明日は金曜日
明日は早いのでもうあがります。
お疲れ様でした。
〒276-0033 千葉県八千代市八千代台南一丁目4番3号2階
営業時間:月~金 9時~17時
明日は早いのでもうあがります。
お疲れ様でした。
「人を殺してみたかった」と狂気をうかがわせる文言が再び新聞紙上をに賑わせています。
大学1年の女子学生が、名古屋市昭和区のアパートの一室で顔見知りの女性(77)をおので殴るなどして殺害したとして、殺人の疑いで緊急逮捕されたそうです。
なお、女子大生は「人を殺してみたかった」と話しているそうです。
恐ろしいこの言葉ですが、昨年にも聞いた覚えがありそれほど衝撃的と感じませんでした。どちらかというと、(またか・・・)といった感じです。
何ででしょうね・・・
なお、斧が凶器となっているようですが、ドフトエフスキーの罪と罰を思わせます。
ちなみに、罪と罰のあらすじを軽く言いますと、貧乏学生が金貸しの婆さんを殺し金を奪ったものの、娼婦にほだされて自首する・・という感じです。
読んでいない方から、これではさっぱり解らないと言われそうですが、読み終わった感想がこんな感じでした。訴えようとしている事柄を読み取ろうしましたが、解りませんでした。
メロドラマとして読むと面白いかもしれません。
この物語の主人公ラスコーリニコフは、自分の頭の中で自分の行動の正当性を保つためにめちゃくちゃっ屁理屈をこねまくっています。
これを読み解くと、何かしら小説に深みが増すのかもしれませんが、研究者でもない一般読者には酷では無いかと思われます。
もっとも、一人の人間の頭の中でひたすら禅問答を繰り返し、それを外に発信することも他人の意見を受け入れることもないというのが、いかに不健康であるかというのは、現代にも共通しているように思えるところです。
ただ、記憶というのは一続きである事が普通ですが、覚えてる出来事に対する捉え方というのは、そのときの状況や気分によって変化するというのは、少なくとも私場合そうです。
よくある(?)話で、夜中に書いたポエムを朝起きてから読むととても恥ずかしいというアレです。夜中に熱心に書いて残したポエムは、今朝方になっても自分が書いたものという記憶が残っているからこそ恥ずかしいと思うわけでして、かつて自らが書いて残したそのとき心境というのが、睡眠を経てから目の当たりにすると違和感を覚えるというのは、一続きの記憶に対して状況によって違った感情が生じるという事だと言えましょう。
その起伏は、抑える状況と解放することが出来る状況を周りを伺い判別することで、状況に適応させることが、一般の社会生活を送っている方は出来ていると思います。
そして、私生活の中で我々は、家庭や職場、また友人関係など、様々な人間関係を持ちその空間のようなものを感じていると思います。そしてそこが居心地が良くリラックスが出来たり、非常に緊張する場だったり、不愉快だったりと。
その場それぞれの環境に合わせて、身の振り方を変えて順応することで、様々な感情が生じて見える事柄も、その時々で違った風に見えるのでは無いでしょうか。
そのことは、自分の頭の中に湧きだして離れない執心を希釈させるような気がするわけです。
そのことは、物事を深く突き詰めるには不都合なのかもしれませんが、偏り無い思考を保つには必要不可欠では無いかと思います。
ある天才タイプの人にとっては、もしかしたら人との交流を避けることは有意義なことなのかもしれません。
言わずと知れた有名ギタリストの E・クラプトンは、20代のころは「ロバート・ジョンソンを知らない奴とは話したくなかった」と言っているのを雑誌のインタビューで読んだことがあります。
もっとも、あの人は親友の妻に向けた曲まで作って、ついには寝取るという悪癖の持ち主でやっぱりちょっと偏りがある人に見えますね。
ですから、芸術などの世界では偏執的に思想を追い求めるというものアりっちゃアリなのでしょう。
ですが、なにかしら規範意識のようなバックボーンがなければ、支柱の無い朝顔の蔓のように途方も無い方向に伸びて行ってってしまう様に思えます。
では、その偏執的な精神状態はどのような環境ではぐくまれるのでしょうか。
それは、ちょっと解りませんけど、ひとつの物事に対して固有の見方にこだわるということが、精神的な解放を奪い、常に緊張し閉塞した精神状態に陥らせるという様に思います。
それは、いわゆる偏見を持つと言うことです。
現代の病というのは、このあたりに原因があるのでは無いかとふと思いました。
25日投票のギリシャ総選挙は、最大野党の反緊縮派、急進左派連合(SYRIZA)が300議席中149議席を獲得して勝利を収めた模様です。
なお、ギリシャは財政赤字の削減など緊縮策と引き換えに、IMFや欧州連合(EU)などから巨額の支援を受けている状態です。しかし、新政権は緊縮策には反対の立場を示しています。
そうなると、反緊縮を掲げる新政権として問題なのが支援の問題です。
緊縮を求めるドイツなどとの軋轢が深まれば、70億ユーロ超の次回の支援策実施が不透明になりかねません。
ちなみに緊縮財政というのは、歳出を厳しく抑制する財政のことで、要は無駄遣いはダメよということです。
ユーロ圏の銀行がギリシャ国債を多く所有してる事から、ギリシャ国家の破綻、すなわち国債の債務不履行がおこればユーロ圏全体の損害となることがよそうされます。
だから、ギリシャへの支援をせざるを得ないものの、同時にギリシャは歳出の抑制も要求されていると言うことです。
しかし、民主党時代の日本と同じように歳出カットをしすぎれば、どうしても国民経済に負担がかかるわけです。事業仕分けなどを思い出していただければ解ると思います。
そんなわけで、ギリシャ市民の不満は募り、この度民主主義に則って、ギリシャ国民は反緊縮を選択したわけです。
しかし、無い袖は振れないわけで先立つものをどうするか、と言うことで、新政権にとって支援が受けられるかどうかは重要だと思われます。
なお、ギリシャはユーロ加盟国なので、通貨発行はECB(ヨーロッパ中央銀行)が管理しており、ギリシャの一存では出来ません。
そうであれば、ユーロを離脱してドラクマを復活させれば良いかというと、通貨の価値の問題があるわけです。
どこの誰が破綻寸前国家の通貨に信用などするのでしょうか。
というわけで、相場においてドラクマはユーロとの関係でかなり安くなるため、ギリシャ国内は大きな財産の逸失をすることとなるでしょう。
そうすると、ユーロ離脱はちと選択として難しいところです。
では、EU離脱はどうでしょうか。
高い関税を掛けて国内産業について保護政策をはかるのです。
ギリシャの産業は観光産業が主力のようですが、製造業が元々弱くEU加盟国であるドイツから輸出攻勢によって貿易赤字が拡大し、また自国製造業が育たない環境にあると思われます。
そうであれば、保護政策は効果覿面のように思えます。
また、国境での出入国審査がなくなるシュンゲン協定についても見直すことが出来れば、自国の国民によって労働力を賄うことにより、失業者を減らすことが出来ます。
ちなみに、EUへの不法移民の大半はギリシャとトルコ間の国境経由だそうです。
これらによって、反緊縮政権は自国経済の立て直しが出来るのじゃないかと個人的には考えます。
しかし、反緊縮するにしても先立つものがお金ですから、ユーロという共通通貨制から抜けられないのは痛いところです。
ギリシャ国民が民主的に選らんだ政権ですから、是が非でもギリシャ国内経済が改善することを願ってやみません。
そして、ギリシャの国民の方々は日本をみてこう思ってるんじゃないでしょうか。
「自国の中央銀行で通貨が発行できて、国債はすべて自国通貨建て、おまけに長期金利が1%を割っているのに・・・
なんであの国はいまだに緊縮財政やってるんだ?」って
昨日のNHK大河ドラマを見ながら、(現代にこんな人いたらネットでさぞ叩かれただろうなぁ・・・)としみじみ思いました。
そのお人はもちろん吉田松陰先生です。
昨日の放映では、ペリーの船に乗り込もうとして追い返されたのですが、この方は他にもまだまだやらかします。
さらには、弟子達に「諸君、狂いたまえ」と教えたため、その弟子達は英国公使館を焼き討ちしたりといろいろやらかし、その精神は弟子から更には多くの武士たちに伝播していったことは、確かに新政府樹立の原動力となったことでしょう。
もっとも、松陰先生は非常に勤勉だったようで、そのため言動は勉学に裏打ちされたものであったでしょうから、支持者も多かったことでしょう。ある意味なおさらたちが悪いとも言えますが・・・
彼らの多くは、尊王攘夷派の志士として、朝廷を擁立し弱腰の幕府を政権から退かせて外国勢を打ち払うという思想の基に活動をしていたようです。
彼らは、言うことも派手ならやることも非常に派手で、京都御所を火の海にする計画を立てたり、多くの暗殺を実行したりとまぁ元気だったようです。
こうして考えてみると、今で言うところのDQNの香りがぷんぷんと漂ってきます。
それに対するのは、幕府と朝廷の絆を深めるべきとする公武合体派です。こちらはどちらかというと開国向きに傾きますが、当時の外国との軍事力の差を考えればそれはやむを得ないでしょう。
日本が一丸となって外国に対抗できるくらいの国力を目指し、それまでしばらくはおとなしくしているというのは、今考えても割と理性的だと思います。
他にも、佐幕派といって、現状のまま幕府の政権維持という考え方も幕閣の中にはあったようですが、これは無理筋だとしても(戊辰戦争で負けてますし)やはり内戦を起こすのが一番の日本の危機だと、当時において冷静だった人は考えたでしょう。
ですが、現代に生きる我々は、この出来事の顛末を知っています。
もっとも、それにしたって最善かどうかは解らないわけです。思いつくすべてのケースを試すことは時間の経過が許しませんから。
結局、結果的に勝ちを収めた方が、自らの正義を謳歌するためにその言動となった人を奉るわけですから、結果が違っていたらもちろんその人に対する評価は違ったものとなったでしょう。
逆に言えば、我々の知っている歴史のなかで非常に立派な人格者を見逃していたり、あるいは悪役に仕立てている事もあるんじゃ無いかと思います。
だから、歴史上で立派な人とされていても、やっぱりその人格を疑う余地があるわけで、もしかして実際の話を知れば、尊敬できる歴史上の人物というのは誰一人いなくなってしまうかもしれません。
ですが、歴史の正しさを前提としなければ、そもそも現代に生きる我々の存在自体が揺るぎかねないわけです。
そう考えると、あの出来事はどうすれば正解だったとか、何が間違いだったかを論ずる余地はあるのでしょうけど、時間の経過によって様々な出来事を積み上げた歴史というのは、どんな人にとっても従わざるを得ない揺るぎない権威があると思うのですね。
甘利明経済再生相はが都内で講演にて、今春の春闘で昨年並みの賃上げ成果が上がれば、実質賃金は確実にプラスになるとの見通しを示したそうです。
インフレターゲットはあきらめたということですしょうか。
あまり感心できませんね。
では良い週末を。
中東の過激派組織「イスラム国」が2人の日本人男性を人質にとって、身代金を要求する動画がインターネットで公開されたことが話題となっています。
動画に映っている人質は、昨年シリアで拘束された湯川遥菜さんと、フリージャーナリストの後藤健二さんと言われており、2人の間に立ったイスラム国のメンバーとされる男は、身代金2億ドル(約236億円)を日本政府に要求し、動画の掲示から72時間以内に応じなければ2人を殺害すると警告しています。
これについて、首相は犯行グループを強く非難し、人質解放に向けて全力を尽くすことを約束する一方で、「日本はテロリズムには決して屈しない」とも強調したそうです。
なお、身代金の2億ドルは、つい先日に「イスラム国」対策として安倍晋三首相が発表した日本から拠出する支援金額と同額です。
つまりは、2億ドルという身代金の額は、これに対する当てつけと考えて間違い無いでしょう。
もっとも、そうであれば、動画を撮影する以前に人質となっているお二人は捕らわれているはずであり、身代金を要求する目的で捕らえたので無ければ、いったいいつ頃捕らわれて、また安倍首相が「イスラム国」対策としての援助を発表するまで、どのように扱われていたのでしょうか。
なお、発表された動画についても影の向きや、風による衣服の揺らぎなどが不自然だと言う声も上がっています。
いずれにしても、お二人が捕らえられていると考えられ、身代金の要求と人質の救出に関する政府の対応に注目が集まるところです。
なお、今回とも似たケースで思い出されるのは、「イラク日本人人質事件」だと思います。
この事件は、カタールの衛星テレビ「アルジャジーラ」が、目隠しをされて土間に座らされ、銃や刃物を突き付けられている3人の映像とともに、「自衛隊が3日以内に撤退しなければ人質は焼き殺す」という犯行グループの声明を放送したことから始まりました。
それに対し、当時の首相である小泉氏は撤退拒否声明を発し、それに応じて犯行グループの要求はエスカレートしました。結局、3人の人質は解放されたのですが、帰国の途についた3人を待ち受けたのは「自己責任」論を掲げた強烈なバッシングでした。
当時は、新自由主義的政策を小泉氏が推し進めていたという時代背景がありましたが、本政策のメンタリティとも言えましょう「自己責任」を国民の多くが謳ったというのは、政策が国民を変えたのか、それともそもそも国民の心理がその政策を生み出したのか、にわとりたまごですが、いずれにしても小泉氏の支持率は高かったと記憶しています。
変わったというのは、1977年に起きたダッカ日航機ハイジャック事件では、当時の首相である福田赳夫内閣総理大臣が「一人の生命は地球より重い」と述べて、犯行グループの要求通り身代金600万ドルの支払いおよび、超法規的措置として獄中メンバーなどの引き渡しを決断した、ということと比べた世論の差です。このときは、国内よりも国外からの批判が強かったとか。
そして、この度の事件においても「自己責任」論が再燃し始めているようです。そう考えると、やはり安倍政権の政策は国民の意思に沿ったものなのだとつくづく思ってしまうわけです。
それはそうと、この「自己責任」論の所在の話ですが、よく言われるのが〜自由には責任が伴う〜ということです。
そのことを前提にして今回の問題を考えますと、一個人が享受した自由によって生じた責任というものが、果たして国家として生ずるであろう責任を免脱させるのかという部分において、今回語られている「自己責任」論というものに強く違和感を覚えるわけです。
なんでも、捕らえられている内のお一人である後藤さんは、案内役の反対を振り切り、「自己責任で行く」という言葉を残して単独で危険地域へ向かってしまったそうです。
はたして、これがどういう意味なのかは不明ですが、後藤さんが「自己責任」を掲げたところで国家は自国民の救出の責務を免れるわけでは無いのです。そして、先ほどの通り〜自由には責任が伴う〜のであれば、自らが身を危険にさらすことにより国家に生じる責務を自らの責任で解消できない限り、「自己責任」と語るのはおかしな事となるのです。
また、国家においても自由がありますがそれは、自国民の危機を放置すると言うことでは無く、救い出すための方法として他国からの干渉に対するものです。
ダッカ事件においては、他国からの批判の通り最善の方法とはほど遠かったとしても、自国民を救出するため(犯行グループも自国民だったのですが、)最大限の努力をしたという点では、国家の責務を果たしたと言えると思います。
逆に言えば、自国民を守る努力をしない国家に意義などあるのでしょうか。
ですから、人質のお二人には批判される部分もあるでしょう。といいますか、しなければならないと思います。ただ、批判が「自己責任」を基としていてはいかんと言うことです。
そして、どうなるか解りませんが、国家は人質救出に全力をあげるべきでしょう。
ただ、この事件に関する世論はどれをとっても、自由と責任について、国家か個人のどちらかが抜け落ちているものばかりだと感じます。国家の自由と責任について抜け落ちれば自己責任論となり、個人の自由と責任が抜け落ちればすべて国家の対応への批判に傾きすぎる傾向となります。
いずれにしても、ナショナリズムについて今一度思い起こすと共に、国防について議論すべき機会となることを願います。
ひとつの物事についてでも、人によって見方は違うことは周知されていることと言えましょう。
例えば、「平手打ち」という言葉ひとつについても、かつての恩師を懐かしむノスタルジックな気持ちになる方もおられれば、嫌なイメージをお持ちの方もおられると思います。
また、「平手打ち」にも様々あると思いますが、それを一言「平手打ち」として括った表現をしても会話などで意識の共有がはかれます。
つまりは、言葉で表された場合の「平手打ち」が、現実にどのようになされたかは、その場でそれぞれであり、またそのことを何らかの手段で知り得た人もそれぞれということです。
もし、「平手打ち」が原因で何らかの事件が起きたとして、報道機関が大いにそれを報じた場合、様々ある「平手打ち」のうちどのような「平手打ち」かを特定しないまま「平手打ち」と一言で「平手打ち」表現し、その報道を受けた主体それぞれに「平手打ち」に対する受け止め方が違うわけです。
そうであれば、その事件について我々は、認識を共通させて、問題の所在を共有し、建設的な議論が果たして出来るのでしょうか。
女子高校生にコスプレ姿で客に体を密着させるなどのサービスをさせたとして、東京・高田馬場にある「JKリフレ店」(というのがるそうです)が摘発されたそうです。
何でもこのお店、女子高校生に客の顔を平手打ちさせるなどのサービス(?)を1回1000円で提供していたとか。
なんというか・・・前置きで言っといてアレなのですが、変わった趣味持つと大変そうです。
ただ、児童福祉法違反の疑いがあるのはやっぱりダメですね。
15日、スイス国立銀行のよるフランの上限撤廃という予想外の動きに出たことで、フラン相場が急騰し混乱が起こっているようです。
こうした外国為替市場の混乱に、外国為替証拠金(FX)取引業者が相場の激変を理由に、急きょ取引の一時停止などの措置をとるなどの他、FXユーザーも阿鼻叫喚の様です。
ちなみに、FXなどの投機による負債は免責不許可事由に該当する可能性があるため、自己破産によって免責決定が得られない可能性があります。
もっとも、免責不許可事由があれども裁判官の裁量によって免責決定してもらえる場合もあります。(割と多くあります。)
また、それが認められないとしても、個人再生などの方法がありますので、とりあえずご相談ください。
というか、とにかく命は大事にしてください。
新小岩で電車が止まると、利用者みんなが迷惑します。
そして、これを機会にFXについて少し考え直してください。
アレは投資とは呼ぶべきではありません。
インフルエンザが流行っているようです。
なんでも、1月5〜11日に全国の医療機関を受診した患者数は昨年のピーク時を上回ったとか。
うがい手洗いはしっかりしましょう。
では、良い休日を
1965年8月に当時の佐藤栄作首相が米国統治下の沖縄訪問時に行った演説に関し、基地の意義を強調するよう求める米側の圧力で内容を修正していたと言うニュースが話題となっています。
なんでも、冷戦下を念頭に「極東の平和と安定のために沖縄が果たしている役割は極めて重要」との一節を加え、実際に読み上げたそうです。
要するに、基地存続を前提とする文言を付け加えたわけです。
佐藤栄作氏といえば、日本では保守政党と言われる自民党出身の総理大臣、といいますか、戦後日本は長きに渡り自民党が多数の国民の支持を得て政権を担ってきました。
ちなみに、保守政党とは、「保守主義思想によって現在の体制もしくは伝統的な社会的価値観の保守、維持、擁護を掲げた政党。」とのことです。(うぃき)
そして、保守主義とは、「古くからの習慣・制度・考え方などを尊重し、急激な改革に反対すること」なのだそうです。(うぃき)
つまりは、社会主義もしくは共産主義的な価値観を標榜する「革新政党」とは、対照的な立ち位置と言えるでしょう。
つまり当時、国民の支持を得て政権を担った保守政党たる自民党の総裁であり、かつ行政の長たる内閣総理大臣となった人物が、アメリカからの指示によって(圧力というとアレですので)演説の内容にアメリカ側の要望通りの文言を付け加えたということでしょう。
そして、沖縄と言えば日本で唯一陸上戦が行われた場所でして、しかも大東亜戦争が終戦した8月ということですから、あの日、あの時、あの場所でということが、非常に重要な意味を持つ訳です。
これについては、例のごとく左翼的なサイドが飛びついて、戦後保守党たる自民党への攻撃材料とすることでしょう。
左翼サイドは、沖縄の米軍駐留については、一貫して反対の姿勢を取っておられると思います。
彼らは、沖縄の米軍駐留は、憲法9条の戦力の保持に該当するとして、違憲である事を訴えます。
もっとも、これについては砂川事件とよばれる最高裁判所の判決によって、一応の決着がついています。
これによりますと、
「憲法第9条は日本が主権国として持つ固有の自衛権を否定していない」
「9条が禁止する戦力とは日本国が指揮・管理できる戦力のことであるから、外国の軍隊は戦力にあたらない」
「日米安全保障条約のように高度な政治性をもつ条約については、一見してきわめて明白に違憲無効と認められない限り、その内容について違憲かどうかの法的判断を下すことはできない」
として、違憲との判断は下されませんでした。
もっとも、ここで争われた第9条を含む日本国憲法は、占領下の日本に対してGHQが一週間程度で書いた草案を日本側に渡したものだとか。
そしてなんと、帝国議会において9条の文言につき、侵略戦争と防衛的な戦争を区別すべきではないか(そして防衛的な戦争の権利を放棄すべきではない)、との主張したのは、なんと共産党の野坂参三議員だったというから驚きです。
そりゃ当然ながら、アメリカとしては、一度は刃向かってきた日本には戦力を保持させない方が与しやすくなるでしょう。そしてそのこと、自主独立を遠のかせる事と考えて間違い無いはずです。
そう考えると、現在においても継続している米軍の駐留を容認する保守政党と、占領下においてGHQが草案した日本国憲法を後生大事にしている左翼サイドの対立というのは、どちらにしてもアメリカを上位に存在させているという立場から逃れられていないように思えます。
我が国は、民主主主義国家です。
つまりは、良くも悪くも国民に主権があると言うことが前提で国家が運営されているはずです。
では、普通選挙によって国民の中から議員として選出され、総理大臣として行政権の長となった人物が、アメリカからの要請により演説に文言を付け加えたとしたなら、それは民主主義に則った出来事なのでしょうか。
もちろん立場上の問題は慮られますし、批判するつもりは毛頭ありませんが、民主主義に則しているとは決して言えないと思います。
そして、その状態が少しも変わらない現在において、憲法改正の議論が浮上してきています。
マスコミはしきりに、「戦争を出来る国かどうか」を論点据えていますが、これではそれまでずっと頭上にあったはずのものについて、すっかり抜けきった議論になろうと思います。
つまり、無視できない強大な存在とその関係、そして国際問題から、保守政党と左翼の双方が一生懸命目を逸らしながら互いを罵り合っているように見えるのです。
その状態を脱しないまま、もし憲法の改正自体がかなったとしても、果たしてそれが自主独立への道につながるかどうかというと疑問です。
そして、このままでは議論が煮詰まることもない様に思います。
日銀が、2013年4月に掲げた2年程度で物価2%の目標の雲行きが怪しくなっているようです。というかちょっとむりぽの模様です。
どうも 日銀は、20─21日に開く金融政策決定会合で2015年度の物価見通しを下方修正するとのことです。
なんでも、原油価格の急落などで、前年比1.7%としている消費者物価指数(生鮮除く、コアCPI)の上昇率見通しの維持は難しいとか。
しかし、原油価格が下がれば、消費者の可処分所得が増えることになるし、むしろ物価上昇に資するのでは、と考えるのですが。
なお、日銀が物価目標の指標としているコアCPI(消費者物価指数から生鮮除いた指標)というのは、世界基準にはなく日本独自の指標だそうです。
世界で言うコアCPIとは、消費者物価指数から、食料(酒類を除く)、エネルギーを除いた指標のことを意味しております。
エネルギーや食料は、物価の変動が激しいためそれらの物価変動を除いた指数が現実にあるわけで、日本ではコアコアCPIと呼ばれています。
何でこんな紛らわしいことをするのでしょうかねぇ・・・
まぁそれはそれとして、そもそも原油の価格が下落していることが、物価目標の達成を妨げているという日銀の言い分は、ちょっとおかしいと思いませんか。
だって、原油価格の変動で達成した物価目標というのは誰のための指標だという事です。
つまりは、原油価格の上昇の影響により、我々消費者が支払うお金は、実際誰の手元にいくかというと、原油の輸出先である海外であるわけで、日本国内に残るわけでは無いのです。
その指標を目標にしたって果たして誰のための利益になるのでしょう。カタールの王様ですか?
要は、「政策は正しい。でも原油が上がらないのがいけない。我々は間違っていない。」とでも言いたいのでしょうか。
いずれにして、金融緩和だけでは物価目標達成どころか、デフレ脱却さえ難しいことがハッキリしたのでは無いでしょうか。
昨日は成人式だったそうで、千葉の街は新成人で賑わってました。
私は、楽器屋に寄った後、少し遅い昼食を取る場所を探して街をふらふらと歩いていたのですが、振り袖やスーツを着た若者を沢山見かけました。
それにしても、最近の振り袖を少し派手目にに感じるのは年のせいか・・・
そんなことを考えながら飲食店街を物色していると、ガラス張りの店舗に「ハイボール」の文字を発見しました。悲しいかな、敏感に反応してしまう文字でございます。
どんなお店なのか気になって看板を見ると、なんとあの有名なたこ焼きチェーンではありませんか!!
びっくりしたものの、たこ焼きとハイボールという合わせ技にそそられて店内に入る決意をしたのでした。
中は、テーブルと椅子が何席かあるものの多くが立ち席でなんだか小洒落たちょっとにくい内装でした。
店員さんに聞いてみると、なんでも昨年12月にオープンしたばかりだそうで、東京には同じ形態のお店が何店舗かあるものの千葉では初出店だそうです。
たこ焼きとおつまみとハイボールを頂いてなかなか満足でした。
昼食をとるといった感じでは無く、完全にのみメニューとなってしまいましたが、またいきたいですね。
そういえば、最近の外食産業は異物混入の話題がおおいですが、当店の焼き物にはなんとタコが入っていました。
くだらなくてすみません。
長い休みで身体がなまったせいか、今週は長く感じました。
明日からまた祝日を含めて3連休ですが、ご予定等は如何でしょうか。
冬型の気圧配置が強まり寒さが続くそうですが、お天気は良好のようです。
寝正月で過ごされた方は、初詣などお出かけしてみても良いかもしれませんね。
三が日ほどの混雑は避けられるかもしれません。
ついでに何かおいしいものでも食べられれば来週からは完全復活できるかもしれません。
ご存じかと思いますが、フランスの政治週刊紙本社が銃撃され、12人が殺害された事件がありました。
そのうち、容疑者の一人が警察に出頭し、現在身柄を拘束されているようですが、逃走中の二人について警察は身元を特定し写真も公開されているようです。
なんでもこの週刊誌は、かつてイスラム教預言者ムハンマドの風刺画を掲載したことで、数度にわたり脅迫を受けていたそうで、この事が事件の背景にあるのは間違いないようです。
なお、急きょ現場を訪問したフランスのオランド大統領は「言論の自由そのものである新聞に対する類いなき蛮行だ」と厳しい言葉で怒りを示したそうです。
表現の自由と言えば、つい最近話題になった、アメリカの映画にて北朝鮮の国家元首を登場させたことに対する報復と思われるサイバーテロ攻撃に向けて、アメリカ国内の映画会社を擁護する声として上がったことは記憶に新しいと思います。
この事については、本ブログで「違うの価値観に対する民主主義の押しつけ」という評論をしました。
これまた、手段や経緯が異なるものの違う価値観に対する民主主義側の「表現の自由」の押しつけと根が変わってないばかりか、本質的に同じように感じるところです。
同じと感じる問題を再びあえて取り上げたのは、もう少し突っ込んでみようと思ったからです。
以前書いたときには、民主主義にとって表現の自由は欠かせないものであるものの、民主主義という統治そのものが世界どこでも認知され容認されているわけではないということを述べたかと思います。
それは、ある違う国にとっては、民衆に権力を平等に付与して国家を運営するということが、とても信じられることではなく、実行不可能であるというという事実が当然にあるという事だと思います。
このことは説明するまでもなく、アラブの春の顛末を見れば一目瞭然です。
だから、権威の対象を定めて、その対象を皆が信仰し敬意を払い尊敬することで、それが示す秩序に従い道徳や倫理を身につけるのだと思います。個人的な見解ですが、おそらくどんな人も何か習う対象がなければ、秩序を身につけることは無いんじゃないかと思うのです。
一方で、現代民主主義による権力を民衆に平等に与えることは、言ってみれば民衆の上に何者も属さないと言うことになります。
そのことは、国家権力が民衆におもねることにもなろう事から、民衆は世間で言われている事柄を規範とし、個人はまるで波に揺られるようにそれに身をゆだね、敬意や尊敬という感覚は薄まり、自らの尊厳についても次第に信じられなくなる様に思えます。
そのような状況においても権威があるとするなら、強いて言えば憲法がその対象となるのでしょう。ですが、成分憲法を権威とすることでその文の解釈が様々になることは、宗教の経典と類似していて非常に興味深いところです。
もし、世界すべて民主主義国であったなら、民主主義国に生まれた私は、この民主主義とそれ以外の国との対比は観念できないはずです。ですが、現実にはそうではありません。
また、どちらが良いというわけでは無いのですが、単純に人々の精神性に大きな違いがあるということだけは間違いなく言えることでしょう。
では、民主主義で無い国から見た民主主義国というのは、いったいどのように写るのでしょうか。
たとえば、アメリカの開拓時代を例に取ってみると、イギリスから訪れたアングロサクソン達は、土着のインディアンが暮らしていた土地を次々と奪ったといわれていますが、その根拠は彼らがイギリスから持ち込んだ財産権という概念だったそうです。
つまり、アングロサクソン達が、初めてたどり着いた場所の土地を、我こそはと手中に収めて所有権を主張すれることによって、インディアンが土着していた土地は徐々に奪われていったそうです。
民主主義国は、国民に強い権利を与え手厚く保護する対比として、他の国と比べて国家の権威が非常に薄いことでしょう。つまりは、国民が他国の尊厳を奪うことがあろうとも民主主義に反していない行為であれば、国家はその国民を守るために動かねばなりません。
為政者が入れ札で選出されていれば、なおさらそうならざるを得ないでしょう。
そのことは、尊厳を奪われた国からしてみれば、子供のしつけの出来ない親のような、ひどく横柄で乱暴なものに見えるかもしれません。
またその性質について、常に前進を求めて焦燥する特性が見られることにも着目しなければなりません。
良く言えば、フロンティアスピリッツを駆使して、大陸を開拓し自らの安住の地を作り出したのですが、それに飽き足りずその価値観をあらゆる国に押しつけることもあるのです。
なお、ブッシュ政権は時に国防長官だったドナルド・ラムズフェルド氏は、政権がイラク戦争などで「民主主義の拡大」を目指した際には「歴史や文化が違う他国に、自分の国の統治システムを強いることができるとは思わなかった」と、当時の心境を語ったといいます。
昨今は、アメリカに厭戦気分が蔓延しているため、物理行使による民主主義の拡大はしばらくはなりを潜めるかもしれません。そんな中でも、民主主義の押しつけとそれに対する抵抗は止むことが無く続いています。
もっとも、生まれついて民主主義国に生まれ育った我々にとっては、当たり前だと思っている観念が、他の国にとってはその尊厳を汚すおそれのあるとして、それを理解しようにも到底出来るものでは無いと思います。
とはいえ、自らの意識の向こう側に理解できない事柄が存在すると言うことだけは理解するべきで、それがあるからこそ畏れや敬意といった感覚が生まれるわけで、程度の違いはあれどもこれは万国共通だと思えるわけです。
経済的な成功により民主主義は世界で繁栄したわけですが、イスラム社会とは理解し合うこと無く、その軋轢は深くなるばかりです。
そして、民主主義がとりわけ尊重する個人的価値観という事に重きを置けば置くほど、その軋轢は更に深くなることでしょう。
今日は寒いです。実に寒いです。
なんでも、冬型の気圧配置が強まった影響だとか・・・
コートを羽織って外に出ても冬の寒さが衣服を突き抜けて直接肌に刺さる様です。
冬の街は、その時々で色合いを変えて叙情的なのですが、寒さだけは苦手なのです。
木々は冬になると葉が落ち装いが寂しくなるのですが、人間は逆に着込むのも面白いものです。夏は逆ですね。
今年1年がいい年となりますように。
あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。
長い連休が明け、今日が仕事はじめという方も多いと思います。
身体がなかなか日常に慣れていかないと思いますが、がんばっていきましょう。
さて、昨日はNHKの今年新たなシリーズが始まった大河ドラマの初回が放映されていまして、それを見ていました。
その中で、さも感動すべきであろうたけなわのシーンがありまして、主人公が「学問は自分のためにする」といった趣旨のことを叫んでおられました。
私は、比較的冷静に「ふ〜ん・・・」といった感じでその映像が描く時代の状況に思いを馳せたのでした。
たしかに、幕藩体制下においては、情報の統制もあったことでしょうし、一生懸命勉強した当時のご先祖方々はそういう心境だったのかなぁとも思えました。
もっとも、それぞれが自分のためだけに学問を修得しようとすることは、言ってみれば先人が書物として残した書物から、自分の理解できる物だけを選択して知識として取り入れるという作業となることでしょう。
つまりは、自分に理解の出来る事だけを自らの知識として収め、その他を排除することとなれば、形式といった知識に至るまでの段階的な順序がことごとく排除される傾向に導かれ、また、そのことは、それまでの経験によって得られたであろう先人の残した教訓などに対する尊敬が失われる様にも思えます。
いってみれば、「平等」という概念を根源とした考えとも言えると思います。
たとえば、哲学が現代において軽んじられる傾向があるとすれば、それは現代に至るまでの歴史的経過とそれを担った先人への敬意を失っていることとも考えられます。
きっと、現代においてもそういった傾向は見られるのではないでしょうか。
すくなくとも、私の仕事において学ぶということが、公益のためである事は間違いないでしょう。
ソニーの米映画子会社が、北朝鮮の元首の暗殺を題材にしたコメディー映画を作成し、一悶着あった後公開に踏み切ったことが話題となっていますね。
それをきっかけとした(と思われる)サイバー攻撃の応酬もこれまた話題となっています。
映画会社は、脅迫があったことを理由として、一度は映画の公開を取りやめたものの「表現の自由に対するテロに屈するべきではない」との映画関係者や一部の市民の声を後ろ盾に上映に踏み切りました。
この判断に対しての賛否について、アメリカ国内で如何ほどなのかは解りませんが、日本の報道からは、表現の自由への攻撃と言うこととサイバー攻撃の話題で持ちきりです。
まぁマスコミさんは、こと「表現の自由」に対する話題についてはとても敏感に反応し、しかも必ず「守る」方へと扇動するようなコピーを打っている様に思います。
それは、もちろん立場としては至極当然なことだと思いますし、民主主義国家においては、表現の自由なくしてその制度を運用することは不可能と考えるべきでしょう。
もちろん表現の規制が絶対に許されないというのではなく、そもそも自由であることが前提で、やはり表現に対する介入が必要な場合は必ずあり得るということです。
たとえば、国民が主権者であるならば、国政について正しい情報が提供され、それを基に闊達な議論がなされ、その中でも少数意見であれど考える価値がありそうであれば取り上げる、という構造が採られている必要があり、それを阻害するような情報は糾されるべきです。
そして、その情報が民間において淘汰されないようであれば、国家が介入する必要性は十分にあり得ると考えます。
なお、以前本ブログにおいて、例の朝日新聞のねつ造記事について、「朝日以外の他のマスコミが、ねつ造情報を糾すどころか便乗したために世論をひん曲げたこと」を挙げて、国内においての表現の自由は、必ずしも民主主義を活性化するための機能を果たしていないのではないか、という疑いを指摘しました。
このことは、(報道機関なども含めた)国民において何事にもとらわれない「自由」いう意味と、国民が決めた施政者を「自由にさせないという」この矛盾を包含した「民主主義」という制度が抱えた複雑性の中では、そう簡単に解決策が見つかることではないでしょう。
マスコミも公益的な立場にありながらひとつの営利企業として存在しています。
営利企業が永続的に利益を得るに当たって、国民の心理やそれに反映された国家運営というのは、予測がつかないことから邪魔な存在とされるでしょう。だから、経済人的な観点からは、国民の支配、すなわち民主主義的な要素を極力排除出来た方が都合がいいわけです。それが、新自由主義の発想の原点なのだそうです。
しかし、新自由主義というのは、民主主義の国家でしか存在し得ない様に思えます。なぜなら、民主主義よりも国家の介入がより少ない国家運営の方法が果たしてあるのか、と考えるからです。
彼らが得意の規制緩和というのも、そもそも存在していた規制を緩和する方向に変更するわけで、極端な話をするとソマリアなどの無政府状態では成立し得ないはずです。
ですから、規制緩和を絶えず主張する新自由主義の人たちは、民主主義国家に生まれながら、その重大な機能である国民の意思とそれを反映する国家運営を妨げる発想を基本にしているとも考えられるはずです。
民主主義社会から、それを破壊しようとする思想が生まれてくるわけですから、いかに複雑で運用しがたい制度かということが言えそうです。
ですから、どこの国にも民主主義が馴染むというわけではありません。
覇権国たるアメリカは、自国の基盤たる「自由と民主主義」という自らの価値観をどこかしこに押しつけてきました。我が国もそのうちのひとつでしょう。
そのことは、我が国のように繁栄を享受した国もあれば、徹底抗戦を生んだり、国家統治さえままならなくなったり、様々な形で悲劇も生んできました。
もちろんアメリカにとっては、プレゼンス的な意味合いもあったのでしょうが、たとえ自らが良いものと信じていたとしてもそれを他が受け入れられるかは解らないはずです。
嫌悪感や向き不向きなど様々な事情を他国若しくは他人は必ず抱えているはずです。
個人間で言えば、あ○うえいやなんたら学会などを本気で素晴らしいものと信じている人から勧誘を受けたとて、迷惑甚だしいのと同じ事でしょう。また、もし受け入れたとしても上手くいくとは限らないわけですし。
つまりは、表現の自由やら民主主義といった、我々にとっては国家の基盤とも言える事柄も他国にとっては傍迷惑以上の危険な代物であったりすることも考えられるわけです。
ですから、今回のこの騒動において、「表現の自由」を持ち出すことは、他国に対する価値観の押しつけに他ならないわけです。
当然、北朝鮮には、そんな保証はされていないでしょうし、理解することも難しいのではないかともいます。
ただ、それに対して、戦争中でもない限り、他国の国家元首を侮辱するということが不埒で許されざる表現であることは、万国共通のことでしょう。
外交にも影響が出るでしょうから国家において介入する余地のある問題ではないかと思うのです。そのことは、自国民を危険にさらさない事でもあるわけですから。
もちろん、北朝鮮を擁護するつもりはなく、我が国の国民を連れ去り、核兵器を向けたままおねだりを繰り返す凶悪な国家(?)としてしか個人的には考えておりません。
ただ、国際的に問題がある、もしそうでなくても他国民において大いに不快感を感じるであろう表現が自国から発せられた場合にも、放置するより方法がない国家というのは如何なものかとも思うわけです。
先ほど、新自由主義的思想を例にとり、民主主義における国家機能を薄弱にすることを挙げましたが、それが進むにつれ国境という概念は薄まることと考えられます。
今回の顛末もアメリカ国民において国家という意識が強ければ、他国の元首に対する侮辱もより敏感になったのではないかと思うのです。
果たして、アメリカ国民は同じケースでオバマ大統領を侮辱された場合、怒ることが出来るのでしょうか。むしろ国民自らが選出した大統領ですから怒って当たり前なのですが・・・
もし、怒らないのであれば、そのことはアメリカの民主主義が食い尽くされて空洞化してしまったという風に思えるのですね。
もっとも、他国のことばっかり言えません。
我が国などは、元首が他国から馬鹿に為れたら、ある方面から喝采さえ起こるのではないかと思います。
それもやはり、国民において、その意思が思うように反映されたと感じておらず、また、経済方面からの強いバイアスがかかっていると感じているからではないでしょうか。
・・・と、ガッツリ書きましたが、今日で仕事納めです。
今日は、17:00からMXテレビにて楽しみにしている番組があるので早めに帰ります。
なお、年始は5日より営業開始です。
皆様、よりお年を
今日も無事終えられそうです。
今年ももうすぐ終わりです。
どうもお疲れ様でした。
なお、仕事納めはもう少し先です。
とうとう今年も終わろうとしています。
明日が仕事納めという方も多いのではないでしょうか。
なお、帰省ラッシュは27日からと言うことだそうで、休み中も交通渋滞が予想され、これはこれで大変そうです。
今年の休みは、カレンダー上だと9連休にもなり得るので、体がなまってしまうかもしれません。まぁそれはそれで正月の醍醐味かもしれません。
連休中はとりたてて、イベントがないのでゆっくりと自宅で過ごすことになりそうです。
そうなると、ちょっと話題なのは暮れのテレビ番組だとおもいます。
とりわけ今年の紅白歌合戦について、出演歌手の選択は賛否両論の様ですが、果たして視聴率はいかほどか・・・
・・・と、その前にそういえば今日はクリスマスでした。
忙しいですが、もう一息!
がんばりましょう。
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