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誤った対立軸

2014-02-17

先日の大雪は,各地に甚大な被害を及ぼした模様です。

亡くなられた方もおられるようで,ご遺族の気持ちを考えるとなんともやるせない気持ちになります。

 

また,とりわけ被害が深刻なのが交通インフラだったと思います。

私の父親の故郷である越後湯沢へ続く関越自動車道は,現在も通行止めとなっている様です。

越後湯沢といえば,ウィンタースポーツでお馴染みのほか,川端康成の小説「雪国」の舞台ともなった場所です。そのような全国でも有数の積雪を観測する地域における,雪による高速道路の通行止めという事態は,この度の大雪がいかにすごかったかを物語っているように思います。

 

こうして,私達は自然災害を見舞うたびに,人間の無力を思い知らされるとともに再び同じような事態が起こったときどのように対処することが最善なのかを考えさせられる訳であります。

 

ところが,この度の大雪により,交通網が寸断されて食糧供給が断たれてしまった地域が出てきてしまっていますが,このような事態は東日本大震災のときにも起こったはずです。

つまり,震災のときの悲しい出来事を教訓として昇華できていないのですよ。

これでは,震災で亡くなられて方々も浮かばれないと思いますから,迅速に対応すべきでしょう。

 

なお,昨年の末にやっと国土強靭化基本法が成立いたしましたので,これからしっかりと予算を公共投資に費やしていただきたいと思います。

 

なお,土木関係の人材が不足しているということで,賃金がだいぶ上がっているようなのですが,それでも担い手が足りていない状況のようです。

若い頃の私の友人にもおりましたが,かつて隆盛を極めた(というか,同年代ではすこぶる羽振りが良かった)土木事業の職人達のうち,多くの方が安定した職種に転職してしまっている様です。

 

私は,土木関係者ではありませんでして,知っている限りなのですが,下請け業者で雇われた職人達はしばらく見習いをした後に一人親方として独立させて,個別に仕事を発注するという業務形態をとっている業者が多いようです。

それにより,下請け業者側からしてみれば,職人への労働基準法の規制や福利厚生など雇用側の義務を免れるわけでして,逆に言えば職人さんは固定の給与は得られないですし,労災・雇用・健康保険なども業者側が手配してくれる訳ではありません。

 

この業務形態を,公共事業が削減されている時分に取られると職人さんの生活は非常に不安定で危うくなります。このような経験をされた職人さんは,永続的な所得がよほど明確に保証されない限りは,土木業界に戻ってくることは無いのではないかと思います。

 

かといって,業者側が悪いかと言いますと,そうでもしないと経営していけない事情が間違いなくあります。

中小企業の社長さんというのは,会社を倒産させてしまうと多くの取引先からの信用を失うばかりか,従業員を路頭に迷わしてしまうということから,自らの取り分を無くしてまで必要経費や人件費の支払いに充てている方が多くおられます。

下請け業者も生き残りに必死なのです。

 

 

そんな,業者にとっても労働者にとっても苦しい時代の悲しさは,片面的な解釈では語り尽くせないのです。

 

そうでれば,必要不可欠な公共事業を行うにあたり,人材が足りなくなるのは仕方のないことでして,それでも土木業界に元気な若者や経験者という有能な人材が集まるよう永続的に予算を立てなければならないということでしょう。

 

必要な都度というのではなく永続的でないと,また同じように人材が居なくなってしまうばかりか,労働者や業者,家族や関係者が悲しい思いをします。

そして,人間が造る公共施設は間違いなく老朽化しますし,絶えず起こり続ける自然災害に立ち向かうのは人間の英知でありましょう。

 

すくなくとも現在の日本においては,よほどおかしなことをしない限り,公共事業が無駄となる余地はかなり低いのではないかと考えます。

 

ところが,公共事業ムダ論が,この期に及んでまだ世間を賑わせているのが現状です。

 

財務省がその公共事業ムダ論を煽っているという話は,それなりによく聞く話ですが,財務省という立場上そういった面は必ずしも否定できる物ではなく,また,各省庁への予算配分などに関する知識が私には乏しいので,今回は言及を差し控えるとして,民間に渦巻く公共事業ムダ論を私なりに考えてみたいと思います。

 

まず,公共事業ムダ論を訴えている人達からよく聞かれるのが「税金の無駄遣い」というワードです。日本で生活していれば税金(国税)というのは,一定以上の所得を得たり,物品を購入したりするなど,様々な機会においてほとんどの人が支払っているわけです。

 

そして税金は我々の収入の内から支出されるのですから,確かにその使い道は気になるところであります。

 

我々の支払った税金は国の歳入となりまして,その歳入を基に建前上内閣で予算を組んで国会の議決を経た上で執行されることになります。

 

なぜ,国会の議決を経る必要があるのかと言いますと,内閣の作成した予算について一番民意の近いはずの国会に目通しさせることによって,民意に従った予算という意義が顕れます。(すみません。またこの話ナンスよ。)

 

そうすると,「税金の無駄遣い」という指摘は,そもそも日本における国家の構造を民主主義国家としては不完全なものと考え,その不完全な民主主義によって構築された国家において統治の役割を担う国家権力に対しての不信感であるとお見受けいたします。

 

そうであれば,国家の構造を定めた日本国憲法を改めなくてはなりませんね!!

 

そもそも,「憲法は公権力を縛るもの」という現憲法の原理原則自体が,民主主義国家において国家権力に対する不信感をあらわにしている訳です。もちろん,国家からの圧制により国民が苦しんだという歴史の沿革の基に,権力に対する牽制が必要だとする考えは理解します。

当然,そのことから権力分立や法の支配という考えが生まれたのでしょうし。

 

もっとも,一方で“国民を主権者とする”といった向きに国家が偏りすぎることにより,政治的に混乱をきたした歴史もあり,そのような多数者の専制を牽制するために代議制統治という考えが生まれたのでしょう。

 

つまりは,国家権力も統治される国民も同じく国家を混乱に陥れる可能性を孕んでいるということを歴史は示唆しているわけで,現在において健全に民主主義を実現する前提としては,国家権力を担う側と担わない側のいずれに対しても,何らかの手段で暴走に対して抑制する機会が生まれないとならないことになります。

 

そこで,日本における国家権力の成り立ちについて考えますと,まず,国民の代表として国会議員が国民の中から選出されます。

外国人じゃありませんよ。外国人参政権を一部で肯定する声がありますが,自国の国民でさえ暴走する危険性を孕んでいるのに,外国人に参政権を与えるなんてちょっと普通では考えられません。

 

大事なのは,国会議員は国民の代表ということでして,国民の中から選出されて,代表にとなったとしてもひとりの国民として等しく(一部を除き)制約を受けるはずなのです。そこに民主主義たる意義があるわけです。

 

また,行政の長たる内閣総理大臣も国会議員でなくてはならず,国務大臣も半数以上は国会議員で構成しなければなりません。

 

つまり,立法府も行政府もふんだんに民意が包含されているといえるわけです。

 

そして,三権のうち一番民意が及ばない,いわば独立した存在である司法府の長である最高裁判所長官は,内閣総理大臣の指名により天皇が任命します。

独立している理由は,立法府や行政府に対する牽制として機能しますが,これは言ってみれば民意に対する牽制にもなるわけです。

ここ最近,司法府から立法府に対して「一票の格差」に対する違憲判決がバシバシ出ていますが,私見として異論もあるものの,三権分立が健全に機能している証とも言えるでしょう。

もっとも,衆議院選挙のときに行われる最高裁判所裁判官国民審査がちゃんと機能しているのかというのは,いささか疑問のあるところではあります。

 

このように,三権における牽制のバランスはわりと機能していていいのではないかと個人的には考えています。これは,憲法が定めた統治の規範が上手く作用しているということだと思います。

 

ところが,「憲法は公権力を縛るもの」という発想のままだと,暴走の可能性を秘めているにもかかわらず強い抑制を受けない(受けても異議を申し立てることが出来る)民意という濁流が,立法府から権力になだれ込んでしまう可能性を孕んでいるわけです。

 

ようは,民主主義という,簡単に言ってしまえば多数決によって意思を決する方法によるのであれば,場合によっては国民を上手く言いくるめられる人物でも国政に携わることになるわけです。

それは,例えば大手メディアがある事柄を扇動した結果,多くの国民がなびいてしまうことでして,それに乗じた人物が選挙で当選し易く,支持も得易くなるわけです。

 

もし,大手メディアの言い分が間違っていたとしても,民意を抑制する機能が現在の日本には見当たりません。

 

なぜなら,法の支配という建前を「憲法は公権力を縛るもの」という風に,国家権力と国民といった対立軸でくくってしまうと,“圧政を敷いて権力を貪る許すまじ国家権力”と“圧制に苦しめられる可哀想で健気な日本国民”といった構図が出来上がりますが,実際は健気に見せながら大変凶暴なレッサーパンダのような性格だった,というのがオチでしょう。

 

もっとも,私の立場から本音を言いますと,大手メディアと同じようにこの対立軸を煽っていた方が,法律専門職は都合がいいのですよ。国家権力に携わる皆様,どうもすみません。

 

ですので,国民の代表を選出し選出された議員で構成する国会を最高機関として民意を国政に反映させるのであれば,国家権力を抑制するものと同じ力で国民の暴走を抑制しなくてはならないでしょう。

 

まぁ抑制という言い方だと押さえつけるような言い回しなので,自由が云々ということにもなりましょうが,国民の規範というものを最高法規の明文に記して,たとえ国家権力に就いたとしても一国民として規範に則るべきという考え方の方が,国民が政治に参加する意識が強く芽生えて,前述の公共事業に対する「税金の無駄遣い」という言い分への対応にもなりましょうし,国政が安定するのではないかと考えます。

あああああ

2014-02-14

降ってますね・・・・

 

子供の頃は,なんか楽しい気持ちになったのに心は変わってしまうものだなぁ・・・

 

お足元には十分お気をつけください。

日本の規範は日本が決めるⅡ

2014-02-13

昨日,書いたブログに関連する事案が起こった様です。

 

静岡の弁護士が,特定秘密保護法の違憲・無効確認と施行の差し止めを求めて静岡地裁に提訴したとのことです。

特定秘密保護法は違憲だとして,訴訟が起こされたのは全国で初めてのとのことだそうです。

 

特定秘密保護法は、国の安全保障に支障を来す恐れのある情報を「特定秘密」に指定することを柱にしていて,これを漏らした公務員や民間業者らには最長で懲役10年の罰則を設けられています。

 

訴状では,秘密事項が拡大するおそれが大きく,報機関の権限が拡大し思想・信条の自由などの憲法の基本原理に違反するなどとして無効を主張しているそうです。 弁護士は,提訴後の記者会見において「国民主権でなく官僚主権の国家になってしまうことを心配している」と話したそうです。

 

う〜〜〜ん・・・・これどうすか?コレ

 

日本においての国民主権は,議会制民主主義という方法で実現している訳でして,主権者たる国民が選挙で選んだ議員によって構成された国会において,特定秘密保護法は正当な方法により可決したはずです。

 

そもそも,民主主義国家においては多数者の意見が幅を利かせることは当然のことでして,たとえもっともな少数意見があろうとも,多数派意見が民意と看做されそれを承服せざるを得ないのは仕方のないことでしょう。

 

また,選挙によって選任された各議員が,全国民を代表しているという建前を全うしていれば,少数派意見も国政に反映していることになるはずです。

そうして国会で成立した法律に民意が宿っていないというのであれば,どうすれば民主的であるのでしょうか。

 

民主主義では,多数者意見が少数派意見を駆逐してしまうことの壁を技術論で乗り越えることはなかなか難しいと考えます。

そういった事情を踏まえてでも,民主主義を全うするのであれば,国民ひとりひとりが主権者である自覚を持ち,民主的に定められた制約に服する責任を自覚し,国家を発展させるという意識を持たなければならないはずです。

 

そうであれば,少数派意見といえども真っ当な意見であれば聞き入れて議論に組み入れるとう措置が取られ易いはずです。だって,それぞれが主権者として,みんなで決めた制約に服する自覚を持っているわけですから,真剣に真っ当な意見を探すでしょう。

 

ところが,「民主的に定められた制約に服するのは自由に反するのだぁ〜〜」という言い分を通す余地を与えてしまっているのが,GHQからのありがたい贈り物である憲法ということは昨日書きました。

民主的に定めた法律を,国民にそれぞれ自由じゃないからという理由でぶち壊す余地を「権利」として与えてしまっているわけですから,法技術を堆積させていくという発想がまるで起こらない訳ですよ。

 

そういう人達は,うまくいかなきゃどっかの国から法制を借りてくればいい,という発想しかしないでしょう。

そんなわけで,アメリカの司法制度と似たようなのを司法制度改革と称しつつ導入して,弁護士を増員した結果,大混乱という顛末です。

 

なんでも当時,裁判所では,弁護士増員に伴い事件も増えると踏んでその準備をしていたそうです。コレ,日本でどのくらいの人が同じように思っていたのか統計を取ったわけではありませんが,実際に争訟が増えると考えていた方って民間にはいらっしゃるのでしょうか。

 

自分の事に落とし込んで考えれば,他人との争いを起さない理由は,別に弁護士が少ないとか弁護士費用が無いという理由ではない,というのが普通の日本人の感覚だと思います。

 

国民性というのは,制度などで簡単に変わるものではないと考えるのが普通だと思うのですが,何故それに気がつかなかったのか・・・

 

また,特定秘密保護法にしても,日本版NSCに付随して関係国との秘密情報を共有するために,関係国と同じ水準の秘密保持規定を日本において設ける,という趣旨だったと思います。

まぁその理由を邪推するのも100歩譲ってアリとしましょう。

しかし,これだけ中国との関係が緊張している中で,わが身や家族の危険を案じた人が多かった結果,防衛強化を打ち出した自民党に民意が集まったという風には考えないのですかね。

 

情報当局による監視活動を暴露したスノーデンだって,メルケル首相をはじめアメリカ以外の国とテロリストは喜んでいるのでしょうけど,アメリカ国民を危険に晒している面だってあるわけです。

 

そもそも,国会で民主的に定められた法律によって,官僚も含めた公務員に対して秘密を保持する義務を罰則付きで与える法律を制定することが,どうやって官僚主権の国家という方向になるのかしら?

制約を受けるであろう官僚から,主権者たる国民に対して,「罰則付きで公務員の秘密保持に関する法律を作って欲しい」と頼まれた覚えってありましたか?

 

議院内閣制を採る日本において,立法府と行政府に信頼をおかないしないというのは,民主主義自体に疑問を呈するという部分も少なからずありましょう。

というか,私も立法府と行政府に全信頼を置いているわけではありませんし,民主主義とそれを実現する制度自体にも疑問を持つことが多々あります。

 

しかし,法制の運営の実績を堆積させて発展させていくのか,グレートリセットよろしく気に入らない法律をぶち壊すのかでは,全く違った結果となるわけです。

そして,民主主義という道を選んだ以上は,選挙において民意を問う方法により法制を堆積させて発展させていくという手段の方が正当であと思うのです。

 

だから,現行憲法はよろしくないと言うことを昨日に引き続き申し上げている訳でございます。

日本の規範は日本が決める

2014-02-12

もし,私が世間に対して強い発言力を持つ政治評論家だったとしましょう。

 

テレビには引っ張りだこの人気評論家で,私が何かしら発言するばその発言をマスコミが大々的に取り上げる様な存在で,もし私に嫌われるようなことがあったら,たちまち悪評が千里を駆け巡ってしまう,といった程にその発言力は大きく,少なくとも周りに逆らう者はいないという設定です。

 

そんな存在である私が,誤認した事実に基づいた論理から「YOU!構造改革やっちゃいなよ!」という発言をしたとします。

その事実誤認は,その業界においてある程度知見のある専門家であれば,見抜くことができる程度のものでした。

しかし,私に目を付けられるのが怖くて誰も指摘しません。

 

そのとき,一人だけ私の事実誤認を指摘した別の評論家がいたとしましょう。

 

私は,普段から周りに逆らう者がいないため,反論には過剰に反応するようになっていました。当然,その評論家の指摘が面白くありません。

 

「YOU!干しチャイナ」という感じで各マスメディアに圧力をかけて,その評論家の発言の場をなくしてしまえば,世間への発言力は弱まり,お茶の間で「最近あの人見ないわね〜」と噂される存在となってしまいます。

 

・     ・・と,ここまでがたとえ話なのですが,情報の場を全くのほったらかしにしておくと,力関係が顕著となりそれがそのまま世間に対する声の大きさに影響してしまいます。

ましてや,政治に関する情報は民主主義を運営していくための根幹でしょうから,マスメディアに対して影響力を持つ者と持たない者との発言が,等しく世間に発せされるような情報の場を整備する必要があるはずです。

 

しかし,その場は,誰でもどんな発言でも許されるというものであってもならないはずです。

2chなどを見ると分かると思いますが,根拠の無い情報や罵詈雑言などは情報の場に持ち込まれる前に弾いてしまった方が,すっきりと整理されて的確な情報を得易いでしょう。

 

ですので,ここは民主的な方法でルールを決めて,情報の場においてはきちんと発言の交通整理をした方が,それまで世間に対する発言の影響力が大きかった者も小さかった者も「自由」闊達に発言し議論する場が出来上がったとします。

そしてまた,ここからエゴイストの私が登場です。

 

それまで,誰もが自らの発言を無条件に聞き入れていたのに,これからは世間への影響力が小さかった者からの反論を受けることが多くなるので,正直自らの立場が揺らぐおそれを抱きました。(これはまずいぞ・・・)

 

ですので,それまでの発言力を取り戻すためには,真っ当な意見であれば誰でも発言できる情報の場でのルールをなくしてしまう方法を思いつきました。

「憲法で『集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。』とされているから,そもそも発言の場にルールを設けるのは憲法違反だ。」と訴えました。

 

 

なお,憲法の表現の自由といっても,全く無制約な自由という訳ではなく「公共の福祉」による制約を受けるとされています。おそらくGHQが書いた英文を翻訳した結果分かりにくい表現となったのでしょう。

ですので,学説は,この「公共の福祉」という分かりにくい言葉の解釈として「一元的内在的制約説」という通説を編み出したようです。

 

「一元的内在的制約説」が謂うには,人権に対する制約は人権相互の矛盾衝突を調整するためのもので無ければならず,外ではなく内から人権を制約できる,という論理です。

要は,“政府の悪口を言う出版物を禁止する”という法律は違憲ですが,名誉毀損罪など他人の人権を侵害する表現を法律によって規制する事はアリなんです。

 

 

この基準に基づくと,エゴイストな私の主張をどう考えますか。

 

例えば,情報の場においては,私が余りに根拠が怪しい事実を基にして発言を繰り返していたことから,情報の場に持ち出す発言の根拠たる事実については,ちゃんと証拠やソースを提出しなければならない,というルールを設けていたとしましょう。

 

このルールについて私は非常に邪魔だと考えたので,発言の機会を失わせるものだとして表現の自由を根拠にルールの撤廃を表現の場に求めたとします。

このルールは情報の場において公益的な役割は存分に果たすように思えますが,果たして誰かの人権を害しているかというと,情報の場におけるすべての情報提供者や受領者の人権に対して制約がかかっていると見ることが出来ませんか。人権同士の衝突として見て取れないのですよ。

 

そうすると,表現の自由の名の下にルール撤廃要求に正当性が帯びてくるわけです。

しかも,個人の権利として,それぞれ表現の自由を享受していることから,みんなで決めたルールだったとしても,私個人として都合が悪ければルールに異議を申すことが出来るわけです。

 

(エゴイストじゃない)私が,憲法において「自由」という文言は掲げるべきではないというのは,こういった理由からなのです。

 

「お前らはみんな自由だー!」としてしまうと,決して優秀で力のある人が勝ち残るわけではありません。他者を妨害したり抑え付けるのが上手い人が勝ち残るのだと思います。

プロレスだって,もしルールを設けなかったら誰も上田馬之助やタイガージェットシンにはかなわなかったでしょう。

 

そういうわけで,私は自民党の改正案にもいまいち賛同できないのです。

 

私が言いたいのは,制約できる範囲を広げた方がいいという訳ではなく(広げるなら広げるでいいのですが),明確な文言を日本人自身が日本語で決めろ!ということなんです。

都知事選

2014-02-10

昨日の猪瀬前知事の辞職に伴う都知事選は,自公推薦の舛添要一氏が他の候補を抑えて当選を果たしましました。

 

私も今回の都知事選には興味がありまして,ネットやテレビなどで主要候補の方針や具体的政策などを聞いたりしていました。

 

まぁ主要4候補のうち今回当選を果たした舛添氏以外の三氏においては,いずれも立場を明確にしていて,普段忙しくて候補者の方針や情報を得ることが時間的に難しかった都民の方も候補を選択し易かったのではないかと思います。

 

とりわけ,原発政策を(なぜか)主題として挙げられていたため,原発政策についての都民の意思が鮮明に得票にあらわれた様にも思えます。

 

もっとも,主要各候補が掲げた原発以外の政策について,私が具体的だと感じたのは田母神候補と宇都宮候補のお二方で,舛添氏についてはごくありふれた抽象的な話で具体性についてはあまり感じ取れませんでした。

細川候補の語る壮大なファンタジーには大変楽しい思いをさせていただきました。

 

なお,選挙前の予想では,自公推薦を得た舛添氏が最有力候補で続いて細川氏,宇都宮氏,田母神氏という順番で報道されていたかと思います。もっとも,ネットでの支持率は田母神氏が圧倒的だったそうで,私も波乱があるのではないかと期待していました。

 

そして,投票日前日の大雪は予想通り有権者の出足を鈍らせることになったようです。この雪について私は,田母神氏に有利に働くことになると考えていました。

もちろん,民主主義の姿勢を貫くのであれば,投票率は多い(というか棄権はなし)方が民意を反映した選挙結果となるはずです。

 

もっとも,政治に感心の無い人や,富める人と貧しき人,とんでもない思い違いをしている人であっても,同じ一票として多数決に参入される権利を与えているのが普通選挙です。

片面的な視点において平等と見えるよう選挙制度を整備したとしても,多面的に見れば違う不平等が当然発生してしまうわけで,何を平等の基準とするかを万民において共有しないとキリがなくなってしまうでしょう。

 

なにが言いたいかといいますと,天候の悪化により投票率が下がる事は民主主義的には良からぬことですが,その結果が私にとって喜ばしいのであれば素直に喜びますよ!ということです。回りくどくてすみません。

 

何故,大雪で投票率が下がることが田母神氏に有利に働くことになると考えたかといいますと,テレビや新聞の垂れ流し情報に流されずにネットで積極的に情報を得ようとするネットユーザーの方は,都政に感心が高く,雨が降ろうが雪が降ろうが投票に向かうであろうと考えたからです。

 

一方で,政治に関心の無いノンポリの方々は,これだけ足の悪い中選挙に行くであろうか,ということを考えると,政策が一番具体的であり,かつ,少ない投票において確実に支持者が投票に行くであろう田母神氏に追い風が吹くのではないか,と考えていました。

 

事実,投票率は過去3番目の低さだったようです。

 

しかし結果は,舛添氏が211万2979票を獲得し,98万2594票の宇都宮氏,95万6063票の細川氏,61万865票の田母神氏と大きく差をつけて当選しました。

 

これを見て思う事は,やはり宇都宮氏と細川氏は票を分けたということでしょう。お二方とも(なぜか)脱原発を前面に掲げられていたため,脱原発が好きな市民団体の人達が候補を一人に統一して欲しいとお二方に要請したというニュースがあったかと思います。お二方とも断ったと聞いておりますが,それにしてもこの団体は失礼にも程があります。

 

お二方は脱原発を掲げていたにしろ,その他の政策も掲げられていたわけで,脱原発というイデオロギーを実現にするためだけの理由で,いずれかの候補に対してそのほかの政策を放棄しろと言っているようなものですから,原理主義も甚だしいものです。

市民団体の人は,キン肉マンの様に額に「脱」と解り易く書いておいて欲しいくらいです。

 

そして,更に票の分かれ方を見て私が感じた事は,浮動票といわれる有権者の方々は,右派(保守)左派(リベラル)との対立軸として,左派(リベラル):宇都宮氏,細川氏|舛添氏,田母神氏:右派(保守)といった形で捉えたのではないかと考えています。

 

まぁ右とか左とか保守とかリベラルとかの言葉の定義は,かなり曖昧に使われていますが,私の主観だと上記のようなイメージではありません。

すくなくとも,保守を文字通り解釈すれば,舛添氏がかつて掲げていた外国人参政権のような考えが保守的であるといえない事は明らかでしょう。というか,首相をはじめ今の政府の方針が保守的でない事は間違いありません。

保守という文字を読むことが出来れば普通はそう思うでしょう。

 

そう考えると,毎度ながらがっかりさせてくれる総理大臣が,かつて自民党を除名されたはずの舛添氏を応援するのもよく理解できます。二人の間には,利害が一致するという美しい(?)関係が構築されているのです。

 

ですが実は,私もつい先ごろまで勘違いをしておりまして,小泉構造改革の様な改革推進派を保守派と呼ぶものと思っていましたが,保守という字を素直に読めば当然違いが分かります。

 

しかし,田母神氏の様な真正な保守派の方と,舛添氏や今の政府と同じ様な親米リベラル(?)といった考えとの区別ができておらず,多くのネットユーザーも含めた一般の人には十把一絡げに「保守」として理解されているように思えます。

 

そして,誰に投票するかはっきりと決めかねている方々は,左派を敬遠しつつ保守で中道のように思える舛添氏に票が集まったというのが私の見立てです。

 

つまりは,具体的な政策の中身は,実はあんまり解っていなかったのではないかと思うのです。なんとなく,雰囲気というところで決めた方が多くおられたのではないかと思います。

 

私は,実は田母神氏の具体的な政策の内容を聞いて(東京羨ましいなぁ・・・)と思っておりまして,もし,田母神氏が当選した暁にはその隣の千葉にも余波が訪れると期待していたので,この度の都知事選の結果には正直残念だと思っています。

 

もっとも,かつて社民共産推薦の美濃部氏が都知事になったようなリベラル色のつよい東京という地盤において61万票という得票は,田母神候補をはじめ田母神陣営が本当によく頑張った結果だと感じました。

 

そして,私が今後この波を更に広げるために必要だと思うのは,構造改革派との差別化だと思うのです。

構造改革派の人達が保守を名乗っていることは,普通に字面をみれば「保守」と「改革」ということですから?????????な訳ですよ。

 

そういえば,話は変わって四街道市長選が9日に公示されました。

候補者が現職と新人のお二方なので,盛り上がりといえばアレですけど,こちらも大事です。もっとも,実は私この市長選には選挙権がありませんです。

 

とにかく,候補者と関係者の皆様におかれましては,大変お疲れ様でした。

ノーマライゼーション

2014-02-07

日本のプロ野球選手に,先天性難聴を抱えながら活躍している石井裕也投手という方がおられます。(現在日本ハムファイターズ在籍)

 

なんでも,左耳は全く聞こえず、右耳も補聴器でかすかに聴こえるといった具合なのだそうです。そんな境遇にありながら三振を奪っていく投球から「サイレントK」と呼ばれています。(うぃきぺでぃあ)

 

石井投手は,2004年のプロ野球ドラフト会議で中日ドラゴンズから6巡目で指名されて,即戦力左腕として期待をかけられていました。

話題性があったことから,入団当時からマスコミがよく石井投手を取り上げていたことを覚えています。

 

まぁやはりマスコミは話題性が先行なのですが,名前が売れただけでは生きていけないのがプロスポーツの世界です。実力がと伴わなければハンディキャップがあろうが無かろうが選手として使ってもらえないのです。

当然ながら選手起用がおかしければチーム全体の志気に影響するでしょうし,なにより選手を含めた球団関係者全員の生活に関わることもあるでしょう。

 

また,プロ野球選手は,チームという共同体に身をおく立場でありながら,翌年はチームに在籍できる保証がないという非常にプライベートな面も強く,そのため選手同士の関係においても,実力の無い者には誰も手を差し伸べない,というよりなかなか出来ないという事情なのでしょう。

 

 

そんな生き馬の目を抜くような世界において,中日ドラゴンズに在籍していたときの石井投手と谷繁捕手とのエピソードをちょっと前にテレビで見たことがありました。

 

2007年5月10日の広島戦において石井選手が登板してサヨナラ負けを喫したときのこと。

試合終了直後にベンチに戻ると,捕手の谷繁から配球をめぐって厳しい叱責を受けたといいます。その厳しさはコーチが止めに入るほどだったといわれています。

 

このときのことについて,谷繁捕手はインタビューにおいて,「チームの皆が,石井選手に対して腫れ物にさわるような扱いだったことから,これは石井選手の将来にとってよくないことだ」ということを前々から考えていたそうです。

 

そして,厳しい叱責を受けた石井選手は谷繁捕手に対して何を感じたかというと,「耳のほとんど聞こえない自分に野球のことで本気で叱ってくれたのは谷繁が初めてで嬉しかった」として,野球人生の中で最も印象の深い出来事の一つだと語りました。

 

現在,石井投手は日本ハムファイターズに在籍しており,谷繁捕手は今年度から中日ドラゴンズのプレイングマネージャーという立場でプレーすることになりましたが,お二人が今後投手と捕手という関係でチームの勝利という共通の目的に向かう事はおそらくないでしょう。

 

むしろ,敵チームとして合間見えることのほうが考えられますが,生え抜き選手の方が珍しいプロ野球の世界ですから,選手自身のことだけで必死でしょうし,選手同士が相手の将来のことを考えることはあまりないようにも思えます。

だからこそ,互いにプライベートでありながら相手を思いやる信頼関係が美しいのではないでしょうか。

 

このような対等でプライベートな個人同士が織り成す美しい信頼関係というのも,プラベートの垣根を取っ払ってしまえば相互に利害が一致する関係にもなりえることから美しいものとはなりえないでしょう。

 

同じ共同体に所属して共通の目的を持ちながら互いにプラベートな存在であるからこそ,信頼関係が光を放つのです。

 

そして,ここまで読んでおられるうちに次に何の話題となるか,お気づきだと思いますが,3日に渡り佐村河内さんの話題です。

 

どうも聴覚障害があるという本人のプロフィールが,新垣さんの証言により揺らいできているようです。

 

既にネットでは,あるテレビ番組の中継でナレーターの言葉に思わず佐村さんが返事をしてしまい,それを見た手話通訳の人が慌てて手話をするというシーンの動画が上がっています。

 

これを見れば,どんな人でも,間違いなくテレビ関係者は気づいていたはず,と思うはずです。

 

それでも,今回の新垣さんの発言まで誰も指摘しなかったというのは,バラエティといえども,メディアという情報を発信する立場として大いに問題があるでしょう。

 

もっとも,メディアとしては,“ハンディキャップを背負った作曲家”として,佐村さんを売り込めれば,メディアとしても佐村さんとしても利益になるというわけですから,難聴の事はお互い詮索しない方が都合が良い事実なのです。

 

もっとも,メディアというのは,我々の心理を鋭く観察していて我々が潜在的に欲している情報をつぶさに読み取り,それを提供して広告料を得ているわけでして,メディアが儲かっているという事実は,メディアが我々の潜在意識を如実に映し出しているということでもあるでしょう。

 

つまり我々は,佐村さんという被爆2世で難聴を抱えてとても苦労した“可哀想な”作曲が世界に認められることを欲しているわけなのです。

 

我々が欲した日本が世界に誇る作曲家というのは,幼い頃から英才教育を受け何不自由なく育ったエリート作曲家ではなく,難聴というハンディキャップを背負った“可哀想な”作曲家だったということでしょう。

 

そして,欲求が満たされれば,違和感に対しても実に寛容になるということでしょう。佐村さんのちょっとしたおかしな仕草も,自分が望んでいたストーリーを壊したくないという心理が働いて目を背けたのではないでしょうか。

 

そして佐村さんは,そのような大衆心理をよく知っていたのではないかと思います。

こうして,日本発の壮大な作曲家の物語は世界中に繰り広げられそうになったのです。

 

しかし,難聴の人について“可哀想”ではなく対等な立場として尊重していれば,石井捕手を叱った谷繁捕手の様に,腫れ物にさわる様な扱いはしないはずで,おかしなことは指摘できたはずです。

 

 

谷繁捕手は,石井投手の難聴を“可哀想”と思ったのではなく,難聴のことを皆が気にするあまりに,実は石井選手が孤独に陥っていることについて憂慮したのでしょう。

それは,石井投手を自分と同じプロ野球選手の一員と考えていればこそ,同年代の他の選手とのチーム内での扱いの違いに気づくことができたのだと思います。

 

もし,谷繁捕手が,石井投手の孤独に気づくことが出来なければ,石井投手は,“野球人生の中で最も印象の深い出来事”に出会うことが出来なかったのです。

 

 

それにしても,昨今では,“ノーマライゼーション”という,障害者と健常者が特別に区別されることなく共に社会を構成していくという理念がよく語られていますが,思いやりという観点から見ると完全に言葉が独り歩きしているということを,今回の顛末で気づくべきじゃないのかな,と思いました。

 

この理念を現実のものとするのであれば,必要なのは谷繁捕手のような思いやりではないでしょうか。

被害者意識

2014-02-06

今日も大変冷え込みました。

 

インフルエンザが流行っているようなので皆様・・お気をつ・・・ぐぇヴぉっ!

ください・・・わたしはだいじょうぶでぇす。

 

さて,昨日の話題に引き続き佐村河内守氏の話題ですが,とてもHOTな感じです。風邪が治るかもしれません。

 

18年にわたり佐村さんのゴーストライターをしていた方が記者会見を開きました。

 

聞こえてんじゃん・・・

 

まぁでもNHKの特番を見てたほとんどの人は,インタビューに対するあまりにスムーズな受け答えについて,疑問を持たれた方も多いと思います。「やっぱり」と思った方も少なからずおられることでしょう。

 

とはいえ,アレだけ堂々と受け答えされると逆に疑いにくくなるということもありましょう。

やっぱり,ああやって道徳の欠片もないようなことをやる人は,善良(?)な我々の心の遥か斜め上を地で行っているのでしょう。見抜けなかったとしても,それはある意味まともな人という証で,仕方なかったんじゃないかと思うのです。

もっとも,テレビみたいなメディアの世界では普通にこういう人達が蠢いているということとして,教訓とした方がいいんじゃないでしょうか。

 

だって,18年間ですよ!18年!音楽関係者が関わっていながら,誰も違和感を指摘できなかったのは不自然ですよ。

 

まぁテレビの世界は本当に色々な演出をする人がいるなぁと思いました。所詮,虚像の世界なんでしょう。

 

とはいえ,発表された曲は,ちゃんと楽曲として成立しているわけで聴いて良いと思ったからCDを買ったり,様々な用法で利用されたりしたわけでして,そこには利用者の自己決定の意思が働いたはずです。

 

この自己決定に何かしら制約を受けて,やむなく佐村さんのCDを買ったのなら文句のひとつも言いたくなるでしょうけど,作曲者が実は違う人だったとしてもそこまで腹を立てる気持ちがちょっと私にはわかりません。

 

自己決定に自分で責任が持てないのであるならば,芸術など表現にはしっかりと制約をかければこのような事態にはならないはずです。

もちろん,CDだと思って買ったら中身が握手券だった,というのであれば商品に問題がありますが,しっかりとした楽曲が録音されたCDとして成立していますし,それを聞いていい気分になれたのであれば商品の利益を享受しているといえるでしょう。

 

もし,同じようなケースとして,出版されたのが本など言語によるものであれば,これは悪質だと思います。なぜなら,言語は意思を伝える手段ですから虚偽のことを記載することはハッキリとした嘘となります。また,言語を発する立場によって言葉の意味が違ってくるでしょうからそれは商品としては問題があるでしょう。

 

しかし,音楽は作者の意思を伝える手段ではありません。(まぁクレジットは嘘になりますけど)

別に,鑑賞者は,作り手が考えた曲の意図なんか無視して思い思いのイメージで楽しめばいいのです。サザンオールスターズやチューブを冬に聴くのは聞き手の自由なわけです。

だって,それで心地よさを感じたのなら商品としての利益を享受しているわけですから。

 

歌詞にメッセージを載せていることもありますけど,これだって言葉通りに受け止める必要などぜんぜんないと思います。鑑賞者自身が購入を決めて実際に買ったのですから音楽の聴き方をとやかくいわれる筋合いはないはずです。作者がそれに苦言を呈するのであれば,誰の金で生活できてるんだ!ということでしょう。

 

それにしても,たいしたことも出来ないくせにアーティスト気取りで「げんぱつはんた〜い」などと叫んでる人がここのところ非常に目に付きますが,それまで日本の電力という恩恵を受けながらそのことを棚に挙げてまぁよく言えたものだと・・・

 

音楽を仕事にしている方は,表舞台に立つ者のみならず,裏方の方々や地場のミュージシャンやそれを支える関係者など様々な方がおられるでしょうから,少なくとも電気が値上がりしたら困る人も沢山おられるわけで,たとえば,ライブハウスの経営者にしてみれば電気料金の値上げは間違いなく経営を圧迫することでしょう。

 

それを,デビューするまでの間,お世話になっていたにもかかわらず,有名になったとたん掌返して脱原発などというポピュリズムに乗っかり,地場に根ざしている方を忘れるなどとはとんだ背信行為です。

 

もっとも,マスメディアが話題性を先行させようとすると,誰もがそれに乗じようとするわけで,結果として真面目にコツコツとやっている人にスポットが当たらなくなるわけです。

 

話題性だけで誕生させたヒーローは当然実力があるとは限りませんでして,今回のようなケースも有り得るわけです。

そのことは,色々な個性のある人達から注目を奪って一人に注目を当ててしまうことですから,大衆の価値観を均一化してしまうのでしょう。それは,選択の余地が少なくなるということに繋がるため大衆の自己決定という意識を薄めることにもなりますから,思っていたものと違うとブーブー言い始めるのでしょうな。

 

 

これについては,ちゃんと専門知識を持った評論家が出るところに出て一般の人には分からないような技術について説明をした方がいいと昨日書きましたが,そのことは価値観を多様化させること自体にはなると考えています。

 

ただ,ここまで大衆が自己決定した事柄について自身で責任を持てないとなると,やっぱりなかなか良質なものというのは育たない気がします。

 

ちなみにフィギアの高橋大輔選手は,佐村さんの作曲とされていた曲をショートプログラムでそのまま使うそうですが,やはり一流選手だけあって精神も立派なだと思いました。

 

まぁそういきり立たずとも,佐村さんのポストをゴーストライターの新垣さんが埋めれば万事解決じゃないですか。

 

なんせ,お二方ともお耳はご無事のようですから,むしろ喜ばしいことですよ。

作曲家の魂

2014-02-05

難聴の作曲家佐村河内守氏が,自らの名義で発表していたこれまでの楽曲は実は他の作曲家が手がけた曲である旨の発表をしたことを,今朝のニュースで知りました。

 

一見して(はてこの方・・・どこかで見たような・・・)という感じでしたが,かつてNHKの特集で一度拝見していたことを思い出しました。

 

楽曲については,あまり存じ上げませんでしたが,大変な売れっ子さんのようで,有名曲が色々とあるようです。でも,ニュース自体には,私はあまり驚かなかったかなぁ。

 

まぁそれはそれで,かつて見たそのNHKの特集では,解説の人が「佐村河内守氏(どこまでが苗字・・・)の作曲は,クラシック音楽ではあまり使われない“トライトーン”(三全音)をふんだんに使う非常に前衛的な手法である」と紹介していたことを思い出しました。

私は,それを(ふ〜ん・・・)と鼻をほじりながら見ていた記憶があります。

 

一応,アマチュア作曲家のハシクレであります私が説明しますと,“トライトーン”とは,

三全音と呼ばれるとおり,3つの全音を挟んだ音程(インターバル)のことを言います。

具体的な例を挙げると,ドの音とソの♭(ソより半音低い音)との音程(増四度,異名同音で減五度)のことを言い,非常に不安定な響きとなります。

いわゆる不協和音の一種でして,中世においては“悪魔の音程”などと呼ばれて忌み嫌われていたそうです。

 

ところが,現代のポピュラーミュージックなどでは,避けること自体が難しいくらい(例えるならmade in chinaを避けることくらい)歌謡曲などで一般に聴くことがあります。

おそらく,ほとんどの人が最初に耳にする“トライトーン”は,「起立!礼!着席!」の♪チャーン・チャーン・チャーン♪ の2番目のチャーンではないかと思います。(この音の動きをドミナントモーションと言います。)

 

 

そして話を戻して,NHKの解説についてそんなことを考えながら特集番組を見ていたのですが,難聴の方が作曲を手がけること自体については,不可能という訳ではないことは認識していました。かの有名なベートーベンも後発的に難聴になってしまったといわれていますし。

 

しかし,番組の中で氏の絶対音感が,難聴において作曲するための条件であるかの様に異常なまでに強調されておりましたが,そんな事はないはずです。

実際に,音を確認せずに記譜のみで作曲することも熟練した作曲家であれば普通に可能でしょうし,絶対音感の無い私程度の者でも簡単な曲であれば音を確認せずとも記譜だけで作曲できます。

 

つまり,難聴になったとしても作曲するのに絶対音感など全く必要ないはずです。

 

そもそも,絶対音感というものを考えると,たとえば,アカペラである曲のメロディーを口ずさんだとします。

そして,そのメロディーを録音して,カラオケなどで原曲キーと並べて聞くと音程がずれている人がほとんどだと思います。逆にずれていないのであれば絶対音感の資質があるのでしょう。

 

もっとも,カラオケのキー調節機能によりオケのキーについて細かい調節ができれば,口ずさんだメロディーと原曲がぴったりとあうキーが見つかるはずです。それは,口ずさんだメロディーの第一声からの動き幅を,ほとんどの人が自然に理解できているからです。

 

大抵の人は,聞き覚えた曲について絶対的な音程は記憶していないものの,相対的な音程(インターバル)は記憶しているものなのです。

 

難しいのは,それを五線譜に起したり,楽器で演奏したりするためには知識や技術が必要ということです。聴くという受動的な行為により音楽を鑑賞する一般の人に対して,共通認識を与えられなければ音楽なんて売り物になりませんです。

 

その共通認識の素材たる楽曲の作成段階では,別にどのキーであっても特段問題ないわけです。キーの問題は演奏楽器や歌手の音域によって顕在化しますが,曲のキーを変える事(移調)自体はそれほど難しい技術ではありません。(譜面におこすのは大変な作業ですが)

 

ですので,自分の頭の中で描いたメロディーやハーモニーを譜面に書き出したり,演奏したりする方法により,客観的に表現できる技術と知識があるのであれば,絶対音感を持たない人が後天的に聴覚が不自由になったとしても,頭の中で描いたメロディーを客観的に表現する方法を持っていれば,作曲が不可能というわけではないはずです。

 

 

ところで,なぜ自分が引き受けた作曲の仕事を他の人に作曲させて自分の名前で発表したのか,ということに疑問が残ります。

 

まぁ,自分に対して発注された仕事を他人に任せ,出来上がった作品を自分の名前で出すというのは,いかにも人間らしいですし,世間一般でよく聞く話だと思うので,取り立てて疑問には思いませんが,例え難聴であろうとも自分で作曲を出来たであろうに何故報酬まで払って他人に作曲させたのか,というところを不思議に思います。

 

なお,ゴーストライターを使う様になってからの作曲の過程は,氏が曲の構成や楽器の編成,曲調のイメージをライターに伝えてライターに作曲をしてもらう形で作品を仕上げたと報じられており,全くの丸投げというわけでも無いようです。

 

もっとも,自らの名で作曲家と名乗るからには,当然,作品が完成するまでの作曲家が手掛けるべき過程すべてを氏が手掛けていると,曲を聞いた誰もが思っていたでしょうし,作曲家の名というブランドによって動くお金も変わるでしょうから,これはいただけない話だと思います。

 

 

しかし,ゴーストライターの利用について,もし自分に発注された作曲の仕事をそのまま継続させて収入を得続けたい,という理由だけによるなら,むしろゴーストライターを使うのは危険なことと考えるでしょう。なぜなら,ゴーストライターに暴露されるリスクを背負うわけですから,自分の名声と収入を一瞬に奈落の底に突き落とすことが出来るという生殺与奪権を他人に握らせるのは避けるべきだと考えるはずです。

 

また,結果として難聴である事は発表している訳ですし,記譜などの細かい部分で補助するアシスタント的な役割の人を雇ったとしても作曲家の名には傷が付かないと思われます。

 

このことを推測するに,難聴となってしまった氏が,完全に自分で作曲した曲を自らの聴覚により確かめることが出来ないということに恐怖を感じたのではないかと考えます。

自分が実際に作曲したとしても,自らで何の確認も出来ないまま納品することに逡巡があったのだと思うのです。

そうすると,力のある作曲家にゴーストを頼めば,少なくとも依頼者に納品される作品は依頼の内容に応えることが出来ているであろう,という考えがあったのではないかと考えます。

(そうかんがえると,現実社会と自分の頭の中の理屈との乖離に対して,知ろうと思わないばかりか興味さえ持たずに,国の中枢機関において構造改革などとあれこれ弄繰り回そうとしている人達と比較すれば,実害も少なくまだまともな感覚を持っている方なのではないか,とも思えるわけです。)

 

もっとも,難聴が重くなった時点で仕事を断るか,そのゴーストライターとなった作曲家を紹介すれば良かったのでしょうけど,それでは収入がなくなってしまうという理由からその選択肢が選べなかったとすると,その時あたりから表と裏の作曲家同士の一蓮托生の関係が始まったのでしょう。

 

そして,おそらく,秘密を保持する目的もあり,氏が実際に仕事を頼んだライターはひとりの特定の人物であると思われます。氏の名前で仕事を請け,ライターが書いて,それを氏の名前で発表してマージンを手渡すという関係が出来ているとすれば,正に一蓮托生といえるでしょう。

 

 

しかし,思うにそのライターは既に名のある人なのでしょうか。

 

そうでなければ,自分が作った曲を自分のクレジットで世に知らしめたいという欲求が起こらなかったことについて,私は不思議に思います。

逆に,昔はその名を馳せた作曲家だったけど現在は・・・という作曲家がゴーストライターであったのであれば,それほど不思議には思いませんが,なんせ名を借りたとはいえ18万枚ものCDの売り上げを記録するほどの実力者です。

例え名声に興味が無くとも「母さん・・・俺が作った曲が全国で流れてるよ・・・」という風に言ってみたくなるものじゃないかなぁ,と思うのです。

 

そうすると,氏とライターの関係の密接さについても気になるところではあります。

 

そもそも,このたび真実(?)を語るに到った動機は一体何だったのでしょう。

 

 

そして,最後に苦言を呈したいのはNHKをはじめマスコミ!!

 

よくもまぁ〜〜見事に・・・と言いますか,取材の際に見事に気がつかなかったというのが不思議です。というか,不思議というより不自然です。

 

これは,「無謬」というタイトルで以前に本ブログでも取り上げましたが,番組作成において主観的なストーリーを一旦創り上げてしまうと,そのストーリーに齟齬が生じる様な事実の存在は,それに携わる人にとって非常に発見しにくく,また,発見しても抑え込んでしまうという意識が働いた,ということではないかと思うのです。

 

もちろん,それを鑑賞している人にとってはなおさらの事でしょうから,間違いを見抜けなかったと悔やむ必要は全くないと思いますが,取材をしたマスコミが氏に対して憤る理由などないでしょう。

 

そして,ファンだった方においては,実際に作曲した人とその人の聴覚が如何程であろうとも,奏でられる旋律を美しいと率直に思ったのであればそれでいいではありませんか。

 

もっとも,楽曲には作曲者の魂が込められるとは言いますけれど,実際にそれは一般の人にとって分かりにくいという事実が露呈したわけでして,その事は人の心を読みとることが難しいことを考えれば当然のことでありましょう。

 

だから,話題性ばかりを煽るのではなく,評論家という立場の人がしっかりと専門的な技術的の解説を一般の人に解る様に解説しなければ本物の技術者が生きていけず,質の悪いものばかりが市場にはびこることになるゾ!と訴えているわけでございます。

ゆき

2014-02-04

結構降っております。

 

私は早めに帰宅しますが,帰り道お足元には十分お気をつけくださいませ。

技術は資本に敗れ去るのか?

2014-02-03

ワタクシ,少々調理をかじった経験がありまして,見習いの頃にお店の従業員の人達にまかない料理を作っていた時期があります。

 

所詮,従業員のまかないというべからず,アルバイトの学生などは賄いを楽しみにしていたりして,下手な物を作るとかなりブーブー文句を言われることから,結構神経を使っていました。

 

そんな事情から,かなり慎重に味見をしていましたが,それが意外と自分の味覚を鍛えることになったりしました。

もちろん,自分で作った料理ですから使われている食材は全て把握しているのですが,素材の風味や調味料の加減を調整するためには目分量だけでは,私の経験では足りませんでした。

 

まぁそうやって,様々な料理を何度も味見していると,他所で食事したときなどにその料理にどんな素材が使われているのかが,自然と分かるようになってきます。当時は化学調味料にも敏感でした。

 

そうなると,多少お金を出してでも美味しい料理が食べたくなり,一人で気になったフレンチのお店に入りコース料理を頼んだり,そんな感じで食道楽を楽しんでいたことがありました。

 

そんな風に色々なお店に顔を出してみて思った事は,私が美味しいと思ったお店が一概にお客さんで賑わっているということではないということです。中には,閉店してしまったお店もありました。

 

一方で,う〜ん・・・と首を傾げざるを得ないお店が意外と賑わっていて,雑誌などでもてはやされていたりすることもありましたので,そのあたりはちょっと複雑な気分になりったこともあります。

 

そのことを,私の舌がおかしかったのだ,と言われればそれまでなのですが,一応仕事として調理に携わっていたので,少なくとも一般の方よりも味覚が敏感であったという自負はありました。(今はもうダメです。)

 

そして,その印象は現在でも強く残っていまして,これをどう考えるかというと,料理店をお客さんで賑わうお店にする条件には,ステータスや雰囲気,話題など,料理の味以外の要素をお客さんに味あわせる必要がある様に思えます。

例えば,雑誌に掲載されたとか,芸能人が勧めていたとか,そういう話題という要素も人気店には必要ということです。

 

逆に,お店を利用する側である一般大衆にその傾向が強くなり過ぎると,お店側としても料理自体よりも広告宣伝や話題づくりに資金と時間を傾ける傾向になるでしょう。 

そういうお店にとっては,料理人の持つ技術というのはお店の本質ではなくなってしまうでしょう。

この事は,飲食店の内部事情なのですが,お店の経理を司るマネージャー的な立場の人と調理場の長はよく喧嘩をします。

原因は様々なのですが,特に調理場サイドの良い食材や使ったり新しいメニューを取り入れたいという要望と,極力経費を削減したいというマネージャーサイドの要求がぶつかり合うことが顕著です。

 

つまりは,料理店の経営姿勢が広告宣伝や話題づくりに資金が偏れば,その分食材の劣化や料理人のモチベーション低下にも繋がるわけです。

 

また,お客さんをなるべく多く入れたほうがお店の収益にもなることから,調理時間を短くすることが必要となり,作業時間を極力簡略することが要求されるでしょう。

その結果,出来合いの食材が多く使われ,また,学生のアルバイトでも仕事が出来るようにマニュアル化ないしシステム化されていくことでしょう。

 

その傾向は,料理人が長い時間をかけて覚えた技術を発揮する機会を失わせることになりかねません。

 

もし,そんなお店が話題づくりに成功してお客を多く呼ぶことが出来たなら,後は料理を提供することだけで,収入を得ることができるのです。

そういうお店にしてみれば,大半のお客さんには,厳密にどのような技術が施されて,その技術がどれくらい高度なのかは分からないのと考えているのでしょう。

だからこそ,広告宣伝や話題づくりに資金を費やして,食材費や人材費などは極力抑えるといった経営手法が為されるのです。

 

この事は,我々消費者に少なからず不利益をもたらすことでしょう。

例えば,最近の話だと芝海老と広告を打ちながらバナメイエビを提供するなどして,話題となった食材偽装表示の件です。

 

このことは,行政庁云々という結論で収拾がついてしてしまいそうですが,調理場と経営サイドとのパワーバランスが保たれていれば,起こりえなかったと私は考えています。

 

つまり,職人の技術が資本に圧倒されてしまったことによるものだと考えるのです。

 

そして当然ですが,お店の経営者が,美味しい料理を客様に提供するという崇高な理念に基づかず,単に儲かればよいという意識であれば,情報には流されるけど味は分からない一般のお客さんが多いという環境は非常に都合が良いわけです。

そのようなお客さんを相手にして儲かるならば,たとえ技術が高くとも高給取りの料理人は,その経営者にとって価値の無い存在でしょう。

 

そうやって,我々消費者は良質な料理から離れていき,悪質な物を有難がって頂くようになり,その結果は外食産業の所得格差と劣化にも繋がるわけです。

 

その悪い流れを断ち切るためには,評論家という立場の人が高い技術を褒賞して,質の高いお店を推奨することで,高い技術が施された良質の料理というものを世に知らしめるという方法があると思います。

 

もっとも,テレビで見るような評論家も何か技術に対する敬意というのが感じられず,単に上手いかマズイかという一般に分かりやすいことしか言わない人ばかりのように思えます。

 

評論家が一般人に分かりやすい説明をするというのは,評論家の有する専門知識を専門知識の無い人に理解をさせるための技術でしょうから,実際には知ろうという意欲が無い人に説明して理解させるというのは困難というより不可能なわけです。

そもそも,専門知識自体が分かり易かったら評論家は必要なくなってしまいます。

 

とすると,簡単な言葉で済ます評論家の温床となっているテレビなどのメディアというは,多くの人にとって,非常に受動的でかつ思考を休ませている場となっているのかもしれません。

そして,それがいいか悪いかは置いといて,メディアも資本を中心に物事を判断するでしょうから,言う事が分かり易いと評判の大衆受けしそうな評論家を視聴者に紹介して,その評論家が都合の良いお店を褒め称え,気に入らない店を罵倒したりして,その関係を構築していくのでしょう。

 

そんな,ゆる〜い関係によって,ストイックに技術の研鑽に励む者のモチベーションをそぎ落として,一般の人の無知に更に付け込むという,ゆる〜いスパイラルを生み出しているという推測は,考えすぎなのでしょうか。

 

今回は,私がかつて経験した飲食業界のことを例に出しましたが,(法律は一般の人に説明すること事態が実務家の仕事なので例として挙げにくかったのです。)様々な業界でもいえると思います。

 

特に,多くの技術者を追いやった公共事業(土木)バッシングや,原子力発電については,あまりに露骨なように感じます。

 

評論家が劣化したというよりは,ちゃんと専門的な技術を説明できる評論家がテレビや新聞など表舞台に出してもらえない,或いは,テレビ討論などで反対意見も一応聞きました,という既成事実作りのだけのために発言させて,恣意的に編集されるなど,なかなか一般の人に聞こえるように意見を表明する機会が与えられていないことが実情でしょう。

 

“一生懸命やってもどうせ報われない”という様な,いわゆる閉塞間といった悲しい気持ちは,実はお茶の間から発信されているのではないか,と疑ってしまう今日この頃でございます。

家に帰ったら手洗いうがい

2014-01-31

今日は暖かいですね。

 

天気予報では,今日から日曜日にかけて暖かくなるそうです。

 

しかし,ノロウィルスが流行っているそうなので,健康にはくれぐれもお気をつけください。

 

では,また来週

原発より恐ろしい外国人参政権

2014-01-30

都知事選の主要候補者におけるテレビ討論会が行われたそうです。

 

そこでなぜか,原発の話題があがったようなのですが,原発と関連して我々が支払わなくてはならない電気料金の値上がりの言及した候補がおられるそうです。

 

もちろん,主要4候補で唯一安易な脱原発を謳わなかった田母神俊雄候補です。

 

そういえば,また電気料金が上がるようです。

 

それについて,円安の影響とニュースで報道してますが,為替レートが電気料金に何故関係するのかというと,火力発電に必要な液化天然ガスなどを輸入に頼らざるを得ないからです。

 

国土が狭く,資源に乏しい我が国では,輸入したウランを持続的エネルギーとして利用できる原子力発電をやめると必然的にその代替が必要となります。

 

その代替を火力発電が担っているのが現在の状況ですが,それが電気料金の値上がりとなっています。これを円安が問題などと言ってしまうと,金融緩和をストップして2年前の暗黒時代に逆戻りすることになります。つまり,デフレにより国民の所得が延々と減り続けるのです。

 

国民の生活を念頭においてエネルギー政策を語るなら,脱原発を目的化とする事は,すなわちイデオロギー国民に押し付けることですから,ハッキリ言って有り得ないことです。

 

もっとも,東京都の持ち株比率は1.2%で,議決権ベースでも1.34%だそうで,本来なら話題の中心なるようことではない気がします。

 

もっとも,他の候補と並んで安易に脱原発を謳わず,都民のことを考えている田母神俊雄候補の誠実さはこの議論でよく伝わってきました。

 

そして,外国人参政権についても田母神俊雄候補は言及したようです。

 

参政権ということで,読んで字のとおり政治に参加する権利でして民主主義の基盤をなすものです。

民主主義には,政治参加できる人に一定の枠を設けなければ無ければなりません。

都知事選だったら東京都の事は東京都民の意思に沿って政治を進めるわけですから,東京都民に選挙権が与えられるわけです。

 

つまりは,都民に課される制約について,その意思を反映させることができるのは東京都民のみというのは,当然のことでしょう。

 

それを踏まえて参政権を外国人に与えるというとどういうことになるでしょうか。

 

たとえ外国人であっても日本で永住してその後も済み続けようと考えるのであれば,帰化という方法があります。

帰化の手続きをするということは外国人にとっては,日本に永住する覚悟のあらわれでしょうから,日本において義務を果たして国益を享受する意思といえるでしょう。そうであれば,ともに日本の将来を考えるはずです。

 

そういう帰化という方法があるにも関わらず,それをしない者が選挙権を得るというのはどうなのよっ!というか,民主主義に反しているとハッキリいえるでしょう。

 

市民が受ける制約について外国人の意思が反映するわけですから。

 

いや〜おそろしいですなぁ・・・

原発より恐ろしい外国人参政権

2014-01-30

都知事選の主要候補者におけるテレビ討論会が行われたそうです。

 

そこでなぜか,原発の話題があがったようなのですが,原発と関連して我々が支払わなくてはならない電気料金の値上がりの言及した候補がおられるそうです。

 

もちろん,主要4候補で唯一安易な脱原発を謳わなかった田母神俊雄候補です。

 

そういえば,また電気料金が上がるようです。

 

それについて,円安の影響とニュースで報道してますが,為替レートが電気料金に何故関係するのかというと,火力発電に必要な液化天然ガスなどを輸入に頼らざるを得ないからです。

 

国土が狭く,資源に乏しい我が国では,輸入したウランを持続的エネルギーとして利用できる原子力発電をやめると必然的にその代替が必要となります。

 

その代替を火力発電が担っているのが現在の状況ですが,それが電気料金の値上がりとなっています。これを円安が問題などと言ってしまうと,金融緩和をストップして2年前の暗黒時代に逆戻りすることになります。つまり,デフレにより国民の所得が延々と減り続けるのです。

 

国民の生活を念頭においてエネルギー政策を語るなら,脱原発を目的化とする事は,すなわちイデオロギー国民に押し付けることですから,ハッキリ言って有り得ないことです。

 

もっとも,東京都の持ち株比率は1.2%で,議決権ベースでも1.34%だそうで,本来なら話題の中心なるようことではない気がします。

 

もっとも,他の候補と並んで安易に脱原発を謳わず,都民のことを考えている田母神俊雄候補の誠実さはこの議論でよく伝わってきました。

 

そして,外国人参政権についても田母神俊雄候補は言及したようです。

 

参政権ということで,読んで字のとおり政治に参加する権利でして民主主義の基盤をなすものです。

民主主義には,政治参加できる人に一定の枠を設けなければ無ければなりません。

都知事選だったら東京都の事は東京都民の意思に沿って政治を進めるわけですから,東京都民に選挙権が与えられるわけです。

 

つまりは,都民に課される制約について,その意思を反映させることができるのは東京都民のみというのは,当然のことでしょう。

 

それを踏まえて参政権を外国人に与えるというとどういうことになるでしょうか。

 

たとえ外国人であっても日本で永住してその後も済み続けようと考えるのであれば,帰化という方法があります。

帰化の手続きをするということは外国人にとっては,日本に永住する覚悟のあらわれでしょうから,日本において義務を果たして国益を享受する意思といえるでしょう。そうであれば,ともに日本の将来を考えるはずです。

 

そういう帰化という方法があるにも関わらず,それをしない者が選挙権を得るというのはどうなのよっ!というか,民主主義に反しているとハッキリいえるでしょう。

 

市民が受ける制約について外国人の意思が反映するわけですから。

 

いや〜おそろしいですなぁ・・・

科学と効能

2014-01-29

今朝は妙に鼻が詰まるなぁと思っていたところ,やってきましたよ〜。

 

気象情報会社「ウェザーニューズ」(千葉市)は29日、東京都と関東の6県が26日に花粉シーズンに突入したと発表したとのことです。

 

鼻づまりは,集中力や思考を減退させるそうで,実際に朦朧とまではしないもののなにか調子がよくありません。

 

これが,春まで続くと思うとゲンナリしますが仕方ありませんね。

 

もっとも,ワタクシは花粉症に罹患する前の子供の頃から慢性的な鼻づまりでした。

 

結構,悩みまして花うがいや点鼻薬,耳鼻科にも通いましたが治らなかったのですが,背筋を気にし始めてからだいぶ緩和しました。

身体の仕組みは分からないことだらけですが,非常に複雑に関連しあっているという事は間違いないと思います。

 

肝臓が悪くなると背中が痛くなるといいますし,私は椎間板ヘルニアを腰のあたりに患っていますが足がまず痺れてくるのですね。

 

このあたり,お医者さんならその理由が説明できると思うのですが,足のつぼや整体のように保険適用の無いものの効果はどうなのでしょうかね。

 

また,マコモバクテリアを含んだ健康商品がちょっとした話題となっているようですが,医薬品指定されていないため薬事法により効能を表示できないそうです。

 

これらが単なる気休めかというと,果たして科学が,昔からあるクスリや治療法が人間にもたらす効能を完璧に分析できているのか,ということも気になるところではあります。

 

もちろん,本当は効果が無いにもかかわらず効能をうたった商品の販売を許せば,商品表示が無節操になり容易に価格を吊り上げることができ,企業が研究開発に力を入れなくなるばかりか,検査や管理がおざなりになる結果,下手をすれば消費者に実害を及ぼすことも有り得るでしょう。

 

ですので,商品が効能をうたえるかどうかについて科学を判断の拠り所とするのはもっともなことなのでしょう。

ですが,このことは効能を科学では確認できないということを示しているだけで,効能がないことを保証しているわけではありません。

 

もしかしたら,そのうち科学的に効能が明らかになるかもしれませんよ。

 

まぁ,もし気休めだったとしても使ってみていいと思うのだったらいいんじゃないでしょうか。悪い効果が無い以上,それ自体が効能ですし。

 

 

そう考えると,勧めている利用者が信頼できるかどうかで商品を選ぶのが一番かもしれません。

 

しかし昨今だと,芸能人が勧める商品は注意って感じがしないでもないです。

無謬

2014-01-28

漫画でも小説でも,テレビドラマでもそうですけど,よくよく見ると登場人物の動きは細切れなのです。

 

場面が変わるごとに切り離され足り,時間を省略するために切り離されたり,視点を追うような演出として切り離されたり・・・

 

コマや文章や映像で表現されていた場面が切り替わると,それまで表現されていた場面は突如として消えてしまうのですが,物語という一連のものとして楽しめるのは,鑑賞者の想像力によるものでしょう。

 

例えば,自分の身の回りで起こった出来事を思い出してみると,同じように細切れの映像のように想起されますし,人の表現というのはどうしてもそうなるものなのでしょう。また,そのほうが鑑賞者にとっても理解し易いのかもしれません。

 

もっとも,現実の世界では,自らの視覚から外れたものや,意識の外にある人や物質,あるいは心など常に存在し,流動し躍動し静止しているわけで,例えば物語にそれらを網羅的に加えようとすると,表現に膨大な情報が必要となり,また,様々な要素が理解できないほど複雑に絡み合ってしまうのでしょう。

 

ですから,一般の人の記憶に沿う程度の情報量で細切れに設定された場面を順次流していけば,後は鑑賞者が独自の想像力で勝手に繋げてくれるということでしょう。

 

実際に,たまに映画などで,場面の変わり目から全く物語が繋がらなくなってしまい,結局どういう内容の物語なのか見終わった後も解らない,ということもありますよね。

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ということで,何かしらの方法で物語を描こうとするならば,場面の切り替わりはどんな人にも想像し易いようにする必要があるのでしょう。つまり,切り替わる前の場面において切り替わった後の場面を意識させておくと,鑑賞している人はスムーズに繋がりを理解することが出来るわけです。

 

そうやって,なるべく一本道で繋げていくと物語と関係の無い情報を極力排除することができ,非常にわかりやすいストーリーが完成します。

どういうことかというと,表現者が余計な情報を排除して表現したい事柄だけを場面ごとに順次提供して,鑑賞者の理解に負担をかけることのない物語を描くことが可能となります。

 

そんな,解りやすい物語を描くにあたって排除すべき情報は何でしょうか。

 

まずは,はばかり的な人間が動物であるが故に自然に根ざした事柄だと思います。もっとも最近は性については結構露骨に描写されているところではあります。

 

あと,本物の自然でしょうね。草木とかもそうなんですが,都合のいいところで雨が降ったり雷が鳴ったりというは自然とはいえないでしょう。動物や虫などもそうです。

自然とは意識と関係なく変わるものなのですから。

 

そして,物語から遠い人達の生活や心についても省いた方が,物語が解り易くなります。風景なども登場人物の主観的な視点に映るもの以外は極力排除します。

 

そうすると,ほぼ登場人物の主観的な意識のみで物語が出来上がり,その描写は登場人物の五感に頼った表現を中心に描き出されるので,鑑賞する人にとっては自分の主観として受け止め易く感情移入をしやすくなるでしょう。

 

ですが,そこでひとつ気付いて欲しいのは,見えざるものや想定せざる事柄を全て排除してしまっていることです。これらは,五感では感知できなくとも確実に存在し,今現在において流動し躍動し静止しているはずなのですが,それを意識するには思考が必要です。

 

つまり,これらを省くという事は思考によってしか意識できない部分を大幅に省いているということになる訳です。ですから,非常に単純なのです。

 

それは例えば,物理的に残っている資料を基に場面を想像によって繋げて,物語のように歴史を辿ると実にわかりやすいストーリーが出来上がるはずです。そして,想像という意識できる事柄のみで繋げたそのストーリーは,鑑賞者が思考を働かせない限り意識外の現実を意識することなく終結します。

よって資料との齟齬が無い限り誤る要素が無くなります。

 

これは,物語に限らず学術などにおいても起こりえることでしょう。

資料ごとの相関性を数式などの意識的要素のみで完結された理論というのは,結論を恣意的に操作し易く,結果,現実と乖離してしまう可能性が多分にあるというわけです。

 

それは,意識という認識可能なことのみを要素としてつなげられたストーリーであるからこそですが,現実は意識の外においても存在しており,だからこそこの世は複雑怪奇なのでしょう。

 

もっとも,この文章自体もほぼ私の主観でして,やはり恣意的な判断を書いてるわけですが,毎日のように書いている本ブログにおける,過去に書いたこととの心境の変わり様については私の意識したところではなく,これらを一連に繋げて自分におけるの出来事を辿ると,様々な事柄が絡んだ複雑な物語といえなくもありません。

日本人の民度

2014-01-27

最近,ハッとさせられたことがありました。

 

それは,昨年に起きたフィリピンにおける台風の災害について,ある方が書かれた論考を読んだときでした。

 

その論考は,フィリピンの台風災害を通してインフラ整備の大切さを問いかける内容のものでしたが,その中で,東日本大震災後における東北の方々と台風災害に遭われたフィリピンの方々との違いについての解説がありました。

 

ご存知の通り,東日本大震災で食糧供給などが遮断されたときにもコンビニに列を作って並ぶ東北の方々の姿が,世界各国に絶賛されたことがありました。もちろん,これには民度(いわゆる人間としての熟成度合のようなもの)の高さもある事ながら,重大な部分は,日本においては誰かが助けてくれるという期待を持てる,ということでした。

 

なお,フィリピンにおける救助活動については,本ブログでも書いたことがありましたが,大分後手になってしまったようで,結果甚大な被害となってしまったようです。亡くなられた方々のご冥福をお祈りすると共に早期の復興を願っております。

 

ご存知の方もおられると思いますが,災害後のフィリピンでは略奪などの悲しい出来事も起こったと報道されていましたが,政府の救助を当てにできないのならば家族や身近な人を自分の力だけで守らなければならないと考える事は自然であって,行為自体は肯定してはならないのですが,その動機は斟酌すべきでしょう。

 

ましてや,東日本大震災後の日本においても,東北の方々は立派でおられたものの,震災と関係ないところで,水の買占やらガソリンスタンドの行列やら他国の民度など語れないような出来事も起こりました。

それは,フィリピンや東北の方々よりも高度なインフラの利益を享受し,その恩恵にズッポリと授かりながら,政府を信用していないということを意味することでしょう。(まぁ菅政権だったの無理もないというところもありますが。。。。)

 

ですので,特に我々日本人の民度というのは,質の高いインフラなどにより保たれている部分が非常に大きく,またさらに高度なインフラを次世代のために構築していくことと,その意識が更に日本人の民度を高めることにもなりましょう。

 

つまりは,すべての国民が,国家を信頼できるものとして作り上げる意識を共有するということが,それすなわち民度の向上に繋がるということです。

 

ですので,そういったインフラという要素を省いて国や民族の間で民度を比較するということは観念できず,逆に,高インフラの国民であれば民度が高いという考えも,各地域による環境の違いを除いて比較することになり,それは民度という人の水準を測るものではなくなってしまいます。

 

つまり民度というものは,外国と比較するようなものではないということでしょう。

 

たとえば,世界中で戦争している国にイルカ漁を非人道性などと非難されたら,日本人なら「どっちが非人道的だ!」怒る方が自然のことでしょう。

 

まぁそれはおいといて,ですので民度を測るのであれば諸外国という横軸ではなく,その国の歴史という時間軸により考えるのが正しいことだと考えます。(それにしたって酷いなぁと思う国もあるにはありますが・・・)

 

そうすると日本人の現在の民度は,過去の先人達と比較して高かったのか,それとも低かったのか,が気になります。

 

まぁ,どの国のどの時代においても,「今の若いものは・・・」と,常に新しい世代は年寄りに難癖付けられるのが世の常である様ですが,まぁそのあたりは,羨ましさ半分でしょうからいわゆる若さの特権ともいえましょう。

 

それを差し引いて考えるとしても,民度というか人としての熟成度合を比較し易いのは,やはり緊急時の対応ということでしょう。

 

ですが,歴史の沿革において,太平洋戦争後にまるで中身が入れ替わってしまったかの様な精神部分の転換のようなものが起こっているように思います。これは,全政権時に安倍首相が仰っていた正に戦後レジームなのでしょう。

 

また,現憲法により天皇から国民へと主権者が変わってしまったわけですから,正に精神と体制伴に転換したというわけで,太平洋戦争後においてレジームチェンジが起こったと考えて間違いないでしょう。しかも,GHQ占領下においてです。

 

それが何を意味するかというと,更にそれ以前で,直近のレジームチェンジといえるであろう明治維新のときは,外国からの圧力がきっかけであったとは言え外国に対抗するために自主憲法を制定しました。

 

もっとも,その憲法はやはり外国の憲法の影響を大きく受けたもので,その当時,和魂洋才という言葉が示すとおり,海外からの技術や手法を取り入れそれに日本の魂を注ぐということが為されていました。

 

それにより,急速な技術発展を遂げ,日露戦争において実質的な勝利を収め,西洋列強と肩を並べるようになり,西洋列強と同じように領土拡大を目指すことになります。

このことについて,大日本帝国にはアジア開放という大義名分があったと主張される方はおられるでしょうし,私もそう信じたいと思っています。

 

ですが,それ以前の,長期にわたり泰平の世が続いた幕藩体制においては無かったことでしょう。(もっとも,薩摩藩が琉球王国に侵攻してますね。)

そして,拡大路線の流れのまま満州事変,日中戦争を経て太平洋戦争に到るわけですが,この流れをどこかで止める事ができなかったかと考えると,この流れがそれほど不自然ではなく,また,当時を鑑みてそれ以外の選択をすることも難しさも感じられます。

 

そして,現代の常識でこれを善悪で語ることは出来ないでしょう。

 

ただ,江戸時代の人達がこの一連の顛末を見たらどう思うのでしょうか。

 

これは例えば,現代における戦前生まれ位の方が,戦後のレジームチェンジによりアメリカから突きつけられた自由思想をバックボーンとして,自国の統治を尻目に海外に追いつけ追い越せとグローバリズム,新自由主義へと突き進んで行く日本の姿を見るのと似ているのではないか,と考えるのです。

 

自国の復興を一生懸命にやってきた人が,諸外国とのマネーゲームに耽る人の民度をどう考えるか,という話です。

 

そして,インフラが民度に関係すると前述しましたが,このことは憲法という法の支配における最高法規についても言えるのではないでしょうか。

 

もちろん憲法典に自由(和訳で自由という風に十把一絡げに解釈されそうな文言)を掲げている国はいくらでもあるでしょうから,自由と馴染まない日本人は民度が低いかというと,欧米をはじめ新興国においてもグローバリズム,新自由主義は蔓延しており,我が国だけが翻弄されているわけではないようです。

 

むしろ,日本人ならではの相互扶助の精神により維持されている国民皆保険制度の維持は,むしろ自由とは反対に位置するのでしょうけど,アメリカではこれを非関税障壁として自由を阻害するものと考えているようです。

 

なぜなら,アメリカの保険企業が日本に参入しづらいからだということです。

一方,当のアメリカでは,一般庶民には医療費が高すぎて医療を受けることが出来ないという状態が何年も続いているようです。

 

ということは,その状態を日本にも押し付けようということなのでしょうかね。

 

いずれにせよ,自由なんてものは国家の規範として掲げるものではない,ということが分かります。

 

そして,アメリカからの要求をすべて受け入れ,どんな人も全く制約を受けない国家という道を邁進しようものなら,どんな人も都合のよい解釈をするでしょうから必然的にパワーゲームとなるでしょう。

 

そうして,日本に起きた著しい格差と治安の悪化,国家を省みずに自分の欲求を果たすことのみを生きる目的とするようになった日本人を見て,国家のために身を尽くした先人達は一体何を思うでしょうか。

 

はたして,フリーダムで不自由ないと思い込んでいる我々と昔の人達を比べてどちらの民度が高いとお思いでしょうか?

 

かといって,別に懐古主義というわけではありません。

ただ,それまでの精神性を抑圧して,他の国の精神を取り入れるという事によって,いかに目指す方向性に歪が生じるかということです。

2014-01-24

寒い日が続いています。

 

日中は暖かくても,夕暮れになるとやはり冷え込みますね。

 

お風邪など召しませぬよう,お体には十分お気をつけくださいませ。

人心掌握術

2014-01-23

人心掌握術が云々といわれますが,これって失礼な話だと思いませんか。

 

一定のノウハウを覚えて実行すれば,周りの人間が催眠術にかかったかのように,心を委ねるというような喧伝です。

 

現実に人気のある人をモデルとして,その人が意識的か無意識なのか,何らかの術を心得ていて,それと同じ事をすれば同じように人気者になれるということなのでしょう。

しかし,まるで催眠術をけられているとされる方はもちろんのこと,かけているとされる人気者も心外だと考えるように思えます。

 

まぁ圧制を敷きながら暴動が起きない国などは,何かしら市民の不満を抑圧するための方法として,物理的な圧力に加えて様々な手を施しているでしょうから,そういう意味での人心掌握術というのはあるのでしょう。

 

ですが,会社のような組織などは,統制のために役職を設けて権限を与えているのでしょうから,上位の役職から下位の役職へ命令するという形がきちんと機能していれば,人身掌握術など必要なさそうなものですが,察するにそのあたりに苦労をしている方が多いためにそのような術が編み出されているのでしょう。

 

もっとも,部下がそのことを知ったら余計なつかなくなるように思いますが。

 

そもそも,大抵の人が実践すれば高い確立で人心を掌握できる術というのが存在するのかというと,どうなんでしょうかね。

 

一般に人から注目され人気を博す人というのは様々で,政治家だったり評論家だったり学者だったり芸術家だったり俳優だったりタレントだったりお笑い芸人だったり・・・・

 

色々な分野でいらっしゃるのですが,はたしてこの方たちが人心を掌握する術を施しているのかというと,テレビの世界ではありそうですが,それ以外の分野ではかなり実力に人気が左右されている感じがします。

 

とりわけ,スポーツ界は顕著で,小学校の卒業論文においてセリエAで10番を着けるという夢を実現したACミランの本田選手は,後付で小学校の卒業論文にスポットが当たり我々の心をさらに惹き付けました。

 

逆に,先に人生の筋書きを描いていた某テレビ局お抱えのプロボクサーは,家族ともども今大変なことになっていますね。

 

この違いは結構興味深く,選手が泡沫の様に現れては消えて行く世界で頭角を現すトップ選手というのは何時の時代にもいる訳ですが,その都度トップ選手の生き様にスポットが当たります。

 

そして,その生き様は共通点を探すのが難しいくらい個性的でそれぞれ違います。

その中で,歴史上のトップ選手に共通するものを探し出せたら,それをナントカ術の様に一定の法則として語ることが出来るでしょうし,人心掌握術にも共通することがあるでしょう。

 

逆に後者の例で言えば,先に生き様というストーリーを見せておいてそれを見た人に,「この選手は勝ち続けなければならない」と思い込ませることが出来れば,そのこと自体が正に人心掌握術といえるでしょう。実際にその結果どうなろうとも人気自体にはかなり潰しが効く様にも思えますが,今後どうなるのでしょうか。

 

で,前者の例に戻って,歴代のトップ選手の共通している点で思いつくものを挙げると,練習に明け暮れたとか,そんなエピソードしかないような気がします。とても単純でありながらおいそれと真似することできないことです。

 

そう考えると,人心掌握術という一見してセオリーと思われるような話は,急がばまわれを思わせつつ,単純な反復を避けられるが全く違う方向を指差している,というような気がします。

 

この事は,川の水について,川から海に流れて蒸発して雨が降りそれが・・・・という循環を普遍的と考えるのか,それとも川の水を何杯かすくって全て同じ水と結論付けるかの視点の違いのようなものだと思います。

人心掌握術という発想は,同じ水の中に違う色水を入れれば注目が集まるという発想のように思えます。

 

ですが,どんな状況でもどんな人にでもどんな場所でさえ・・・という理屈自体はナンボでも作る事はできるのでしょうけど,やっぱり現実とは乖離するでしょうから,実行しても思い通りの結果を得る事はできない,というところでしょう。

職人気質が失われていく

2014-01-22

大抵の人は,幼い頃から様々な面で相対的な評価を受けて育っているはずです。

 

例えば,学力テストの順位とか,運動能力なども全体の総数における順位により自分の能力を知ることになったはずです。

これは,平均値を図りそれより低い者へ向上するための指導をすることにより,教育水準を上げるという趣旨であれば,まぁ至極真っ当な方法なのでしょう。

 

そして,義務教育を離れ高校に入学するときには,まさにランク分けされて同じ水準の者を集めて同じ水準の教育を施し,そしてまた大学受験するなら再びランク分けされ,その他,大学受験を選択せず専門分野に進むために学校に入ったり就職したりする選択もあります。

 

大学受験を目指せば更なる学力競争に身を投じることになり,就職したり専門学校などに入学するのであれば若くしてその分野の知識と技術と体得して,早くから現場において社会に役立つことを目指すということになります。

 

そして,4年制大学であればその専攻分野と一般知識を4年間かけて学ぶことでしょう。その4年の間に大学に入学しなかった人達は,現場で実践的な経験を積むことになります。

 

そうして,大学を卒業して入学した頃には既に2年若しくは4年のキャリアを積んだ同級の人達と社会で合流することになりますが,大学を卒業した人の方が給与が高いというのはよく聞く話です。

 

その差異がどうしてつくのか,理由は色々あると思うのですが,会社で出世するには高学歴であることが条件という事は,いまや社会の常識のようになっています。

もっとも,現場一筋といったような人には,職人気質が多く出世や昇給に無頓着な人が比較的多いようにも思えます。

 

いいか悪いかはともかく,しばらくそういうバランスが続いていたと思います。

 

もっとも,昨今の労働者派遣の度重なる緩和政策によって特に現場の労働者の流動化が起こり始めました。製造過程の合理化や設備の発達により人件費を抑えることが出来るようになったのならそれは結構なのですが,人材が流動するという事は流される方にしてみれば一定の職場で仕事を身に着けることもままならず,会社への忠誠心も起こらないでしょう。

 

これでは,現場労働者の責任感は希薄なものとなり日本人らしい職人気質は生まれにくいばかりか,生計を立てる為の仇と感じることにもなりましょう。

 

そもそも江戸時代の職人は,幕府や藩から保護されて家ごとで技術を継承する義務を負わせていたそうです。このようにして技術が向上し承継され続けて,外国人が大好きな日本刀などの技術が承継されていたようです。

つまり,保護政策によってこそ職人気質と技術は培われるのでしょう。

 

当時の職人が安定して扶持を得られなかったとしたら,コストを削って安かろう悪かろうとなるか,若しくは転職してしまったはずです。

 

そして,その気質が現在まで受け継がれてきた結果がジャパンブランドなのでしょう。

それは,職人気質という自身に対する絶対的評価をつけることから自分自身が負う義務や責任,使命感などが大きく貢献したように思います。

 

絶対的評価といえば,日本が世界に誇れる人物である王貞治氏やイチロー選手なども,他人と比べる相対的評価ではなく絶対的評価にこだわっていたように思います。イチロー選手はしきりにそういった発言をしていましたね。

 

個人的に日本が世界に誇れることを考えると,まずは真面目で実直な職人気質の精神であり,そのためには絶対的評価基準をもっと国民に広げるべきだと思います。ところが,むしろ相対的評価が蔓延しています。

 

たしかに,相対的評価が必要な部分はありましょう。ですが,それに執着しすぎると人は勝つための要領に固執してしまうでしょう。

たとえば,腕の良い職人に勝つことだけを目的とするならその職人に仕事を与えなければ言い訳で,ダンピングして仕事を奪ってしまうことが容易に思いつきます。

 

このように素晴らしい技術を育てるには保護政策が必要である事は,花に水をやらないと枯れてしまうことと同じくらい明らかなことです。

 

そう考えると,日本における高度なインフラによる利益を享受しながら,日本人の気質である職人気質を徹底的に洗い流して,グローバルといって世界に何を掲げるつもりなのでしょうか。

 

技術的な要素が少ない廉価な製品が,高技術の製品を駆逐して世にはびこる結果,何を買っても同じ商品なら安いものが良いということになるでしょう。

結果が同じ商品の価格を自由化して競争をあおった結果がどうなるかは,我々代書屋がよく存じております。

 

思うに,企業のトップにあたる経営者たちは,相対的価値の中で勝ち抜いてきた方が多いのでしょうけど,給与に差異をつけるように自分に近いところから高い評価をしていくというのは,相対的価値を社内に根付かせようとしているようにも思えます。

 

その事は,自らの評価を対内的にも対外的にもハッキリと位置づけていることを見て取れます。

そのことにより競争が活性化されることはありましょうが,統治の観点からすれば出世を求める者ばかりが迎合するようになるばかりか,出世に興味を示さないものの真面目で自実直な者を刺激することになり,むしろよろしくない気がします。

 

もし,相対的価値を強く示すために差異をつけているとしたら,それは経営者としての能力に自信が無いことのあらわれかもしれません。

 

なぜなら,有能な人で自分の能力に自身があれば,王さんやイチロー選手のようにひたすら自分に目標を課していくことで,自他共に評価されることを知っています。

 

自分とその近い人間の立場を高く示すために,権限を濫用して明らかな差異を設けるのであれば,配下の人間は要領だけを求めるようになり,ひたむきな気持ちは薄らぐはずです。

 

そう考えると,日本企業が苦しんでいる理由のひとつに経営者の能力の低下があげられるのではないでしょうか。2ちゃんでもよくコケにされてますが。

 

こういう人達が特によく言っているのが,グローバル人材を育てるなんてことですが,これを言い換えれば日本企業が外国に圧されている原因を人材のせいにしているわけで,敗戦の将が思いっきり兵を語りまくっていることとも言えましょう。

 

もちろん相対的価値観のみで生きてきた人ですから,他人と比べて自分の価値を下げないために論点逸らしも出来なくてはなりません。その結果,理屈があべこべになり振り回されるでしょうけど。

 

一方で,自分自身にノルマを与えて,常に向上を目指している人なら,負けた原因を真摯に受け止めるはずです。そのほうが,向上に近づくでしょうから。

 

まぁとにかく,何かしら優劣にこだわる鬱陶しい人というのは,価値観の相違に他ならないわけで,しかもその価値観は広く蔓延しています。

そして,そういう価値観の人はかなりえげつないことをするというところは肝に銘じたいところです。

すくい

2014-01-21

そういえばオウム真理教の信者って増えてるらしいですね。

 

若い人達は事件のことを知らないから入信してしまう,という理由を聞きくことがありますが,ネットを使える世代なら,むしろその手のものに警戒心が強いと思うのですが,一体どうしてなんでしょう。

 

これを,信教の自由とかつまらない結論で片付けずに,この状況を重く見たほうが良い気がします。

 

オウムといえば,信者に高学歴者が多かったことが地下鉄サリン事件後の当時大きな話題となりました。それまで,マスコミからももてはやされていたようですね。

それにしてもマスコミというのは,ほんっとバカ過ぎて・・・

 

まぁ勧誘はそれなりに上手くやるのでしょうけど,その世界ではかなりメジャー(?)なS学会でさえネットを開けば色々出てきますし,ニュースでも未だに話題になってますから,教団についてとんでもない事件を起した団体であることを,おのずと知る機会はあるはずで,普通はびびりますわな。

 

にもかかわらず,増えてるって事は,どうも教団が起した事件などを理解して入信しているのではないかと考えざるを得ないわけです。

 

というわけで,その理由を探るために事件を起す以前くらいの時期を思い出してみると,当時は超常現象ブームのようなのがありまして,テレビが面白がって織田無道(後に公正証書原本不実記載・同行使で逮捕された生臭)などと上岡龍太郎氏を討論させたりしていました。

 

友人の間でもUFOや幽霊を信じる信じないなどということが話題になっていていたことを記憶しています。

 

子供の頃から私は,非常に怖がりだったのですが,怪談話のような人の情念をおどろおどろしいくらいに表現している物語にはとても興味がありました。

逆にそれがない超常現象には全く興味など無く,友人から心霊話をされることに非常に迷惑を感じていました。

 

当時,私が感じていた世の中の雰囲気は,若かったこともありますが,今と比べると将来と今後の不安という雰囲気はあまり無く,バブルがはじけてほどない頃でしたが,皆すぐ回復するというように思っていた感じだったと思います。

ただ,私の主観なのですが,今より混沌としているような感じもします。

 

今の若い人達を我々の世代が同年代だった頃と比べると,おとなしいと感じる反面,しっかりしているという印象を受けます。ちょっと悪い言い方をすれば,集団から離れることを極端に恐れているようにも感じます。

 

ちなみにオウムが地下鉄サリン事件を起したのが1995年(平成7年)のことでして,土地バブルがはじけたのが1992年(平成4年)といわれています。そして,消費税増税・緊縮財政・アジア通貨危機で景気が落ち込み始めたのが1997年(平成9年)ごろです。

 

このあたりの時代背景を参考にしていただければお分かり頂けると思いますが,今と比べて,経済的不安はそれほど無く,一度くらい失敗してもなんとかなるような雰囲気があったような気がします。

 

実際に,土木関係で働いていた友人の給与は,今と比べるとびっくりするくらいの金額でしたし,ブラック企業(とは言ってませんでしたが)というのも,今聞く話と比べるとそれほどでもなかった気がします。

 

それだけに,今と比べると社会全体に切迫感がなく,浮き足立っていたように思います。

 

そう考えると,将来が保障されている若いインテリたちが,まだ事件を起す前のオウムに一体何を求めたのでしょうか。

 

そういえば,当時のテレビのバラエティ番組の傾向は,「進め!電波少年」「アメリカ横断ウルトラクイズ」「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」など,素人を使って演技や台本,やらせのない番組を構成するリアリティ番組(って言うそうです。)が,流行っていました。

 

また,バーチャファイターという格闘ゲームが,流行りましてバーチャルなる言葉が使われ始めたのもこの頃だと思います。

 

これらは,作り物をどれだけ作り物らしくなく演出するかということに主眼を置いて制作されたもので,作りものの粋を出る事はありえないでしょう。

作り物の中に現実を見出すとしたら,テレビやゲームの画像に映された視覚的なものではなく,映像に映し出された出演者に対するカメラマンの位置とか,ゲームカートリッジの計上や部品,関わっている人などのことでしょう。

 

それは,まさに嘉門達夫の川口浩探検隊の歌のように,前人未到の洞窟に最初に足を踏み入れるのはカメラマンだということが,テレビの中の現実ということです。

 

このあたりに想像を向けられれば,尊師がピョンピョン跳ねる姿を見て笑わずには居られないはずなのですが,よりにもよって高学歴者が多く入信してしまうという現実は,教育というものがどこかしら偏っていたのでしょう。

 

もちろん,僻みではなく(私は専門卒)もちろん,オウムに入信した人というのは高学歴者の中のごく少数でしょうし,これだけのことで教育全般すべてダメとはいえません。

 

ただ,先ほどの川口浩探検隊の裏のような事を面白おかしく話すのは,学校の役割ではなくむしろ家庭で養うべき感覚であるように思うのです。

 

そんな,想像力が欠如した当時の若者たち(もちろん私も含めて)は,敷かれたレール(それまでの大人達と同じように生きるというというニュアンスのかっこつけた言葉。これも流行りましたな!)の上をこれから延々走り続けるということに疑問を感じてしまったのでしょう。

 

そういえば,個性的でなくてはならないとか,Noと言えるとか言えないとか,何かと欧米と比較して日本人の性格に対して自虐的だったのも,この頃だったように思えます。洋楽が流行りましたねぇ。

 

そんなこんなで,アイデンティティを削がれた若者が,豊かな経済に守られたまま,見えざるものを見通す想像力を失った結果,何か茫洋としたものに流されていってしまうというのは分からんでもありません。

 

ちなみに私の言う想像力というのは,川口浩探検隊もそうですが,ゴミの落ちていない歩道を見ておそらく誰かが定期的に拾っているのだろうと想像できることで,よく芸術家が妄想しているようなカルマみたいなものは,むしろ幼児的で未成熟であってもできる想像だと考えています。

 

つまり,高学歴であるにも関わらず,想像力が幼児的で未成熟だったがためにオウムに入信したのではないかと考えています。

 

そう考えると,今の若い人がオウムに入信するのは違う事情ではないかとも推測します。

たしかに,スピリチュアル(霊歌のことなんだそうです。全然意味が違いますね)などといわれて,当時と似たようなの(?)がブームとなっているようですが,どうもそれが宗教に関連するかというとそうではなさそうです。

せいぜい占いとか元気が出るという程度のことのようです。

 

しかも,今の若者は将来を見通せないくらい切迫しているでしょうし,インターネットによって匿名で情報を共有できることから,わりと現実的な気がします。

 

一方で,トイレで食事をするくらい集団から取り残され独りとなることを異常なまでに恐れる傾向があるようです。

もしかしたら,集団に入れなかった人達が,過去の事件を知りつつ入信していたとしたら,それこそまずいように思います。

 

不遇の時代に生まれ育った若者たちが,この先しっかりと将来を見定めることができるよう,経済の建て直しと伴に,皆で国を支えるという意識を広げていかなければならないと思います。

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