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今日も

2013-07-18

また暑くなりました。

 

熱射病には十分ご注意ください。

路上のルール

2013-07-17

歩行者として信号のない横断歩道を渡ろうとしたときに車に停まってもらったことありますか。

 

実際の話,ほとんどの車が停まらずに走りすぎていくのではないでしょうか。

 

もし,逆にドライバーの立場だったら車を停めますか。

 

子供の頃に誰もが横断歩道では歩行者を優先的に通すように教わっているでしょうし,法律もそのようになっています。

 

ですが,私の知る限りではほとんどの車は速度を落とすこともなく素通りしていきます。

 

それでも,歩行者は横断歩道を横断するという法律で認められた権利を行使することはほとんどありません。

もちろん,接触すれば損害賠償を請求できる立場となりますが,普通の人は怖くて出来ません。

 

人と車の物理における圧倒的な差は,法律によっても調整しきれていないといえるでしょう。車に対して歩行者はまさに交通弱者といえます。

 

ところが,信号機にはほぼすべての車が従います。

黄色信号がグレーゾーンとなっている感じがしますが,赤信号では停止するという認識はほぼすべてのドライバーが共通して持っているようです。

 

ある意味で信号機というのは,公安委員会が設置した交通事情における権力的な存在と認識されているのかもしれません。

 

信号機という権力がある道路であれば,歩行者は安心して横断歩道を通行できます。

 

ところで,信号機がどういう規則で動いているかわかりませんが,歩行者ボタンのある物や感知式信号機もあるものの,少なくともドライバーの意思に従って変わる信号機はないと思います。(知っている限りですが)

 

規則的であるからこそある意味,車にも歩行者にも平等と言える訳です。そう考えると平等という概念はかなり無機質で血の通わない感じがします。

 

では,その交通事情の権力たる信号機をなくしてしまうとどうなるか,というのは,東日本大震災のときに自動車で移動していた方ならお分かりいただけると思いますが,信号機が止まってしまったときの交差点の混乱は凄まじいものがありました。

 

あのときに歩行者として交差点を渡る気にはまずならないでしょう。

 

信号機という権力がなくなると強者たる車も弱者たる歩行者も混乱します。

 

ですので,信号機という権力は道路を利用するすべての人にとって必要な存在なのですが,ある日突然,信号機が今までの無機質な規則性を改めて「心を入れ替えてこれから皆さんの意見を取り入れて,よりよい信号の発信をいたします」と言い出してドライバーと歩行者の意見を募ったとします。

 

そして,ある場所では歩行者が多いので歩行者の歩く時間を長めにして,ある場所では車の交通量が多いので車の通る時間を長めにしてといった感じになったとしましょう。

 

これだと,民主主義的な信号機になったと言えるのではないのでしょうか。

そのようになると,以前までの全く意見を聞かなかった信号機と比べて平等の形が非常に分かりにくいものになった気がします。

このような状態において平等とは,強者と弱者の権力を利用した押し合いへしあいの為の材料にしかならない様な気もします。

 

 

 

そうであるならば,最高規範というのは,国家権力を縛ることを通して間接的に(場合によっては直接的でもいいと思います)民衆をも縛り得るものであるべきだと私は思っています。

 

そして,主権者である我々をも拘束するものであるならば,アメリカから手渡された憲法ではなく日本国民で決定するべきです。

 

なお,イギリスには成文憲法がなく,歴史的な文書や慣習を積み重ねていってこれらを実質的に憲法として扱うとしています。

 

こういった慣習を重視する法体系をコモン・ローといいますが,成文があるかどうかよりも,古くから積み重ねてきた慣習に国家権力のほかすべての個人の規範となるという考え方は,権力と民意とのバランスが非常にいいように感じます。

 

参議院選においては出しませんでしたが,憲法改正の要件を定める96条を改正する案を政府が持ち出して話題となりました。これには反対の立場ですが,憲法全体を精査するいい機会であるのではないかと思っています。

 

別に主権を国家に託するということを言いたいのではありません。

ですが,日本国民たる私自身において主権者といえるほど崇高な存在なのかと疑問があります。

 

権利を保障するだけでなく縛る向きとしての最高規範が必要な気がするのです。

 

 

権利ばかり主張して,譲り合いやいたわりという部分において,あまりに規範意識の薄い昨今の民意というのは甚だ疑わしいものに思えて仕方ありません。

 

 

自分が弱者の立場だったときに強者に向けて何を思いますか。

 

逆に強者の立場に立ったとき弱者をいたわれますか。

 

信号のない横断歩道で停まったことはありますか。

夏の元気なご挨拶

2013-07-16
夏の元気な.JPG

今年のような暑い夏にはとてもありがたいかつての依頼者様からの頂き物です。

 

どうもありがとうございました。

 

 

他の専門家が辞任する様な案件でも一生懸命にやればなんとか完了できるということを私自身が教えられることがあります。

 

もちろん,報酬以外の見返りは求めませんが,やり終えた仕事に対する依頼者様からの気持ちは何ものにも代えがたい喜びがあります。

 

さて,かつて大店法という法律がありました。(“大規模小売店舗における小売業の事業活動の調整に関する法律”というなが〜い名前です。)

 

簡単に言うと百貨店やスーパーなどの大規模店舗の出店を規制する法律でした。

 

この法律は,平成12年に廃止されてしまいます。所謂,規制緩和ということですが,その事情の裏にはもちろん外圧があったようです。

 

そして,商店街の近辺にも大型店舗が出店できるようになり,地元の商店街が打撃を受けたことはご存知の通りです。

 

それによって,一般消費者にとっては一店舗に出向くだけで大体の欲しかった物が揃い,かつ,値段も廉価で購入できるようになりました。

 

大きな店舗であれば雇用も増えますので地域への貢献という意味でも意義があるように思えます。

 

ですが,大型店舗というのは規模の分だけコストも多く掛かるため,常に商品を消費者に供給し続けて売り上げを上げていかなければなりません。

そのためには,不採算な商品は棚から撤去して,また,値段を安くしてでも売り上げを上げる必要があります。

 

ですので,地元の個人商店などは価格競争を強いられて廃業を余儀なくされてしまうこともあります。

 

それも時代の流れで済めばいいのですが,地元の個人商店の主人も一消費者です。商店街におけるそれぞれの小売店のコミュニティで経済をまわすことは,地元の地域振興にも密接なかかわりがあるでしょう。

 

地元のお祭りや寄り合いなど地域ぐるみでこそ出来るコミュニティがあるでしょうし,困ったときにお互いで助け合う関係が築かれれば地域住民にとっても利益があります。

 

また,地元の小売店は,大型店舗より小さい範囲となるため,地元消費者と密接であるといえます。そのことは,需要と供給を安定させて,商品供給量をお店側で把握しやすいため,供給過多になららないため商品の質を維持しやすいといえるでしょう。

 

しかし,価格競争は大型店にはかないません。

それなら,大型店舗のほうが雇用もあるし,安いものを買いたいという大半の消費者のニーズも満たせるからいいじゃないか・・・と,ここまでなら思ってしまいます。

 

ですが,大事な部分は供給過多に陥らないという点です。

 

大型店舗の場合,仕入れ値を安くする外,莫大なランニングコストに対応する為に,絶えず一定量の商品を供給し続けなければならないため,値段を大きく下げてでも売り切らなければなりません。

 

それが何に転嫁されるかというと人件費です。

 

当然のことながら,商品を廉価で販売すれば売り上げは上がるでしょうが,商品原価を差し引くと粗利益は大きくはなりません。

 

ですので,営業利益を出すには粗利益から差し引かれる人件費を極力下げるということになります。

 

言ってみれば,物の値段が下がるというのは労働への評価が下がるという風にも言えると思います。

 

ひとつの商品に対する製造・加工・流通・販売の過程に係わった人たちについての経験やノウハウや汗や涙などの評価を下げているともいえるでしょう。

 

そのことは,すべての労働者が消費者としての一面も持つため,働いている方は理解しやすいと思います。

 

供給過多というはそういうことだと思います。

給与が下がって嘆いている現状は,実は巡り巡って自らに原因の一端があるのかもしれません。

 

また,大型店舗が進出してこない地域にとってのメリットとして,需要と供給のバランスが安定しているために,店舗側として手の込んだ仕事でも請けやすいということが挙げられます。

 

店舗側としては,おおよその需要が把握できていれば供給もそれに対して調整できるため,大型店舗であれば不採算としてしまうような手のかかる仕事でも請けることで地域の信頼にも繋がります。

 

 

 

と,まぁそんな感じの事案でしたが,零細だからこそ損得無しに関われる事案もあるということでした。

majority

2013-07-12

民主主義=多数決と思われている方は思いのほか多いのではないかと思っています。

 

これについて,答えははっきりと「違う」と言わなければなりません。

 

国民に主権があるのであれば,少数意見は必ず取り入れて吟味できるよう死票はなるべく少なくしないといけません。

なぜなら,ある権力が情報を操作するなどして思いのままに国民を扇動したとしたとき,それに気がついた少数派の意見を排除する多数決方式で国の方針を決めたとあっては,それは国民に主権があるとはいえず,民主主義に反するからです。

 

ただ,多数派と少数派との調整のため,間接民主制であれば多数の票を獲得した議員から順に当選していくだけのことで,少数派を代表する議員も当選できるよう比例代表制度が設けられています。

 

ですので,議員定数削減を謳っている人がたまにいますが,「この不景気の中に国会議員だけが恩恵を受けているのはおかしい」といったこと意外にたいした理由がないのであれば,この意見に乗っかるのは大変危険なことです。

議員の定数が少なくなればなるほど少数意見が取り入れられなくなるわけですから。

 

まぁ,それはいいとして,選出された議員は多数派だろうが少数派だろうが全国民の代表であるということが,憲法43条に標されています。

つまりは,多数派の意見を組んで選出された議員であっても,少数派の意見が正しいと思ったら少数派の意見に従わなければなりません。

 

これは,私の個人的見解ですが,要はたとえ多数の国民の意見といえども信用ならないということの表れだと思います。

 

実際に現状で考えてみれば,イデオロギーやら広告主やらの影響によりバイアスのかかった大手メディアの報道などを鵜呑みにしてしまっているのが,多数派層だと思います。

 

そりゃ,調査の権限も時間もない我々としては,耳に入りやすい大手メディアから情報をとりあえず信じるほかない訳です。

もっとも専門的な知識があったり,ある程度独自調査が可能な方であれば,大手メディアの誤った報道に気がつくのでしょうが,はるかに大手メディアの方が情報発信力が強いでしょうから,おのずと少数派の意見となってしまうでしょう。

 

ですが,少数意見を汲み上げて当選した国会議員がいれば,予備的調査制度(もうすこし要件を緩和すべきと個人的には思いますが)など議院により国政調査権を発動することができます。

 

というわけで,国会運営においては少数派の意見を汲みいれるシステムが一応あります。

 

しかし,これだけ入り組んだシステムをもつ国会でさえ,少数派意見の汲みいれについて機能しているかという部分で疑問がある訳です。

 

 

これに限らず,どんなことでも当てはまると思いますが,多数シェアを獲得することのみに評価が集中して,すべての人にとってそのことだけが目標となってしまうと,今まで支えられていたことに気付かずにいた大事な物が廃れてしまうような気がします。

 

例えば,芸術的なことで言えば,技術的なこだわりやわびさびの様な質素な趣などに目が向けられなくなるということです。

 

あらゆる産業において大手企業が拡大路線を目指し,シェアを拡大することこそをモットーとしている今日この頃ですが,一般市民までがそれに乗ってしまうと正に先ほどあげた例のごとく,我々の日常の食事はほぼハンバーガーと化し,音楽は打ち込みとボーカロイドばかりが流れる様になり,衣服は安い給与で長時間働かされた従業員の血と汗と涙と憎しみで彩られたTシャツとデニム・・・といった感じになってしまうような気がします。

 

特に何も考えずに,なんとなく多数派と思われる方に身を寄せている様な人には,まず情報という物事を判断する上での根幹となっている部分についてすこしでもいいので疑いをもっていただきたいと切に願います。

信じる者

2013-07-11

太宰治の「走れメロス」といえば,処刑されるのを承知の上で命をかけて友情を守った主人公メロスが,人の心を信じられない王に信頼する事の尊さを悟らせる有名な物語です。

 

小学校の授業などで,友情や人を信じる心を養う教材としてよく利用され,ご存知の方は多いと思います。

 

一方で,「走れメロス」が生まれるきっかけとなったといわれる著者太宰治のエピソードをご存知の方もおられると思います。

 

なんでも,友人檀一雄と熱海で豪遊してお金を使い果たしてしまったために宿代が払えなくなってしまったため,太宰は檀を人質として宿に残しひとりで金の無心のために東京に帰ってしまいました。しかし,待てど暮らせど太宰が帰ってこないため,痺れを切らした檀は,宿の主人に許可を得て東京まで太宰を探しにいきました。すると,太宰は井伏鱒二と将棋を指していてそれを見た檀が激怒すると,太宰は,「待つ身が辛いかね。待たせる身が辛いかね。」 と言い放ったという話があるそうです。

 

この話を知ってからというもの,「走れメロス」に信頼とか友情とかを感じなくなり,むしろ太宰のたちの悪い洒落のような可笑しさを感じるようになりました。よくよく考えると話が出来すぎていますし。

 

人の話というのは,見る方向によって様変わりするものだなぁと思います。

 

テレビドラマなどで,ゆったりと流れる音楽と美しい言葉により演出された涙を誘う感動的なシーンも,実は不倫の場面だったり,見方によっては不快であろう行為も,「今は感動する場面ですよ」と演出により提示されると意外と感情移入してしまうものなのかもしれません。

 

言ってみれば,考えたり詮索したりするよりもどっぷりとエモーショナルな方向に思考も心境も委ねてしまう方が心地よいと感じるのだろうと思います。

 

そしてそのとき,何に浸っているかというと自分本位の心理という内部的なものあって,人に対する興味など外部的な要素ではないと思います。

 

「走れメロス」を例にすれば,ストーリーを読み込んでメロスとセリヌンティウスとの信頼に感動するよりも,友人を宿に置き去りにしておきながら開き直るというふざけた人物が書き上げたストーリーと考えた方が,外部要素を含めた面白さといえると思います。

 

もっとも,感傷的なムードに浸ることこそ,リラクゼーションの時間としておられる方も多いと思いますし,楽しみ方は人それぞれだと思います。

 

しかし,前述した外部要素を思考から完全拒絶している人って以外と多いんじゃないかと思っています。例えば,一度信じ込んでしまうと話が通じなくなってしまう人などのことを指しています。

 

いわゆる,洗脳されやすいタイプの人です。

 

この人たちの話というのは,最初のうちは人のことを思いやって道徳的でとても感情を大事にするように聞こえますが,よくよく聞いてみると自分のフレームの範囲でしか物事を考えることが出来ず,聞こえのいい紋切り言葉ばかりを繰り返し,自分の感情のみを中心にしていています。

 

外部的な要素を思考から拒絶していればそりゃ当然そうなるでしょう。

 

昔は,そういった感動的な話というのは,木戸銭を払って聞きに言ったりしていたのでしょう。(たぶん)

 

その頃と比べると,テレビが普及してからエンターテイメントを自宅で見られるようになり感動的なストーリーが身近になったと思います。

 

ですが,視聴率争いが過熱するにつれて各局とも“如何に感動させるか”“如何に笑わせるか”を競いあうようになり(ここだけでもおかしな感じがしますが)次第に派手な演出の競い合いの様になっているような気がします。

 

これを四六時中見ていると,派手な色合いと騒々しさに感覚と思考が麻痺してしまうと同時に自分の心理に浸りきったままになってしまうような気がします。

 

それが,自分だけの問題で済むのであればいいのですが,悪い人間に付け入られて周囲の人に迷惑をかけるケースも往々にしてありますので自省することをお勧めします。

 

気をつけてください。選挙カーが来ますよ。

違和感

2013-07-10

昨日は,朝一で(朝市とかけております。)勝浦に出張してきました。

 

個々最近,何かと平等と言う言葉をよく聞くようになりました。

 

もっとも,わが国の憲法には平等原則が明記されており,ごく自然のことのように一見思えます。

 

ですが,物事や人に差を設けるというシステムは古くからあり,日本の歴史ではむしろ差を設けていた時代の方が圧倒的に長いはずです。

 

現代においては,どんな人も平等であることこそが正しい国の姿勢ということを誰もが教わってきているため,平等に異論を唱える人はあまりいないでしょう。

 

しかし,我々がふとしたときに感じる違和感というのは,その人の経験だけでなく,古い時代から引き継いだ慣習や文化によるものだと思われます。

 

(なんか違うな・・・)この感覚によって,そこから何故そう感じるかを調べてみることにより,物事の重大な実態に気付くことがあると思います。

というか,違和感を受け止められないと気付かない事もあろうかと思います。

 

ところが,行き過ぎた平等論は,その違和感を取り払ってしまいます。すなわち感覚の麻痺させることになります。

 

イギリスの保守思想家エドマンド・バークは,「公の災害は力強い平等論者である」といいました。

 

差別という行動に出るかは別として,違和感があればその理由を分析することは素直さのなせることだと思います。

 

違和感をもつこと自体が,平等原則に反するという主張は,同じく憲法に定められた思想良心の自由に反するということになるはずです。

 

いかにももっともらしい主張に何かしらの違和感があれば疑いを持つというのは自然なことであるはずです。

予測

2013-07-08

ファイル共有ソフト「Winny」の作者で,東京大学情報基盤センター特任講師の金子勇氏が7月6日に亡くなったそうです。

 

Winnyといえば,ネガティブなイメージをお持ちの方が多いと思います。ワタクシも利用したことはございません。(本当です。)

 

とはいえ,金子氏の開発したWinnyは,高い匿名性と高機能なファイル共有は人気となり同ソフトの利用者数はかなり多かったようです。

 

しかし,匿名性という,言ってみれば透明人間となれるクスリのような,便利なツールを多くの人が持てば,そのうちの何人かは欲望のまま利用するのが人の世の常でしょう。

 

Winnyが普及するにともない,著作権法違反やわいせつなファイル,個人情報保護法などに抵触する違法なファイルを交換する事案などが頻発しました。

また、Winnyで流通するファイルにはウイルスが仕組まれることも多く,ダウンロードした人の個人情報などがWinny上でばらまかれるという事件も起きた為,ユーザー以外には忌み嫌われるような存在となっていました。

 

それと関連してか,2004年5月に金子氏は,著作権法違反幇助の容疑で逮捕されてしまいます。幇助とはいわゆるお手伝いです。

つまりは,金子氏自身が誰かの著作権を直接侵害した訳ではないのですが,著作権侵害にWinnyを利用した人のお手伝いをしたという容疑をかけられてしまいました。Winnyの作成・配布という行為によってです。

 

これについては,同事件を担当した弁護士の先生が「高速道路でみんなが速度違反をしていることを知っていたら,国土交通省の大臣は捕まるのか」とコメントして話題となりました。

結局,金子氏は無罪となりましたが,インターネット上では同逮捕・起訴について技術の発展普及に対する侵害と批難する声も多くあるようです。

 

実際に開発した技術を多くの人に試して貰うのに,インターネットは非常に適した場所といえます。匿名でアクセスすることが出来て,しかも各ユーザーに自己責任(ソフトウェア利用についてのこと)の意識が根付いています。

 

そうであるからこそ知識に自信のあるユーザーは,アングラな利用方法に突き進んでいくのでしょうが,問題を大きくしてしまったのは大して知識が無いのに追従してしまった一般ユーザーだと思います。

 

そうすると,良い技術ほど普及するでしょうし,法律違反に利用される余地があるならその確率も増えることでしょう。

 

そう考えると正に「高速道路でみんなが速度違反をしていることを知っていたら,国土交通省の大臣は捕まるのか」に収まるのですが,一方で一般利用に供する場への提供にあたり,どのように利用されるのかは,ある程度予測できると思います。

 

高速道路を建設するにあたって当然速度違反は予想できたでしょうが,速度違反をする人は高速道路があるから速度違反をするのではなく,一般道でもおそらくしていることと思います。

 

一方で,Winnyは,作成して配布した時点で,事実として起きた一連の事件を(ウィルスまでは難しいでしょうけど)予想でき得るでしょうし,高機能のWinnyというソフトがあったからこそ法律違反をしてしまった人もいるかと思います。要は法律違反のきっかけを作ってしまっていたのではないかと。

 

技術者の中には自分の技術向上に集中するが為に,そのあたり事が無頓着の人も多いと思いますし,だから法律専門家が必要なわけでそれでいいと個人的に思っています。

 

もちろん,担当弁護士先生のコメントについても批難するつもりは無く,むしろ弁護側の姿勢をわかりやすく表わしたいいコメントだと思っています。結果,無罪になったわけですから。

 

ただ,割と各自の自己責任という意識が広く持たれているインターネットの世界では,逆に,自らがインターネット上において行った情報提供や言動が他の人にどのような影響を及ぼすかについても関心のないユーザーが多いのではないか,と感じたのがこの逮捕事件でした。

 

自己責任とはそういう世界なのだと思います。

 

インターネットに直接規制をかけることは技術的には難しいでしょうから,結局のところ国内の企業とユーザーに対して法律で縛りをかけるしかありませんが,高速道路に限らず一般道においても多くの人が制限速度以上のスピードをだしているのが現実です。

 

 

しかし,私を含めてそういった人達の意思を民意と呼んで,政治家達は民意を得られるように努めるわけです。

 

そう考えると,自分の意思を民意などと大層な呼び方をされても,本当にこれでいいの?という疑念は常々あるわけです。

 

しかし,そもそも人は正しく生きることが出来ないものという意識があるからこそ,昔の人は武士道などで己を律したのかも知れません。

 

しかし,不手際や悪意の形跡があると,直ぐにそれを根拠に損害賠償責任やら刑事事件に発展させてしてしまう世の中だと,良心の呵責があってもそれを自分で認める事ができなくなる心理というのはすごく理解できます。開き直っていた方が自分の身を守れると当然思うでしょうから。

 

しかし,それがいい方向か悪い方向かは言わずもがなだと思います。

 

金子勇氏のご冥福をお祈りいたします。

それでは皆様

2013-07-05

良い週末を

気をつけて!!!

2013-07-04

本日,参議院選挙の公示がされました。

 

21日の投票開始に向けて選挙運動が始まります。

 

ところで,比例区では個人名で投票できることをご存知でしょうか。

 

参院選比例区は,非拘束名簿方式を採用しており名簿の順位が決まっていないため,政党若しくは個人名の投票が可能です。

 

例えば,支持政党はあるけど候補者のうち気に入らない人がいるということであれば,同じ政党の別の候補者名で投票すれば,気に入らない候補者が当選しにくくなりえます。

 

比例区は個人名で投票しましょう。

言葉を尽くして

2013-07-03

「このときの主人公の気持ちを答えよ」

 

当時,この手の問題が大嫌いでして国語は好きだったのですが,テストは低空飛行を続けておりました。

 

人の気持ちなど考えだすと色々思いつくのですが,それを時間内に全部書けというは不可能でして,要領がよければ出題者が喜びそうな答えをひとつ書いておけばいいものですが,何故か私はオリジナリティへのこだわりを捨てませんでした。

 

そして,こだわり抜いたオリジナリティは,義務教育期間に一度として教師から評価されることはありませんでした。

 

まぁ今考えると出題の意図は,さしずめ「文章の読解力を養うことと,人の気持ちを察する能力」といったところなのでしょう。

 

別に悪くはないのですが,一方で手前味噌ながら自らの評価を捨ててまで貫いたオリジナルな回答は,人の気持ちの多面性を表現していると思えます。

 

例えば,7月7日に彦星と織姫が1年ぶりに再会したときの彦星の気持ちを考えようなら,“ひとり君を思いながら重ねた夜の数だけ,君と出会えた喜びが僕を包み込み・・・”的なこともあるのでしょうが,それしか考えてない人はあまりいないと思われます。

 

(一年前と比べて化粧濃くなったなぁ・・・)とか(まぁそんなことより,早く予約したレストランで食事してその後は・・・)とか,色々なことが短時間で頭を駆け巡るのではないでしょうか。

 

何が言いたいのかというと,言葉で気持ちの実情を表現するとしたら,一言ではたりないということです。完全に表現することは無理でしょうけど,それに近づけるためにも多くの言葉を尽くさなければなりません。

 

そうであるからこそ,言葉が芸術になりえるわけで,小説や詩や和歌・俳句・川柳など様々なオリジナリティが後世に残されて来た訳です。

 

ただ,オリジナリティといっても,他の人にも理解が出来なければ評価を得られませんので,心理描写について意外な切り口を持っている表現者というのは,多面的な心理のうち小さくて気付きにくい心理をすくうのが上手なのだと思います。

たとえば,サラリーマン川柳の優秀作品などの可笑しさとか哀愁はこんな感じで伝わるのだと思います。

 

それと比べて,最近の歌の歌詞などは,人の感情を大きく動かす演出に入れ込みすぎて,強調したい部分を極力強い言葉で表してその他のニュアンスを排除する,いわば心理の一点集中のような傾向に感じられます。

 

まるで,肉だけのすき焼きのようで食傷している人も多いのではないかと思います。

 

この場合,どうしても「愛」「勇気」「希望」などと言葉が紋切りとなっている傾向となります。

 

私は,この紋切り言葉が連発されている現状を非常に問題だと思っております。

 

たとえば,明日参院選が公示され選挙戦が幕を開けます。

候補者の演説を聞いてよく思うのですが,紋切り言葉に慣れてしまったが為に話を具体化しない癖がついているのか分かりませんが,「○○だから○○しなければいけません!!」といった場合の○○同士が理由と必要性として繋がっていないと感じることがとても多い気がします。

 

議員に求める事は,誠実さはもちろんのことですが,状況の分析とそれに対応する企画立案なので,それを言葉でしっかりと表現できる候補者には,自分の誠実さを主張しなくても十分感じとることが出来ます。

 

しかし,有権者が普段から紋切り言葉に慣れてしまっていると,それを連発する候補者を誠実な人と信じ込み,誠実アピールよりも言葉を尽くして国の問題と解決方法を語る候補者の誠実さに気がつかない,ということになってしまうと懸念しております。

 

感動を誘う情緒的な一言よりも,一見冷たく見える筋の通った理論の裏側から静かな情熱を感じるべきなのだと思います。

 

以下にせよ,さすがに3年前の出来事はさすがに反省しませう。

告発

2013-07-02

元CIA(中央情報局)の職員が,アメリカ政府による個人情報の収集を暴露して話題となりました。

 

やっぱり・・・と思いつつもあまりいい気分はしませんね。

 

ま ぁ 私 は 別 に や ま し い こ と な い で す け ど !

 

 

でも,実際に告発者のスノーデン氏についてアメリカ国内での評価が気になります。

 

告発の理由は,どこかの国の諜報部員なのか,義侠心に刈られたのか分かりませんが,中央情報局の機密情報が白日の下に晒された自体が大変な問題だと思うので,英雄視されて他に追随者出てくる可能性なども考えるとアメリカの国益には適ってない気がします。

 

日本でこの手の話として記憶に新しいのは,尖閣諸島で海上保安庁の船と中国漁船が衝突した映像がようつべで流出した事件だと思います。

 

 

これは,尖閣諸島付近の海域をパトロールしていた巡視船が,中国籍の不審船を発見し日本領海からの退去を命じるも,それを無視して漁船は違法操業を続行し巡視船に衝突し2隻を破損させました。そのため,海上保安庁は同漁船の船長を公務執行妨害で逮捕したのですが,中国政府は「尖閣諸島は中国固有の領土」という主張を根拠に,船長・船員の即時釈放を要求しました。

 

それに対して政府(菅内閣)は中国人船長を処分保留で釈放してしまいました。

 

その後,漁船衝突時の動画はしばらく公開されませんでしたが,隠しきれなくなったために政府は,衆参予算委員会所属の一部の議員に対してのみ衝突場面が編集された動画を限定公開しました。

 

その後に,尖閣諸島中国漁船衝突事件の映像が海上保安官によってインターネットに公開され大きな話題となりました。

 

これに関しては,中国漁船と巡視船が衝突した事実よりも,それを隠蔽して中国に擦り寄ろうとする政府の姿勢が明るみに出たことが,何よりの国益だと思います。

その後,石原都知事の尖閣買い取り発言あたりから中国がなりふり構わなくなってきていることを考えると本当に恐ろしい政府だったと実感します。

 

これに関しては,国民が政府を評価する上で知らされなければならない情報を公開したことに大いに意義があります。

 

しかし,機密とされ長く運用されてきていた事実を,一個人が正義と称して外部に晒して評価を求めることは,それによって困る人がかなり出てくると思います。

  情報によっては,告発がかなりの破壊力を持つこともあることでしょう。

 

何より個人の主観による正義が,世間一般に言われる正義であるかどうかは分らないわけです。

また,一個人の主観では,内部告発とそれによって起こる様々な出来事との重大性を客観的に天秤にかけて計ることは難しいのではないかと思います。

 

だから,本来であれば組織内で間違ったことが起こっているのであれば内部から変えていく事が理想なのでしょう。

 

でも,そうもいかないという事情もわかります。

自己責任論

2013-07-01

最近の事件ですが,フリーキャスターらが搭乗したヨットが遭難して,海上保安庁のほか,海上自衛隊が出動して救助したことが話題となりました。

 

救助後に「僕は本当にね、ああこの素晴らしい国に生まれたよねと…」と語っていたそうで,救助に出動した海保,自衛隊の隊員の方々のほか国民を見殺しにしない国に対する感謝の気持ちが垣間見られます。

 

助かって何よりだと思います。

 

一方で,救助費用は1000万円超などと報じられ,これが税金で賄われていることから,自己負担を求める意見も挙がっているようです。

 

なんでも, このたびの小型ヨットでの太平洋横断企画は,日本テレビのあの24時間番組の企画だったのでは?という疑念が持ち上がっているとの話も芸能ニュースで報じられています。

 

日本テレビの24時間テレビといえば,チャリティー番組として有名ですが,出演者へギャラ・・・いや!!なんでもないです。

 

 

まぁとにかく,テレビ局も一民間企業ですから,その企画の不手際によって多額の税金が支払われたということであれば,お腹立ちの方もおられると思います。

 

救助費用を自己負担で賄え!という声も必至だと思います

 

仕方ないことだと思いますが,ここで自己負担を求める根拠として「自己責任論」が展開されることが,個人的にかなり気になりました。

 

「自己責任論」といえば,2004年イラク戦争当時,イラク武装勢力がイラクに入国していた日本人を誘拐・拘束し,自衛隊の撤退などを求めた事件のことを思い出します。

 

当時,日本政府から在イラク邦人に向けて退避勧告がされており,にもかかわらずイラクに渡航して居続けたという事情もあって,武装勢力からの自衛隊撤退要求を政府が拒否したくらいのタイミングで大いに「自己責任論」が広がりを見せたことを記憶しています。

 

人質となった方々は程なくして武装グループに開放されましたが,結局政府は自衛隊を撤退させることはありませんでした。

 

もし,このとき,時の内閣総理大臣小泉氏が,人命の為にやむを得ず自衛隊を撤退させることを宣言していたらどのような空気になったでしょうか。

 

あくまで想像ですが,「自己責任論」を論拠として自衛隊撤退に反対する声は,アメリカ追従主義者以外からはあまり上がらなかったのではないかと思っています。

 

では,何故「自己責任論」を出さなければならなかったか,というと結局,自衛隊撤退という答え,すなわち,イラク戦争における日本の主体性を保つことが出来なかっただと思います。

 

 子ブッシュが,イラク戦争を開始した軍事侵攻の根拠としたのは,イラクのフセイン政権が「大量破壊兵器を保有している」ことと,「アルカイダの要員を含め,テロリストを援助し,かくまっている」という2点でした。

 

しかし,結局両方とも間違っていました。

 

結果はともかくとしても,日本においても自衛隊の派遣について大いに話題となりましたが,日米関係を主張する賛成派と憲法9条という条文を根拠とする反対派とで対立していただけで,結局国民の危機における国家のあり方など人道的な部分まで全く踏み込まない薄い議論に終始していたような記憶があります。

 

で,本当はやりたくないんだけど今後ともアメリカさんとは深く結びついておかないといけない,という理由から結局,自衛隊を正当性のない戦争に送り出した訳で,もうこの当たりから自衛隊の隊員の生命をアメリカへ追従するために利用しているといえます。

一人の犠牲者もなく何よりでしたが。

 

このような経緯において自衛隊が派遣されたのであれば,邦人が現地で拉致されても自衛隊を撤退させるという答えが出てくるはずがありません。

 

ここで,「良好な日米関係を保つことこそ日本の国益に資する」との反論もありそうですが,自衛隊員及び拘束された邦人の命を引き換えにする日米関係がいったいどの国益を守るというのでしょうか。

たとえば,一部の国民を犠牲にしてもその他の国民の利益に適えばよいという考えを国益として考えるのであれば,イラク戦争で邦人を見殺しにするように,政府は犠牲となる国民がいようとも介入を控えるという理屈になるでしょう。そして,犠牲になった方に対しては「自己責任論」を展開することでしょう。

 

これを経済の話に置き換えれば,小さな政府論という所謂,新自由主義に繋がります。

 

そして,イラク戦争時下の小泉政権は正に新自由主義的政策を推進し,様々な分野において規制緩和を断行しました。規制を緩和するということは,すなわち国家(行政)が介入する範囲を減らしたということです。

 

そして,ツアーバス事業を旅行会社に全面解禁し,タクシーの総量規制を撤廃し,運送業においても規制を緩和し,労働社派遣法を改正し・・・・

 

企業の新規参入を目的とした政策により,各業界は供給過多に陥り,価格競争によるしわ寄せを労働者に負わせました。

 

一方で,“いざなぎ景気超え”と謳って,さも好景気のであるような喧伝をしていましたが,景気拡大の期間がいざなぎ景気を超えただけのことであって,GDPでいうといざなぎ景気の100分の1の成長率だそうです。

 

また,大企業が得た利益を海外投資に向けたため国内の雇用や賃金UPに繋がらなかったのが,景気を実感できない理由なんじゃないかと思っています。

 

 

結局,規制が解かれたことによって初めて,国家による規制の恩恵を受けて生活していたことに気付かされたのではないでしょうか。

 

株式会社というのは, 一にも二にも稼ぎ続けることが市場の命題であるからこそ,規制が必要なわけで,それを解くと言う事はパンドラの箱を開けるようなものです。

 

あの当時,「自己責任論」と言った人たちは今再び言えるのでしょうか。

・     ・・言ってますね。

 

かく言う例のキャスターもイラク戦争の当時,「自己責任論」を展開していたようです。

 

結局,「自己責任論」は,自己犠牲という選択が出来ない人の言い訳として最適なのです。

 

「自己責任論」者の言い訳を聞くたびにザ・ブルーハーツの名曲トレイントレインの歌詞の『弱い者達が夕暮れ、さらに弱い者をたたく』の節を思い出します。

 

まぁヨットの件については,無事に帰ってこれてなによりですし,かつての軽口を反省してもらう程度でいいんじゃないかと思っています。

NHK受信料

2013-06-28

NHKの受信料未払いに関する地裁判決が昨日出た模様です。

 

どうも波紋が広がりそうな予感です。

 

まだあまり情報が手元にないのですが,受信者のどのような行為をもって受信契約の意思としたか,が気になるところです。

 

では,良い週末を

天網恢恢疎にして漏らす

2013-06-27

我々が生活するうえで何かを買うことが少なからずありますよね。

 

コンビニやスーパーで買い物するにしてもそうですが,あれって実は法律行為だったのです。

 

民法第555

売買は、当事者の一方がある財産権を相手方に移転することを約し、相手方がこれに対してその代金を支払うことを約することによって、その効力を生ずる。

 

とのことです。

 

ずいぶんと回りくどい言い回しだと思われたかもしれません。

もっと分かりやすくすればいいのにと思われた方もおられるでしょう。

 

ここだけでも読みにくいのに,契約による義務が果たされなった場合については更に複雑なことになっております。

 

そうであれば,義務が果たされなかった場合の責任の範囲は契約当事者間で決めて,法律では一律損害賠償ができるってことにしておけば,条文自体は実にシンプルとなり読みやすくなると思います。

 

その一方で,契約書の条項がその分複雑になると思われます。

責任の範囲を当事者間の契約で一律決めることになると契約の段階でありとあらゆる事を想定しなければならなくなります。

 

この傾向は,国家が市民に責任を委譲させているように私には見えます。所謂,自己責任論が根幹にあるように思えてなりません。

 

市民により多くの自由が与えられたということは,同時に責任も負担することになります。

 

「まぁでも,契約書に責任の範囲がしっかりと明記されているのだから,それを理解して契約していることだし,契約書どおりの責任を負わせるべきだ」という意見もあるでしょうけど,契約当事者においては少なからず権力者と被権力者の関係が少なからずあるはずです。

 

単純な話,デフレである現在においては供給過多となっているわけですから,消費者である買い手のほうが強いはずです。売り手としては余っている商品の値段を下げてでも買って欲しいからデフレになっています。

 

インフレだとその逆で,売り手の方が強気でしょう。

 

これ想像していただきたいのですが,電気事業法改正案が廃案になってひとまずホッとしましたが,各家庭が個別の電力会社から電力を買い取ることとなった場合,圧倒的に売り手の方が強くなるんじゃないでしょうか。だって,ライフラインですから!!!現代に生きている人は電気がないと生活できません。

 

このあたりを当事者間で責任やら免責事項やら決めてしまうと,ずるい会社なら圧倒的に自分に有利な条項を作るはずです。

 

逆に,免責事項が無いとして買い手側からのゆすりも起こりえるでしょう。

 

一方で「契約自由の原則」という憲法の要請もあります。これは,個人の契約関係は,契約当事者の自由な意思に基づいて決定されるべきであり,国家は干渉してはならない,という原則です。

 

ですが,先ほど申し上げたように売り手と買い手の力のバランスが偏っている場合ほど,立場の弱い方が自由意志を奪われるわけです。

 

契約の実情が多様化したとならば,更に法律の条文を増やすべきだと単純に思うのですが,なぜ法律を単純化するのでしょうか。それこそ,国家権力が権威を放棄してしまったように思えます。

 

立法府たる国会には権威があるからこそみんな法律に従っているわけで,その権威の根拠が間接民主主義で, 国民が代表者を選出して政治を委託しているわけです。

 

このことは,国家運営において大きな裁量権が必要な行政府についてであれば,自由競争を促すために民間への介入を控えるという話としてまだ分かりますが,行政府の国家運営としての規範となるべき法律を作成する立法府までもが,その責任を国民に負担させるのはダメでしょ。

 

法律が増えてさらに複雑になるのであれば,その分日本の法律専門家が頑張ればいい事だと思います。

 

法律が分かりやすくなるより争いが少ない方が市民にとってはいいんじゃないかと。

選挙と政策と右脳と左脳

2013-06-26

右脳と左脳の働きについて,右脳は,五感を通じた感覚・感性を司り,左脳は論理的な思考を行う脳であることはよく知られているところです。

 

なお,右脳の記憶容量は左脳に比べて多量な情報を記憶する事が出来るそうです。

また,処理スピードも左脳とは比べものにならないほど早いそうです。 

 

このことは,大量の知識を日々詰め込んでいた受験時代によく聞いた話です。

 

ということは,考えに考え抜いて編み出した論理的な方法よりも気持ちを揺るがすような強い感情のほうが,記憶に残りやすいということでしょう。

 

そうであれば,人はこうあるべきという筋道よりも,かつて感じた感情のほうが,個人の思考や行動の規範となりやすいえるでしょう。

 

そうすると,自ら体験した出来事,いわゆる経験よばれる記憶は,そのときの感情に支配されやすいのかもしれません。

 

だから,「昔は俺も無茶やってたよ・・・」と,本当はやってはいけない事を自慢げに語る人の心理は,その当時の感情が現在の論旨的思考を凌駕しているのでしょう。

それを聞いた周囲の人たちも一緒になって感傷的になるのも,右脳の処理スピードの賜物なのかもしれません。

 

要するに,論理的なことよりも情緒的な事の方が人に馴染まれやすいということだと思います。

 

オットー・フォン・ビスマルクは,「賢者は歴史に学び,愚者は経験に学ぶ。」という言葉を残したそうですが,(自分の感情に支配された経験という名の記憶など当てにならない)ということを言いたいんじゃないかな,と個人的に思っています。

 

 

ところで,7月の参院選に参議院選挙が行われます。

 

それにともない各党からマニフェストが発表されます。

 

選挙前に掲げたマニフェストで支持政党を選ぶということは,政策そのものを有権者が選び議員がそれに拘束されてしまうことから,議会制民主主義(間接民主主義)の否定という見方もできます。ましてや,すべての国民の代表であるはずなのに(マニフェストに賛同して投票した)一部の有権者に拘束されるというのはおかしな話です。

 

なにより自らの経験で物事を判断するであろう大衆の意思が,所謂民意として政治の枝葉末節まで直接に反映されでもしたら,一方で権力を持つ者が自己利益のみ追求できるようなことになり,一方で福祉政策がエスカレートしていくという,正に人間の欲望をそのまま体現したような政策になる気がします。

 

ナチスだってジャコバン派だって民意に基づいた結果のようですし,民意より上位の権威がない以上,民意をすくい過ぎるのはどうかと思います。

 

政治家の先生だって政治の専門家でしょうから,我々の及ばない知識や経験があるはずです。

どんな仕事でも素人からの注文が見当はずれであることは少なからずあるでしょう。

それでも,取引相手であれば納得してもらえるまで応じる必要もあると思いますが,政治は一部の有権者だけのものではありません。

 

インターネットで選挙運動も出来るようになり,立候補者の意見をじっくりと聞けるようにもなったので,今まで見えにくかった立候補者の人となりがかなりくっきりと見える様になってきました。

 

これも,使い方の上手な方の候補者に有利になってしまいそうですが,候補者の訴えたいことが分かりやすくなったことや,選挙前でも街が少し静かになることがメリットかもしれません。

 

露骨に感情に訴えようとするような人は,大阪市長でもうおなか一杯です。

 

政治家先生のお話しに関しては,一生懸命左脳に訴えかけてくる方のほうが右脳に響いてきますね。

ひとのはなし

2013-06-25

初対面の人と面会する場面で,間を持たせるために何か楽しい話題が出来ると何かと便利だろうなぁと思うことがあります。

 

職業によっては,そういったネタが商売の種にもなるでしょうから,普段からネタ探しや訓練に励まれている方もおられるでしょう。

 

ただ,差し障りのない話題というのは意外と難しいもので,好奇心が強すぎると踏み込んではいけないところまで突っ込んでいって嫌な顔をされることもあるかもしれません。

 

だからといって表面上だけ取り繕うとあまりに中身のない話題となってしまい,逆に相手が返答に困ってしまうこともあるんじゃないかと思います。

 

そして,途切れてしまいそうな会話を繋ぎとめるために無理して自虐ネタを出してしまったが最後,相手の困惑した笑顔が目に浮かんできます。

 

 

お互いがホスト役になろうとしてしまうと質問の浴びせあいとなってしまいかみ合わなくなってしまうこともあるかもしれません。でも,それなりに間さえ持てばいいというときもありますのでそのときはそれでいいかもしれません。

 

問題なのは,両方受身という場合です。これも沈黙が気にならなければいいのかもしれませんが,継続した関係は築きにくいのではないかと思います。

 

人それぞれ話したいことというのは沢山あるのではないかと思います。

ただ,人間関係の距離によって,そのことが話すべきか,話すとしたらどこまで話すかを

判断しているのではないかと思います。

 

だから,人の懐に躊躇なく飛び込んできてズケズケと自分の私見などを話し始める人は,話の内容はともかく,話が途切れないのでとっつきやすくはあると思います。

こういった感覚もある程度は必要なのかもしれません。

 

ただ,話の内容が薄いとその後,継続して交流していくうちに鬱陶しいと思われ兼ねません。

 

そういえば,亡くなった祖父は飲むとよく戦時中に海外に出兵したときの話を(強制的に)聞かせてくれましたが,私はこの話が結構好きで相槌を打ちながら聞いていました。

 

自分にとっては,その人の主観であれ経験であれ,話の中で何か人間味を感じることが出来た方が興味深く感じます。

 

お笑いでも,人間らしさを皮肉った落語のような感じだと味があって好きですね。

 

社交の場だとなんとなく雰囲気を明るく感じるように取り繕う必要もあるのでしょう。

だから,そのための話題も用意しておいて損することはないと思いますし,むしろ,そういう努力は人から感謝もされると思います。

 

そして,その後の交流を深めていく過程としては,無理に会話を繋ごうとせずとも,心から思っていることや感じたことを話せば,それだけでも十分興味深く感じるのではないでしょうか。

関連性

2013-06-24

原子力規制委員会は24日,国内で唯一運転中の関西電力大飯原子力発電所3・4号機についての評価会合にて,新規制基準の施行後も当面の運転継続を認めるに当たり,「重大な問題はない」とした評価書案を了承するかどうかの詰めの議論に入ったようです。

 

現在,運転している原子力発電所はこの2機だけですが,電気料金はねあがりしたものの,なんだかんだで停電も起きずに震災前と同じように電気を使えているから原発なんて要らないんじゃないの?と思ってしまわれる方も多いと思います。

 

一方で,東日本大震災が起きた2011年3月から日本の貿易赤字が膨らんでいるようです。

これは,原発稼働停止に伴う火力発電用の液化天然ガス(LNG)の輸入拡大が原因のようです。日本国内で使用されているLNGのうち国内で生産されたものはほんのわずかで,ほとんどを他国からの輸入でまかなっている状況です。

 

つまりは,原発を動かさないことで貿易の方にしわ寄せが来ているということになります。

もっとも,莫大な対外純資産国であるため,経常収支は黒字である模様です。

だから,貿易赤字が問題であると考えるならば原発を動かすのが一番手っ取り早いということになります。

 

しかし,貿易が赤字でも原発が動かしてはいけない,というのであれば,今度は現在の電量供給状況について,価格も含め安定して供給し続けることが出来るかどうかを検討しなければなりません。

日本に供給される天然ガスの2割強がホルムズ海峡という場所をタンカーにより通過してはこばれてきます。このホルムズ海峡は,イランの核開発問題をめぐって封鎖の危機がありました。また,海賊もよく出る付近のようです。

いずれにしても,外国にエネルギーのほとんどを依存するというのはセキュリティとして問題です。

 

まず,検討するに当たって電力は貯蓄することは出来ません。ですから,再生可能エネルギーと呼ばれていますが,天候などに左右される風力発電や太陽光発電が電力供給の主力となることはありえません。

 

また,発送電分離(発電事業と送電事業を別の会社が行うようにすることです。現在は各電力会社ひとつで発電と送電の両方を請け負っています)という発想は,そもそも問題の本質を見誤っているように思えます。

もし,原発を今後稼動しないと仮定した場合に問題となるのは,国内における安定した電力の供給であるわけですから,発電事業に民間会社やら外国会社やらが参入してきて価格競争でもやろうものなら,外食産業のどこかみたいに安かろう悪かろうになるのは必死です。

一分間停電させてしまったらごめんなさいとのことで無料サービス券つけて終わりという訳にはいかない位大きな損害が出るはずです。質の悪い会社が淘汰されたところで寡占市場となった場合に考えられるのはやはり値上げでしょう。

 

なお,現在,電力会社に課せられている電力供給義務を,そのまま発送電分離した場合の発電会社に課す事は,自由競争を促すという建前では不可能だと考えられます。

 

それでも,原発は再稼動しないという考えもあると思います。

 

その考えには,はたして電力供給に障害が発生した場合に生じるあらゆる損害を想定した上でのことでしょうか。設備産業などの社長さんやその他の従業員の方々がどれだけ苦労されるか想像した上での結論しょうか。

 

しかし,私自身においてもこのことを福島で被害にあわれた方に対して直接口にすることは躊躇われるところです。きっと私が想像もつかないような苦しい思いをされているでしょう。

 

ですが,やはり私は自分に近いところの目線から考えますし,その方が正直だと思っています。

 

ところが,関東では,福島の原発事故以前まで交付金という見返りによって他地域(福島原発の電力は福島には供給されていません)に原発を設置して電力供給を受けていました。

 

これは,見方によっては経済弱者への危険の押し付けの様にも見えます。この見方では少なからずその構造は歪です。

 

そして,結果的に事故が起こって「やっぱり,原発は危険だから反対だ」と,関東の人が考えることによって,正に“経済弱者への危険の押し付け”という見方が顕在化します。

事故までそのことを知らなかったといっても,それまでに供給されていた電力が実は経済的に乏しい他地域に危険を負担させることによって供給されていたという事実は現実に存在する訳です。

だから,他地域に設置した原発でさえ自分の身に危険が及ぶことを知った関東の人が原発反対を訴えているという事実は,それまでの経緯を繋げると“経済弱者への危険の押し付け”という構造に見えてきてしまいます・・・というか鮮明に見ます。

 

ヨハン・ガルトゥングは,因果関係が複雑で暴力行使の主体は特定できず,しかも加害者であるはずの人々はその自覚を持たないといったような様な状況について,そのように間接的に生命や人間の可能性を奪い去るような行為を構造的暴力と呼びました。

 

この考え方だと,一切,加害者に加わらずに生きていくことは日本においては不可能なのではないかと思います。だからこそ,無関心であること自体が問題だと思います。

 

原発問題においても,他地域に危険を押し付けて電力供給を受けながら原発事故によって大きな被害を受けずにいる以上,「私達は,政府と東電に騙され続けた純真無垢でまっさらな被害者なのです。」と考えることはちょっと無理があるのではないと思うのです。

 

自らを被害者としておくために,政府と東電を叩いていれば善良な市民でいられますが,それでは歪な構造をどのように修正して事故の前と同じように安定した電力供給を実現できるかという課題まで思考が及ばないのではないかと思います。

バッシングしている時点で思考が停止してしまっていますので。

 

私は,エネルギーセキュリティを考えると,今後も原発に頼っていくかどうかは議論するとして,とりあえず再稼動が妥当だと考えます。私の身近な人たちが困るのを見たくないですから。

 

ただ,もちろん危険なことには変わりがなく,原発立地地域在住の方をはじめ,関東以外の地域の人においてもやっぱり原発は反対だという意見は根強くあると思います。

 

もちろん,ひとりひとり自分の視点でしか物事を捉えることは出来ません。

だからこそ,間接民主主義によりよりマジョリティだけでなくマイノリティの意見も反映させる制度を実現しています。(この考えだと小選挙区制や議員定数削減は問題です。)

 

ですが,自分が想定しえる様々な要因について関連づけて広く考えることが大事であることに変わりはなく,イデオロギーに完全に思考を委ねてしまうと,それぞれの物事についての関連性が理想論により断ち切られてしまっている様に思います。

 

原発再稼動ダメ。貿易赤字ダメ。プルサーマルダメ。再処理ダメ。ワンススルーダメ。そもそも瓦礫受け入れもダメ。今後のエネルギーは再生可能エネルギー。再生可能エネルギーの維持は現行の固定価格買取制度。では菅直人は?ダメ。将来のエネルギーは尖閣のメタンハイドレート。中国から尖閣を守る。アメリカはででていけ。でも,9条改憲反対。

 

色々と関連すべきことを切り離して理想で考えているから辻褄が合ってないように感じます。

 

一人で考えることの出来る範囲は限られていますが,それでも思い当るだけでも関係を考えた方がいいのではないでしょうか。

庶民という煽り

2013-06-21

現政権の経済政策であるアベノミクスについて一部で“庶民のためにならない”との批判があるようです。

 

たしか,株価が上がっていたときには,“株価が上がっても大手企業とその株を持つお金持ちだけがいい思いをするだけの政策”と批判していました。

 

そして,ご存知の通り大きく下げた後に乱高下しているわけですが,今度は“庶民たる投資家が株の売買で損をした”として批判をしていたのを見て思わず吹き出してしまいました。

 

 

大手企業に勤務されている方々とて家庭に戻れば庶民でしょうし,大きな家や資産を持っている人にしたって庶民の側面もあるはずでしょうに,なぜ,そんなに経済的な格差を意識させるような煽りをするのだろうかとちょっと変に思いました。

 

まぁ確かに第3の矢といわれている成長戦略については,私もちょっと疑問がありますし,TPP交渉参加の姿勢を変えてないあたりは大いに問題だと思っています。

 

しかし,金融緩和と財政出動については良いと思っていますし,そもそも多様な方面から多様な意見があるなかで,一方からの意見を取り入れるということは立場上出来ないと思います。それは,ある意味でどんな方面の立場からも批判が可能ということでもあります。

 

つまり,批判をするのと比べてあらゆる方面へ説明して納得させる方がはるかに大変だと思います。

もし,批判する方が協力体制を作るつもりなど毛頭なく,足元をすくうためだけの理由で批判していたとしたら説得することは無理です。

 

そういう部分でも,庶民とか市民という言葉で大衆を煽ることは,大抵の人に庶民としての側面があるという表裏の関係を無視した一元的な理屈となるでしょう。だから,国民を二分するような話になってしまうのだと思います。

 

別にお金持ちが更に儲かろうが自分も儲かればいいと思う人が多いと思います。(トリクルダウンという意味ではなく)

 

だったら,世論を二分することが目的というのはマズイですよね。

芸能人でいうと誰がタイプ?

2013-06-20

よ〜〜〜く聞かれますが,これほど困る質問はありません。

 

まず,あまりテレビを見ないので芸能人自体良く知りません。

 

ただ,コレに何かしら答えないとなんとなく話を硬い方向に流してしまうきがするので(自分としては一向に構わないのですが),適当に思いついた人の名前を答えるようにしています。だから,その都度変わりますし本心ではありません。

 

なんというか,テレビに映し出されている人から,いまいち人間性が伝わってこないのが本音です。

 

平面に映しだされた人達のしぐさなどにあわせて音声が伝達される,というのがテレビです。

たとえば,評論家が意見を述べれば,様々な場所へ一斉に映像とともに音声として言語内容が視聴者に伝わります。

 

意味内容だけ伝えるのであれば文章でもできますが,しぐさや声の抑揚なども一緒に伝えるという点においては用途によっては優れた伝達方法といえると思います。

 

ですが,(それにしては芸能人というのは人として記憶に残らないなぁ)と不思議に思っていました。

 

「女子アナの誰々っていいよね?」という振りには毎度ながら「お,おう・・・」と,答えつつ(どんな人かも分からないのに逞しい想像力だなぁ)と感心させられています。

 

女子アナウンサーといえば,元女子アナウンサーで参議院議員の丸川珠代議員が,アナウンサー時代の報道担当だった当時のことを“ずっとすべてのものが流れていく”と振り返られていました。

 

なんでも,流れていったもの(情報のことでしょう)について事の重大性を測ったり,全体としての大きさを比べたりという習慣が全くなかった,と語られていました。

つまり,蓄積される物がないということのようです。だから,心に残存がないわけです。

 

このお話を聞いてやっと合点がいったと共に,テレビ業界の中で働いていながらそのことが問題だということに気付かれた丸川議員に感嘆しました。

 

また,時間を埋めるために視聴率の取れそうな言葉で埋め尽くす報道姿勢が,本当に伝えなければいけないことを蔑ろにしてしまっていると指摘されていました。

言葉の浪費と表現されておられましたが,言い得て妙だと思います。

 

人が何かを感じてそれを考えた末に出た言葉というのは,その人の今までの様々な経験から学んだ,いわばその人自身の哲学だと思います。

そして,この言葉には優越はありません。(間違いはあるかもしれませんが)

だって,全く同じ人生を歩んだ人など何処にもいませんので。

 

自分は,こういうことに人間性を感じているのだと気付かされました。

経歴とか事実ではなくあくまで心の部分のことです。

 

 

そうであれば,“言葉を浪費している”テレビにおいて出演者に人間性を感じることが出来ないことも納得できました。

 

しかし,スポーツや国会中継など筋書きや編集がないテレビ中継に写っている人には人間性を感じることができるので,結局のところ制作する側のセンスが自分には合っていないということでしょう。

 

しかし,テレビは大きなシェアを持つ大衆メディアな訳で,私のような考えや感じ方はマイノリティなのだと思いますが,少なくとも長くテレビ業界におられた丸川議員が,かねてからの疑問を明確に浮かび上がらせてくれた訳でとても心強く感じました。

 

 

だから,結論として私の好みは人柄重視というところなのでしょう。

 

もちろん,芸能人の中にも人柄のいい人は沢山おられると思います。

 

しかし,きつい香水をふんだんに使ってむせ返るような演出よりも仄かな石鹸の香りが漂う程度の方が,自分にはあっているということなのかもしれません。

贖罪

2013-06-19

「出来心」って使ったことありませんが,便利な言葉だと思います。

 

ふと魔が差して思わず行動してそれがバレて問い詰められたときは,とりあえずこの言葉を巧みに使って泣き落としを試みれば,もしかしたら許してもらえるかもしれません。

 

でも,よく考えると反省していない心のあらわれの様な気もします。

 

反省というのは,まず自分のしたことを認めて自らが原因を究明しなければなりません。そうしないと,原因が改善できませんので,再び同じ過ちをする可能性が出るわけです。

 

出来心という言い訳は,魔が差した場面にのみ言及している訳で,例えば,万引き犯の「生活が苦しくてつい出来心で・・・」と言い訳には,「出来心」が同じ境遇となれば誰も陥る心理として同情を得ようとしていることが分かります。

 

でも,生活苦の原因が,実はギャンブルで浪費して借金を作ったことであったら,そもそもそういう境遇自体が特殊です。

更に,その原因を改善しないとならないはずですが,出来心という言葉はそれ以上の追求を逃れるために都合よく出来ています。そう考えると,出来心という言い訳には隠したい核心があるのではないかと思います。

 

実際にその核心というのは,表面上のプライドとか,人に見せたくない自分だとか,意外と内面的な部分が多いのではないかと思います。

 

横領した金で遊び歩いて自尊心を満たしたり,揺らぎそうな自分の立場を受け入れてもらいたい為に浮気を繰り返したり・・・

 

傍から見たら,必死に隠していた核心というが実にちっぽけなものだったら,やってしまったことの重大さと比べて怒りもわいてくるのではないでしょうか。

 

まぁだからこそ「出来心」という免罪符でなんとか隠し通そうとするんでしょうけど。

 

ですから,最後には許すにしても「出来心でした」では済まさずに,とことんまで追求してやらないと,原因であるプライドやら何やらが,如何に他の人にとって小さくて下らないことであることを理解する機会がなくなるのではないかと思います。

 

言い訳や言い逃れがうまい人は,自分が隠し通したい核心まで追及されることがないので,いつまでも小さいことにこだわっていられるのでしょう。

そういう人をとことんまで追及しないから政治とか芸能の世界では特にどうでもいいことにこだわっている人達が幅を利かせているように思います。

 

だから見ていて面白いのかもしません。興味深いではなくて滑稽という意味で。

 

贖罪は,認めたくないことを認めることから始めることだと自分では思っています。

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