今朝,桃の節句に合せるためにまだ開ききらない桃の花の出荷を準備している業者さんのニュースを見ました。
もうすぐですね。
私は,男三人兄弟でこのイベントを体験したことがありませんでした。そんなある日のこと,女の子の家にお邪魔する機会があり,そのときに初めて見事なひな壇を見て感激し我が家にも欲しいと思いました。
そして,それを母に提案したところ,家には女の子がいないからダメ,とのことでした。そこで私は考えました。
〜家に女の子が生まれればいいのか・・・しかし,生意気な年下の兄弟は2人で十分だ。これ以上,増えたらボクに対する親の愛情がますます薄くなるだろう・・・最近長男と言うことで風当たりも強くなっているし・・・そうだ!!〜
グッドアイデアを思いついた私は,母に向かって一言
「お姉ちゃんを生んで!!」
似たような話(?)で落語の有名な演目に「粗忽長屋」という話があります。
落語立川流ではこれの現代版のような話で「主観長屋」という話があるそうです。
たしかにこれらの話は,思い込みや主観が強すぎるために客観的視点において滑稽に写ります。
ところでイタコの口寄せというのがあります。死者をイタコの体内に呼び寄せて遺族と対話をしたりする事です。あれは,客観的に見ればちょっと滑稽な気がします。しかし,死を一番身近に捉える遺族の主観を落ち着かせる,いわばカウンセリングのようなものと考えると合理的な気がします。
亡くなった人の意識は戻らないわけで,すると遺族の方には言い残したことが少なからずあるはずです。これを他人が慰めるという行為は客観から主観的意識に介入していることになります。(もちろん良いことだと思いますよ)
一方,イタコが亡くなった人になる(?)ことで主観対主観の構成となります。
どちらが,遺族の気持ちを和らげるかと言えば,遺族が思い込むという仮定付きでは主観対主観の方が良いような気がします。
人の死についての客観というのは,ニュースでよく「死者○名」というその数字の様なものだと思います。しかし,「死者○名」からは見えざる悲しみなどの主観的感情があるはずです。
客観も主観もどっち大事でバランスよく視点を切り替えることが出来ればいいなと思う今日この頃でした。
さて,土日は音楽三昧です。それぞれ違う楽器を演奏します。
日曜日は発表会のリハーサルです。
発表会に向けて,血の汗を流して涙を拭かず重いコンダラを引きずってやっとここまできました。
当日にベストを尽くせるようリハーサルも精一杯頑張ります。
なお,日曜日に声がかれているのは風邪のせいではありませんよ。