなか踏み込むことができていません。本来ならこっちが第一順位だと思っていますけど・・・

 

あと,適当に思いついたメロディーをハーモナイズするのが好きでハーモニックセオリーは学んだというか弄りました。これは,すぐに音に出すことで感覚に訴えてくる知識なので面白いのですが,頭で覚える知識と耳から伝わる感覚を一致させるのに時間が必要です。

 

 

これと比べて実用できない知識はなかなか頭に入りません。理数系が実に苦手でして考え方の理解はいいのですが,実際に使わないのですぐに抜け落ちてしまいます。

 

 

では,せっかく一生懸命勉強して覚えた知識や経験はほとんど無駄となってしまうのか

う〜〜ん・・・

 

このあたりのことについて,ビートたけし氏がテレビ番組で「哲学や論理的思考を養って人生を楽しむ応用が利くように、あえて国語や数学って形でパッケージして教えてるんだよ。 」と言っていたようです。

 

何通りもある様々な考え方を分野に分けて学んでいるということなのか・・・

 

確かに楽しいことをあれこれと考えているときは,頭を働かせていることが多い感じがします。

 

旅行の行程などを考えるときなど与えられた時間で色々な場所を回るために時間の計算をしたり順序立ててスケジュールを作るのは数学的な思考で段取りをしている感じがします。

 

かつて努力した(?)成果は知らず知らずのうちに発揮されているのかもしれません。

 

それだと,テストの点数を取るための要領を養こと自体が(周囲の評価意外に)役に立たないわけでもないと思いますが,科目をパッケージ化した趣旨に合わなくなってしまいますね。

 

 

かつて,私は授業を無視して分数の割り算の方法について何で分子と分母をひっくり返すのか一人で考えていたことがあります。この話は,スタジオジブリ制作の、「おもひでぽろぽろ」という映画の会話の中でもあったと思います。たしか,「分数の割り算をすんなりできる人はその後の人生もうまくいく」という話です。

 

まさにその話の対照的な見本のようになってしまいましたが,ビートたけしさんの話にちょっと元気付けられます。

 

まぁ楽しければいいっすよね。あっはっは

何度も同じ失敗を繰り返す

 

頭では分かっているけれどどうしてもやめられない

 

もう既に周りの人から諦められている

 

 

 

そんな時,人は変われるでしょうか。

 

 

人の成長を環境に見出すことはよくありますが,どうしてもうまくいかないときというのはどこか周囲の反応に呼応してしまっている感じがします。

 

周りの人に「どうせあいつは・・・」と実際に言われているかどうかはともかくとして(自分はそういわれる立場であろう)という認識が人を萎縮させることはあると思います。

 

大きな責任を負わされることがなくなると自分の面子に傷がつく機会が少なくなりプライドは自分の中で大切に守られ肥大していきます。

 

そして肥大したプライドは,自分独自の偏った採点により強引に自己評価を高めていき相対的に他人の評価を落としていきます。

 

そうなると,自分の認識と周囲の評価が大きく乖離してしまうためもう誰も寄り付かなくなります。

 

だから,なるべく受動的でなるべく興奮の得られる自分の居場所を探します。

 

しかし,現実から逃避しやすい場所というのは,足元を見られることが多くあります。

 

だって,誰でもうまくやっていきたいんです。生き馬の目を抜くというのは一見快楽に満ち溢れたような場所にあると思います。

 

そして快楽におぼれきってもう逃げようにも逃げられないほど追い詰められたとき人は変わることができるでしょうか。

 

人に助けを求めようとも知っている人ほど距離を置きたがるでしょう。

 

そして,本当にどこにも味方がいなくなったと気がついた時,人は深い自己嫌悪に陥ると思います。

 

肥大しきったプライドを捨てて心を改め直すタイミングはこの時が最後ではないかと思います。同じような仲間がいたらおそらく安心してしまうのではないかと。

 

ただ,世間から見捨てられているという意識が自分にある以上,一人で自分を変える事は難しいかもしれません。

 

もう,信じてくれる人など誰一人いないと感じたとき何故か人はすべてを正直に語りだします。自分が絶対に認めたくないと思っていたことまでも人に語れるのはこのときだと思います。そして,その時,人が変わる最後のチャンスだと思います。

 

 

だから,そのときに正面から向き合う人がひとりでもいれば人は変わるために悩み続けることができるのではないでしょうか。

 

 

 

 

依頼者さんからお届け物をいただきました。

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どうもありがとうございました。

 

 ぃやっほーい!!

2012-12-17

土曜日に酔ったまま家電量販店に冷やかしに入りそのままiphone5を購入する運びとなりました。

 

かねてから興味があったのですが,バッテリーとか操作性とか色々不安があったので二の足を踏んでいましたが,商品を眺めているところを店員に話しかけられそのまま・・・

 

酔って家電量販店に入るときは本当にお気をつけください。何から何まで欲しくなってしまいます。

 

で,購入したiphone5ですが,(本当に人が言うほどすごいの〜?)と疑心暗鬼で弄り回してみると・・・

 

 

 

たっ・・・楽しい!!

 

 

まず,タッチパネルですが思った以上に誤操作せず押しやすいです。バッテリーの持ちも前携帯とそう変わらない感じです。そして早い!その他アプリも充実しておりましておもちゃとしても使えました。こりゃハマルナ。

 

まぁそんな話はいいとして昨日の衆議院選挙は自民党の圧勝だった模様です。

 

ただ、比例代表では大敗した09年の比例からわずかに2議席上回っただけみたいです。

 

議席数では自民の圧勝ですが,非自民票を多数の政党が競い合った結果という感じもします。獲得議席の割合=支持率という感じでもないのかもしれません。

 

ただ,衆院と参院のねじれは解消されたので国会の運営は以前よりスムーズになると思います・・・と思いきや自民党が掲げた憲法改正案について連立を組むのであろう公明党の意見が相違している模様なのでさてどうするのか。

 

それは,先のこととしても前回と比べて投票率が下がったことは由々しきことだと思います。

 

ただ,確かにほとんどの人が今の生活を維持することに精一杯で世の中のことなど考える余裕が無いというのは理解しています。

 

「日本が今よりも良くなって欲しい」という願いを持つ人のほとんどは,相対的に自分の生活が良くなることを期待しているのではないかと思います。少なくとも私はそうです。

 

ところで自民党が4月27日に掲げた「日本国憲法改正草案」において13条につき「全て国民は、( )人として尊重される。」となっているようです。現憲法では「すべて国民は、(個)人として尊重される。」されています。さらに,24条では「個人」という文言を残していることから個人としては尊重されないことがうかがわれます。

 

ちなみに13条は,プライバシー権など明文になかった人権の根拠となることがあります。

 

そして,たとえばプライバシー権についていえば,(個)人の権利としての色合いが強い感じがします。

 

これをどう考えるかはそれぞれだと思います。

 

 

ただ,個人としての権利をそれぞれが主張するが故にぶつかり合ったり取り合ったりすることが直接的にも間接的にも起こりえるという私の考えは以前にも書いたとおりです。

 

しかし,権力の暴走を防ぐのが憲法の役割であるのですが,文章というのはどうしても解釈次第で意味合いが変わるような玉虫色の部分もあります。

 

だから,やはり権力に対する国民の監視は必要だと思います。選挙というのはその機会だと思うのです。

 

たまに,「一票では何も変わらない」という方がおられますが,みんな自分の幸せを願って一票を入れているわけですから一票を入れただけで自分の生活が格段と良くなるわけがないのは当然のことです。

 

しかし,自分のことで恐縮ですが先ほど書いたように一番の願いは「自分が幸せになりたい」なのだけどストレートにそう考えずに日本全体の景気が良くなるように願うのは日本人ならではの奥ゆかしさだと自分で思っています。これについては,私個人としての感想ですが,個人として尊重されていることの裏返しだと感じています。

 

「玉虫色はお前だ!」といわれそうですが,私が危惧しいているのはバランスが崩れることで,今回の選挙では2大政党の議席数こそ前回と比べて大きく揺れたものの民意が極端に動いたということでもなさそうなことに安堵しています。

 

それにしても今回の選挙は迷いましたよね。

きのうはあまり流星見られませんでした。

 

9時過ぎごろ車を置いて自宅までの道に子供たちが集まって空を眺めていました。

 

とても寒かったのに元気だなぁ・・・ あ,自分もか!

 

子供のようなことが割りと好きです。

 

思えば身の丈という尺度を自分に当てはめた覚えがありません。

 

周りにどう思われるかというのが行動の抑止にはあまりなっていない様な気がします。

 

だから,常に悪気はありませんし,いつも大真面目なのだけど腰を据えてじっとしている事が苦手なので分かりにくいのでしょうね。

 

だから,これだけは必ずやるとか絶対にやってはいけないことを自分の心に決めています。そうでないと風船のようにふわふわ飛んでいってしまいそうなので。

 

バランスの両極が広すぎるんでしょうね。

2012-12-13

昨日は色々なニュースがありましたが,今日はいいニュースです。

 

三大流星群の一つ「ふたご座流星群」が13日夜から14日朝にかけてピークを迎えるそうです。

 

今年は,13日が新月のため月明かりの明るさに埋もれて流星が見えなくなってしまう心配がなく,流星観察には最良の条件のようです。

 

 

なんでも,夜中の2時頃にふたご座流星群の放射点がほぼ天頂まで昇り,この時間帯にたくさん見えるらしいのです。普段はネコ型なのですが夜更かしが苦手な健康優良児なので果たして起きていられるか。

 

ほしといえば,オークション詐欺事件に関わる虚偽の内容を自身のブログに書き込んだタレントさんがブログで自らの行為を謝罪したそうです。

そんな折にコンビニエンスストアで昼食を物色しているとカップラーメンやパンなどのパッケージにテレビ番組やタレントさんの名前が表示されているものが結構見つかりました。

 

物を売るにしてもテレビによる広報の力は強いんだなと感じます。

 

確かに全く広告を打っていない業者を何か後ろ暗いことがあるのかと邪推してしまい易いですし,利用を考えている方としては実態を把握できた方が近づき易いということはあると思います。そういう意味で,広く顔を知られているテレビタレントさんが宣伝しているということはなんとなく安心ができる感じがしないでもありません。

 

でも,別にタレントさんは商品の品質を保証しているわけではありません。広告塔であることがタレントさん達の仕事なわけです。でも「私も利用しています」と言っていながら全く使っていないのは悪質ですね・・・

 

実際にタレントさんが広告塔となっている商品により人体に悪い影響が出たり詐欺事件が起こっているのですから見過ごすわけには行きません。

 

どうやら,消費者が自衛をするには目に見えるものだけを信じていてはダメなようです。

 

たとえ今日が曇り空でもきっと流星は天空を舞っているはずです。

 

でも今のところ空に雲ひとつ見当たらないので夜空を見上げれば素敵な流星が見られるとおもいます。

2012-12-12

バスや電車などに杖をつきながらお年寄りが乗車してきたとします。

 

そして,お年寄りは優先席のすぐ目の前にきて立たれました。優先席には若者が座っていましたが席を立ちませんでした。

 

それを見てどういう気持ちになるでしょうか。

 

それを少し離れたところから見ていた私は憤り優先席に座る若者に注意をしようと近づきました。

 

優先席の近くまで来て言葉を発しようとしたときに見えたのは座席に隠れて見えなかった若者の杖でした。若者は足が不自由だったのでした。

 

ちなみに架空の話です。

 

私が憤った理由としては,優先席に座った若い人はお年寄りに席を譲るべき社会的義務があり,お年よりは優先席に座ることができる社会的権利がなければならないといった社会的責任というような考え方だとしましょう。

 

そうすると上記のような場合,どうすればいいかが問題になってきます。社会的責任についての明文がないだけにどちらを優先するかを考えるのはとても難しいことです。先に座ったほうが優先か年齢の高い方が優先か実際にどちらが大変か判定をするのか,その他,社会的権利を主張する同士で不平等が解消されるまで様々な考え方から優先の基準を考えなくてはならなくなります。

 

車内のうち誰か一人が立てば一応解決する話なのですが・・・

 

それでも,実際には,争っている双方に社会的権利とかいう発想がある限りいさかいは収まらないのではないかと思います。形的に収まってもしこりは残るのではないかと思います。

 

権利主張には自らの正義が根拠となりますので正義と正義で争いあっても収拾がつくはずありません。故事にある矛盾と同じことです。

 

また,対立関係に捉われると柔軟な解決方法が思いつきません。思いついても面子が立たないということになるでしょう。

 

もともとは誰かの粋なはからいから始まった慣習だったのでしょうが,それが広まるにつれて何か社会的責任のように状況を無視した単純な伝わり方になってしまっているような気がします。私の場合は学校の道徳の時間に先生から「お年寄りには席を譲るべきだ」と非常にシンプルに教育されたと記憶しています。

 

だから,若者はみな状況判断に迷うのではないかと思います。

 

現に私の母親は譲られるのが怖いと言っていましたし,実際に譲ったのに断られてショックを受ける若者もいることでしょう。中には席に座る若者を杖でつつく老人もいると聞いたことがあります。

 

これだと,若者が優しい心の部分が育たず社会がなお殺伐としてしまうような気がします。

 

権利だとか義務だとかで物事を対極としてだけ考えても世の中を狭くすることにしかならないと思います。

 

もっと思いやって,もっと視野を広げて,もっと冷静になれば柔軟な対応ができるのではないかと思います。

 

事務所の近くにある視覚障害者支援施設から出てきた白杖を持った方の横を大きな音を立てながら走り抜けるスクーターを見てなんとなく書いてみたくなりました。

人どうしの関わりの強さや深さについて「人との距離」という風に言うことがあります。

 

人に対してどのように接するかという感覚を物理的な距離という言葉に置き換えているという印象ですが,実際に対面した際には親しい間柄の方が物理的な距離も縮まると思うので言い得て妙だと思います

 

ただ,距離といわれると直線の様な一次元的なものを連想しますが,私たちが住む世界は三次元です。

 

若干こじつけっぽいですが,「人との距離」というものも三次元的な考え方はできるかもしれません。

 

障害を乗り越えたりとか,遠回りして近づいたりとか,丸い地球に例えれば遠ざかるほど距離が縮んで行くこともあるかもしれません。

 

実際に通信技術の発展で遠方からでも言語や映像によるコミュニケーションが取れるようになった時代です。それができるということは逆に言えばそれなりに距離を起きたい人とは付かず離れずの距離を保ち続け易くなったとも言えます。人である以上,物理的な距離

を考慮せずに人間関係を図ることはできないと思うので。

 

そして,詰めて行くにも取りたい距離に応じた順序があるかもしれません。たとえば,出会ってすぐにアプローチをするのは空港の無い島にコンコルドで向かうようなものだと思います。

 

まぁ色々難しいですね。人って・・・

2012-12-10

子供のときから無性に人の注目を集めたくなることがあります。

 

そのためにはどうすればどうすればよいか。

 

簡単な方法として人のやらないことをやれば注目は集められます。

 

でも,人の迷惑になるような方法はいけません。

 

そうすると,どうすればいいか。人の心を動かすような方法がいいな。

 

人のことを考えるにはまず自分のことから考えてみます。

 

自分はどんなことで心が動くのか。

 

きれいな花とか自然に生きる動物とかすばらしい音楽とかおいしい料理とか白熱したスポーツとかの流暢な落語とかお笑いとかしっかり仕上げられた仕事とか人とか満足のいくサービスとかちいさなドラマーとか思いも付かないようなアイデアとか人生を変えるような言葉とか誰にも真似できないような技術とか・・・

 

いずれも今ある結果ですが,その裏側にある一生懸命というところに胸を打たれているところもあるかもしれません。

 

選挙ポスターみたいに大々的な決意表明などしていませんが,やっぱり結果だけでなくすごく伝わってくるものがあります。

 

やっぱりこれが正攻法ですね。

2012-12-07

最近,思い切り笑ったことありますか。

 

では,思い切り泣いたことはありますか。

 

大きな声で叫んだりしたことは?

 

大きな音を出したり叩いたりぶつけたりしたことは?

 

悩みなどネガティブなことを人に打ち明けたりしたことは?

 

 

笑うと健康に良いことはよく言われています。また,涙を流すとストレス物質が排出されることはよく聞くところです。そして,声を出すと脳にいいと聞いたことがありますし,悩みを人に話すことにより客観視ができて解決の方向へプラスになるそうです。

 

ということで,いざ実践してみようとしてみても自宅の環境の問題があるのではないかと思います。周りを見渡せば誰かがいたり,いなくても薄壁一枚隔てているだけだったり,人に心を開くことができないということもあると思います。

 

でも,少し足を伸ばせば,笑いも泣きもコンテンツは非常に多くなりました。声を出すにしてもカラオケがとても普及してきていますし,カウンセリング機関なども最近増えてきていると思います。

 

やはり,多くの人が求めているのだと思います。

 

でも,なんで人間そのものといえるようなことが身近でできなくなるのか。

 

笑うことは,コンテンツについては非常に多いですし,ひとつの産業ともなっています。ただ,大笑をできる機会は音の問題もさることながら自分の内心の部分でできない時があるのではないかと思います。私は,不安とは一生付き合うだろうと考え始めてから声を出して笑えるようになりました。心のどこかに不安や憂鬱を抱えていると大笑いはし難いのではないかと思います。

 

人前で泣くことについては,親の教えもあってちょっと抵抗があるところではあります。あまり直りませんでしたが。教習所でも正直恥ずかしかったです。これは,人前で泣くことに抵抗がない方もいるようですし,あっても一人部屋でビールでも飲みながら映画やドラマでも見ればいいのではないかと。

 

声を出すことについては,人との物理的な距離が近すぎるということはあると思います。島国だし仕方ないですよね。だから,お互いに気を使いつつ身を寄せ合って暮らしてきたわけで,それが日本人の良さともなっていると思います。そのため,日本でカラオケという独特の文化が流行ったのでしょう。来日された外国の方々も遊んでいかれるようですしいいのではないかと。

 

叩くと言えば,以前テレビで引きこもりの人をボクシングで更正させる特番をニュースで見ました。なんでも,サンドバッグを叩く刺激で自分を確認できるとか何とか・・・

ドラムもいいですよ。叩くのは気持ちいいしいい運動にもなります。自己流が不安であればレッスンなど受けてみても良いかもしれません。

 

 

悩みを打ち明けることについては,一番苦手とするところです。恥ずかしいのもありますが,「自分で解決できるだろう」という自負心も人に話すことを妨げる理由のひとつです。ただ,性格的に長く悩んでいられないので大きな心の負担となることは無いのですが,まじめな人は抱え込んでしまうこともあるかもしれないので何とか発散の方法が欲しいところです。

 

カウンセリングなどに足が向かないというのであれば,インターネットは使わない手は無いと思います。本ブログでは,具体的な悩みは書きませんが普段人に話さないようなネガティブなことを書くのに活用しています。文章とは不思議なもので一生懸命推敲していると考えの一貫性の筋道が見えてきます。逆の例だとインターネットで見かけたストーカーが書いたと見られる書き込みを見たことがありますが文章として破綻していました。(お前がいうな!といわれそうですが)また,人に相談する前に一度文章にしてみると自分が何に悩んでいるのか整理しやすいため,相談を受ける立場としても非常に助かります。

 

ミクシーやフェイスブックなどのSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)を利用するのも良いかもしれません。まぁほどほどにしないと嫌われそうですけど・・・

 

周りにいる人が原因で人間らしいことができないのであれば,そういう場を提供してくれるのも人です。

 

ストレス社会などと言われている昨今ですが,人として楽しめる場所や機会を提供することの社会的意義は今後大きくなるのではないかと思っています。

一人でいる時間が結構好きです。

 

ただ,それは人に触れ合ったりする機会もあることが前提です。

 

もし,誰からも見向きもされなくなったら私は必死で人の気を引こうとするでしょう。

 

 

たとえば,何かを欲しがっている人に対しては欲しがっている物を与える,若しくはそれを手に入れることができるようなことを言えば,その人は私に近づいてくるかもしれません。

 

めいいっぱい自分を大きく見せて人の欲にストレートに投げ込めば誰かしらは近づいてくるのではないでしょうか。

 

そして,寂しさを紛らわしたい私と欲を満たすために近づいてきた人とでギブアンドテイクは成立するのでしょうか。

 

私に近づいてきた欲を満たしたい人は私には興味がありません。私も実は代わりに寂しさを紛らわしてくれる人がいればその人でもいいと思うでしょう。

 

この関係を今現在で一番身近で信頼できる人との関係と比較してみます。

 

お互いで精神的な満足を求め合っている部分では似ているとも思えます。決定的な違いは代わりがいるかどうかじゃないかと思います。前者であれば,自分の欲という内面的な部分の満足であることに対して,後者は相手への理解による信頼であり外的な要素が多い感じがします。あと,信頼という部分で相互に持ち合わせている事が共通しているというところもあります。

 

孤独になるのは怖いのですが,ひとつだけでも利害を超える強い信頼があればなんとなく自信を失わずにいられる様な気がします。そのためには自分から相手に与えることも大事です。

 

もし,そういう強い信頼関係が存在しなかったとしたらめいいっぱい見栄を張り,時には殊更に自分の弱さを見せることでしょう。そして,周囲から人が離れていかないようこまめに連絡を取り合いながらも特定の人に感情を寄せることは無いと思います。

 

配慮と目的というものは実に相対的なものだと思っています。

 

徹底して配慮せずに目的達成に集中すれば,他の人と比較していい成果が出せるのではないかと思います。日本人は大抵周囲への配慮という感覚を持ち合わせていますので。

 

ただ,そういう方法により成果を出した人を持ち上げるとどうなるか。

 

次は,その立場を人に侵されないように他の有力者を排除したりシステムを変更したりして徹底して保身を図ることでしょう。だって,配慮しない人なんだもの。

2012-12-05

昨日は,幕張の免許センターで免許の更新を済ませてきました。

 

なんか,講習に行く度にビデオ映像が内容も臨場感もグレードアップされているような気がします。

 

ワタクシあのビデオに非常に弱くつい感情移入してしまいます。でも,耳を澄ますとそこかしこに鼻をすする音が聞こえてくるので(あ,同じ人がいる)と少し安心します。

 

そして,新たな免許証には4桁の暗証番号を2つ記憶したICチップが入っているそうで前のより若干硬くなっています。また,本籍地の記載が無くなっていました。何ででしょうかね。なお,本籍地は機械にかざして暗証番号を入力すると表示されます。表記を隠すのであれば住所の方が個人情報として重要だと思うのですが・・・目視での本人確認なら本籍地の記載でも良いと思うのだけど・・・

 

まぁいいです。そして,裏には臓器提供の意思を示す欄も設けられました。これは合理的だと思います。ただ,意識が戻らなくなった状態を死と呼ぶことについてはまだまだ議論の余地のあるところだと思います。

 

うるさくてすみませんです。はい。

 

そして,新免許を受け取り講習のビデオ映像にすっかり感化されてしまった私はベソを拭いつつ献血ルームに向かうのでした。前の健康診断によりフル稼働させていて若干不安だった肝臓の調子が良好と診断されたので安心して受けることにしました。

 

献血を受けるには,体調やプライベートなことを含む様々な要件があります。もし,パートナーの浮気が気になるのであれば献血の履歴を確認してみるのはいかがでしょうか。もし,ここ最近で献血している履歴があれば枕を高くして眠れるのではないかと。

しかし,無理強いは止めましょう。既成事実を作るために虚偽の申告をして献血してしまっては大変です。何方かに輸血するための血液となりますので。

 

なお,注射はとても苦手です。いまだに打つときは「うぅっ!」と思わず声が上がります。

 

そして,献血後のお楽しみのサービスは,ジュース飲み放題,ラーメン,お菓子ととても豪勢でした。ちなみに千葉駅前では確かジュースとシャーペン・・・そういう考えはいけませんです。あくまで社会貢献ということです。でも,ホクホク気分でした。

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そういえば,選挙の公示がされましたね。

 

選挙も近くなりネガティブキャンペーンが過熱しております。

 

ネガティブキャンペーンとは相手を悪者に仕立て上げること。で,相対的に自分が善人というイメージを聞いた人に喚起させるものです。

 

最近,善悪という言葉は相手を落とすことにより自分を持ち上げるという使い方で良く見受けられます。

 

このあいだ,同業の先生とある法律改正の議論の方向について話していたときに「善悪の問題ではないだろう」と聞いて(なるほどね・・・)と思わず感心してしまいました。

 

近く,そのあたりの事を研修会で発表するとのことなのでとても興味を持っています。ただ,遠すぎ・・・

2012-12-01

 早いもので今年も師走に突入しました。

 

だいぶ風も冷たくなり外を歩くにも上着が手放せなくなりました。

 

走り抜ける車の風で落ち葉が舞い上がりひらひらと道路を舞っているようでした。

 

だいぶ空気が乾燥しております。風邪の予防のためうがい手洗いを忘れずにすることをお勧めします。

 

今年のノロウイルスは強烈なようです。何でも大流行した平成18年に次ぐペースで感染が確認されているようです。

 

それにしてもインフルエンザといいノロウイルスといい何で忙しいこの季節に流行するのでしょうか。お医者さんは毎年この季節になると忙殺されるため戦々恐々としているとのことです。

 

そして,生牡蠣のおいしい季節でもありますが牡蠣などの2枚貝にノロウイルスが含まれていることがあるということです。

 

なんともおあいにく様な話です。

 

それでは走られている師の方々におかれまして今年もがんばってくださいませ。

2012-11-30

生活保護を受給するに当たり居住用の住宅については原則保有が認められます。

 

しかし,ローンが残っている不動産については不動産の処分が条件とされることがあります。

 

ローン中の不動産には抵当権(ていとうけん)という担保が付いていてローンを支払い続けないと強制執行されてしまいます。しかし,生活保護費からローンを支払うという事は(公金で借金を減らす=個人の資産を増やす)ということになるからです。

 

ただ,明日食べる物も無い程に切羽詰っているときにこのような断られ方をされたら大変です。

 

私の場合は,市役所に同行して破産を申請するなどの念書をおいて受給させることがありますが,専門家まで足が届かない人もおられると思います。

 

何が言いたいかと言うと,受給の要件を設けるのは仕方ないとして衣食住だけは何とか支給してあげて欲しいということです。少なくとも命だけは落とすことが無いように。

 

方法は現物支給でも何でもいいと思います。

 

国家としてとにかく命だけは守られる政策であってほしいと思っています。

2012-11-29

先日,野田総理大臣と自民党の安倍総裁が,テレビ番組に出演して金融対策や自衛隊の国防軍化などについて議論をしたようです。

 

その中で野田総理大臣が安倍総裁の掲げるリフレ政策(適正なインフレ率への回帰を狙って行われる金融政策のこと)について「インフレで喜ぶのは誰かです。株を持っている人、土地を持っている人は良いですよ。一般の庶民には関係ありません。それは国民にとって大変、迷惑な話だと私は思います」と批判したようです。

 

この発言を多くの方が,“野田総理大臣は現状のデフレを容認している”と捉えたと思います。

 

たしかに,物の値段が安くなれば支出は少なくなります。その反面,労働賃金も下がることになります。ただ,収入と支出の均衡が保たれていればひとつの家庭単位だけで見れば規模が小さくなるだけでの生活に大きな影響が無いように思えます。

 

でも,実際に現在の経済状態で満足している人は少ないはずです。

 

ところで,仕事上色々な家庭の家計簿を見ることがあります。やはり,年々下がってきていると感じるのは収入です。つまり,お給料や事業収入です。

一方,支出の方では家計で一番大きな割合を占めている家賃や住宅ローンがここ何年で見てもほとんど金額が変動しません。

 

しかし,大家さんを簡単に責めてはいけません。アパートなどの経営は借地借家法と言う法律に縛られますが,貸主に修繕義務を負担させるなど借主を保護する色合いの強い法律となっています。ですので,大家さんにとってはある程度のリスクヘッジが必要なのは仕方が無いことです。

 

家計の話に戻って,あと,交通費も変わりませんし,公的年金は逆に増えています。これで,消費税が導入されたらと思うと・・・

 

たしか,現政府は消費税の増税の理由を“増大する社会保障費用に充てる”といっていたような気がします。たとえ,その通りに利用されたとしても,人によってはギリギリの家計をやり繰りして他人の社会保障費を払うよりも社会保障費用を貰った方が得だと考える人が出てくるかもしれません。

 

そもそも消費税を上げて社会保障を充実させるということは,限りある収入の一部で自らの暮らしを国家に託しているといえます。たとえば,老齢年金でいえば若くて収入のある時期にコツコツとなけなしのお金を支払って退職後の暮らしを国家に託していることになります。

 

しかし,色々と問題を抱えている年金です。

相互扶助という考え方もありますが,もしかしたら損するかもしれない出費を納得して支払うことはできないと考える方も多いと思います。私も一応決まりだと思って支払っていますが,人に払うことを促すことはできません。

 

 

では,年金の無い時代はどうしていたのかというと,戦前には家制度というものがあって家族で支えあって暮らしていたようです。ただ,この家制度は家父長の権限が非常に強く結婚も自由にできなかった様です。

 

戦後には「婚姻は,両性の合意のみに基いて成立し」と憲法で定められて廃止されたそうですが,民法の扶養義務は家制度の名残だと言うことです。

 

これにより,核家族化が進み家制度は名実ともに機能しなくなりなりました。(扶養義務の話も例のタレント生活保護問題が象徴していると思います。)核家族化が進んだ要因のひとつに年金制度の制定もあると思います。“定年まで一生懸命働けば親の生活も自分の生活も子供に頼らずに国家が支えてくれる”この意識ひとつで労働意欲も消費意欲も旺盛になると思います。

結果,すさまじい経済発展を遂げました。

 

ところが,話がだんだん違ってきてしまいました。先送りされたり,金額が少なくなったり・・・

 

理由は少子化だとか長寿化だとか色々聞きましたが,少子化の裏側には核家族における子育ての難しさがあると思います。一人の子供をつききりで見なくてはなりません(母談)が,現在の経済状況では共働が必要な世帯が増えています。しかし,現状の社会保障ではせいぜいお金を支払うことしかできていません。本当に必要なのは人手なのですが,ベビーシッターを雇うには程遠い額です。そして,女性雇用の問題も育児休暇の問題も待機児童の問題も解消されなければ育児ノイローゼや児童虐待という悲劇も減ることはありません。

 

また,高齢化に関しては,成年後見として関わることがありますが,やはりこれもお金の支給だけでは解決できない問題です。たとえ施設に入所したとしても夫婦のどちらかが亡くなられた場合,親族に大きな負担がかかります。

 

そして,なにより先送りしたり少なくしたりして運用してきた老齢年金,ひいては国家の年金運用を信用できるのかという問題に突き当たります。

少子高齢化が老齢年金の問題となっているとよく言われていますが,その順序は逆で,もし老齢年金を含め社会保障が健全に運用されていれば少子高齢化への対策を講じることができたのではないかと私は思っています。

 

結局,消費税増税と社会保障によって子育てが楽になったり老後を安心して向かえることができるようになったりするという結果は考えにくいと思います。もちろん,消費税増税と社会保障で経済が上向くことは無いでしょう。高い買い物から多くお金を取ってお金を持ってない層に与えるわけですから,高い買い物ができる層が出費を控えるようになるので消費が上向くはずがありません。結果,消費税による税収も上がりません。

 

 

 国家が実施する社会保障が信用できなければ自衛手段を考えるしかありません。

 

ここらで,再び家制度のいい部分を見直してみるのもいいかもしれません。

どうせ,すずめの涙ほどしかもらえない社会保障を当てにするよりは,家族で共同して人手を補った方が相互扶助の理念にかなうはずです。

 

たしかに,核家族化は経済発展においてはその時代において大きな功績をあげました。しかし,前提として家族ごとに住む場所が必要なため狭い国土では行き詰まりの論理なのかもしれません。居住する不動産の価格が大きく変動しない理由のひとつでもあると思います。

 

それと,緑地の宅地開発を抑制する効果も期待できます。地球環境問題に直結する問題ですし,個人的にこれ以上森林が切り倒されるのは忍びないということもあります。

 

・・・が,一定の業界が経済的な犠牲を被ることになるでしょう。こういうことに配慮をしなかった結果,経済格差が広がっていったという経緯があると思っています。

 

また,核家族化を見直すには個人主義的な考えを修正する必要があると思いますが,現代の風潮では困難だと思います。

 

結局,資本主義というのは国の行く末をさじ加減でしか議論できず明確な答えが出ないままとにかくお金を回すという方向に向かうのかなぁ・・・と

昨日の午後11時の静寂の中,白い皿の上にのせられた一房のグリーンのマスカットに心を奪われました。

 

木目のテーブルの上に置かれた白と緑の色彩が何故かとてもきれいに見えてハイボールを飲みながらずっと眺めていました。ときどきギター弾きながら。

 

もし,今が雨の日曜日の午後1時くらいだったらなんとなく違った雰囲気に見えるのかな,とか考えながら眺めていました。

 

写真に撮ってみてもいいのですが,撮ったものを後日見ると「何でこんなの撮ったんだろう」ということが結構あります。

 

カメラはあまり詳しくないのですが,微妙な明るさの調整でかなり雰囲気が変わりますし,自分の心のフレームを通して見た風景を写真に表すのはとてもムズカシイ・・・

 

カメラアプリとかで色々とエフェクトをかけたりしてみると楽しそうです。

 

クリスマスにあいぽんかおーかなー

こんなタイトルの迷惑メールが毎日のように迷惑メールボックスの中に何十通と入ってきます。

良くもまぁ内容を変えて毎日のように送ってくるなぁと感心さえします。

そんな方法知っている人間が日がなそれを人に教えるためにメールなど打っている訳ないだろうと。

 

しかし,楽して儲かる方法というのはなんとなく信じてみたくなる魅惑の言葉なのかもしれません。実際に熱心に毎日メールを送ってくるということは乗ってくる人もいるからでしょう。

 

楽して儲かる方法を考えたことある人は少なからずおられると思います。学生時代の友人の中には,就職するのが嫌だからパチプロになると言っていた人もいました。なお,パチプロたちの惨憺たる状況は当ブログのリンクからご覧いただければと思います。

 

パチンコで稼ぐのであればパチンコ店で働いた方が稼げそうですが,「楽して儲かる方法」の発想の裏はやはり楽という部分がミソなのではないかと。労力と稼動時間を少なくして稼ぐことが重要なポイントなのだと思います。

 

ところで,歴代の偉人たちは昼夜問わずひとつのことに専念した結果,現代においても評価されるに到る方々が多いと思います。中には経済的に恵まれなかった方もおられますが,現在のように情報が流通していれば評価にともなう対価は得られたのではないかと思います。ですが,「楽して儲かる方法」にはそういった発想は無いわけです。

 

私も自営業なので実感していますが,人様からお金をいただくと言うのは金額に関わらず大変です。逆に自分がお金を払うことを考えればおのずと分かります。私生活において使えるお金には当然収入によって限りがありますので,コストを抑えてかつ出費に見合った商品を選ぶことは当たり前のことです。

 

では,「他人が労働によって得た限りあるお金を自らの労力と時間を使わずにより多く手に入れるにはどうすればいいのでしょうか。」

どうですか?この方法を知りたいと思いますか?

 

なんか最近,いかにして「楽して儲かる方法」のスキームを考え付いた人間が評価されるという風潮を強く感じてなりません。

 

確かに商売をやる以上合理性は大事だと思います。ただ,スキームを考え付いた人間を過剰にマスコミが褒め称えたことによって追随する「楽して儲けたい」者が多数現れます。彼らは楽して儲けることが目的なので,その業界や商品・サービスに対する意識はおのずと薄くなります。

 

その結果,粗悪品が出回ります。信用できない情報ばかりになります。

 

そのことは消費者にも伝わるので,客を集めるためにさらに値段を安くします。結果,人件費を削るでしょう。また,同業他社が大きくあおりを受けます。

 

あまり好ましい結果では無いと思います。

 

しかし,机上の計算を元に労働者を馬車馬のように働かせて下請け会社などに無理を強いて稼ぎ出すスキームを考え出した人を業界の風雲児だの革命だのともてはやした社会全体(私を含め)の責任でもあると思います。

 

だから,いち消費者の心掛けとして心に留まるような商品やサービスに目を向けるようにして,その業界が大好きな人が「楽しんで稼げる」ようになればいいなと思っています。そして,その結果より良い商品やサービスが手元に届くようになるのではないかと思っています。

昨日,打ち上げも早々に8時ごろに帰宅して洋服を洋服掛けに掛けたところ洋服掛けが粉砕しました。

 

洗濯した洋服をたたまずに掛けてしまうことが多いため結構な重みがかかっていたようでした。

 

あと,クリーニングに出すたびにもれなくプラスチックのハンガーが付いてきますが,プラスチックのハンガーでも意外と数があると重くなります。年末大掃除の厄介者でもあります。

 

飲んで帰ってきた日曜の夜にあまりに面倒なことが起きてしまったショックでそのまま寝てしまいました。

 

その夜,寝ている間に小人たちが洋服掛けを直して・・・ということはありませんで,朝起きても当然洋服掛けは壊れたままなのでした。

 

月曜日の朝に突きつけられた現実は重く心にのしかかってきました。仕方無しに洋服の山から今日着ていくためのスーツの発掘作業をしていると無くなったと思っていたネクタイが出るわ出るわ。

 

すこし,うれしくなってしまいました。単純ですね。これをいい出来事と思うべきか,悪い出来事と思うべきか・・・どっちでもいいか。

 

そんなこんなで間取りにあうサイズの新しい洋服掛けを探し中です。

 

 

 

ところで,以前に検討していたface bookをお告げにより始めることにしました。

 

ただ,やることなすことすべてに勇気が必要でいつまで続くかといった感じです。

 

苦手だと分かっていても始めるところ,やっぱり寂しがりやなのかなぁと思わずにはいられない今日この頃。

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