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2012-09-07

大人になってから一年間が短く感じる理由は,子供の頃と比べて生きてきた時間と1年間の割合が変わっているからだとベンジーが教えてくれました。

 

2歳の子供にとって過ぎた1年間は生きた時間の2分の1であるのに対して,38歳にとっての過ぎた1年間は38分の1であるわけです。

 

なるほどなぁ・・・と。それでも,ゴールデンウィーク前や年の暮れあたりは一日一日が異様に長く感じます。

対して休みの期間や楽しいときの一日の短さは異様です。時計が狂ったかと思うほどです。

 

あと二日酔いの時とか,仕事が上手くいっているときとか時間の感じ方は,自分の感情とか体調とか大分変わるような気がします。

 

冒頭の話も2歳の子供にとっては見るもの聴くものすべて初めてで新鮮なものであることに対して,38歳にとっては既に知識があったり新しい情報にも予測がついたりするということでしょうか。

 

では,ミニトマト一つをそれぞれ二人に見せた場合どんな感想を持つのか。

「赤い実に青いへたがついていて触れると若干張りがあってでも強く持つと潰れて中から汁が・・・」という感想を持つか,単に「これはミニトマトだ」との感想を持つかでミニトマト一つを見る時間が違ってきます。

 

以前にミニトマトを見たことがあり,また知識があればミニトマトと認識できますが,実際には初めてお目見えする個体であるはずです。ミニトマトと呼ばれる物にも傷があるものや色づきが良いもの悪いものもある訳で一概に同じものといえないはずです。だから,単に「これはミニトマトだ」との感想を持つということは,初めて会う人を「これは人間だ」と思うようなものです。

 

もっともそうやって認識を簡略して共有化することで情報の流通をスムーズにできますし,そうしなければいけない理由もあると思いますが,個体一つに関心を失う理由にはならないはずです。

 

小さな事に気づいて感じ入り発見して楽しめれば時間の流れは変えられずとも老化は防げる(?)

 

先日亡くなった故スティーブジョブズ氏が『毎日,今日が人生最後の日かもしれない,と考えるとすれば,いつか,必ずその考えが正しい日が来る』という言葉を残したそうです。

 

私は,この言葉を“毎日密度の濃ゆ〜い一日を送ることを心がけよ”ということと理解しています。

 

『毎日,今日が人生最後の日かもしれない』という考えは真理だと思います。当然,一生の長さなんて不確かな物ですから。

 

ただ,なんかせっつかれているよう感じでちょっと居心地が悪いので自分流に“2歳児の気持ち”でと言い換えることとします。

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ブログを真面目に更新するようになってからというものかつての記憶を思い起こす機会が多くなりました。

 

自身の実体験から書くことを思いつくことも多くそのことに付随してあまり思い出したくないことも少なからず覗いてみることがあります。

 

良い思い出が残っていれば再びそれをやってみたくなったりその場所に行ってみたくなりますし,嫌な思い出にまつわる事にはあまりかかわりたくはありません。

 

良い思い出が多いかそうでないかで行動にも影響が出てくるようです。

 

そして,何故か嫌な記憶の方が良い思い出よりも心にへばりついてなかなか忘れられない感じがします。

 

過ぎてしまった事にもかかわらず嫌な記憶を引きずってしまうことで,鬱になってしまった人も何人か知っています。

 

切実な問題だと思います。

 

対策としては,趣味や仕事に没頭したりして何か違うことを考えることで嫌な記憶をとりあえず遠ざけて後は時間に委ねるというのが一般的だと思います。これだと記憶を上書きしたような感じであたかも臭いものに蓋をしたような感じがしますが,応急処置としてとりあえずこれくらいしか思いつきません。

 

そして,少し時間をおいてこうしてブログを書く時間を機会としてふとその記憶に触れてみるとまるで遠くから人のやりとりを眺めるような感覚で自分の本当の思いや人のことを考える余裕が少しだけ生まれてきます。

 

生きているとどうしても転んで傷ついてしまうことがあります。しかし,それでも歩みを止められないのが現代社会の悲しいところで,必死で傷を抱えながら歩き続けてその傷が次第に悪化してしまい取り返しの付かない事になることもあります。

 

今の社会全体の逼迫した雰囲気は本当にどうにかならないものかと思いますが,それはそれとして肩の力を少し緩めて過去の記憶に触れる機会は私の貴重な時間となっています。

2012-09-05

現在,大分あたりは暗くなりました。

 

季節のうつろいを感じます。

 

しかし,残暑は厳しいです。

 

まだまだ熱中症には注意が必要ですね。

 

ただ,外を歩くと空気が若干乾いてきた感じがしました。

 

空も高くなった気がします。

 

まだ,夏に未練の残る今日この頃です。

2012-09-04

新学期が始まり朝通勤する道がまた賑やかになりました。

 

久しぶりに友達と会えて笑顔の子供達の中,物憂げな表情のたまに子供もいます。

 

宿題できなかったのだろうか・・・

 

思い出せば,私が小学校の時は8月最後の週は宿題の追い込みというよりも覚悟を決める期間だったような気がします。

 

そんなんでよく大人になったなぁと自分ながらに思うわけですが,大人になったらそうも行かないのでキチッ(?)とやっています。

 

そういえば,夏休みの自由研究に雪の結晶をテーマにしたことがありました。涼しげで良いと思ったのですが・・・まぁおかしいですよね。

 

あと,家の中で線香を焚いて煙の方向を記録して室内の空気の対流を研究したことがありました。まだ,家にエアコンがなかった時代だったので我ながら目の付け所が面白いと思っていたのですが,あまりいい評価がもらえなかったのは,その他の算数など宿題を出さなかったことと関係あるのかなぁと当時は思っていました。

 

突飛な発想も突き詰めてみると意外な発見があるかも知れません。

 

子供の時はそれをできる時間があったんだよなぁ・・・

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2012-09-03

たまに「世論が政治を動かす」と言ったりします。

 

世論と言うと世間一般で大多数の賛同がある意見のことだと思いますが,議会制民主主義(間接民主主義)である場合には,誰かが世論を調査してそれに多くの議員が乗っかって・・・という大まかなプロセスがあるはずです。

 

で,巷で世論と言われていることが実際に大多数賛同のある意見であるかどうかということは調査の信頼性に係るところでつまるところ調査機関の信頼性とか独立性を検証しなければなりません。

 

そして,調査機関がどのように世論を調査するのか解りませんが,例えばアンケートなどで取った場合,世代,地域などの偏りや数や期間なども影響すると思います。

 

 しかし,アンケートを取られる方はどの情報を信じて自身の意見を表明するかは様々だと思います。

そして,現在では多様な情報ソースを入手できるため見解が分かれることは多く大多数意見とはなりにくいと思います。

 

ところで,情報の発信が限られていた江戸時代において世論が政治を動かしたというのが忠臣蔵の話ではないかと思います。私も今まであまり意識したことがありませんでしたが,つい最近のテレビで吉良側の立場を写した場面を見て(吉良さん,ちょっと気の毒だなぁ・・・)と思うことがありました。

 

しかし,「赤穂浪士=善,吉良=悪」というイメージを多くの人が違和感なく語り継いできました。この頃の世論は圧倒的に街のうわさ話だったと思いますが,要は,街のうわさ話としては,夜中の大立ち回りが画として面白ければ話が盛り上がってよかったのかも知れません。幕府がどこまで世論に流されたか解りませんが,結果,赤穂浪士の処分は軽くなったようです。切腹ですけど。

 

現在でも,他人のうわさ話や悪口はよく盛り上がるようですが,人づてに広まっていくにつれて尾ひれが付いてきたりと全く根拠を欠くことも多いと思います。といか噂話をしているときは真実追求など全く興味がないのではないかと・・・

 

そして,悪事千里を走るというように悪い話は伝わりやすい,要するにみんな好きです。そして,面白おかしく尾ひれが付けばそれが世論と言われるようになる・・・

 

それで政治が動いてしまうのなら真実の追求などなんの意味があるのか,と思ってしまいます。

 

しかし,例えば自分が冤罪事件の当事者となった場合をイメージしてみると,誰もが真実の追求に興味を失ってしまう事態は恐ろしい事だと感じます。

休業中ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。

 

昨日,千葉に戻ってきました。

 

かつて幼いときに通った道を歩いているときふと周りの景色を見回すと時の流れを感じました。緩やかで気づきにくいけどやっぱり時間は経過しているのですね。もちろん今このときも。

 

人の一生を儚いと表現することはありますが,物語の主人公のように一生を客観視することは人生の終わりのときに本人しかできないことであって,そう考えると人の一生というのはどんな人でも,また,長短にかかわらず濃厚でぎっしりと詰ったものだと思うのです。

 

ただ,自分自身が納得できるかどうかはまた別の話で生きることに意味を見いだすとしたらそういうことかも知れないなぁと思いました。

 

 

今週は,とてもドタバタした感じであっという間の金曜日となりました。

 

皆様におかれましては楽しい週末となりますよう願っております。

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私は,趣味が多い方だと思います。

 

楽器は2種類やっています。バンドも二つやっています。作曲・編曲・作詞もやります。

 

旅も大好きです。電車もいいし,天気がよければ自転車に乗りたくなります。お酒が飲めなくなるのであまりやりませんが,ドライブも嫌いではありません。

 

食べるのも飲むのも好きだし,時間が空いたら映画や落語やスポーツも・・・

 

という感じで趣味にお金と時間を一定程度使っています。

 

お金は労働の対価ですが,時間は自分で工夫して作り出さなくてはなりません。

 

その時間について,自分の仕事は比較的融通が利くのですが,いつも問題と思っていることの一つに長引く会議が挙げられます。

 

別に人の話を聞いたり,自分の意見を述べたりするのは嫌いではありません。

 

実際,講義や勉強会などに顔を出していますし,意見交換会などでは比較的意見をする方だと思います。

 

私にとって講義や勉強会は自己研鑽の場ですし,新しい発見ができるのが結構楽しかったりします。また,意見交換会なども日頃思っていることなどを発表することで自分の意見を反映させることができるかもしれないし,人に話を聞いてもらう事は嬉しいことです。

 

ですが,話し好き同士のプライドをかけた終わりのない討論合戦に時間を割くことはできないという方は私のほか多くおられるかと思います。

 

別に会議が無益なものだとは思いません。むしろ大事なことだと思っています。

しかし,やみくもに時間を費やしたことにより議題が煮詰まったかのような雰囲気になったものの結論として会議の目的だった当初の問題が不明確になってしまうようになってしまうことを感じることがあります。

 

会議は何かしらの問題(共有の情報から問題を顕在化させることも含め)があるから行うものだと思います。確認事項だけであればメーリングリストなどで行うことができますし。

 

ただ,会議自体で解決できる問題はあまりないと思います。会議で話した内容を実行して初めて問題が解決に向かうことが大概な訳で,話し合いだけで解決するのであれば会議という方法によらなくてもよい気がします。

 

つまり,会議の目的は問題の原因を顕在化させて解決方法を検討し実行方法を決定することだと思います。

 

 

まず,問題について原因を検討して共有しなくては根本的な解決には向きませんが,ここをすっ飛ばして解決方法の主張を始めることにより,会議の目的を見失った終わりのない討論合戦が起こるような印象があります。つまり話が噛み合わなくなるのです。

 

つぎに,解決方法(何も起こさないなど消極的な方法も含めて)を考えるにあたり人数の多い方が,多様性を持ちベストに近い方法を考え出せる可能性が高いと思います。

例えば,ブレインストーミングという自由奔放にアイデアを出し合い,出た意見に批判などをしないというルールを定めた会議の方法があります。この方法を会議に取り入れると多様な意見が出てくるため意見集約に時間がかかります。しかし,出てきた意見を整理する時間との区別があるため最終的には時間がかからないと思います。というか目的に沿った結論の出る会議になると思います。それは,ルールを設けることで会議の参加者が,今何をすべき時間であるかをそれぞれが認識して共有できるからです。

 

つぎに,出てきた意見の問題点を提起するなどしながら整理して実行方法を検討するのですが,結局,情報が錯綜するこの時代に問題点を完全に網羅できるわけがありませんし,前代未聞の出来事だって起こる可能性があるわけで,完璧な結論を会議という机上の話し合いで出すことは不可能だと思います。

 

 

 

では,なぜ会議を行う必要があるかというと,私が思うに会議の参加者全員で決めたという「建前」を作るということと,出した結論を(たとえ納得できないことがあっても)全員が「共有」するということに意義があるのだと思います。

 

この「建前」があれば,会議で話した結論通りに行かず,結果として責任問題となっても,代表者には代表者の責任の取り方があるにせよ,その他の会議の参加者についても各自責任を自覚すべきことになり,特定の人に集中して責任を負わせることにはならないはずですし,結論を「共有」することで一枚岩となるほか,各自の裁量の範囲を一定程度制限することでトラブルの範囲を狭めて起こり得るトラブルを想定し易くします。

 

だから,自分が「絶対正しい」と信じていることを会議で断固主張して押し通すことにメリットはなく,反対意見を聞く姿勢の方がそれぞれの参加者の意識として大事なわけです。共有することにも意義があるわけですから。

それに,「絶対正しい」のなら,反対意見をよく聞いた方が反対意見の問題点を指摘できるわけですし・・・

 

そこで,架空の話を例として考えてみます。

 

例えば,AとB二つの組織が開催する行事の日程が偶然重なってしまいました。二つの組織には共通の構成員が多くいて,Aの幹部もBに数名います。

 

これについてAからBに対して日程の変更を要請しました。理由は,行事の日程を重ねてしまうとBの行事にAの幹部及び参加者を取られてしまう。Bという組織はAの基盤の上に成り立っているからBはAの行事を優先する必要がある。よって,日程の変更を要請する・・・とのこと。

 

これに対してBからの反論。極力日程を重ねないように努力はしているが,行事の参加者の人数を最低限確保する必要がある。そのため綿密に日程調整をした結果決めた日程なので変更は無理。そもそもBの構成員の中にはAとは関係ない者も在籍しておりAから独立した組織である。

 

といった感じとします。

 

ここで,この問題についてAとBの構成員により会議を行った場合を考えてみます。

そこで例えば,行事の日程についてと両組織の関係を中心した事を議題としたとしましょう。この場合,果たして当初の問題を解決できるような結論はでるのでしょうか。

 

もし,私が議場にいたら両組織の行事への参加者増員の検討とA幹部の(行事参加者増員も含めた)意識の問題を提起してみるかな?まぁお前が言うなと言われそうですが・・・

 

 

でも,議事の進め方により,もしかしたら有意義な意見がたくさん出るかも知れません。

2012-08-24

建物が整然として立ち並ぶ都会の風景と木々が不規則に立ち並び季節により色合いを変える自然の風景どちらを美しいと感じますか。

 

都会の風景といっても日々仕事などで通っていて毎日見る風景については美しいという表現は当てはめにくいかも知れません。現に都会の喧噪を離れて田舎暮らしを始める方は少なからずいらっしゃると思います。

 

ところで,房総に麻綿原高原という紫陽花の名所があるのですが,このあたり一帯は山蛭が多く出る場所でもあります。紫陽花を見て美しいという方は多くおられるでしょうが,吸血動物の山蛭を見て美しいと思う方はあまりおられないと思います。

 

観光としては,紫陽花だけ見てもらい山蛭は見せたくないでしょうが,いずれも自然に近づいて見た場合の景観です。

 

 

書きかけですが,今日はここまでにします。

 

明日,明後日は松戸で千葉青司協茨城青司協合同研修会の予定です。

 

来週は,まだ分かりませんが数日休業するかもしれません。ご理解の程よろしくお願い申し上げます。

2012-08-23

暑い日が続きます。

 

熱中症にお気を付け下さい。

今日も暑かったです。

 

暑い夏を涼しく過ごす方法として思いつくのはかき氷とかプールとか怪談とかがあります。

 

怪談と言えば,日本三大怪談と呼ばれているのが「四谷怪談」「皿屋敷」「牡丹燈籠」の三つですが,ふと思ったのは,主人公(?)がいずれも女性ということです。しかもいずれも貞淑なイメージの方です。

こういう方を怒らせると怖いということを伝えたかったのか・・・

 

そして,ストーリーはいずれも因果応報といった感じですが,「牡丹燈籠」の新三郎さんだけ何も悪いことしていないのに亡くなってしまいます。これを怖い話と見るよりは報われない愛の行き着く先のような見方をするとドラマチックな感じがします。

 

まぁでも幽霊関係はあまり得意ではありません。

 

では,これから相談会に行ってきます。

2012-08-21

佐倉簡裁からの帰り道で轢かれた猫が路上に横たわっていました。

 

行きの時は見あたらなかったのでその間1時間足らずのうちに轢かれたのだと思います。

 

その道はカーブが多く,また非常に歩道が狭いため,車で通過するときに歩行者が歩道を歩いているとドキッとすることがあります。きっと歩く方はもっと怖いでしょう。

 

全国での自動車による死亡事故は毎年後を絶ちません。

 

なぜ,殺傷能力のある危ない物体をバンバン売りまくり,そして乗り回しているのか。そもそも,高速道路の法廷最高速度100㎞を遙かに超えた速度計が付いているのか。それに排気ガスなど環境にも問題があります。

 

とは言うものの私もドライバーです。車が乗れなくなったら困ります。

かつて,1年間ほど自転車で仕事していましたが,はっきり言ってきつかったです。そして,今の仕事量を自転車のみでこなすのは物理的に難しいです。

私と同じように自動車がないと生活や仕事に支障を来す方は大変多くおられると思います。

 

完全に車社会となった日本から車を無くすということは現実として難しい。つまり車は社会生活において(もちろん人によりけりですが社会全体として)必要性があるということです。

 

そこでふと「必要悪」という言葉を思い出しました。

 

私の知っている限りで「必要悪」とよくいわれているものにパチンコ産業や風俗産業などがあります。

 

これらは,実際に「必要悪」なのか。そもそも「必要悪」って何なのか。

 

それを検証するにはまず「悪」という概念が気になるところです。

 

これに関しては,そもそも玉虫色のようです。ひとつの出来事を考えるにしても考える人の立場によって異なると思います。

 

そう考えると「必要悪」って不思議な言葉ですね。「悪」の概念が人それぞれであればその行為の正当性(悪ではないこと)を主張すればよいわけです。

 

にもかかわらず,いったん「悪」とみなしておいて存在の必要性を付ける理由は何でしょうか。

 

存在といえば,人為的に存在するもの以外の事象,いわゆる自然において「必要悪」という言葉は当てはまるのでしょうか。例えば,自然災害とか生態系とか・・・

これにはそもそも「悪」という概念が当てはまりません。

 

つまり,人為的に存在するものについての当てはまる言葉であるはずです。

 

そうすると,いったい誰が「必要悪」と言い出したのでしょうか・・・

 

 

私には,「悪」という概念について法律など明文に掲げられた法規に反する行為からさらに広げて考えることができません。人のこと言う資格ありませんし・・・

 

ただ,思うことは「必要悪」というからには誰かしらに何らかの圧迫があるわけで,善悪と必要性だけ考えるのでなく,配慮すべきことがあるのではないかと思うのです。

 

 

 

そして,轢かれた猫のご冥福をお祈りいたします。

2012-08-20
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登り坂で自転車をこいでいるとき,不意に自分がスランプで悩んでいたときのことを思い出しました。

 

強くこがないと進まない。ゆっくりしか進まない。ふらつきながらしか進まない。

 

なるほど,進行方向にしっかりと向かっていればそういうこともあるのね。と・・・

 

でも,永遠に続く登り坂はあり得ないので必ず下り坂にたどり着けるはずです。

 

問題はちゃんと行き先を見据えているかどうかなのかもしれません。

お盆に戸籍を取りに渋谷区役所に行く途中の歩道の花壇にハイビスカスの花が咲いていました。

 

沖縄に行ったときはよく見たのですが,こちらではあまり見る機会がなかったためすぐに目につきました。

 

うだるような暑さの中,艶やかに咲き誇る姿は凛としてとても美しく何とも高温が似合う花だなぁと感心してしまいました。

 

実際には花の咲く時期は6月から10月と割と長いようです。

 

よく髪飾りにも使われる花です。なんでも,ハワイの女性付けるときは 未婚者は右、既婚者は左に付けるという決まりがあるそうです。日本の女性がつけてもなんともトロピカル(?)な雰囲気が好きです。夕暮れの浜辺というロケーションならなおさらです。

 

派手な色合いの反面,優しい雰囲気をもつ感じもします。

 

そういえば,ひめゆりの塔に咲くハイビスカスはどこか寂しげでした。

 

さて,思い出話もこのくらいにして明日の予定を立てなくては・・・

 

明日は,千葉司法書士会の研修担当のため朝早く出発しなければなりません。(土曜日というのにいつもとかわらず・・・)

 

そして,来週からダイエットを頑張ります。

暑いですな。

 

お盆は,千葉青司協と茨城青司協の合同研修会の下見で松戸まで行って参りました。あと,仕事の関係で東京の区役所や裁判所(お盆でも開いています。)を巡っていました。

 

暑さと相俟って蝉の大合唱が夏の情緒を盛り上げます。

 

暑いのは好きなので食欲も旺盛となり,お盆明けには美味しそうなブタちゃんになってしまいました。これからダイエットを実行するところです。

 

蝉と言えば,先々週行ってきた北軽井沢の方では蝉の鳴き声が聞こえません。そのことをコテージの主に話すと,何でも春にエゾハルゼミという種類の蝉が鳴くくらいで夏には蝉は鳴かないとのことです。やはり,気温の低さが影響しているのでは・・・と話していました。

 

蝉と言えば,地中7年,地上7日と言われるように長い時間を地中で暮らします。(実際には地上でも1ヶ月くらい生きている例はあるとのこと)

 

子供の頃にこの話を聞いて儚い命などと思ったりしたこともありました。なぜ,儚いと感じたのか。それは地中にいる期間を日の当たらない場所で過ごし誰にも見向きもされない,いわば潜伏期間のように考えていました。そして羽化して大空に羽ばたき,あたかも人生を謳歌しているかのように鳴続けられる期間が生きている中でホンの短い期間であると言うことに人間でいう一生を重ねて考えたためだと思います。

 

たしかに暑さも和らぐ頃に道に転がる蝉の死骸は,夏の終わりの寂しさもあって哀愁を感じます。

 

それでも毎年蝉は夏になるとして羽化して飛び回り大いに鳴きます。それは,人に見えるほんのひとときであって実際には,夏を過ぎても蝉の幼虫は人知れず地中で生活しているということになります。

 

人に見られる時間の方が少ないと言えば,先日オリンピックが閉幕しましたが,出場した選手においては競技時間よりも練習時間の方が圧倒的に長いはずです。

 

実は,人目に触れない時間の方が長いのは人間も同じなのかも知れません。

 

人それぞれに与えられた環境は違っていても与えられた時間は同じであるから,与えられた環境の受け止め方で人生の捉え方が変わってくると思います。長く日の目を見ない状況に置かれてもその時間を大切に使えば,チャンスが訪れたときに力になるはずですし,たとえチャンスが訪れなかったとしても過ごした時間に意味が生まれます。そして意味があるから次世代に伝えることができます。

 

与えられた環境を全うせずに人目に触れる場所だけを求めてもそこに意味が生まれません。

 

ここ最近の芸能関係は,タレントの「人目に触れていない時間」を軽んじているような気がして薄っぺらであまり感動することがありません。どうにかしてください。

2012-08-10

7月の苗場長期休暇と先週の嬬恋で夏のイベントは終わりました。

 

お盆は仕事がてら行くところがあるのですが,レジャー的なものはありません。

 

大人しくしている予定です。

 

時間があれば海に行ってみたいと思ってます。

 

それでは

初めて長崎を訪れたのは,4年前のランタンフェスティバルの日でした。因みに雨は降っていませんでした。

 

出張の目的が会議だったため,あまりゆっくり観光できませんでしたが,色々と楽しませていただきました。

 

着いてから,まず,ちゃんぽんで腹ごしらえをしました。

 

そして,会議が終わった夕暮れ時,ランタンフェスティバルで賑わう街を散策すると角煮まんじゅうなる食べ物を発見しました。肉まんの皮に角煮が入っていたのですがなかなか美味しかったです。

 

その後,飲み歩いて何軒目かのお店で一番美味しいちゃんぽんのお店を聞いたところ「リ○ガーハット」と答えたのにはコケました。

 

ホテルに戻って窓から夜景をみると山の上のほうまでほのかに明かりが灯りとても綺麗でした。

 

翌朝,有名店でカステラを購入して会議に出席して終了後そのまま帰路へ着きました。

 

せわしない旅でしたが,とても美しい町でした。

 

 

67年目となる長崎原爆の日が今年も訪れました。

 

すべての国地域が戦争の惨禍に見舞われぬよう願ってやみません。

2012-08-07
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私が,初めて嫉妬心を抱いたのは二人の弟だったと記憶しています。

 

勉強,スポーツ共に万能で周囲のバランス感覚に長けていた次男とやんちゃでわがままだけど誰からも好かれる三男に親からの愛情をすべて奪われるような気持ちになったこともあります。

 

それが原因でしばしば喧嘩も起きました。

 

しかし,嫉妬心が原因と気がついたのは,割と近年のことです。

 

当時は,これを嫉妬と認識しておらず,弟たちに原因があると思い込んでいました。

 

このように自分自身の感情や衝動が受け入れられないとき,これを抑圧して無意識下におき,意識的には他人のものと捉えることを心理学で「投影」と言うそうです。

 

 

これによって自分の嫉妬心に気付くことなく,また,プライドを守るために自分の嫉妬心を認めずに済むことになります。

 

自らの嫉妬を認めるということは嫉妬の相手に負けたことを認めることになるためこのような心理的回避を行うのだと思います。

 

女性の嫉妬も大変そうな感じがしますが,私の知っている限り男性の嫉妬は熾烈なものが多いです。

 

毎年「抱かれたい男ランキング」(こういうのもどうかと思いますが・・・)の上位に登場する某アイドルグループメンバーのかつての同級生から,その方が学生時代とても大変そうだったという話を聞いたことがあります。

 

また,知人に聞いた話ですが,自分には無い何らかの優れた才能があるとわかったら二度とそれができなくなるように 根回しまでして徹底的につぶしにかかってくる人がいるそうです。


 

しかし,根回しをするためにはその正当性が必要です。そこで,それぞれの心理に「投影」が生じるのだと思います。

 

女性よりプライドにこだわる分,「投影」が働きやすい男性の嫉妬の方が,愛憎もののドラマで描写される女性より熾烈な印象を受けます。

 

このように嫉妬により足を引っ張られて才能を存分に発揮できないこともあるかと思います。

 

この嫉妬について,落語家の立川談春師匠の著作「赤めだか」という本にて立川談志師匠の言葉があります。

 

本の引用になってしまうので詳しく書けませんが,人の足を引っ張る行為は自分のレベルまで下げてしまうとのことです。そして,それに同調してくれる人が多くいれば,現実を受入れるよりその方が楽ということです。

 

人を呪わば穴二つとは言いますが,やはり人を貶めることはすなわち自分を貶めることにもなりこれはよくありません。

 

人を貶める行為は道徳的な観点で問題であります。それに「投影」という心理を働かせて正当性という建前をつけて自らの嫉妬から目をそらすことは,いわばブレーキを外してしまうようなことでとても危ういことです。

 

マスコミが煽る公務員叩きなども,この心理が反映しているような気がします。

 

現状を打破する強いリーダーを求める!とか言っている割には,突出している人を片っ端からバッシングして引っ込めようとする風潮は明らかに矛盾していると思います。

 

本気で現状打破を願っているのであれば,嫉妬という心理により突出するものをバッシングする風潮は是正する必要があると考えます。

 

 

そしてなにより,人の批判をする前にその理由を,相手に対する自分の気持ちの部分まで掘り下げてみることが大事かもしれません。

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テーマ「突出」

2012-08-06

金曜日,私が成年後見人となっている被後見人(後見人に保護される方のこと)に面会に行く途中,車のキーのアクセサリーが鎖から取れて無くなっていることに気づき思い当たるところに片っ端から電話してみたところ車の点検をしていたディーラーにて発見しました。ちょうど先日,写真で撮ったばかりだったのでがっかりですが見つかってよかった。

 

今朝は,いつも始める掃き掃除の合間にラジオを掛けて1分間の黙祷をしました。

 

自在箒を持ちながら目を閉じて独り立ちつくす姿を人が見たらどう思うか・・・とは考えずに67年前の8時15分以前の人々の日常を思い浮かべました。

 

当時,私は生まれていませんでしたので実写のようなイメージはできません。

 

以前に読んだ「夕凪の街 桜の国」という漫画で描かれた情景が思い浮かびました。

 

目を開けるといつもと同じ日常が待っていました。

 

「いつもと同じ日常」これに倦むことも多々ありますが,当然にくると思っていたその時間が奪われた人々がたくさんいらっしゃったと思います。

 

そういえば,原爆が投下された当時のアメリカのトルーマン大統領の孫に当たる男性が、原爆を投下したB29爆撃機の乗組員の孫の男性とともに,広島市の平和記念式典に参列し,原爆の犠牲者に祈りをささげたそうです。

 

人によっては快く思っていない方もおられると思います。しかし,関心の有無は人と人の距離を保つ関係で大きいな影響を生むと思います。現在,兵器は人に触れずとも命を奪えるように進化しています。それは,命への関心を遠ざけているように思えます。そもそも,戦争は命への関心から起こるのではなく,利益等のために命への関心を捨てることから始まるのではないかと思います。

 

人はもともと優しくあるものだと思いますが,大切なことへの関心を捨てたときに変わってしまうのではないかと思っています。

 

 

自然に触れたり,音楽に触れたり,人の心に触れたり・・・

 

私は,そうすることで自らの感性を養って見えざるものに目線をあわせて聞こえざる声を聞き大切なことへの関心を失わぬようにしています

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2012-08-03

とても暑いので熱中症にはくれぐれもお気をつけください。

 

こまめに水分(アルコール×)を摂取することを忘れずに

 

では,来週

2012-07-31
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暑い中で規則正しく行列でならぶ方々を見ていると日本国民の規範意識の高さを再確認できたような気になります。
 

大変な震災の中でも行列をつくり秩序を守った被災者の方々が海外において高い評価を受けました。

 

国民の規範意識は,共通の目標をもったときに大いに力を発揮すると思います。

 

しかし,現在においては共通の目的に向かうための方法の部分で情報が錯綜していてどうすれば良くなるのか分からないというのが私の実感です。

 

様々な業界団体からの押し合いへし合いの主張がバランスを保っている状態は良いのですが,視点を少し遠ざけて自重とか遠慮とかそのあたりのバランス感覚もこれからは必要ではないかと思います。

 

それは,特に強い権力から行った方が効果も高く影響も大きくなると思います。

 

人を出し抜くことをせず,決められた順序に乗っ取り秩序を守る国民性は,ピンチの時こそ大いに発揮されると思いますが,切り抜ける方法を決める段階で,何か他を出し抜いて自分だけ生き残ろうとする強い権力が働いているように感じてなりません。

 

国民全員でピンチを切り抜けるには情報の錯綜を解決することが不可欠だと思います。

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司 法 書 士 高 橋 岳

司法書士高橋岳事務所

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