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ぶっちゃけ

2013-05-23

最近,暴露本なる物が良く出版されますね。

 

テレビタレントなどが,表舞台にしがみ付く為の切り札として使われているように思います。

 

ショービジネスであれば,煌びやかに飾られた“見せている部分”と比べて実際の内情というのは当然違う訳で,そのあたりは推して知るべしということでしょうけど,何故か暴露本というのはよく売れているような気がします。

 

これが,政治の話であれば興味が沸くわけです。なんせ私生活に影響が出かねませんから。

 

ただ,これが芸能の世界とかの話だと,別いいんじゃないの?というか,そもそも好き勝手にやっている人たちが集まっている世界なので,当然に浮世離れした様ことが起こりえる訳です。大きなお金が動く世界ですし一般的な感覚の人たちではないと思われます。

 

ただ,彼らがまるで真っ当な人間であるかのようにテレビなどが報じて,その後追いで週刊誌がスキャンダルなどを報じたりすると,さも,どんな人間にも裏がある様な意識を視聴者に根付かせているように思えます。

 

だから,誰がどんなことをするにつけても何かしら隠された意図があるのだろう,という空気感が蔓延してしまっているように思います。そうなると,仲間とうまくやるには本音をぶっちゃけなければなりません。

 

無論,真意からの言動だったとしても,良心なんて誰も信じなくなってしまっているので,無理して彼らにも理解できるような本音を作ってでも話さなければならなくなります。もちろん,下世話な話で無ければ信じてもらえません。

 

で,みんなで本音を語り合った気分になったところで免罪符を得ることが出来ます。

言動の裏に違う本音が隠れていてもそれが許されるという免罪符です。そうなると,仲間だろうと自分の利益のために欺いた挙句「お前の本音も見抜いてるんだよ!」と言い放てば万事うまく収まります。(?)

 

そもそも,“欲求に忠実”だということが,共同体としても個人としてもマズい場合があるから,道徳やら規範やら思いやりやらを教育により施し覚えて生きます。それが幼少期における成長といえるはずです。

 

だから,“欲求”はあるけどすべてに“忠実には生きられない”ことは,始点と終点を道徳などで繋いだことによる,ひと続きの関係にあるわけで,表裏の関係ではないはずです。

 

しかし,繋いでいる部分を取っ払って,本音と建前という位置づけして表裏の関係にしてしまうと,思ったことを制御する一番大事な部分を抜いてしまっているため,建前という名目から逃れられる場所(例えば人目の無いところ)では,誰が傷つこうとも“欲求に忠実”であることというメンタリティとなってしまいます。

 

要するに幼児化です。

 

そして,そういう思考であると他人にも普段の言動の裏に人には言えないような本音があると穿って見るためストレートな正論さえ裏にある本音を探るばかりか,大阪市長のテレポリティクスに見事なまでに翻弄されてしまうのではないかと思います。

 

あの人が,まるで本音のように語っていることはすべて何方かが以前に言ったことの焼き直しです。しかも,ナショナリズムに関連する関係については,一昔前にタブー視されていてもし発言したとしたら報道機関にいっせいにバッシングされるような時期に,自らの立場や危険を顧みずに声を発した方々の言葉を,安全な時期に安全な場所から表現を下品にして言っているだけです。

 

本来繋ぐべき大事な部分を空洞化してしまうと,なんとなく身軽になったような気分にはなるでしょうが,隙間風が吹き荒び虚しさを感じるはずです。

 

だから,思考と感受性で埋めなくてはなりません。

土壌

2013-05-22

舌足らずなところもあって議論はあまり得意ではありません。

 

他方で思うところも沢山あるのでこうして毎日ブログが書けています。

 

 

特にきっかけがあるわけでもなく,ふと思ったことを日々書いているのですが,書くことをきっかけに色々と調べることもありますし,前にも書きましたが頭の中でグルグルと思考をまわしているだけよりも文章に書き出したことによって発見することも多いので大変いい勉強になっています。

 

また,ここ最近「説明が解りやすい」とお褒め頂くことが多くなりました。これもひとえに積み重ねによる努力の賜物だと思っています。ブログのアクセス数も書いていない頃と比較してずいぶんと上がってきています。

 

ただ,あとで見返してみるとだんだんと独善的になっている傾向も見受けられるようになりました。やはり,人と意見を交わさずに一人で書いている文章ですので仕方ないことではあります。

 

そして,やっぱりテーマを同じくして他の人の見解を聞いてみたいと思うことがあります。

 

冒頭に書いたように議論は得意ではありません。

 

前にも書いたことがあったかと思いますが,私の幼少の頃から両親は毎日のように喧嘩をしていました。

 

なお,イギリスの作家チェスタートンは「人はたいてい議論する能力がないから喧嘩するのである。」という言葉を残しています。

 

環境のせいなのか,はたまた遺伝のせいなのか,とにかく私は議論が得意ではありません。まぁ人せいにするな!というところで今後精進に励んでいきたいと思う所存です。

 

まぁだから議論とは喧嘩ではないということです。しかし,意外と喧嘩と比べて身近ではなじみが無いかもしれません。会議などでも議論といえるほど対立する意見がでないで予定調和的に進んでいくことも多いと思います。

 

上の立場の人の話に意見を言って今後の関係にしこりを残すのは嫌だと思うこともあろうかと思います。実際にありそうな話です。ただ,それだと議論する能力以前に議論をする場として不適格となる訳です。

 

統率のために上下関係をはっきりさせることは,古くから行われてきたことで組織として合理的だと思います。ただ,上に立った人間が組織を統率するための合理的な方法として上下関係を付けていることを理解していないと厄介だと思います。というか,パワハラが問題となる昨今では良くある話かもしれません。

 

いま,組織の決定権を担うくらいの世代の人たちの若い頃は,自由を謳歌してひとつふたつの失敗くらいは普通に許されるくらい豊かだったと思います。その環境が個人主義を助長させたのかもしれません。

早く出世して早く組織を指揮する立場を自分のために目指してきた訳だとすると「自分の力で今の地位を勝ち取った」という自負心が強くなり,組織としての役割という考え方には辿り着かないのではないかと思います。

 

実際には,色々な人に支えられて色々な人が踏み固めてきた土壌に立たせてもらっているはずなのですが,自負心の強さゆえに気付かない,というか目を向ない方が都合がよいのでしょう。

 

そして,会議という場で若い人たちの意見を聞く振りをして芽を摘み取る作業を行い,更に自分の権威を高める努力を延々と行いますと,その先に生まれる物はあるのでしょうか。

 

議論するにあたり,まず目指す方向を定めてそれを共通の目的としなければなりません。共通の目的を持ったとしても人それぞれ視点が違うはずなので違った意見が出てくるはずです。だから意見が相違により熱くなることもあるでしょうが,目的が共通している同士であればその場ですっぱりと割り切れるでしょうから,その後の関係に影響しないようにお互い配慮することが出来るはずです。

 

ここに個人主義が強く入り込むと,そもそも目指す方向が共通していないことになり,反論を侮辱と捉えたりしてその後の人間関係が歪になるのでしょう。でも,それではフェアじゃないですよね。

 

株価が上がり続けなんとなくそのまま不況を脱してしまいそうな雰囲気かもしれませんが,いつまでも金融緩和に頼っていられるわけではありません。今後,企業が停滞していた供給力を取り戻さなければ不況脱出はありえず,そのためには若い人たちの力が必要です。

 

しかし,意見さえ取り入れることが出来ない組織が今後成長していくことは難しいと思います。そのためにフェアに議論していくことはとても大事なことで早急に教育にも取り入れていく必要があると考えます。(ヒップホップと同じくらい大事?)

 

ただ,現状で個人主義の風潮から共同体としての意識に向かわせるのは,なかなか難しいと思います。マスコミは個人主義を持ち上げた方がシェアを得やすいでしょう。また,一見ナショナリズム的な言動においても実は強い個人主義から発せられたものだということもありえるというのは大阪市長の一連の発言のとおりです。

 

共同体全体を考えるにあたってはとても問題で,また,すごく根深い問題だと思います。

タブー

2013-05-21

『タブー (taboo) とは、もともとは未開社会や古代の社会で観察された、何をしてはならない、何をすべきであるという決まり事で、個人や共同体における行動のありようを規制する広義の文化的規範である』ということだそうです。(ウィキより)

 

現代においての使い方とはちょっと違っていますね。もともとは共同体における規範だったようです。

 

今では,みんなが極力言及したり触れることを避けているような事柄についての意味合いが強いと思います。よく,「報道のタブーに迫る」という見出しなどで使われているように誰も踏み込まなかった事を調査して報道する意味で使われています。

 

誰も踏み込まないことにはやはり理由があるでしょう。例えば,戦場や暴力団などの危険をともなう取材に踏み込むことはなかなか難しいと思います。しかし,取材して得た情報には需要がありますし,検証する利益もあると思います。

 

もし,これらを報道するについて何かしら圧力がかかるようであればそれは今で言うタブーといえると思います。

 

取材することも報道することについても困難がともなった情報ですし,検証する利益もあることからタブーといえど報道して事実を広く知ってもらう必要があります。国益というと大げさかもしれませんが,共同体として利益になるものといえるでしょう。

 

でも,これは子供の頃からずっと学んでいる“言ってはいけないこと”とは全然違いますよね。

 

私にとって“言ってはいけないこと”は,人の尊厳を傷つけたり人の立場を貶めたりすることでした。

これについては,共同体の規範ともいえると思うので,どちらかというと元々の「タブー」の意味に近いように思えます。(出所において共同体という部分が同じ,という意味で実際に昔タブーとされたものが,道徳にまつわるものかどうかは分かりませんが・・・)

 

共同体における規範を破るのは簡単です。インターネットで爆破予告する人が一例でしょう。自宅のパソコンでインターネットブラウザを開いてサイトにその言葉を打ち込めば簡単に共同体における規範は破ることが出来ます。

 

前述の戦争とか暴力団の報道と違って誰でも出来るのです。やらないだけで。なぜなら,警察にご厄介になるでしょうし,何より世間様に迷惑を掛けたくないと思うからです。

 

では,法律に抵触しないことならば何を言ってもいいかというと,そこは共同体における規範を考えなければならないはずです。

 

もちろん,論争となっている事柄においてそのことに関わることに触れなければならないこともあるでしょうが,そうであれば論点に関わることについて粛々と述べればいいはずです。

 

共同体における規範を破れば人から注目を浴びます。批判も受けるでしょうが,「言いたかったことをよく言ってくれた!」賛美も得られるでしょう。けど,それは場末の酒場で管巻きついでに話した政治話と同じように国会議員が言えるわけがありません。

 

なぜなら,共同体という縛りがあるからです。

もちろん,足並みを揃えるという意味でも,周囲の人たちに迷惑を掛けまいと考えることも,また道徳的なこともあるでしょうから,意気の会う飲み友達との話で言うことを例え正論であったとしてもそのまま言えるわけがありません。というか全国民の代表という立場上言ってはいけないと思います。

 

発言について賛同が得られないのは,腰が引けているからではないと思います。単純にドン引きしているだけだと思います。

レッテル

2013-05-20

 レッテルとは,もともと商品札のことを言うそうです。

 

そして,レッテル張りと人や物事に対する評価や判断を決めてしまう思考のことをいうそうです。

 

レッテル張りという行為により評価を決め付けられてしまった人は,なかなかその評価を覆すことができないのではないかと思います。なぜなら,レッテル貼りという行為とそれを信じることは単純に思考停止によるものだと思います。知っているだけの過去の評価のみで決め付けてしまい,将来において評価することを放棄していることになる訳です。

 

だから,決め付けられている事実に誤解があったとしても話し合いができないのではないかと思います。

 

とはいえ,人を判断するには経歴など過去のことは材料となりますし,いちいち一人の人を理解できるまで見続ける時間がある人はそうおられないと思います。多くの人とのコミュニケーションをしなければならないのであれば多少の決め付けは仕方ないところではあると思います。

 

ただ,人の噂というのは伝言ゲームのようにだんだんと簡略されていく傾向にあると思うので,出回っているくらいの頃には最初の噂と大いに趣旨が異なってきてしまっていることも多いと思います。

 

そして,伝わりきる頃にはどっかの新聞の見出しのような見事なレッテル張りとなっているという感じではないかと思います。

 

だから,そうなるのが嫌だとしたら周りと同調してなるべく目立たないように暮らしていかなければなりません。自分を守る手段として他人にレッテルを貼るべく虎視眈眈と狙っている人もいるでしょう。

 

なんとなく,今起こっている様々な論争の発端としてレッテル張りという行為があるように思います。相手をこれと決め付けてしまえばもう何を言っても聞こえてこなくなるわけで,お互いにレッテル張りをすれば話の通じない同士で論争することになりますがこれでは解決が見えてきません。

 

そして,意識してみると,レッテルを人に貼り,また張られることが結構身近で頻繁に起きていることに気がつきます。

 

多少は仕方ないのかもしれませんがほどほどに・・・

天空の彼方

2013-05-19

信念というものをひとつ持ったとき,それをずっと持ち続けることが出来るのか考えることがあります。

 

なぜなら,自分は変わっていきます。成長して身長が伸びて様々なことを経験しながらだんだんと老いていきます。これは,少なくとも誰でもそうであるはずです。

 

誰でもそうだからこそ,変わっていくのは自分だけではないわけで,それは天体で例えるなら地球もその他の星も動いているといった感じじゃないかと思います。

 

このことにより昔は色々と悶着があったようでガリレオさんもだいぶ自説を主張なさるのに苦労されたもう様です。

 

だから,自分を取り囲むその他の動きと自分自身の変化を把握してどう考えてどう動くかということを判断することはとても難しいことだと思います。

 

それは,誰も教えてくれないわけで,それを自分自身で考えるにあたり北極星のような動かない一点を見つけることが大事だと思います。

 

イデオロギーとか思想とか宗教とかではなく,それぞれの人にしか見えない一点があるような気がします。

五月晴れ

2013-05-18

ここのところ気温がとても高くなっています。

 

夜は若干冷え込むこともありますが,天気がいい日の日中は暑いといって良いくらいの日もあります。

 

本日はとてもいい天気です。

 

良い休日をお過ごしください。

ムード

2013-05-17

最近,とても空が青く見える様な気がします。

 

明るいニュースが増えてきたせいでしょうか。

 

そして,株価が上がり続けています。

 

株価が上がったといっても金融資産としての価値が上がっただけで現在において誰かの所得があがっているわけではありません・・・・が,将来企業と国民の所得が上がるという期待があるということです。

 

ムードって意外と大事だと思います。

 

私は株式を保有していませんが,それでもこのごろ気分が良いのでつい財布の紐が緩みがちとなっています。それによって誰かの所得が増えているのであればその人も気分が良くなり出費して・・・という連鎖で相乗的に良くなっていくはずです。

 

逆に将来が不安だったりすると,何かあったときのための蓄えとしてみんなが貯金をしてしまうと誰にも所得が入らなくなってしまいます。

 

借金は簡単にしてはいけませんよ。小さな経済基盤である家計に利息という負担は決して軽くは無いからです。ましてや,住宅や自動車など借金をしなければ買えないような高級品の購入を予定しているのであれば安易な借り入れやクレジットリボは控えなければなりません。

 

お金を循環させるには,企業の設備投資など銀行から借り入れによるポンプのような原動機的役割が必要です。それまではまだまだ金融緩和が必要でしょうからお給料が増えたりすることはもちょっと先のこととなると思います。

 

しかし,日本の経済がいい方向に進んでいるのは間違いないと思います。

 

今現在において本当に辛い思いをされている方もおられると思います。

 

でも,あともう少しだけ耐え忍んだ後,すべての日本国民に対して明るい未来が迎えられるのではないかと思っています。

 

TPPとEPA(アメリカとのTPPに付随した連携協定)によりグローバル社会にならなければ・・・

分かり合えない人たち

2013-05-16

円安株高で話題もちきりの中,世間ではあまり話題になっていませんが,厚生労働省が発表した生活保護基準の見直し案が生活困窮の方々に携わっている人たちの間で話題となっております。

 

問題となっているのは,物価の動向を生活扶助(生活保護受給者に給付する金銭)基準に反映させるという考え方です。

 

すなわち,ある時期から一定期間において比較して物価が下がっていれば生活扶助基準の引き下げとなり,物価が上がっていれば生活扶助基準も上がるという考え方だそうです。

 

なお,物価についてはCPI(消費者物価指数)から“家賃、教育費、医療費など生活扶助以外の他扶助で賄われる品目”と“自動車関係費、NHK受信料など,原則として生活保護受給世帯には生じない品目”を除いた「生活扶助相当CPI」という指数を指標とするようです。

 

ちなみにCPI(消費者物価指数)とは,消費者が実際に購入する段階での商品の小売価格(物価)の変動を表す指数です。

なお, CPIのほかにコアCPI(CPIから生鮮食品を除いたもの)とコアコアCPI(CPIから食料(酒類を除く)及びエネルギーを除いたもの)があります。

つまり,CPIは天候によって生鮮食品が値上がりしたときも,中東に戦争が起こったとかでエネルギーや食品類の価格が大幅に値上がりをした場合にも影響を受けます。

 

「生活扶助相当CPI」がCPIを基準としているのであれば,食品や灯油などの生活必需品が値上がりしたことに連動して生活扶助基準が上がるということになります。

 

これだけ見ると合理的な感じがします。ましてや,インフレターゲットを据えてデフレ脱却を目指している政権において提示されたとなるとそれほど不誠実とも思えません。

 

しかし,長らくデフレが続いていた昨今の物価動向を基準としてこの方法において生活扶助基準を計算すると大幅に下がるようです。

 

また,CPIと比較して「生活扶助相当CPI」の方が大きい下げ幅となるようです。

というのも,CPIの算出にあたって対象となる品目(商品)の家計の消費支出全体に占める割合(ウェイト)を計算します。そして,「生活扶助相当CPI」の算出はCPIから前述とおり一定の品目を除外します。そうなると,除外された品目の分だけ残された品目のウェイトが大きくなります。そして,残された品目の中に価格の下げ幅が大きかった物が含まれてしまったということです。

 

具体的には,電化製品と教養や娯楽に関するサービスであるとのことです。

たしかに電化製品類は,外国製品との価格競争で軒並み値を下げており,それに伴って各メーカーは満身創痍となっているようです。しかし,近頃の円安でかなり上向いてきているようです。

また,教養や娯楽に関するサービスに関しては,やはり不景気において家計が支出を控えた影響をモロに受けたのでしょう。しかし,景気の持ちなおしに伴って頑張って欲しいものです。

 

で,これらが含まれていることによって「生活扶助相当CPI」の方が,CPIと比べて下げ幅が大きくなっているようですが,問題は生活保護受給者の生活実態にそぐわないという事が言われています。

 

要するに生活保護受給者は,家電製品を買えない,若しくは買えても安い物でしかないということです。

 

また,CPIは国民の生活水準を示す指標ですが,それをそのまま生活保護受給者という特定の層に当てはめることは生活保護受給者の消費実態と乖離するのでは,ということもあるようです。

 

 

この,厚生労働省と生活保護受給者(と支援団体)との対立について,左翼系メディアはこの事を安倍政権を叩く材料として用いるでしょうし,ネット(インターネットのこと)にうp(書き込むこと)れば生活保護受給者と制度が叩かれると思います。

 

 

私が,20代の頃にこの話を知ったら間違いなくネット民(インターネット利用者のこと)と同じ様に叩いたでしょう。働けど働けど全く将来が見えない環境におかれているときに(私の場合ね。)生活保護についてネットで書かれている様な話を知ったら良い気分はしなかったと思います。

 

現在においては,生活保護を受給している人達と実際にお会いして生活実態などをヒアリングしているとネットに書いてあることはむしろ例外という印象も受けました。

 

 

ただ,私が生活保護の実態すべてを知っている訳ではなく,ネットに書いてあるようなパチンコやったりベンツ乗ったりしている受給者がいないという確証はありませんし,いるとしたら皆さんと同じように怒りが湧きます。

 

平成20年に生活保護基準引き下げ反対運動に参加したときも,幾人かの通りがかりの方々にご意見を頂いた事がありました。

 

 

この,厚生労働省と生活保護受給者(と支援団体)との対立は,「減らしたい」と「減らされたくない」という結論ありきの意見同士で衝突しているとすれば,建設的な話にはならない気がします。

 

生活扶助費の削減について多くのネット民の支持を集めているのではないかと思いますが,ネット民は受給者の現状をかなり誤解して把握している気がしますし,生活保護受給者の人達とそれにまつわる人達については,高らかに救いを求めて声をあげている姿が不況にあえぐ労働者の方々の神経を刺激していることについて,ちと無関心にすぎるのではないかとも思います。

 

同じ事を言い続けた結果により市民権が与えられた様な格好になると,言い続ければ必ず変えられるというメンタルになってしまうのでしょうが,それだと無理を通した事になるだけで誰かしらが何らかの形で押し込められてしまう事になってしまいます。

 

もちろん,議論を重ねて考え抜いた末の正論であれば何度でも言い続けるべきだと思いますが,結論ありきで議論を重ねても理論は熟成しないと思います。

 

もっと,建設的にならぬものか・・・

 

世論が割れるのが一番良くない結果になる気がするのですが・・・

思考のものさし

2013-05-15

考えていたことを文章にしたり,言葉に出してみたり,何らかの表現方法を使って具体化してみると,意外と思い違いとか齟齬などに気がつくことがあります。

 

絵の難しさというのはそういうところなんでしょうね。

頭の中のイメージをそのまま描写することはとても難しく感じます。

 

音もそうですね。絶対音感や相対音感がすごい!と,もてはやされるのは,正確な音程を頭の中で描いてそれを表現することがいかに難しいかということです。

 

このあたり,ものさしとか鍵盤とか尺度を図る道具を思考の中に持ち込むことが出来ないことが理由として挙げられると思います。

 

そうすると,頭の中の思考だけでは曖昧なものでしかない気がます。

 

だから,人は古くから道具を使って様々な方法でイメージや考えを記してきました。

 

そして,それを残された人が読み解き少しずつ積み上げていって文化が発展していったのだと思います。

 

そして,情報が混沌としている現代で余計な情報に左右されずしっかりと自分の考えを保つには,それを何かに記しておくことが良いのではないかと思っています。

 

そう考えるとインターネットというものは便利な物で,いわゆる公共の場に自分の考えを書いても都合の悪くなったとき消すことが出来ます。(書く場所によって)

 

まぁころころと考えをひっくり返すのはどうかと思いますが,でも自分自身が変わっていく以上考え方も当然変わっていくわけでずっと同じ考えというのも場合によっては,いささか不自然であることもあります。

 

それにもうひとつ大事なことは,人が認識できるように表現するまでの過程中で何か発見できれば,現実に完成された物よりもずっと将来のための財産となる気がします。考えるのと実際にやるのでは間違いなく違いが出てきます。

 

考えることとは表現するための出発だとすれば,完成するまでの過程において優劣などは無く,それを分業として考えるとどの立場の人も大事だと思います。

真夏日

2013-05-14

今日は熱かったですね。

 

30度を超えたところもあったそうです。

 

天気も非常に良かったので,外を歩くと気持ちよさそうでしたがあいにく本日は事務所にこもって事務仕事でした。

 

でも,ゴールデンウィークですっかり肥えた身体を引き締めるために近場の用事はなるべく歩くようにしています。

 

歩いているうちに額に汗が滲んできて手で拭うと雫が落ちるほどです。

 

明日から気温が下がるそうなので風邪などひかぬようご自愛くださいませ。

現在の視点で歴史を語ること

2013-05-13

かつて,戦前において不治の病と言われて多くの尊い命が奪われた病気も,現代では治療が可能となるほどに医療の技術は発達してきた様です。(当時のことは分かりませんが)

 

それまで,昔の人たちはお医者さんに診てもらって一応の治療は施してもらうものの劇的に回復するということはあまり無かったのかもしれません。平均寿命も江戸時代から比較するとだいぶ高くなっている様です。

 

ところで,アメリカには医療格差という言葉があるそうです。国民皆保険制度を採用している日本にはあまりなじみのない言葉です。

 

私が知ったきっかけは,マイケルムーア監督の『シッコ SiCKO』を見たときでした。

 

内容は,アメリカ合衆国の医療制度とキューバなどの医療制度との対比を行った,医療問題をテーマとしたドキュメンタリー調の映画です。ちょっと古いですけど現状があんまり変わってないようなので興味があれば是非。

 

ですが,アメリカに住んでおられる医療が受けられない方々に対して,昔の人はみんなそうやって行きたいたんだから〜・・・などとは口が裂けても言えませんね。

 

先人達が築き上げてきた文明は,誰が為でなく,すべての人間が等しく享受できるものであるはずだからです。富裕層だけ治療すればいいのであれば,成人病など贅沢によって発症した病気ばかり治療することになるわけで,分け隔てなく医療を施すという信念があったからこそ医療技術は発展してきたのだと思います。

 

とはいえ,皮肉なことにアメリカの医療は世界の最先端だそうです。

 

昔は治療できなかった病気が現在治療できるのであれば,治療する方を選ぶのは人として普通のことだと思います。どんなことでもそうだと思います。テレビや洗濯機の無い時代の暮らしに戻ることは,それをみんなが使っている現代においては,色々な理由で難しいと思います。

 

時代によって文化も暮らしも考え方も変わってきています。それは,善悪の概念にも影響があることで,日本でも身分階級を奨励していたり,あちこちで戦が勃発したりして,そしておそらく何らかの理由あって廃止したり平穏になったりしたと思います。

 

だから,歴史を紐解くときに物語風に主役と悪役を割り当てがちですが,正義とか不義とか,善とか悪とかの裁断はとりあえず置いておいて,登場人物の行動ひとつに理由を考えてみると現代に生きている私にも色々と共感できるものがあります。

 

ただ,戦国時代の大河ドラマなどは石田光成や明智光秀が主役になることがあまりありませんし,勝った方にしかスポットが当たらないことが多いので,そういう意味だと,今やっているNHKの大河ドラマなどの幕末モノは,勝者と敗者いずれにもスポットが当たるのでこの時代が一番馴染みやすいと思っています。

あまりに腹立たしかったもので・・・

2013-05-10

今日の午前の東京株式市場は,外国為替市場で円相場が一時1ドル=101円台まで下落した模様です

それを受けて,日経平均株価の上げ幅は一時,1万4600円台を回復。取引時間中としては08年1月7日以来,約5年4カ月ぶりの高値水準をつけたとのことです。

 

世間の消費意欲も少しずつ高まっていることを感じます。

 

大企業がため溜め込んでいる莫大な内部留保も,貯め込むより使った方が得ということになれば設備投資や人材の増員のために吐き出すでしょう。ですから,消費意欲の高まりは景気回復の雰囲気としてはいい感じなのではないかと思います。

 

 

しかし,それが労働者の賃金UPに行き渡るにはもうちょっと先の話となるかもしれません。それでも,先行きの見えない中,社会保険料の増額や消費税増税をちらつかされていた1年前を思い返してみれば,遥かに見通しが良くなっていると思います。

 

現在の円安傾向は,黒田新総裁が掲げた大胆な金融緩和政策(市場金利の指標となっている国債を日銀が金融機関から大量に買うことで国債の利回りを下落させて,住宅ローンや企業向け融資の金利を下げる政策)によるものといわれています。安倍政権が掲げるアベノミクス3本の矢のひとつです。

 

その円安を非常に嫌がっている国があるようです。

 

それは,外需依存が対GDPの40%を超えるグローバル資本の優等生たるお隣です。(あえて名指しは避けています。)ちなみに日本は10%程度という実は強固な内需を持っている国なのです。

 

なお,お隣は,自国の抱える優秀なグローバル企業の国際競争力を自国通貨安で担ってきました。(政府主導で誘導しているという噂も・・・・)そうであれば,日本が円安となって国際競争力が高まると自国製品が売れなくなって困るということみたいです。

 

それでも,日本の国民にとってはとにかく日本が不況から脱出することが一番の願いであるはずです。私もそう思っています。

そして,前政権が全くもって成し得なかった不況の原因といわれるデフレ脱却に明るい兆しを見せてくれた安倍政権に期待をしている方も多いと思います。

 

ところでここ最近,安倍首相のナショナリズムについてお隣から非難の声が上がっています。まぁこれは外交カードだと思います。

 

ところが,問題なのはそれと同時に国内大手メディアも同じように非難を浴びせていることです。新聞やテレビが,なぜかお隣を贔屓したり同調する光景は最近目に余るほどになりました。

 

首相の強烈なナショナリズムには色々意見があると思います。しかし,国益を第一に考えなくてはいけない立場上,形はどうあれ絶対に持っていなくてはならないはずです。だって,外交にかかわりますから。

お隣は,反日ナショナリズムを外交カードとして掲げていますし。

 

ふたたびですが,日本の国民にとってはとにかく日本が不況から脱出することが一番の願いであるはずです。

 

経済悪化で苦しんでいる人たちは沢山おられると思います。

 

20年前に住宅ローンを組んだ方で「こんなことになるとは思わなかった」と思われている方もおられるでしょう。

 

生活苦により命を絶たれた方もおられるでしょう。

 

何とか,凌いできた方にとって現政権による経済政策は最後の光明と感じられている方もおられると思います。

 

にも関わらず,イデオロギーや利益誘導目的で政策批判することは断じて許すことはできません。

 

きちんと論拠を示した上で政策批判すべきで“歴史認識が〜”という水掛け論は批判として成立してないように思います。

 

 

ちなみに緊縮財政を説くエコノミストや政策関係者の有力なよりどころとなっている論文に重大な欠陥があることをマサチューセッツ大学の大学院生が指摘して話題となっているようです。(「ラインハート ロゴフ論文」で検索すると出てくると思います。)

 

右傾化云々もつまるところ日本国民のナショナリズムが示すところです。民意が大いに揺れようとも硬性憲法においてさえ改正されるのであればそれが答えであるといわざるを得ません。(96条改正については個人的に疑義がありますが・・・)

 

何度も言いますが,どこの政党でもどんな政策でもいいから,とにかく一日も早く不況から脱出することが一番の願いであるという方が大半だと思います。

 

そして,それによって損をする人たちもいます。その人たちは自国の利益ばかり考えています。ですから,必死になって阻止しようとします。もちろん,メディアの懐柔という手も使うでしょう。(あえて名指しは避けています。)

 

我々も自国の利益を中心に考えればいいと思いませんか?

いまでしょ

2013-05-09

東進ハイスクールの現代文講師 林修先生の言葉「いつやるか?今でしょ!」がちょっとしたブームになっています。

 

受講生に発破をかけるための言葉なのだと思いますが,予備校生以外の人たちの中で流行るのもなんとなくわかる気がします。きっと,誰かに言って欲しかった言葉なのだと私は思います。

 

以前からやらなければいけないと思っている事でも諸事情からなかなか踏み出すことが出来ないという思いを感じたことがある方も少なくないと思います。そんな時,背中を押してくれるのがこの言葉なのでしょうね。

 

「いつやるか?」と聞いておきながら一方的に「今でしょ!」と簡潔かつ明快な結論を言い切られてしまっては返す言葉もありません。とりあえず,今やるしかありません。

 

色々と言い訳をつけてはやるべきことを先延ばしにしている様な人に対しては,その迷いを断ち切る強烈なメッセージです。

 

しかし,べつに怠けている訳では無いのに次々とやらなければいけない事が出てきて,山積みになってしまっているときに言われるとちょっと混乱してしまいそうですね。

 

そういえば,あるときたまたま見ていたテレビに林先生が出演されていました。そのとこに,流行している言葉の補足で「常に準備することを探さなくてはいけない」様なことを語っておられました。

 

なるほどね〜。受験勉強というのはいわば本番までの準備でしょうから,“本番にあわせて準備すればいい”と勉強の先延ばしをしようとすることに対して「いつやるか?今でしょ!」と発破をかけているということなんでしょうかね。

 

そう考えると,準備という物は私生活においても仕事においても必要な物ですから,一過性の流行語に収まらない言葉なのかも知れません。もしかしたら,この言葉を心のよりどころとして人生を切り開いていく若い方々もおられるでしょうし。

 

言われなくても分っているのに言われないと始めない。と,まぁそのあたり自分のにも心当たりはございますが,だからこそ言ってくれる人というのはありがたい存在だとこの機会に思い返してみる訳です。

恥の文化

2013-05-08

ルース・ベネディクトの『菊と刀』という本の中で,日本の文化について「恥の文化」と呼んでいます。

というのは,物の良し悪しについて世間の評判や他者の目を基準とした道徳だということです。つまり,他人が見ていなければ悪いことをしてしまうということのようです。

 

どうでしょう?思い当りますか?

 

ちなみに,それとの対比で欧米の文化を内的な良心を意識する「罪の文化」と定義して,誰も見てないところでも悪いことをしないそうです。

 

そうですか,そうですか・・・

 

まぁ欧米のことはさておき,日本の文化について他国と比較したときに「恥の文化」と例えられることについては,あながち的外れでもないと思われる方もおられるのではないかと思います。

もちろん,人の目の無いところでも悪などしないでしょうし,それは別の話として。

 

以前,ハロウィンのときに外国人が山手線の車内で大騒ぎをして問題となりましたが,日本人においては,盆でも正月でも阪神が優勝してもこれはやらないと思います。

ましてや,他国で日本人だけで徒党を組んでやることはまず無いと思います。

 

ヨーロッパのサッカーなどにおけるいわゆるフーリガンも日本ではあまり聞かれません。

 

もちろん,日本人だってお祭りなど騒ぐところでは騒ぎますし,世間もそれには寛容です。

 

おそらく,時と場所と限度をわきまえない事を恥ずべき事として共有して認識していて,罪といわれるような重大な行為を制御する場合は倫理観とかまた違った内在的な観念を持っているのではないかと思っています。

 

で,その恥ずべき行為というものですが,一般に認知されているものの他,わりと意見がバラバラなものまであります。

 

例えば,電車内での携帯電話の使用について,通話はまずいというのはほぼ一般的な認識だと思われます。では,メールやそのほか音の出ない操作は一般的に容認されているかと思います。

なお車内放送で,マナーモードに設定して通話は控えることのほか,優先席付近ではペースメーカーなどの医療機器を利用されている方のために電源を切ることを車内放送で呼びかけていることが多いと思います。

 

しかし,考えてみるとペースメーカーを利用されている方が,優先席に座れているとは限らないわけです。そうなると,優先席付近以外で通話以外の利用を容認していることとペースメーカーを利用する人を保護する趣旨がダブルスタンダードを起してしまいます。

 

そうであれば,それを解消するには電車内では電源を切っておくことになります。

 

ちなみに総務省のガイドラインは↓

『・携帯電話端末及びPHS端末の電波が植込み型医療機器へ及ぼす影響を防止するための指針


「植込み型医療機器の装着者は、携帯電話端末の使用及び携行に当たっては、携帯電話端末を植込み型医療機器の装着部位から22cm程度以上離すこと。」

 

 22cm程度とは、第2世代携帯電話端末の一部の機種が植込み型医療機器へ影響を及ぼした距離のうち最大のもの(15cm)に安全率を加えて設定したものです。
 現在の携帯電話端末は、ほとんどが第3世代携帯電話端末であり(2010年4月末時点で携帯電話全体の98%)、第3世代携帯電話端末は8cmまで近づけないと影響しないという過去の調査において、調査結果もありますが、現在、第2世代の携帯電話サービスが継続されていることから、22cm程度の指針を維持しているところです。』

 

とのことです。

 

さて,車内で携帯電話の利用についてどのように判断されるでしょうか。

 

他の乗客を見てそれに倣うか,車内アナウンスに従うのか,1%でも危険がある以上電源は切っておくか,総務省のガイドラインに則り注意して使うか,はたまた誰かに注意されるまで自分の思うように使うか,それとも誰にも従わないか・・・

 

判断基準は恥とは関係なくとも,真面目に過ぎれば揶揄されるでしょうし,あまりに勝手すぎても避難をされるでしょうし,どちらも恥ということを意識すると好ましくはない気がします。

 

だから,周りを見渡して右へ倣えをしておけばとりあえず恥はかかずに済むわけです。

 

だから,組織などで独自ルールを決めておけば,その後から入ってくる者はそれに従わざるを得なくなるでしょう。それは,統率するには良い反面,目立ったことは出来なくなりますし,閉鎖性の原因となるかもしれません。

 

なんとも,恥の文化で生きていくことの難しい部分でもありますが,信念とか恥を超えるようなバックボーンが,時に必要となることもあるのではないでしょうか。

渋滞

2013-05-07

GWは,ゆっくり休ませていただきました。

 

連休の合間も佐原へ行ったり東京へ行ったりと早くから事務所を出て直帰したためにブログには手を付けられませんでした。

 

この1週間は,あまりに天気が良く平和な日々だったため少々心も体も鈍ってしまった気がしますが,まぁゆっくり出来たということだと思います。

 

私は縁がありませんでしたが,GWといえば悩まされるのが渋滞でございます。

 

今年も結構な渋滞だったそうですが, NEXCO中日本では,高速道路利用者に「渋滞を緩和するためのお客さまへのお願い」として 次の3つのことを呼びかけているそうです。

 

○速度を低下させない

・上り坂に差し掛かると、気が付かないうちに速度が低下し、車間距離が縮まるため、後続車が次々とブレーキを踏んで、渋滞が発生します。上り坂では、速度を低下させないよう注意しましょう。

 

○車間距離をつめ過ぎない

・車間距離をつめ過ぎると、前の車の速度低下で後続車が次々とブレーキを踏んで渋滞が発生します。余計なブレーキを踏まないように十分な車間距離をとって走行しましょう。

 

○追越車線に集中しない

・混雑してくると、少しでも早く走ろうと追越車線に車が集中します。その影響で上り坂やサグに差し掛かると、追越車線から渋滞が発生しやすくなります。

また渋滞中における必要以上の車線変更は更なる渋滞の悪化を招きます。

 

 

車間距離をつめ過ぎてはいけないというのは,意外な感じもしますが,車間をつめすぎると後続になるにつれてブレーキを踏む時間が長くなるということでしょうかね。

確かに渋滞時においては,先行車のブレーキランプが点灯してからブレーキを踏むまでの時間と,先行車のブレーキランプが消灯してからアクセルを踏み直すまでの時間を比較すると後者の方が長くなるような気がします。

 

やはり,人間の反応はドミノのようにほぼ同じ速さで続いていくという訳には行かないようです。

 

現在の交通事情では,車の渋滞は致し方ないことなのかもしれません。

より改善するにはバイパスを通すなどのインフラ整備をしない限りドラスティックな改善は見込めないのかもしれません。

 

そうでなければ,もっと社会全体が時間に寛容になるか・・・そういうわけにも行かないでしょうね。

自由と個性

2013-04-30

あるテレビ番組を見ていたときのことです。とある俳優さんが自らを語ることを恥ずかしがりながらためらっていたシーンをみて,ちょっとした疑問を持ちました。

 

ご職業柄,俳優さんは役柄を演じることがお仕事なので,その時には性格がナイーブだろうが何であろうが,役柄たる人物像を演じることに集中することと思われます。もちろん,キャラクターを確立するために“自分はこういう人格”という人物像を演出することはあるでしょうけど,それに沿わないようなオファーを受けている方も割りと多くおられるように思います。

もちろん,今後の仕事の上で支障があれば別でしょうけど。

 

ところで,いつ頃からなのか分かりませんが,特に我々の世代以降の人達は“自分を語る”ことに不自然さを感じていない気がします。むしろ,入学や就職の際の面談では,自分をどれだけアピールできるかを競わされた記憶さえあります。

 

そのあたりの比較として,戦前の徴兵事情について考えますと,当時一定の年齢に男子には徴兵検査を受ける義務があったそうです。そして,検査結果を優劣にランク分けして優秀であれば即入営,その他ランクによっては兵役を免除される人もいたそうです。

徴兵に関しては,自己主張として志願など一定の事情については認められていたでしょうが,自分がどういう人格かをアピールする場はおそらく無く,それらは全体の中で決まる事で自分が決めることでは無かったのではないかと思います。いちいち自己アピールなどを聞いていたらまともに徴募できなかったと思いますし。

 

そう考えると,自分が個人であることを主張できるようになった経緯として,戦後において国家の強制により徴兵された時代を否定した歴史の沿革が窺えると思います。

また,そのほかの理由として,商取引の相手の信用を得るために“自分が何者か”をはっきりと示すために必要となったとも考えられます。もっとも人を騙すことを得意とする人も自己アピール(嘘)が上手でしょうけど。

 

沿革といえば,反戦ブームのときなど,反戦を主張する場合には自由が主張されます。国家間の戦争には,戦争に行く方はもちろん行かない方も物資の制約など,国家は戦争のために国民に大きな制約を強いる必要があるわけですが,国民それぞれが自由である限り国家からの制約を受けるいわれはない訳です。そして,自由という主張にはその根本に個性という概念を必要とするでしょう。

 

一方で,自由や個性という言葉はとても甘美な響きにもなり得ます。“自分はこういう人格”という個性を誰もが主張できてそれを自由に表現できるのであれば,こんなにすばらしい世界はありません。

 

なお,現憲法下においては,表現や職業の選択,思想良心や信教,所有財産など様々な権利が保障されていますが,実際にやりたい放題やっている人はあまりいないはずです。(法律を好きなように変えようとしている人なら新自由主義を唱える人達の中にいっぱいいますが・・・)

 

それについて憲法には,いくつかの条文の中に「公共の福祉」という言葉が含まれております。この解釈には諸説ありますが,その中での通説とされている考えを簡単に表現すると“あちらの人権を立てればこちらの人権が立たないというようことがあるので,この矛盾するもの同士をうまく立てていこう”というような風に私は解釈しています。

これは,時に一方で人権を主張する場合のブレーキにもなり得ますが,相対性を包含させたことについて,人権を守る上で特に重要な概念だと思っています。

 

ところで,自民党は7月の参院選公約の柱の一つとして,憲法改正に必要な要件を定めた憲法第96条の改正を掲げる方針を決めました。

 

以前から,自民党は憲法9条の改正を掲げていましたが,これに先行して憲法改正の要件自体の緩和を発議することとなるようです。

 

私としては,9条に関しては議論もだいぶ煮詰まってきたところで国民に真意を問う機会があった方が良いのではないかと思っています(もちろん,きちんと改正案をはっきりと提示した上で。)。

これについて,憲法第96条及びその他法律に定められた手続きに従った結果であれば,どのような結論であれ,それも憲法に定められた趣旨だと思うので従わざると得ないと思っています。

 

しかし,96条の改正を発議するにはあまりに突然すぎて議論が足りていません。少なくともまず憲法改正の要件を緩和することの理由について説明をすべきでしょう。

 

一部のマスコミでは,9条改正に関する根強い反対派の目を欺くためというようなことが言われていますが,問題はそれだけではありません。

 

国家総動員法の様な法律を制定するには,現憲法における人権規定は邪魔な存在です。仮に9条が改正される結果となったとしても(どのように改正されるかも重要な問題です。)その他の憲法の条文一つ一つに議論を重ねる必要があり,なし崩し的にいっぺんに改正されてしまうことは極めて危険です。

 

もっと時間をかけて,国民への周知を図るべきです。(マスコミがちゃんと本質を報道できるか疑問ですが・・・)

 

しかし,我々がどの国家に守られて,どういう理念の下において,自由と個性なるものを謳歌することが出来ているかを考える契機としては,貴重な時期と考えるべきかもしれません。(マスコミがちゃんと本質を報道できればですが・・・)

ルサンチマン

2013-04-26

生きている限り必ず比較という自己を判別にさらさなければならない機会が訪れます。

 

その中で自らを否定してしまう人もいると思います。

 

自己を肯定できない人がどうなるか。

 

ニーチェは,自らの努力により自己肯定を勝ち取るのではなく,相手を悪視し相手と違う自分は正しいとする観念を「奴隷道徳」と呼んでこれを批判しました。

 

そういう人は,フラストレーションをむしろ肯定して,何もできないことを正当化するようになるとのことです。

そして,社会的な価値観を否定したり,反転した解釈を行うようになるとのことです。

 

・・・・・国家観に例えると実に分かりやすいと思います・・・・

 

そして,それにより敵を想定して,その対比として自己の正当性を主張するイデオロギーにすがるそうです。こうしたイデオロギーは敵を悪の元凶とし,「だから反対に自分は道徳的に優れている」と主張する,ということだそうです。

 

正に一元論です。どうりで聞く耳を持たないばかりか嘘までつく始末です。怖いですね。

 

すみません。今回はかなりウィキから引用したのですが,靖国神社参拝が話題となっている中,とても興味深かったので掲載してみました。

 

自己肯定する努力は必要だと思います。個人にも国家にも。

 

債務整理の業務は,個人としての自己否定を少なくとも和らげることが専門家の使命だと思っています。

 

 

まぁ堅い話は終わりにしましょう。

GW突入ですので行楽の方もお仕事の方も皆様が有意義に過ごせますように。

いかんですではいかんです

2013-04-25

自分の感情が無視されたと感じる行為を誰かがしたとします。

 

そのとき,その相手を非難することは当然のことでしょうか。

 

その前に考えることは,その行為をした本人がどういった目的でそれを行ったかということや,その行為が反社会的な行為であるかどうか,また,その行為によって自分のほかに感情を害している人がいるかどうか,あと,感情を害されたという自分の主張の正当性などを考える人の方が多いと思います。

 

もし,反社会的な行為であればその他の事情はどうあれ非難しなければなりません。だからそれは置いとくとします。

 

まず,行為の目的について相手の言い分を聞いてみたくなると思います。もし,言い分としても客観的に見ても積極的に感情を害することを目的とした行為でなければ,それを非難しても,その行為をした本人やその他の人に理解されないだろう,と普通は考えると思います。

 

ですので,この行為によって同じように感じている人が他にいるかどうかを普通は考えると思います。別に直接的でなくても外から見てその行為に同じく問題を感じる人がいれば,非難しても自分の主張が正当性を帯びてくる余地があるはずです。

 

しかし,それさえ誰もいない場合,そもそも自分の主張の正当性を普通は疑います。もし,同じく感情を害されたと言っている人がいても,主張や立場が違った人だったとしたらやっぱり普通は自分の主張の正当性を疑うと思います。

 

そういった正当性を考えもせずことあるごとに「自分の感情が無視するな」と非難をしている人は,何かほかに思惑があるかどうか分かりませんが,間違いなく相手の感情など考えているはずがありません。

 

新聞でもテレビでも,いまいち主張したいことが伝わってきません。それこそ,神経を逆なですることが目的では無いかとさえ考えてしまいます。

寒の戻り

2013-04-24

ここのところ寒い日が続いています。

 

すこし暖かくなりかけたと思ったら3月に戻ってしまったような感じです。

 

雨が降ると余計に寒い感じがします。でも,たまにはいいかも。

 

今日は,相談会に行ってきます。

 

それでは。

自分の視点

2013-04-23

仕事を始めたばかりの若い頃の私の友人関係では,パチンコやらなにやら娯楽のための資金として当然のことのようにサラ金からお金を借りている人が結構いました。私は,一応友達関係は維持しつつもそのあたりについては一歩引いた形で関わっていました。

 

当時は,潰すほどの暇はありませんでしたし,あったとしても楽器やパソコンいじったり安酒でグデングデンになったりとあまりお金のかからない娯楽を楽しんでいました。

たまに当時の交際相手にカッコをつけるために高いレストランを予約したりと奮発したりしたこともありましたが,収入の範囲でなんとかやっていました。

 

クレジットカードも作らず,使えるお金を収入の範囲と縛りを掛けていた当時の私は,羽振りのいい友人達をすこし羨ましく思っていたところがあります。一人暮らしをしていても借金やギャンブルをすることに否定的だった両親の呪縛から逃れられないという感覚でした。当時の友人達もその手のことにいっさい手をつけない私を“真面目な奴”と少し見下していたところもあったと思います。

 

それから時が経って,私は司法書士の資格を取得して債務整理業務に関わることになりました。その業務の中で当時の友人達を思わせるような機会に出くわすことがあります。そうなると何か物事を表と裏の両面を見たような気持ちになります。思い知らせたような気持ちには全くなりません。ただただ,自分の親のことを考えるだけです。

 

債務整理業務を始めた当時は,財政の無駄を省いて福祉政策を充実させることこそが日本の未来を救う道だと考えていました。それは,債務整理業務やボランティア活動において福祉政策に頼らざるを得ない方々を多くお見受けするからです。貧困問題の関わりで言えば最前線に限りなく近い場所だと思っています。

 

一方で業務から離れた場所,例えば漫画喫茶で一夜を過ごすと若い人達の労働事情が洒落になっていないことが切実に伝わってきます。新聞やテレビで知ることは出来ますが,実際に現場に行かないと感じることは出来ないでしょう。働いても正当な賃金を得られない人達を救うには福祉政策だけでは足りないと感じました。

 

さらに緊縮財政によって公共事業を減らした結果,それに纏わる業種の労働環境が悪化していることも目の当たりにしました。杓子定規に会社を責めても会社自体が立ち行かない状態なのです。如何ともし難い事態です。

 

これらは全部自分で見聞きした自分独自の視点です。様々な情報が飛び交っていますが,自分の視点を機軸として私は情報の取捨を行います。時代の潮流だとかイデオロギーだとかいう曖昧な物に流されるつもりはいっさいありません。

 

そして,今よりも幸せな人が増えることを願って思うことは,日本国民が,賃金や労働時間などにおいて正当な条件の下に労働に就けるように,また,それらで得た賃金を健全な形で国内製品に消費することを国家が促すようにする方法しか思いつきません。もちろん福祉政策だって重要です。しかし,それより先にやらなければいけないことがあると思いました。

 

そう考えると,現在政府が進める“アベノミクス”は,TPP関連を除いて私は応援しています。しかし,一部気になる人が混ざっているので安易な構造改革を進めないかという若干の不安もあります。

 

かつての「タクシーの総量規制撤廃」「高速バスの安全基準緩和」「長距離トラックビジネスの『トラック保有』の義務撤廃」の様なおかしなことを行わない様,国民の監視は大事だと思います。

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