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引き下げ

2016-06-28

今月22日に第24回参議院選挙が公示されてからというもの、7月10日の投開票日へ向けて与野党の攻防が日を追う毎に激しさを増しつつあります。

 

今回の選挙で注目すべき点としては、選挙権年齢が「20歳以上」から「18歳以上」に引き下げられたことが挙げられると思います。

 

そして、この選挙年齢の引き下げについては、賛否両論あったかと思います。

 

もっとも、個人的印象としては、選挙権年齢の引き下げについて賛成する方が多かったように思います。

 

賛成を支持する側が主張している主な理由としては、やはり若者の政治意識を高めるという効果を期待してのことのようで、私も大なり小なりその効果はあると思います。

 

フランスの思想家アレクシ・ド・トクヴィルも民主主義国のアメリカを訪れた際に出会ったアメリカの人々について、長く貴族制に置かれていた自国のフランスの一般庶民と比較して知的水準が高かったと著書にて評しています。

 

そう考えると、10代の若者が国政に携わることによって、それまでの意識から変化が生じることはあり得ると思います。

 

一方で、憲法では「公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する。」とされており、普通選挙を保証されているのは『成年者』とされております。

 

また、憲法ではさらに、「両議院の議員及びその選挙人の資格は、法律でこれを定める。」とされているため、選挙権年齢を改正公職選挙法の改正によって引き下げる必要があったわけです。

 

それでも理論上は、「18歳以上」が自動的に憲法でいう『成年者』となるわけではないのでしょうけど、選挙権を行使できる者が、ある部分では未成年のままというのも何だか釈然としないですねぇ。

 

たとえば、未成年者飲酒禁止法という文字通り未成年者の飲酒を禁止する法律がありまして、これにて「満20歳未満の者の飲酒を禁止する」と規定されています。ここでの未成年者は満20歳未満の者を指しているのですが、選挙権は18歳以上となれば行使することが出来ます。

 

そこでたとえば、未成年者飲酒禁止法の改正が選挙の争点となったときに、満20歳未満の者が選挙権を行使する状況についてはいかがでしょう?なんだか違和感を覚えませんか?

 

他にも、自身で選挙権を行使した選挙について選挙無効を争う場合など、法定代理人がつかなければならないというのも何だか、といった感じです。

 

公職選挙法における選挙権年齢の引き下げに伴い、未成年者に制限を課した各法律もそれぞれ見直しの必要性を検討した方が良いように思えます。

 

それと、若者の政治への意識関心と言ってはみても、自身で所得を得て、その所得の中で生活に必要な支出をし、残余のお金やその他財産を管理するという営みを体験していないまま経済を考える事は、なかなか困難であるはずです。

 

ましてや20歳より下の年齢となれば学生も多いでしょうから、実際に独立して生計を立てているという人の割合は少ないでしょう。

 

もっとも、社会に出る前の準備段階として政治に関心を持っておくこというメリットの部分もありましょうし、やはり若者達の政治参加への自覚という点が、選挙権年齢引き下げの成否の鍵となるように思えます。

 

そうなると、意識付けが早いか、選挙権行使が早いか、という鶏と卵の話も似たことになろうと思いますが、やはり大人達による誘導が求められると思うのですね。

 

しかし、ある方面で言われている、「若者の票が多く入る事により選挙結果が良くなる」と言う論調は、それまでの選挙結果を総括していない点で非常に身勝手な言い分に聞こえます。

 

そして、政局ばかりを報道するマスコミの姿勢は、若者達の政治への意識を高める点において、害悪としか評することが出来ません。

 

まぁ、今回の参議院選挙において、選挙権年齢の引き下げが大きく影響すると言うことは無さそうですし、乗り出したばかりの船ですから長く見守る必要がありそうです。

生産性の向上が脱グローバリズムへの道

2016-06-24

既に決着はついたようです。

 

英国で23日実施された、欧州連合(EU)離脱の是非を問う国民投票は、開票作業がほぼ完了した段階では、離脱が51.8%、残留が48.2%で、離脱派の勝利がほぼ確実になった、と報じられております。

 

ここに至るまで、世論における離脱の賛否は、残留派が僅かにリードするという形で拮抗する中、徐々に離脱派が押し返して来たところに銃撃事件ありました。

 

非常に世論の流れが読みにくい中で行われた国民投票は、離脱派が多数という結果となりました。

 

私は、この結果について英国民は賢明な判断を下したと評価しております。

 

といいますか、先週のブログにもこのネタを取り上げましたが、英国民に突きつけられた選択をありていに言えば、本来民主主義国に保証された主権を国民に取り戻すのか、それともグローバリズムに委ねるか、という事です。

 

これを国民投票で決めるというわけですから、やる前から結果は決まってそうなモノですが、思いの外僅差となったというのが、この度の国民投票に対する私の印象です。

 

そもそも、事の発端は移民問題だった思いますが、この問題だけをピックアップしたとしても、現在の状況で世論を移民受け入れに向けるのは難しいはずです。

 

ましてや、政策面にしてみても、共通通貨に加盟していない点で英国は、自国にて金融政策、財政政策を打てます。当然、現在起きているポンド安も持ちこたえることでしょう。

 

なにより英国は、かつてインド産のキャラコに高い関税をかけ国内紡績産業を守り、さらには国内産業への投資により生産性を高めた結果、インドの綿産業を駆逐したという(おそろしい)歴史がある国です。

 

かつて我が国からも奪い取った関税自主権の恩恵は、英国民であればよく分かっているはずだと思います。

 

だから私が不思議に思うのは、国民投票の結果と言うよりも、なぜ世論が二分されるほど残留派が多かったかと言うことなのです。

 

なんといいますか、グローバリズムの影響というのは、都合の良い人とそうでない人との間に所得格差を生じることの他に、乗り遅れることへの不安を国民に喚起するといった心理的な圧力もあるように思います。

 

我が国のTPP論争における賛成派の「加盟してみなきゃ分からない」という言い分にも見られるように、とりわけ先進国の国民に蔓延する焦燥感が大いに世論を席巻している様に思えます。

 

この先進国の国民が抱く焦燥や不安というのには、世界中で深刻な問題となっている実質賃金の低下が大いに寄与していると考えられます。

 

なお大事な部分なのですが、グローバリズムと実質賃金の低下の関係は、にわとりたまごの話ではなく、グローバリズムによって実質賃金が低下するという明確な因果関係にあります。

 

なぜなら、かつての産業革命前の英国のように、高関税をかけて国内産業を守り、投資によって生産性を向上させることで実質賃金は上がる訳です。また、生産性の向上によれば、たとえ関税自由化という選択をしなくとも価格競争力を保持できます。

 

すなわち、グローバリズムに逆らうことで実質賃金を上げることが出来ます。

 

ですから、グローバリズムという潮流に一国家が国民主権を行使して立ち向かうという決断は、この度の英国民のように妥当な選択と言えるのです。

 

なお、離脱派のファラージ独立党(UKIP)党首は、国民投票の結果を受けて「英国独立に向けた夜明けは近い」と語ったそうです。

 

そういえば、TPPのことを明治維新になぞらえて「日本の夜明け」と評した人が日本にいた気がします。

 

一方はグローバリズムに逆らう方、もう一方はグローバリズムに迎合する方です。

 

いったいどっちが夜明けでどっちが暗闇なのでしょうか。

 

まぁ、いずれにしましても、これを機会にグローバリズムの潮目は間違い無く変わることでしょう。

 

もちろん、日本のマスコミを取り残したまま・・・

 

ところで、英国の国民投票の結果を受けて、一時1ドル=99円2銭と13年11月以来の100円割れまで円高が加速したそうです。

 

円高の影響で株価も暴落だとか。

 

それにしても、財政破綻寸前の日本の通貨を買う物好きな投資家が何故こんなに多いのでしょうか。

 

これから日本は国の借金が原因で財政破綻するのですっ!!

だから、そんな我が国の通貨など買わないで頂きたいのですっ!!

 

新聞やテレビが、国の借金が原因で財政破綻すると口を酸っぱくして報道しているのですから、投資家の皆様に信じて頂かないと、我が国の報道機関が嘘つきばかりと証明されてしまうではあ〜りませんか。

 

それこそCDSでも買ってくだされ。

目立たず地味な問題を取り上げてくださる議員

2016-06-23

我々成年後見業務を行う司法書書士に対して業務監督を行っている、公益社団法人成年後見センター・リーガルサポート(長い!)という自治団体が存在することについては、以前にこちらでもご紹介いたしました。

 

現在、そのリーガルサポート(省略!)の監督業務のひとつとして、各会員にリーガルサポートへの業務報告書の提出を義務づけているのですが、これに対してこのリーガルサポートと一部の会員司法書士の間で軋轢が生まれています。

 

まぁ、さして難しい話でもないのですが、成年被後見人(後見される方)の個人情報保護や後見する司法書士の秘密保持の問題です。

 

この問題については、既に私の見解を申し上げていたかと思います。

 

その軋轢を生んでいる問題について、民進党の緒方林太郎議員が5月18日の衆議院法務委員会の質疑にて、この問題への明確な回答を国会に投げかけていたことを(今更ながら)知りました。

 

緒方議員のブログにて詳細が記されておりますのでそちらをどうぞ。

 

質疑の概要としては、会員に課された報告義務が個人情報、秘密保持を定めた法律に反しないことの確認と、今後、更に進行してことが予想されるの高齢化社会への対応として、成年後見を行う司法書士とそれを監督するリーガルサポートへの期待、といったところです。

 

不祥事ばかりをあげつらう社会の木鐸(www)が見向きすることもない目立たず地味な問題ではありますが、こうして国会で取り上げて頂いたことは、成年後見業務を行う司法書士の一人通して、我が意を得たりと感謝の念に堪えません。

 

緒方議員も自身のブログにて、「メディアには取り上げられないネタですけども、今国会におけるメモリアルな質疑の一つでした。」と質疑について自負をお持ちの様子です。

 

私は、リーガルサポートのいち平会委員ですが、国会に声なき声を届けるという国会議員の役割を果たした緒方議員に深く感謝いたします。

 

どうもありがとうございました。

政治とロックの親和性

2016-06-21

またもや、我が愛するフジロックフェスティバルに炎上系の話題が立ち上りました。

 

といいますか、そもそも震災あたりからフジロックはそっち系の香りがプンプンするイベントとなりつつありますが、それに与することが出来ない私のような参加者でも、その間隙を縫いながら好きなアーティストだけをかいつまんで観ることが出来る素晴らしい音楽イベントなのです。

 

たまに、反原発派の方々に仲間だと間違われて命からがら逃げるといったように、音楽とスリルを併せて楽しむことも出来る点で、やはり日本が誇るロックフェスのひとつだと思ってます。

 

ちなみに、前回の終わり頃にも、ツイッターでの投稿による複数人とチョメチョメ(故山城新伍風)といった炎上系の話題がありましたが、私はあれを嘘だと思っています。

と言いますのも、フェスティバルの環境事態がちょっと男にそういう気にはさせないモノがあります。

 

なんせ、暑い上に雨が非常に良く降るので男女とも泥だらけ汗まみれです。さらにはステージとテントが設置できるキャンプサイトとは結構離れていまして、催したからといって早々にテントに引き返せる様な距離ではありません。加えて、日中のテントは蒸し風呂で人間が長く滞在できる場所ではなく、夜にはみんなテントに戻ってきますしテント同士が密集しているため声が丸聞こえとなります。外国人は隣のテントがうるさいと普通に苦情を申し立ててきますから。

 

こんな条件の中、よほどの好き者がいたとしても3日で一人か二人探せれば良い方じゃないでしょうか。

それを目的として声をかけまくったとしたら、さすがに運営も黙っていないでしょう。

これらの条件は、3日間参加された経験のある方だったらおおよそ見当がつくことでしょう。

 

何が言いたいかというと、今回の炎上も概ねフジロックに参加したことのない人たちで盛り上がっているのではないと個人的には推測しています。

 

という前置きをふまえて、さて本題です。

 

フジロック出演者の中に、安全保障関連法に反対する抗議行動をリードしてきた「SEALDs(自由と民主主義のための学生緊急行動)」の中心メンバー、奥田さんの名前があったことがネットで話題となっております。

 

とりわけ批判が多く、しかもその殆どがロック(音楽)に政治を持ち込むことに対する批難です。

しかし、その批判にはシックリこない方が多くおられると思います。

 

といいますのも、ジョンレノンやジミヘンやら他にも数え切れないほど、楽曲にて政治的な主張を展開したアーティストは多いわけです。

 

ですから、この批判は日本で言う政教分離原則のように、政治と音楽は相容れないものであるという主張ではないのでしょう。

 

では、奥田さんのフジロックへの出演者枠での参加について(もし、客としての参加だったら誰も文句言わないと思うし、文句を言っても筋が通らないことくらいはみんな理解していると思うのですね。)何が不満なのでしょうか。

 

いえ、その違和感を否定しているわけではないのです。

冒頭でも申しましたが、フジロックが(一部なのかも知れませんが)反原発イベントのような様相を呈していることについては、表向き参加している全員が同じ思想に見える様にも思えて、多少迷惑に思うところもあるのですね。

 

嫌だったら来るなと言われそうですが、原子力発電やら日本の電力事情に興味など無さそうなソロモン諸島やアフリカのアーティストを呼んでおいて、その言い分もなかろうと思います。

 

なんせ、いろんな国から様々なアーティストを招くということは、多様な音楽的価値観をひとつの場所に集中させることと言えるでしょうから。

その場所に、様々な価値観を持った人々が参加し自分の好きなアーティストを鑑賞すると言うのがフェス趣旨と考えれば、おのずと偏りすぎた思想とは相容れないはずなのです。

 

思想が偏りすぎというのはどの範囲であるかと言うことであれば、公平という観点から、SEALDsの奥田さんが批判する安倍首相(来ないと思うけど)もしくはそのシンパも出演させれば多少バランスが良くなることと思います。

 

憲法改正などをMCバトル風にして論戦したら盛り上がるかも知れませんヨ!!

 

といいますか、ドナルドトランプ氏がロックバンドの曲を使用してそれを巡ってトラブルとなったことがありましたが、数ある音楽のジャンルの中でもロックは、実は政治とは親和性が非常に高いと思います。

 

いってみれば、無政府主義だってひとつの政治的思想と言えなくもないでしょうし。

 

音楽というのは官能的な部分が大きく、言葉で説明がつかない事が多分にあると思いますが、この件に関してやはり違和感自体は如実に感じるわけでして、それを言葉で表すことが出来ないと、やはり悶々とすることでしょう。

 

各々の思想は置いておいたとしても、ネットで異議が噴出すると言うことであれば、フェスに係わるどの様な立場の人であれ理由を検討すべき必然性は生じるでしょうし、運営するサイドも「あんたらのいっていることはおかしい」と無下にするのもいかがなものかと思います。

 

ということで、私は別に奥田さんの出演に関しては批判しませんよ。

 

フジロックが「多様な価値観を享有できるイベント」という姿勢を保つことが出来るのであれば。

潮流に流される人たち

2016-06-17

英国におけるてEU離脱の賛否を問う国民投票を今月23日に控え、国民の賛成と反対の世論が拮抗し、その結果に国内外で注目が集まる最中で起きた惨劇でした。

 

英国中部リーズ近郊で16日、EU残留を訴えていた労働党のジョー・コックス下院議員が、男に銃撃されて殺害されるという事件が起きました。

 

なんでも、目撃証言によると逮捕された容疑者は、犯行の際、「ブリテン・ファースト(英国が第一)」と叫んでいたそうです。

 

犯人にしてみれば、EU残留派に対して、また世論に対してこういった形で衝撃を与えることが、自身が考えるブリテン・ファーストへの道だと考えたのでしょうか。

 

まだ、動機などは解明できていないようですが、国民投票の1週間前にして大きな波紋を呼ぶことと考えられます。

 

実際に、これまでの経緯では少しずつEU離脱賛成派が押し返していた感がありますが、この事件を機に離脱反対派に同情票が入ることを予想している報道が散見されます。

 

こういうのを見ると、つくづく直接投票というのは、理性的な判断を問うには適さないと感じずにはいられません。

 

なんせ、現在拮抗してる賛否のなかで、それまでさして考えもしていなかった者達の情緒に流された票がキャスティングボートになるのですから、それこそ死票は浮かばれないことでしょう。

 

なんたって、我が国における東京都知事選についても、浮かばれず成仏しきれない田母神死票達が、未だに紀尾井町近辺を彷徨っているらしいのですから。

コリアンクラブでカラオケを歌っていると現れるとの噂です。

 

まぁ冗談はこのくらいにしまして、EU離脱という、モノ・ヒト・カネの行き来の自由といった理念からおさらばする結論を、英国国民はひとつの選択肢として与えられたわけです。

 

もっとも、ジョージソロスという投資家さんのポンド空売りのせいで、ポンド危機に陥った都合上、奇しくも共通通貨への加盟は免れているのが英国でして、逆にそれがあるからこそEU離脱をひとつの選択肢にできたのではないかと思います。

 

EU離脱と言えば、むしろギリシャの方が真剣に考えるべきだと思いますが、共通通貨という足枷のために、自国通貨で国債の利払いができず、高金利で有りながらデフレという逃れるに逃れられないスパイラルに陥っております。コレは本当にどう解決するのでしょうか。

 

一方の英国については、移民に関しては後戻りすることは困難とはいえ、モノ・ヒト・カネの行き来を民主的にコントロールできる余地が残されているからこそ、EU離脱の賛否が拮抗しているのでしょう。

 

ここでハッキリと見えてくるのは、モノ・ヒト・カネの行き来の自由か良いか、鎖国が良いかという理念の問題ではなく、国民国家において、そのさじ加減のコントロールを保てることが大事だと言うことです。

 

本来であれば、ギリシャ政府はエーゲ海から来る難民をギリシャ国民のために制限して、ギリシャ国内に投資を促すために金融緩和をして、ギリシャ国民のために財政出動するといった当然の判断をしなければなりませんでした。

 

ところが、ECBやドイツ人には、ギリシャ人の面倒までも見るつもりなど毛頭無さそうですし、結局モノ・ヒト・カネについての行き来の自由はギリシャ政府の裁量を奪い、がんじがらめの不自由に陥れている訳です。

 

怖いですねぇ・・・おそろしいですねぇ・・・

 

 

もし、EUという共同体の発想が、ヨーロッパにおける戦争の長い歴史についての反省というところから出ているのであれば、我々日本人は彼らが提唱するグローバリズムというものについて、強く疑念を持たなければなりません。

 

そのことは当たり前の話で、違う歴史を辿ってきている国だからです。

 

ましてや、世界にグローバリズムという潮流があったとしても、グローバリズムという主義を掲げる理由とはならず、むしろ潮流に飲み込まれない事を目指すべきでしょう。

 

陸続きのヨーロッパにおける戦争の歴史は、海に囲まれた島国の日本人には理解できないでしょうし、彼らがグローバリズムと称してモノ・ヒト・カネの行き来を自由、つまり他国民の所得を奪う自由を共有したとの見解に立てば、EUにはよほどの根深い問題が潜んでいると考えざるを得ません。

 

だから、その離脱を巡って殺人まで起きるくらい深刻なことなのです。

 

日本人がグローバリズムなどと口先でつぶやいたところで、その根深さみたいなのはおそらく理解できないのではないでしょうか。

 

何せ、○中○蔵先生が誰に狙われることなくモノを言える国ですから。

ターゲット

2016-06-16

お久しぶりとなりました。

 

実は、ワタクシ最近自宅を引っ越しいたしまして、その関係でなかなか忙しかった事もあってご無沙汰となりました。

 

ということもありますが、ニュースが都知事一色で書くことがなかったというのもあります。(都知事選の際に田母神氏を推していた経緯もあって、東京都知事の話題は触れにくかったのです。その節はスミマセンでした。)

 

とはいえ、都知事辞任という形でこの話題も一段落を迎えそうなところ、やっぱり今日の話題はコレに尽きるでしょう!!

 

もちろん、イチロー選手の日米通算でメジャー新記録となる4257安打達成です。

 

今日、区役所での待ち時間に待合のテレビでこのニュースを知りました。

 

ただ、この記録達成については、イチロー選手自身「ここにゴールを設定したことがなかったので、実はそんなに大きなことという感じはしていない」といった、まぁ予想通りのクールな反応のようです。

 

とはいえ、「チームメートやファンの方々の反応がすごくうれしかった」と付け加えています。

 

といいますのも、対象となっている記録の(元?)保持者であるピートローズ氏曰く、「日本では私を安打のクイーン(2番目)にしようとしている」という否定的な反応を示しています。

 

これについては、確かに私も気になったところですし、イチロー選手自身「日米通算という数字はどうしたってけちがつくことは分かっていた」との認識を示しています。

 

まぁ、張本勲氏の日本最多安打記録を日米通算で達成したときも、張本氏はピートローズ同じ反応だったと思いますし、私も同感です。

 

もっとも、張本氏の記録の時にはイチロー選手も執着を見せていました。

 

考えるに、イチロー選手にとって数字の記録というのは、単に自身のターゲットと言うことであって、そこに冠を見いだす様な性質では無いのかも知れません。

 

区役所のテレビで、そのことを表すかのようなことをイチロー選手はインタビューにて語っていました。

 

曰く、「子どもの頃から人に笑われてきたことを常に達成しているという自負がある」とのことです。

 

なんでも、小学校の時は熱心に練習していると「あいつ、プロ野球選手になるのか」と笑われ、メジャーに移り「首位打者になってみたい」と言ったときも誰も信じる人はいなかったとのことです。

 

そして、大リーグだけで通算4256安打を超える可能性については、「常に人に笑われてきた悔しい歴史が、僕の中にあるので。これからもそれをクリアしていきたいという思いはもちろん、あります」

 

こ・・・これはかっこいい・・・

 

なお、3年前に定めたインフレターゲットを未だ達成できてない安倍首相も祝辞を述べております。

 

おそらく、マスコミは言葉を飾り付けて、奇跡云々だとか偉大な記録だとか美辞麗句を並べ立てるでしょうけど、それよりも偉業の本質をイチロー選手自身が語っていることが、やはりすごいところだと思います。

 

何せ、ここまでやるような人物でさえ、人に笑われた過去があり、さらには未だにケチがつくわけですから、嘲笑や批難というものとは、誰しも一生つきあっていかなければならないものなのかもしれません。

 

でも、そういうものだと思ってしまえば、前に進む勇気が湧いてくるようにも思えるから不思議です。

 

ここ最近の不倫やら使い込みやら、日本では何だか情けなくなるような話題ばかり報じられているその時さえも、偉業達成に向けて着実に努力を重ねた人物がいたことを思うと、何だか胸が熱くなります。

 

もちろん、次のターゲットである「50歳で現役」を是非とも達成していただきたく願っております。

まずはデフレを脱却しよう

2016-05-31

方々で、安倍首相が消費税の増税を延期する方針を固めたとの報道がなされており、この調子だと、どうも増税延期はほぼ確実のようです。

 

なお、つい一昨日のことですが、安倍首相が首相公邸で麻生太郎副総理兼財務相、自民党の谷垣禎一幹事長、菅義偉官房長官と会談し増税延期の是非をはかったところ、麻生、谷垣両氏は財政規律維持の観点から予定通りの増税を求めて異論を唱えた、といったニュースを耳にしました。

 

これについて、(安倍首相は増税に慎重な立場だったのか・・・)と意外な印象を受けたと共に、2012年の三党合意当時に総裁であった谷垣氏はともかく、麻生氏は完全にZAIMU省に取り込まれてしまっているようで、民主的に選出されながら行政官に手綱を握られるという民主主義国の現実を垣間見てしまった気がしました。

 

そして、稲荷ではなく稲田サンといい、「アベノミクスを失敗させた会」といい、増税大好きな人ばかりに囲まれた境遇で、安倍首相はよく決断されたと思います。だが、やはり首相自身のためにも、もっと早い決断であるべきだったと思いました。というか、8%さえやらなければ・・・と、さぞ口惜しいことでしょう。

 

案の定、何を今更と思いますが、アベノミクス失敗を声高に謳う言説が広まりつつあります。

 

これは、安倍首相自身が消費税に関する法律の景気条項を削除し、しかも「リーマン・ショックまたは東日本大震災級の災厄でも起きない限り、予定通り引き上げる」と宣言してしまっているため、批判を受けることは仕方のないことで、確かにこれについては説明が必要かもしれません。

 

もっとも、リーマンショックや東日本大震災級については、統計を使って十分に説明できそうに思いますが、はたして、どの様な説明を考えているのでしょう。

 

しかし、朝のNHKニュースをはじめとして、今日だけで3回くらい聞いているのですが、平成26年11月の増税延期時の記者会見における安倍首相の「消費増税のできる経済環境を整える」との発言を逆手に取り、アベノミクスの失敗とする批判が横行しています。

 

まぁ、逆手に取るという表現は正しくないかも知れません。といいますのも、当時の記者会見の内容を勘案すると、どうも安倍首相自身が増税ありきと考えていた様に伺えます。

 

とはいえ、当初の目的であったデフレ脱却について謳ってはおりますことから、おそらく、「デフレは貨幣現象」と取り巻きから耳元で囁かれ、そう信じていたことと思われます。

 

つまり、貨幣乗数が一定であれば、マネタリーベースの増加でマネーストックをコントロールできるはずで、さらに、マネーストックの増加分が概ねアクティブマネーとなるなら、マネタリーベースの増加でインフレ率は上昇していたはずなのです。

 

だから、マネタリーベースの増加によって消費税を上げようともデフレを脱却できるはずでした。

 

でも、実際には違いました。

 

明らかに「デフレは貨幣現象」という考えは間違っていたわけです。

 

安倍首相もこのことには気づき始めているのではないのでしょうか。

 

だからこそ、ジョセフスティグリッツ教授やポールクルーグマン教授などを招いて、かねてから三橋貴明氏をはじめとした日本の少数の論客が訴えていた「デフレは総需要不足」という考えに耳を傾けるアクションを示したのかも知れません。(それにしても、もっと早く気付いて欲しかった・・・)

 

結局、民進党に先手を取られた形で消費税延期に関する法案が衆議院に提出された様ですが、つい先頃まで増税の延期について「財政健全化目標を断念したのも同然」と抜かしていた連中を信用することはできません。

 

そして、増税延期を支持するにしても「消費増税のできる経済環境を整える」ことができなかったという名目でアベノミクスを批判する連中は、「デフレは総需要不足」ということ、いえ、「デフレは貨幣現象」という考えは間違っていたということさえ理解していないはずです。

 

それにしても、今回の増税延期に関する顛末をみるに、安倍首相の内輪も外もバリバリの増税派がかなりの数でいることが分かりました。しかも、これらの人らは増税について理解も省みることもするつもりのないということがハッキリしました。

 

とはいえ、さすがに議院内閣制における国会議員たる行政府の長が、一省庁の意向に振り回されるのは民主主義国として格好がつかないことでしょう。

 

ここは、安倍首相にひとつ踏ん張っていただいて、伊勢志摩サミットで各国首脳と合意した内容を是非とも実行に移していただきたいです。

 

というか、安倍政権でなくても別に構わないのですが、野党が酷すぎますので。

 

政局などどうでもよく、ただ我々は将来に安心して豊かな生活を送りたいだけなのです。

 

最後に、安倍首相は平成26年11月の記者会見にて「今、アベノミクスに対して失敗した、うまくいっていないという批判があります。しかし、ではどうすればよいのか。具体的なアイデアは残念ながら私は一度も聞いたことがありません。」と発言されていましたが、具体的なアイデアを上げて論理的な批判をしていた人は間違い無くいました。

 

批判に耳を傾けていなかっただけでしょう。

ラブレター フロム カナダ

2016-05-26

伊勢志摩サミットが開幕しましたね。

 

ホスト国たる日本の安倍首相は各国首脳を伊勢神宮で出迎えたそうです。

 

そのままおかげ横丁で一杯・・・と言うわけではなかったとおもわれますが、果たして安倍首相は今回のサミットで機動的な財政出動について協調を呼びかけて、各国首脳の賛同を得ることができるのでしょうか。

 

なお、この度のサミットに出席されるカナダのジャスティン・トルド−首相率いる自由党は、安倍首相が呼びかけるに先駆けて、実際にインフラや社会保障への支出を大幅に高めた予算を組み、それに伴い財政赤字額も大幅に増加している模様です。

 

しかし、それでもトルド−首相は、政府は経済成長の促進をより重視すべきという立場を崩さず、「私が執着しているのはパーフェクトな数字ではない。短期的な成長のみならず、中長期的な繁栄につながるパーフェクトな道、正しい道を見つけたい」として、財政均衡主義に対して怯む様子をみせません。

 

とはいえ、公共投資に伴うカナダドル高への移行といった為替レートの問題は無視できないでしょうし、そういった意味でも各国の財政政策における協調は望ましく思っていることでしょう。

 

そして当然、サミット前の安倍総理との会談で、世界経済における現状打開のための財政出動の必要性について双方で確認したということです。

 

この若くして勇敢でかつハンサムな首相は、どうやって議会制民主主義制度の中で選ばれたのでしょうか。ここ最近の日本ではちょっと考えられませんよね。

 

ましてや、日本の選挙では最低限のまともな人さえ選ぶことができない事が、最近の出来事によって明らかになりつつありますし、なんかもうねぇ・・・

若くてハンサムな議員はいるにはいても、どうも言ってることが月並み以下ですから、(おそらくいずれ首相となるでしょうけど)我が国の明るい未来は少なくとも政治家主導では考えられない現状だと個人的には思ってます。

 

というか、トルドー首相にはせっかく日本に来て頂いたことですから、この際、日本の総理大臣を体験して頂きたいくらいです。

 

代わりに移民・・・ではなく外国人労働者として安倍首相をカナダへお送り致して、自ら推し進める政策の実体験をして頂きましょう。

 

冗談はともかく、後がなくなった(と思っているはずです。)安倍総理には、少なくともトルド−首相からのラブレターを受け取って欲しいと切に願います。

追うは外、逃げは内

2016-05-24

自民党の小島健一・神奈川県議が今月、東京都内で開かれた集会で、「沖縄の基地の周りには基地反対やオスプレイ反対と毎日のように騒いでいる人がいる。基地の外にいる人ということで私は『基地外の方』と呼んでいる」と発言されたそうで、差別的と受け取れる内容だとして琉球新報が報道しております。

 

琉球新報と言えば、以前話題となった百田尚樹氏の発言「沖縄の二つの新聞はつぶさないといけない」に対して、猛烈に抗議を行った沖縄地方紙として全国に知られる様になりました。

 

その沖縄の雄たる琉球新報が、現在最前面にて報じているのは、もちろん米軍属女性死体遺棄事件です。

さらには、この事件を受けて、翁長沖縄県知事が安倍晋三首相との会談で日米地位協定の改定を求めた事や、島尻安伊子沖縄担当相が日米地位協定について「自民党県連としても、改正、改定について求めざるを得ない」と発言したことを報じていますが、これは『基地内の方』のお話です。

 

というのも、ここで改定を検討されている日米地位協定とは、協定17条による在日米軍の権限や基地使用を規定に関する条項で、特に米軍人の犯罪について身柄が米側にあれば起訴まで米側が拘禁する旨が定められている部分を指していると思われます。

 

これについては、治外法権などと呼ぶ人もおり、沖縄県のみならず日本国内にて議論の対象となっています。

 

ところで、以前にも私の旅行体験談としてお話ししたことがありましたが、沖縄でタクシーの運転手さんに基地関係の話を聞くと(頼んでもいないのですが)米軍と米兵を擁護する感じの話をしてくれました。

 

もちろん、運転手さん自身の経済的事情が大きく係わっているでしょうから、政治的な見解より先に贔屓目に見ることは致し方ないことと思います。

 

それにしても、県民所得ワーストワンの沖縄県が米軍基地無くして経済的な独立をはかるのは、よほどの計画と時間をかけない限りは現実的ではないはずです。

 

つまるところ、よそ者には分からない込み入った事情が沖縄県内部にはあるということでしょう。

 

そうなると、はたして『基地外』と『基地内』どちらに問題があるのでしょうか。

答えは二通り必要なのだろうか

2016-05-20

小泉純一郎元首相が訪米した折に、米海軍の元兵士の健康被害の訴えを耳にして「見過ごせない」と涙を流したと言うニュースが話題となっています。

 

どうでもいいことなので、内容を詮索するつもりはありません。

 

私が着目したいのは既視感です。

 

かつてどこかで同じ様な出来事があったような・・・

 

あれです!!

 

元首相の土下座です。!!

 

そう、鳩山由紀夫元首相が韓国へ訪れた際に、ソウルにあるモニュメントに土下座した時のことです。

 

でも、いずれについても、経緯やら内容やらに全く興味が湧かなかったので、あまり詳しくは分からないのですが、何かとてもよく似ているといいますか、ニュースを知ったときに感じた、まるでカメムシを噛みつぶした様ないや〜な感覚は全く同じなのです。

 

そして、これら二つの出来事の大まかな共通点といえば、①日本の元首相が②外国の訪問し③その国の人へ憐れみをかなり大げさに表現する。といったところでしょう。

 

もう一つ言えば、両首相とも、首相に在籍していた頃に採った政策が未だにしこりを残していると言う点で、現在でも存在感を保っているということもありましょう。

 

でも、この二つを見比べて、どんな方も私と同じような既視感を持つのですかね。

 

たとえば、親米保守と自称している方々は小泉元首相に共感し、鳩山元首相に対しては反日呼ばわりする様な気がします。

 

その逆に、左翼方は鳩山首相の土下座に溜飲を下げ、小泉首相には懐疑の目を向けるように思います。

 

まぁ憶測なんですけど、でも、あながち間違いでもない気もするのですよ。

 

とはいえ、前述の通り、元首相であるお二方が行ったこれらの出来事について、さして知らないし知りたいとも思っていない私からしたら、この二つの出来事から感じる印象がまるで同じなのですよ。

 

はたして、もっと理解を深めればべれば、支持すべき方と批難すべき方が分かるのか、はたまた両元首相の行為をいずれも支持することができるのでしょうか。

 

ということよりも、むしろ何故これらの出来事を並べ合わせて、どちらを支持してどちらを支持しないと言えるのか、そっちの方が興味ありますね。

 

いずれにしても、我が国における議院内閣制にて内閣総理大臣を務められたお二方の行った事でありまして、これを他の外国人の方は、この出来事を通して日本という国にどんな感想を持つのでしょう。

 

といいますか、オバマの広島訪問が話題となっていますが、いままでに原爆投下について謝罪したアメリカ大統領はおりませんし、普通の国であればむやみな謝罪はしないんじゃないでしょうか。なぜなら、将来世代も含めた自国民のためになりませんから。

 

そうであれば、他の外国人の方にとってはさぞ奇天烈に映ったかも知れません。

 

で、また話を戻しますと、なんで、こんなことをしたんでしょう。

 

たとえ、すでに公人としての立場を離れ、個人の良心に従ったとしても、日本国民に不利益になりそうなことをやりますかね。一般の普通の良心として。

 

実は、我々はとんでもない人達を総理大臣として崇め奉っていたのかもしれませんよ。

 

とはいえ、公正・平等な選挙によって選ばれた国民の代表ですから、日本国民のメンタリティを象徴している考えといえるかもしれませんよ。

 

実際、いまだに話題となるお二方ですし、支持者も多いのかもしれません。

 

そういえば、自国民を置き去りにしても許される彼らの思想良心について自由を保障している日本国憲法はアメリカ様の置き土産でしたね。

 

う〜ん・・・ねじれてるなぁ・・・

 

でも、日本国民の多くがねじれに寛容なことは、お二方が首相となったことからも明らかですから、実は気がづかないふりをして立ち振る舞っていた方がよいのかもしれません。

 

・・・という考えそのものが、日本人におけるアイデンティティの喪失から来ているのかもしれませんよ。

落第生?

2016-05-17

16年1−3月期の経済成長率発表を明日に控えました。

 

今年の1−3月期の統計は、うるう年による押し上げ効果のため、見かけ上の成長率がプラス1%強だとしても、実勢はゼロ成長となるといわれています。

 

皆様の実感はいかがでしょうか。

 

なお、安倍首相は、リーマン・ショックや大震災級のことがない限り、消費税は上げるとの発言をされておられる様ですが、熊本地震が実際に起こってしまいました。

 

首相の心境に変化はこれいかに。

 

と言いますか、普通に考えてこの状況で消費税を増税するって、どういう理解をすべきなのでしょうか。

 

しかも、安倍晋三首相は、26、27日に開催する伊勢志摩サミットで主要国に財政出動での政策協調を呼びかけるとされてますし、さすがに消費増税という強烈な緊縮財政政策とを並行させることは無いんじゃないでしょうか。

 

そんな折りに、民進党の岡田克也代表首相が、安倍首相が財政出動の必要性に言及したことを「結局、日本が落第生。その落第生が財政出動しなきゃいけないと騒いでいる」と批判したそうです。

 

それにしても、名前が変わったからといって、2012年まで政権を担っていた党の人間の一体どの口から「日本が落第生」などという言葉が出てきたのでしょうか。

 

安倍政権も大概ですが、野党は一層ひどいですねぇ。

 

しかも、震災復興における補正予算についても、機動的で自由度の高い予備費を多く計上したことについて、本来の予算のあり方でないなどとケチをつける始末です。

 

ケチをつけることで存在感を示そうとしているようにしか思えません。

 

なんですか?「男尊女卑政権」とは。真面目に審議するつもりがあるなら、煽り言葉など使わないでいただきたい。

 

しかし、そんな人たちにさえ「民主党政権の批判以外に言い訳ができなくなった」と言われてしまった安倍政権。

 

さすがにもう言い訳は限度を超えている模様です。

 

ここらで、それまでの緊縮財政しかり消費税増税が誤りだったことを認めてみてはいかがかと思います。

不謹慎狩り

2016-05-16

熊本地震の復旧・復興費用を盛り込んだ2016年度補正予算案が衆議院を通ったようです。

予算規模は7780億円とのことで、17日の参院本会議で成立する見通しだとか。

 

いつも批判ばっかりしてますが、震災における政府の対応は、迅速でなかなかのものだったのではないでしょうか。

 

まぁ、オスプレイを利用した食料の運送手段について、政治利用などとある方面から批判が飛んだこともありました様で、それについては(うわぁ〜・・・)と個人的にDON!引きしましたが、政府としては批判を受けることを認識していたであろうにもかかわらず、被災地の方々に食料を迅速かつ大量に運搬するという目的を優先したことで、これは大いに評価すべきだと思います。

 

きっと(一部を除く)多くの方々が、被災者の方々の生活再建を願っていることでしょう。

 

そんな中でも、話題となっているのが「不謹慎狩り」と呼ばれている行為です。

 

これは、ネット上だけの話なのでしょうかね。

 

なお、SNSをあまり使わず、かつ、芸能ニュースに詳しくない私の周囲では見かけたことないのですが、なんでも、有名人が笑顔の写真をネット上にあげたのに対して「不謹慎だ」と批判が集中したり、義援金による支援の報告に「売名行為」などと言いがかりがついて、いわゆる「炎上」が起こるほどだとか。

 

しかもこれらは、一般人のネットユーザーの投稿にも及んでいるそうで、SNSのお仲間同士の間でも起こっている様です。

 

かしなんとまぁ、生きづらい世の中なのでしょう。

 

ポイズンではありませんが、言いたいことも言えない世の中ですね。

 

もっとも、山本七平氏の「「空気」の研究」などでも語られているように、我々日本人の間ではかなり以前から、自粛ムードと呼ぶのか正しいのか分かりませんが、大衆の言動について逆らい難い「空気」がある様ですし、私も確かに感じることはあります。

 

そして、「不謹慎狩り」の対象となったネット上の言動というのは、その空気に相容れない要素が含まれていたのかもしれません。

 

では、ネットの無い時代は「不謹慎狩り」の様なことが起こったのでしょうかね。

 

というか、皆様の(ネット以外の)会話の中で「あの芸能人の笑顔は不謹慎よねー」とか「養育費で義捐金とか不謹慎よねー」みたいな話題がなされているのでしょうか。

 

考えるに、「不謹慎狩り」ネットにおける言葉の頒布性や無記名・不特定性が大いに作用しているように個人的には思えます。

 

とはいえ、一方で不謹慎と指摘する声をすべて「不謹慎狩り」とするのもひとつの空気でしょうから、もはやどちらが正しいのか分かりません。

 

やはり、問題とすべきは「不謹慎狩り」か、「不謹慎狩り」をさらに狩るかではなく、考えさせず、考えてもものが言えない「空気」が醸成されることではないでしょうか。

ゴールデンウィーク明け

2016-05-13

お疲れまでした。

 

良い週末を

いずれにしても

2016-05-09

米大統領選で共和党候補指名を確実にしたドナルドトランプの対日政策発言が日本で話題を呼んでいます。

 

その問題の発言とは、ご存じの通り、米CNNテレビのインタビューで、大統領就任後に日本に米軍駐留費用の全額負担を求め、応じなければ在日米軍の撤収を検討すると述べ、さらには、日韓が自主防衛のため核武装することを容認する考えも否定しないというものです。

 

これを受けて日本では、とりわけ親米保守といわれる立ち位置の方々周辺では大いにざわついている模様です。

 

石破茂地方創生担当相からは、トランプしに対して「日米安全保障条約をもう一度よく読んでほしい」、「NPT(核拡散防止条約)体制を維持する観点からは賛同できない」と、トランプ氏を批難すると言うよりは、若干泣きが入った発言で応戦しておられます。

 

もっとも、閣僚内ではタカ派で通っている石破氏でさえ、アメリカの核の傘の下での安穏な日々を望んでいたとあらば、憲法9条擁護派の方々はさぞホッとされたことでしょう。

 

それこそ、憲法9条擁護派の方々にとって在日米軍の撤収は念願でしょうから、トランプ氏から後光が差しているように見えているかも知れません。

 

と、思いきや、どうも日本左翼陣営のトランプ氏の評判は芳しくないようです。といいますか、ボロクソの様です。

 

何故でしょうかね。

 

まぁいずれにしましても、これらを訴えるトランプ氏がアメリカで大いに支持を受けているという事実は、もはや無視することはできません。

 

これだけをもって、アメリカ式民主主義の悪しき部分と批評するならば、むしろ日本国内における少数派の正論が何故国政に届かないのかを考えるべきだと思います。

 

何せ、アメリカが「世界の警察」を降りたがっているという事情は、以前のオバマ大統領の発言からも明らかなはずで、当時は、「オバマ大統領個人の見解であるから大統領が替われば・・・」といった事が真面目に議論されていたようですが、この度の大統領候補指名争いにてアメリカの今後の姿勢を突きつけられた格好となった訳です。

 

そもそも、アメリカの東アジアにおける軍事的プレゼンスが縮小の傾向を辿るということは、様々な方面から指摘されていたはずです。

 

ですから、この度の大統領候補指名争いにおいて、在日米軍の撤収などを主張する候補者が支持を集めることは、取り立てて驚くような話でもないはずです。

 

にもかかわらず、動揺を隠せないと言うことであれば、いかに現実逃避していたかが伺えます。

 

「TPPは中国包囲網・・・」でしたっけ?

 

結果的にトランプ氏が大統領になるかは分かりませんが、いずれにしてましても日本の防衛について決断を迫られる日は遠からずと言えましょう。

 

アメリカという国は、アメリカ国民のためなら、日本にかけた梯子を外すことを躊躇わないと思います。

 

そもそも、独立した民主主義国家とはそういうものではないでしょうか。

争いの本質

2016-05-02

他人の言動について承服し難いと感じた時に、よく「価値観の違い」という言葉で、その意思を説明することがあります。

 

特に、夫婦間や恋人同士における不仲の理由として使われているように思います。

 

例えば、互いに「価値観の違い」を感じた時点で距離を置ける関係であるならば、衝突を避ける意思表示として使える便利な言葉ともいえましょう。

 

もっとも、相手に踏み込ませることを許さないニュアンスもありまして、ある議題について話し合う場合に、「価値観の違い」を言い放つと、それをもって終了となってしまします。

 

例えば、安保法の議論について、政府から反対派に対して「価値観の違い」と説明されたら、そりゃ反対派は怒るでしょうなぁ。

 

安保法の善し悪しはともかくとして、この言葉には、そういった突き放す様な面もあると思います。

 

もっとも、価値というからには、比較の基準となるものの存在を前提とする相対性を表す言葉でしょうから、価値観という言葉には、そもそも複数の概念を受け入れる準備が含まれているはずなのです。

 

そう考えると、価値という概念を持たない絶対的な存在に対して、価値観はあり得ないはずです。

 

例えば、キリスト教とイスラム教の純粋な宗教としての対立について、「価値観の違い」と括るのは誤りだと思うのです。(実際に純粋な宗教対立というのがあるかどうかは分かりませんけど・・・)

 

言ってみれば価値観とは、複数の事柄についてどれに比重を置くかということで、例えば食堂のメニューから、カレーを選ぶかラーメンを選ぶか、といった程度の話となるのではないでしょうか。だって、選択肢が価値として受け入れられることが前提の話ですから。

 

しかし、その程度の「価値観の違い」とやらで、恋人同士が別れ、夫婦が離婚し、はたまた国会が紛糾するというならば、いささか言葉の意味として釈然としない部分もあろう事かと思います。

 

それについて私が思うところですが、到底受け入れる事ができない事を、一度は受け入れたように見せるところが「価値観の違い」という言葉のミソではないかと思うのですね。

 

これについて、以前に、フランスの風刺雑誌「シャルリエブド」が、過激派に銃撃を受けた事件があったことと思いますが、その時に風刺画を描く自由について大きな議論が巻き起こったことと思います。

 

これこそが正に、「価値観の違い」による争いなのだと思います。

 

他にも、幕末における倒幕の動きなども、結果的に新政府が開国に動いた事実からして、果たしてハッキリとした目的があったのか皆目見当がつかなくなってしまいますことから、こういった場合にスッと「価値観の違い」と説明すると、何となく納得した風にならざるを得ない様に思えます。

 

 

そして、いずれの場合も「自由」や「尊皇攘夷」といったキーワードが前面に置かれながら、その意味が主張する双方で違っているという、一つの言葉の持つ多義性にも着目すべきかも知れませんね。

 

要は、少なくとも言葉通りの価値観が人との間に争いを生むのではなく、しかも争いの本質というのは十分に言葉で説明できないことがあるのではないか、と思います。

 

それでも、社会には何かを拒む理由について、どうしても説明をする必要が出て来る場合がありますことから、「価値観の違い」という表現は、人と本気で向き合う気力の消耗を省き、更に時間を節約する点において、現代社会で大変に重宝されているのではないかと思います。

GW突入

2016-04-28

いよいよお待ちかねのGWに突入でございます。

 

予定のある方もない方も楽しみにされていたことでしょう。

 

とはいえ、やはり熊本地震による被害の様子は気になるところです。

今年のGWに九州への観光を予定されていた方も少なくなかったことでし

ょう。

それにしても、GWに間に合わせて九州新幹線は全線で運転を再開したようです。

 

個人的な印象としては、ずいぶんと早く復旧したと感じておりまして、作業に携わった方々のご努力がひしひしと伝わってくる思いが致します。

 

また、九州自動車道も明日から全線で通行できるようになるそうで、交通網の復旧により被災者の方々の不安が少しでも和らぐことを願います。

 

それでは、よい連休を。

補正予算

2016-04-25

安倍晋三首相が、熊本地震の災害復旧対策に限定した2016年度補正予算案の編成を指示したそうです。

 

プライマリーバランス目標を掲げる中でも、さすがにこの補正予算に反対する人はいないことと思います。そう願います。

 

なんせ、野党議員が本分をそっちのけで募金活動をする最中、やはり国家による財政支出は頼もしく思うところです。

 

日本国民の一人として早急な成立を望みます。

 

ところで、酷似問題が大きな話題となった2020年東京五輪・パラリンピック大会エンブレムの再選考について、最終決定されたようです。

 

そのデザインは、市松模様をモチーフとした「組市松紋」をコンセプトとされ、他の候補と比較しても非常にシンプルで、かつ色合いが大人しいものの様に感じます。

 

そのインパクトは、他の候補の色合いがよく似ていることから静かな中に圧倒的なものがあります。

あくまで比較ですので、作品単体で見るとまた違った印象を受けるのかも知れません。

 

もっとも、私個人の意見では、酷似の問題を踏まえつつも前のデザインでやる選択はあり得ると考えてました。

ですが、新しく決まったデザインもこれはこれで良いと思います。

 

東京都知事の件も含めて、オリンピックには難題が山積みですが、最終的には素晴らしいものとなって欲しいと切に願います。

 

まぁ、「被災地が大変なときに云々」という声もあろう事と思いますが、むしろ被災地のためにも経済活動や余興などを自粛することは、被災地にとっても好ましいこととは思えません。

 

なぜなら、消費や投資を停滞させることは、必然的に税収が滞る事態を引き起こしますが、国家の救援が必要な被災地にとっては、当然ながら喜ばざることでしょう。

 

ところが、消費や投資に強い悪影響を及ぼしたと言われている消費税について、「固定概念にとらわれることなく議論する必要がある」とのことで、消費税を「絶対に2%ということではなく、まず1%上げる考えもある」と言っている議員がいるらしいのです。

 

自らが消費増税が必要という固定概念にとらわれながら、他人に固定概念にとらわれるなと説く、これいかに。

 

それにしても、東北の復興もままならず、新たに熊本にて大災害が起こり、更には南海トラフへの影響まで囁かれ、さらにはインフレ目標も達成できず、2017年のGDP成長率もマイナス成長が見込まれるこの現状において、消費税の議論している国会議員は○鹿なのか、サイ○パスか、○○省の操り人形としか考えられません。

 

そもそも誰のせいだと思っているのでしょうか。

 

いずれにしてもいい加減にして頂きたい。

善悪の見分け

2016-04-18

善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや

 

というくだりから始まるのは親鸞聖人の悪人正機説です。

 

その意味は、「善人でさえ救われるのだから、悪人はなおさら救われる」ということだそうです。

 

実は、恥ずかしながら、それほど詳しく知っている訳でもないのですが、初めて知ったときに、そのRock 'n' Roll!!な逆説が気に入りまして響きだけは良く覚えていたのでした。

 

そして、最近ふと思い出す機会がありまして、良い機会と思い少しお勉強してみますと、また更なる衝撃と、さも深海のような深みを感じる訳でございます。

 

興味があれば調べてくださいまし。

 

その中で、「他力本願」と、「自力作善」という対局するふたつの言葉が登場します。

 

前者は、あまり良い意味では使われませんが良く聞かれる言葉、で後者はあまり耳にすることはありません。

 

ところが、ここで使われている「他力本願」とは、人任せの他人依存といったような人を指したネガティブな意味ではなく、阿弥陀仏の本願力を他力というそうです。

 

この辺ちょっと難しいのですが、「他力」とは、阿弥陀仏の力を現す言葉だそうで、「本願」とは、あらゆる人々を仏に成らしめようとする願いのことなのだそうです。

 

それに反する「自力作善」とは、文字通り自分の力で善を行うということですが、これだけの説明だと「他力本願」と次元が違う話で両立しそうな気もするわけです。

 

そこで、「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」(善人でさえ救われるのだから、悪人はなおさら救われる)という言葉でこの二つの言葉を関連させると、「自力作善」の人も救われるけど悪人の方が「他力本願」に相応しい、とのことのように読めます。

 

阿弥陀仏によりますと、善人よりも悪人の方が仏に成らしめるに相応しいということですので、どうも我々現代人、もとより過去も含めた人間達の間で言われていた善悪とは違った意味があるようです。

 

まぁ、我々が評価する善悪など、自分の主観として知っている事実限り、また、実はよく分かってないけど「空気」で、といった程度のものでしょうし、少なくとも法律や決まりを破らず世間一般では「良い人」で通っている小悪党は、世の中一杯いることでしょう。

 

ところが、阿弥陀仏には、誰にも知られていないどころか、墓場まで持って行くような秘密もお見通しですから、「お前ら全員悪人だわ」ということのようです。

 

そこには、人間の世界における法律や道徳を超越した善悪があるようです。

 

で、なんで「自力作善」の人が悪人より評価が低いのかというと、自覚を促す意味のようです。

 

こう考えると、世間一般に言われる人間観に牽制をした形となって、とても有意義であると感じます。

 

遠い昔の教えが今を持って意味をなすとは何とも感慨深いものでございます。

 

そして、個人的ではありますが、その善悪の考え方が様々な場合において、実にシックリとくるのですね。

 

そうすると、現代において「他力本願」の本来の意味が誤解されている理由も何となく解る気がします。

 

「他力本願」の本来の意味を理解するのは結構難しく感じますが、この言葉の語感だけで意味を解釈し、批難の言葉として使う者はやはり、言うところの「善人」なのだと思います。

 

何故、こんな話となったかといいますと、土曜日の夕方に電車でJR稲毛駅の東口を出たら、そこは私の庭ではないのですが、とある国会議員が熊本で起こった大震災への募金活動を行ってましたのを目撃したときに、冒頭の言葉が頭に思い浮かんだからです。

 

ちなみにその方は、「クニノシャッキンガー」の一人でもあるようです。

 

また、最近言われる様になった「やらない善より、やる偽善」という言葉の意味について、色々評価が分かれているようです。

 

これらの言葉、そして人物における善悪についての判断について当てはめてみると、その評価が導き易い様に思います。

国民の危機

2016-04-15

昨日、熊本県で大変大きな地震が起こったことは、もうご存じのことと思います。

 

地震が起きた時間は午後9時26分頃だそうで、熊本県中北部の益城町では震度7を観測したとのことで九州で震度7を観測した地震は初めてなのだそうです。

 

朝のニュースでは、倒壊した家屋や避難している住民の方々、救急や消火に当たる消防士の方々などが映し出されていました。

 

なお、私は昨日の夜、自宅に帰ってから風呂に入りあがってきた後に、遠い九州の熊本にて地震が起こったことを知りました。

 

きっと、地震が起こる前の被災地では、同じ時に私と同じ様な日常を過ごし、風呂上がりのビール(第2)を楽しみにしていた方もおられることでしょう。

 

その様な穏やかなはずだった暮らしを一瞬にして変えてしまった訳ですから、あらためて自然災害の恐ろしさを心に刻み身震いさえする思いです。

 

地震列島と呼ばれるくらい地震の多い国土で生まれた我々のご先祖様も、きっと同じ思いをされてきたことと思われ、その思いを歴史の中で幾度もなく繰り返していることと思います。

 

とはいえ、時間がどれだけ過ぎようとも、やはり恐怖から免れる訳にはいかず、また、愛すべき子孫に味わった恐怖の幾分か和らげてやりたいと思うのも歴史の営みでございましょう。

 

それにもかかわらず、次世代に借金のつけを残さないなどとの理由で、次世代に安心して過ごして欲しいとの願いを放棄することは、歴史の営みを逆流するようなものじゃありませんか。

 

そして、現代に責任を持てるのは、現代に生きる我々しかいない訳ですから、日本人の力を結集して被災地の救済、復旧、復興を果たさなければなりません。

 

我が国は、良くも悪くも民主主義国家ですから、有権者の心がひとつに向けば国会も政府も司法も動かせるはずなのです。

 

同じ日本国民の危機を救うべく、国家に対して迅速な対応と財政出動を求めようではありませんか!!

偶然

2016-04-12

バドミントンの選手らが違法カジノにて賭博行為を行ったことについて、各関係団体によるその処遇が話題となっております。

 

なんでも、選手らが所属する会社によると、賭博に関与した選手らのうち中心となった選手を解雇とする事を発表したとかで、その処分について賛否両論が飛び交っているようです。

 

たしかに、法律に違反する行為を行った事に対して、会社としてはそれに見合った処分が社会的に求められるといったところもあるのでしょうけど、汚名を返上する余地くらいは残した方がいいのでは、というのは個人的意見です。

 

ましてや、黒い霧事件や角界における八百長問題のように、従事する競技の勝敗を歪めたのであれば、さすがにその競技から退場させることも致し方ない気がしますが、今回の問題は競技の勝敗までには及んで無い様ですし。

 

それにしても、スポーツ関係にまつわる賭博については話題が尽きない様に思います。

 

これについては、そもそも大部分を偶然に支配されているであろう職業に従事している方々が、仕事の外でも偶然を求めるという事について、賭け事をやらない私としてはとても不思議に思います。

 

もっとも、私だってその面白さがわからない訳ではないんです。

 

なにしろ、人間の遊びの要素を4つに分類したフランスの思想家がいるのですが、「偶然」がそのひとつとされているそうです。

 

それに加えて、基本とか型とかルールとか予定とか、我々の生活の中で携わることの多くに偶然性を排除する要素が含まれてますから、偶然であることが恋しくなり、また楽しめるのもごく自然なことなのかもしれません。

 

では、なんで賭け事はいけないんでしょうかね。

 

そもそも、特別法などで認められいるもの以外の賭け事を禁止する趣旨というのは、仕事をほったらかして賭博にずっぽりと浸かってしまい家財を使い果たすばかりか、事によっては犯罪まで起こしてしまう様な、巷でよく聞くようなギャンブル漬けの有様を未然に防ぐことで勤労精神を保護する、といったところでしょう。

 

そのことは、言ってみれば人を夢中にさせるような魅惑の部分もあるということです。

 

 

なお、刑法にて定義されている賭博というのは、2人以上の者が偶然の事情にかかる勝敗によって財物等の得喪を争う、とされています。

 

つまり、偶然の勝敗に賭けても財物等の授受がなかったり、偶然と思っていた出来事が実は八百長であった場合には、刑法上の賭博には該当しないことになります。(もっとも、偶然性に主観を見いださない点で疑問が残る訳ですが・・・)

 

そう考えると、合法のものを除いたスポーツの勝敗についての賭博と、それにまつわる八百長は、非常に親和性が高いように思いますが、事の本質が全く異なっていることに気が付きます。

 

そもそも、八百長というのは大部分の偶然性を排除する行為ですが、少なくとも刑法においての賭博は偶然性あってこそなのですね。

 

しかし、偶然性を排除する要素が全くない状態での賭博というのは、そもそも成立するのか、という疑問が生じてきます。

 

ちなみに偶然とは、『必然性の欠如を意味し、事前には予期しえないあるいは起こらないこともありえた出来事のことである。』ということだそうです。ウィキペディアで参照しました。

 

偶然をこのように定義して賭博を成立させることを試みましょう。

 

たとえば、一定の地点から蟻がどの方向へ向かうかを賭けてみるのはどうでしょう。

 

蟻にとって進行方向は必然的なものかもしれませんが、それを知らない人間には予期しえない訳で、これは人間にとって偶然といえると思います。

 

ところが、蟻はまっすぐ進むわけではありませんので、そのままでは勝敗を決することができません。

 

結局のところ、ルールを決めたりするわけですが、そうなるとルールの範囲内で勝敗を決するわけですから、そのことは予期しえない事態を排除することになります。

 

つまり、全く偶然に支配されている状態では賭博が成立しなくなってしまうわけです。

 

トランプや花札、はたまたルーレットなど、ありとあらゆる賭けの対象は、一定程度の偶然を排した、言わば想定の範囲で成り立つものであるといえましょう。

 

そうえいば、想定の範囲内といえば自然災害の問題でよく出てくるキーワードですが、自然災害について想定に範囲を設ける事自体が、なんだか色々と理屈がこんがらがってしまいます。

 

なんせ、自然というのは、それこそ全くの偶然でしょうから、人間が決めたルールなど守ってくれませんので、それこそ自然災害への対策としては、判明している限りでの必然性を素直に認めて事前の準備で対応するよりないように思えます。

 

主観と客観とが混在する部分において偶然と必然とを分類するのは非常に難しいように思うのです。

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