誤った対立軸
先日の大雪は,各地に甚大な被害を及ぼした模様です。
亡くなられた方もおられるようで,ご遺族の気持ちを考えるとなんともやるせない気持ちになります。
また,とりわけ被害が深刻なのが交通インフラだったと思います。
私の父親の故郷である越後湯沢へ続く関越自動車道は,現在も通行止めとなっている様です。
越後湯沢といえば,ウィンタースポーツでお馴染みのほか,川端康成の小説「雪国」の舞台ともなった場所です。そのような全国でも有数の積雪を観測する地域における,雪による高速道路の通行止めという事態は,この度の大雪がいかにすごかったかを物語っているように思います。
こうして,私達は自然災害を見舞うたびに,人間の無力を思い知らされるとともに再び同じような事態が起こったときどのように対処することが最善なのかを考えさせられる訳であります。
ところが,この度の大雪により,交通網が寸断されて食糧供給が断たれてしまった地域が出てきてしまっていますが,このような事態は東日本大震災のときにも起こったはずです。
つまり,震災のときの悲しい出来事を教訓として昇華できていないのですよ。
これでは,震災で亡くなられて方々も浮かばれないと思いますから,迅速に対応すべきでしょう。
なお,昨年の末にやっと国土強靭化基本法が成立いたしましたので,これからしっかりと予算を公共投資に費やしていただきたいと思います。
なお,土木関係の人材が不足しているということで,賃金がだいぶ上がっているようなのですが,それでも担い手が足りていない状況のようです。
若い頃の私の友人にもおりましたが,かつて隆盛を極めた(というか,同年代ではすこぶる羽振りが良かった)土木事業の職人達のうち,多くの方が安定した職種に転職してしまっている様です。
私は,土木関係者ではありませんでして,知っている限りなのですが,下請け業者で雇われた職人達はしばらく見習いをした後に一人親方として独立させて,個別に仕事を発注するという業務形態をとっている業者が多いようです。
それにより,下請け業者側からしてみれば,職人への労働基準法の規制や福利厚生など雇用側の義務を免れるわけでして,逆に言えば職人さんは固定の給与は得られないですし,労災・雇用・健康保険なども業者側が手配してくれる訳ではありません。
この業務形態を,公共事業が削減されている時分に取られると職人さんの生活は非常に不安定で危うくなります。このような経験をされた職人さんは,永続的な所得がよほど明確に保証されない限りは,土木業界に戻ってくることは無いのではないかと思います。
かといって,業者側が悪いかと言いますと,そうでもしないと経営していけない事情が間違いなくあります。
中小企業の社長さんというのは,会社を倒産させてしまうと多くの取引先からの信用を失うばかりか,従業員を路頭に迷わしてしまうということから,自らの取り分を無くしてまで必要経費や人件費の支払いに充てている方が多くおられます。
下請け業者も生き残りに必死なのです。
そんな,業者にとっても労働者にとっても苦しい時代の悲しさは,片面的な解釈では語り尽くせないのです。
そうでれば,必要不可欠な公共事業を行うにあたり,人材が足りなくなるのは仕方のないことでして,それでも土木業界に元気な若者や経験者という有能な人材が集まるよう永続的に予算を立てなければならないということでしょう。
必要な都度というのではなく永続的でないと,また同じように人材が居なくなってしまうばかりか,労働者や業者,家族や関係者が悲しい思いをします。
そして,人間が造る公共施設は間違いなく老朽化しますし,絶えず起こり続ける自然災害に立ち向かうのは人間の英知でありましょう。
すくなくとも現在の日本においては,よほどおかしなことをしない限り,公共事業が無駄となる余地はかなり低いのではないかと考えます。
ところが,公共事業ムダ論が,この期に及んでまだ世間を賑わせているのが現状です。
財務省がその公共事業ムダ論を煽っているという話は,それなりによく聞く話ですが,財務省という立場上そういった面は必ずしも否定できる物ではなく,また,各省庁への予算配分などに関する知識が私には乏しいので,今回は言及を差し控えるとして,民間に渦巻く公共事業ムダ論を私なりに考えてみたいと思います。
まず,公共事業ムダ論を訴えている人達からよく聞かれるのが「税金の無駄遣い」というワードです。日本で生活していれば税金(国税)というのは,一定以上の所得を得たり,物品を購入したりするなど,様々な機会においてほとんどの人が支払っているわけです。
そして税金は我々の収入の内から支出されるのですから,確かにその使い道は気になるところであります。
我々の支払った税金は国の歳入となりまして,その歳入を基に建前上内閣で予算を組んで国会の議決を経た上で執行されることになります。
なぜ,国会の議決を経る必要があるのかと言いますと,内閣の作成した予算について一番民意の近いはずの国会に目通しさせることによって,民意に従った予算という意義が顕れます。(すみません。またこの話ナンスよ。)
そうすると,「税金の無駄遣い」という指摘は,そもそも日本における国家の構造を民主主義国家としては不完全なものと考え,その不完全な民主主義によって構築された国家において統治の役割を担う国家権力に対しての不信感であるとお見受けいたします。
そうであれば,国家の構造を定めた日本国憲法を改めなくてはなりませんね!!
そもそも,「憲法は公権力を縛るもの」という現憲法の原理原則自体が,民主主義国家において国家権力に対する不信感をあらわにしている訳です。もちろん,国家からの圧制により国民が苦しんだという歴史の沿革の基に,権力に対する牽制が必要だとする考えは理解します。
当然,そのことから権力分立や法の支配という考えが生まれたのでしょうし。
もっとも,一方で“国民を主権者とする”といった向きに国家が偏りすぎることにより,政治的に混乱をきたした歴史もあり,そのような多数者の専制を牽制するために代議制統治という考えが生まれたのでしょう。
つまりは,国家権力も統治される国民も同じく国家を混乱に陥れる可能性を孕んでいるということを歴史は示唆しているわけで,現在において健全に民主主義を実現する前提としては,国家権力を担う側と担わない側のいずれに対しても,何らかの手段で暴走に対して抑制する機会が生まれないとならないことになります。
そこで,日本における国家権力の成り立ちについて考えますと,まず,国民の代表として国会議員が国民の中から選出されます。
外国人じゃありませんよ。外国人参政権を一部で肯定する声がありますが,自国の国民でさえ暴走する危険性を孕んでいるのに,外国人に参政権を与えるなんてちょっと普通では考えられません。
大事なのは,国会議員は国民の代表ということでして,国民の中から選出されて,代表にとなったとしてもひとりの国民として等しく(一部を除き)制約を受けるはずなのです。そこに民主主義たる意義があるわけです。
また,行政の長たる内閣総理大臣も国会議員でなくてはならず,国務大臣も半数以上は国会議員で構成しなければなりません。
つまり,立法府も行政府もふんだんに民意が包含されているといえるわけです。
そして,三権のうち一番民意が及ばない,いわば独立した存在である司法府の長である最高裁判所長官は,内閣総理大臣の指名により天皇が任命します。
独立している理由は,立法府や行政府に対する牽制として機能しますが,これは言ってみれば民意に対する牽制にもなるわけです。
ここ最近,司法府から立法府に対して「一票の格差」に対する違憲判決がバシバシ出ていますが,私見として異論もあるものの,三権分立が健全に機能している証とも言えるでしょう。
もっとも,衆議院選挙のときに行われる最高裁判所裁判官国民審査がちゃんと機能しているのかというのは,いささか疑問のあるところではあります。
このように,三権における牽制のバランスはわりと機能していていいのではないかと個人的には考えています。これは,憲法が定めた統治の規範が上手く作用しているということだと思います。
ところが,「憲法は公権力を縛るもの」という発想のままだと,暴走の可能性を秘めているにもかかわらず強い抑制を受けない(受けても異議を申し立てることが出来る)民意という濁流が,立法府から権力になだれ込んでしまう可能性を孕んでいるわけです。
ようは,民主主義という,簡単に言ってしまえば多数決によって意思を決する方法によるのであれば,場合によっては国民を上手く言いくるめられる人物でも国政に携わることになるわけです。
それは,例えば大手メディアがある事柄を扇動した結果,多くの国民がなびいてしまうことでして,それに乗じた人物が選挙で当選し易く,支持も得易くなるわけです。
もし,大手メディアの言い分が間違っていたとしても,民意を抑制する機能が現在の日本には見当たりません。
なぜなら,法の支配という建前を「憲法は公権力を縛るもの」という風に,国家権力と国民といった対立軸でくくってしまうと,“圧政を敷いて権力を貪る許すまじ国家権力”と“圧制に苦しめられる可哀想で健気な日本国民”といった構図が出来上がりますが,実際は健気に見せながら大変凶暴なレッサーパンダのような性格だった,というのがオチでしょう。
もっとも,私の立場から本音を言いますと,大手メディアと同じようにこの対立軸を煽っていた方が,法律専門職は都合がいいのですよ。国家権力に携わる皆様,どうもすみません。
ですので,国民の代表を選出し選出された議員で構成する国会を最高機関として民意を国政に反映させるのであれば,国家権力を抑制するものと同じ力で国民の暴走を抑制しなくてはならないでしょう。
まぁ抑制という言い方だと押さえつけるような言い回しなので,自由が云々ということにもなりましょうが,国民の規範というものを最高法規の明文に記して,たとえ国家権力に就いたとしても一国民として規範に則るべきという考え方の方が,国民が政治に参加する意識が強く芽生えて,前述の公共事業に対する「税金の無駄遣い」という言い分への対応にもなりましょうし,国政が安定するのではないかと考えます。