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これから討ち入りです。

2013-12-14

八時ごろに吉良邸前に集合との事です。(ご内密に)

 

なお,清水という者を討ち取る役目を仰せつかっています。

 

明日の明朝にはきっと良いご報告が出来ることでしょう。

 

あっ!そういえば,陣太鼓を忘れるところでした。うっかりしていました。

 

では良い週末を

冷え込み

2013-12-13

今朝はひえこみましたねぇ。

 

お体には十分お気をつけください。

2013-12-12

漢字1文字で一年の世相を表す恒例の今年の漢字に「輪」が選ばれたそうです。

 

ごぞんじの通り,2020年の東京五輪開催決定をもじったようです。

また,伊豆大島の豪雨被害など各地で起きた災害に支援の輪が広がったことなどを反映したとのことです。

これ毎年やってますが,日本漢字能力検定協会(京都市)が主催してるんだそうです。

 

なお,翏橋推薦の「偽」は8位だったようです。冗談交じりでしたが多くの人が同じことを思っているようでちょっとびっくりしました。もっとも,何について「偽」としているかはそれぞれだと思いますが・・・

 

「輪」といえば,まず丸い輪郭をイメージすると思います。そのほか,漆塗とか横綱とかお団子屋さんとか・・・

 

あと人のつながりを例えることもあります。複数の人が両隣の人と手を繋ぎ合わせると輪を描く格好になるのでこのような意味で使われることになったのでしょう。

 

そのほかで,私の個人的なイメージですと,雫が水に落ちたときの波紋の広がる様子をイメージします。

 

一時的には大きな反響ですが,遠くに行くに連れて薄まってついには消えてしまうのですね。

 

むしろ,このような「儚」さを例えた方が情緒的で個人的には好きです。

 

そういえば,安倍晋三首相が,自身にとっての「今年の漢字」を記者団から問われ「夢」と答えたそうです。なんともうすpp・・・っと!まぁ良いんじゃないですかね。寝ながら見る分には。

 

そういえば「輪」と似た意味を持つ「環」という字がありましたが,こっちは正直ちょっと御免ですね。(たまきさんのことではありません。すみません。)

 

年内妥結が難しくなったとのことですが,とっとと交渉から抜け出るべきでしょう。

 

首相には早く「夢」から醒めて欲しいものです。

聞こえのいい言葉

2013-12-11

私は,つい最近までいわゆる左翼的な発言を多くしていました。

 

もっとも,経済格差の是正とか社会的に弱い立場の人への配慮など,結論としては今でも似たような事を言っているのですが,平等原則とか権利という手段を用いてそれらを達成するという方法論において相違しています。

 

というのも,両親もそうですし,学校でもそう教えていたからです。

 

たとえば,あらゆる場面において人は平等でなければならないし,すべての人に自由が与えられて,教育においては存分に子供の個性を伸ばすことが必要であり,我々の祖先は戦争においてアジアの国々にひどいことをしたのでそれを反省して武力を放棄しなければならない。などなど・・・

 

予断ですが,小学生のときに先生が「昔日本はアジアを侵略して云々・・・」と話していたのですが,そのとき私は自分の住む国がかつて強かったということがすごく嬉しくてついつい授業中に声を上げて喜んだことがありました。

そのときの先生のブチ切れ方が凄まじく,(いくらなんでもそこまで怒るか?)と当時の私は不思議に思っていました。

今でこそ(なるほど・・・)といったところですが。

 

で,話を戻して,それらの美しい理念に疑念を抱く者はすべて悪者と看做されていたので,ある意味で博愛主義の純粋培養のような環境だったのかもしれません。

 

ですが,子供でもやっぱり気がつくはずです。

というか素直であればあるほど違和感をもつはずです。

世の中が決して平等でないことも,自由を行使すればその分の制裁があることも,挑んでくる相手に平和を説いても決して解決しない事も・・・

 

その美しい表現だけをそうある「べき」と教えられれば,素直に受け止める人ほど混乱することだと思います。

なぜなら,現実に自分の目の前で繰り広げられている人間社会とその理想があまりにかけ離れているからです。

 

私は実際に混乱していました。これらの理想をすべて飲み込んで現実の社会で生きていくには,何かしら自分の中で嘘やごまかしをしなければならないと感じました。

 

 

そして,それが出来なければ世の中は虚無的なものであると考えるしかないと考えていました。いわゆるニヒリズムですね。

 

そんな思春期の頃に出会ったロックミュージックの世界というのは,いわば世の中の虚無感で苦しんでいた人達の駆け込み寺みたいなところがあったと,今でこそ感じています。

 

ですので,かつてロックが退廃的文化といわれて危険視されていたことは,虚無感に苛まれた人達がそこに集まっていた事が原因だと思います。

実際にはロック自体はそれほど虚無的でも無く,私にとっては心を取り戻す空間という感じでした。

 

まぁ自分の話はこれくらいにして,いわゆる博愛主義的な言葉,ちょっと悪い言い方をすると綺麗事をそのまま子供に教え込むと,素直な子ほど現実とのギャップに苦しむという悲しい現実があります。

 

 

というのも,理想は理想で結構なのですが,その言葉を得意げに教える人は,その美しい理想とやらを現実には行っていないし,実際に信じてもいないのではないかと思います。そうでなければ,矛盾を感じないくらい鈍感なのか。

 

たとえば,平等を現実のものとするならば,あらゆる人の立場を斟酌しなければならず,収集がつかなくなるでしょう。そうであれば,不平等と感じる人がそれを主張すれば言いということになりそうですが,声の大きい人の方が奥ゆかしいよりも多く主張することになるでしょうから,それってそもそも平等か?ということになります。

 

もちろん,経済などの格差を是正するということは必要ですが,そもそも個人の能力や環境などはそれぞれ違う訳で,そのことを前提として生じている格差というものを考えなければなりませんので,美しい言葉一言で解決するような単純な話ではありません。

 

しかし,それでも美辞麗句は,政治や経済,教育現場やマスメディア,娯楽の世界においても溢れかえっています。

 

私のかつての経験から申し上げますと,聞こえのいい言葉をたった一言言うだけで人の心を引っ張りこめるように感じていました。実際には聞いた人達が真に受けたかどうかは分かりませんが,そう感じることで自分に正当性が与えられたような気がしました。

たぶん,聞いている人も違和感や嫌悪感をもつことはないないでしょう。なぜなら単純に聞き慣れているからです。

 

そして恐ろしいことに,言葉に奥行きの無い美辞麗句を連ねた発言が人に聞き入れられることにより,それ以上のことを考えることを止めることが出来るのです。

 

そうやって連鎖していくと,例えば国会議事堂の前に集結するような事態が起こるのではないかと思います。

 

言葉通りの理想を追求するのではなく,現実にみんながハッピーと感じる世の中に少しでも近づくという理想は,長い歴史の中で先人達が四苦八苦して考えたでしょうし,簡単な言葉で表現できるものでは間違いなくないはずです。

 

ですがその事を,そう簡単ではないということ知るだけでも,自分の意識の範囲外にある人や生活が在るということを意識する契機にもなるでしょうから,最低限それだけは必要なんじゃないかと思います。

 

自由だとか平和だとか平等だとか,それらが思考を停止させることになる原因というのは,意識の範囲外を意識していない(自分の知らない事象を認めない),すなわち全てを網羅的に捉える表現だからだと考えています。

これはいいニュース

2013-12-10

先日紹介した地方の足と言われる軽自動車の増税に関するニュースです。

 

自民,公明両党の税制調査会がそれぞれ開いた会合において,消費税率が10%に上がるまでに,軽自動車を持つ人にかかる軽自動車税(自家用乗用車で年7200円)を現在の1・5倍か2倍に増税するという総務省の案に対し,反対意見が大勢を占めたそうです。

 

どうも,総務省案が見直しをされる可能性が出てきているようです。

 

すばらしい!

(ちなみに私の自動車は普通自動車です)

 

テレビでは,国会と民意が乖離しているなどど言っておりましたが,与党議員の先生方はちゃんと庶民の方々の事情を考えておられるようです。

 

国会議員の方々は正当な選挙にて選出された方々です。

そして,国民からの信用を失えば次の選挙で選出されないというプレッシャーがあります。

 

ところで,テレビや新聞社の組織編制について民意が介入する余地があったでしょうか。

 

記者やニュースキャスターや御用学者は国民の信任を得ているのでしょうか。

 

国民から信用を失った場合,解任することが出来るのでしょうか。

noface

2013-12-09

二十歳くらいの頃に,あまり知らない同級生(男性)から電話が入りまして「ちょっと会わないか?」という誘いに乗ってみたことがありました。

ちょうど電話がかかってきたときには友人と自宅で飲んでいて,その話をすると心配してくれたのですが,ちょっとした好奇心があったこともありまして待ち合わせに行ってみることにしました。

 

で,当日に彼と会いまして,しばらくは現在の生活など当たり障りのない会話をしていたのですが,あるタイミングを機会に突如六道(仏教の用語)の話を始めました。

(あぁ・・・来たな?)と思いつつ,彼を現実に呼び戻してやろうと真っ向から反論してやることにしました。

 

結局,8時間の禅問答の末に話は物別れとなり,最後は一緒にラーメンを食べて(私から誘った)お別れしました。駅の改札分かれた後にしばらく監視していると,すぐさま公衆電話に駆け込んで電話をしている姿を目撃しました。どこかに顛末の報告でもしていたのでしょう。ノルマでもあるのでしょうかね。

 

なお,そのときの話の内容はほとんど覚えていません。たしか,神さまの実在性について問答していたように記憶していますが,これが抽象的で全くもって分からんのです。われながら,よくめげずに頑張ったものだと思います。若さって素晴らしい!!

 

当時の私の仕事は週休一日でしたので,貴重な休日を(私にとっては)得る物の無い会話で潰してしまったわけです。帰りの電車で一気に疲れがこみ上げてきたのを覚えています。もっとも彼にとっては長時間の面会さえいとわない事情があったのでしょう。

 

しかし,今考えると粘ったなりに得られた大事な教訓を得ることが出来たと思っています。

 

たとえば,人の話を聞く気が無い相手を説得する事は,ほぼ不可能であるということです。

 

ひとつの物事について見解が食い違った場合,まずはお互いがそれぞれ自分の見解を正しいと思っていることでしょう。そして,自分の見解を正しいと思うからには当然その見解が正しいと思う理由とその根拠があるはずです。

そうであれば,それぞれの見解について,その理由として考えている理論の正当性と,根拠とする事実の信憑性・妥当性などを検証する必要があるでしょう。

 

そして,各々の見解におけるそれらを共有しあうことで,共通して認識できる部分と対立している部分が明確になります。ですので,共通している部分が確認できたら,今後はそのことを前提として対立している部分における検証の作業を行わなければなりません。

 

そうすると,複数の違った見解から結論を導くというのは,互いに共通する事柄を確認しあって積み重ねる作業であると思います。

 

ですが,話の通じない人というのは,この共通している事柄の確認の積み重ねができない(というか放棄する)ということがほとんどだと思います。

 

たとえば,問いに対して問いで返すような混ぜっ返しをして積み重ねた事柄をぐちゃぐちゃにしてしまいます。

 

これをやられると,一から確認作業をしなければならず話が堂々巡りとなるでしょうから,結局自らの見解の正当性を訴えている方が根負けした時点で話し合いは終わりになります。要は,自分の見解が間違っていると気付いても決して曲げまいと思えば,それは可能ということです。

 

そうなると,ひとつの問題について合議するとなると,複数に集まればその数だけ意見が生じることになるので,例えば多数決など結論を最終的に決定するルールを用いないと物事が決まらないことになります。

全員合意が必要ということになると,個人的な事情を理由に一人がゴネたらそれだけで延々と同じ話を繰り返さなければなりません。

 

もっとも,そうであればその話し合いに中立な第三者を介在させて,論点を整理すると共にどちらの見解に正当性があるかを決めるという,裁判所のようなシステムで話し合う方法があります。

 

ですが,その第三者の条件もまた,話の通じる人でないといけません。

 

たとえば,特定秘密保護法案が妥当かどうかについて意見の違う二人が話し合ったとしましょう。

その話し合いが続けられる中で,各省の大臣が「特定秘密」を指定するにあたり,特定秘密の内容を監視する組織を置く上で,組織にどのように民主的な要素を取り入れるかが議論されていたとします。

 

ここで,その議論を見守る第三者が,(そういえばテレビで「国民の知る権利」が害されるといっていたなぁ・・・)と,そのことばかりに捉われていたとしましょう。

 

そして,その第三者が「特定秘密保護法案によって国民の知る権利が害される」と発言したらどうなるでしょうか。

 

これは,”特定秘密の内容を監視する組織にどのように民主的な要素を取り入れるか”という話にたどり着く過程において,少なくとも国家機密というのも,その保護を厳重にすることも必要であるということが,少なくとも話し合われているはずです。

 

そしてその時点において,国家の安全保障のために国家機密の保護を厳重にすることが,ある意味で国民の知る権利を制約することになるが,重大性を比較衡量すると国民の知る権利を制約してでも国家の安全保障を強化して国民の生命を守ることが必要という話し合いは既になされているのです。

 

そうすると,また立法の必要性まで戻って同じ話をしなければなりません。

 

もちろん,秘密指定された秘密を保持する期間を考える上では「国民の知る権利」というのも問題となるのでしょうけど,それだって「国民の知る権利」を制約されることが前提としたその長さの加減のことですので,話の過程を確認しあってなければ,同じ事を蒸し返すだけになってしまいます。

 

そして,特定秘密保護法案について否定的な側が,そもそも何かしらの事情で話し合う気などなければ結論など出るはずがありません。ですので,審議を打ち切って採決をすれば強行採決と言い張るでしょう。

 

冒頭の宗教勧誘の話もそうですが,一方的な事情を通そうとする相手というのは,話し合いなどまともに乗ってくるわけが無いのです。それは,議論を深めることよりも自らの一方的な事情を通すことを目的としていれば当然のことです。

 

そして,それを客観的に見ていると思われる人であっても,話の経過を辿っていなければ論点の所在が分からないので,結局普段からよく聞くフレーズが大衆の意見だと思い込んでいればそれを主張するでしょう。

 

その情報源であるメディアうち,その審議の経過と論点をしっかりと説明したメディアがどれくらいあったのでしょうか。(実際には確認していないのですが)もし,していたのであれば何故反対意見がこれだけ混沌としているのでしょう。

 

反対意見を集約して,賛成側に分かるように説明する事はできるのでしょうかね。

いや,難しいと思います。だって,分かろうとしない人達が分からないことを理由として反対しているのでしょうから。

 

私は,特定秘密保護法案のことよりも,狂ったように「国民の知る権利」を喚くマスコミや国会で大暴れした議員や議事堂の前に集まった大勢の人の方がよっぽど恐ろしいと思っています。

 

「国民の声」といいながらどこかで聞いたような言葉を並べて全く自分の言葉というのが感じられませんでした。

 

なんというか顔が見えないのですよ。

師走

2013-12-06

ここ最近雨が降っていませんね。

 

外に出るにはいいのですが,全然降らないのもちょっと寂しい気がします。

 

もっとも,冬の雨は冷たいのでやはり晴れた方が良いかもしれません。

 

そういえば明日から冷え込むとの事です。

 

お休み中も油断せずお体お気をつけください。

軽自動車

2013-12-05

最近ではめずらしく喜ばしいニュースです。

 

国土強靭化基本法が,12月4日夜の参議院本会議で可決,成立したということです。

 

マスコミがまた例によってバラ撒きなどと喧伝しているようですが,自分が払った税金云々よりも,老朽したインフラの崩壊によって命が失われる笹子トンネル事件のような悲劇が無くなるほうが絶対良いと思っています。

 

また,土木に携わる労働者の方々の昨今の苦労を日常業務によって目の当たりにしていたため,公共事業によって所得の再分配が行われることも実にうれしく思っています。

 

そして,地方インフラが整備されれば,観光産業なども活気付くでしょうから国内旅行が一段と楽しくなりそうです。

そんな暢気な事だけではなく,切実な問題として予想される大型地震に対する対策としても効果を発揮するでしょうから,とにかく日本国民は絶対喜ぶべきニュースであるはずです。

 

特に地方にお住まいの方にはうれしいニュースだと思いますが,そのことに水を差すような話題もあるようです。

 

政府・与党は,軽自動車税(地方税)を引き上げる検討に入ったそうです。

なんでも,現行年7200円の同税を1.5倍となる「年1万800円」と,2倍の「年1万4400円」とする2案を提示したそうです。

消費税率が10%に引き上げられる予定の2015年10月までの増税を想定しているとのことです。

 自動車課税をめぐっては,既に自動車取得税(地方税)を消費税率10%段階で廃止することが決まっており,減収となる約2000億円の代替財源確保として,軽自動車税の引き上げを通じて,減収分の一部を穴埋めする見込みとの事です。

 

以前からこの話は度々持ち出されていましたが,これに関して業界団体は「地方の足を奪ってはいけない。」と反発していたことと思います。

 

「地方の足」という例えは,まさに現実を表しているのかもしれません。

地方というのは,その広さや人口の都合によりどうしても公共交通機関の通行量が少なくなりがちになっていることと思います。ですので,街に買い物に出るにも何かと車は入用になるはずです。

 

その傾向は,沖縄県が特に顕著だそうで,家族でも一人一台が当たり前というくらいの車社会なのだそうです。その理由として,沖縄県には那覇市内を走るゆいレールの他には鉄道がなく,また特に夏は非常に日差しが強いためそれを避けて移動するために車は必需品であるといいます。

 

もちろん,暑さ寒さの違いはありますが東北や北海道など地域においても類似した事情があるのではないかと思います。

 

 

ですので,この度検討されている軽自動車税の増税というのは,軽自動車の一台あたりの所有に対する税負担が大きくなるということですので,今まで税金が安かったという理由で軽自動車を複数台所有していた世帯には,その台数分にかかる割合で税負担が増すということになるわけです。

 

そして,軽自動車を複数台所有する必要があるという事情の家庭は,特に都会よりも地方において多いことと思います。

 

また,冒頭によりますと消費税増税に伴う自動車取得税の廃止の穴埋めということですので,まず消費税との兼ね合いを見越しているのだと思います。

ところで,消費税には逆進性と呼ばれる,低所得者ほど所得に対する税負担が重くなる効果があるといわれています。

 

そのことを頭の隅においといて,自動車取得税とは「取得価額」が50万円を超える自動車の取得に対し、その取得者に課す税金です。つまり,購入したときなど取得時にかかる税金です。

そして,ここにおける「取得価額」とは,実際に自動車を購入する際に支払った金額ではなく新車時からの経過年数に応じた基準があるようです。

 

つまりは,自動車取得税を廃止しなくても,現行法において,中古の軽自動車を50万円を超えて購入した場合でも非課税になることがあります。

つまり,自動車取得税を廃止したとしても,中古軽自動車の購入についてはあまり恩恵がないようなのです。

 

むしろ,その後に所有し続けることに対する負担が現行よりも重くなるわけです。

 

その事は,これから普通自動車の購入を考えている人にとっては,自動車取得税が減る分メリットがあるのでしょうけど,現在軽自動車を所有している人の負担は重くなり,今後軽自動車を購入しようとする人に二の足を踏ませることになります。

 

そうなると,自動車にかかる税金に関しては,地方に住んでいる方の方が所得に対する税負担が重くなることが予想できます。

 

そして,ここで消費税の逆進性のことも考えなくてはなりません。

都道府県別による平均所得のワースト1位が沖縄県である事は割と知られていることと思います。このことが米軍基地への経済的依存をより強くしているようで,このことが県内において米軍基地撤退に関する意見を二分していると現地のタクシー運転手から聞いたことがあります。

 

そして,ワースト2位からは東北地方が並んでいるようです。

 

つまりは,消費税増税の影響は,逆進性により都会よりも地方にお住まいの方に対して所得割合で重い負担を課し,また地方在住の方にとってどうしても必要な軽自動車の所有についても税負担が増え,かつ新たな所有については全く恩恵に授からないことになります。

 

しかし,何でこんなアンバランスなことをするのでしょうか。これでは特に東北地方において深刻な過疎化が更に進行してしまうように思います。

 

そこで思い出されるのが,日本のTPP交渉参加前においてアメリカの自動車業界が日本の惨禍に難色を示していた理由です。

私の記憶では,たしか米自動車業界が日本のTPP惨禍を容認する条件として,軽自動車の税制優遇の廃止を挙げた,という情報があったかと思います。それは,つまり米自動車業界にとっては日本国内に軽自動車の税制優遇がある限り,アメリカ国内のシェアを日本車に取られた現状を日本国内でのアメ車の販売で挽回することが出来ず,日本のTPP惨禍に業界のメリットがないと考えたのでしょう。

 

そう考えると,現在TPP交渉中において未だ惨禍前にもかかわらず,自ら市場を差し出そうとしていることと容易に推測出来ます。しかも,その結果が地方経済と地方在住の方々を踏み台にしているのです。

 

ちなみに軽自動車税は地方税ですので自治体の収入となりますが,このことが地方での生活に大きな負担を課す為,それが原因で過疎化が進むと更に減収になることが考えられます。 

この事は,アメリカにおもねる為に地方の住民の所得を取り上げて差し出したと考えてもそれほど間違いではないと思っています。これは許せないですね。

 

また,人道的な話だけではなく,都会への人口の一極集中化が進むでしょうから国防や防災セキュリティー問題として誰にとってもよろしい結果になろうと思われます。

 

都会に住んでいる人にとっては些細なことに感じるかもしれませんが,これに異議を唱えなければ東北地方の復興に多大な悪影響を及ぼすことになろうかと思います。

 

しかし復興庁は,「創造と可能性ある未来社会」などと訳の分からないAHOなスローガンにより「人材派遣や民間投資を促進」をしようとしているのが現状でして,要は東北をグローバル資本家に売り渡すことが本音のようです。

 

そして,例によってマスコミは秘密保護法案への反対に夢中で,それはもうホントにトランス状態の様相です。実際にはこのトランスの裏でTPPをはじめ様々な新自由主義政策が進行しているのかもしれません。

 

それにしても,一般の人にとっては害悪としか思えない新自由主義が何故にこれだけ根強いのか。

 

よく,新自由主義者に支配されてしまった場合の構図を弱肉強食という表現で,自然界における捕食者と被捕食者との関係が例えにされます。

ですが,動物の世界で言う弱肉強食は食物連鎖の一部分を捉えているだけで,捕食者でさえ巡りめぐって被捕食者の生きる糧となり,そうして動物の生態系は維持し出来ているわけです。

 

ところが,新自由主義でいう強者側が生み出す産物というが最終的に役に立つのかは疑問です。競争で勝ち抜いて他者をことごとく蹴散らしている者が目指す先は,当然ながら寡占・独占市場における利益を貪ることでしょうから,最終的には誰の利益にもなりません。

 

にもかかわらず,ゾンビのように復活して弱者をいたぶるこのイデオロギーが世を席巻する理由は,未だに弱いものいじめの問題について解決の糸口が見つからないことと共通しているように思えて仕方ありません。

 

そうであるとすると,新自由主義が跋扈することを容認するという事は,それぞれが自らの心に問いかけなければならない問題なのかもしれません。

長い話

2013-12-04

日本の多くの方は,初等教育の頃から問われたことに対して正解を導き出すことをひたすらやってこられたと思います。

 

問いに対する正解は,時には複数のときもあるでしょうし,また独自の見解が求められることもあるでしょうけど,基本的に正解はひとつであることがほとんどだったと思います。

 

それは,一般的に共通の認識とされていることを覚える作業ですので,正解がひとつであるという事はまぁ当然のことなのです。学習能力どころか私生活にまで支障が出ますので

どんな人でも1+1=3と覚えてはならないわけです。

 

そして,その成果を試すために一斉に一定時間内で多くの問いに対しての正解を求められる事もあったと思います。その成績の良し悪しで評価分けされたという経験を誰しも持つことでしょう。

 

そこで,高い評価を受けるには正解を短時間で正確に導くための能力が必要とされます。ですので,その能力の高い人が高い評価を受けながら大人となり重要なポストを担うようになります。

 

ところが,現実社会は正解というものが判明しない場合が多くあります。セオリーどおりに行動すれば,責任を問われる可能性は少なくなりますが,それが正解とは必ずしもいえません。

 

学習期間であれば先ほどの通り一般で認識されている正解が存在します。ですが,これが現実の社会となりますと,自然によるアクシデントや前例のないケースというのがごく普通にありますし,自分の行動が結果として正しかったのか分からない事が多くあると思います。

 

ですので,どんなことをするにしても迷いというのは尽きないと思いますが,その中でも最善を尽くすという気持ちが働かないと,経験の積み重ねという物が出来ないわけですから最善という正解を求める意識は必要であり,その事は子供のころからの学習期間がわりと影響することと思います。

 

そして,それまでの経験を省るために数値として起して比較したりすることで,過去におけるデータを導き出すことが出来,それを分析することで,およその目安として将来を予想することも出来るでしょう。

 

ある意味それは,過去の情報を分析して一定のパターンを探す作業ともいえるのではないかと思います。そうであると,一定のパターンを探すという事は正解を探すためのひとつの作業ということになろうと思います。

 

もっとも,正解を求めるということが手早く簡潔な答えを出すという認識になってしまいますと,そのパターンを将来起こることにそのまま置き換えてしまうという結論がなされてしまうことがあると思います。

 

これはあくまで検証の材料のひとつですから,そのまま同じことが続くとして将来を予想する事は短絡に過ぎるはずです。

 

検証のための材料というのはすべて過去の物ですから,将来を読み通すとなると変化を生みそうな様々な要素を見つけるための広い視野も必要でしょう。過去の分析だけでは不十分であるといえるでしょう。

 

ですが,その検証をすっ飛ばすと,非常に明確な説明ができる答えをすばやく導くことが出来るはずです。

つまりは,複雑多岐にわたる世の中の事象や人の心理・感情というものをすっぱりと思考から除けば,手早く明確かつ短い説明で問題に対する答えを提示することが出来るのです。

 

そして,初等教育の頃から,必ずあるはずの正解を短時間に導き出す訓練を繰り返してきた多くの人達は,様々な意見が飛び交う中において突如顕れた,明確かつシンプルな答えを正解と見誤ってしまうこともあろうかと思います。

 

もちろん中には,その複雑さを網羅しつつ明確な答えを打ち出せる優秀な方もおられるでしょうが,そういう方を支持する方も一般的に優秀でしょうから,その方たちを満足させるためにはどうしても話が長くなってしまいがちだと思います。(もちろん,それは当然必要なことです。)

 

ですので,大衆向けの情報というのはシンプルかつ明確で正解と思われるような答えの方が支持を集めやすいのでしょうけど,本当の正しい答えというのはそう簡単に説明できるものではないということを多くの人が認識していた方が最善の答えを導き易いように思えます。。

猪瀬知事 裏があるから お・も・て・な・し

2013-12-03

これが言いたかっただけです。

 

今日は違う話題です。

 

つい先ほどのニュースで,フォークシンガーのボブ・デュランが,刑事訴追されたとの事です。

 

なんでも,クロアチア人をナチス・ドイツと同列にみなし憎悪をあおる発言をしたそうです。

 

ボブデュランといえば,多くの人が知るフォーシンガーで,その存在はジョンレノンを始め様々なミュージシャンに影響を与えたといわれています。

私が,初めて聞いたのは高校生のときで「追憶のハイウェイ61」というアルバムでした。

一曲目を聞き始めたときから,ライクアローリングストーンという曲の歌詞があまりに斬新でびっくりしたことを今でも覚えています。

 

まぁ話を戻して,なんでもクロアチア人をナチス・ドイツと同列にみなし憎悪をあおる発言をしたとされています。

 

問題となったのは,アメリカの音楽雑誌のインタビューにおいて米国の人種問題に触れたときの発言で,「奴隷主や(白人至上主義団体のクー・クラックス・)クランの血が流れていれば、黒人には分かる。ユダヤ人にナチスの血が分かり、セルビア人にクロアチア人の血が分かるように」という記事を見た在仏クロアチア人団体が告訴したということのようです。

 

発言の主趣旨がハッキリと分かりませんが,この人の発言が物議を醸すということについてはそれほど驚きませんでした。

 

びっくりしたのは,思想を発言するという行為が刑事訴追を受けることと,ナチスの嫌われっぷりでした。

 

もっとも,日本でも侮辱罪,名誉毀損罪,脅迫罪,強要罪,偽証罪など発言が刑事事件の対象となる事はあるわけです。しかし,特定の個人を対象としていない限り処罰は難しいと思われます。

 

この度のデュランの発言も,個人を特定しておりません。もっとも,人種は特定して話しているわけですが,人種に対する攻撃的な発言では記事を見る限りではなさそうです。

 

そうすると,どういった理由で責められているのか。

 

その(他人の)「発言」を相手に対する意思疎通の方法と捉えるならば,たとえば,独り言で自分の悪口を口汚く言う人は誰にも実害がなく責めを負わないことになります。

 

そうではなくて,(他人の)「発言」を意思の表明と捉えれば,逆に独り言であったとしても自分に対する悪口の内容によっては責めを負うことになりそうです。(たとえば,自分は○○人だからダメだ!と自分を罵っている事とかです。)

 

そして,この度のデュランの「発言」を責めるとしたら,後者における認識が当てはまると思われます。雑誌のインタビューでしたので特にクロアチアの方に向けて発言したという認識もないでしょうし,記事による限りでは直接攻撃したという内容にも思えません。

 

ですので,ナチスを語っているときと同じ機会に語ったということで,「発言から見受けるにおたくの思想は差別主義だ」ということじゃないかと思います。

 

こういう考えは,ある意味で言葉に責任を持つ意識にも繋がるのでしょうけど,どこから訴追されるのか分からないという怖さもありますね。

 

発言の根源は精神から,という考えを根拠にしているように思いますが,これだと差別という,そのことを意識することさえ禁じられるような概念がある限り,発言するのにかなりの慎重さが求められる気がします。

 

それにしても,日本でも騒ぎがありましたが,「ナチス」という発言だけで騒然となるのはなぜでしょうか。

 

もし日本が今後においても民主主義を運営していくのであるならば,この歴史の検証は避けては通れない事と思いますが。

国民ガー!

2013-12-02

27日に,外交・安全保障政策の司令塔となる「国家安全保障会議」(日本版NSC)創設関連法案が参院本会議可決,成立しました。

 

これについては,なぜか特定秘密保護法案と比べてそれほど大きな話題となりません。

多くの人にとって,国家の安全保障の強化については異論のないところなのでしょうか。

まぁ数十年前ならともかく,近隣諸国からの有形無形の圧力は日増しに強まっていますから,それぞれ自身に身の危険が及ぶおそれを現実に感じ始めているのだと思います。

 

そして,話題の特定秘密保護法案の方ですが,こちらも衆議院本会議にて可決されました。なんだかすごい騒ぎになっているようですね。石破氏(石橋ではない)の発言はたしかにまずいとは思いますけど。

 

私も,これについてはもっと十分な議論がなされる必要があると考えています。

 

一方で,「国民の知る権利」というのを後ろ盾に大衆を扇動するマスコミの姿勢がどうも面白くありません。

 

というのも,国家機関におけるすべての情報がガラス張りではまずいということについては,おそらく誰しも異論がないところだと思います。たとえば国家が管理している個人情報などが筒抜けになってしまっては,個人としてよろしくないでしょうから。

 

そして,個人情報ほどストレートではありませんが,外交や財政,経済その他様々な国家の運営における秘密も,国家延いては市民の生命や財産を守るために必要であることがあります。特に国防をイメージすると分かり易いと思います。

 

ですので,権力が市民の安全を守るために市民に対して制約を課す必要はおのずとあるはずなのです。

 

もっとも,権力が暴走するという事も往々にして起こりえることでして,それは歴史が証明していることでもあります。

その逆で,市民が暴走することもこれまた歴史が証明しているといえるでしょう。

フランス革命など,それまでの王様を公衆の面前でギロチンにかけるなど尋常ではありません。結局その後は独裁になってしまったし。。。

 

そう考えると,民主主義の趣旨というのは,国民を国政に参加させることで,国民に制約を課す根拠を国民自身に求めるということでしょうから,国民それぞれに権利を与えるのであれば同時に義務や責任を課すということでなくてはなりません。

 

ですので,民主主義というのは制約の根拠を国民の民意に求めたひとつの統治の方法でしかなく,また先人の努力の成果により民主主義の運用の技術が他の統治の方法と比べて,より発展したというだけのことで,統治の方法として万能というわけでは必ずしもないでしょう。

 

日本人が大好きなブータンやカタールなど,民主主義が発展していない国においても国政が安定している国はあるでしょうし。

 

ですので,国民が国政に参加してその責任を負うには,国民に国家に関する情報が知らされていなければならない訳ですが,同時に国民が知ろうとすることに対して制約を課さなければならないこともありえるでしょう。

 

つまりは,同じ国民でも国家の運営に直接携わる側と,直接には携わらない側との衝突が起きてしまいます。

 

このことについて現憲法は,国民(ここで言う意味は大衆という意味ではなく個人にそれぞれと解釈される)に権利を与えるという形で,その衝突における規範としております。

ですから,国家が国民に制約を与える場合は,その制約が妥当であるかどうか,という形で判断されます。

 

つまりは,国家が国民に制約を課す場合においては,その制約が国家権力という強権により恣意的な運用がなされることを想定していて,その場合には国民に与えられた個人の権利を行使するという形で国家運営の責務を全うすべし,ということのように考えられます。

 

ところが,これが国家の機密となると,国民に知られてしまうこと事態に問題が生ずる事柄ですので,つまりは統治する側が主張すべき国益(延いては国民のため)と,秘密を知らされていないがために行使する権利とが真っ向から相対することになるわけです。

 

そういえば,あるテレビでは“政府は国民をバカだと思っている”と扇動にも似たような(ってゆうかモロにアジテーション)報道をしているのを見かけたのですが,言い方はともかく本質的にはそう考えていないと国家の運営というのは,立ち行かないように思えます。

思い出せば,震災が起きた際に,被災された東北の方々がコンビニで並んでいることを世界各国から賞賛されたと時を同じくして,ほとんど影響の無い地域で水が買い占められるという恥ずかしい出来事がありました。

所詮我々の民度などその程度なのでしょう。

 

それは置いといて,延いては国民のために守るべきとされている秘密を国民自身が権利を行使して知ろうとしていることを不思議に思わなければなりません。

 

そこには,国家を運営する側に対する不信感があると思います。

たしかに,国会議員や公務員が起す不祥事の報道について「またか。」と思われる方も多いでしょう。

 

しかし,民主主義であるからこそ我々には国政を決定する権利がありますので,選挙によってその意思は国家を運営する側を変える事が出ます。近い話ですと,2009年に政権交代が実際に起こりました。

 

それでも,国家運営する側に対する信頼が出来ないとなると,誰がやっても同じと誰もが思ってしまう雰囲気にも繋がってしまうでしょう。

 

ですが,例えば選挙において我々が政党を選択する理由というのは,一般に報道されている情報を基にするでしょうから,国家の運営に不信感を持つ理由というのは一般に報道されている事についても原因があるのではないでしょう。

 

つまりは,国民が選択した政党に問題があったということは,その政党について国民が知らされていた情報に問題があると考えられるはずです。

 

そうすると,報道機関は国民の権利のためというよりは,国益(延いては国民)のために公益的な責務を課さなければならないのですが,多少違いはあるものの報道機関も民間の機関ですから報道の自由を享受し権利を行使することができます。

 

そして,国家が守るべき機密が国民の利益となる場合でも報道機関はその権利を行使することが出来るのです。つまり,報道機関が報道の自由を権利として行使することが民主的統治と対立することにも成り得るのです。

 

これについては,立法により報道機関に一定の縛りをかける事も,報道機関側から表現の自由を制約する!と対抗されては難しいでしょうし,肝心の主権者である国民が知るべき情報を,報道機関に恣意的に操られてしまうと,その対立の構図が見えにくくなるため,この問題は現憲法では如何ともしがたいのではないかと思います。

 

しかし,19世紀頃から,アレクシドトクヴィルはアメリカの民主主義については,多数者の専制を懸念し,その専制を構築する者がマスメディアであることを指摘していました。

 

さすがに,民主主義を全面否定する勇気は私にはありませんが,現在の運用についての問題は話し合われなければならないと切に思うわけです。民主主義を全うするならそれまでの運用を引き継いだ上で更に発展させなければならないのかもしれません。

 

そして,マスコミが「国民ガッ!」と煽り立てるときは十分に注意しなければならないと思います。

なぜなら,主権者である我々の選択はそのまま自分達に降りかかることになるからです。

精神と表現

2013-11-29

憲法19条に「思想及び良心の自由は,これを侵してはならない。」と標されています。

 

なお,憲法21条においては,いわゆる表現の自由が定められているため,それとは別に定めた趣旨を考えると,現実に客観的に認識できる人間の行為と,人間の精神とをまず区別して,その意識においてまで自由を保障した規定と思われます。

 

これについて,「思想及び良心」という文言が何を示すかという解釈については諸説あるようですが,この規定は内心の自由とも呼ばれ,行動など表現にいたるまでの基となる精神的な部分においても,何人なりとも拘束を受けないということのようです。

 

「考えていることにまでどうやって難癖をつけるの?」と,あまりピンとこない方もおられるかもしれませんが,例えば日本の歴史において言えば,踏み絵などの思想弾圧のことを想定しているようです。

 

最近だと,君が代を学校で歌わせるのはうんちゃらかんちゃら・・・ということで取りざたされたかと思います。

 

このように現代においても話題が尽きないHOT!な条文なのですが,その持ち出され方に違和感を覚えることも多かろうと思います。

 

国政において考えてみると,同じ憲法の統治のところでは,国民選挙で議員を選ぶ形で多数民意に加えて少数民意も国政に含めるという議会制民主主義の立場を明示しており,また行政権を国会のコントロール下におく形で定められています。

 

ですから,立法や行政権の執行においては間接的に国民の少数派の意見は多数派の意見に拘束されるケースはあり得ると考えられます。

そのとき少数派には,言説などの表現を用いて反論を述べる手段が,現憲法において表現の自由として保障されています。

 

しかし,多数派の中の一部で,よくよく聞いてみるとどうも少数派の言っている事の方が正しいように思えてきたという声が上がります。

しかし,多数派は考えを改める必要など全くありません。なぜなら,内心の自由は保障されているのですから聞かなかった事にすればいいのです。

 

また,そういった視点から見れば,大日本帝国憲法に並び,国民道徳の面からこの体制の支柱を担った教育勅語というのは,現憲法の趣旨には馴染まなくなります。

なんせ,天皇のお言葉が国民の内心に影響をあたえてしまっていますので。

 

そして,文言では「これを侵してはならない」という様に,内心を持つ人の外部からの圧力に対して制約を設けている表現ですが,先ほど例に挙げた教育勅語のような道徳の支柱となるものが現在において存在しない以上,国民の規範というと最高権威である憲法が意識されるはずです。

 

そして,私が思うに,おそらく思想良心の自由という発想は,表現の基となっているのが精神というような精神あってこその表現といった発想ではないかと思います。草案者は他から受ける言葉より己の精神を重視したと考えられます。

 

しかし,人が相対したときには,お互い言葉を交わすという表現的な行為をお互い受け止めるという形で精神が育まれることがあるのではないでしょうか。

 

また,こうしてブログを書いているときにもふと「いままでの考えは間違っているかもしれない」と気がつくことが多々あります。つまり,自分の表現によって自分の精神が育っているということだと思います。

 

つまりは,どちらが優位と言う訳でもなく表現と精神は一体として一人の人間を形成する要素であるように思えます。

 

そして,すべての個人が内心の自由が保障されていると認識することは,すなわち他の人の表現を受け入れないという弊害も起きるということにもなる気がします。

 

しかし,現実に思想弾圧というものが行われていた歴史もあるわけでそれにはどう対応すれば言いかという問題も残ると思います。

 

これについては,統治のシステムと国民の民度つまり表現における意識を高めることで守られるように思います。

車窓

2013-11-28

昨日は,千葉県香取郡東庄町にある笹川駅まで電車で出張して来ました。

 

千葉県と茨城県の県境にある利根川の川沿いにある町で,江戸時代に小江戸と呼ばれ栄えた佐原と,醤油と漁港と高校野球で有名な銚子との中間あたりに位置します。

 

四街道駅から出発して,成田銚子方面へ約一時間半くらい電車に揺られてたどり着きました。

 

電車を降りると,天気はよく乾いた風が若干強く吹いていました。川沿いの町なので川のほうから風が吹き抜けるのかもしれません。

 

改札を抜けて小さな駅舎を出ると・・・

 

う〜〜ん・・・人っこ一人いませんね〜。

 

そして,そのまま目的地に向かい用を済ませたのは14:30ごろでした。

この時間帯からすでに日が傾き始めて,おやつを食べる時間というよりは,「♪と〜ぉおきぃい〜やぁ〜まにぃい〜♪」と歌い出してしまいそうな雰囲気でした。

空き地で風にそよいでいるススキの群集が夕日に照らされて黄金に輝いているようで実に美しい・・・

 

そういえばまだ,昼食を取っていなかったので駅まで行けば何かあるかと思いきや・・・

 

ない

 

のでした。

 

空いている飲食店を探し回っているうちにふと気がついたのは,人が歩いていないにも関わらず,それほど建物が寂れていないということでした。駅前の工務店と思しき住宅をかねた店舗の駐車場に停まっているのは国産高級乗用車です。

 

そういえば,道すがら見かけた大きい工場では溶接工員が忙しそうに働いていたし,仕事の需給バランスはどうも上手く取れているようなのです。

 

ちなみに,佐原の駅付近は観光客も多く駅舎や表通りは整っていて綺麗なのですが,一歩道を外れると空きテナントやらシャッター通りやらで,非常に地域経済の苦しさを感じます。

そして,銚子も駅前のメインストリートはシャッターが開かないテナントが目立ちます。

 

観光でも有名な佐原と銚子の事情を知っているだけに,何も無いようで荒廃(すみません)しているわけでもない笹川駅付近はちょっと意外な光景でした。

 

そして,食べ物を探している途中にかろうじてコンビニがあったので,お楽しみドリンクを購入して駅に戻り, 40分ほど電車を待つ間にお楽しみドリンクと遅ればせながらお昼ご飯のビーフジャーキーを堪能致しました。

 

そして,私を含めて4人が待っているホームに電車が到着いたしまして,それからはボックス席でお代わりを堪能しながら夕暮れの窓の外を眺めておりました。

 

電車が動き出し,車窓が田園風景を映し出したとき,そういえば香取郡は献上米で有名な多古米の産地である事を思い出しました。もっとも,多古町と東庄町は結構距離があるのですが。

ちなみに,多古米というのはブランド名です。生産量が少なく非常に希少なようです。

 

地域の特色というのは,距離的にはそう離れていなくても目を凝らしてみるとそれぞれ違いがあるようです。

 

そういえば,方言で出身地を当てるというサイトがちょっと話題になりましたが,千葉県内においても場所によって言葉の違いがあります。これはきっと千葉県人にしか分からないのでしょう。

 

そして,日本全国どこに行ってもどこかで見たような風景でありながら,それでも飽きずに国内旅行を楽しめるのは,実は地域ごとの微妙な違いをハッキリと意識せずともいく分か感じているのかもしれません。

 

そう考えると,地域の活性化とかまちづくりというのは,とても繊細な作業になるように思えます。

例えば,笹川の町をもっと活性化したいとしたとしても,私が見立てのとおり地元産業の需給のバランスが良いのであれば,土地を買収して分譲地を造成して大型店舗を呼び込むなんて単純な発想では,一時的に良くなったとしても長期的な見込みが外れてしまうと,大型店舗が撤退し,需要を失った町の産業も崩壊してぺんぺん草さえ残らない事が予想され,それではみもふたもありません。

 

実際に,大会社の工場を呼び込んでも,工場を廃止してしまう事案が地方で増えているようです。

その出来事は,多くの住民がいっせいに所得を失うということなので,町全体としてはしごを外された格好となるでしょう。

 

もっともそれが,絶対ダメということではなく場所によってはそれが功を奏す土地柄もあるはずです。

 

ですので,色々と難しいところだと思います。

そういう事を踏まえて,長期に粘り強く地道に考えるとすると,まず人が往来する基となる交通の整備をすることが,ひとつの手段かもしれません。

 

他所から来た人のお金を地元に落とすには,すくなくとも町を人が通ることが必要ですからね。そして,企業は撤退する可能性があってもインフラは撤退しませんし。

 

それにしても,帰りの電車で窓から見た川の水の色がとても深い群青色だったのですが,季節によって織り成す色の中でも何故に秋の色というのはすべてにおいて寂しげなのだろうと感じ入った11月の夕暮れでした。

うわさの出所

2013-11-26

様々な情報が飛び交う中でついつい信じ込んでしまうのは,いわゆる裏話でございましょう。

 

まぁ,人というのは常に建前の裏側にある本音というものを伺っている証とも言えるかもしれません。

 

それを知っているずる賢い人は,世間に根も葉もない噂話を広げるなどの謀略を思いつくわけで,実際に歴史の中において人の噂というのは大いに利用されているようです。

 

ことわざにも,“開いた口に戸は立たぬ”とか“悪事千里を走る”だとか“世の取り沙汰は人に言わせよ”など,噂の広がる速さとそれに翻弄される人々というのは昔からいた様で,そのことが現在まで言い伝えられています。

 

そう考えると,話の出所というのは確かにあるはずなのですが,そこまで広がりを見せるとハッキリとしなくなるものだと思います。また,尾ひれもついてきてその根拠さえも分からなくなってしまうでしょう。

結局,誰が言い出したのかも,どこに根拠があるのかも分からない話しが世間を巡るという現象は客観的に見れば実にこっけいなように思えますが,現在でも匿名者からの噂が賑わいを見せるのがインターネットのとある掲示板です。

 

あるときには,「便所の落書き」などとひどい呼ばれ方をされ,警察庁からも目をつけられているようです。

テレビや新聞などのマスコミからは魑魅魍魎のように扱われる一方で,書き込みされた小説がテレビや映画で映像化されるなど,なんだか不思議な存在になっています。

 

そして最近では,ネトウヨ(ネット右翼)というインターネット上の言論を国粋一色に染め上げるけしからん者共の棲家となっているそうで,しかもその者達の正体は私生活における鬱憤をインターネット上でのみ晴らすことが出来る社会的弱者だと,博愛的な言葉が好きそうな評論家の方が話しておられました。(本当に面白いですね。)

 

なるほど,魑魅魍魎の正体はそういう人たちだったのか・・・と,納得する前にどんな方法で調べたのかが気になりますね。

 

そういわれると,実際に掲示板に書き込みされた文字は掲示板上に残りますし,サーバーにはアクセスログが残っていることと思います。

しかし,書き込まれた文字があらわす言語情報を誰が言い出したかという,いわゆる噂の出所を探すとなると,書き込んだ人を特定しただけでは判明していないわけです。

要は学校中に広まった自分の悪い噂の出所をひとりひとりから聞きだそうとするのと同じで,まさに“開いた口に戸は立たぬ”ということなのでしょう。

 

そう考えると,インターネット掲示板で広まっている噂の出所を検証するために,それを書き込んでいる人達の実像を探るというのはそれほど意味がない気がします。

 

もっとも,テレビや新聞などで伝えられていることと全然違うことが掲示板に書かれていることもあるので,やはりテレビや新聞を主な情報源としている人とは実態が違うのでしょう。

 

ところで,スポーツの結果を知るためにたまにテレビの報道番組を見るのですが,意図せずその他のニュースの解説などを目撃してしまうことがあります。

このとき評論家だか解説員だかのコメントに違和感を持ちテレビに向かって反論したくなる(してもしょうがないのですが)ことが多々あるのですが,「次のニュースです。」と一方的に話題を切り替えられてしまいます。

 

この時,(これを見続けていたら,テレビの言い分に反論どころか違和感を持つことさえなく,ひたすらテレビ側の言い分だけが刷り込まれていってしまうなぁ・・・)と,ちょっと怖い感じがします。

 

新聞においても,読者から文字を解読する分においては幾分情報の垂れ流し度合いが薄まるものの,やはり反論は受け付けない見る人にとっては受動的なメディアです。

 

この二つが大手メディアとして君臨している現状では,その情報が一般的な意見とされることは当然で,上司や同僚との会話において反論しようものなら袋叩き間違いないでしょう。全員を黙らせるまで反論してしまったらそれはそれで差し障りそうですし・・・・

 

そんな,ちょっと人より情報に敏感な人達の主なうわさの現場が,インターネット掲示板なのではないかなぁと思うわけです。なるほど,割りとまともな意見やセンスを感じる発言などが飛び交っていて,なかなか興味深いと感じることがあります。

 

そう考えると,便所の落書きなどと揶揄されたり,魑魅魍魎のように扱われたり,知りもしないのに社会的弱者などと仕立て上げたてられる理由は何ででしょうか。

 

思うに,書き込みの実態を先ほど検証したとおりで考えると,インターネット掲示板の書き込みに対する非難というのは,言ってみれば噂という実像の無いものに対する攻撃のようなもので,それは,ドンキホーテ(ディスカウントではない)戦法のようにも思えます。

 

しかし,そんな滑稽な非難でさえそれを情報源とする人達には十分に通じてしまっているように思えます。

それは,反論を許さない一方的な情報の恐ろしさで,つまりは考える隙を与えないことが刷り込みの秘訣なのでしょう。

もっとも,徐々に新聞離れやテレビ離れが進んでいるようですし,少しずつ受動的なメディアが飽きられ始めているのかもしれません。

 

そのせいなのか,最近ニュース番組において視聴者から送られるツイッターを表示しているのを見かけました。

これは,視聴者が自分の意見をテレビにて表明するという能動性を取り入れることと,その他の視聴者に共感を与えることと,視聴者の意見を真摯に受け止めてますよっというテレビ側のアピールという要素があると思います。

 

これについて,私にはネット掲示板への対抗措置のように映りました。

もっとも,それがテレビ離れの対策であるならば,ネット掲示板のユーザーのニーズが噂話だと推測しますとテレビと両立できるでしょうし,必ずしも視聴者離れの行き先がネットとは言えない為,あくまで個人的感想ですが的外れな感じがいたします。

 

しかし,テレビで露骨にネット掲示板の悪口を言っているのを私も目撃したことがあるので,間違いなくその存在をよろしくは思っていないことでしょう。

 

いずれにせよ,我々が噂話をすることは,大手メディアにとって都合が悪いようです。

 

実のところ,表現の自由を声高に叫んでいる人達が,市民において言論が闊達になされることを一番望んでいないのかもしれませんね。

 

は は は

知ることの重み

2013-11-25

NHKの大河ドラマ『八重の桜』がいよいよ大詰めの模様です。

 

私としてはめずらしく見続けているテレビドラマですが,すごく良いですね。毎回楽しみにしています。

 

幕藩体制とともに封建体制が終わり,諸外国の文明に圧倒される中で,若い人たちが将来の日本のために何が出来るかと考えて夢を持つ姿が,作品中によく描かれていて見ながらいてもたってもいられない気持ちがこみ上げてくるのです。

 

そして,着目すべきは準主役である同志社の創立者新島襄を始め,当時の日本が外国の文明に追いつくために必要な条件として,教育に目をつけていたことだと思います。というか,この物語においての一貫したテーマなのではないかと考えています。

 

なお,11月最後の日曜日である昨日に放映された回において,八重は医師から夫新島襄の病状が芳しくなく,そう長くないうちに死を迎えるであろうことを告げられます。

 

当然八重は,同志社を大学にすることに没頭している襄に余命のことを話すことはできませんでしたが,そのことを察した襄から大学創設のために自らの病状を知る必要があると懇願されて,ついに死の宣告があったことを告げてしまいます。

 

それを聞いた襄は,自らの人生を惜しむどころか,死の宣告を聞いたときの妻の心境を慮って涙する・・・というシーンがありました。(飲みながら見ているので少し違っているかもしれません。)

 

ワタクシも涙を禁じえなかったのですが,同時に事実を知るということについて深く考えさせられるシーンでもありました。

 

このシーンにおいては,医者は襄の余命が短いことを本人には話さずに妻に告げています。

いわずもがなですが,その趣旨は本人の精神的なショックに配慮しているためです。もちろん,面倒ごとを避ける意図もあるでしょうけど,その境って分かりにくいですよね。

 

いずれにせよ,余命を本人に直接告げないことは古くからの習慣となっているようです。

 

もっとも,現在だと個人情報の保護だとかで問題となりえるようなのですが,こんなバカバカしい事を検証する時間はもったいないので,一応自分の見解を個人主義の迷走とだけ標して置きます。

しかし,個人の秘密は守るくせに国家の秘密は知る権利だとかで公開しろとか,まぁ良く言・・・おっと それくらいにして。

 

まぁ,医者としては奥方に告知したのでOK!ということで,その重責は八重にのしかかることになります。

 

ただでも言いにくい余命というものを,普段から顔を合わせる妻に告げるだけで,医者からは本人に告知しないというのは,見方によっては医者の責任を○投げしているようにも見えますが,逆に普段から一緒に生活しているからこそ本人がショックを受けにくい伝え方というのも分かるでしょうから合理的ともいえます。

 

それにしても,命の長さというものを秘密として抱え込むというその重責ときたら,それはそれは苦しいものでしょう。

 

もし,私が自分の余命を秘密にされている立場であれば,告知の時には当然少なからずショックを受けるでしょうけど,隠している相手に対してその重責から解放してあげたいという想いから,我慢せずに話して欲しいと思っています。

 

もちろん,いたわりの気持ちから秘密にしていたのでしょうから,そのことを責めることはないでしょう。

 

また,話して欲しい理由として,それまでに終わらせなければならないこととその期間を把握しておく意味もあります。

 

 

話に戻って,八重は,襄から同志社を大学にするために自らに残された時間を知りたいと懇願されて,余命が短いことを話します。

つまり八重は,襄が自らの余命が短いことを気付いており,またそれを知る覚悟が出来ているとそのとき察したのだと思います。

当然,襄にとって大学創設は,自らの命を賭してでもやるべき使命としていたことを,身近にいて感じていたこともあるのでしょう。

 

そして,そのとき襄が涙を流しながら発したのが,そのことを妻が知ったときの動揺をいたわる言葉だったのです。

 

感動のシーンですが,教育者だけに知ることの重みをよく知っておられるのだなぁと,感心させられた場面でもありました。

 

お互いに知ることの重みを知っていたからこそ感動の場面になったのでしょうね。

 

これが『八重の桜 現代版』とかになると,余命を告げられた旦那が妻に激怒して,なぜか個人情報を漏洩させたとして医者に対して慰謝料請求して,そして個人の権利を尊重した画期的な裁判例がまた生まれるという,ある意味泣けるストーリになるのではないでしょうか。

 

こんなんで,みんなに平穏な暮らしが訪れるのならいいと思いますが,そう思いますか?

 

そのことを踏まえて,最近流行の『知る権利』の話ですが,その出所はウワサの「特定秘密保護法案」でございます。

この国家機密の漏洩などに携わった公務員などに対する処分の厳罰化を定める法案は,パブコメなどを見ても大変評判がよろしくありません。

もっとも,現行法においても国家公務員には守秘義務が罰則付き(1年以下の懲役か50万円以下の罰金,とっても軽い)で定められておりますので,国家機密が守られるべきことであることは理解されて周知されていると思われます。

 

もっとも,両者の違いのひとつに,洩らしてはいけない秘密の範囲が誰によって決まるかというところがあります。ちなみに国家公務員法は裁判所により,秘密保護法案は「行政機関の長」ということらしいので,大臣など内閣府の内部での決定を予定しているようです。

 

秘密の特定が行政機関の一存で決定されることで,秘密の範囲が無制限に広がることや民意に問うべき事柄まで秘密として指定されてしまう,といった旨の批判はもっともだと思います。

 

したがって,民意に近い構成員で構成する組織(まぁ国会議員となるでしょう)などによるコントロールは必要ではなないかと思います。

 

もっとも,国民の『知る権利』が侵されるという批判はちょっと分かりませんでした。

 

それこそ,国民が知ったところでパニックになったり,それが漏洩したことで国防に関わることがありえるからこそ設けようとしている法案であるはずです。

 

まぁ全く監視できないのはマズイだろということであれば,間接民主制というのはこの点に関しては機能的だと思います。国民の意見を汲んだ政治のプロが国民に代わって国政の誤りを糾すというシステムは,議員を罰則の対象に含めれば上手く機能するように思えます。

もっとも,同じ秘密保持者に取り込まれてしまうことにより,監督する立場を保ちにくくもなるでしょうし,この辺の技術論は大変複雑だと思うのでしっかり議論をすべきだと思います。

 

一方で国会議員は,国民の多数の信任を受けなければ選挙で当選できないため,ある情報をきっかけに世論がヒステリーを起したときには,それに逆らう力がありません。

 

ですので,主権が国民に存するというその自覚を,すべての国民が持ち合わせていれば,国政に関わるすべての事実を主権者は知るべきですが,はたして現在において国民ひとりひとりが主権者という自覚をどれほど持っているかというと,そのことを教育過程の時からあまりに蔑ろにしてきたように思えて仕方ありません。

 

それは,「特定秘密保護法案」の問題ひとつ取っても,一方で「知る権利」(解釈)を定めて,他方で国民の主権により運営されている国家により国民が等しく統治されることとされる,憲法が自己に抱える矛盾について何の解決方法も明記していないことになぜ議論が及ばないのか,というところにも顕れているように思えます。

 

ある意味我々は,個人という意識から逃れられないのではないかと思っております。それは,言葉自体を意識しなくても例えば,“自分の持ち物”とか,そういう感覚です。

 

そのことは,社会主義・共産主義よりも資本主義のほうが,今のところ一応うまくやっていることからもいえると思います。

 

だから,教育課程ではその反対(?)の公共という概念を,耳にタコが出来て晩酌の友となるまで,そしてシメ鯖ほどに口を酸っぱくして晩酌の友になるまで言い続ける必要があるのではないかと思います。

 

それは,一票がすべて国民に及ぶことになる意味で,主権者であることの基本中の基本ではないかと。

というか,自分の想像できる範囲外にも自分の想像していない利害があるということを意識することは,言ってみれば遠い国への募金のような,いわゆる思いやりであると思います。

 

ですが,国民全員がそうなることができないのであれば,国民に知る権利を無制限に与えるというのはどだい無理な話でしょう。

 

そういえば,八重の桜でも伊藤博文が大日本帝国憲法を起草していましたが,その頃は日本人が日本国民として国政について意識を高めることを期待していたのかもしれません。

 

ですが,国体としての意識が希薄となった現在において,国家の機密を国民が知ったとき,いったい何を基準にして誰の利益のためにどういう行動をするのでしょうかね。

 

想像に難くありませんが。

セミナー

2013-11-22

昨日は,近くの県立高校で講義をしてまいりました。

 

内容としては,悪質商法に関する知識などでした。

 

なお,高校生向けの講義はこれ5回目くらいだったかと記憶していますが,2年ぶりでしたのでいささか緊張したものの先生方の協力もあって,なんとかやり遂げました。

 

若松高校の皆様どうもありがとうございました。

 

さて,昨日の講義では話しきれなかったのですが,最近セミナー商法のような儲けのノウハウを売りつける商法の被害が多いようです。

 

もっとも,情報というのは基本的に有料と考えるべきです。

 

なぜなら,ほとんどの情報提供者は知識研鑽に能力と時間とお金を掛けている訳でして,これに全く実入りがないとすると有益な情報が一般の人の手元に入らなくなってしまいます。

ただ,必ず情報を受け取る側がお金を払うという訳ではないことは,スポンサーの広告料により運営しているテレビ放送などをイメージすると分かり易いと思います。(有益かどうかはともかく・・・)

 

私の事務所も無料相談を掲げておりますが,当然ながら受任を期待してのことです。

もっとも,受任するまでも無くアドバイスのみ解決するケースについても無料で行う趣旨は,おかしな所に相談に行ってお金だけ取られるなんていう被害が出ないための公益的な意義もあろうかと思っておりますので,お気軽にご相談くださいませ。(もっとも幾ばくか頂きたい気持ちはありますが・・・)

 

で,セミナー商法の被害ですが,被害実数に比べて報告数が少ないといわれています。

このことは,まさに以前に話題とした認知的不協和で説明が出来ると思います。

つまり,“自分は騙されたわけではない”と自分の中で自己解決を図ってしまうのでしょう。

 

そうであると,被害実態が分かりにくくなり実態調査どころか擁護する被害者まで現れるはずです。

また,加害者がテレビなどのスポンサーとなればテレビは普通に口をつぐむでしょうから,一般消費者にとっては悪質性を見抜きにくいと思われます。

もしかしたら,今頃ネオヒルズ族などともてはやされて高笑いしているかもしれません。

 

まぁ基本的に終身雇用がほぼ保障されていて,生活に困らない程度の給与が労働者に支払われている世の中だったら,「必ず儲かる!」的な口車には大抵の人が乗らないはずです。

 

しかし,消費増税やアベノミクス成長戦略やらで見えかけていた希望の兆しを完全に塞がれたと感じて希望をなくしてしまった人が,「一発逆転」などという見え透いた嘘にさえ希望を見出してしまう心理というのは,ちょっと私は責めることができません。

 

人の性というべきなのでしょう。

 

ですので,成長戦略といわれている新自由主義的な改革は断固として止めなければなりませんが,もうひとつそれぞれの心の問題でもあると思います。

 

儲けるためのノウハウを100%教えてくれる人など絶対にいないはずです。わざわざ自ら競争相手を作って自分の首を絞める人などいませんから。

 

情報を有意義にするためには,その情報を解釈するための思想が必要です。それがあるから,データという単なる数値の寄せ集めに血が通い人が欲しがるような有益な情報になるのだと思います。

 

ひとつのデーターに意義を見出すかはその人の感性であり,データの意味を説明するにはその人の思想が影響するでしょうから,単にノウハウを人づてに聞いただけで同じも受け方が出来るわけがナイのです。

 

騙されないようにしましょう。

心変わり

2013-11-21

 「1票の格差」が最大2.43だった昨年末(2012年12月)の衆院選について最高裁は20日に「違憲状態」という判断を出しました。なお,「選挙無効」の請求は認めませんでした。

 

昨年の3月のおける高裁判決は,各地で争われた裁判のうち2件を「違憲状態」のほか「選挙無効」としており,選挙のやり直しも余儀なくされていたのですが,(前例がないようです。)最高裁は「選挙無効」とまでは踏み込まなかったようです。

 

この裁判において争われているのは,「一票の格差」,すなわち有権者一人が投じる一票が選挙区における議員一人当たりに及ぼす影響の割合が選挙区ごとにどれだけ差が出るかということです。「一票の価値」と言ったりします。

 

これ書いていても非常に分かりづらいと思いますが,逆に“議員一人当たりの有権者数の選挙区ごとにおける比較”と説明すると非常にすっきり書けます。

 

つまり,「一票」を基準にするよりも,“議員一人当たり”を基準とした方がわかり易いのですが,あくまで「一票」の価値判断を基準にするという理由は,憲法14条すなわち法の下の平等を論拠として人権問題として争っているからでしょう。

 

そして,議員一人当たり約20万人の有権者という割合の高知3区に対して,議員一人当たり約50万人の千葉4区(皮肉にも民主党野田元総理の選挙区)との差が,2.43倍だったことに対して,「ちょっと,これは平等じゃないんじゃないの?」と,いうのがこの度の争いの内容です。

 

つまり,高知3区の有権者の方が,千葉4区の有権者よりも,有権者の一票が選挙に反映され易いということで,その差が開きすぎるのは人権の価値に差がでている,という理屈であると思います。

 

まぁ,確かに選挙区すなわち地域ごとにこの差が開きすぎるのは,平等という概念を除いてもよろしくない結果を生みそうです。

なぜなら,その選挙区における地域ごとに市民の要望を国会に反映する機会に差がつきすぎてしまうと,極端な話かもしれませんが埼玉には圏央道が通って千葉には通らないという事態も起こってしまうかもしれません。

 

そして,3月の高裁判決では,0増5減では足りずに一人別枠制度(衆議院小選挙区300議席のうち47議席を別枠で各都道府県に1議席ずつ割り当てる)にまで是正を求めていたのですが,最高裁については0増5減について一定の評価をした模様です。

 

実は,前例の無い選挙無効判決をこの度の最高裁は出すのではないかと内心ひやひやしておりました。

というのも,例の非嫡出子の相続分について,それまので最高裁は違憲主張を跳ね返してきたのですが,この度の最高裁は法令違憲と判断したため,民法改正が余儀なくされたのです。

 

これについても,法の下の平等が論拠となっています。

 

つまりは,非嫡出子の相続分に差を設けた民法の規定を違憲としなかったそれまでの判例の趣旨,すなわち家庭生活を基調としていた歴史を覆した訳で,そうであると「平等」という概念により強く規範的な意味を持たせたことになるでしょう。

 

それに続く形となった今回の判決だったのですが,選挙を無効とまではさすがにしませんでした。

 

もっとも,完璧にイワユル「一票の価値」(ここからは「一票の差」ということにしますね)を是正することは不可能なわけですが,今よりも一票の差を無くすことは,一人別枠制度を無くせば簡単に出来ることです。

 

何故無くさないのでしょうか,というより,何故この制度を設けているのかを考える必要があるようです。

 

別枠制度で設けた議席以外の議席は,人口の比例に従って配分されるため,まさに一人別枠制度は一票の差を広げる原因となっているのです。

 

つまりは,人口の少ない地域に比例配分を多めにして過疎地域の民意を多く吸い上げるために設けられているのです。

 

ですが,地方と比較してリベラルな思想が強い都会のほうが,一票の影響が小さくなります。

ですので,それを逆手にとって「都心部よりも地方に一票の価値を置くのは自民党の陰謀だ!」などと反論が出そうですが,「あれ〜〜〜?法の下の平等言うのは実質的平等を含むのではなかったかしら?」と思わず出てしまうでしょう。

 

もっとも,そうは言えども私の個人的意見としては,国家の規範たる憲法に「平等」というあまりに抽象的な文言を使っていることから,その恣意的な解釈が今日に至る混乱を生んでいる原因のひとつだと考えております。

ですので,これは14条改正の議論が必要だと考えています。

 

別に階級制度を立ち上げるつもりなど毛頭ありませんが,すべての物事において差を認めない思想というのは,そもそも自然に即していないというだけのことです。

 

まぁそれは先々ということで,過疎地域の民意を少し多めに取り入れようという理由から一人別枠方式が廃止されずに残っているということのようです。

 

 

たとえば,首都東京を日本列島の中心として縦長に続いている国土は,東京を中心にした首都圏や,大阪を中心とした関西地域では,それぞれの都道府県の地域色が似ているように思えます。

 

首都圏でいえば,東京を中心に千葉,さいたま,神奈川がベットタウンとして機能しており,その外側を茨城,栃木,群馬,山梨と囲む形になっていますが,千葉と埼玉と神奈川の住民はインフラにおけるニーズが似ると思うのです。

 

言ってみれば,東京に出るにはそれぞれの県に連絡道路がありますが,一手に東京に出てくると東京で渋滞が起きてしまうので,それを分散させるのが首都圏中央連絡自動車道いわゆる圏央道であります。

このように,利益を共有しやすい関係が構築されていると思います。

 

ですが,首都東京を中心に見ると,両隅は北海道と沖縄になるのですが,当然ながら両県にとって必要なインフラは全く異なり,意識的にもかなり遠い存在だと思います。

 

まぁそこまで極端にしなくても,同じ東北地方をみても岩手と秋田だと必要な国家インフラは違うでしょう。それどころか,面積が広い分だけ県内においても差が出てくると考えられます。

 

つまり関東地方の有権者は,首都が近い分その恩恵をたぶんに授かり易く,また他県との利害が一致し易く,そのことが共通の利益を生み易いといえるでしょう。

 

反面,地方は人口が少なく,また面積が広い県が多いために地域ごとに様々な要望が生まれることと思います。そればかりか,過疎が深刻な地域では活性化が必要となりやはり一票の差を意図的に設けるには理由があるということです。

 

ですので,過疎地域に住む日本国民の民意を少しだけ多く汲んで,日本全体での活性化を目指すのか,それとも憲法の文言を拠り所にして人権を数字に置き換えて杓子定規の平等を追い求めるのか,ということじゃないかと思います。

 

まぁ,もっともワタクシ,今年の3月ごろに書いたブログでは,区割りの是正をすべきと書いておりまして,今日のブログとは反対の意見となっております。

 

これについては,自省はやむを得ないと思いながらも,自身の成長と捉えて非常にうれしく思っております。

それは日々様々な方々のお話を拝読し,本ブログにおいて拙いながらも文章に起し続けた成果と思っております。

 

思えば,あの日・・・まぁそれは次の機会に。

 

しかし,こういった経緯により短期間で見解が変わっているので,もしかしたらまた・・・という心配もすこしあります。正直やっぱり,“これが正義だ!!”といったような自信はありません。

 

・・・と,控えめに考えたとしても,「違憲状態において選ばれた自民党の議員が憲法改正を進めている」などと愚にもつかない批判が,言論として罷り通っているのが現在の報道の有様です。

 

この度争いとなった衆院選の前から自民党は改憲を掲げていましたので,多数決としてみる限り多くの有権者がそれを踏まえて支持をしたという事実があるはずです。

それを,たかだか区割りを調整したり,一人別枠制度を廃止したりしただけで民意が変わるのでしょうかねぇ?

 

こんな詭弁でも真に受ける人いるのかなぁ・・・

 

そもそも選挙制度というのは,間接民主制において民意を取り入れるための技術というだけのことで,大事なのは主権者たる国民が何を望んでいるのかということと,議員が意見を踏まえた上で“国家の利益”としてそれを構築できるかということではないかと思います。

 

それを,「だって憲法に平等って書いてあるもーん!」と,金科玉条かのように「平等」という不明確な文言を恣意的に解釈して,違憲選挙だと日本中にばら撒けばそりゃみんな混乱しますよ。

 

さすがの私の妄言も,こういった人達と較べれば正しいと信じています。

 

なぜなら私には,複雑極まりない事象の多様性を可能な限り受け止めようという覚悟と,自分の誤りを認めることが出来る自負があります。

 

そして,ひとつの情報をいかに解釈するかという判断の機軸を今でも探しているからです。

ストーリー

2013-11-19

「アイデンティティー」というのは,自己同一性のという意味だそうです。

 

自己の同一性というと,ドッペルゲンガーやクローンでもいない限り,複数の自己を同時に認識できる訳が無いので,これは時間を軸として捉えた概念だと思われます。

 

 

その概念は一見すると,自己を過去と現在,そして未来において一貫させなければ確立することが出来ないように思えます。

 

しかし,人は物理的には細胞分裂を繰り返し,精神的にも成長しますのでので,いったい何が同一であるべきなのかという疑問が湧きます。

 

そう考えると,周りを見渡せば変わらない物など何も無く,かつて山道を駆け回っていた自転車もさび付いて動かなくなったり,庭で遊んでいた猫もみんないなくなって,誰も立ち入らなくなった公園のフェンスには不規則に植物のつたがまきついたり,形ある物はみんな姿を変えていくわけです。

 

もっとも,自然というのは毎年季節ごとに同じように移り変わり,それを人間の一生を時間の基準と考えるとしても,とても長い間絶え間なく繰り返してきたわけです。

それでも,地殻変動やら気候の変化やら人間が手をいれたなどの理由で変わっていきます。

 

ここまで考えると,人間が一生涯で同一性を保てる要素など無いのではないか,と思ってしまいます。

 

しかし,自己でなく他人を通してその同一性とやらを考えると,この人なら大丈夫だというイワユル信頼を人に寄せることがあります。

 

それは,言葉や行動に一貫性があるから信頼できるのでしょう。

 

もっとも,どんな人間にも思い違いや考えを変えることはあるでしょう。

それを直ちに一貫性がない裏切り者扱いしてしまうのであれば,自己同一性という概念を人に当てはめるのは不自然となってしまうように思えます。

 

ですので自己の同一性を,自己以外の者の視点に拠るならば,少なくとも自分の変化を物語の様に一連に繋げられなくてはなりません。

 

そういう意味では,自分がそのストーリーの主役となるのでしょうが,たとえば政治家たる主人公が繰り広げるハードボイルドな物語が,突然宇宙人が登場するSFファンタジーとなってしまうのは,見ている人からしておかしく感じるわけです。

 

そう考えると,自己同一性という一見して主観的な概念も他者の視点に依拠しており,そして自らの一生を一連のストーリーとして見立てるとすると,過去を紡いで今を生きるというのはとても大事なことのように思います。

 

もちろん,未来を見据えて長期的な計画を立てることは大事なことですが,自己同一性という観点からすると,他者から見れば現在において未来を夢見る素敵な人という一貫性とは関係の無い事柄でしょうし,自分のストーリーにおいても未来を夢見る素敵な主人公でしかありません。

 

そして計画通りの果たされたとして,初めて描いたとおりのストーリーが出来上がるわけですが,当然思い描いたとおりの人生なんてなかなかないと思います。

 

当然,未来を思い描いている現在から様々な物が変化するはずですから。

司法のグローバル化

2013-11-18

TPPが士業,とりわけ司法分野にどれだけ影響を与えるか,様々な説があるところだと思います。

 

まぁ我々司法書士のなかでは,不動産さえ動けば登記で生きて行けると思っておられる方が多いと思いますので,実際のところ消費税ほど話題になっていない気がします。

 

にしても,弁護士業界を大混乱に陥らせた例の大増員は,実はアメリカからの年次改革要望書に従ったという話が本当だとすると,日本にある資格のほとんどにおいてその影響を懸念する必要はあるかと思います。

 

だってアメリカ国は,母国企業が日本において新規参入しやすい環境を整えるために改革とやらを要望しているのでしょうから,当然国家資格という新規参入を阻害するものを快くは思わないでしょう。

 

そうすると,やはりアメリカからの要求は(TPPに参加せずとも)日本の司法分野の市場開放というでしょうけど,果たしてこれがどういった形で行われるのかというところが気になるところです。

 

ここで思いつくのがアメリカの司法と弁護士の事情なのですが,よく知られているのは非常に弁護士が多いことで,割合として弁護士一人当たりの人口の割合は日本の15倍ほどのようです。

そんな事情から,訴訟のネタを追い求めて救急車のあとを着けていくなどと揶揄されているのだそうです。

そうであれば,弁護士間における所得の格差もあるのでしょう。

 

それだけにアメリカでは裁判が多く,しかも日本では考えられないようなとんでも判決がでることもよく知られるところです。

たとえば,米たばこ会社に対して,肺がんで死亡した男性の遺族らに7億5000万円の賠償命令を下したり,ドライブスルーで購入したコーヒーを膝にこぼして火傷した老人に対して販売社側に賠償金の支払を命じるなど,その他色々あるようです。

 

これらの話を聞いて日本国民の皆様は,判決よりもまず訴訟提起に踏み切ったことについてびっくりされると思います。(もっとも,この手の相談自体は実は日本でも結構あるのです。。。。)

 

まぁつまりは,鶏が先か卵が先かの話になってしまいますが,訴訟が多く弁護士の仕事のネタが多いことと,訴えてみれば何かが起こると思わせぶりな裁判所が出す答えの一貫性の無さというのは,密接な因果関係があるように思えてなりません。

 

ところで,最近アメリカでは,ADRという裁判によらずに調停または仲裁などで紛争を解決する事案が増えているとの事です。

それは結構なことだと思いますが,しかし訴訟が多い原因というのは,言ってみれば私法上の取引をするにあたり規範の意識が薄い,つまりは民間の取引において国家が法規範として介入する部分や,業界の慣習などを構築し遵守する意識というのが乏しいのではないのかなぁ・・・と,思うわけです。

つまり,民間に○投げしているということです。

 

そうであれば,紛争の解決の場がどこになろうとも,私的取引というのは法的な意味では常に不安定であり,ケチをつける余地はいくらでも作れるわけです。

 

そう考えると,訴訟前の取引の時点で法律に詳しい専門家,すなわち弁護士が介入することが望ましいと思われ,それは私もいいことだと思います。

 

ですが,もちろんそれは私法上の取引を安定させることが目的であり,訴訟を増やすこととは真逆のことですので,ストレートに弁護士増員の理由とはならないでしょう。

 

ところで,前述においてアメリカの私法取引の事情について(憶測で)語りましたが,私はアメリカの法律(州ごとにだいぶ違うということは聞いたことがあります。)については全然知識がありません。

 

「知ったこと言うな!」と,言われるのも承知なんですが,憶測でこんなことを語るきっかけというのは,前にも話題にした民法改正の話でございます。今回は相続分ではなく債権法の話です。

 

なんでも改正の趣旨は,”広く国民に分かり易い民法にすべき”ということで,中間試案を見る限り,事案に応じた個別の規定を条文から削除して,なるべく一律にするという趣旨がよく伝わってきます。(職業別の短期消滅時効の廃止が顕著です。現行法では飲み屋のツケは1年となっていますが,改正で10年になるということです。)

 

また,条文に書かれていなかった判例や解釈で運用されてきた規定を条文化するようです。

 

このことは,法的安定性において言えば一見して安定する向きになると思います。

 

ですが,私が気になったのは債務不履行(契約の内容が果たせなかったときの損害賠償などの規定)に関する部分です。

なんでも,「責めに帰することのできない事由の存在を免責要件とする旨」を民法の条文において明示することが検討されているそうです。

 

ちなみに現行法だと,債務不履行の場合において違法性が無いと考えるには「故意・過失」があるかどうかを判断する必要がありました。

そして,その判断には慣習法や判例など,その取引業態における過去の事案などが基準とされます。これは,イギリスのコモンローと似ていると思います。

 

どういうことかというと,現在の運用をこの度検討されている改正案においては,ポジティブリスト化してしまうということです。つまり,「取引の種類に関わらず条文に書いてあること以外は契約当事者で決めろ!!」ということです。

 

これは,法を定める立法機関と,判例をもって規範とする司法機関の権限を民間に委譲してしまうということのように思います。民間って誰か?もちろん弁護士さんです。

 

ですので,取引の契約書作成の時点で法律の専門家が関わる機会が増えることになるでしょう。

 

そうすると,争いにならぬよう事前に弁護士が取引に介入するようになり,先ほど申し上げたとおり,そのことは法的安定性を保つ上で個人的にはいいことだと思っています。

 

ですが,この民法改正案の話の出所が,例によってあの大国からの要望だとすると,ちょっと事情が違うはずです。

 

もし,アメリカで弁護士資格を持つ者が日本においても弁護士として活動できるように仕向けられた場合を考えると,現行法のままであればアメリカとは違う多くの取引習慣や判例などをアメリカの弁護士はなかなか覚えきらないのではないかと思います。

 

ましてや,人口割合においても日本と比べて圧倒的に多いわけで,弁護士としての資質もまちまちであることが考えられます。アメリカでうまくいってる弁護士はわざわざ日本にまで来ないかもしれません。

 

また,日本人は争いごとをあまり好みませんので,弁護士が増えたとて訴訟案件が多くなるということはありませんでしたが,取引時点で弁護士が関わるように取引習慣が変わればアメリカ弁護士の新規参入の余地も生まれることになります。

 

そう考えると法改正案の趣旨がいろいろと繋がってくる様に思えます。

 

まぁ法律専門職の需要が増えるということでもありますが,絶対に忘れてならないのはアメリカにおいて司法がビジネスと化していることです。

先ほどの救急車を追っかける話の通り,ウォール街をはじめとするアメリカの商取引習慣では,一度稼いでもまた次の稼ぎを生み出すことが基本だと思われます。

 

で,アメリカの弁護士が取引の時点で関与した後,次にどんな展開を考えるかといえば当然,訴訟じゃないでしょうか。

 

もちろん,日本で長らく続けられてきた取引習慣に興味など持つことは無いでしょう。

だって,金を稼ぎにきているのですから。そして,母国という強力なバックの後推しで日本の法律まで手を加えることができるでしょうから。

 

こうならないためには,何が必要でしょうか。

 

それには,法律やその運用に外部からも内部からも恣意的な手を加えさせないことが必要だとおもいます。

それは,たとえ時の為政者が諸外国におもねっていたとしても,国家体系を維持するための国民全員に等しく及ぶ規範,いわば国家が独立している証をを明示することだと思います。

 

それは,わが国のコンスティチューションであると・・・・

 

あぁ〜・・・・

 

現憲法が,構造改革とやらを食い止める要素というのはほとんど無く,むしろ自由とか平等という文言は新自由主義に実に馴染む気がしてなりません。

 

そして今の現状を考えると,GHQは現憲法の草案を練っている時点で布石として考えていたのではないかとさえ思えてきます。

 

恐るべき国です。

もちろん,おもねってもよきにはからってくれないという意味も含めて。

右と左の違い

2013-11-15

右と左の違いを宇宙人に言葉だけで説明せよという「オズマ問題」という難問があるそうです。

 

同じ地球人であれば,“北を向いたときの東の方向が右”とか,ひらめが左でカレイが右とか,心臓の位置などで説明することが出来ると思いますが,宇宙人に対しては説明つきません。

 

もっとも,宇宙人に対して言葉で説明って時点で現実に即していない気がしますが,要は一般的な共通認識を省いた場合において説明がつくかという命題として,対面することの無い宇宙人に説明するという条件となったのだと思います。

 

なお,この問題は素粒子物理学における問題で解決済みなのだそうです。

地球では解決済みということになっていますが,果たして宇宙人には伝わるのでしょうか。

 

私には解決の理屈は分からないのですが,この問題を考えると地球人同士のコミュニケーションにおいても考える部分が大いにあると思います。

 

よくよく考えると,基本的に人間の身体は左右対称に見えます。動物も見る限りほとんど左右対称の様に思えます。しかし,よくよく見ると顔も両手も正確には左右対称ではありません。プラトンの言うイデアというのが左右対称という認識の正体なのかもしれません。

 

中央から見て右と左が相互にあるという共通認識があるからこそ,対称という概念がうまれます。

 

そうやって,ひとつずつ事実を確認しあいながら共通認識を積み重ねていくのが正しい理論の積み重ねなのでしょう。私は思い付きばっかりですけど。。。

 

話し合いで共通認識をお互いに積み重ねていくというのは,簡単なように思えて難しいことなのかもしれません。お互い認め合ってなければなりませんからね。

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