〒276-0033 千葉県八千代市八千代台南一丁目4番3号2階

お気軽にお問合せください

営業時間:月~金 9時~17時

おこられてる

2013-03-26

「1票の格差」が最大で2.43倍だった昨年12月に実施された衆院選に関して,昨日の広島高裁本庁に続き本日,広島高裁岡山支部にて違憲無効判決が出ました。

これまで「違憲」「違憲状態」(選挙自体は有効のまま)という判決は何度も出ていたものの,「選挙が無効」としたのは昨日の広島高裁本庁が初めてです。

 

ちなみに「1票の格差」とは選出される議員1人当たりの有権者数が選挙区によって違うことです。これは,憲法14条1項で保障される平等原則から生じる問題でいわゆる一票の重みが選挙区ごと異なってはいかんということです。

 

ですが,都道府県ごとにまず一議席ずつ配分してから残りを人口比で割り振る「1人別枠方式」ではどうしても生じてしまう問題です。2011年3月最高裁はこの方式について格差を生む原因だと指摘して廃止を求めています。

 

なお,去年11月の衆議院解散の直前に,一票の格差是正のため小選挙区を「0増5減」とする法案(議席数を5つ減らして調整する)を成立させていますが,12月の選挙においては実現されていませんでした。

 

そんな経緯のもとに行われた衆院選に関する今日の判決は,

『おととし最高裁が『憲法違反の状態』と指摘してから選挙までのおよそ1年9か月は、衆議院議員の任期のおよそ半分に当たるので、区割りなどを改定するのに不十分だったとは到底言えない。国会は選挙前、駆け込み的に「0増5減」の法律を成立させたのみで、選挙までに格差を是正しなかったことは怠慢であり、司法判断に対する甚だしい軽視というほかない』

と国会の対応を厳しく批判したようです。

 

また,今日の判決は,昨日と違い猶予期間を設けていません。やり直しするとしたら色々と混乱が予想されちょっと心配な気もします。なんせ初めてのケースでしょうから。

 

「0増5減」の成立は,野田元総理大臣と谷垣元自民党総裁との党首会談において衆議院解散の条件とされていたという話は記憶に新しいところです。

 

その期間は,大変政局が不安定な時期でしたが批判は仕方ないように思います。

 

なお,1票の価値が最も軽いとされた千葉4区は野田元総理のお膝元であります。

taken its toll on me

2013-03-25

「Honesty」といえば,言わずと知れたビリージョエルの名曲です。

 

日本語訳すると正直とか誠実という意味だそうです。

 

意味だけ見ると若干堅苦しい感じがしますが,曲調は寂しげなピアノのイントロから始まる寂寥感が溢れるバラードで,歌詞の内容もとても繊細な感じがします。

 

ビリージョエル氏自身,うつ病に悩まされたり自殺未遂を図った経験もるようで性格は非常に繊細なようです。

 

私は,学生時代にCDを購入したのですが,歌詞の内容に強く感銘を受けたことを覚えています。

 

特に曲中で力強く歌い上げる「Honesty is such a lonely word」というサビのフレーズが強く印象に残りました。

 

その頃の私は,お世辞にも誠実とは言えませんでしたが,この意味についてはその頃の自分なりに深く考えたような気がします。

 

そして,その後に起こる様々な出来事において,自分が相手に対して誠実さを強く求める機会が度々あって,その度に自分が相手に求めているものを自分にも課しました。

結局,自分が誰かに求めた誠実さが叶わなかったということが起きる度に,もし逆の立場になった時には相手の求めに叶う自分でいようと強く思ったりしました。

 

でも,互いが思う誠実という尺度が大きく違ってしまったときは,一応は歩み寄りを試るもののどうしても葛藤が生まれてきてしまいます。本当は,相手の意思に沿いたいのに逆に自分の尺度を相手に求めてしまいます。そして,何より自分の尺度で解釈する限り,本当に相手が求めていることが非常に分かりづらいということもあります。

 

そのあたりを柔軟に考えられればいいのですが,自分が求める誠実さにこだわり過ぎると心のすれ違いばかり起こるようになります。

 

 

だから「Honesty is such a lonely word」という言葉の意味は,始めて聞いたときに感じた“誰もが一度は嘘をついたことがある”という様なニュアンスから,人それぞれ誠実の尺度が違うという解釈に時間を経て変わっていきました。

 

今でも,誰かから求められる誠実さというものにとても混乱することがあります。

 

「Honesty」は,そんな心理をありのまま表現した歴史に残る名曲だと思います。

 

あと,Maroon5の「This Love」という曲もちょっとエロい歌詞ですが若干似た雰囲気を持っていて好きです。

 

今夜は,この2曲を静かに聴き浸りたい気分です。

なりゆき

2013-03-23

桜が咲き始めています。きれいですね。

 

なんでも,昨年より10日以上早いとか。

 

それはいいのですが,お花見の予定を大幅に前倒ししなければならなくなりそうです。

 

ただ,桜の開花にあわせてお祭りなどの行事を予定している場合はそうもいかず,当日には葉桜ばかりということもあろうと思います。ちなみに毎年行われている地元の桜祭りはなかなか満開の時期に日程が合いません。

 

天候とか自然などはどうしても人間には操作できないものですが,そもそも人間が作り出した物でなければ当然のことかもしれません。

 

操作できないものがどれくらいあるかを考えると普段の生活においていかに人工の物に囲まれているかがわかります。

 

人工の物は目的があって作られていますが,そうでないものはそもそも目的なんてないはずです。存在理由は後付でされますけど,そもそも人間だって目的があって生まれてきているわけじゃないし・・・

 

生態系も大きな視点で見れば,それぞれの生物が役割を果たしながらサイクルしているように見えますが,視点を近づけると個々の生物において生態系の一端を担っているという自覚はおそらくないでしょう。

 

つながりを分析した結果大きなサイクルができたのでしょうね。

 

目的や理由を明確にすることにより説明がついたり納得ができたりするのですが,何にでも目的や理由が付くというものでもないような気がします。

 

いろいろ考えることも大事だと思いますけど,結果としてこじつけっぽくなりますしね。

ひわいな話じゃありません

2013-03-22

右よりですか?それとも左よりですか?

 

原発推進派ですか?反対派ですか?

 

タカ派ですか?ハト派ですか?

 

ご飯を先に口に入れますか?それともおかずが先ですか?

 

 

一般に,政治的・社会的な意見,思想傾向のことをイデオロギーと呼びます。このイデオロギーが原因で国内の意見が真っ二つに割れることもしばしば歴史の中では起きています。

 

今やってるNHKの大河ドラマで取り上げられている時代も尊皇攘夷派と左幕開国派で日本を二分した幕末を舞台としております。ただ,私個人の意見ですが,幕僚や知識人の中では折衷派が多数だったのではないかと思っています。そして,結果として倒幕は果したものの開国もしました。

 

その後,江戸時代に圧倒的な文明の差を見せ付けられて強引に押し付けられた不平等条約を日露戦争の勝利を機会にわずか50年程で改正させています。これってすごいことだと思っています。

余談ですが,以前,愛媛に勉強に行ったときに立ち寄った”坂の上の雲ミュージアム”にて江戸時代の泰平のにより寺子屋が普及した為,日本人の識字率(読み書きができる人の割合)が,外国と比べて群を抜いて高かったという資料を見ました。

 

私は,この鎖国による江戸時代の泰平がもたらした日本人全体の学習能力の底上げこそが,短期間での文明発展を遂げた大きな理由じゃないかと思っています。平和は国力を高めるためにはとても大事だと思います。

 

もどって,幕末のころも個人がそれぞれイデオロギーを持っていたと思います。しかし,その一部の人たちがイデオロギーを行動の原点としていたために都の焼き討ちを計画したり次々と暗殺が起きたりしていたのではないかと考えています。

 

そして,時代が変わって現代においても,皆様それぞれイデオロギーを持っておられるかもしれません。しかし,その出所は自分の暮らしを良くしてほしいという願いからだと思います。

そうであればイデオロギーは,その願いをかなえるための手段という位置づけになると思います。

 

だから,例えば本業を犠牲にして反原発を唱える人なんていな・・・

すみません。例が悪かったです。

え〜と・・・それぞれが自分の幸せを一番に考えられることは大事なことであるはずです。もちろん,日本全体が良くなれば,個人の生活水準も向上するという考えを基にすべきです。

 

 

私の業務は,日本全体という大きい視点よりは個人や世帯といった小さい視点で捉える機会が多いのですが,利息制限法の引き下げ運動などにも参加したりしてきました。

 

ただ,それは自分が日々目にしているものがあまりに深刻なために起した行動であって,自身の考えである「みんなが良くなればめぐりめぐって自分も良くなる」が,達成できれば,正直イデオロギーは二の次でいいと思っています。

考え方にこだわるよりは,その分だけ何かを感じる余裕があったほうがいいと思っています。

 

思考より感覚の要素の方が,多くあると幸せを感じられるんじゃないかと思っています。

iagatu

2013-03-21

3月20日にWindows 7のService Pack 1(SP1)の自動アップデートが一斉行われたようです。

 

時を同じくして20日午後,韓国の放送局や銀行のコンピューターサーバーが一斉にダウンするという事件が起こりました。

 

韓国大統領府高官は,北朝鮮の犯行と疑ったり,中国からのIPアドレス(ネットに接続したコンピューターの住所のようなもの)を確認したりしていますが,これってもしかして・・・・

MAKE UP CITY

2013-03-19

今日は暖かかったですね。

 

そういえば,17日に千葉県知事選がありまして,天気の昼下がりにサンダル履きで近くの小学校に投票がてら散歩してまいりました。

 

正門から入ってすぐ学校の敷地にユキヤナギが咲いていました。明るい緑色に雪が降ったように白い花が沢山咲いていて緑と白の彩が暖かい春の日差しに反射してとても綺麗でした。

 

なお,県知事選については書くことがありません。

 

まぁ,河津桜も見ごろを迎えているようでいよいよ春がやってきましたよ。

 

春といえば,どんな色を思い浮かべますか。ふと思い浮かべるとすぐ思い浮かぶのは桜色です。

 

でも,冒頭のユキヤナギの彩りもとても春の始まりのようなイメージがあります。

 

季節が変わり行きかう人々の洋服の変化にともない街の色も明るくなったような気がします。

 

天気の良い日に街を歩いているとどんな音楽が聞こえますか。

あまりに無力・・・

2013-03-18

一番古い記憶だと祖母が若くして癌で亡くなったときだったと思います。

 

当時,身近にいる人の中で一番小言が少ない(というか言われた記憶が無い)人だったので大好きでした。

 

子供なりに人が死んでしまう(というか会えなくなってしまう)ということを何とか理解しようとした結果,自分の無力さを原因としたのだと思います。当時の自分にはそれくらい人の死というのは理不尽なものでした。

 

 

そのほかには,父親に谷川岳(名前の由来です。)に連れて行かれたときなどもなんとも自分の無力さを感じました。

 

スポーツなどの勝負事や受験などの合否など,二極しかない世界ではどんなに頑張っても成果が上がらなかったという本人にとっては理不尽な結果が起こりえます。もちろん,傍から見ている人たちにはどれだけ努力したかも充分には伝わってないでしょうし,負ける人がいなければ勝つ人もいないわけですから,うまくいかなかった人が存在するのは当然のことで理不尽でもなんでもないはずです。

 

だから,少なくとも大人になる過程において,自分が理不尽と感じる結果でも必死で受け入れたという経験のある人が多いと思います。そうやって,長い人生の中で少しずつ主観的な視点と客観的な視点のピントを合わせていっているんじゃないかと思っています。

 

それでも,どうしても悔しいと感じたり,無力な自分を責めたくなる気持ちは無くならないものですね。そして,そう思ったかどうかは分かりませんが偉人といわれる人たちは,当時の客観的視点であろう定説を自らの理論で覆しています。そのときの多数は意見が正しいわけではありません。だから,時代は変わっていきます。

 

 

時代が変わり情報化社会と言われる現代では,「平成の開国」やら「世界から孤立する」やら抽象的な見出しをニュースや新聞までが使って本質的に理解するのが難しく感じます。

 

ただ,どのメディアでも実際に農業においてメリットは少なくデメリットが大きいという見通しはどうも共通するようで,自分は農業だけの問題ではないと思っていますが,仮にそうであったとしても,あるかどうかも分からないメリットのためにほぼ確実な農業従事者へのデメリットを認容してしまうという風潮になっているのがとても残念でなりません。いわゆる切捨てですね。東北地方の復興を願うのであれば農業の活性化は不可欠なはずですが,それさえ切り捨てるということでしょうか。

 

私は,別に農家ではありませんし東北地方に親戚もいませんが,そもそも“少数であれば犠牲になってもいい”というメンタリティーこそが,2000年代の構造改革を後押しして大きな経済格差を生んだ原因と言えましょう。いざなぎ景気超えなどといわれていましたが実感できましたか。そして,その後どうなりましたか。もっとそれ以前の問題としてどう思われますか。

 

前にも書きましたが, 例えば,10人中8人が日本車を買える状態から経済格差を広げれば3人が高級外車を買って5人が自動車を購入しないということになるので(割合はともかく)国内での日本車の購買層が少なくなるのは当然のことです。

 

そして,国内需要の期待を捨てた大企業が海外に需要を拡大して稼いだお金を国内に落とすことはありえないんじゃないでしょうか。だって,国内需要に期待していないのだから国内に投資するメリットがないと考え更に儲かりそうな所を探して投資するんじゃないでしょうか。これが所謂グローバルの行き先ではないでしょうか。

 

アメリカの一部メディアもTPPを反対する声が上がっています。ただでも深刻な失業率をさらに悪化させるとのことです。対立の構図としては,グローバル資本家(企業)と庶民といった感じだと思います。でも,アメリカ国内において国内法の維持に関する懸念は上がっていないんじゃないでしょうかね。

 

話はスポーツの方にそれますが,今回のWBC(今日は残念でしたがご苦労様でした。ありがとうございました。)のルール改正(この論点ではそれてない)は,どこの国に焦点をおいてルールを変更したか明らかだと思います。そのほかにも古い話ではありますが,バサロスタートが規制されたり,スキーの長さを変更したり分野は違いますが日本が勝つことについてその他の国がどう印象を持つかを象徴しているように感じます。

 

また,日米関係を象徴する出来事といえば,思いやり予算やプラザ合意や米軍基地やオスプレイなど枚挙に暇がありません。

 

すくなくともリフレ政策には期待が集まっているわけですから,前政権でぶち壊した対米関係の修復を試みるにしてもあえて弊害の多そうなものに飛びつく必要もなかろうと思いますが・・・

はなみずき

2013-03-15

花粉症の方々ご無事でしょうか?

 

今日は,私にとって今年一番の日です。

 

辛い季節ですが,心をひとつにがんばりましょう。

TOWER OF POWER

2013-03-14

成年後見人が付くと選挙権を失う公職選挙法の規定は憲法に反するとして、国に選挙権があることの確認を求めた訴訟で、東京地裁でこの規定を違憲と判断する判決が言い渡されたそうです。

 

成年後見制度とは,認知症,知的障害,精神障害などで判断能力が低下している人のために援助してくれる人(成年後見人)を家庭裁判所に選んでもらう制度です。

 

 

だから,本人の財産を管理したり,契約などの法律行為は成年後見人が本人に代わって行います。たただし、スーパーなどでの日用品の買い物や実際の介護は一般に成年後見人の職務ではありません。

 

ですので,成年後見制度を利用されているすべての方が投票する意思があるかどうかは分かりません。そして,ないとも言い切れません。

 

それはとりあえず置いといて,まず,憲法では前文で国民主権をうたっており,

 

15条では,

“第1項 公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。”

 

としてさらに

 

“第3項 公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する。”

 

とされております。なお,何歳で成年者とされるかは,公職選挙法第9条で『満二十年以上の者』とされています。

 

なお,

 

“第44  両議院の議員及びその選挙人の資格は、法律でこれを定める。但し、人種、信条、性別、社会的身分、門地、教育、財産又は収入によつて差別してはならない。”

 

だそうです。だからこそ

 

“第43  両議院は、全国民を代表する選挙された議員でこれを組織する。”

 

として国会議員は全国民の代表となっています。

 

ところが,公職選挙法第11条第1項にて成年後見制度を利用する本人の選挙権を認めていないことが問題となっていました。

 

 

ちなみに,憲法は国の最高法規であり公職選挙法よりも上位にあります。

だから,この裁判は公職選挙法が憲法に違反しているかどうかを判断しています。

 

そして,裁判における主な争点は,

 

(1)知的障害などを理由に選挙権を制限することが許されるか

(2)成年後見制度を使って選挙権の有無を判断することが合理的か

 

の2点だったようです。

 

 原告側の主張は

“憲法は選挙権を全ての成人に保証しており事理弁識能力の有無で区別していない”

“成年後見制度は選挙権の行使に必要な判断能力までは審査していない

とのこと

 

それに対して国側は

“選挙権の行使には政策を理解して議員を選ぶ能力がなければ選挙の公正を確保することができない”

“判断能力を個別に審査するのは困難なので,制度を利用している人を一律して判断することには合理性がある”

というようなことを主張したそうです。

 

思うに選挙権というものを完全に国民に課された公務(義務)として考えれば,国側の主張は分からなくもありません。公務を果たすには一定の能力は要求されるべきですから。

でも,公務的な側面もあるにせよ権利として考える余地が少しでもあれば,「剥奪」してしまうというのは少し乱暴かなと感じていました。

 

誰かに利用される可能性とかそもそも選挙にいけるかどうかは別として憲法で保障されているわけですから。

 

でも,(1)の争点が許されると考えれば,(2)についての国側の主張は分からないでもありません。

 

これについてきっと色々な見方があると思いますが,この問題をどうお考えでしょうか。

小浜の塗り箸で頂きます

2013-03-13

ある日,かもが葱を背負って「この葱と引き換えに餌をおくれ。」と交渉しに来ました。

 

とりあえず,「わかった。その話は考えるからこっちへおいで」と誘いをかけておけば,その日の晩はおいしいかも鍋が食べられるでしょう。

 

緊縮でおなかをすかせてる相手にこちらの言い分が通じるとは思えません。

密告

2013-03-12

 1953年までのソ連の最高指導者スターリンは密告を奨励していたといいます。

 

恐怖を植え付けて国民に支配するために密告という手法を用いたようです。

 

ソ連では,1926年に「反革命罪」と呼ばれる罪が制定されました。ここでいう「反革命」の定義は非常に曖昧でこれにより多くの人がシベリアの奴隷収容所へ送られたと言われています。例えば,ある集会でスターリンの名が出ると人々は一斉に拍手をするのですが,10分が過ぎたとき拍手をやめて席についた一人が逮捕されたというエピソードがさえあるそうです。

 

 

そのため,民集達は密告を恐れるあまり互いを疑い結束が生まれない状況におかれました。独裁的に民衆を支配するには万全の状態でしょう。

 

また当時,日々の配給はわずかパン数十グラム程度だったそうです。それだけでは空腹を満たすことはできないでしょう。

 

そのうえ密告者には告発された被害者の財産を分けてもらえるなどの特典があったようです。

 

だから,ますます密告に拍車がかり,あることないことを告発する事態が起こったようです。それにより多数の冤罪が生まれ多くの人がシベリアの奴隷収容所へ送られたといいますが,スターリン政権にとってはただ同然の労働力を常時供給できるシステムとして有効な手段だったのでしょう。

 

この人間の欲望,恐怖,疑心を露骨に引き出す悪魔の手法を編み出した背景にはスターリンの元々の性格があるようです。

 

 スターリンはもともと人間不信で猜疑心が強かったようです。だから,人を疑う心理を良く理解していたのかも知れません。

 

スターリンが競争相手を失脚させる常套手段は、競争相手のことについて嘘を言いふらし周囲に疑わせることであったそうです。

 

一方で,外部からの訪問者と話すときは好感を持たれるよう振る舞い,本性を全く相手に感じさせず仮面を被ることに長けていたようです。これも,人から疑われることを恐れていたためと思われます。

 

内部では,部下に対して常に粛清をちらつかせながら接し,外部からの訪問者に対しては実に気さく振る舞い,自らをイメージダウンさせるものはすべて隠蔽するという政策により「大粛清」の名のもとで沢山の人が虐殺されました。
 

なお,企業の不正などに関する内部告発は,ここで言う密告とは意味合いが違うはずです。

 

内部告発は,企業が隠蔽している不正などを白日の下にさらすことであって,不正とそれに関する隠蔽を正すことで公益的にも意義があります。スターリン政権における場合で例えるとソ連の現状を国外に告発することにあたると思います。逆に,スターリンが奨励した密告は民集が互いを疑い本当のことを言わなくなるために隠蔽を助長する効果があると思います。

 

もしかしたら,現在の日本においても閉鎖された社会においてこの手法はとられているかも知れません。

 

スターリンは飢餓状態を作りだしましたが,別の方法でも客観的視点を失わせれば良し悪しは別にして独裁的支配を敷くには十分に効果的ではないかと思います。

 

嘘と猜疑心は相乗的な関係だと思います。

そういう状況にまみれてしまった人々は非常に視界が狭くなっているので信じるというのはむしろまずいのではないかと思います。

 

ただ,巻き込まれてしまっても客観的な視点を忘れなければ閉鎖性は改善できるかも知れません。

ここのところ,暖かい日が続いています。

 

昨日は,東京ではなんと27℃を記録したとか。

 

これからの季節は寒暖の差が激しいようなのでお体には十分お気をつけください。

 

そういえば法隆寺観音菩薩像に似ているといわれた件でふと(眼鏡ってあまり印象に残らないのかな)と疑問に思いました。

 

私は,眼鏡なしでは生活に支障をきたすほど視力が弱いです。ですから,外出時はいつも眼鏡をかけています。最近では,眼鏡をかける人が多くなりましたが,人の容姿においてひとつの特徴といえると思います。

 

ですので,眼鏡を常にかけている私ですが,私を見ている人にとっては眼鏡をかけていない状態をイメージできているのかもしれません。

 

そういえば以前にテレビで,直前に会った眼鏡をかけている人の眼鏡をかけてない状態をイメージした人相書きを子供に書かせるとちゃんと目の特徴を捉えているという実験を見たことがありました。どうも,対面した相手については眼鏡よりもその奥の目の方に意識が向くようです。

 

また,他人のアクセサリーなどは意識してみない限り,意外と印象に残らないような気がします。

 

もしかしたら,意外と一箇所の装飾というのは努力に見合うほどの印象を残せていないかもしれません。

 

初対面の人と会っている時にその人がどういう人物かを知るためには素顔とか性格とか実態を探るのが普通でしょうから,やはり眼鏡の奥の目の方が気になるでしょうし,社交辞令の奥に隠された本当の性格の方が気になるのではないかと思います。

 

もし,腕時計とか靴とかに興味を示されたら何か思惑があるのかもしれません。

 

日本で生活するうえでは,身体のほとんど部分が衣服などにより隠されてしまっていますし,心の部分についても言いたいことをストレートにいえる機会って限られていると思います。

 

だから,他人を判別する要素は結構限られてしまっているので,その人の認識できる特徴の中で似た特徴を持った人を基準にカテゴライズしてその人を印象付けるという感じで判別しているような気がします。たとえば,人を見るに当たり自分の経験をフレームとした眼鏡で見ているようなものでフレームの外は見えないような感じです。私に関して言えば。

 

他の人もそうだとしたら,よっぽど身近な人でない限り他人の細かい特徴は意識しない限り認識していないだろうし,したとしてもすぐ忘れてしまうような気がします。

 

だから,人になじみやすいキャラクターを作ったりとかファッションの先端を追うこと自体はいいことだと思うのですが,やることなすこと他人の目に委ね過ぎると次第にどうすればいいのか分からなくなってしまうのではないかと思います。こういうのって,小手先の細かい部分でしかできないと思うので。

 

人の目というのは,ディティールよりも全体的な雰囲気の方が印象強く残っているように感じますが,その全体的な雰囲気というのが自分には実に見えにくいということもあります。

 

周囲の人に「オレって,どんな感じ?」と聞くのも気が引ける(普通の人は言わないと思う)ので,たまに自分で“自分はこんなことをするキャラクターではない”ということをやってみて人の反応を窺ってみると意外と自分の全体像というのが分かってくるかもしれません。まず,勇気が必要ですけど・・・

2年前の金曜日のことでした。

そのときまでは,今日と同じ良い天気だったことを覚えています。

 

大地が大きく揺さぶられて,海が荒れ果てて,人々は混乱し,天気が急変して空から雨粒が落ちてきていました。

 

一部の信号が止まり交通は混乱して,千葉の海の方からは断続的に爆音が轟いていました。

 

忘れたくても忘れられませんね。

 

そして,2年が経過してもいまだ問題は山積みです。

 

とにかく,東北地方の復興は急務ではないでしょうか。

 

 

人は鳥のように飛べません。だから,土地に根付いて生活しなければなりません。

 

その場所を失うということは,物理的なスペースはもとより暮らしそのもの,例えば,人のつながりとか仕事とか(workというよりjob やりがいとか生きがいとか)そういったものを一から積み上げていかなければならないと思います。

 

そうであれば,人々の生活の拠点としての整備をするべきではないでしょうか。

 

現在の復興の状況を,枝葉のレプリカが取り付けられた「奇跡の一本松」は何を思うでしょうか。

2013-03-07

本日,e-Taxとの長い戦いに終止符が打たれました。

 

手ごわい相手でしたが,なんとかやっつけてやりました。

 

凱旋気分ですっかり暗くなった外を歩くと少し湿り気を帯びた風が若干強く吹いていました。

 

ワイシャツ一枚で出歩くには若干寒く感じたものの午後8時の風が春を運んできたように感じました。

 

桜が咲く頃に夜桜を見ながらいっぱい引っ掛けたいものですな!

 

お酒を持ち寄ってギターなんか弾きながら歌でも歌ったら楽しいでしょうね。

 

歌うとしたら知っている人が多い有名な歌がいいですね。

 

それならばビートルズの「Hello Goodbye」などはいかがでしょか。

 

この曲は,歌詞が特徴的で冒頭から「君がイエスと言えば僕はノー 君がやめてと言えば 僕は行け行け行け」(和訳)と君と僕が全く反対のことを言ってかみ合いません。そして,oh no!と悲鳴を上げてしまいます。

 

実際の会話のなかでこんな風にかみ合わないと話を切り出した方はかなり疲れるのではないかと思います。

たとえば,自分が意見を述べているときにこんな感じで延々と受け応えられると,意見を述べている方は反論される理由を聞き出そうとするでしょうが,反論している方にとっては否定さえしておけば意見など聞く気がなくても意見を述べた方が自分のペースに勝手に乗ってくれるのでどっちが先に疲れるかは明白です。

 

 

実際に自分の言い分を押し通すことのみを考えている人がいたとしたら,その人にとっては意見する相手の話など聞かない方が自分にとって都合が良い訳で,言うことに耳を貸さずにひたすら脈絡の無い反論を繰り返して相手が根負けしてくれればその方が都合がいいはずです。

 

だから,どうしても話の通じない相手というのはいると思います。

 

まぁ,人のいる場で何か発言しておいた方が一目置かれることが多いですし,誰かが何か言うたびに噛みついておけば手ごわい相手だと周囲に恐れられて主張を通しやすくなるかもしれません。

 

結局,建前だけではなく実質的に同じ目的に向いていないと話し合いだけでは進展は難しいと思います。

 

なんか,目指すべき到達点を明確にしてそれに向けた実践的な手法を明示すべきで,そろそろイデオロギーばっかりというのもほどほどにした方がいいんじゃないかと思ってしまいます。

 

ところで,ビートルズとはだいぶそれてしまいましたね。

ここのところ徐々に寒さが和らいできています。

 

あちこちで梅の花が開花しているのを見かけるようになりました。

 

紅梅と白梅が青空の下相俟ってなんともいえない和風な情緒を漂わせていました。

 

木曜日から暖かくなるとの予報なのでなんだか早々に春が訪れたような気分になっています。

 

しかし,ニュースを見ると北海道で前例を見ないような吹雪となったそうで亡くなられた方もおられるとのことです。なんとも痛ましいことです。

 

関東の中でも暖かい千葉県で私がのんきなことを言っているときにすさまじい寒さに見舞われている地方があるというのは,ニュースなど見ない限りなかなか想像し難いものではあります。

 

同じ日本国内でもそうですから外国での生活環境というのは,口頭や映像だけでは伝わりきらないものがあるでしょう。

 

それでも,テレビなどで放映された機会に自分のできる限りの想像で思い起こしてみると意外と生活の中の不自由さにも喜びを見つけ出してその場所の暮らしに落ち着いているのではないかと思うことがあります。

 

そういう場所を見ていつも印象的なのは,幼い子供達でさえ生活における自分の役割を与えられていてそれを当然のこととして行いながら暮らしているような風景です。彼らの屈託のない笑顔には,自らが家族に頼られてそれに忠実に応えているという自負も含まれているのではないかと思います。

 

逆に不自由のない環境での共同生活の中では,それぞれが誰かに頼ることなく生活できてしまう結果,それぞれが自らの存在意義というのを薄く感じてしまうのかもしれません。

 

存在意義を感じるということは大事なことのようで,これを感じられないがためにうつになったり自分探しの旅に出たりするようですが,誰からも頼られず自分ひとり生きていても感じられるまでに達観するのはなかなか難しそうですね。

 

そういう意味でも,ひとりでは生きていくことはむずかしいと思いました。

 

だから,気候など環境による困難がありながらも,人々が寄り添って耐えしのぎながらその場所で暮らす自由を,困難の無い場所においては不自由と呼んでいるような,そんな気がします。

かつて,小学校の道徳の教科書に書いてあったもので今でもよく覚えているお話があります。

 それは,こんなあらすじでした。

 

『ある国の王女さまがお城でパーティーを催しました多くの貴族たちが列席している中,あるきっかけで招かれた一人の若者が招かれて参列していました。

そして,会食のとき,作法を知らない若者は,テーブルにあったフィンガーボールの水を飲んでしまいます。(ちなみに「フィンガーボール」 というのは、食事中に汚れた手を洗う水を入れたボール)

この若者の行為を貴族たちはひそひそと薄ら笑いしながら見ています。するとこの様子を見た王女さまは、何も言わずにフィンガーボールを飲み干してしまいました。』

 

というお話です。(たしか)

 

日本に住んでいると様々な国の料理を食べることができます。様々な料理を食べるのには(日本風にアレンジしてありつつも)様々な作法があるわけで,ちょっと,かしこまった会食などではやっぱり事前に作法は予習しておいた方が良いわけです。つまり,そのあたりも含めて「マナー」と言うことなんでしょう。

 

しかし,ある程度予習してきたとしても初めての場所です。緊張するでしょうし,想定外も有るでしょう。で,この若者の想定外はフィンガーボールだったのでしょう。

 

ただ,場面の空気を想定してみると,貴族達は列席の時点で見慣れない若者を(場違いな奴がいる)と目を付けていたような気がします。だから,会食の間さりげなくも若者に注目が集まっていたのでしょう。そして,ぎこちない若者の作法に対して蔑みの感情が有ったかも知れません。

 

そんなおりに若者は決定的な作法の間違いをしてしまったのでした。それを見ていた貴族達にとっては期待通りの出来事で(ほら!やっぱりやったよ!)という感じだったかも知れません。

 

食事のマナーというのは各家庭で様々でしょう。でも,高級な料理ではキッチリと統一されているのではないかと思います。人前で食事をするのであれば,見ている人達が不快にならない様に食事をしなければなりません。そのように不快にならない様な作法を統一したのがマナーではないかと思います。

 

そうであるならば,マナーを一生懸命勉強したけれど勉強不足で及ばなかった若者に対する嘲笑は,若者に対して不快な思いをさせる行為であってマナーの趣旨に反するのではないかと思うのです。

 

しかし,もしその場所に貴族として居合わせたとしたら若者に救いの手を差し伸べることができますか?

 

知識や経験など統一されたものを覚え込むことは仕事や生活の中で求められることであり大事なことですが,一方でそれが身についてない人への排他的意識が副作用として現れることがあります。これらは表裏一体ではなく心がけひとつで副作用を抑えることができるものだと私は思っています。

 

それでも,その時点で若者のフォローにまわったのは王女様だけでした。

物語としてみると一見してその他の貴族達が意地悪に見えますが,実際に貴族として居合わせていたら多くの人が他の貴族と同じように振る舞うのではないかなぁ・・・と思いますし,すこし抵抗があったとしても自らを正当化する言葉くらいは用意する人が多いのではないでしょうか。

 

だから,誰が悪いと言うよりは,その場に居合わせていながら物語の様な客観的な視点に切り替えると言うことが如何に難しいかと言うことで,逆にそれができるからこそ,位が高いであろう王女様自らがせっかくパーティーに来てくれた若者に不快な思いをさせず,かつ貴族達にいい雰囲気ではないことを気付かせるための方法をとっさに思いついたのではないかと思います。

 

王女様だけに周りに示し合わせる必要が薄い分心に余裕はあると思いますが,何よりも嘲笑の的となっている行為をしても,良心に従っている限り自らを貶めることはないとする気位の高さが子供時分に素敵だなぁと思いよく覚えている物語です。

 

 そして,席を外した後でこっそりとフィンガーボールの扱いについて教えてあげると次回また招待しても同じ失敗をしませんね。

 

 

ところで,王女様を女王様と読み替えるだけで,なんでこんなに違う感じがするのでしょうか。

2013-02-27

「息子がモテないのは、夫の責任です」

 

との見出しの記事をインターネットで見つけました。

 

また,記者がくだらない事を書いてネットユーザーにコケにされているのかな?と興味を持って見ると別の良い意味でとても興味深い記事でした。

 

簡単にまとめると,夫婦間に「ありがとう」などの挨拶がない家庭では子供にもそれが極端な形で伝播するということ,そして,その子供が「ありがとう」などの挨拶をせず無愛想に学校生活を送っていれば,女子だって面白くないし寄り付かないだろうと。

 

だいたい,そんな内容のことが書いてありました。興味があれば探してみてください。

 

インターネットに掲載されている記事でよく見るのは,「オレが正義だ!」と,言わんばかりに事実にはとても及ばないような推論を並べ連ねて独自の理論を展開しては(へぇっくしょん!!)人を批判ばかりするような人が,ネットユーザーから非難を浴びていたりしていますが,今回ご紹介したこういう,どんな人でも普段の心がけひとつで世界が開けてくるという感じの記事は読んでいて自分の為になりますし,気分がよくなりますね。

 

見出しは大げさで文字は専門用語ばかりで中身はスカスカの記事よりも,専門分野の知識を生かしてどんな人でも理解できるような心温まる記事の方が,毎日読むにはいいのですがなかなか・・・

 

やっぱり,多くの人の支持を集めるには,まず目立って威勢の良いことを吹聴するのが手っ取り早いでしょうし,それを読んで分かった振りしておけば周りに出遅れていないという実感が持てるでしょうから,書く方と読む方で相互の事情を原動力として情報を循環させておけば,次々と目新しい“独自の理論”が生まれてくるのでしょうね。読むためだけの。

 

でも,私は書き手の生活観も伺えるくらい書き手が読み手の目線まで下りてきているような記事の方が世間には大事だと思っていますし,その方が慣行しやすいのではないかと思います。

 

で,最後に「お前がいうな!」とちゃんと自ら突っ込んでおきます。

2013-02-26

人によっては見える人がいると聞きます。

 

私は,見たことないでです。

 

というか,本当に勘弁して欲しいです。

 

子供の頃は本当にダメでした。というか今もダメです。

 

昔話などでもかなりビビッていましたねぇ。

 

お盆に父親方の実家に帰省したとき布団のなかで父親が楽しそうに幽霊話を聞かせてくれました。

 

怖いもの見たさで耳を傾けるのですが,後遺症となり眠れなくなったりしていました。

 

なお,大人になってからは,実際にいるかいないかは置いておいて,人から持ちかけられた話は信じないことにしています。

 

非科学的なものは色々とお金儲けに利用されやすいですからね。

 

やっぱり,普段は「そんなものにだまされるわけない」と思っていてもずっと同じ精神状態でいられるとは限りません。心が弱る時だってあります。

 

そんなときでも,おいしい儲け話とか,非科学的な話とか,未来の予知だとか,誰かから持ちかけられてくるようなことがあっても断じて信じないと心に決めておけば,この手の話では足元をすくわれることはないと思います。

 

そもそも,自分達だけ助かろうとする発想がそもそも我欲満々といわざるを得ないし,先祖のたたりとか言われて信じるべきではありません。我々のご先祖はそんなたちの悪い人達ではありません。死んでしまった後に子孫を見守ることはあっても,祟ることなんて普通しないでしょう。

 

本当にいたとしても赤の他人に指摘される筋合いはありません。私の前に今まで出てきてくれてないのは,きっとそれが本望だからでしょうから。

 

自らの記憶にとどめている大切な人達に逢いたい気持ちを擬似的にでもかなえるというのは,心の置き所を作る上でも良いことかもしれませんが,そういう人たちを弄繰り回して不幸を予言したりするのはちょっと悪質で許しがいたいと思っています。

 

世の中にはそういう商売がありますので皆様お気をつけください。

 

ところで私の母は,父親(私の祖父にあたる)が亡くなった後にもに逢ったことがあると話していました。

 

そして,そういうことがあると信じているそうです。

 

昔からそういうことは語られていますし,別の国でも若干の違があれどそういう話はあるようです。

 

それは,どこかで見守っていて欲しいと願う私達の気持ちが生み出していると考えることもできますが,実際のところは分かりません。

 

でも,お別れをした後も旅立つ前に,お互いの気持ちが落ち着くときまで大切な人のそばにいたいと思うの心はあるのではないでしょうか。

お問合せ・ご相談はこちら

お電話でのお問合せ・ご相談はこちら
047-481-8991

営業時間:月~金 9時~17時

秘密厳守。  お気軽にご相談下さい
業務内容:不動産登記・商業登記・相続・遺言・抵当権抹消(住宅ローン完済)・成年後見業務・裁判事務・債務整理

対応エリア
千葉県全域

お気軽にお問合せください

お電話でのお問合せ

047-481-8991

<営業時間>
月~金 9時~17時

ごあいさつ

s-002_usami_0008.jpg
司 法 書 士 高 橋 岳

司法書士高橋岳事務所

住所

〒276-0033
千葉県八千代市
八千代台南一丁目4番3号2階

営業時間

月~金 9時~17時