佐倉の検察に咲いてた花
なんて名前なのかな?
暴力をふるったことが一切ないという方はどれくらいおられるのでしょうか。
私には,年の近い兄弟が2人おり兄弟喧嘩が絶えない環境にありました。
また,兄弟同士のスキンシップもカンフーやボクシングの真似事など比較的攻撃的なものでした。
ですので,力の加減というのは他の子供に比べてよく理解していたと思います。
しかし,同級生に同じようなスキンシップの方法をとろうとして,相手を泣かせてしまったり喧嘩になることがありました。
物理的な刺激としてはもちろん手加減は心得ているつもりでしたが,相手にとっては攻撃を受けたという意識的な部分を刺激してしまったのではないかと思います。
この感覚は,人によりあまりにも様々で正直,これを人それぞれに推し量ることは私には難しいと思っています。
人との距離を広めにとる癖はこの頃の体験からきています。
世の中は他者に対する物理的な攻撃を暴力と呼びこれには批判的です。
そして,暴力は法律で禁じられています。では,体罰はどうでしょうか。
日本の学校教育の場においては、学校教育法第11条において、校長および教員は、懲戒として体罰を加えることはできないとされているそうです。
なお、第二次世界大戦前に制定された教育令(1879年〔明治12年〕)にすでに体罰禁止規定がありそれ以降現在に至るまで一貫して法律上は体罰を禁止しているようです。
しかし,年配の方は先生から物理的な指導を受けた話をよくします。このあたりは現在より教育現場の裁量が広かったといえるでしょう。ここで物理的な指導を完全否定してしまうと部分的であれ当時の教育を否定してしまうことになります。物理的な指導を受けたと語る年配の方々が人格形成における重要な時期におかしな教育を受けていたとは私には思えません。
やはり,その背景となる教育事情,社会事情の変遷にも目を向ける必要があるはずです。
で,思うに今の子供達に物理的な指導は馴染まないのでないかというのが私の実感ではあります。意図したことがおそらく伝わらないのではないかと思います。あくまで目的は教育でなくてはいけないので・・・
しかし,それでも絶対否定というのは問題だと思います。絶対否定してしまうと教育の歴史の積み重ねを議論するにあたり否定した部分について議論が成り立たなくなってしまうからです。
ところで,ヨハン・ガルトゥングという学者さんが提唱した「構造的暴力」という概念があるそうです。
ガルトゥングさん曰く,俗に私たちが言う「暴力」を直接的暴力とし,それのない状態を消極的平和とした上で「貧困、飢餓、抑圧、教育機会の喪失などは社会制度や国際システムの所産と考え,こういった状態を『構造が暴力を振るっている』」としています。
そして,暴力について「人間が潜在的に持つ可能性の実現の障害であり、取り除きうるにもかかわらず存続しているもの」としています。
この構造的暴力という概念において「暴力が取り除きうるにもかかわらず存続しているもの」であるならば,取り除くことのできない原因のひとつに「無関心」があると思います。
ちょっと飛びますが,大津のいじめ問題の話題がネット上で多く見受けられますがこれは皆が関心を持っていると言うことです。一生懸命にこの話題を収束させようとしている記者がいるようですがむしろその方が暴力的な気がします。
この「構造的暴力」という概念を前提とした場合,暴力をふるったことが一切ないという方はどれくらいおられるのでしょうか。
かつて遊んだ場所で遠い昔の記憶をたどりつつ,自然の中でビールと音楽を楽しみたい気分です。
明日から月曜日まで休業します。
留守電となりますのでご理解の程よろしくお願い申し上げます。