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もし免罪符があったら買う?

2014-05-14

もし,社会一般においてはやってはいけないことをヤラカシてしまったとしましょう。

 

そうすると,概ねヤラカシてしまったことに相当する償いを求められるわけですな。

 

例えば,中華料理店で食事をしていたときに,通りかかったウェイターが運んでいた平皿からソースがこぼれて自分の洋服が汚してしまったとしましょう。

 

そのとき,お店に対してどのような対処を求めますか。

 

まぁ大抵の人は,謝罪を求めると共に,お店側の粗相によって洋服が汚されたとして,汚れた洋服の損害についての回復に相当する対処,すなわちクリーング代程度の現金の支払が相場かと思われます。

 

もっとも,人によっては思い入れのある洋服を一時的でさえ汚されたという精神的損害とか,自宅に帰るまで汚れた服を着て帰らなければならない云々というのも加算したりするかも知れませんが,私の経験上(責任を問われる側として)クリーニング代程度で許して頂けるようです。(最近はどうかわかりません)

 

これを,『目には目を歯には歯を』方式で償いを求めるとすると,「お前の服を汚してやるぞ〜」とばかりに,お店の責任者の服を同じように汚すことで償いが済むのでしょうかね。流行にあわせて三倍返しすれば,たちまちラー油で真っ赤に染まってしまうでしょう。

 

でも,それに加えてクリーニング代を請求したとなると,バランスが悪くなる気がします。お客さんの損害は清算されて,お店側には責任者の服が汚されたという実損が残ってしまっていますね。

 

それでは,危害を受ける対象が洋服という,洗えば汚れが無くなり,また替えがきくというものでない場合ではいかがでしょうか。

 

たとえば,自分や身近にいる大切な人の精神や身体が陵辱を受けたりした場合,どのような償いを求めるでしょうか。もちろん,法律の規程が頭をかすめるでしょうけど,例えば無政府状態だったらいかがでしょう。

 

これは,個人的な意見ですが,この場合だと『目には目を歯には歯を』の考えが直接的な感情に沿うように思えるのですね。

 

先進国であれば,謝罪や金銭賠償が当然のこととされているのでしょうけど,精神や身体に受けた苦痛がお金や謝罪で回復するわけではないでしょうし,言いようによっては殴られ屋ヨロシク,自分や他人が味わう苦痛は金銭により購えるという穿った考えが出来なくもないわけで,感情として実際に溜飲が下がるかと言ったらそういうものではない気がするのです。

 

こういっちゃアレなんですが,加害者に同じ苦痛を味あわせてやりたくなるというのが,少なくとも私にとって素直な感情ですし,他の方がそう思われることを私は否定しません。

 

もっとも,実行に移すということは当然,無政府状態でなければ禁じられているでしょう。大抵の場合,当事者以外は基本的に自力救済(司法手続によらずに実力行使すること)を嫌うでしょうから,通常は法律や慣習などで身勝手な報復は制約されているのでしょう。

 

日本風でいえば,どちらともなく始まった喧嘩は,身内で止めに入り,落ち着いたところでそれぞれの言い分を聞いて,当事者同士謝って握手して手打ちって所ですかね。

 

それはもう,どっちが多く殴られてようと手打ちにしなければならないわけで,多く殴られた方は殴られ損なわけですが,殴った相手への報復を諦めなければならないのです。

 

こういう場合の謝罪というのは,言ってみればこれ以上の争いは止めようという意思のほかに,本来であれば自分が受けた痛みと同等若しくは三倍返ししてやりたい,という相手の感情に対しての減免を求めるものということもあるような気がします。というか,その要素が非常に強いと思うのです。

 

そのことは,相互に相手に対して負い目を感じているということでしょう。

そうであればそれほど問題なさそうなのですが,被害が一方的だとちょっとややこしくなるようにおもいます。

 

たとえば,加害者にとって見れば,償いを減免して貰うために謝罪を繰り返し,反応が芳しくなければ開き直る。

一方で,被害者にとってみれば加害者の見え透いた態度が神経を逆撫でするため,徹底的に糾弾するという事なわけです。

 

そういえば,宗教改革で有名なルターが,その口火を切った原因といわれるローマ教会から発布された,かの有名な免罪符ですが,これには神に対する償いを減免するという効能(?)があったそうです。

謝罪と償いを区別すると,謝った後の償い方が緩くなるというもので,しかもこれがローマ教会から販売されていて大繁盛したということですから,漫画のような話です。

 

まぁやっぱり,ヤラカシてしまったことを真摯に受けとめるというよりも,そのために科される償いをどうにかして和らげようというのが,人間心理なのでしょうねぇ・・・

そして,「人間だもの」ということで,たいていの場合は,償いに対する減免を皆が共通して認めているように思えます。法律でさえ恩赦・特赦といった規程が定められていますし,人を殺してさえ永山基準と言われるようにすぐ命をもって償えというわけではありません。

 

もっとも,免罪符的な考えと対照的なのが,さだまさしさんの「償い」という曲の登場人物だと思います。簡単に言えば,自動車事故の加害者「ゆうちゃん」は自分が許されるために償い続けたという歌詞です。

 

つまり,免罪符は償いを免れるために許しを乞うためのものでしたけど,「ゆうちゃん」は自分が許されるために償いを続けたということです。

 

ちなみに「償い」は,交通キャンペーンに使われたこともあるそうですが,もし現代においても免罪符がバカ売れするような世の中だったら,このメッセージは誰の耳にも届かない事でしょう。

 

でも,もしかして・・・

 

現代で言う免罪符って,たとえば損害保険のことでは・・・

霧雨

2014-05-13

今日は,ときおり霧雨が降ったりやんだり・・・

 

霧雨は,横風に吹かれると傘が不能となりますね。

 

良く濡れました。

遙か遠く・・・

2014-05-12

中学生のとき,友達10人くらいで千葉市から千葉県銚子市まで自転車で一泊二日の旅に出たことがありました。

 

朝早く(夜遅く)から待ち合わせて,皆で国道の歩道に隊列を作って自転車コギコギしながら銚子まで向かいました。

 

当時は,とてつもない遠い場所まで行ってきた感覚ですが,今なら車で高速使えば半日程度で帰ってこられますから,ガソリン代や高速代の負担があるとはいえ当時と同じような遠い場所という気はしません。

 

もっとも,今でも銚子より近い東京などの場所でも遠いと感じることもありますし,実測の距離とは違った距離感というのもあるように思えます。

 

実際に,かつての思い出の場所がなんだかずいぶん遠く感じるのも,物理的な距離だけのせいでは無いのかも知れません。

 

最近乗ってないですが,自転車と車では全然距離感が違います。まぁ体感速度は自転車の方が自動車よりも早く感じるというのもあるかも知れません。早く走っていると感じているのに速度が遅いわけで,それだけ距離を感じるということです。

 

もっとも,車と比べて自転車の方が,風の香りや景色の移り変わりなど強く感覚に飛び込んでくるので,走行中の様々な事が印象として残っていたりするのですね。また,そのことについて色々な事を考えたり思い出したりします。

 

この多く残っている印象が,感覚的な距離を織りなしているのかも知れません。でも,それってすごく良いことだと思います。

近い旅でも,感じることがたくさんあって,遠くまで行った実感さえあれば良い旅だといえるでしょうから。

 

交通網が発達した現在,近いと感じるもの遠いと感じるもの,実際には心理的な影響が大きかったりして。

果たして・・・

2014-05-11

ちょっと,慌ただしくなってきましたよ。

 

さて,この先どうなる事やら。

5月の憂鬱

2014-05-09

5月は,毎年あまり調子が麗しくないのですが,今年は割といい感じです。

 

まぁ5月病と言われるぐらい調子を崩す人が多き時期ですが,私は最高です。

 

そういえば,4連休中は思わぬ雨天に見舞われた方もおられたようですが,私は大丈夫でした。

 

今年は,飛び飛びの連休となってしまい大型というわけにはなりませんでしたが,4連休中は旅行に行かれた方も多かった事でしょう。

 

ところで,格安航空会社(LCC)のピーチ・アビエーション機が那覇空港の手前で以上降下したニュースは記憶に新しい所ですが,今さっきほどユナイテッド機が福岡空港に緊急着陸したというニュースが入ったようです。

 

けが人はいなかった様で良かったのですが,昨今の航空業界の熾烈な過当競争を鑑みると何とも恐ろしい話というものです。

 

でも,こういう値下げ合戦は,様々な業界で起こっていますけれども,命を運ぶ航空業界においてそれが起こると果たして何が軽んじられるか,そしてそれは財布にわずかばかり残るお金と引き替えに出来るのかという問いを私たちに投げかけているように思います。

 

もし,そのことに気がつかないのであれば,自分の手元から出すお金が誰に支払われどのように巡っていくのかについて,私たちはあまりに無頓着だったといえるでしょう。

 

そして,今手元にあるお金はどこかの誰かが何かの用に支払ったからこそ手元にあるのでしょう。その人は支払った金額に見合う利益と安全と満足を享受出来たのでしょうかね。

 

逆に言えば,自分の身の安全に掛かるプライスをどこまで下げられますか?

例えば,規制緩和とか

2014-05-08

毎日,(ほぼ)規則的に朝が来て,大体それにあわせて一日の生活が始まって,おおよそそんな毎日が規則正しく続いてきた訳です。

 

そして,ときには環境が変わることで規則性に変化が起こりますけど,また環境に順応した形で規則的に戻ったりします。

 

考えてみれば,数学というのは規則性を探る為の学問と言うところがあるでしょうし,音楽も12平均率とかリズムも規則性を探し当てたものです。言語や科学もそういうところはあるのでしょう。

 

そもそも,無作為である事柄から規則性を探し出すことが,文明の発展に大きく係わっている様に思います。それは,規則的であった方が効率的であるという理由が大きいのでしょう。そして,将来どうなるのか想定がし易くなるともいえると思います。だから,安全にも係わってきます。

 

ですから,無作為であるものから規則性を導き出し,その規則性に不規則が生じたら,更に不規則が生じる機会について規則性を導き出すといったことを繰り返して,安全や将来の保証になどについてここまで発展する事ができたのかなぁと思うわけです。

 

だから,規則性に対して対立する概念って,無作為やランダムではなくて,不規則性だと思うのです。

 

つまり,規則性あってこその不規則性なのだと思います。

 

例えば,無作為に並ぶ夜空の星に規則性を見つけたところで,その星の並びが変わるわけではありませんですし。ただ,規則性を導き出したところで初めて不規則性が生じる余地が出てくると思うのですよ。

 

だから,規則性を追求して,不規則性に阻まれる度に更なるに規則性を探さなければならなくなるとしたら,それまで導き出した規則性を無かったことにするって言うのは,どうもせっかく導き出した規則性を放棄して無作為な状態に戻してしまうって事になる気がするのです。

 

それは,行為どうこうというより,その行為がどういう考えで行われたかってことなんですけど,信念って盲目になることでは無いはずですよね。

事実と思い込みの境界

2014-05-07

どれくらい前かに,買いだめしておいた使い捨てのコンタクトレンズをだいぶ長い間放置していたことに最近気がつきまして,もったいないので使用期限までに使い切るようちょくちょく付ける事を決断しました。

 

そして,今日がその初日でした。

 

実は,私の視力は0.06という強烈な弱視でして,しかも最近乱視まで発覚したした次第です。ですので,眼鏡やコンタクトレンズなど視力を補強する器具を使わなければ,普通の生活さえままならないレベルです。裸眼で自動車の運転などしたら高い確率で事故を起すことと思います。

 

そして,普段は黒縁の眼鏡をかけているのですが,事務仕事が多いことからレンズの度数をかなり緩やかにすることを眼鏡屋さんに勧められまして,そうしています。ですので,眼鏡をかけていてもギリギリ免許の更新を通るくらいの視力なのです。

 

なお,コンタクトレンズは外出時に着けることを想定していたので,買いだめしたコンタクトの度数は,普段つかう黒縁眼鏡をかけたときよりも遥かに強いのです。

 

そして,久しぶりにコンタクトをつけて外出した,さわやかな陽気の今朝方は,歩き出して早速,太陽に照らされながら風にそよぐ緑色に視界と心を奪われました。

 

あぁ・・・普段通る道に生える草木でさえこんなにくっきりとした美しい緑色だったんだなぁ・・・と思わず関心してしまいました。

 

まぁ,もっとも普段気にならなかった自分の顔も,良好な視界によると(ちょっと老け込んだかなぁ・・・)と,あまり嬉しくないことも知らせてくれるようになるわけで,いい事ばかりではないのです。

 

今まで,ぼやかしていたことをはっきりと認識する機会というのは,実は意外とショックを受けることが多いですよね。

 

たとえば,自分の歌声などを録音したことがある人なら大抵思い当ると思うのですが,自分の声だと認めたくないと思うくらい違和感を持たれると思います。これって,皆に聞こえている空気を伝って届く音とは別に,頭蓋骨からも伝わる音が本人にだけ聞こえていることが原因だそうです。

で,どっちがホントの声かというと,すくなくとも皆に聞こえている歌声は間違いなく,自分が思っている声よりも,録音した声のほうが近いでしょうから,つまりは録音した方の変な方の声をそれまで他の方々に聞かせていたわけです。

嫌なこといってすみません。でも,私もそういう経験ありますし。

 

で,かなり多くの人からそういう話を聞くのですが,逆にかなり多くの人の声を聞いても自分の声を録音して聞いたときのような嫌悪感をもった事はないわけでして,そうすると自分の声も他人にとっては気にするほどおかしいわけではないのかな,と思うわけです。

 

そうすると,自分の声だと思い込んでいた音とはぜんぜん違う音が録音機から流れてきたという,思い込みと突きつけられた事実とのギャップが大きいために起こる嫌悪感なのかもしれません。もっとも,思った以上にいい声だったという感想を聞いたことが無いのは不思議です。

 

やはり,自分自身がそれまで認識していた自分を揺るがされるという事実が,強い違和感となるのかもしれません。アイデンティティの損傷とでもいいましょうか。

 

でも,録音した声が真実かというとそうでもないわけで,録音環境やスピーカーによっても違うでしょうし,歌手の声だって実際には周波数をいじっていることでしょう。

 

では,一体どの声が本当の声なのだろうというと,そのときの気分や耳に届くまでの距離や時間やらでも変化するでしょうし,もしかしたら人それぞれ聞こえ方が微妙に違っているかもしれません。聞いた声を個々の聞こえたまま再現する方法がないわけですから分からないのですが。

 

実は,意外と我々は,声といわれる音が良いのか悪いのかを思い込みの部分で判断していることが多分にあるのかもしれませんね。だって,個々によっても聞こえ方に違いが有るのかもしれない訳ですし,諸条件によっても変わってくる,そして,大抵の人は自分の声の録音を聞いて違和感を持つのですから,実際には誰の声かを判別する程度しか聴覚には機能が備わってないのかもしれません。

それが,声によって評価が違うのはそれぞれの思い込みがあると考えるのが素直だと思います。

 

でも,その思い込みはどうして人によって共通することが多いのかというと,やっぱり分からないです。

もっとも,歌手であれば多くの人に支持されなければならないでしょうから,そのために高度な技術を磨くのでしょう。

もちろん,その技術は人々の思い込みとは別のもので,例えば,こぶしが強くかかっているというのは,誰にとっても紛うことなき事実なのです。

 

そして,技術というのは,まぁ一部分では誤魔化すことが出来ますが,検証されればばれてしまいますし,言ってみれば事実です。だから,出来る人と出来ない人がいます。

 

ですが,思い込みというのは,最近のマスコミなどに薄々感じられている方もいらっしゃるでしょうけど,割と容易に操作できてしまうようです。

マジックショーなどは,観客に思いこみを持たせること自体が技術ということも有るでしょうけど,マスコミの本分は視聴者の思い込みを扇動することではないでしょうし,実際に色々と弊害が大きい事はお気づきかと思います。

 

そして,意外と気がつきにくいのは,自分の思い込みと現物(事実)との境界だと思います。

よく,団塊の人達の話を聞きますと,昔のアイドル歌手はみんな歌が上手かったといったことを耳にしますが,今はぜんぜん違いますね。歌手という本分は技術でのみ賄われるものでしょうけど,華やかな衣装を身に着けてアイドルっぽく演出すれば,本分の方は必要なくなるという事態が起きているわけです。

 

コレやられると,歌手を目指す方はどんなに頑張っても報われなくなるわけで,そして思い込みから目覚めない人々を除いた,その他の視聴者にとっても碌なものが見られなくなってしまうという事態になってしまうでしょう。

 

ですから,思い込みは思い込みでいいのですけど,その線引きを誰かしら解説しないと,本来努力して培うべき本分を誰も全うしなくなってしまうと思うのです。

 

もっとも,長く親しんだものに対する思い入れや誰かを好きになることも思い込みの部分が多くを占めるのでしょうから,悪いことでは決してないと思います。

ただ,様々な場面で変動し易く非常に不安定で時には客観的な事実をも凌駕するほど強く多くの人を動かすのも思い込みでしょうから,客観的な事実との区別は常々意識したほうがいいのかもしれません。

 

そういえば,コンタクトレンズの話題からはじめたのだった。。。

GW4

2014-05-02

明日から連休ですね。

 

連休中は,大変お天気に恵まれるようなので,行楽の予定を立てられている方にとってはこの上なく楽しい連休になるかも知れません。

 

それにしても,今日も暑いですね。

 

そういえば,有効求人倍率が上昇したとかで景気回復うんぬん言っているようですが,いったいどうなのでしょうか。

 

というか,求職している人が就職先になにを求めるかを想像してみると,安定した(家庭)生活を営むために不自由しない程度の安定した収入と額,そして労働時間だと思うのですが,果たして企業側の求人とマッチングするのでしょうか。

 

そうかんがえると,改正労働者派遣法などをすすめる安倍政権は,どうも求職している方々の味方というわけではないようですよ。

 

雇用が増えても,実質賃金が増えなければ苦しい生活は続くわけですから。

 

そういえば,いざなぎ景気越えといわれていたときも我々には全然実感できませんでしたね。

 

これはデジャヴだろうか・・・

復帰

2014-05-01

入院していた桂歌丸師匠が復帰されたそうです。

 

これはおめでたい話です。

 

笑点は来年で50周年を迎えるそうですが,是非とも司会を続けていただきたいですね。

 

ところで,ソニーが,2014年3月期の連結当期純損益について,従来予想をよりも赤字が拡大することを発表したそうです。

 

かつてのソニーの繁栄を知っている世代からすれば,あまりに残念なニュースです。

 

リフレによる円安効果の恩恵は享受でなかったのでしょうかねぇ。

 

それにしても,ソニーが当てはまるのか解りませんが,かつて日本企業が隆盛を極めた時代に働き盛りを向かえていた世代が上司となって指揮決定を担っているのでしょうけど,ちょっとした陰口ではないですが,そういう方々は過去の成功が忘れられないと言われているということをちらほら聞くことがあります。(私は言ってませんよ)

 

過去の成功体験が忘れられないと言うのは,私にとって実は非常に身近で親近感があります。こういっちゃ失礼かも知れませんが,ギャンブル依存の人はまさしくその傾向があるようです。もっとも,末期になってくるとギャンブルで勝った方が不安になってスッテンテンになった方がホッとする,なんて話も聞いたことありますから,ちょっと洒落にならない話です。

 

まぁ,ギャンブルに例えるのも失礼だと思いますが,過去の成功体験が忘れられないと指摘は,“過去に成功した手法をそのままトレースすれば万事上手くいく”という考えに固執してしまい視野を狭めてしまっている,という批判だと考えられます。

 

でも,スポーツなどは特にそうだと思いますが,成功体験というのは上手くいったときの記憶ですし,それを鮮明に脳裏に焼き付けることは次の成功に繋がるための大事な条件といえるのではないでしょうか。

 

とはいえ,成功したときというのは,失敗したときどこが違っているのかを意外と解らないものですよね。

 

その後,また上手くいかなくなってスランプになったときにこそ,(それまで成功していたのに何故ダメになってしまったのだろうか?)と悩み考え始めるのだと思います。その思案こそが,成功体験を呼び起こすということなのかも知れません。

 

だから,苦しいときほど成長するってよく言うじゃないですか。

 

そうであれば,上手くいかないときには,再び成功するために悩み苦しんだ方が得だっていうことも考えられます。

 

ただ,くれぐれも自分を追い詰めすぎないようにですね。

路上のルールⅢ(くらい?)

2014-04-30

自動車を運転される方に一度お聞きしたいのですが,渋滞でもないのに標識による最高速度内で一般道を走り続けたことってありますか。

 

ちなみに私はありません。

 

でも,朝方は多少道路も混んでいてスピードを出さなくても到着時間がそう変わらないので比較的のんびり走行しているのですが,後続車から車間を詰められることが結構あるのですね。

 

そして,バックミラー越しに運転手の不満げな表情とはき捨てるような独り言と思われる口の動きを拝むことができます。

 

もっとも,後続車との車間が狭いことと運転手の不満げな表情を視覚から捉えることができても,実際には何を言っているのか分かりませんので,ゆっくりと走行している私の運転に対する不満なのかは分からないはずなのです。

 

ですが,(おそらく自分の運転する速度に不満があるのだろう)と私自身が思うという事は,最高速度を超えた速度であろうとも先行車の速度にあわせて走るべきことがスタンダードであるということを私自身が認識しているということです。

 

ちなみに,標識による一般道の最高速度は,ある一定の基準によって算出されるそうなのですが,道路交通法により標識に定めた最高速度を超えて走行してはいけないということになっておりますから,若干のオーバーでは罰則は無いものの法規範として考えるべきでしょう。

 

ところが我々ドライバーは,車の流れなど運転時の状況から,自らの経験などにより適切な速度を判断して運転しているのでしょうけど,大抵の場合において標識で定められた最高速度を超えてしまっているわけです。

もちろん,最高速度は全く無視されているというわけではなく,最高速度が車の速度の基準となっている部分もあるのでしょうけど,多めに見積もった速度で走行されているのが現実でしょう。

そして,その速度は明示されてはいないものの,それに従わない運転をする事は許されないという雰囲気を,そのとき走っている多くのドライバーに感じさせていることと思います。

 

そして,両者による数値上の乖離は,時によっては結構大きくなることも見受けられます。

 

ちなみに,沖縄(すごい車社会)を観光中にレンタカーで走行すると,必ず出会うのが片側一車線道路での原因不明の渋滞です。これは,田舎道などでお年寄りが最高速度を大きく下回るかなりゆったりしたスピードで走行していることがあり,後続車が数珠繋ぎのように続いていることがあるのです。

ですが,沖縄県民の方々はローペースに非常に寛容で,クラクションひとつ鳴らすことがないのです。

 

ですので,最高速度を超えた速度がスタンダードとなっているということは,運転しているそれぞれのドライバーの意識の持ちようということでも有るのでしょう。

 

これに関して,最高速度とはちょっと違うところに視点を変えて考えてみると,例えば,信号機の無い横断歩道において横断しようとする人がいた場合でも,ほとんどの車が停車させること無く通り過ぎていくことや,雨の日にはライトを点灯させることがわりと多く奨励されているにもかかわらず意外と広がっていません。一時停止の標識もほとんど守られていないように思えます。

 

一方で,交差点での優先順位や信号はかなり忠実に守られているように思います。

 

この違いは一体なんなのだろうかなぁ・・・とちょっと考えてしまいます。

 

そのヒントとして思い浮かぶ良くある場面が,信号機の黄色から赤への変わり目において先行者が急いで交差点を通過すると,後続車も信号が赤に変わった後も連なって通過していく時のことです。

歩行者がいる場合も危険なのですが,特に右折信号がある場合は非常に危険なはずなのですが停まらないのです。

 

でも,急いで交差点を通過するわけですからその状況において交差点を通過することが憚られることであるという意識はあるのでしょう。

 

つまりは,その人にとって,赤信号が点灯した時点で交差点に進入してさえいないにもかかわらず先行者に追随するという「流れ」に従う事は,赤信号よりも右折車よりも歩行者よりも法規範よりも優先させることであり,それらを比較してそうではないと判断して停車させる決定をすることが出来ないのでしょう。

 

そういう人でも,全く赤信号で停まらないわけではありません。また,交差点での優先順位には差し支えない程度に従っています。なぜなら,それは対自動車における対応としては共通している認識でして,それも言ってみればその人にとって「流れ」といったところなのでしょう。

 

重要なのは,同じ立場である自動車間においての流れが従うべき対象ということで,道路標識や信号機や横断歩道など法律に定められたことや,歩行者に対する配慮ということではないということです。

言ってみれば,価値観の喪失とも取れると思います。

 

きっと,行き先は決めているのでしょう。道筋も到着予定時間も帰り道も決めているのでしょうけど,他の自動車が作り出す流れとは別の判断を決定するという意思がどうも薄弱と感じる場面を,公道という車を運転する多くの人が行きかう公衆の場において頻繁に見受けられます。

 

もっとも,えらそうな物言いですが,私自身冒頭で述べたように最高速度を遵守しているわけでは有りませんで,意思が薄弱だといえば大いに思い当るところがあります。

 

ですが,書きたかったのは交通事情のことではなく,交通事情から見た人々の傾向といったところなのですね。私自身,最高速度の問題については罰則を重くしたり,逆に規制を緩やかにして強引に矛盾を解消する方法が好ましいとは思っておらず,むしろ曖昧にさせておく方がいい事もあると思っています。

 

ですが,それぞれが自動車という個室の空間にいて,お互い言葉を交わすことの無い路上においては,人が何に忠実に従って,そのために何をないがしろにしているか,という事がとても顕著になるように感じます。そして,その従っている事柄が多くの人にとって共通することにも気づきます。

 

これと同じ傾向は,最近あった出来事に例えれば,間違った情報が世に流れてそれが世論を形成し始めたときや,その情報が間違っていることが判明して踊らされた人達が攻撃する相手を探し始めたときに感じることがあります。

そして,多くの人が世論の流れから一歩惹いて立ち止まって考えるという決定をすることが出来ないのであれば,世論はその都度右に振れ左に振れそれはまるで振り子のように揺れ動き,収拾がつくことはなくなるように思います。

 

また,国内で揉めている大抵の問題について,このことが大きくかかわっているように思うのです。

 

問題なのは,本来保護すべき価値のあるものとそうでないものの重要性を全く比較せずに,世論に対して立ち止まって考えるという決定をすることが出来ない多くの人により,世論という潮流が作り出され民主主義社会を大きく揺さぶっているということだと思います。

 

そういうことであれば,守るべき価値のある重要な事柄とそうでない事柄とを,今一度考えてみることこそが,世論に流されずに自らの決定によって考えを改める機会を作ることだと思います。

 

そして,そのことにより日常とか生活とか職場などにおいて,愛情や将来など本当に価値のある事柄が改めて見直されるのではないかなぁと思うのです。

GW3

2014-04-29

今日は午後から雨がふるそうです。

 

お出かけ際は傘をお忘れなく。

GW

2014-04-27

巨人×大洋戦のことではありません。

 

ゴールデンウィークの始まりです!!

 

今年の連休は,最後4連休を除いて飛び飛びなので多少盛り上がりに欠けているようですが,今日のようないい天気に恵まれれば行楽も楽しいものとはるはずです。

 

そんな日に何をやっているかというと・・・・事務所にいます。。。

 

良い連休を

鯨の自由貿易

2014-04-24

オバマ大統領の来日が話題となっています。

 

昨日は,安倍首相とおすし屋さんで会食をしたことがニュースで大きく取り上げられていました。

 

そのときに尖閣は日米安保の適用対象であることを合意したようです。

それを受けて中国外務省が断固反対すると反発を示しているとのことです。

 

そして本日は,集団的自衛権の行使容認についてオバマ米大統領から「歓迎し支持する」との立場が示されたということらしいです。

 

これって,自分で守れって事じゃないかしら・・・

 

一方で,TPPについてオバマ大統領は「包括的な合意に達することは可能と信じている」と述べたそうですが,「農産品,自動車の市場開放度が制限されており,解決されなければならない」とも語ったそうです。

 

要するに妥協しろってことか・・・

 

もっとも,先ほど閣僚協議は合意に到らず終了したとのニュースが入りました。

 

やはり,TPA(貿易促進権限)法案がどうもムリぽのようなので,大統領がなにを言ってもへっちゃらですよね。

 

次は,EPAが大筋合意ということでオーストラリアのアボット首相も交えて,わが千葉県南房総市の千倉にでもご招待していただき,鯨でいっぱいやりながら親交を深めるのもよろしいかもしれません。

これからわろうべの里で

2014-04-23

相談会です。

出来事

2014-04-22

今ニュース見て知ったのですが,今日三井住友銀行のATMにシステム障害が発生していたそうです。

 

私は,ちょうど今朝方に三井住友の銀行の成田支店にいたのですが,取り立てて混乱している様子はありませんでしたね。成田支店は大丈夫だったのかな?

 

まぁ,世の中見渡せばいたるところにアクシデントは沢山起きていて,だからマスコミはネタにこと欠かない訳です。

 

一方で,我々日本人は,予定というまだ来ない将来の約束に縛られています。

 

実際に私が明日生きているかについては,何の保証もないにも関わらず,生きているものとして当然のように予定を立てているわけです。

 

まぁ代わりがいるっちゃそれまでなのですが,実際に現場は混乱するでしょう。手持ちの事件でも想定外のアクシデントはわりと頻繁に発生しますが,アクシデントの発生を知ったと同時に様々な最悪のケースが頭を駆け巡ります。

 

また,アクシデントの原因は,人為的なミスだったり,はたまた人の死や自然災害など予期することのできない事象だったりもするでしょう。

 

だから,様々な予防線を張って,何が起きても将来の予定が狂わないようにしておかないといけないのでしょけど,それでも想定を超える事は起こりえるということを我々は知ってしまいましたね。

 

そして,そのことを思い出すたびになんともいえない儚い心持ちになると同時に,いつも同じように繰り返される日常がとても愛おしくなります。

 

実際に,アクシデントと我々が呼んでいる非日常的な出来事はそこら中で頻繁に起こっていて,確率の問題はあるのでしょうけど,それが自分に降りかってくる事には何の不思議も無いはずです。

 

でも,やはり多少のことがあっても予定を果たすために様々な予防措置をとって,予定通りにことが進むことを皆が心がけているからこそ,毎日が送れているということもあるのでしょう。

 

そして,今日自分の周りでは何事も無く良かった良かった。

人の話を鵜呑みにしない

2014-04-21

よく,人の話を鵜呑みにするなって言われます。

 

この言葉の意味をどのように捉えていますか。

 

たとえば,「自分以外の他人というのは,自分に対していい加減なことや嘘ばかり言ってあわよくば自分を利用しようとしている。だから人の話を鵜呑みにするな」という風に解釈されている方もおられるでしょう。

 

実際,このような考え方をわりと多くの方がされているんじゃないかと,憶測ながら思っております。というのも,テレビのニュース番組における政治関連のニュースでの解説者やキャスターのコメントはおおよそそんな調子で,人の言葉尻を捉えて発言の信憑性を疑うようなコメントを残します。

ドラマなんかでも,主人公が颯爽と嘘を見抜くというシーンを良く目にしますし。

 

で,現実に自分の生活圏においても,人の話を疑って聞いてみるとどうも自分の勘が当たっていたようだ,ということもあったりするとますます人に対して疑り深くなるでしょう。

 

もっとも,他人のこと疑うきっかけというのは,風の噂やら,なんとなく違和感があるとか,直感的なものが多いと思います。その直感の働きは,それまでの人生における経験が大きく影響するものでしょう。

二度と味わいたくない経験が積み重なると人のことを考える上での型(フレーム)が歪に変化したり狭まったりしてしまうというと,だいぶ抽象的な表現なのですが,要は,「ナンタラ人に過去に酷い目にあわせられたから排斥運動をする」といったように,苦い経験から了見が狭まるということです。

 

そうであると,“どういう人格や容姿が人としての標準であるか”という感覚も人によってマチマチという所なのでしょう。顔ひとつとっても,平均的な顔がモテると言われる事がありますが,そのことが本当だとしても出会う人の顔の平均は人によって当然変わってくるでしょう。

もっとも,大昔と違ってテレビが普及した現在では,平均を遥かに超えた美男美女を毎日目の当たりにできる訳でして,その事は我々が認識する顔の平均の水準を大きく引き上げていることになるでしょう。

実は,少子化の理由のひとつであろう未婚率の高さの原因となっているのはコレだったりして・・・

 

まぁ,人の話を鵜呑みにしないというところが話の始まりだったので,容姿は直接には関係ないように思えますが,実際の話,会話の内容よりも容姿の方が人を信じさせ易いということもあるでしょう。いかにもインチキくさい格好をした詐欺師では仕事にならんでしょうし。

 

そういうことで,人それぞれ他人を観察するためのフレームというのがあると思うのです。コレ,悪い言い方すると偏見といえるのでしょうけど,現実に悪いやつがいる世の中で自分の身を守るために違和感を察知するというのは大事なことでもあるはずです。

 

それが,客観的に見て理不尽な言動に向くようであれば,偏見とか差別とか言われてしまうかもしれませんが,その違和感を人が納得できる言葉で説明さえすれば鋭い洞察力といわれることもあるでしょう。

 

だから,違和感について敏感になることが悪いわけではなく,むしろ良い面もあるはずです。ただ,人を疑うのであれば自分のその違和感も疑うことが出来るのか,という面は大いにあるはずです。

 

ことわざでも“七たび尋ねて人を疑え”というのがあるらしいのです。

 

このことわざは,「物をなくしたときはまず自分で十分探した後に人を疑いなさい」という意味でして,一見して,思い込みというのがいかに曖昧なものかということと,人を疑うことがいかに重大であるかを教えてくれています。

 

このことわざが,発動するようなケースを想定すると,何かを紛失したときに,たまたま「こいつなら盗りそうだ」と思い込むような人と現場に出くわしたような場合のことでしょう。

 

それは,「こいつなら盗りそうだ」と思われる人について,なぜそう思うのかと問われると,それほどちゃんと説明できる理由が無いこともあると思います。その思い込む理由というのがそれまでの経験から無意識にそう思うのであれば,他人が納得できる説明をすることは難しいことでしょう。「まぁ,そういうことにしておこう」と闇カルテル宜しく意図的に団結するように説明することなら出来るかもしれませんけど。

 

そのときの疑う理由ということを自分までに及ぼすとしたら,物理的に探すのと同時に,前にフレームと述べた,いわゆる自らの偏見の正当性を考えてみる機会でもあると思うのです。

 

いってみれば,「こいつはとんでもないやつだ!」ということで,その人の心理を探ろうとして,実際に覗いているのは自分の心の深淵だったりすることってあると思うのです。

 

ひとりの考えというものは,どうしても偏りが出てしまうのは仕方ないとして,そのことを意識できるかどうか,という事が,客観という共有できるはずの概念を共有するために重要な心構えとなってくるのではないかと思います。

 

冒頭における”人の話を鵜呑みにするな”ということも,自分の思い違いをも疑った方がいいんない?,という意味も含まれているように思います。

2回目

2014-04-18

忙しい毎日が続いています。

 

喜ばしいことです。

 

今日は,午前中に決済をすませて,これから成田に支部総会に行かなければなりません。

 

議事録を作りを命じられました。これで2回目・・・

 

まぁでも,今週は土日休めそうなので良しとしましょう。

 

良い週末を

行ったり来たり

2014-04-17

忙しいことに不満を覚えたり,仕事が無いことに不安を覚えたり,人として生きていればまぁそういうこともありますよね。

 

でも,その極端な状態が解消されたとしても,その延長で別のところに不満の矢先を持っていくって事もあります。

 

だったら,不満なんか持たなければいい,といえば正にそうなんでしょうね。

 

もっとも,それが意外と難しかったりします。

 

逆に,調子のいいときはどんなことも乗り越えられそうな気にさえなりまして,いつもそうあればいいなぁと願いつつもそうも行かないのです。

 

その良いときと悪いときを行き来しつつ極端な方向に傾かなければ,結果的に意外と良い人生といえるのかもしれません。

 

だから,いいときはたとえ続かないとしても,やっぱりそのときを楽しまなきゃ勿体ないし,悪いときは頑張っておいた方が良い方向に向き易くなると思ってます。

 

禍福はあざなえる縄の如しといいますので,やっぱり投げ出してしまうよりは希望をもって生きたほうがいいのでしょうね。

 

もちろん,すべてを楽観すればいいという訳ではなくて,不安でどうしていいか分からないなら分かるまで考えてみたいと思ってます。

Immigrant Song

2014-04-16

総務省が15日発表した2013年10月1日時点の人口推計によると,外国人を含む総人口は前年に比べ21万7千人(0・17%)減の1億2729万8千人で,3年連続の減少となったそうです。

このうち15〜64歳の生産年齢人口は116万5千人減の7901万人で,32年ぶりに8千万人を下回ったとのことです。

 

 なお,1947〜49年ごろのベビーブームに生まれた団塊の世代が続々と65歳に達し,高齢化が加速。働き手の減少により,現役世代の社会保障費負担増や経済の成長力低下が懸念されるとのこと・・・

 

まるで,移民を受け入れなければならないと言わんばかりに読めましたか?

 

HAHAHA!!

 

少子高齢化という傾向は,ずいぶん前から新聞やテレビでよく言われていますが,珍しくどうも本当のことのようです。

 

なんでも,少子高齢化は先進国の共通の悩みだとか。

 

その理由として考えられるのは,生まれる子供が少なくなることについては,女性が自立できるくらいに女性を受け入れる労働環境が整っていることや,子供に標準か,それ以上の教育を施すことを望む世帯が多く,そのための時間やお金などの負担が大きくなっていることが挙げられるのではないかと。

 

そして,高齢化については言わずもがな,人間は誰でも歳をとります。生まれてくる子供が少なければそういう傾向になるのは当然です。食生活が良くなったり医療や福祉が発達したりして長生きできるようになったことは良いことだと思いますけどね。

 

そして,この問題を例にとって必ず取りざたされるのが,社会保障費の問題です。

 

よく,逆ピラミッドの形状に例えられますが,要は高齢者が受給している老齢年金などの社会保障費のために,少なくなりつつある若者たち一人当たりの負担割合が増大するということのようです。

 

そして,よく言われるのは,老齢年金の受給額について世代が若くなるにつれて少なくなっていくということです。つまりは,今後もずっと少子高齢化は進行して行くという見立てなのでしょう。つまりは,我々の世代が稼動年齢を超えたときに果たしてその収入で生活できるのか,という不安があるということです。

 

まぁ私なんかは定年が有りませんですが,逆に退職金もありません。一生働き続けなければならないのでしょうし,実際に同業の皆様はそうされているようです。

 

サラリーマンであれば,定年後に退職金と年金だけで暮らしていければ,悩むことなど何もないのでしょうけど,実際にそうもいかないとなると定年後もどこか働く場所を見つける必要がでてくるでしょう。

 

そうなると,景気が悪く収入が伸びないのに年金などを支払うのが馬鹿ばかしい気持ちになり,いっそう不払い増えてしまいそうな気もします。

 

 

しかし,実際に社会保障費として支出されたお金は少なくとも介護や福祉の方に回って従事者の所得となっているはずです。その従事者の方々がどこかでお金を使えばそれは景気に影響するのでしょう。

 

それでも,高齢者は若い人達と比べてお金の消費が少ないと思われますが,溜め込んだお金はいずれ相続されて,税金として支払う分を除いて(27年1月より相続税の基礎控除額が大幅に下がりますね)次世代に引き継がれます。まぁ現金や預金などは現役世代の住宅ローンの支払いなどに充当されるのかもしれませんが,それでも生活費の負担が大幅に減るでしょうから,消費をしやすくなる傾向となるでしょう。

 

私は,コレ,実際バカにならないんじゃないかと思っています。ましてや少子高齢化であれば相続人が少なくなるわけで,相続によって引き継ぐ財産が少数に集中し分散がなくなるわけです。そうなると老後の蓄えとしてとっておいたとしても,そのほか余った分を消費する傾向になるのじゃないかと考えています。

 

だって,お金はヤギに食べさせたり,トイレで使って流さない限りなくならないはずなので,どこかに流動が起こればそれをきっかけとして循環しやすくなるはずでしょう。

 

国の借金問題というマスコミの触れ込みを信じていない私には,少子高齢化という現在の状態自体については,さほどの問題を感じません。

 

ただ,日本人が少なくなっているという傾向自体には,問題がいっぱいあるでしょうから,やっぱり改善しなければならないと思うのです。

日本人なんですよ!問題は。

 

やはり労働力など供給力が少なくなるでしょうから,国力は衰える方向に向かうでしょう。

 

では,供給力を補うために移民を受け入れることがいいといえるのでしょうか。

 

しかし,たとえば,安倍政権に不満を持っている我々の目前に,どっかの先進国が移民受け入れOKよ!と呼びかけてきた場合行きますか?

賢明な方なら,何か特別な理由が無い限り行かないと思うのです。なぜなら,日本の生活水準や治安などが他の国と比べて著しく高いことを知っているからです。

 

逆に,日本に移民としてくる外国人は,まぁそういうことだと思います。居住区を作ったり権利を主張したり様々な弊害が出てくることでしょう。

スウェーデンがえらいことになっているようですし・・・

 

そして,移民によって日本人が奪われるものは,仕事や所得や居住など様々だと思いますが,逆に得られるものって思いつきますか?

労働者の量(しかも日本人と比べて低水準の)くらいしか私は思いつきません。

 

それって,実際誰が喜ぶのでしょうか。

低水準の労働者に高架橋や建築物を造ってもらっても嬉しくないどころか危険極まりないように思います。

 

一体喜ぶのは誰なのでしょうか?

人材派遣会社か?

人件費を引き下げて利ざやを多く得ようとしている企業か?

 

でも,それって,我々労働者の所得水準自体が下がることにならないか?

 

そのことは,内需主導で推し進めた日本の経済を停滞させることにならないか?

 

ところで少子高齢化って,何が問題だったんだっけ?

 

え〜と・・・現役世代の社会保障費負担増や経済の成長力低下が懸念されるとのこと・・・

寒暖

2014-04-15

ちょっと腰痛が痛みます。(重複?)

 

昨日冷え込んだと思ったら今日は非常に暖かく感じました。

 

まだまだ,気が抜けません。

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