ぶっちゃけ
最近,暴露本なる物が良く出版されますね。
テレビタレントなどが,表舞台にしがみ付く為の切り札として使われているように思います。
ショービジネスであれば,煌びやかに飾られた“見せている部分”と比べて実際の内情というのは当然違う訳で,そのあたりは推して知るべしということでしょうけど,何故か暴露本というのはよく売れているような気がします。
これが,政治の話であれば興味が沸くわけです。なんせ私生活に影響が出かねませんから。
ただ,これが芸能の世界とかの話だと,別いいんじゃないの?というか,そもそも好き勝手にやっている人たちが集まっている世界なので,当然に浮世離れした様ことが起こりえる訳です。大きなお金が動く世界ですし一般的な感覚の人たちではないと思われます。
ただ,彼らがまるで真っ当な人間であるかのようにテレビなどが報じて,その後追いで週刊誌がスキャンダルなどを報じたりすると,さも,どんな人間にも裏がある様な意識を視聴者に根付かせているように思えます。
だから,誰がどんなことをするにつけても何かしら隠された意図があるのだろう,という空気感が蔓延してしまっているように思います。そうなると,仲間とうまくやるには本音をぶっちゃけなければなりません。
無論,真意からの言動だったとしても,良心なんて誰も信じなくなってしまっているので,無理して彼らにも理解できるような本音を作ってでも話さなければならなくなります。もちろん,下世話な話で無ければ信じてもらえません。
で,みんなで本音を語り合った気分になったところで免罪符を得ることが出来ます。
言動の裏に違う本音が隠れていてもそれが許されるという免罪符です。そうなると,仲間だろうと自分の利益のために欺いた挙句「お前の本音も見抜いてるんだよ!」と言い放てば万事うまく収まります。(?)
そもそも,“欲求に忠実”だということが,共同体としても個人としてもマズい場合があるから,道徳やら規範やら思いやりやらを教育により施し覚えて生きます。それが幼少期における成長といえるはずです。
だから,“欲求”はあるけどすべてに“忠実には生きられない”ことは,始点と終点を道徳などで繋いだことによる,ひと続きの関係にあるわけで,表裏の関係ではないはずです。
しかし,繋いでいる部分を取っ払って,本音と建前という位置づけして表裏の関係にしてしまうと,思ったことを制御する一番大事な部分を抜いてしまっているため,建前という名目から逃れられる場所(例えば人目の無いところ)では,誰が傷つこうとも“欲求に忠実”であることというメンタリティとなってしまいます。
要するに幼児化です。
そして,そういう思考であると他人にも普段の言動の裏に人には言えないような本音があると穿って見るためストレートな正論さえ裏にある本音を探るばかりか,大阪市長のテレポリティクスに見事なまでに翻弄されてしまうのではないかと思います。
あの人が,まるで本音のように語っていることはすべて何方かが以前に言ったことの焼き直しです。しかも,ナショナリズムに関連する関係については,一昔前にタブー視されていてもし発言したとしたら報道機関にいっせいにバッシングされるような時期に,自らの立場や危険を顧みずに声を発した方々の言葉を,安全な時期に安全な場所から表現を下品にして言っているだけです。
本来繋ぐべき大事な部分を空洞化してしまうと,なんとなく身軽になったような気分にはなるでしょうが,隙間風が吹き荒び虚しさを感じるはずです。
だから,思考と感受性で埋めなくてはなりません。