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長く続く日々の寒さが結構こたえますね。

 

それに加えて先週土曜あたりから目がかゆくなってきました。

 

前々から今年はスギ花粉の量が多いと聞いていたので戦々恐々としていましたが,“ついに来たか!!”という感じです。

 

なんとも,大変です。はい。

 

しかし,そもそもスギやヒノキが花粉を散布する目的は子孫を繁栄させる事が目的なので,スギからしてみれば勝手に人間が苦しんでいるという感じではないでしょうか。しかも,杉の多くが人間によって植林されたものですので,あまりに忌み嫌われている現状はちょっと気の毒に思います。

 

とはいえ,私も花粉症の一人です。寝不足のときなど洒落にならないぐらいのときもあるのでどうにかならないかなぁと心の中で密かに願っています。

 

でも,アレルギーというものは,人間の中の免疫システムのバランスが壊れて一部の免疫力が暴走してしまうことのようです。飛散量が年々増えている結果後発的に花粉症になったとしても花粉を放つスギを悪者にするのは筋違いのような気がします。

 

しかし,さもスギを悪意ある(あるはずないのですが)悪者的仕立て上げておくと,自分の体が起しているアレルギーのことを棚に上げて,スギが悪いから排除しようという論調にもって行きやすいと思います。

 

そうなった場合,意図せずとも,人間の体に影響(体内で抗体が増え過ぎた結果起きているのですが)を及ぼしている限りスギが自らに悪意がないことを釈明することは難しいのではないでしょうか。

 

このあたり,スギを人に置き換えると,悪意(一般的に意味で使われていう)というのは実に見抜くことが難しいし,でっち上げることも簡単なのでは,と思ってしまいます。

 

しかし,憶測で特定の人に悪意があることを吹いて回る様な人の悪意くらいなら私にも見抜けます。

ホームページの左端にある写真は,写真屋さんで撮ってもらったものです。

 

やはり,お金はかかりましたが,自分で見ても(こんな表情ができるんだなぁ)と感心するくらいのすばらしい出来栄えでさすがその道のプロだと思いました。

 

撮影は,2〜30分くらいで行われましたが,カメラマンに言われるままに作り笑顔をしつつ,何枚か撮影していきその中から選択したものです。なかには,(というかほとんど?)われながらひどいかおだなと思うものもありましたが,最終的にいい写真が残る当たりさすがです。

 

目に表情を作らず口角だけやや上げた表情をアルカイックスマイルというそうです。

ギリシャのアルカイック彫刻の表情からそう呼ばれる由来となったようです。

 

穏やかに見えますが,何を思うか気になる微妙な表情ですね。

前にご紹介したメラビアンの法則にもあるとおり,視覚というのはコミュニケーションにおいて一番情報を収拾する感覚です。何も言わなくとも表情ひとつで相手に何かを伝えるということもできそうですが,それだけでなく,相手に勘ぐらせるということもあるようです。

 

竹中直人さんのネタで“笑いながら怒る人”というのがありますが,あれも視覚に対して聴覚と言語の内容が全く違うというギャップが笑いを誘うというものだと思います。(ギャグの解説とはなんとも無粋ですが・・・)

 

人に感情を強く伝えるには,表情も作るといっそう効果が出るかもしれませんが,目鼻立ちの小さな私にはちょっと難しいです。なお,表情を作りすぎるとへんな人と思われるのでご注意ください。

写真 (15).JPG

なお,私は法隆寺観音菩薩像に似ているそうです。

2013-02-22

なんとなく思いついたので芥川龍之介作の「蜘蛛の糸」についてです。

 

なお,書き出しを考えたのですが,ちょっと言葉に不適切な部分があると思いやめました。

 

では,早速あらすじから

『大泥棒のカンダタは生前に犯した数々の悪事により地獄に落とされていました。それを天界から眺めていたお釈迦様が、カンダタも生前一度だけよいことをしたからチャンスをやろうと、蜘蛛の糸を垂らしました。

カンダタは糸を掴んで登っていきますが途中で下を振り返ると他の亡者達が登ってこようとしていました。糸が切れると思ったカンダタは俺の糸に登るな、降りろと叫ぶ。
すると糸はぷつりと切れてしまいました。
それを見届けたお釈迦様は悲しげな顔をして立ち去りました。

そして,天界の蓮は何事もなく美しく咲き続けましたとさ。』

 

というのがあらすじです。

 

地獄に落ちた者達は,生前の業とはいえ辛く苦しい沙汰に耐え続けます。

それは,自業自得という言葉がふさわしいかもしれません。あの世の場合なら仕方がないと思います。

ですが,現世では苦しんでいる人すべて自業自得といえるのでしょうか。まぁいいです。続けます。

 

 

そこに救いの蜘蛛の糸が垂らされてきました。それは普通しがみ付くでしょう。

しかし,しがみ付いたのは細い蜘蛛の糸です。どれくらいの重みに耐えられるか分かりません。(実際には,同じ太さの鋼鉄の5倍の強度といわれています。まぁいいです。続けます。)

 

そして,それを見ていた同じ立場の人たちが一緒に蜘蛛の糸につかまり上ってきました。

 

ここで,俺の糸だ!と叫んで追い払うのはそう悪いことでしょうか。

 

実際にお釈迦様が垂らした糸は,当初はカンダタのために垂らしたものです。ひとりが上るだけでも切れそうな糸に沢山の人が上ってきたらすくなくとも「お前ら!とりあえず落ち着け!」くらいのことは叫びそうな気がします。(地獄には行きませんが)実際に同じ境遇になったら言葉を選ぶほどで落ち着いてられないかもしれません。

 

現代に生きている我々は,自分に与えられた権利は自分で守ることを教育されています。それは,守らなければ奪いに来る者がいるからで至極当然のことです。

 

逆に分け合うことも教育されます。これは,道徳的観点が大きいと思いますが,実際に国家単位で利益の分配ができていない国の経済的状況を見ればある程度必要である理由は明らかだと思います。

 

じゃあ,何で糸が切れてしまったのかというと別にお釈迦様が切ったわけではなさそうです。

明らかに重みで切れたのでしょう。

 

じゃあ,どうすれば地獄から抜け出すことができたのでしょうか。

 

みんなで話し合って順番を決めて上っていくのが合理的だとおもいます。

 

・・・が,私はこの方法も難しいと思います。ひとりが上っている間,何人もがずっと引き続き苦しんでいなければならないのです。決めた順番どおりに全員が従うとは私には思えません。そういえば,東日本大震災のときに断水の起きてない地域においてもスーパーから水が消えたことがありましたね。その分の水が被災地に送られたという美談を私は聞いていません。

 

結局,蜘蛛の糸一本じゃ誰も助からなかったのではないでしょうか。

 

 

お釈迦様のお戯れにも似たような救いの糸を地獄から逃げ出したい一身で先を争い結果,誰も救われなかったということになります。

 

そして,自らのかけた情けを“いかにも人間らしい”振る舞いによって不意してしまったカンダタ達の悲劇をお釈迦様は“浅ましく”思われたようです。そして,一部始終を見届けた後にぶらぶらと歩きながら,“もっと多くのカンダタのような人々をみずからが救いたい”とのご決意をされたそうです。

 

なお,極楽はお昼ごろだった模様でお釈迦様はお昼ご飯を食べに行ったのではないかと推測しています。

 

そしてそれらの出来事をさも瑣末なことと言わんばかりに天界の白い蓮の花は咲き乱れあたりに良いかほりを漂わせていたようです・・・

 

 

結構,私見が入ってしまっていますが,原作は天国と地獄のイメージの描写が実にしっくり来る作品だと思います。この世でも同じような・・・おっと!それ以上は言いません。

 

なんかこの話を読むたびに,日々,人間ならではの欲とかそれを戒めるための倫理だとか,そんなことに振り回されながら必死に生きている自分の姿が,まるで,棒で巣を突かれて逃げ回る蟻のように思えてなんともむなしい気持ちになります。

 

それでも,その欲とか倫理とかで迷っている自分が小さく見えると不思議と元気が出てきてしまうのは,まるで,バブルあたりにやっていたドラマで,高層ビルから人々の歩く姿を見下ろして「俺達になんてちっぽな存在なんだ」のようなことをつぶやくシーンを見たときのあの気持ちの様です。

 

なお,「蜘蛛の糸」に対する高橋の感想はかなり捻くれているのではないかと思います。

 読み方によって様々な感想を持てる名作だと思います。

 

短編なので20分もあれば読めますから読んだことのない方は是非読んでみてください。

 

でも,この世に天国も地獄も必要ありませんよね。

2013-02-21

先日,第一生命保険が「第26回サラリーマン川柳コンクール」の入選作100句を発表しました。

 

職場や家庭に関する川柳は毎度ながらですが,最近の出来事など時事ネタも多くその作品は時々の話題を反映しているようにも思えます。

 

その中でもやはり,ips細胞と選挙ネタが多かったような気がします。そのほかにはスマートフォンやフェイスブックなどが新しいネタとしてあがってきていました。

 

ちなみに入選作の中では,「不景気が 味をよくする 発泡酒」が気に入っています。

 

ネガティブな時代背景の中においてほんのわずかな喜びの時間を皮肉るあたりなんともいえない哀愁を感じます。また,自らの発泡酒の日々について溜飲が下がる思いがするとともにクスリと来るところが好きです。

 

ほかにも色々いい川柳がありましたね。

 

自分でも考えてみようと思うのですが,つきなみなのしか思いつきません。

 

む・・・むずかしい!

ある日,とてもお買い得な情報をインターネットで知ったとします。

 

申込期限までは時間がありましたが品数が限定されています。

 

これは,「善は急げ」とばかりに申込しようとしたとき,それを見ていた友人が「せいては事を仕損じる」といさめました。

 

どちらも昔からあることわざなのでしょうがどちらが正しいのでしょうか。

 

自分の経験に置き換えると急ぎすぎて失敗したことも逆に急いで良かった事もあります。

 

きっと,どっちのことわざもそういう経験をした人がその結果を皮肉って言ったのかもしれませんが,いずれも場面を限定していないので真理とまでは言えないのかもしれません。

 

われわれは,偉人の言葉の断片だけを捉えて真理を探ろうとしますが,その人の歩んできた道のりから生まれた真理であって,どんな人にでもどんな場所にでも普遍的に通じるよう真理を言葉で表したとしたら生物が死をいずれ迎えることぐらいしか私には思いつきません。

 

私は,少なくとも人の数だけ真理ってあるんじゃないかと思っています。

 

でも,人ってできるだけ自分の行動規範を簡略にしようとするような部分もあると思います。その一番簡単な方法は人が話した聴こえのいい言葉に乗っかることだと思います。

 

だから,テレビの人や政治家さん達の中には何とか簡略で人が馴染みやすく聞こえのいい言葉で話す努力をするのでしょう。それ自体は,ご商売なので問題のあることだとは思いません。

 

ただ,「たった一言」に大衆心理が大きく揺れる様な状態はちょっと怖いと思っています。

 

あと,セールスなどでもこのようにいわゆる「口車」に乗せようとすることもあると思うので,必要のない商品なら,「人は人 家は家」といった感じできっぱり断るの良いかと思います。

2013-02-19

今日も雪が降っていました。

 

今年は本当に良く降ります。

 

寒い日が多いのか昨年よりも電気代がかさんでいます。

 

天気予報では,寒さは今月いっぱい続くとのことでした。

 

春の訪れはまだ先か・・・

 

春が待ち遠しいということで,野球の話題です。

 

プロ野球西武から海外フリーエージェント(FA)権を行使して米大リーグ、アスレチックスへ移籍した中島裕之内野手が昨日からキャンプに合流したとのニュースを見ました。

 

キャンプ初日から,積極的に他の選手とのコミュニケーションを取り合い,守備の連携プレーの練習中にはおもむろにメモを取り出して書き込む姿が見られました。サインプレーの確認とのことです。

 

人に見せるための謙虚さよりもこういった自分自身に対する謙虚な気持ちはさすが日本の一流選手だと思います。見習いたいと思いました。

 

また,今日はフリー打撃で初めて柵越えを放った様です。

 

シーズンでの中島選手のメジャーでの活躍が楽しみです。

民法改正に向けての法制審議会(法相の諮問機関)の中間試案にて,銀行や貸金業者が中小企業などに対する融資の際に求めてきた個人保証を原則として認めないことが概要として盛り込まれているようです。

 

 ご存知の通り,個人保証とは,中小企業などが運転資金などを借りる際に企業が返済できない場合は経営者や親類,知人が保証人になる制度です。特に保証人が債務者と同様に無条件で返済を求められる「連帯保証」となることが普通です。

 

このため,企業が倒産した場合には連帯保証人が肩代わりを迫られるのですが,企業が運転資金として借りるような多額なお金を個人が返済できるはずもなく,自己破産に追い込まれることなどが社会問題となっていました。

 

これだと,貸主,借主,保証人の誰にとっても不幸な話になってしまいますね。

 

我々は,何かをする度に気づかずとも法律にかかわりながら暮らしていますが,本来の趣旨が分からなくなっているような条文も散見されます。

 

 

まぁ,もうちょっと楽な話にしましょう。

 

民法第233条という条文があります。

 

隣の敷地から枝が出ていた場合と根っこが出ていた場合の規定です。

 

233

  1. 隣地の竹木の枝が境界線を越えるときは、その竹木の所有者に、その枝を切除させることができる。
  2. 隣地の竹木の根が境界線を越えるときは、その根を切り取ることができる。

 

ということです。

 

たとえば,隣の家の敷地から塀を越えて根っこが出てきていたら切り取ってよいのだけど枝が出ていた場合は勝手に切ってはいけないというように読めます。

 

枝の場合は景観を重視して植え替えの機会を与えるためだとか隣の敷地に入らないと枝が切れないからなど色々言われているようですが,どれもしっくり来ませんね。

 

じゃあ,何で根っこは切っていいの?というと,これについても実害がないのに越境しているだけということをもって根っこを切ってからしてしまった場合は,権利の濫用とされて損害賠償を負わされる可能性も否定できないと思います。

 

このケースでは,お隣さんどうしがこの条文を知らない方が,穏便に解決できるような気がしないでもありません。

たまたま,庭の掃除をしていたときに隣家に枝がはみ出していることに気づいて(切らなければ)と思っていた矢先にお隣さんが六法全書を片手に「こういうことだから切ってもらえますか?」と居丈高に言われたらあまりいい気分はしませんよね。

 

先ほど,生活の中で気づかずとも法律関わっていると書きましたが,ご自身の良心と思いやりに従って生活している限り触れてしまうことはあまりなのではないかと思います。

 

だから,普通の生活でいいのだと思います。

 

ただ,テレビを見ていると,その普通の生活が非常に分かりにくくなっているのは私の実感です。

 

まぁ最近よくテレビ見ているので何ですが・・・

ここのところ,おろそかになってしまいました。

 

サボっているわけではありません。

 

 

さて,ひとつの事件をきっかけに体罰に対するバッシングが強くなってきました。

 

前にも書きましたが,現代の子供においては家庭で父親に叩かれる様な事があまり無いため,叱られている時に叩たかれたとしても叱られている理由と物理的行使の理由を別に捉えてしまうので叱っている理由が伝わらなくなるから体罰はあまり馴染まないのではないか,というような趣旨を書きました。

 

しかしこのことは,言って聞かないばかりか秩序まで乱そうとする子供に対しての話にまでは及んでいません。これは,もう他の子供たちへの影響もあるので現場でのそれぞれの判断が必要だと思います。

 

そして,この判断にまでいちいち体罰反対を唱えると現場が機能しなくなるばかりか,いじめなど本当に悪質なものが見えづらくなると思います。

 

世の中の風向きというのは追い風にすると心強いかもしれませんが,ひとつの悲しい事件をきっかけに起きたものであるならば考えるきっかけとしなければならないと思います。

2013-02-14

ここのところ寒さが若干和らいだような気がします。

 

もう少しで春が来るかもしれません。

今朝方降っていた雨がやみ一日とても良いお天気でした。

 

風が強く空気が乾いた感じがしました。

 

唇が乾いて切れてしまうためまめにリップクリームをつけています。

 

学校ではインフルエンザが流行ったという話を聞きましたがもう大丈夫なのかな。

 

お体には十分お気をつけください。

結構前のことですが,テレビドラマ『踊る大捜査線』の映画版にて俳優の織田裕二さん演じる青島刑事の「事件は会議室で起きてるんじゃない。現場で起きてるんだ!」という台詞が有名になりました。

 

たまに再放送もやっていたりするので覚えている方も多いと思います。

 

この台詞を一度でいいから言ってみたいと思っている人って結構いらっしゃるのではないでしょうか。実際に言ったことがある方もおられるかもしれませんね。ちなみにハリウッド映画がネタ元といわれているようです。

 

 

あらゆる業界で,イメージを描いたり作業工程を考えたりする役割(以下,「会議室」といいます。)とそれを実行する役割(以下,「現場」といいます。)に分かれて作業を進める場面があると思います。たとえば,会議室の人が現場の役割も担えればこんな問題は起きないと思います。ひとりの人間では,幹と枝葉末節のすべてを把握することが不可能であるから専門分野ごとに役割を分担するのが効率というわけでしょう。

 

で,会議室が完成までの大筋の行程を作り,現場がそれを実行するとしましょう。前述の通り会議室では現場の枝葉末節すべてを把握していません。だから,それを現場で処理するにあたり何らかの障害があったり会議室のイメージどおりとならなかったりすることがあるはずです。ここに会議室と現場との認識の乖離が起こり確執が生まれる原因だと思われます。

 

そうであれば,情報伝達や意思疎通ができてればこういうことも起きないのでしょうけど,それができない理由があるのだと思います。たまに会議室と現場の関係を頭脳と手足と例えている場面を見かけますが,この例えだとまるで現場は会議室の指示に従って入れいればいいように見えますが実際にはどうなのでしょうか。

 

本当の人間の大脳と手足に例えてみましょう。

 

基本的な部分では,手足は勝手に動き出さずに考えたとおりに動きます。

では,緊急事態ではどうかというと,たとえば熱いものを手で触ってしまい反射的に手を引くという場合においては,手の神経から脊髄に伝わった時点で大脳を経由する前に脊髄から手を引くように命令を出すそうです。それと同時に脊髄から大脳にも信号を送るそうです。そのため,手を引いた後に熱さを感じることになるそうです。

 

この例で考えると,会議室と現場の関係は,これらと脊髄の役目をする部署とが適切な距離を保つことにより潤滑になるように感じました。

 

結局,役割分担である以上,会議室も現場もどちらも知識とノウハウが必要だということで,お互い意見を交わしつつも仲良くやった方がいいということでしょう。

 

そういえば,マクドナルドが値上げするかもしれないということのようですよ。

2013-02-07

我々の仕事において大事な大事な業務として相談があります。

 

相談は,まず依頼を受けて業務を遂行するにあたりまず初めに行うコンタクトです。

 

ここで聞き違いや聞き漏らしがあったりすると業務の方針に大きく影響してしまうこともあるため,細心の注意を払ってヒアリングをします。

 

ここで,身近な人へ悩みを話すような相談との違いは,相談を受けている方が相談者さんに方針を示して,かつ,相談を受けている方が解決に向けて実労することにより結果として双方ともに利益となるところにあると思います。ですから,相談者さんへ多少なりとも事実関係について詳細を深く伺うことも必要となります。

 

身近な人への相談の場合は,とりあえず話を聞くというところから始まると思います。相談をする方としては「『自分』はどう行動を起こすべきか(若しくは行動しなくても大丈夫か)」という答えを探していることもあります。でも,悩みがある程度まで煮詰まっているのであれば,その筋の専門家に相談すると思いますし,身近な人に相談している段階ではまだ自分がどういう結果を望んでいるのかすら分かっていないこともあろうかと思います。

 

だから,身近な人から持ちかけられた相談というのは,まず相談者が悩んでいる原因を具現化しつつどういう解決を望んでいるのかをはっきりと浮かび上がらせることが,必要・・・というか真剣に悩んでいる相談者が潜在的に望んでいることだと思っています。

 

しかし,業務においてこの方法で相談を受けることは場合によります。理由は,方向性やリスク,コストなどを説明すれば,ひとまず安心される方が多いですし,なによりとんでもない時間を相談に費やしてしまうこともあるため相談者さんの貴重なお時間を割いてしまうことになるからです。

 

このような,自らの相談スタイル(尊大な気もしますが・・・)についてですが,「身近な人への相談にそこまでしなくても」と考える方も多いかと思います。そもそも,友人にする相談なんて愚痴から始まることが多いと思うので“とりあえず黙って肯きながら聞いて欲しい”という意見の方が多いかもしれません。

そういった話し手にとっては,事実を根掘り葉掘り聞かれることが逆に迷惑と感じるかも知れません。

 

そうすると,愚痴の延長のような相談においては,話す方と聞く方が一方的になりそうです。

 

では,誰か身近でどんなことでも話せる人を思い浮かべて,その人に対して話したいことと聞きたいこと(実際に聞ける範疇で)どっちが多いか考えてみましょう。私の場合は、圧倒的に話したいことが多いです。一般的かどうかは分かりませんが,同じ方覆いのではないでしょうか。

 

では,話すことと聞くことどちらが大変?

これについて,業務上において研修などで長時間にわたり講師の方のお話を聞くこともありますし,自らが講師となったこともありますが,どちらにも疲労感があります。ただ,前者はどんよりと重い疲労感であるのに対し(講師の先生すみません),後者はやり終えた充実感のようなスカッと爽やかなコカコーラのような爽快な疲労感を感じました。報酬もいただけますし。

 

で,ケースは別にしても,私が思うに自由に好きなことを話している方とそれを一方的に聞かされる方では,聞き手の方が負担が重いと感じます。

 

それでも聞き手としては,話し手に頼られている感覚が悪い気分でなければ黙って聞き続けることもできるかもしれません。では,頼られてうれしいとはどういう心境なのかというと異性間であれば,男性は自尊心,女性であれば母性をくすぐられるなどと聞いたことがあります。実際には解りませんけど。

 

でも,これって同性の仲のいい友人間や親兄弟を頼った場合と比べて性質がかなり違う感じがします。

というか,密接な関係にある相手ならば,私だったら黙って聞いていることはありません。ただの愚痴のように聞こえて実は真剣に悩んでいるのであれば(それは何とかしなければ)と思うので心境を探りますし,それがただの愚痴であまり長く続くようであれば違う考え方を示唆して諭すかも知れません。

また,父親が子供から相談をされて自尊心を保つというのもおかしな話ですし,母親はそもそも母性をもって子供に接しているでしょう。

 

まぁ,聞き手が話し手に対して求めているか,それとも与えようとしているかの違いだと思います。

 

きついことでも何かしら言ってくる相手の方が,少なくとも感情移入はしているはずです。

 

異性に対してちょっとした愚痴を言っただけのつもりが,重大な相談を持ちかけられていると相手に捉えられてしまい予期せぬトラブルになる事もあるかもしれません。

 

愚痴を話す方も聞く方もすこし慎重にした方がよいかもしれません。

2013-02-06

あれ?雪は?

 

おかしいな・・・ 

 

 

お住まいの場所の天候はいかがでしたか。

 

四街道では,お昼ごろに雪が降り始めましたがすぐに雨になってしまいました。

 

そんなわけで今日は,雨の午後を外回りしてきました。

 

晴れの日もいいのですが,雨の日の運転はなんとなく情緒があって好きです。

 

しかし,路肩に水溜りができやすいので歩道を通行している人がいる場合には水を飛ばさないように要注意ですね。

 

冬場に続く乾燥した日々に潤いを与える雨の日にはすこし気分も違ってくるような気がします。

 

 同じように過ぎていくように感じる毎日でも少し目を遊ばせれば日々変化を感じることができますね。

2013-02-05

今夜から明日にかけて

 

また,降るようですよ・・・しかもかなり・・・

 

まぁ先週の月曜日のように何の前触れもなくというわけではないので,事前に対策が取れたため,まぁなんとかなりそうです。

 

それにしても今年は良く降りますなぁ。

 

車が使えなくなっても私の場合は電車を乗り継げば何とかなりますが,電車がストップしてしまうとお手上げとなってしまいます。

 

そういえば,3年前の秋くらいに大雨のため電車が運休となってしまったことがありました。車を走らせるにも車道が冠水してしまいました。仕方ないので車は置いていくことにしてズボンの裾をたくし上げて1時間ほど歩いて帰りましたが,途中水に使って動かなくなってしまった車を何台も見ました。

 

本当に公共の交通機関と車が使えなくなってしまうと何もできなくなってしまうんだなぁと。

 

さて,未明から明日夕方まで雪が降り続くそうで積雪15センチときいていますが,歩く覚悟が必要かもしれません。

2013-02-04

鉛筆だけを使って写真と見分けがつかないほど精密な肖像画を描く画家が話題になっているようです。

 

その肖像画は,間近で見ても写真と見分けが付かないほど精密なのが特徴です。

しかも、描くのに用いるのは鉛筆だけだそうで,1枚およそ1万ポンド(日本円でおよそ150万円)の値段が付いており,ロンドンの博物館で1日から作品展が開かれるなど注目を集めています。

 

このニュースを某インターネット掲示板のニュースで知りました。世の中にはすごい人がいると感心しましたが,一方で「それなら写真でもいいのでは」という書き込みもありました。

 

絵を見ると確かに写真と見分けがつかないくらい精巧なのですが,それはインターネットを通してみているからだと思います。実際の肖像画を見るためには現物のある場所へ行かなくてはなりません。その人しか描けない絵であれば絵自体はその人が描く限りで存在します。どんな物にもいえると思います。ただ,欲しがる人がいるかどうかで希少性が出てきます。

 

人が欲しがるような絵であれば,手のかかり方が違うと思いますし時間と手間が掛かっているはずです。その時間と手間も希少性を高める要因となるはずです。希少なものには高値がつきやすいので所持していれば箔がつきます。

 

そうなると,次第にレプリカが量産されたりして,その絵の実写だけは大量に世に知れ渡り本物はますます価値が上がっていきます。

 

そこで,レプリカを購入して「部屋に飾るならこれで十分」と毎日眺めて楽しめればそれでその人にとっては十分なものとなります。それはそれでいいと思うのですが,そのレプリカ自体には現物に掛けられたアイデアだとか手間ひまだとかいうものが乗っていません。量産のノウハウ自体にはお金も人員も使われていると思いますが,量産化された数だけ希釈されているような感覚にどうしてもなってしまいます。

 

でも,一般の人が例えレプリカでもすばらしい絵画を自宅に飾ることができるということは芸術の振興においてもいいことだと思います。

でも,レプリカと現物は同じものではありません。

やはり,描かれた世界とともに作家の技巧や過程や葛藤や迷い等を感じるのも楽しみのひとつだと思うのです。本物と思い込めばOK!といえば確かにそうかもしれませんが,やっぱり本物はその人が描いたものだけです。

 

本来,何かを作り上げる上で過程というのは非常に大事なものであるはずです。しかし,流通や通信の発達でとても手軽に完成品が届くようになりました。とても便利になりましたが,あまりのスピード化になんとなく出来上がるまでの過程を見失っているかもしれないと自分自身において感じました。

 

絵画の例は,過程の話としてはちょっと分かりにくいかもしれませんが,美術に関するテレビ番組を見ていると描いた人の人となりを知って見た事のある絵もまた違って見えてくることがあります。

 

音楽は,いまや好きな曲だけをダウンロードすることができるようになりました。おかげでCDが売れなくなったとして問題となっていますが,楽曲の製作過程などをもっとリスナーにアピールすればまたアーティストへの興味が違ってくるのではないかと思いました。昨今のリスナーは出来上がった音だけを耳にして評価していると思うので技術的な面が立体的には分かりづらいと思います。

 

たとえば,マグロの解体ショーや蕎麦打ち実演などでお客を集めるお店もありますし,製作過程というのは結構みんな興味があることだと思います。

 

ちなみに我々の業界は守秘義務があるため実演はできませんが・・・

今日は寒さが落ち着いています。

 

若干薄着になりました。

 

1月が終わりお正月気分を改めて2月を迎える所存です。

 

そして,早速明日は2月に入ってすぐ節分という行事があります。

 

節分といえば,「鬼は外!福は内!」といいながら豆をまくのが古くからの習慣でしたが,ここ最近,その年の恵方(陰陽道でその年の干支によって定められた最も良いとされる方角のこと)を向いて巻き寿司を食べるという「恵方巻」(えほうまき)というのを良く目にします。

 

私は,この「恵方巻」をつい最近になって知ったのですが,近所の回転寿司に行ったときに大々的に宣伝していました。お寿司屋さんとしては,こういった行事はお店のイベントとして利用しない手はないでしょうね。

 

回転寿司やさんのフロアーカウンターはコンベアの構造上「コ」の字型になっているお店が多いと思いますが,客席満員の状態でお客さんが揃って同じ方向を向いて太巻きを食べる光景はさぞ壮観だと思います。実際どうなのかちょっと興味があります。

 

今まで,2月3日は豆をまく日だと思っていましたが,商業的には煎り大豆と鬼のお面だけでなく太巻きも一緒に売れた方が良いかもしれません。

 

今年は,幸い日曜日にあたりましたのでご家族と過ごされる方も多いと思います。2月3日はちょっとしたイベントになるかも知れませんね。

2013-02-01

緊急事態がありました。

 

今から出ます。

2013-01-31

小学5年生の1月の晴れた日曜日のこと,何者かに僕と友人のラジコンが盗まれました。正確には,僕のではなく弟が誕生日に買ってもらったものでした。

 

タミヤの組み立て式のもので子供のおもちゃとしては,結構値の張るものでした。

当時は,子供たちのあいだでちょっとしたブームでして,ファミコンに飽きた後に持ち出しては外で遊んでいました。

 

その日の午前中,友達と二人で近くの公園でラジコンを走らせていました。

広場で走らせ続けていましたが,充電が切れてしまったためお昼もかねて友人の家に一旦もどってお昼にすることになりました。

 

まだ,当時の僕は世の中の人がすべて健全で最低限の思いやりを持っていると思っていました。学校では人は信じるものと教育されていましたし,やってはいけないことをやった人には必ず罰が下り,理不尽なことで苦しい思いをしている人にはいつか必ず報いが訪れると信じていました。

 

僕らは,外に置いた自転車のかごにラジコンを入れたまま友人の自宅に上がっていきました。。。。。。。。

 

 

 

お昼を食べ終わって,さて自転車でどこか出かけようとしたところ・・・

 

 

あれ?

 

どこにおいたっけ?

 

 

事態に気がつくのには,時間がかかりました。

人というのは最悪の事態があったと認識するまでに時間を要するものですね。

真冬の北風の強い午後に顔から汗が滴り落ちます。

 

交番に駆け込んで事情を説明しました。

若いおまわりさんが,優しく対応してくれました。

(この人なら何とかしてくれるはず。正義の味方だから)

そう思うよりありませんでした。

 

冬の日暮れは,あせって探している僕らにとってはとても早く,探しつかれて途方にくれる頃にはとっぷりと暮れていました。

 

家路をたどり家のドアの前まで来たとき

(このまま帰ったら,どれだけ怒られるだろうか)

そう思った僕は,午前中までラジコンさんが元気に駆け回っていた公園に戻りブランコに揺られながら一日を思い返していました。

 

〜午前中は楽しかったな〜

 

〜まぁおまわりさんがきっと何とかしてくれるだろう〜

 

〜あのとき,家に持ち込んでいれば〜

 

重い悔恨の念に苛まれ家に帰る気にもなれず,そのまま公園に住むことに決めました。

 

夜の8時くらいでしょうか。両親が公園まで探しに来ました。

なぜ,公園にいるか分かったかというと・・・まぁそういうことなんです。

毎度ながら子供なりに計算がありました。

 

翌朝,登校するとすでにクラスでは話題になっていて10人くらいに取り囲まれました。

 

「大変だったな」「俺たちが探してやるよ」

 

(みんなぁ〜〜〜〜)

 

ということで10人くらいの緊急捜査本部が設置されました。

 

放課後,直ちに三手に分かれて捜査を開始しました。

 

第一捜査隊:1時間ほど探したけれど見つからず隊員の家でファミコンにふける。

 

第2捜査隊:モグラの穴を見つけてホースを穴に突っ込んで放水して捕獲作戦を実行。

 

第3捜査隊:駄菓子屋でうまい棒の品評会

 

 

(お前らただ暇つぶししたいだけだろ)と思い始めた頃,"昨日それらしきラジコンを持った中学生3人組を発見した"という報告を盗難に遭った翌週の月曜日に仲間達から聞きました。

 

その日は少年野球のため捜索には参加できませんでしたが,みんな集まって探してくれていたそうです。

 

なんでも,みんなで3人組の後をつけて公園で遊び始めたところで何名かが警察を呼びに行き公園まで連れて来たそうで,おまわりさんが中学生に事情を聞いていたもののお咎め無し(何を話しているかは聴こえなかったらしい)で放免したということでした。

 

そのあと,その中学生に追っかけまわされて逃げ回っているときに鉄棒に頭をぶつけたという武勇伝を大きなこぶをさすりつつ笑いながら隊員の一人が語ってくれました。

 

 

あの頃は,いつも泥だらけで傷ついては喜んでいたような気がします。

 

あの頃の夕日は今よりも大きかったような気がします。

街を歩いていると有名芸能人の写真が掲載されている広告を良く見かけます。

 

そして,雑誌の表紙は有名アイドルだったりテレビ番組では俳優さん,女優さんが役を演じていてコマーシャルでも売れているお笑い芸人さんが出ていたりします。

 

その中でなんとなくそういう人たちのファンになって憧れてグッズを買ったり振り,付けを真似したり,髪形を似せたりしますが鏡に映った自分の姿は・・・・

 

いや,人間見た目じゃない!自分には秘めた才能があるはずだ。と考えて今度は芸術関係に手を伸ばします。

 

この世界は,いいものとダメなものとの線引きが曖昧なために自分の作品を必要以上に可愛がる事ができます。つまり,世間の評価が芳しくなくても「時代を先取りしすぎた」などという理屈で自己処理をできてしまいます。

実際にはどんな分野でもセオリーがあってそれを辿っていくのがスタンダードなんでしょうけど,正解がない世界だと自己流も間違いではなくなります。

 

だから,特に前衛芸術の分野では玉石混交だとおもいます。本当にセンスのいい人というのは何故か目を惹くような作品を次々と生み出します。こういう人の作品を見ていると人間の美的感覚というものは宇宙のように無限に広がっているのではないかとさえ感じます。

 

だから,むしろセオリーから外れた芸術の方が100m走の様な個人の露骨な才能の表現といった気がします。

 

奇をてらうということは容易いことです。セオリーから外れればいいのですから。しかし,そう考える人は沢山いる訳で,むしろその世界の方が人の目に入らなくなってしまうということもあるはずです。

 

ちゃんとセオリーを辿っていった方が色々な人から信頼されて人目に掛かる機会が多いかもしれません。

 

でも,どこか人と違うことを恐れるわりには自分を特別と思っていたい部分もあったりするので,人にどう評価を受けようと自分の意識をそのまま体現したいという心理っていうのもあると思うんです。それはそれで楽しんでやればいいんでしょうね。

 

 

以前,深夜(自分にとっては)テレビでマツコデラックスさんが,自身のお仕事について「ある意味社会不適者の集まりだから社会に適合できる人は,ムリして不適合者になる必要は無い」というようなことを言っていましたが,特殊な才能というのは社会適合性の裏返しになることもあるのかもしれません。

 

実際にテレビでやっているようなことを真似たりすることが学校や家や会社ではまずいこということが沢山あるはずです。それでも,それを公共電波で流して人気が取れるというのはその人の才能だと思います。

 

人はそれぞれ生まれたとき既に誰とも違う訳で,だから大人になるための準備として言語とか共有しなければいけないものを統一した教育により覚えていく必要があります。だから,それぞれどんな人にも個性が観念できるのは当然のことで,それは能力や人気にかかわらずです。

 

だから,どんな人も何をしていてようとも特別と思えば特別なんだと思いますよ。

 

他人に対してもそう思っていれば尊重することができるでしょうし。

2013-01-29
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昨日,このあたりは明朝から大変な雪となりました。

 

車は使わずにモノレールで移動したのですが,高架線から見下ろす千葉の街は見渡す限りの雪景色でした。

 

更に上空から湿り気を帯びた綿のように降りつける白い雪は空の色とあいまってなんとなくセピアに見えました。

 

雪の色といえば,子供の頃からスキーをやって(やらされて?)まして,腕にはちょっとした自信がありました。

 

小中学校の頃は,友達などに披露する機会がなかったものの高校を卒業した位から仲間と連れ立っていくようになり,ちょっとしたヒーロー気取りでした。おそらく,鼻持ちならないやつと思われていたと思います。ほんとうにすいませんです。はい。

 

もっとも,向上心は全然なく子供の頃の貯金をひけらかしていた様なもので,スクールに通ったり昇級試験を受けたりすることはありませんでした。

 

ほどなく,流行にあわせてスノボーにも手を出しましたが,覚えは早かったもののそれまでの貯金が通用しないのが面白くなかったため,普通の男の子に戻りたいという言葉を残してスノボーも引退しました。(というか,金がなくなりました。)

 

その後,ずっとウィンタースポーツから遠ざかっていたのですが,近年になってやる機会がありまして古〜いスキー(自分の身長より15センチくらい長い)を持ち出して参戦したのですが,自転車に乗るがごとく意外と体が覚えていました。

 

で,話を戻して関東の雪を見る度に『ハ〜ア〜エ〜イヤ〜盆だてがんに 茄子の皮の〜雑炊だ〜』と新潟発のグルーヴが身体を支配し始めて頭の中で大勢のハツカネズミが盆踊りをしだすのです。

写真 (14).JPG

というわけで,はしゃいでしまう言い訳です。ブログを書くのも忘れるほどに・・・

 

地球上の大気が循環していれば,もしかしたら子供の頃に見た雪や二十歳前に見た雪が今見る雪と同じものかもしれません。

 

でも,やっぱりその当時は違って見えるのは,地球環境の原因もあるかもしれないけど自分が変わってしまっているのだと思います。

 

自分の場合だと,この仕事についてからというものの路上で生活する人達への意識が強くなり,子供の頃みたいに手放しに雪を見て喜べなくなってしまいました。(ほんとうです。)

別にみんなもそう思わなければいけないと言いたいのではなく,人それぞれ時間の経過により物の見方が変わっていくということです。

 

木々は四季折々姿を変えますが,四季のサイクルでまた同じ姿に戻ってくれます。

そして,それを見る我々は去年も今年も来年もまた違った情緒を抱きながら移りゆく季節を感じるのではないかと。想う人がいたり,仕事がうまくいっていたり,悲しい出来事があったりする度に・・・

 

まぁそんなわけで雪も程ほどにして欲しいと想った次第であります。

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