〒276-0033 千葉県八千代市八千代台南一丁目4番3号2階

お気軽にお問合せください

営業時間:月~金 9時~17時

卒業

2014-03-18

春一番ですねー。

 

だいぶ暖かくなってきましたし,梅の花が散り始めています。

 

そろそろ桜の開花時期が話題となる頃ですね。

 

桜といえば,出勤途中に制服を着た小学生と思しき少年達とすれ違いましたが,今日は卒業式だったのかもしれません。

 

卒業といえば,私にとっては懐かしい思い出ですが,人生で最後の卒業式を迎えた二十歳の後(私は2年制の専門学校卒)も,よく卒業という言葉を耳にします。

 

卒業して一体何を分かるというか,ということらしいのですが,比較的見通しの効かない人生を送ってきたワタクシとしては,それほど手放しに喜べるものでもなかった記憶があります。

 

もっとも,何度も言いますけど,就職氷河期とはいえ今よりはずっと将来の見通しは良かったと思います。

 

若い人達に輝かしい未来が訪れることを願ってやみません。(ついでにワタクシらも)

ルーツ

2014-03-17

戸籍不正取得でとある弁護士さんが懲戒処分を受けたようです。

 

なんでも,知人の研究者から依頼され,ノーベル賞作家・川端康成の親族の戸籍謄本や住民票の写しを不正に取得したとしたとか・・・

 

ちなみに,我々司法書士も同じく戸籍や住民票を請求する権限が与えられていて(職務上請求などと呼ばれています。)司法書士として適正な職務の範囲において依頼された業務に必要な戸籍や住民票を取得することができます。

 

しかし,あくまで職務の範囲ですので,むやみやたらに取得する事は許されていませんのです。芸能人の住民票や(実際に依頼があるそうです。)結婚する相手の戸籍請求などはもってのほかということなのです。

 

今回の事件も,研究者から頼まれたということで,研究のためということなのしょうけど,それは弁護士さんの職務の範疇を越えているということなのでしょう。

 

もちろん,川端さんのご親族から相続手続の依頼があったのであれば,相続手続きに必要な限りで取得する事は問題ありません。(もっとも,そのことを研究者に口外する事は守秘義務の関係でダメなのです。)

 

そして,戸籍からは様々な個人の情報が伺えるので,しっかりと管理される必要があるわけです。

 

そんなこんなで,(正当な職務の範囲内で)他人様の戸籍を見る機会が結構あるのですが,中には昭和20年ごろに幼くして亡くなっている方の記載を見かけたとき,その当時にその場所で空襲があったという記録と併せて想像を膨らませると,なんとも悲しい記録としての一面もあるのですね。

 

もし,興味がおありでかつ時間と費用(思いのほかかかりますよ)に余裕があるのであれば,自身のルーツを探るために家計図など作られてみるのも良いかもしれません。(家計図作成のみでは依頼としてお受けできませんため)

古い戸籍は取得から3ヶ月過ぎても相続手続きなどに使える場合が多いので,取っておいてもムダにはならないでしょうし。

 

ということで,これから豊田司法書士の事務所へ打ち合わせに行ってきます。

japanese lonely

2014-03-14

Jリーグの浦和レッズの試合で「JAPANESE ONLY」と書かれた横断幕が掲げられたことが大きな問題となっているようです。

 

これが原因で,レッズは,今月23日のホームゲームにおいて,観客を入れない「無観客試合」とする制裁処分を受けたとの事です。サポーターがやったことなのにチームが制裁を受けるのはちょっと気の毒な感じがします。

 

まぁ裁定の事に関しては後にして,問題となっている原因に関してはちょっと気になるところがありました。

 

スタジアムで,「JAPANESE ONLY」と書かれた横断幕が,(スタジアムのゲートで?)掲げられていたということで,ずいぶんと行儀の悪いことをするなぁとは思ったのですが,これは人種差別だと言われても「はい,そうですね!」と,ストレートには飲み込めなかったのですね。

 

それは,今回とは逆の立場を想定して,例えば私がどこか外国のプロリーグを観戦しスタジアムに行くと入り口に横断幕が掲げられていたとしましょう。

その横断幕に“日本人お断り”と書いてあれば,人種差別だと認識して怒りが湧いてくるでしょうけど,もし,“母国民のみ”と書いてあるとすれば,(ずいぶんと排他的な嫌な連中だ)と考え,同じ事を呟いている他国の方と意気投合して,飲みながら愚痴を肴に盛り上がることと思います。

 

まぁ,「JAPANESE ONLY」という言葉のニュアンスとして,英語の直訳では含まれない意味深な部分もあるでしょうから,英語に詳しい人とは捉え方が違うのかもしれません。

また,私と同様に多くの日本人は,人種の違いという意識が,外国の方々と比べて,それほど備わっていないということもあって,あまりピンとこないということもあるでしょう。

 

もっとも,ナチスのような根拠の無い民族至上主義が,ホロコーストという形で強烈な人種差別に行き着いたことを我々は歴史で学ばなければなりません。ですが,それでも,経過というものがあったでしょうから,民族至上主義と人種差別はイコールではないはずです。

つまりは,民族を意識すること自体が必ずしも差別へと繋がるわけではないのです。

 

ところで,人種差別のことを英語でracial discriminationと言うそうです。racialというのは,raceという人種や民族をあらわす単語が基のようです。そして,人種差別主義者をあらわすレイシストという言葉は,この単語が語源のようです。

そして,discriminationは,差別という意味の他,待遇という好意的な場合も含まれるそうです。区別とか識別という意味でも使われるそうなのです。

 

そう考えてみると不思議な感じがしませんか?

 

だって,人種差別を表現するのに”racial”と” discrimination”という二つの単語を使っている訳ですが,レイシストという人種差別主義者をあらわす言葉には,人種という意味という意味を表す”race”に人を表す”ist”が合わさっているだけで,肝心の「差別」を意味する言葉を含んでいないのです。

 

ですので,racistという言葉を文字通り受け止めると,人種主義者?という風に読めてしまいます。

そのことは,例えば,「我々は人種が違うから喧嘩するかもしれないので,キチッと住み分けて,お互い穏やかに過ごしましょうね」という民族を意識した発言をした人も,レイシスト呼ばわりされかねません。

 

こういった,言葉の使い方が原因で人々の差別意識が増長されているというのは考えすぎでしょうかね。

もっとも,私は英語ぜんぜんダメでして,これらもネット等で調べながら書いてる程で,他国様の言葉に口出しするのは大変おこがましいことでしょうけど,自分自身,無知なれど自然に考えてるという風に思っています。

 

そして,差別と言われるものには,人種によるもののほか,男女の違いなど様々な種類があると思います。

 

やっぱり,人種に限らず差別というものについて,日本国内ではあまりピンと来ない方も多くおられるでしょうけど,この度,阿呆政け・・・失礼っ!安倍政権が外国人労働者の受け入れを検討しているらしいので,その暁にはトラブル必至でしょうから,個人的に差別ということについて考えてみたいと思います。

 

まず,日本で言うところの「差別」という文言で,すぐ思い出すのが日本国憲法14条1項です。(じん・しん・せい・しゃ・もん・せい・けい・しゃって覚えるんです。)この条文は法の下の平等と呼ばれていますが,明文にこのたび検討しようとしている「差別」の意味が書いてありません。このままでは,大量の外国人が流入してくれば間違いなく混乱しますわなぁ・・・

 

どういうことかといえば,例えば,男子トイレと女子トイレは分けるのが当然と日本人の誰もが考えていますが,それは区分する理由が合理的であると誰もが思っているということだと思います。まずは合理的な理由があるかどうかが不当な差別の判断として非常に重大であるはずです。

しかし,文化の違う外国人には,その合理性が理解できない場合があるんじゃないかと・・・

 

そもそも,「差別」がなぜいけないか,という点においては,差別を受けた人の不快感というような主観的な要素と,社会的に及ぼす影響というような客観的な要素があると思います。

このあたりは,以前に沖縄に行った時に年配のタクシーの運転手さんから聞いた話を参考に考えてみたいと思います。

 

かつて,沖縄が日本に返還された当時,多くの沖縄の方が東京に出稼ぎに言ったそうで,その方も東京でタクシー運転手をしていたそうです。ですが,その当時,東京のある飲み屋さんでは“沖縄の人お断り”といった張り紙が張られていたそうです。

その理由は,飲めば誰とでも仲良くなるという沖縄の人の気質について,静かに飲みたいお客さんと相容れないため,ということだったそうです。

 

ちなみに,この話を聞いて思わず「酷いですねぇ」と運転手さんに語りかけたところ,確かに沖縄ではそういった気質はあるとのことで,運転手さんは,お店の立場を理解されていました。

 

で,この話を例題として,まず主観と客観いずれで問題を検討しますと,主観的にはやっぱり沖縄の人にとって良い気分はしないでしょう。客観的観点としては,例え民間経営の居酒屋でも,出身地で客を判断するというのは,地域ごとの分離を促す要因にもなりそうで国全体として問題とすべきことのようにも思えます。

 

ということで,合理性があるかどうかが判断の分かれ目だと思います。

 

まずは,どういったケースや場所なのかが問題だと思います。

例えば,風呂屋が肌の色で浴槽を分けるとしたら大問題なのでしょうけど,男女で分ける事に文句を言う人はいないでしょう。(いたらいたで結構なことなのですが)

 

このケースでは,居酒屋さんでして客商売でもあるわけです。

お店の規模までは聞きませんでしたが,小規模であることが話の内容から伝わってきます。

ちなみに,店主が店の客を選ぶ事は,法律の解釈では許されるところで,実際に京都の一見さんお断りに見るように,そういうことはありますし,それだけで法律に抵触するという事はありません。

考えてみれば,他人が自宅の敷居をまたぐことを許すのは家主であるのと同じ事で,客商売であるならば尚更客を選ばない方がいいという心理があるでしょうから実害があまりないのです。

 

そして,お店は商売のために店舗を構えているわけですから,店主には喜ばざる客を店舗に入れない権利を与える事は,経営の観点から必要なのです。

 

ということであれば,静かに飲みたいお客さんを大事にするということも経営の一環となりそうな気がします。

 

次に区別の種類といいますか,人種の違いとか性別の違いとか信条の違いなどのどのような違いによる区別か,ということですが,前の話では“静かに飲みたいお客さんを大事にする”観点でした。

そうすると,“静かに飲みたいお客さん”が楽しめなくなる要素を,お客さんの出身地で判断するというのはいかがでしょうか。

思うに,この観点からだと,出身地での判断というのが合理的だとは言えないでしょう。東京にだって鬱陶しい人はいますし,沖縄に静かな人もいるでしょうから。

これについては,ちと問題ありというのが私の見解です。

 

最後に,区別の方法ですが,門前に張り紙で“入店お断り”というのは,やり過ぎなのかどうかという判断です。

まず,門前というのは路上に面している(たぶん)わけですから,お客以外の通りがかりの人からも見えるわけで,つまりは公共の場に他県の風評を流しているようなもので,県民の評判と県民の心を傷つけることにもなるでしょう。

 

あと,飲食店であれば,禁煙席と喫煙席のように席を分けたりすることで,ある程度対応できる可能性も期待できるかもしれません。ただ,規模が小さいお店では限界もあるでしょう。

 

で,以上,これらを加味して個人的な見解を述べますと,お店の経営という観点であっても,公衆の場に張り紙をするという行為を正当化することが出来ないのに加えて,“静かに飲みたいお客さんを大事にする”という目的が,お客さんの地方を特定して入店させないという事に,合理的な根拠を与えていないように思えるので,差別という観点からOUT!だと考えます。

 

でもきっと,もっと多様な見方があると思いますし,違った意見もあるのでしょうけど,稚拙ながらもこうやって考えていると,やっぱり浦和レッズの横断幕事件はチームや犯人以外のサポーターの皆様にまで及ぶような処分の裁定には疑問符なんですよね。

 

いずれ,我が国にも阿呆政け・・・失礼っ!安倍政権によって外国人労働者を大量に受け入れることになるのでしょう。

だから,世界的な風潮だから・・・ってんじゃ無くて,日本国内において独自に差別という概念をガッチリと固めて国民に周知させないと,外国人からのクレームに大混乱してしまいますよ。

 

それにしても,阿呆政け・・・失礼っ!安倍政権はどうにかならんのですかね?

3月の雨

2014-03-13

最近,雨が降るとなんとなくホッとします。

 

今日は,朝から曇り空でこのあたりは昼くらいから降り始めました。

 

もちろん,天気予報で見越していたので傘の用意はバッチリです。

 

3月に入ってから,日中は暖かいと感じる日もぼちぼちですが,さすがにこの時期の雨は冷たく感じます。

 

明日まで降るようですよ。

 

お足元には十分お気を付けを。

相談会で思ったこと

2014-03-12

今日は,佐倉市役所の成年後見相談員として,9時から3時まで缶詰でした。

 

ちょっとした疲労感があります。

 

そして,ここ最近成年後見制度に関する相談はぼちぼち増えているように思います。

 

ここで,成年後見制度を簡単に説明いたしますと,民法の改正を根拠として平成12年から施行された比較的新しい制度でございます。

 

平成12年より前は,禁治産・準禁治産制度という成年後見と似た制度がありましたが,自己決定権の尊重や身上配慮といった,いわゆるノーマライゼーションと呼ばれる人権的な観点が必ずしも尊重されていなかったということで,批判のあるところだったようです。

 

また,準禁治産者には,単なる浪費者も含まれており,一律にそういう人の行為能力を制限してしまうことから,ちょっとやりすぎなんじゃないの?という批判があったそうです。(これに関しては,残しておいた方が良かったんじゃないかと思うことも多々ありますが・・・)

 

この禁治産・準禁治産制度は,明治時代に制定した制度だそうで,まぁ戦後の憲法には馴染まなくなるのはもっともな話です。

 

ですが,この制度が乱暴かどうかというと考えもので,我が家系の話なのですが,父親方の実家はかつて商売で大成功を収めて,見渡す限り高橋家の土地というくらいの土地持ちだったそうです。しかし,ある代の若旦那が米相場に入れ込んだおかげで,そのほとんどの土地を手放すことになったそうな・・・・

 

 

また,同じくその父親の実家に,私の父の母(つまり私のお婆さん,亡くなられましたが)が嫁いできたときには,家屋の離れに座敷牢があったそうなのです。つまりは,家から出さないように何方かが閉じ込められていたそうなのですが,詳細は跡継ぎの嫁にさえ明らかにされなかったとの事です。もっとも,戦後になって父親が生まれて物心付いたころには無かったそうです。

 

その若旦那が入っていたかどうかは分かりませんが,家制度であった当時は,財産管理というのは個人の問題だけでは済まなかったのでしょうね。

 

 

もっとも,今だったら,大変な騒ぎでしょうけど,昔はそういう文化だったのでしょう。良いとか悪いとかではなく。

でもさすがに,人を閉じ込めておくのはあんまりだし,財産処分の能力を取り上げてしまえば,家には悪い影響を及ぼさないだろうという考えから,明治になって禁治産・準禁治産制度というのが生まれたのではないかと推測できます。

 

ですが,戦後の現憲法における個人の尊重を鑑みると,どうもこの禁治産・準禁治産制度は具合が悪くなるわけです。個人を“意思”という観点から最大限尊重するとなると,逆に個人に課す制約は最小限ということにならざるを得ないわけです。

 

そういった観点から,「事理弁識能力」(民法上の概念)の程度によって“後見”“保佐”“補助”といった3形態により,最小限度の制約で財産管理や身の回りのことをフォローするというのが成年後見制度ということです。(私個人の見解です。)

 

ですが,私が相談において非常によく感じることは,その本人の意思を尊重するとされるノーマライゼーションが,果たしてご親族にとっても有意義であるか,という点です。

 

実際に,あまりに自由な挙動に,ご親族が手を焼いているというケースも少なからずありまして,相談においては,本人に対してむしろ強い制約を望まれるご親族もいらっしゃいます。

 

逆のケースでは,私が後見人となっているケースですが,(珍しく自分の仕事の話)法律行為はちょっと・・・といえどもお金の管理はかなりしっかりされている(むしろ私よりも?)被後見人もおられます。

プロ野球選手名鑑をひとつ買うにしても事務所にご連絡を頂くくらいで,そういった方においてはなるべく自由であって欲しいという願いも後見人の立場として感じるところではあります。

 

要は,“ノーマライゼーション”というのが,イデオロギー化されないことを私は願っているわけです。

 

法律の世界では非常によく感じることですが,どんなことでもイデオロギー(理由なく,なんとしても揺らぐことがない概念)として画一化してしまい,それを基本の考えとして実態を杓子定規に判断すれば,必ずといって良いほど理論は実態と乖離するはずです。

 

だから,反対意見が出ない世界はデンジャラスなのですね。

 

もっとも,実は画一化された概念については,非常に反対意見が出にくい世界でもあるわけです。

そうすると,国民審査が機能していない現状において,司法権は裁判官個人の良心のみによって運営されているということであれば,いかがなことかとも思うわけです。

 

まぁそれは良いとしても,成年後見制度について,便利なようでそれほど便利でないと感じるか,それとも非常に便利と感じるかは事案によりけりだと思います。

 

いずれにせよ,本人の財産を保護するというが,ご親族の負担を和らげることでもあるという観点は忘れてはならないことだと思っています。

3年

2014-03-11

あれから3年経ちました。

 

いい方向へ向かっているのでしょうか。

クレーム

2014-03-10

ご商売をやっておられる方ならどなたも神経をすり減らすというのがクレーム対応ではないかと思います。

 

それも,自覚がある場合であればともかく,自分にとっては満足できる結果を得られたにもかかわらず,クレームがあった場合などは,かなり心が揺らぐことと思います。

 

今の仕事はそうでもないのですが,サービス業やっていたころは,ほんっっっとうに大変でした。

また,どんなに理不尽なクレームといえども絶対に口答えしないよう指導されていまして,とにかく話を聞いてただひたすら謝り続けるというのがセオリーでした。それでも,中には「口では謝っているけど,心から謝ってない!!」といって更に怒りを増幅される方もおられて,(では,一体何をすれば・・・)と思うことも多々ありました。

 

ただ,もちろん不当な金品の要求には応じないというのもセオリーでして,そこは謝りながらきっぱりとお断りするしかありません。中にはそういったガラの悪いお客さんもおられましたが,手を出された事はありませんでしたねぇ。

 

そういった経験があるだけに,私はクレームをつけることが非常に苦手です。特にここ最近は不景気の影響による人件費削減対策なのか,飲食店において従業員が少なく注文が頼みにくいと感じることや,注文してもなかなか提供されないと感じることが,10年くらい前と比べて非常に多いのですが,働いている方々にかつての(今でもそうですが)自分の姿を見てしまうとなかなか言えないんですねぇ・・・・

 

もっとも,お店側が注文を間違えていたり忘れていたりすることもあるので,やはり自分から要求しなければ,自分の正当な要求を実現することが出来ないということも,サービスを受ける側の立場であってもあるわけです。

 

ちなみに,我々日本人が“苦情”という意味で認識している「クレーム」という言葉は,英語で言う「claim」からきていると思われますが,この「claim」を和訳すると単に「要求」という意味を表すそうで,例えば,空港の手荷物受取所のことをbaggage claimというそうで,元々自分の所有物であるものを自分の手元に戻す,といったニュアンスで使われているようです。(フランス語で「クリーム」を意味する言葉は“crème”(クレーム))

 

なお,日本語で言う苦情という意味は「complaint」という英単語で表現するそうで,この単語は民事訴訟の提起などにも使われるとのことです。

 

それにしても,なぜ“苦情”という言葉を表すために,本来の意味に近い英単語を使わずに,「claim」という要求を表す単語を使ったのでしょう。日本語においても苦情と要求という言葉は区別されていますから,意味の分類が出来なかったという話ではなさそうです。

 

一応,サービス業を経験したことを踏まえて考えると,“苦情”を「claim」と言い換えたのは,おそらくサービスを提供する企業側,つまりクレームを受ける側からではないかと推測します。

というのも,苦情を言う立場の利用者側があえて「claim」と言い換える事は,日本人の言語感覚からするとちょっと解りにくくなる気がします。

 

例えば,店舗が忙しくウェイターの手がなかなか空かないために,注文をするために呼んでもなかなか席に来てもらえなかったということをお店側に訴えることを「これは苦情ではなく要求だ!」と言ったりはしない気がします。

 

別のケースで,例えば,料理の汁をこぼしてお客さんの衣服を汚してしまったときなどでも,即賠償の要求というよりは,まずは苦情をお客さん側から先に苦情を申し立てて,お店側からクリーニング代など賠償の話と金額の提示がされるというのが,日本では自然な流れだと思います。

 

ということで,利用者側からの言い換えではないと考えた方が自然だと思います。

 

そうすると,お店側が何を思ってこのような言いかえをしたのか,ということを考えてみると,すぐに思いつくのは,チェーン店などで会社の上層から末端従業員達に対して,「お客様のご意見は会社にとって大事な情報だから,これを苦情と呼ばずに要求を表す「claim」と呼ぶように!!」とのお達しが他の会社にも普及した,という単純な話ではないかと思います。

 

要は,利用者の要求を一応受け止める体制を構築している,という風に見える様に,お客様のご意見は決して苦情と受け止めてはならないという精神を各従業員に叩き込むという発想なんじゃないかなぁ〜と思うわけです。

 

でも,結局一般に「クレーム」という言葉が苦情という意味で認知されてしまった昨今では,苦情を申し立てるお客さんに向かって「クレームを承りましょう。」などと言ったら火に油を注ぐようなものでしょう。

 

結局,言葉の言い換えって,言い換えた言葉が周知される頃には,言い換えた目的がすでに失われていたりするんですね。

 

そういえば,若い頃にお店を活性化させるというお題目の会議において,お客さんにアンケートをとって意見をお店に反映させる,という旨の意見を申したところ,先輩に「アンケートなんて自信の無い店がやることだ!」と叱られた事がありました。

 

いまだと,「何様なんだ!この店は!」という風にHPが炎上しそうな話ですが,今のお客に平身低頭という風潮から見ると,従業員が気概を持っていたということも伺えると思うのです。

 

そもそも,一般人たるお客の意見を聞くという姿勢もそれはそれで必要なことかもしれませんが,やはりプロフェッショナルたる者,お客さんの想像もつかないような技で感動を与えることを目指すべきでしょう。

それは,お客さん目線というよりは,お客さんの心を想定したプロの目といったところでしょう。

 

逆に,お客さん目線を掲げるという意味は,お客を寄せるための効果を狙っているというお店側の目論見があると思われます。なぜなら,お客にとって自身の思ったとおりの結果って案外面白くないですから。利用者にとってそれなりの対価を払うということは,自分の想像を超えた「スゲー!!」という感動によって,また来たいと感じることだと思うのです。

つまり,それなりの対価を支払わせ続ける為には,入り口においての宣伝効果ではなく,あくまで出口での印象であるはずです。

 

そう考えると,昨今で問題になっているデフレもお金の供給量だけの問題だけでは解決しないように思えるのです。

 

私は,経済には疎いのですが,ニワトリタマゴの話ではないですが,売り手が買い手に媚びているのか,それとも買い手が媚びない売り手を拒否しているのか,いずれにしても,売り手側に利用者目線の決定版であるロープライスで顧客を惹こうという考えが蔓延して,また,買い手側にとって,そういった流れに従っていないのであれば利用しないという社会全体の雰囲気が抜けきらなければ,デフレからはなかなか抜け出せないように思えるのです。

 

そういえば,あるテレビ番組(テレ東土曜9時の番組)で,「浅草の客は文句を言うけど、また食べに来る。銀座の客は文句を言うけど、2度と食べに来ない。」という風な表現で,下町である浅草は,お客さん(というか街)が店を育てるといった意味の発言を聞いたことがありました。

 

なるほど,古くから人が定住する街なら,自分の街に良い店が出来て欲しいと思うでしょうから,苦情をアドバイスとしてとることもできるでしょう。もっとも,それで何か要求されるわけでもないでしょうから,苦情はやっぱり苦情だと思いますが・・・

Teen Spirit

2014-03-07

昨日は,館山方面から一般道で帰ってきたのですが,五井のインターを通りかかるとき,事故により館山道が通行止めされているとの情報を受けました。

 

ああぁ・・・ラッキーだったなぁと。

 

ところで,柏の通り魔が逮捕されましたね。

2ちゃんなどでも,このことを面白おかしく語られていますが,この事件により亡くなられた方もおられるのでふざけ過ぎはいかがかと思います。

 

それにしても,若い世代がおこす物騒な事件のニュースが,特にここ最近頻繁に報道されているように思います。

今の若い世代の人達は経済的には大変恵まれていない世代でしょうし,そのことで,大人が右往左往している姿を見て育っているせいか,物事に対して非常にシビアというか,悪い言い方かもしれませんが,我々の世代と比べると冷めている感じがします。(私の主観です。)

 

逆に我々より一回り上くらいの世代の人達は,経済的に非常に恵まれた時代を若いときに経験しているせいなのか,「やればナントカなる」的な発想が非常に目立つ気がします。

 

就職氷河期世代の我々のメンタリティは,ちょうど中間くらいなのですかね。

 

で,まだ若い頃には散々もてはやされた個性という概念(とりわけ教育について)は,今それほど取り上げられないばかりか,むしろ過ぎるくらいに画一的になっている気がします。

 

たとえば,ヒップホップダンスが体育の授業で取り入れられたということの意味は,そもそも個性的な音楽(ダンスの事は分からないのですが)であるヒップホップを,授業に取り入れることで画一的なものとして児童に教え込むわけです。

 

これが,ヒップホップの普及となればいいのですが,私がヒップホップ愛好家であれば正直嬉しく思わないでしょう。

 

というのも,個性という言葉が非常に染み渡った我々の世代にとっては,流行りすぎてしまったコンテンツを継続して愛好するというのは,あまりカッコよろしくないとされていたのですね。

 

だから,服でも音楽にしても,自分で見合ったものを未だ流行っていないものから見繕って,流行ってきたらまた別のものを探すということを多くの人がやっていて,だから,今と比べて流行り廃りが非常に激しかったのです。

 

それと関係するのか,私が若かりし頃,ニルバーナという世界的な成功を収めたアメリカのグランジ(すっごい暗いロック)バンドがあったのですが,そのニルバーナに在籍していたカート・コバーンという人が,成功を収めた自分の立場に耐え切れずに自殺を図るという事件が起こりました。

 

遺書の内容が現在でもネットにも残っているようですが,なんというかこの事件は,時代の流行を象徴しているというか,すくなくともニルバーナの成功とその後の事件は当時の若者のメンタリティに非常に馴染んだと個人的には思っています。

 

こういった個性的なカルチャーというのは,その時代の若者の心を読み取る上で非常に示唆に富んでいると私は考えていて,70年代後半の「あ〜い・あむあ〜・あんちくらいすっ!!」の人達も何かしら鬱屈されていた当時の若者たちの心を映し出しているのだと思っています。

 

でも,当時は,今と比べると比較的失敗が許されると言いつつも,それはそれで違った窮屈さを感じていました。人それぞれ違っていいといったような具合で個性を尊重すれば,それはそれで組織的な拘束を強く求められていた様にも思えます。

 

だから,当時一匹狼という言葉がありましたが,それは独りでも世間を生き抜くことができるということを,カッコいいこととして形容していたのだと思います。

 

今の若者は,独りだと「ぼっち」と揶揄されて,お弁当もトイレで食べるほど(人それぞれでしょうけど)追い詰められてしまうようです。

 

時代は変わったなぁ・・・と思いつつも,それは画一された全体の価値観に自分を馴染ませることが出来ないという,いわば自らの個性を抑え付けなければ全体に溶け込むことが出来ないという,我々世代とは逆の現象が起きているのかな,と感じます。

 

例えば,アパレルで言えば,ユニ●●が長くトップシェアを続けている事は,我々の世代からしてみれば非常に驚くべきとで,ただ単に価格が安いというだけの理由ではないと思うのです。

 

そういう時代で世間に馴染むためには,個性を抑えるために自らの価値観を世間に合わせるでしょうから,流行は一点に集中し,そのため流行らないカルチャーは非常に残りにくくなるでしょう。

 

そして,そのことは,ますます価値観を一点に集中させると思います。

 

そうやって誰もが,本当に好きなことを抑圧して全体に合わせた結果起こることといえば,自己主張という形での個性の暴発じゃないのかと思います。

 

しかも,かなり歪な形で・・・

探し物

2014-03-06

出てくる前に鍵が見つからずにかなり慌てました。

 

間違いなく自宅内のどこかにあるはずなのですが,どこを探しても見当たらない。

 

慌てだすと,本来であれば有り得ないような場所まで探して,ただ時間だけが過ぎていきました。

 

結局のところ,いつも置いてある定位置にしまってあったのです。

 

もうちょっと確認すればよかったのか,それとも小人が隠したのか真相は分かりません。

 

ですが,本来あるべき場所と思っていたところにそれが無かったときの慌てようと言いますか,もうちょっと丁寧に確認していれば気がついていたものを,それをしなかったが為の混乱と迷走というのは,我ながら感心してしまいました。

 

ああでもない,こうでもない,と錯綜している問題というのは,実は当たり前のことを当たり前に続けていれば,簡単に解決できたのかもしれないのに,それをしなかったが為にありもしない場所を延々と探し続けている,ということなのかもしれません。

 

そういう意味でも,基本に立ち戻るというのは大事なことなのかもしれません。

 

まぁ,時間だけ無駄にしたと思える朝方のドタバタからも,せっかくなので何かしら教訓を得ようと考えると,意外と世の中というのは関心事が多いことに気がつきます。

 

というわけで,これから出発しますよ!!

戦いが終わった・・・

2014-03-05

確定申告を済ませました。

 

心も身体もぼろぼろです。

 

昨年に続きイータックス使ったのですが,もしかしたら紙申請のほうがスムーズだったかも・・・

 

まぁひとまず,戦いは終わりました。

 

明日は,房総に出張の予定です。

 

時間があれば事務所に戻ろうと思っています。

復活

2014-03-04

腰の調子がだいぶよくなりました。

 

今朝の寝起きは,数日ぶりに痛み無く立ち上がれたことに少しばかり感動しました。

 

それでも,今晩も寝るときにはちょっと怖さを覚えると思います。

 

それにしても,椎間板ヘルニアとはずいぶん長い付き合いでして,これのおかげで出来ない仕事はありますし,もし発症ていしなかったら間違いなく今とは違う職についていたと思います。それが良かったかどうかは分からないわけですけど。

 

若い頃に,水の入った寸胴を持ち上げたタイミングにグキッとやって,その日は何とかなったものの翌朝立ち上がれなくなくなっており,仕事を2週間くらい休ませてもらったこともありました。

職場には,大変な迷惑をかけたと思いますし,寝ていても痛みがつらくこのまま一生痛み続けるのではないかとさえ思われ,(なんで,自分だけこんな目に・・・)と思ったこともありました。

もっとも,視野を広げてみれば色々な事情を抱えた方はいる訳で,むしろ順風満帆の人の方が少ないのかもしれませんね。

 

もっとも,そういった事情というのはどうしても主観的にのみ捉えがちです。思いつめすぎてしまうこともあるでしょう。

 

なんといいますか,主観から周りを見渡すと不平等だと思うことだらけなのに,視点を遠ざけて視野を広げると意外と多くの人が同じ悩みを抱えていたりするものじゃないかと思います。

 

だけど,そういう切り替えはなかなか難しいことなのかもしれません。

生活保護の問題

2014-03-03

2012年度の生活保護費の不正受給は全国で4万1909件,金額では190億5372万円に上り,ともに過去最悪だったとのことです。

 

なんでも,福祉事務所が受給者の収入を調査する態勢を強化した結果,不正受給の把握増加につながったとのことで,そうであると,もしかしたら調査体制を強化する以前から慢性的にこのような不正受給があったという可能性も否定できなくなります。

 

なお,昨年末に改正生活保護法が成立しましたが,同法では増加傾向にある不正受給の対策強化策が盛られているようです。また,今年7月からは福祉事務所の調査権限が拡大されるとのことです。

 

また,佐賀県では,生活保護費の段階的な引き下げに対して「憲法で保障された最低限度の生活ができなくなる」として,引き下げの取り消しを求める訴えが起されたとのことです。

 

生活保護といえば,ちょっと前に芸能人がらみのニュースが話題になったこともありましたが,景気が悪くなってからというもの度々,その運営の実態が世間を騒がせています。

 

もっとも,平成18年から19年ごろにかけて,生活保護の申立を断られ,また,受給を打ち切られたために餓死されたという悲しい事件も数件ほど報道されておりまして,果たして市役所の窓口ではどのような対応がなされているのか疑問をお持ちの方も多いかと思います。

 

なお,生活保護受給世帯数の推移は,リーマンショック以降なんと40万も増えているそうで,つまりは不景気によって受給者が大きく増加したということでしょう。そのことは,就労機会を失ってしまった方々が生活保護になだれ込んだという実態が伺えます。

 

なぜなら,不景気だからといって,それが原因で急に病気で働けなくなる人が激増するという事はないでしょうから。

 

一応そういう話を前置きしつつ市役所の窓口のお話ですが,私は仕事上(もちろんプライベートはないです)生活保護担当の窓口に携わることがたまにあります。というのも,生活保護を受給する前に,まず借金の整理をして欲しいと断られた方が当事務所に相談に来ることがたまにあります。これは,受給者の生活費として支払われた公金が,民間の債権者への返済(利益)に回ることが問題だからです。

 

また,まだ経験は無いのですが,成年後見の業務においても市役所の生活相談窓口とのかかわりが今後でてくるかもしれません。

 

まぁ,そういった事情で,時おり関わることがあるのですが,持ち金が何千円で年金も月3万円くらいの足の悪い高齢者の方が相談に来たとき(一応フィクションということで)などは,さすがに私も市役所の申請に立ち会います。別にお金が貰える訳ではありませんが,単純に事故が起こることを避けるためです。

 

大抵そういった方は既に窓口に相談に行っており,難癖付けられて追い返されているのですが,同行すると最初に相談したときと比べて態度が豹変するそうです。

なんというか,さすがにこの人の申請は受理すべきだろぉと思う人が申請を受け付けられない反面,よくこの人の申請が受理されたなぁと思う場合もあります。

 

自治体によって窓口の対応がかなりマチマチというのが印象です。もしかしたら,担当者レベルでマチマチなのかもしれません。

 

また,受給額も,物価の問題以上に地域によって差が出るようです。

生活保護費は4分の1は自治体の財政から捻出ということなので,やはり,地方に行けば行くほど窓口で断られることが多くなり,受給額も少なくなりがちです。

 

ちなみに,ネットなどで噂される外国人の受給の問題についてですが,詳細は私も解らないもののあながち間違いでもないというのが印象です。というのも,市役所の生活相談窓口にはそれほど頻繁に行くわけでもないのですが,結構な確立で片言の日本語を聞いたことがありました。もっとも,片言の日本語だからこそ気付いたものの,流暢に話していたならば気がつかないでしょうし,実態は一体どうなっているのでしょうね。

 

ですが,月の1日(受給日)に,相談窓口が多くの人でごった返しているのを目撃しますと,このようなニュースにはそれほど驚く事はないと共に,納税者であれば様々な意味での事態の深刻さを感じることと思います。(私から多くを語ることは差し控えますが・・・)

 

また,以前から課題となっていた最低賃金と生活保護受給額とが逆転しているという問題も,不景気になってから話題となったものです。一応,多くの地域で解消したというものの,それでも未だ大きな差がないということで不公平感を感じる人も少なくないように思います。

 

それは,ここ数年における労働賃金の低下もあるでしょうし,ましてや逆進性のある消費税を増税してそれを社会保障費に充てるとなると,そりゃ不満も出てくることでしょう。

ちなみに,ご存知かもしれませんが,4月からの消費増税にあわせて,生活保護費を2.9%引き上げることが決まっています。

 

確かに,物価が上がればその分保護費も上げる必要が出てくるのでしょうけど,コレ,消費税増税後の実質賃金(名目賃金と生活物資の物価水準との間係を表す賃金)の低下との関係で説明が付くのかなぁと疑問に思います。

 

そもそも,社会保障の考え方自体が,ここ最近かなり揺らいできているように思います。

 

これまで運営してきた国民皆保険制度や国民年金などは,能力がある人が多く負担して社会保障を担う応能負担の発想によるものでしょうけど,ここ最近では最終的にもらえる額が少なくなるということで支払わない人が増えているそうです。

 

それは,世の中の社会保障の考え方自体が変わって来てしまっているのかも知れません。

 

つまり,社会から滑り落ちないように社会全体で支えあおう,という考えからから,社会から滑り落ちた人に対して最低限の受け皿を用意すればよい,という考えに変わってきてしまっているのではないかと考えるのです。

 

もちろん,どちらも必要なのでしょうけど,塩梅として皆で支え合うという考えに重きを置いた方が不公平感が解消されるでしょうし,人間らしくもあるというように思います。

実際に,少なくとも私が係わった生活保護の方(特に年配の方)は,多少身体が不自由であっても何かしら働く機会を提供すれば,自ら進んで働きだす方が多かったですし,働き出すと非常に表情が明るくなるように思います。

 

だから,改正生活保護法で就労を支援するのはもちろん良いのですが,給付によるインセンティブを促すよりも国家が率先して労働の場を創出することが非常に大事だと考えます。人間は,動いた方が消費する事も多くなるわけで,そうやって働いて得た賃金を消費する事で所得の相乗効果も生まれることでしょうから,その方がむしろ経済効果にもいい影響でしょうし,なにより健康的だと思います。

 

ところが,左翼的な博愛精神や,新自由主義的な発想だと滑り落ちた人の受け皿を用意してさえおけば良い,という考えに陥りがちのように思えます。

いずれの考えも強い個人主義を導き出すでしょうから,皆で支え合うなどまっぴらごめんということになるのかも知れません。

 

それにしても,このことひとつとっても,現政府は非常に方向性が不明確というか,アンバランスな感じがしますねぇ・・・

腰の具合はなんとか

2014-02-28

ビートたけしさんの子供の頃の逸話で,菊次郎さん(たけしさんのお父さん)が,たけしさんのお姉さんが大事に育てていた鶏(ピーちゃん)を鶏鍋にしてしまった,というものがあります。

お姉さんは,そのことを知って泣き崩れたものの,鶏鍋が出来上がると食卓について泣きながらおかわりまでした,というお話です。

 

私は,この話が大好きで,思い出すたびに笑いをこらえきれなくなってしまいます。それは,単純に可笑しいというだけではなく,人間として生まれてきたのであれば背を向けることが出来ない残酷さを,なんとなく悲哀として受け止めることが出来るからです。

 

そして,私の子供の頃の体験ですが,母親方の実家が乳牛をやっていて牛舎に牛が沢山飼われていました。ほかにもニワトリや犬やガチョウなどが飼われていて,遊びに行けば沢山の動物達と触れ合うことができることができました。

 

ちなみに,乳牛は乳が出なくなってしまうと,食肉用として出荷されるそうです。ですので,基本牛舎で飼われている牛達はその生涯を牛舎で終える事はありません。食肉として問題が無い限り,屠殺される運命というわけです。

 

それでも,同じ場所で生涯を終えるであろう,犬やニワトリやガチョウと同じように大切に飼われていました。

 

私は,子供の頃に牛のお産にも立ち会ったことがありまして,その神秘に子供ながら衝撃を受けた経験があります。しかし,その牛も大きくなれば結果的には人間の食料として殺してしまうという事なのです。

そして,それらは大好きなカレーや牛丼となって食卓に置かれて,それを食することで我々人間は生き永らえるという,子供にとってはあまりに理不尽と感じるこの世の仕組みについて一生懸命自分の中で消化しようとして考えました。

 

そのとき思い出すのは,黒くてつぶらで大きく優しそうな瞳なんですよ。

 

当時,「なぜ,人を殺してはいけないのか?」という質問に多くの大人が戸惑うくらいの,自由で混沌とした時代ですから,とにかく自分で考えるしかありませんでした。インターネットも無かったですし。

 

そして,自分自身,動物が大好きでしたし,一般にも動物を大事にしなければいけないと言われている一方で,それを殺して美味しい料理となって食卓に上がり,それ食べることで自らの栄養となり生きる源となるという,自分の存在を否定的に考えざるを得ない大問題に子供ながら(だからこそ?)ぶつかるわけです。

 

では,野菜だけ食べればいいのではないかというと,生物である植物の命を絶つのはいいのか,というぐらいの疑問は子供でも簡単に思いつくわけですよ。

 

子供の頃に,そういう思いがありましたから,以前にあった宮崎県の口蹄疫事件における農家の方々の悲しさは主観ながら感じ取ることが出来ましたが,逆に「いずれ屠殺される生き物を殺処分することの何が悲しいのか」という疑問が上がったときは愕然としました。

 

このあたりの話は「なぜ,人を殺してはいけないのか?」というところへも行き着くと思うのですが,この疑問について,“動物や植物を殺して食べているのになぜ人間を殺してはいけないのか”ということが話の前提だとしましょう。

 

そうすると,人間としての道徳をまっとうするならば,人間にも他の動物と同じように他の生き物の命を食して生命を永らえるという罪深さがあることを認めない限り,シーシェパードやキャロライン・ケネディみたいにAHOで幼稚な理屈になってしまうんじゃないかと思います。

 

なぜ,幼稚なのかといえば,私が子供の頃に考えたことさえ考えきれてないからです。間違いなく,大して動物を好きではないのでしょう。

 

私は,イルカだって好きですが,(カマイルカも)イルカはダメで牛は良くて・・・とこじつけてもどうしてもおかしくなるはずで,生態系が壊れるなど特別な理由が無い限り,文化として根付いている漁に難癖つけるのはおかしな話でしょう。

 

また,動物愛護とか良く言いますけど,愛玩動物じゃなくてもそれってわざわざ言うまでもない当たり前の話で,自然動物を資本からの乱獲から守るという意義はもちろんあるのでしょうけど,「愛護」という言葉の使い方にはとても強い違和感を覚えます。

 

そして我々は,周囲をコンクリートで囲い,地面を舗装して,取り囲む物すべてに合理性を求めたとしても,自分自身が自然であるということからは,どうも逃れられないようです。

 

それでも,人間の世界のみで過剰と思われるほどの価値となった命という,自然から隔離された「個別概念」を前提に,自然における事象をすべて説明できるとするならば,サバンナに行ってライオンさんに説法でもしてみてくださいませ。

 

ライオンさんとその家族達の栄養となっている頃に,命の大切さについての答えが見つかるかもしれませんぞ。

花粉の頃

2014-02-27

腰痛は,昨日と比べてだいぶ楽になり,回復の兆しが見え始めています。

 

ですが,身体に痛みを抱えながらという生活は,様々な面でダメダメです。

 

思考も弱くなりますし,何より色々と弱気になりがちです。

 

病は気からと言いますけど,逆も然りなのではないかと思います。

 

身体に何事も無いこと自体に感謝すべきなのかもしれません。

 

くしゃみのたびに痛みますので,花粉が本格的になるまでには,完治して欲しい物です。

詩が生まれ画ができそう

2014-02-26

よほどのことでは動揺しなくなったと思ってましたが,やっぱり精神的にキツイ仕事だと実感することはあります。

夏目漱石じゃありませんが,「智に働けば角がたつ,情に棹させば流される」という事をつくづく思い知らされることがあります。

 

そして,腰痛と咳も手伝って今日もなかなかです。

きつい

2014-02-25

ここ数日腰痛に悩まされています。

 

もともと椎間板ヘルニアを慢性的に患っていて,時おり痛むときがあるのですが,今回のはかなりきつい感じです。

同時に,季節柄エヘンムシが喉に常駐しており,コイツの機嫌が悪いとむずむずして咳が止まらなくなることがあります。このツープラトンが実にキツイのです。

 

昨晩も地獄のようでした・・・

 

まぁなんとか生きていますが,少し要領が悪くなるものの仕事はいつもどおりやっております。

 

ですが,色々と鈍くなることはあるのです。

 

特に動作は鈍くなっていることと思います。

 

普段どおりに歩いていると突然鈍い痛みが腰を襲うことがあり,傍から見ると突然ビクッとすることから何かの撮影かと思う方もおられるかもしれませんが,別にリモコンのスイッチを持っている人が近くにいるわけではありません。

 

まぁ本当に明日は痛まないようにと願うばかりでございます。

 

今日は暖かかったものの非常に冷え込む日こともあるでしょうから,お体には十分お気をつけくださいませ。

ダブルスタンダード

2014-02-24

債務整理案件の面談の際には,借金をしていることについて,家族が知っているかどうかを聞くようにしています。

 

内緒で借金をしているのであれば,基本は家族に借金とその原因を話したほうが良いことが多いようです。

 

ですが,家族というのもそれぞれでしょうから,借金の告白をしたために最悪の結末となることも否定できなくはありません。ですので,一応家族に告知することを勧めますけど,あまり深く干渉すべきでもないと考えています。

 

もっとも,なぜ家族に内緒にするのかというとやはりうしろめたい気持ちがあるからでしょう。そして,借金をすることになった原因というのが,浪費や遊興にお金を散在したことで,そのことを内緒にしておきたいという人もいますが,給与を下げられたり会社を解雇されたりしたことを家族に言い出せずに借金した方もおられます。

 

そして,不思議なのは,テレビコマーシャルなどで頻繁に消費者金融がコマーシャルをしているにもかかわらず,借金という行為が少なくとも家族に対して隠すということです。

 

たとえば,企業が銀行から借り入れて設備投資をするのは,それにより更なる収益が見込まれるからでしょう。

家計においては,借金して所得が増えることはないですが,不動産や自動車など高額なものは借り入れによって購入するのが一般的です。

 

では,ちょっとした用立てのときに消費者金融を利用することはどうでしょうか。

 

ちなみに,消費者金融のテレビコマーシャルの規制が,深夜帯以外の時間帯でも解禁となったのが平成7年のことだそうです。19年と長い時間においてテレビコマーシャルで見かける存在であったということです。

 

たとえテレビが,視聴者を減らしつつあるといってもやはり主要メディアですので,その影響力は大きいでしょうし,最近の消費者金融のコマーシャルは,「計画的なご利用」といった具合に一応,借りすぎないための注意を促しています。それでも,完全な市民権は得られていないように思えます。

 

なぜなのでしょうか?

 

もっとも,私などは,よほどのことが無い限り人様からお金を借りるなどまかりならんとの教育を受けておりまして,また同年代の多くの方が同様のことを教えられたと思います。

なぜ,親や目上の人がそのように我々に教育を施したかといえば,その世代の人達もそう教わったからでしょう。お金の怖さは,痛い目に遭わなくても言われれば分かるでしょうから。

 

そういえば,昔の人は,質屋で自分の所有物を質草にしてお金を用立てたという話を聞いた事があります。要は,担保を立てたほうが貸す方も借りる方も,負い目も引け目も無く話が早いということでしょう。また,お金よりも物自体に価値があった時代なのかもしれません。

 

ところが,物よりお金の方が大事な時代が訪れてしまいました。そうすると,物を担保にお金を貸しても貸し倒れに備えることが出来なくなってしまいました。しかし,金融会社としては,お金を貸さなければそもそも商売が成り立ちません。そこで,信用貸し(担保・保証なしで金銭などを貸し付けること)をせざるを得なくなります。しかし,その分貸し倒れのリスクは多くなるのです。

そこで,なるべく多くの顧客を囲い,高い利息により収益をあげること自体が,貸し倒れに対するリスクヘッジとなるわけです。

 

そういった経緯で,貸金業は日陰からお茶の間に進出したのでしょう。

 

別に消費者金融を悪く言いたいわけではありません。それを言ったら,我々だって碌なものでもありませんし・・・

実際に,テレビコマーシャルやってる法律事務所に借金の相談した人が,依頼の着手金を支払えなくなり依頼の解消を申し出たところ,多額の違約金を請求されたなんて話もあるんです。

最近は,どっこいどっこいと思わざるを得ません・・・まぁそれはいいとして。

 

私が言いたかったのは,それまで教えられてきた道徳や普遍的だと思われた倫理が,新たに流れてくる情報と混濁して,そのダブルスタンダードについてどう考えるべきかという判断が非常に不鮮明になってしまっているということです。

 

TPPの議論ひとつとっても,かつてどっかの大臣が,日本の農林水産業の国内総生産は1.5パーセントだが,1.5パーセントのために他の産業を犠牲にして・・・などと言ってましたが,既存の道徳や倫理に照らせば,主務大臣がそもそもこういった切り口から意見するということ自体いかがなものかと思います。(もっとも,TPP議論の切り口としてさえ成立していないように私には思えますが。)

 

別に,ワタクシごときが道徳を説くつもりなど毛頭ございませんが,「それはちょっと酷いんじゃないの」という直感的なものには素直であるべきだと思うのですよ。それを,レトリックで誤魔化されてはならないはずです。

 

もっとも,こういう環境は,ものを考えるにあたっては非常に材料が豊富という前向きな考えも出来るわけですよ。

 

おかげでブログねたには困りません。お金は入りませんけど。

うつるんです

2014-02-20

 「秘密の隠れ家」という営業方針に反してグルメ情報サイト「食べログ」に店舗の情報を無断掲載されて,削除要請にも応じなかったのは不当だとして,大阪市のバーがサイトを運営する「カカクコム」にサイトからの削除と損害賠償を求める訴えを大阪地裁に起こした,というニュースがありました。

 

なんでも,その大阪市のバーは,お店の看板を出しておらず,外観からはバーとは分からないそうです。これは,お店の演出なのでしょう。どうやってお客さんを集めるのか興味のあるところです。

 

ところが,店内の写真や入店方法などの感想が「食べログ」に投稿されていたとのことです。

 

「食べログ」は,地域ごとの飲食店について一般のお客さんからの評価を投稿するサイトのようです。

一般の人からの評価を,インターネットサイトに掲示できれば,非常に広範な地域において,有名無名を問わず様々なお店の情報を一元化された情報として共有することが出来ます。

ですので,住まいや職場の近辺のみならず,旅行や出張先でも携帯アプリで近くの飲食店とその評価を見ることが出来るわけです。飲食店を利用する側においては,便利なツールかもしれません。

 

一方で,飲食店側にしてみれば,確かに宣伝にはなるものの意図しない内容が掲載されることになり,また,ほとんどの飲食店が(お客の投稿によりお店側が意図せず)掲載されている宣伝というものが,果たして飲食店側にとってメリットがあるのかどうかというのは,お店の経営方針によりけりだと思われます。

もっとも,一度,そういった情報共有のサイトが多くの人に周知されてしまうと,そこにお店の名が挙がらないことが,経営のデメリットに繋がる事はありましょう。

 

たとえば,現在検索サイトナンバーワンのグーグルのデータベースから外されて,グーグル検索できなくなってしまうことを「グーグル八分」(村八分に例えて)と,呼び恐れられているように,情報検索の寡占化が起っている場合において,その情報の場から漏れてしまうという事は,商売をする者にとっては実に恐ろしいことなのです。

 

でも,今回のケースはその逆でして,「秘密の隠れ家」という営業方針の基に,あえてインターネットで見つからないという演出を試みたバーが,意図せず飲食店情報サイトの「食べログ」に掲載されてしまったというお話です。

 

なお,情報を公開されたバーの方は,掲載を知った後,「カカクコム」(「食べログ」の会社)に削除を求めたそうですが,「表現の自由の範囲内であり,応じられない」と拒否されたために,このたび提訴に踏み切ったということです。

 

出てきましたねぇ。私の大好物のワードです。

 

まず,この記事を読んですぐに思った事は,(表現の自由を主張したならば,やはり他の誰かの表現を尊重していない部分があるのだなぁ・・・)ということです。

 

つまりは,発信する情報をもとに,多くの利用者を確保しているインターネットサイトにおいては,より多くのお店情報を掲載できた方が良いわけですから,基本的には情報を削除することについては否定的な向きがあるでしょう。

また,一般的にお店と情報サイトという関係において,情報を掲載して欲しい側と情報を発信してあげる側という力関係が作用して,情報掲載サイトというものが成り立っているのかもしれません。

そうであれば,削除要請があったとしても,情報を掲載する側としては強気にもなりましょう。

 

余談ですが,実際,私の名前も色々なサイトに掲載されていますが,コレ,ほとんど私が頼んだものではありません。たしか,グーグルさんからは,マップに掲載するということでご一報いただいたと記憶しております。

 

で,戻って,しかし,サイトに掲載している情報は,一般の方からの評価ということで,つまり評価について多数の責任を持たない(感じない?)人達が持ち寄った情報ということです。別に悪く言っている訳ではありませんが,自分の名前と住所を掲載して,掲載情報に責任を持たされてまで書く人いるのかな?という意味です。

 

まぁでも,おそらく罵詈雑言などはちゃんと削除するなどしっかり管理されているのだと思いますが,それはどちらかというとお店に対する配慮というよりは,サイト運営として利用者側に対する配慮という観点からともいえます。

 

そして,重要なのは★いくつみたいな相対評価が掲載されているんですね。

実は,私も点数制のラーメンデータベースを利用していまして,旅先などそれでラーメン店を探したりするのですが,近くにお店が2つあったらやっぱり点数の高い方に行くわけです。

ところが,行った先が脂だらけのギトギトとんこつラーメンで,がっかりした覚えがあります。私は,とんこつラーメンは好きですし,脂もそれなりに食べられるのですが,どうもとんこつラーメンブームというのは,とんこつラーメンにだけに甘い評価基準を与えているように思えます。

それからというもの,この手の評価はあまり当てにしないようにしていますが,この相対評価が,近くの味のあっさりしたラーメン店の経営を圧迫するとなると正直うれしくありません。

 

ですので,飲食店経営の観点から,そういった情報サイトから外して欲しいという要求には応じるべきでしょう。

 

極めつけは,お店の演出方法を邪魔してしまっているということです。

今回,提訴したお店は,「秘密の隠れ家」という経営方針を打ち出してお店の看板などを出さずにお店として分かりにくくするといった,一風変わった手法を用いています。

 

知った限りでは,経営大丈夫なのかなぁと心配になってしまいますが,なにかしら仕掛けがあるのでしょう。もし,失敗すれば経営者が全責任を負わなければならないのが資本主義社会ですので,出資者以外の他所の人が口を出すことではないでしょう。

 

そして,広告や宣伝などの表現をしないという不作為が表現といえるかということですが,これを表現としないと日本古来の美意識である「わびさび」を理解する事はできないでしょう。(実は私も怪しいのですが・・・)

それとしたって,何も言わないとか,何もしないとか,間という不作為,消極的な行為で何かを主張したり,それを見て何かを感じ取るという事は,我々日本人には能力として身についているのだと思います。

ドラマや舞台などで役を演じる役者さんの腕の見せ所というところでもありましょう。

 

ちなみに,ちょっと前まで大流行していたとされる韓流ドラマですが,(今,どうなんでしょう?)ある人に感想を聞いたところ,この手のエッセンスが無く,全部言葉で説明してしまっている,ということでした。

 

まぁあまり見たことないので私はわかりません。

けど,不作為的な表現を認めることが出来なくなっているのが日本人の傾向だと仮定すると,我々の感覚は昔と比べて相当鈍くなっているということでしょう。

 

そりゃ当然のことで,表現が自由とあらば声が大きかったり,アピールが盛大な方が人々の目に留まりやすいわけで,それを目の当たりにしたら我先にと皆こぞって真似するでしょう。そうやって,声の大きさの競い合いに覆い隠されてしまった慎ましやかな日本の美学を一般大衆に見つけだすことが出来るのかなぁ・・・と思うのです。

 

それは,まるで琵琶湖にナイルパーチを放したようなイメージで,文化のみならずそれまで長いときを経て構築した様々な体系が大きくバランスを失うことにもなりかねません。

 

もっとも,生き物の世界では捕食ですが,人間の世界では伝染ってるという・・・そんな気がします。

地球儀

2014-02-19

子供の頃に,友達の家に遊びに行った際に,部屋にあった地球儀の回し心地を非常に気に入って,親にねだった事がありました。

 

当時,両親は,その手の学習教材的なものに関してのおねだりには非常に寛容で,躊躇無く買ってもらえた事を覚えています。

 

しかも本格的な学習教材としての地球儀を買ってもらいまして,単純に回したかっただけの自分にしてみると,(そうじゃないんだよなぁ・・・)というのがありました。

 

もっとも,グルグルとは回らなくても,回しながら地形を見ていると,日本の裏側にはどんな景色が広がっているのだろう,といったような想像を掻き立てられました。もっとも,すぐに飽きてしまったのですが・・・

 

ユーゴスラビアやソ連がその地球儀には載せられていました。

 

それから,ベルリンの壁が壊され,ソ連が分裂して,ユーゴスラビアが分裂して,香港が返還されて・・・といった具合にだんだんと国名を見る用途としては使えなくなってしまったんですね。

 

その後,地球儀はどうなってしまったのか分かりません。たぶん処分してしまったのかも・・・

 

まぁファミコンと比べると使用頻度は著しく低かったのですし,どのような学習効果があったのかは分かりませんけど,想像はとても掻き立てられたように思います。

 

そういえば,地球儀の付属として各国の主要生産物などを記した冊子が付いていましたが,それを地球儀に照らし合わせると,スリランカは世界一紅茶を多く生産しているけど紅茶をたしなむ国はイギリスだったりするんだよねぇ・・・だったら,なんでイギリスで作らないのかなぁ・・・という疑問が湧いてきたりもしました。

 

そうすると,(紅茶とコーヒーの違いはありますが)アントニオ猪木氏が少年時代に家族でブラジルに移住した際,コーヒー農園で過酷な労働を強いられたという(漫画で読んだ)逸話によって,なんとなく消費国と生産国との関係性という形が見えてきたりするのです。

 

地球儀とは抽象化された地球の形です。

回してみると世界全体の地形を見渡すことが出来ます。

では,地球儀を回しただけで世界を知り尽くすことが出来るかというと,もちろん,そういうことではないでしょう。

では,GDPや為替レートなどのデータを知り尽くせば,世界を把握しているといえるかというと,考えてみればこれらも抽象的な情報なのです。なぜこれらを抽象化する必要があるのかといえば,具体的なままでは情報として流通させるには膨大すぎるからでしょう。

 

そうすると,抽象化された情報を基に組み立てた理論は,多かれ少なかれ実態との齟齬が生じる事は免れないはずです。

 

そうなると,実態との齟齬を極力無くするには,どうしても実情を丁寧に精査する必要は出てくるわけです。

 

ところで,最近よくグローバルとはいいますけど,あらゆる情報を抽象化して流通速度を増していけば,ますます世界各国の実情には目が向けられなくなり,情報が実態と乖離していくような気がします。

 

たとえば,人件費が安いという情報を基に中国へ進出した日本企業のうち,中国の実態を見誤ったため撤退を余儀なくされた,という企業も少なからずあるでしょう。(色々言い訳はあるんでしょうけど)

 

しかし,実態と乖離した情報を鵜呑みにした結果,泡を食ったとしても,その情報で同じように失敗した者が多くいれば,社会的な非難はある程度緩和されるでしょうから,赤信号みんなで渡ればなんとやらで,失敗を恐れずに皆で誤った方向へ突き進んでますます世界を歪めてしまうという・・・

 

今は,そんな潮流にある様な気がします。

明日の天気

2014-02-18

明日の天気は大丈夫なのでしょうかね。

 

雪が降るとの予報を聞いていたので心配です。

お問合せ・ご相談はこちら

お電話でのお問合せ・ご相談はこちら
047-481-8991

営業時間:月~金 9時~17時

秘密厳守。  お気軽にご相談下さい
業務内容:不動産登記・商業登記・相続・遺言・抵当権抹消(住宅ローン完済)・成年後見業務・裁判事務・債務整理

対応エリア
千葉県全域

お気軽にお問合せください

お電話でのお問合せ

047-481-8991

<営業時間>
月~金 9時~17時

ごあいさつ

s-002_usami_0008.jpg
司 法 書 士 高 橋 岳

司法書士高橋岳事務所

住所

〒276-0033
千葉県八千代市
八千代台南一丁目4番3号2階

営業時間

月~金 9時~17時