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死守

2013-08-22

米国と中国は,より安定的な関係構築に向けた取り組みの一環として軍事交流と軍事演習を拡充することで合意したそうです。

 

なんでも,米中関係の強化に向け,軍同士の「持続的かつ実質的な関係」を構築したいと,米ヘーゲル長官と中国の常国防相との間で一致したそうです。

 

ヘーゲル長官は記者会見で「われわれの目標は協力を通じて両国の軍の間に信頼を構築することだ」と指摘し,常国防相もアジア太平洋地域での米国との協力関係について強調したそうです。

しかし,米国が太平洋地域で軍事的な影響力の拡大や同盟国との連携強化を目指していることについて懸念も表明したとのことです。

 

また,海洋権益をめぐる争いについて,「われわれの領土,領有権を守る意志と決意を誰も過小評価するべきではない」と強調したそうであります。

 

これに対してヘーゲル長官は,この問題でどちらの立場にも立たない米政府の方針を繰り返した上で,争いは武力を行使することなく解決されなければならないとの見解を示したそうです。

 

最近のアメリカと中国の関係は蜜月とさえ見えます。たしか,アメリカは中国に対してTPPにも誘っていたそうです。しかも,結局,中国は乗らないようですけど,それまで交渉内容を教えていたという話もあります。

 

まぁ,世界の警察という立場から身を引きたいアメリカと,自国に向けられているアメリカの軍備の矛先を逸らしたい中国とで,折り合いをつける話をするとなると,当然に尖閣諸島の領有権の問題が話されるでしょう。

 

で,尖閣の問題について話しているという仮定で意訳すると,中国「お宅の同盟国との間で領有権争いしてるけど,うちは譲る気一切ないよ」と言うのに対して,米「まぁまぁ,そこはどちらに味方するつもりも無いから,せめて穏便にやってよ」という様に思えます。

 

要は,中国のけん制に対してアメリカは,自国の立場を言及していると言えましょう。

 

そうであれば,中国にとって大事なのは覇権,アメリカにとって大事なのは自国の立ち位置を崩さないことです。すなわち,尖閣について日中間でひとたび争いが過熱すれば,安倍首相の歴史認識見直しの時のように,アメリカは日本に対してけん制してくるでしょう。

 

それどころか,米中の話し合いで尖閣をはじめ,南シナ海や東シナ海での海洋権益を決めてしまうかもしれません。

 

なぜ,そこに日本が割り込めないかというと,アメリカとの間に利害の一致が無いからでしょう。

 

そういえば,中国はバブルがはじけて大変な経済状況の模様ですが,経済破綻といった様な近代的な滅亡の概念では,中国(人)は実質的に滅亡しないと思います。なんせ,逞しいですから。

 

それにしても,なんで中国はなぜそこまでして尖閣諸島を欲しがるのでしょうか。

 

理由のひとつに,日本海の尖閣・竹島を始めとする領土問題は日本海側のメタンハイドレートが目的だという話があります。

 

なんでも,尖閣諸島近海の海底にあるとされている天然ガスなどを含めると日本は世界有数のエネルギー資源大国になれる可能性があるという意見もあるそうです。

 

そうであれば,原発に依存する日本のエネルギー事情に懸念を示す人々(イワユル『脱原発』の人たち)から,尖閣を守るために大いに声が上がるはずです。

 

ですが,そういった声は少なく,脱原発をスローガンに再生可能エネルギーに飛びつきました。なぜでしょうか。

 

そりゃ,メタンハイドレートを実用できるまで時間がかかりますが,どちらにしろ使用済み核燃料の処理の問題があることから,原発への依存を解消するには長い時間をかけて腰をすえて行わなければなりません。

 

ところが,一方で,原発が稼動しなくなって日本がエネルギー供給不足状態になることにより喜ぶ人たちがいます。昨日の再生可能エネルギー発電にかかわる業者です。

 

いままで,東電などの電力会社が発電と送電の両方を担っていましたが,昨日のとおり,菅直人が発電業務の一部を電力会社から取り上げて民間に明け渡した訳です。

そして,そこにお金の流れが出来ます。(しかも,消費者の支出)その甘い蜜に虫がわいているということです。

 

このお金の流れが止まらない限り,おそらく真剣な尖閣の領有権主張はされず,メタンハイドレート実用の開発も行われることはないでしょう。

だって,甘い汁を吸っている人がいるんですから。

原発について批判していた人たちが,原発にまつわる事と同じ事か,それよりもっと汚いことに手を染めているということは昨日ブログの通りです。

 

つまり,本来なら豊かなエネルギーを享有できる日本人の明るい未来は,一部の意地汚い人たちに踏み潰されているということです。

 

将来を担う子供達,もっと後の世代のためにも,尖閣は死守しなければなりません。

そして,再生可能エネルギーの固定買取制度は即刻廃止すべきです。

ショックドクトリン

2013-08-21
写真 (16).JPG

「再エネ発電賦課金等」という項目があります。

 

これは,管内閣の退陣直前に,自然エネルギーによって発電した電気を電力会社が固定価格で買い取る制度を定める「電気事業者による再生可能エネルギー電気の調達に関する特別措置法」が成立したためです。

 

つまり,私も含め電気を利用する消費者すべてに再生可能エネルギー発電の買取料金が賦課され,そのお金が再生可能エネルギー発電業者に支払われるということになります。

 

そして,この制度について多くの発電事業者が申請を出しているとのことです。

なかには中国をはじめ外国企業までが手を上げているとのことで,それはすなわち,私達が支払う電気料金の一部が,領土問題で揉めている国の一企業に支払われることになるわけです。

ちなみに,多くの中国企業は企業内に共産党末端組織が設立されているそうです。

 

また,現在における発電業者の発電稼働済みの割合は1割未満で計画倒れに終わる恐れもあるとのことです。

 

そして,肝心の買取価格ですが,2012年度における太陽光発電の買い取り価格は,1キロワット時あたり税込みで42円でした。(現在は38円です)。

 

当時,専門家の間には30円台後半が適正との声もあったようですが,太陽光発電協会や事業参入を表明していたソフトバンクの孫正義社長の要望に沿った高めの価格で調達価格等算定委員会は決定42円と決定しました。 

私達消費者が否応無しに支払うことになる電気料金を買い取らせる方の意見により決定しているのです。

 

なお,この価格はドイツなど諸外国の2倍以上とのことです。(ドイツでは13.5ユーロセント(約14.4円)(2012年4月時点))

 

そして,実質的な価格決定権を持つ調達価格等算定委員会の委員長を務められていた京大教授の植田和弘氏が「公益財団法人 自然エネルギー財団(JREF)」の理事に就任された模様です。

組織の概要はこちら↓

http://jref.or.jp/about/

 

原発について既得権益だとか癒着だとか批判しておきながら,それにどっぷりとつかる原発反対派たち。

 

そして,プロパガンダの役割を担う音楽家達。

もともと言っていることがちょっとアレだと思っていましたが,ここまで狡猾だったとは。。。。

 

正直とてもがっかりしました。

 

NHK大河ドラマを毎週観ていますが,正直オープニングテーマが流れるたびに嫌な気持ちになるでしょう。

 

そして,ここまで露骨な癒着を一切報道しないマスコミ(ゴミ?)の姿勢には相変わらず呆れさせられます。

 

この件で,安易に反原発を叫ぶ人間がいかに信用できないか,よ〜〜〜〜〜く分かりました!!!

 

電力の安定供給が出来なくなった結果,中小企業などをはじめ,自分も含む多くの人々が苦境に立たされることが想像できないのでしょうか。

電気は貯蓄できません。ですから,夜に発電できない太陽光や風がないとき発電できない風力発電では,原発の代わりにはなりません。そして,火力発電も液化天然ガスの輸入に頼らなければならない為,貿易赤字を生みかねないばかりか,イランがホムルズ海峡封鎖を宣言したときのような事態も起こりえます。

 

そういう事情だからこそ,原発廃止の方向に進むにしても,原発を再稼動してから時間をかけて実行しないと,この様に危機に便乗してお金の流れを自分の方へ引き寄せようとする企業とそれに群がる人間が現れ,我々を更なる苦境に追い込みます。

 

なお,このあたりの情報は,三橋貴明先生のオフィシャルブログ「新世紀のビッグブラザーへ」の完全な受け売りなのですが,あまりに腹立たしかったので書きました。

和ぎ

2013-08-20

夕凪の「なぎ」は,和むの「和ぎ」が語源のようです。

 

ですので,凪とは風がおさまった状態のことをあらわします。

 

ですが,海の近くならともかくこの季節は夕方になっても風がおさまるとまだ結構暑く感じます。

 

あまり和みませんね。

 

風情のある言葉のイメージどおりのシチュエーションにはなかなかいかないようです。

 

そんなことより,そろそろ雨が恋しくなってきました。

幸せの数値

2013-08-19

ここ最近凄まじい暑さが続いています。

 

比較的暑さには強いと自負しているワタクシでさえ,外を歩いているとだんだんと生気を失っていく様な感覚になります。

 

水分をこまめにとる様にして熱中症には十分お気をつけください。

 

さて,夏の蒸し暑さの程度を数値で表す指標として不快指数という指数があります。

 

「不快」という感覚を表す言葉で名付けられた指数ですが,その時々の暑さと湿度を対象に割り出す数値で,実際に個人がどれくらい機嫌が悪いかを表すことはできません。

 

では,実際に感覚を数量的に表すことができるかというと,あまりよく分かりませんが,脳内物質の分泌などを計測できれば,それに一定基準の計算方法を定めて出来そうな気はします。私は存じませんが実際にあるのかもしれません。

 

そして,それを参考に例えば,実際に誰が一番幸せかを計ることもできるかもしれません。

 

もっとも,それを知ったからどうなの?という気もします。おそらく,世帯別や個人ごとに数値が出せるようになったら,比較するための指標となるような気がします。

 

そういえば,国別では国民総幸福量(GNH)という数値を設置して国政に活用している国がありました。ちょっと前に国王が来日されたことで記憶に新しいと思いますが,ブータンですね。

もちろん,脳内物質など調べている訳では無いでしょうけど,国勢調査のような感じで調査したのでしょう。

国民総幸福量のことは一時的に話題となった気がしますが,今ではすっかり忘れられているようです。

 

日本では,GDP(国内総生産)の方が,国民の幸せに直結するような指数として圧倒的に馴染んでいしますが,感覚としてお分かりかと思いますが,GDPには誰かの不幸によりマイナスとなることがありませんので,実際には国民の幸せの条件の一つかもしれませんが,幸せそのものではないわけです。

 

誰かが,より多く生産する一方で,そのことにより生活を圧迫される人もいるはずなのです。たとえば,小規模で経営しているこだわりの美味しいラーメン屋さんが,近くにできたチェーン店の影響により営業できなくなってしまうことは,非常に残念なことです。

 

このように,一見便利となったり,安く買い物が出来るようになったということにより,実際に住民が幸せを感じているのか,という変遷を数値で表すことについては意義がある様な気がします。なぜなら,豊かな経済の基盤に暮らしている日本国民があまり幸せを感じていないということの理由として,便利さを求めすぎるあまり幸せ感と便利さを混同して考えてしまっている気がします。

 

ですので,なぜ幸せを感じることが出来ないのか分からず,ひたすら使いやすいサービスに飛びつき,利用に不備があれば責め立てます。そのためにサービス業で働いている向こう側の人が不幸になっており,それは,鏡に映し出された自分の姿ということになるかもしれません。

 

ですので,まずそういう負の循環が起きている分析として,地域ごとに幸せ感の数値化を図り,時間別に分析してみることにより市民が幸せを感じることが出来ない理由を探れるように思います。

 

バランスシートや収益の数値には表れない幸福を数値化してひとつの指標とすることは,国や地方の政策について,利益追従に行き過ぎない為のひとつの規範として機能するのではないかと思います。だって,政治の第一の目的は国民を幸せにすることですから。

Uターン

2013-08-16

Uターンラッシュがピークをむかえている模様です。

 

車の運手には,十分お気をつけください。

追悼

2013-08-15

本日,安倍首相は総裁名で玉串料を奉納したものの靖国の参拝を見送ったようです。

 

どっかの記事では,中韓に配慮などと書かれていますが,どう考えても日本と中韓との関係を荒立てることについて難色を示しているアメリカへの配慮でしょう。

 

そもそも,尖閣や竹島の領有権について争いがある国同士がそもそも仲良くできるはずが無く,また,完全に外交として戦争責任などを主張してくる両国の為に,自国のために戦った戦没者への追悼を配慮する必要など無いように思えます。

しかし,アメリカには逆らえないということのようです。

 

物理的な力の関係というのは,外交などそれ以外の事についてもその関係に大きな影響を与えるようです。それは,まるでジャイアンとのびたの関係を見るようです。

 

この関係についてどう考えるかは,国民自らが国家を構成し創り上げていくものか,それとも国家が自分のために働いてくれるものか,という認識で大きく変わると思います。

 

たとえば,古くからの日本の為政者や民衆によって国家が創り上げられて,その努力の結晶の結果が世界随一の経済大国となって,現在その恩恵を我々は享受しているという風に考えるとします。

 

そうであると,現在に生きる日本国民においても,未来の日本国民のために国を創り上げていく意識というのは絶えず持たなければならないと考えなければならず,敗戦以来の武力を盾に他国に付け込まれている現状をなんとかすべきと考えるでしょう。現実問題として,TPPなどで貿易や行政関係にまで介入されそうな事態となっています。

 

ですが,そのあたりを全く棚において,国家は当然に自分のためにあると考え,その考えを多くの人が共有することになると,“コンクリートから人へ”というキャッチコピーが美しく思えてしまうのでしょう。そして,民主党政権が誕生しました。

 

要は,“なにを要求してもよさそうだ”という雰囲気を感じた結果なのかもしれません。

 

しかし,もし明治維新後にこの様な意識を日本国民の誰もが持っていたとしたら,果たして日米修好通商条約などの不平等条約を撤回させることが出来たでしょうか。

 

当時,アジアの国々が西欧列強の植民地とされる中で,日本(とタイ)だけが植民地とされませんでした。もし植民地とされたのであれば,国民の所得は搾取され,支配のために言語や生活慣習をも変えられ,また身分制度を敷かれて国民同士の隔離政策を敷かれることも予想されます。それによって文化の承継はできず,経済活動も制限されることでしょう。

ですので,西欧列強と対等の関係を保つことができたことが,現在においても国家運営や文化,はたまた経済として引き継がれていることは明らかです。つまり,国民が一丸となって国家意識を持ち列強に対抗したことが,少なからず現在における我々の生活の基盤となっているはずです。

 

 

そのように,国民それぞれが国家の一員との意識の基に創り上げた国家ですが,現在の様な国家と国民を分離させて,まるで国家は国民の敵とさえ考えるような意識では,国を守るどころかそれぞれの好き勝手な要求によって自国を滅ぼしてしまいかねません。

 

というか,例えばTPPに賛成する人が60%を超えるという報道がされるということは,最初から国内需要を守り立てる意識というのが無いことの表れで,実際に国家と国民を分離して考えている様な気がします。

 

このような考えを太平洋戦争時においても国民が持っていたと考えると,政府が国民を強制的に巻き込んで戦争をした,といった感じになりそうです。そして,「A級うんぬん」ということになるでしょう。

 

ですが,国民ひとりひとりが国家を構成していたと考えると,たとえ嫌々であっただろうと,国家に命を捧げたという意識は現在においても承継されて国家が構成されていると考えるべきで,その魂に敬意を感じないということはヒューマニズム的な視点としても問題だと思います。

 

このように,国家観を通してヒューマニズム的な視点から歴史問題に目を向ければ,他国から何を言われようと国家,つまりはご先祖に対して敬意を表するのは当然と考えるべきです。

 

日本国民が他国と比べて豊かな生活を享受できているという事実や,今ここにいる自分や持っている物,共有している文化,経済基盤などすべて自分で作り上げたわけではないことに目を向けば,日本という恵まれた国の基盤において現在の生活を営むことができているということを感じることが出来るはずです。

 

そうであれば,何に感謝すべきか,そして自らも感謝されるべき存在であろうと思うでしょうし,その意識がさらなる国家発展の礎となるはずです。

 

その強い意識があれば,どこの国に何を言われ様と戦争で亡くなられた方々に追悼の意を捧げることは当然であるはずです。これは,タカとかハトとか関係なく道理だと思います。

 

そして,戦没者の方々に心から追悼の意を捧げます.

平等と感情

2013-08-09

先日,嫡出子(結婚によって生まれた子)と,非嫡出子(婚姻外の子,いわゆる私生児)との相続分に差を設けた民法の規定が,憲法の平等原則に反しないか,を争う裁判のニュースを母親と一緒に見ていたときでした。

 

「誰の子供かも分からない子供に家の財産を持っていかれるなどと冗談じゃない!!」と,大変ご立腹の様子でした。現在の差を設ける規定でさえ不満な様子です。

 

しかし,妻として家庭に尽くすことにより,家庭における財産を増やし,また,守ることに寄与してきたわけですから,その財産の一部を知らない誰かが享受することについて腹が立つのはもっともだと思います。幸いうちにそういった心配は必要無いようですが・・・

 

もっとも,平等という言葉を杓子定規に解すると,同じ子供であるにもかかわらず,婚姻外であるという理由で相続分に差を設けているということについては,平等原則に抵触しているようにも確かに見えます。

 

ですが,例えば,もし私の家系で非嫡出子がいたとして相続分を請求されたときに,平等という概念について不平不満を極力抑えるためのものと考えると,母親の言い分の方が真っ当なように思えます。

 

要は,「平等」という言葉が,視点や立場,主張する物事によって変わる非常に多面的な概念だということだと思います。

 

そして,「平等」を追求すればするほど,旧来からの慣習を変えてしまうため,それによって人の感情を刺激するということもあるでしょう。ですが,それを権威によって決めるわけですから,その感情は抑えつけられることになります。

 

ですので,「平等」の定義はある程度一律に定まっていなくてはならないはずですが,我が日本国憲法にはどこにも「平等」の定義を定めていません。

 

そうなると,その定義は立法まかせで訴求があれば司法判断ということになります。

 

ですが,『平等』という,見る方向によって変わる玉虫色の言葉に判例で定義をつけたとして,果たして,その判例について多くの賛同が得られて,その後における人々の規範として成り立つのかというと疑問に思います。

 

多くの人がその概念を理解して,かつ,規範として成り立たなければ,ただ単にわがままを言うために使える便利な言葉にしか成り得ません。

 

概念がはっきりしない言葉を条文に載せていても秩序を乱すだけのように思えます。

no first use of nuclear weapons

2013-08-08

核の廃絶を願う人々の努力の甲斐あって,核兵器を保有する各国が核兵器を廃棄することになったとしましょう。

 

ところが,すべての国が廃棄した後で,実は一国だけ廃棄していない国があったとしたら,その国は世界の覇権を掌握できることと思います。

 

つまりは,一度,核保有してしまった国同士のパワーバランスの均衡が出来てしまったら,その国の支配者のみならず国民や国益などを守るために,早々と核兵器を廃棄することはできない,ということは核兵器を保有していない我が国においても想像に難くないと思います。

 

また,北朝鮮に対するアメリカの対応を見ても分かるように,核兵器を保有していることが外交においても大きく影響していることは間違いないでしょうから,安易にに核兵器を自らの意思で廃棄するというのは,現実的には難しい事情もあるように思えます。

 

一方で,核兵器がもたらした均衡として,米ソの冷戦時代を例に挙げる方もおられます。もし,アメリカとソ連が核兵器を保持していなければ,太平洋戦争のような大惨事となっていたのではないか,という説です。

 

このことを,相互確証破壊(Mutual Assured Destruction, 略してMADなんとも悪趣味なしゃれですが)と言うそうで,すなわち,対立する二国間において,先に核兵器を使用した場合の報復を恐れることから,核兵器使用について相互に抑止が起こるという考え方です。

 

そして,日本においては,自らが核兵器を持たずとも安全保障条約を締結している米国が核兵器を保有しているので,その核兵器によって核抑止力が得られていると言われていました。いわゆる,「核の傘」です。

 

ですが,もし,現実に日本が核兵器による攻撃を受けた場合,アメリカが自国民を危険に晒してまで,同盟国の報復としてソ連を核攻撃するのかというと,疑問が生じますが,少なくともソ連に“するかもしれない”という憶測を持たせるだけでも抑止として機能したことには違いないと思います。

 

 そして,結果的に1991年のソ連崩壊・東欧諸国自由化によって冷戦の終結は終結されたものの,現在では北朝鮮が核兵器をチラつかせて瀬戸際外交を行っており,核の脅威はまだおさまってはいません。

 

しかし,日本における北朝鮮からの核兵器の脅威について,冷戦時と違うことといえば,北朝鮮は旧ソ連と比べてもかなり追い詰められた状態であり,はたして理性的な対応が期待できるのか,ということや,下手をしたら軍部の暴発などが起きた場合を想定すると,核の傘による抑止は効果を失うはずです。

 

ましてや,冷戦当時におけるアメリカの日本への対応は,共産圏への警戒もあって,1ドル=360円の固定相場によって高度経済成長の実現に寄与するなど,大変親切だったのですが,ブレトンウッズ体制終了後は,プラザ合意で円高ドル安誘導を強いられ,そして,この度は貿易における隷属を強いてきています。

 

防衛の問題が外交にも関連するのであれば,外国の軍隊が駐留する日本は果たして完全な独立国といえるのかという疑問が沸きます。

 

ですが,故中川昭一氏が,日本に核兵器を備えて自主防衛するべきであるととなえた時のマスコミのバッシングは熾烈なものがありました。結局,この事について反対派との議論を果たさぬまま氏は亡くなられてしまいましたが,相当なご覚悟での発言だったと思われます。

 

とはいえ,恐ろしい兵器ですし廃絶すことを理想とすべきだとは思いますが,現実問題として唯一の被爆国である我が国の核廃絶の願いは,68年間経った現在においていったいどれだけの国の何人に届いているのか,と考えてしまいます。

 

現在においても,中川氏の件を見る限りではとても議論の土壌を作れたとは言えそうにありません。

そう考えると,話題の麻生氏の発言ではありませんが,たいした考えもないのにヒステリックに喚いて議論に応じない人たちの存在は,日本にとって核兵器と同じぐらい恐ろしい存在ではないかと思ってしまう今日この頃です。

オプティミスト

2013-08-07

ポリアンナ症候群と呼ばれる心的疾患があるそうです。

具体的な症状として,

「直面した問題の中に含まれる(微細な)良い部分だけを見て自己満足し、問題の解決にいたらないこと」

「常に現状より悪い状況を想定して、そうなっていないことに満足し、上を見ようとしないこと」

 

なんだそうです。

 

現実逃避の一種で,楽天主義の負の側面を表すもの,とのことです。

 

初めて聞いて一瞬,ドキッとしてしまいました。

 

まぁ,仕事自体が問題を持ち込まれる種類のものなので,最良の解決を目指さないとそもそも仕事が成り立ちませんが,それ以外の私生活では色々と思うところがあります。

 

もっとも,あまりに長い不況に苛まれたため,日本中にこのポリアンナ症候群のような心理が蔓延しているようにも思えます。

 

いわゆるポジティブシンキングの一環として,「まぁ,あの人たちよりはましだろう」とか「最悪の事態ではないのでこれで良しとしよう」といった考え方も肯定される向きとなっているようです。

 

ですが,あまりにもどうにもならないことが多すぎて,そう考えざるを得ないという気持ちは私も同じでとてもよく理解できます。

 

もっとも,これらの考え方それ自体が悪いというわけではなく,問題から目を背けて現実から逃避するための言い訳となっていることが問題なのでしょう。

 

つまり,問題や現状から目を背けているということは,真剣に考えることも放棄してしまっている訳で,そこに“グローバリズム”のような,「具体的な事は教えないけど,まぁいいもんだよ」的な言葉を人参としてぶら下げられしまうと飛びついてしまうのかもしれません。

 

意味も分からないし,どうなるかも分からないような(というか悪くなるという説明の方が理解しやすい)ことに流されている背景には,日本中に現実逃避が蔓延していると考えるとしっくりと来るように思えます。

 

しかし,そうですると,どうすればいいのかも分からない現状においては,楽観することは許されず悲観するしかないのか,という風にも思えてしまいます。

 

それについて,アランコーナーという方がこんなことを言っています。

 

「悲観主義は気分のものであり、楽観主義は意志のものである。およそ成り行きに任せる人間は気分が滅入りがちなものだ。」

 

とのことです。

 

すなわち,解決の糸口を絶えず探し続ける意思を持ち続けていれば,楽観的でいられるということの様なのです。

 

そういうことであれば,逆に「グローバルは世界の流れ」などというのは,現実逃避しているペシミストの成り行きに任せの台詞の様に思えます。。

 

グローバルについては例えなので,まぁいいとしても,現実から目を背けずに楽観主義でいられるようにするためには,そのための意思が必要であるという事の様です。

 

だから,たとえ一人の力が微力であったとしても問題について考えることは大事だと思うのです。

絶対悪

2013-08-06

「わるいこと。人道・法律などに反すること。不道徳・反道徳的なこと。」を悪と言うそうです。

 

そして,「他に比較するものや対立するものがないこと。また、そのさま。」のことを絶対というそうです。

 

今日,広島平和宣言において絶対悪と言われた核兵器(原爆)は,ひとりでに生まれ育ったわけではなく人の手によって造られたわけです。

 

 

なお,急死した先代の大統領ルーズベルトとチャーチル英国首相との間で既に日本への原爆投下が合意されていたといわれています。

 

しかし,日本への原爆投下について,アメリカ国内,特に後に大統領となるアイゼンハワー将軍を始め共和党関係者から激しい抗議があったといいます。

 

ですが,ルーズベルトの意思を継いだトルーマン大統領は,共和党に側に伏せたまま原爆投下の命令を下しました。

 

そして,68年前の8月6日に広島に原爆が投下されました。

 

 

はたして,平和を希求するにあたって何を「絶対悪」とすべきでしょうか。

核兵器そのものなのか,それとも開戦から終戦にいたるまでのすべての経緯についてか,核兵器を研究して製造して投下を命令して実行したすべての関係者についてか・・・

 

 

なお,中国の毛沢東は,日本への原爆投下について衝撃を受け,以来,中国において原爆を保有することを強く望んだといわれています。

 

そして,ご存知の通り,現在では多くの国々で核保有が行われており,世界に存在する核兵器で地球を 50回滅亡させることが出来ると言われています。

 

どうも,平和は願っているだけでは叶わないような気がします。

 

 

原爆によって亡くなられた方々に追悼の意を捧げます。

善良な一般市民

2013-08-05

 東北の被災3県では,建設業の新規求人数が増加の一途をたどっているそうです。地元土木建築業界では,資材とともに労働力不足が問題視されているとのことです。

 

土木建築関係で働かれている依頼者さんからも,東北では人手が足りていない,との話を聞きました。

 

バブル時代は,隆盛を極めた土建業ですが,それ以降は衰退の一途をたどっています。そのため,会社が倒産し,人材が失われ,東日本大震災のような,いざというときに出動できる程の供給能力が,国内の土木建築業界には失われてしまったようです。

 

衰退のきっかけといわれているのが,平成5年のゼネコン汚職におけるマスコミのバッシングです。確かに,ゼネコン絡みの政財癒着の大掛かりな事件でした。

この事件を皮切りに,公共事業は指名競争入札(発注者側が指名した者同士で競争)から一般競争入札(希望者すべてを入札に参加させる)へ変わりました。

なお,この制度変更の裏側に外国からの圧力があったという笑えない話しがあるようです。(外国会社が公共事業に入札できるようにするのが目的でしょう。)

 

また,平成9年の橋本龍太郎政権による緊縮財政以降,公共事業は減少の一途をたどりました。それによって,多くの会社が倒産したことと思われます。中には自殺された社長さんもおられるでしょう。

 

この有様を人事のように可哀想と思っていたとしても,かつて,マスコミの煽りに乗っかって土建業界を激しくバッシングしたのは,我々,イワユル善良な市民です。

 

そして,バッシングを受けた土建業界の人々も,立場を同じくした善良な市民であることに目を向けることはありませんでした。

 

そして,インフラが老朽化して,かつ,首都直下地震や南海トラフ大地震が予想される中,公共事業費を費やそうものなら「土建国家復活か!」などど,バッシングの手を緩めようとしません。

 

国民の財産や生命を守るために公共事業が必要という主張に対して,反論として全く成立していない意味不明な言い分にもかかわらず,攻撃的で,かつ影響力が大きいのが恐ろしいところです。

 

 

しかも,かつてのバッシングが原因で土建企業が減った結果,困っている方々がおられるにも関わらずに根拠のない理由で人々を煽るのは,もはやふざけているとしか思えません。

 

ですが,金曜日書いたとおり憲法21条の改正もしくは表現の自由に関する運用を変えるか,なにかしら規範となる強い権威がない限りマスコミの姿勢は変わらないと思うので,その都度批判するよりないかもしれません。それこそ,マスコミだけはTPPの様な外資参入を見込んだ自由競争に晒した方がいいと本気で思います。

 

マスコミはさておき,煽られた善良な一般市民が土建業界をかなり苛烈にバッシングしたことは間違いありません。

 

それまでにも,マスコミの煽りに乗じて,たまたま読めなかった漢字のことや,カップラーメンの値段を間違えたなどという,実にくだらないことをあげつらねて批判をしたりしていました。

 

また,難病に罹った一国の総理大臣に対して「お腹が痛くて首相やめた。」などと揶揄したこともあったはずです。

 

そして,この度『ナチス』この一言に過敏反応をして騒いでいるようです。

 

発言の前後を把握した上では「大騒ぎしないで粛々と憲法議論をできないものか」といった趣旨にしか読み取れませんが,例に出したのが『ナチス』といったことだけで危険とのことです。

 

なお,ナチスはワイマール憲法に則り民主的に選挙で選ばれて議会で多数派となりました。そして,議会で多数派となったナチスは全権委任法という法律でワイマール憲法を形骸化させてしまったという経緯があり(これをナチス憲法といったのでしょう),民主主義を考えるにあたり非常に重要な出来事ではないかと思います。

 

そういえば,身体的な事情やたった一言を取り上げて執拗に責め立てる行為を善良な一般市民は「いじめ」と呼んでいませんでしたか。

 

一国の首相や大臣に対してその呼び方は失礼だと思いますが,言いたいのはくだらないことで執拗に責め立てる善良な一般市民の心理状態についてです。

 

学校のクラスなどでこのようなことがあった場合,一部では「ちょっとやりすぎじゃない?」的な違和感を訴えるはずです。そして,そこに自浄作用が起こるのが健全な組織といえましょう。

 

ところが,他の人の顔色を窺って,理由のいかんに関わらずそれに従うべきであると考えるのは,ハンナ・アーレントの言う全体主義的な考えに相違ありません。

 

しかし,その違和感に対して組織全体の人が目を瞑り,何の解決も施されない状態というのは,組織の秩序が崩壊しているといえるでしょう。

 

ここのところ,度々持ち上がるいじめ問題について「いじめられる側にも原因がある」といったコメントを出す(しかも大の大人)が,未だに散見されます。この人たちが問題の本質を全く理解していないのは言うまでもありません。

 

もちろん,第一の問題としては,受けてしまった人とその周りの人々の(身体若しくは)心に深い傷を負わせることですが,もうひとつあります。

 

それは,いじめにより,(例えばクラスという)ひとつの組織の秩序が崩壊して,違和感や嫌悪感があったにもかかわらずその状態を容認した多くの人間を,教育機関がそのまま社会に送り出すことです。

 

組織の中で理性が働けば,問題の本質を理解しようとするであろうから,抑止力はおのずと働くはずです。

にもかかわらず,歯止めが利かない状態というのは,個々の心理の中に何らかの歪んだ意図が含まれているはずです。

 

そして,その心理が不自然なものとも考えずに,多くの人が大人として社会に出た結果,土建業界をバッシングして縮小させて,いざ大きな地震が起きたり予想されたときに結局,自分達が困ることになるのです。

 

いじめ問題は後を絶ちませんが,その状態を許容した子供達が次々に社会に出て行くことでしょう。そして,日本国憲法に自由と平和と平等を保障された主権者として,無抵抗だと分かれば一国の大臣にさえ執拗なまでにバッシングを続けます。

 

麻生大臣は,民主主義を否定するつもりはないと言っておられましたが,こう考えると否定もしたくなるくらい甚だ怪しいものとも思えます。

阿報道

2013-08-02

我々日本国民が,憲法により自由を保障されていることは学生時代に勉強したと思います。

 

逆に憲法により課されている義務といえば,これも学生時代におなじみの三大義務の勤労,納税,教育でございます。

 

では,三大義務さえ果たせば,ほかに制約がないかというとそうではなくて,様々な法律によって制約がされています。

 

その法律は,我々が選挙(多数決に近い形)で決めた国会議員が国会という立法機関において定めたものですから,間接的ではありますが我々の制約は我々自身が決めているという建前が民主主義となります。

 

この自由(自分の意思以外の何者にも拘束されない)と民主主義(多数の意見により拘束される)というのは一見矛盾しており,これらを達成するには何かしら線引きのような物が必要となるはずです。

要は,すべての人が好き勝手にやっていてはエライ事になってしまうでしょうし,多数派の意見に拘束されるとすると窮屈だということです。

 

そして,この線引きを法律によってはできないことは前述のことから当然です。

 

そこで,最高法規である憲法が最高権威としてその線引きの役割を果たすべきなのですが,国会などの権力に対しては細かく制約を定めているのに対して,国民に対する制約はほとんどありません。

たまに『公共の福祉』という言葉によって制約されていますが,これについての通説的な解釈は,人権同士の衝突の場合に限られているため,国家権力が国民に制約を課すことは他の国民を尊重する場合に限られるようです。

 

なお,憲法による国家権力(とりわけ立法府)への制約は,我々が選挙で選んだ結果についても制約されていることになります。

 

そして,表現についても憲法により我々国民に自由が保障されています。

 

これについては,インターネットの普及によって個人にとっても身近に自由が感じられるようになりました。逆に言えば,表現について一定の規制を受けることが多くなったともいえます。

 

ですが,それほど声の大きくない個人においては,よほどの悪意がない限り,他の人に迷惑が掛かる表現というのはあまりないような気がします。

 

しかし,声の大きいマスメディアも表現の自由の保障を受けます。

そして,その保障を後ろ盾に堂々とマスコミが報道している内容について違和感をもたれている方は,ネットを見る限り少なくないはずです。

 

ですが,戦時中に報道機関が戦争のプロパガンダに利用された沿革により,表現の自由がマスコミに保障されていることもあって,マスコミに対する法規制は非常に掛けにくいと思います。

ましてや,マスコミの報道に問題意識を持っている議員がいたとしたら,マスコミがその議院に対して,3000円のカツカレーだろうが,カップラーメンの値段だろうが,なんでもいいからバッシングでもしておけば選挙においては不利になってしまうでしょうし,手の付けにくいところでもあると思います。

 

また,たちの悪いことに,イデオロギーを主張してバリバリにバイアスの掛かった報道をする機関まである始末です。

報道するべきこととしないことをイデオロギーによって判断してしまっては,伝わる内容も傾いたものになることは必至です。

 

現在,ネットが普及しているため情報の裏取りができるようになりましたが,マスコミがそのネットを執拗に攻撃していることはご存知の通りだと思います。

 

そのやりたい放題っぷりを日々助長させていることが,ここ最近如実に感じられます。

つい先日も,あたかも来年度予算について共事業などを10%削減などという根も葉もない記事が出回ったようです。

 

また,麻生氏の例の発言についても,発言の本質を見極めようとせず今日も朝から大騒ぎの模様でした。

 

この有様は,メディアや大手企業なども我々と同じように憲法によって自由を保障されている反面,これらが一般の国民と違うところは,民主主義という概ね多数決の結果を自分の都合の良いように扇動でき,その結果自らに課される規制を退けることが出来るという点です。

 

この点を改善するには,今よりも強い規範意識をメディアや大手企業なども含めたすべての国民に植え付けることが必要だと考えます。

それには,アメリカからのもらい物である現憲法ではあまりに権威として頼りなさ過ぎると,ここ最近のマスコミや大企業のやりたい放題を見てつくづく思います。

ワンフレーズ

2013-08-01

我々は,日々情報を収集してそれを誰かに伝えるということを行っています。

 

これは,別に難しいことではなく,新聞やテレビなどの話題を友達とするくらいのことでもあてはまります。

 

そう考えると,毎日かなりの量の情報を右から左へと流しているように思えます。

 

そして,情報伝達は当然ながら言葉を使うことが圧倒的に多いと思います。

 

ですので,流れていく言葉の一言一句を把握するのは難しく,比較的印象に残りやすい言葉から大まかな意味を捉えることが多いと思います。

 

だからこそ,マイナスイメージがあると考えられる言葉を新しい言葉に変えてそれまでのイメージを払拭するという働きが見られるのだと思います。

たとえば,「ぼけ」から「痴呆症」になり現在「認知症」と名称が変わりそれ以前の名称を口にすると下手をすれば,“差別”といわれることさえあるかもしれません。

 

ですが,新しい言葉が出来る以前は誰もが使う名称しか使いようがなかったでしょうから,これだと「ぼけ」といっていた当時の人たちは全員差別をしていたことになってしまう訳で妥当だとは思えません。

 

確かに,一度言葉にイメージが付いてしまうと,情報の伝達の中でそのイメージに捉われすぎてしまう部分もあると思いますが,実際にメッセージ全体の意味を丁寧に読み解くと,それほど悪意が感じらないことも多くあります。(極端な例ですが毒蝮三太夫さんの芸風を想像していただけたら)

 

つまり,たった一つの言葉によりメッセージ全体がその言葉のイメージに染められてしまうということは,いかに情報を簡略化して捉えようとしているかということだと思います。

 

このことは,現在の日本において重要なことについてまともな議論がなされないひとつの原因だと思っています。

 

たとえば,日本の平和を願う気持ちは,日本に住んでいる日本人であれば当然持っていると思います。

 ですから,今後とも平和を願うのであれば,まず,平和を脅かす事象を極力排除しなければなりません。

 

そして,平和を脅かす事象のひとつに戦争があります。

あらゆる地域で起こっている戦争について日本だけは起こらないと考えるべきではなく,発生の可能性を考える必要があります。

 

もちろん,アフリカ諸国の内戦が植民地支配によるものと考えれば,抵抗せずに支配されれば戦争が起こらないなどと考えるべきではありません。日本人同士で戦争することにもなりかねないのです。

 

ですので,平和を維持するためにも戦争を研究することは必要なはずです。

 

ですが,戦争という言葉には強いネガティブイメージが植えつけられています。

だから,“戦争”と言えば,次に来る言葉は常に“反対”と言わなければならず,その根拠として持ち出されるのが“憲法9条”というお決まりパターンが広く浸透しているように思います。

 

そうなると,起こりえる戦争を想定して憲法9条を変える必要があると考える改憲派と,憲法9条を守ることを目的とした護憲派では論点が違ってきてしまいます。

 

現状分析を基に実質的な理由により改憲が必要という提論に対して,条文を守る必要があるという意見が噛みあうはずがありません。

 

そもそも,憲法を守るというのが目的だけだと平和の維持とは関係なくなってしまいます。

 

それこそ,完全なる戦力・武力行使の放棄こそが日本の平和に必要と考えるならば,9条1項の『国際紛争を解決する手段としては』と,同条2項の『前項の目的を達成するためには』を削る必要があると思うので,逆の意味となりますが改憲が必要となるはずです。

 

護憲派の中には,“憲法9条は日本の宝”とか“美しい憲法9条”と喧伝する方もおられます。先ほどの“戦争”とは反対の良いイメージの言葉が使われているので,なんとなく憲法9条は良いものなのだろうと思いそうですが,この言葉から実質的な意味を見つけ出すのは不可能です。

 

ワンフレーズに捉われてしまうと,どうしても議論における論点までもが,言葉のイメージに引きずられてしまうように思えます。

 

そして,例の麻生氏の発言も記事だけでなく,概ねの発言の流れをインターネットで見ると,物騒な趣旨の発言はしていないように思いました。

まぁ話した言葉のうちのワンフレーズだけ取り出して揚げ足を取るのが本当に得意な新聞社だなぁという印象です。

 

ただ,幾度となくこの手でやられておられるので,もう少し気をつけて頂きたいとは思いました。

体調管理

2013-07-31

銀行での待ち時間,咳をしている方を何人か見かけました。

 

私も含めです。

 

体調には十分お気をつけください。

アジテーション

2013-07-30

誰しも都合の悪いことを言いたくないことは自らの経験によってご存知かと思います。

 

人に知られてしまうと自分の立場が不利になったりするような事は,隠蔽したり歪曲したりしたくなるという心理は人としてそれほど不自然なことではないように思います。実際に隠蔽したり歪曲したりするかどうかは別としてです。

 

たとえば,意見の対立によって摩擦が生じた場合にどちらの言い分にも正当性があるとします。しかし,相互の主張する正当性の根拠となる事実が矛盾する場合は,どちらかが自らに都合の悪い事実を隠したり歪曲したりしている可能性があります。

 

こういったことが,例えばある組織内で起きた場合,まず組織内の自治で解決を図ろうとするでしょうから,自分が相手より有利な立場になることを考えたとしたら,当事者でない第三者をより多く味方につけることを考える人もいると思います。

 

しかし,都合の悪いことを第三者に知られてしまっては自分が相手より不利な立場にもなりかねません。そうであれば,まず自分が関わっている事実については極力詮索されないようにして相手方に目を向けさせる必要があります。

 

ですが,それでは相手方の言い分に耳を向けることにもなってしまいます。

ですので,第三者の相手方への先入観を利用してネガティブなイメージを植えつけておけば,第三者は先入観に掛けられたネガティブイメージをフレームとして相手方を見るようになります。

そうするには,できるだけ第三者の正義感や憐憫など,なるべく感情に訴えかけるような事柄がよく効くと思います。

 

それによって,第三者は,相手方へ言い分を聞くことなく追求へと姿勢を変えていくと思います。

ですが,事実上追求するわけではありません。植えつけられたネガティブイメージを基に憶測により追及していくわけです。もちろん,相手方以外の人たちのとの意見をすり合わせて行います。

 

そうして,摩擦の相手方はなすすべもなく失脚して,事実上摩擦において勝利することができるでしょう。

 

この方法は,ある規制を撤廃したり前政権が政権を取得したときのことを基に勉強させてもらったことです。私は絶対やりません。

 

で,ここで挙げたい問題は,第三者という所謂大衆にとって一旦感情が焚きつけられてしまえば,真実なんてどうでもよくなることです。しかも,感情的となった人たちはそれを他の人と共有しようとするので余計にたちが悪い訳です。

 

だから,感情論というのは扇動に利用されやすく,そのことが問題だとおもいます。

 

また,ある意味感情論というのは,人の感情を押さえ込み思考を停止させてしまっていることから,第三者の感情を侵害しているとも言えます。

 

第三者に真実を知ってもらい個々の判断に委ねると考えるならば,整然と事実を述べて正当性の根拠を謳うはずです。

そうであるからこそ,その言い分は感情論の入る余地がなく無機質に聞こえますが,実際には理論の組み立てや調査など綿密な思考の整理が必要であり,むしろ筋道が立っている方が強い感情に突き動かされているはずです。

 

それを感じ取れないのは,感受性の乏しさだと私は考えています。

 

気高く崇高な感情によって導き出された理路整然とした主張よりも,人の感情をむやみに煽る品性のかけらも感じない感情論を支持して痛い目を見るのは,もうおわりにしたいものです。

25日(木)から29日(月)までお休みを頂きます。

2013-07-24

かつて来たことのある場所に再び訪れたとき,懐かしい気持ちになるとともに昔と変わったという印象を持つことがあると思います。

 

たしかに形ある物はすべて時間の経過とともに形を変えていくので,細部を見れば変わっているはずなのですが,木が大きくなったとか,川の流れが緩やかになったということ事態で全体の印象が変わってしまう原因とはなりえないと思います。

 

同じ場所に行くときの心の持ちようで,風景も彩が変わるのかもしれません。

 

さて,明日25日(木)から29日(月)までお休みを頂きます。

 

大変ご迷惑をおかけしますが,ご理解の程よろしくお願いいたします。

 

事務所は30日(月)から開始いたします。

土用の丑

2013-07-23

昨日は,土用の丑の日でした。

 

土用の丑にウナギを食べる習慣は,江戸時代の蘭学者「平賀源内」が,知人の鰻屋のために「本日,土用の丑の日」と書いて店頭に張り紙をしたところ大繁盛した,というのが一般的に有名な説だそうです。

 

ですが,ウナギの激減により価格が高騰しているのはご存知だと思います。

昨日,スーパーでウナギの盗難事件まで起こっているようです。

 

ウナギの生態については謎が多いようで,そのため人工ふ化技術が未だに確立しておらず,稚魚は全て自然界に頼らざるを得ないようです。

 

なお,ウナギの減少は日本だけにとどまらず,ヨーロッパではすでにIUCN(国際自然保護連合)のレッドリストに入っているとのことです。

 

こうなると漁獲制限もやむをえないと言われ始めています。

 

もちろん,ウナギが手に入りにくくなってしまうことは非常に残念なのですが,もし江戸時代から続いてきた文化が途絶えてしまうとなると寂しい限りです。

 

ウナギでご商売をされているお店も,営業のスタイルを変えざるを得ないでしょう。

 

 

それにしても,なんといいますか人間とは実に罪深い生き物だと思います。

 

サバンナの肉食動物は,自らの腹を満たす限りで獲物を捕獲しますが,人間は食べつくすまで際限なく獲物を狩り続けているような気がします。(このタイミングで出しておいてなんですが,ウナギの漁獲が乱獲かどうかは私にはわかりません。)

 

これは,自然物で商売するにあたって,商売とは商品を供給し続けなければならないため,仕方ない面ではあります。

ですが,消費者と小売店の関係が密接であれば小売店は需要を細かく把握できるため,売り切る分だけの仕入れを把握しやすい訳です。

しかし,大きな会社が手広く商売をするには価格競争に勝つために値段を安くする必要がありますが,薄利になればなるほど多く売らなければならないため供給量を上げなければなりません。

 

インターネット上に転がっているアメリカンジョークにこんなのがあります。

 

日がな一日釣りを楽しむ生活を送るメキシコ人にアメリカから来た旅行者(ハーバード・ビジネス・スクールでMBAを取得しているらしい)が,もっと多く魚を獲ってもっと手広く商売をするべきだと持ちかけます。

 

そうするとどうなるか聞いたメキシコ人に対して,アメリカの旅行者は大金持ちになって引退した後,日がな一日釣りを楽しむ生活が出来る,と答える話です。

 

笑いどころは,“だったら今の生活を楽しんでいた方がいいじゃないか”ということなんです。

が,笑えない話として,メキシコ人から事業拡大の話を断られたアメリカ人が,隣家の釣り人に同じ話を持ちかけて,その事業拡大の話が現実になされると最初の釣り人の生活が成り立たなくなってしまうことになるとも考えられます。

 

この話は,市場に物が溢れているのに豊かさが実感できない今の日本の根本的な原因を表しているように思えます。

 

そういえば,TPP参加交渉が承認されたようです。

 

国内市場に外国製品が増えても日本国民が幸せになれませんし,関税ばかりか非関税障壁まで撤廃されてしまっては,我々の所得は減るばかりでしょう。

だって,資本の移動が自由となれば,企業としては生活水準の高い日本人に高い人件費を払うより安い労働力を使った方がいいわけです。

日本の大手企業も海外に拠点を移していくのではないでしょうか。

 

ウナギの減少と実は繋がる自由貿易,といったところです。(強引ですが)

 

先日の参院選で圧倒的勝利をおさめて,衆参のねじれ国会を解消した自民党ですが,これにより議案がスイスイと通るようになるでしょう。

ですが,自民党にも色々な考えの人がいるので(ブラック経営者も残念ながら当選してしまいました。)国民が監視の目を緩めないことが大事だと思います。

プライベートとパブリック

2013-07-22

電車の中でお化粧をする女性について行儀が悪いと指摘する声をよく耳にします。

 

ですが,電車やバスに乗ると,“何が悪い”と言わんばかりに堂々とそして粛々とお化粧に取り組む姿を本当によく見かけるところです。

 

これについては,隣に他の乗客がいるのであればもってのほかですが,両隣に誰もいないのであれば,一見して誰にも迷惑がかかっていない様な気がします。

 

また,女性側からは,「スポーツ新聞のエロ記事を堂々と広げている男性の方がよっぽど迷惑」という反論が返ってきそうです。

 

ですが,電車内などの公共の場でのお化粧については,確かに言い知れぬ違和感のあるところです。

 

ところで,西洋のある国においては,娼婦が客引きをするときの合図として公共の場でお化粧をするという風習があるそうです。このような,文化圏の違う特殊な文化を引き合いに出して非難するのもどうかと思いますが,営業中の娼婦である合図になりえるということは少なくともそれ以外の人は公共の場でのお化粧はしていないということでしょう。

 

日本と比較して,個人主義的な色合いの強い西洋文化においては,プライベート(私的)とパブリック(公的)との区分は個人とそれ以外とのスペースや意識の関係での線引きで決まるのではないかと感じます。

 

これは,幼い頃から自分の部屋を与えられて,生活に纏わる事よりも個人の意識を養う教育を施されていることもあり,プライバシーは個人単位で考えられているように思います。

 

ですので,時間的においても,物理的においても個人としてのプライバシーが存在するという認識が公共において共有されているからこそ,お化粧というプライベートな行為はプライベートな場所でするべきというのがパブリックにおける共通認識なのだと思います。

 

すなわち,私的なことは私的な場所でやるべきで公共の場に持ち込ない,ということでしょう。

 

では,個人主義を基調としなければ,プライベートとパブリックのような公共と私的を区分する概念は生まれないということになるのでしょうか。

 

例えば,日本においては,「公」(社会や主君のこと。いわゆる当時のパブリック)の為に「私」を滅して尽くす事が,武士のあるべき姿とされていました。

 

つまりは,公の為になら自らをも犠牲にすべきということが共通認識とされていて,個人主義とは遠くかけ離れています。

 

しかし,尽くすべき「公」があるわけで,その対称の関係となる概念とその区別はあったはずです。

なぜなら,内部的な事情を外部に晒す「恥」という概念は存在していたわけです。(ルース・ベネディクトは日本を「恥の文化」と記しています。)

 

それは,今でも残っている(?)「家の恥」とか「敷居をまたがせない」との言葉があるように「家」という単位で「公」との区分をしていたのではないかと考えます。

 

かつての家族単位については,「家」とする家制度が存在しました。

この家制度の運用によって,家業を継ぐといったように事業承継を合理的としたり,老いた親や子供の面倒を家族で協力するということもあったと思います。

 

しかし,戦後に封建的ということで廃止されてしまいました。

 

それでも,現在においても日本人の意識の中に幾ばくか残っていると思いますが,パブリックとプライベート(個人という意味ではなく公の対称としての概念として)の境界を崩壊させたのは,家制度を廃止したことによるのではないかと考えています。

 

つまりは,日本人には西洋的な個人主義が根付かなかったということだと思います。個人の意識を育むにはあまりに教育が貧弱だったということでしょう。古くからの自国文化を捨てて他国の真似事をした当然の結果じゃないかと思います。

 

個人主義として素養が貧弱な人たちがプライバシーという言葉を使うようになるとどのようになるかというと,屋外で撮った写真に人が写っていると掲載できなくなったり,学校で子供達の絵画を展示できなくなったりします。

 

個人が不合理なプライバシーという認識のもとに公共を乱してしまうのです。

 

おそらく,電車内のお化粧の話は,公共の場で私的な行為を個人が行ったことにより公共が乱されたことに対する不快感なのだと思います。

 

「公」と「私」の境界が曖昧になってしまうと,何を恥ずべきかも分かりにくくなるということだと思います。

 

だからといって別に責めているわけではありません。

 

きっと,路上で平気でキスをするような文化も歴史も浅い大国の影響の原因でもあるのでしょうし。

 

 

戦後の体制について,個人に権利を与え義務を課すということは戦前の日本文化を根本的に変えてしまうことだったのではないでしょうか。そうであれば,戦後教育に必要だったのは個人主義としての素養を育てることだったのではないかと思います。

 

が,「個性を伸ばそう」などと謳い,ずいぶんと個人の意識を高めることとはかけ離れた教育を行っていたように感じます。(生まれたままの意識を助長させていたらアイデンティティは形成されませんよね。)

 

そういう意味でも,戦後レジームの脱却というのは考えなければならないと思いますが,大国に擦り寄っているように見える現政権に果たしてできるのでしょうか。

 

そういえば,最近言ってないな。

明日は選挙です。

2013-07-20

中東各地で独裁政権が倒され,民主化を進める動きが起っています。

 

既に民主主義を執っている国々では,この動きをアラブの春と称して歓迎しているように見えます。

 

ですが,11年1月にベンアリ独裁政権を崩壊させて「アラブの春」の先駆けとなったチュニジアでも革命後2年を過ぎても憲法制定に至らず混乱が続いているようです。

 

こうなると,果たしてこの民主化の動きは本当に国民にとっていい方向へ向いているのだろうかという疑問がわいてきます。

 

このあたりについて,日本における民主化の道のりを考えてみます。

 

300年の泰平を経た徳川政権時代に黒船が来航して,おそれをなした政権が次々に不平等条約に調印してしまいました。

 

これを,日本の武士階級が見かねたのが民主化への発端じゃないかと思っています。

 

きっかけは外圧ですが,理由ははっきりとしてわかりやすいと思います。

 

ですが,300年ものあいだ続いた政権をひっくり返して,かつ,政治を(一応)民間に委ねる動きには民衆の混乱がともないます。いままで安定して運用してきた事を覆すからです。

 

ですので,政権を覆す根拠として持ち出されたのが,江戸幕府よりも古くからの権威である朝廷で,そのことにより大政奉還に繋がっていきます。

 

もっとも,その後も天皇が独裁政治を敷くということにはなりませんでしたが,その存在は尊ばれ民衆にとって権威として君臨することとなります。

その権威の高さは終戦直後GHQさえ配慮せざるを得ませんでした。

 

その後は象徴として君臨されるわけですが,そうであるにしろ一部のイデオロギーを除き国民にとっての権威的な存在であることには変わりないと思います。

 

一方で,もうひとつの権威として日本国憲法があります。これは,GHQが提示した草案を基に作成されたものです。いわゆるマッカーサー草案です。

 

日本は,これにより天皇制は残されたものの戦争の放棄と封建的社会の改善をすることになります。

 

ここで,GHQが巧妙だと思うのは,それまでの権威であった天皇制を残したことだと思います。

占領軍の立場として天皇の地位を尊重しておけば,その他の要求には従うと踏んだのかもしれません。実際にどう思ったのかは分かりませんが,もしGHQが天皇に対して何らかの戦争責任を突きつけていたら,アラブの春のような混乱した状況になったのではないかと思っています。

 

アメリカとしては,これにより日本がくみしやすくなったのでしょけど,結局そういった経緯があったからこそ今があるわけで,我々にとっても天皇制が残されたことは利益となっているはずです。

 

そういうところを踏まえて,アラブ諸国の話に戻ると,一神教である彼らにとって一番の権威は神しょう。

そして,神様の偶像をつくることさえ禁止されているほど,現実の形を帯びてないことを考えると,経典の解釈は人それぞれに違いが出てくるのではないのでしょうか。テロリストがアフガニスタンで跋扈したときに話題となったジハードの解釈も色々あったように思えます。

 

ですので,政治とはまず統治すること必要なので,神を最高権威として崇める国民を統治するには強権的な独裁じゃないと難しいのかもしれません。

 

そして,その独裁政権が倒された後に国民が何を期待するかと言うと,やはり今まで独裁によって果たされなかった自分の願いでしょうから,それを国民の多くがそれぞれ持ち寄ったら収集がつかなくなるでしょうし,独裁政権時に安定した暮らしをしていた人達にとっては元に戻して欲しいと言うのが願いでしょう。

 

日本のようにナショナリズムなどのはっきりとした目的があって起きたものでない限り,民主化というのは欲望がぎゅうぎゅうに詰まった箱を開けてしまうような,そんな感じがします。

 

この動きを良いか悪いかを言うとしても,あくまで民主主義国家に統治されている我々の視点ですのでなんともです。

 

もっとも,アメリカもわが国も民主主義自体が,果たして国民の為に資するかどうかにおいては怪しくなってきているような気がしますが・・・

 

 

とにかく,明日は投票所に行きましょう。

また明日

2013-07-19

今朝はとても涼しかったのですが,日中はすこし気温が上がったようです。

 

ここのところ寒暖の差が激しくなっているためお体には十分お気をつけください。

 

良い週末を

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