もし免罪符があったら買う?
もし,社会一般においてはやってはいけないことをヤラカシてしまったとしましょう。
そうすると,概ねヤラカシてしまったことに相当する償いを求められるわけですな。
例えば,中華料理店で食事をしていたときに,通りかかったウェイターが運んでいた平皿からソースがこぼれて自分の洋服が汚してしまったとしましょう。
そのとき,お店に対してどのような対処を求めますか。
まぁ大抵の人は,謝罪を求めると共に,お店側の粗相によって洋服が汚されたとして,汚れた洋服の損害についての回復に相当する対処,すなわちクリーング代程度の現金の支払が相場かと思われます。
もっとも,人によっては思い入れのある洋服を一時的でさえ汚されたという精神的損害とか,自宅に帰るまで汚れた服を着て帰らなければならない云々というのも加算したりするかも知れませんが,私の経験上(責任を問われる側として)クリーニング代程度で許して頂けるようです。(最近はどうかわかりません)
これを,『目には目を歯には歯を』方式で償いを求めるとすると,「お前の服を汚してやるぞ〜」とばかりに,お店の責任者の服を同じように汚すことで償いが済むのでしょうかね。流行にあわせて三倍返しすれば,たちまちラー油で真っ赤に染まってしまうでしょう。
でも,それに加えてクリーニング代を請求したとなると,バランスが悪くなる気がします。お客さんの損害は清算されて,お店側には責任者の服が汚されたという実損が残ってしまっていますね。
それでは,危害を受ける対象が洋服という,洗えば汚れが無くなり,また替えがきくというものでない場合ではいかがでしょうか。
たとえば,自分や身近にいる大切な人の精神や身体が陵辱を受けたりした場合,どのような償いを求めるでしょうか。もちろん,法律の規程が頭をかすめるでしょうけど,例えば無政府状態だったらいかがでしょう。
これは,個人的な意見ですが,この場合だと『目には目を歯には歯を』の考えが直接的な感情に沿うように思えるのですね。
先進国であれば,謝罪や金銭賠償が当然のこととされているのでしょうけど,精神や身体に受けた苦痛がお金や謝罪で回復するわけではないでしょうし,言いようによっては殴られ屋ヨロシク,自分や他人が味わう苦痛は金銭により購えるという穿った考えが出来なくもないわけで,感情として実際に溜飲が下がるかと言ったらそういうものではない気がするのです。
こういっちゃアレなんですが,加害者に同じ苦痛を味あわせてやりたくなるというのが,少なくとも私にとって素直な感情ですし,他の方がそう思われることを私は否定しません。
もっとも,実行に移すということは当然,無政府状態でなければ禁じられているでしょう。大抵の場合,当事者以外は基本的に自力救済(司法手続によらずに実力行使すること)を嫌うでしょうから,通常は法律や慣習などで身勝手な報復は制約されているのでしょう。
日本風でいえば,どちらともなく始まった喧嘩は,身内で止めに入り,落ち着いたところでそれぞれの言い分を聞いて,当事者同士謝って握手して手打ちって所ですかね。
それはもう,どっちが多く殴られてようと手打ちにしなければならないわけで,多く殴られた方は殴られ損なわけですが,殴った相手への報復を諦めなければならないのです。
こういう場合の謝罪というのは,言ってみればこれ以上の争いは止めようという意思のほかに,本来であれば自分が受けた痛みと同等若しくは三倍返ししてやりたい,という相手の感情に対しての減免を求めるものということもあるような気がします。というか,その要素が非常に強いと思うのです。
そのことは,相互に相手に対して負い目を感じているということでしょう。
そうであればそれほど問題なさそうなのですが,被害が一方的だとちょっとややこしくなるようにおもいます。
たとえば,加害者にとって見れば,償いを減免して貰うために謝罪を繰り返し,反応が芳しくなければ開き直る。
一方で,被害者にとってみれば加害者の見え透いた態度が神経を逆撫でするため,徹底的に糾弾するという事なわけです。
そういえば,宗教改革で有名なルターが,その口火を切った原因といわれるローマ教会から発布された,かの有名な免罪符ですが,これには神に対する償いを減免するという効能(?)があったそうです。
謝罪と償いを区別すると,謝った後の償い方が緩くなるというもので,しかもこれがローマ教会から販売されていて大繁盛したということですから,漫画のような話です。
まぁやっぱり,ヤラカシてしまったことを真摯に受けとめるというよりも,そのために科される償いをどうにかして和らげようというのが,人間心理なのでしょうねぇ・・・
そして,「人間だもの」ということで,たいていの場合は,償いに対する減免を皆が共通して認めているように思えます。法律でさえ恩赦・特赦といった規程が定められていますし,人を殺してさえ永山基準と言われるようにすぐ命をもって償えというわけではありません。
もっとも,免罪符的な考えと対照的なのが,さだまさしさんの「償い」という曲の登場人物だと思います。簡単に言えば,自動車事故の加害者「ゆうちゃん」は自分が許されるために償い続けたという歌詞です。
つまり,免罪符は償いを免れるために許しを乞うためのものでしたけど,「ゆうちゃん」は自分が許されるために償いを続けたということです。
ちなみに「償い」は,交通キャンペーンに使われたこともあるそうですが,もし現代においても免罪符がバカ売れするような世の中だったら,このメッセージは誰の耳にも届かない事でしょう。
でも,もしかして・・・
現代で言う免罪符って,たとえば損害保険のことでは・・・