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朝三暮四

2013-11-14

 台風で大損害を受けたフィリピンでは,被災地に救援物資が届けられず,救援活動は難航しているようです。とても心配です。

 

もう,フィリピンという国家だけではとても復興するのは困難な大惨事となっている模様で,各国から救援部隊が出動することと思われます。

 

日本も大震災でお世話になりましたし,政府は自衛隊を千人規模で派遣するとの事です。

 

ここ最近,日本に訪れる台風もちょっと洒落にならなくなっていますし,これは対岸の火事とはいえないと思います。

 

高度経済成長期に整備したインフラも老朽してきていることから防災対策は喫緊の課題といえるでしょう。

 

そのことに関係あるかどうか分かりませんが,今日のニュースです。

 

政府は14日、民間よりも高い高齢層や地方勤務の国家公務員給与の抑制策を検討するよう人事院に要請することを決めたそうです。

 

なんでも,国家公務員の給与は,東日本大震災からの復興財源捻出のため,12年度から平均7.8%減額されているそうですが,平成14年4月からは元の水準に戻す方針が決まっているとの事です。


 しかし,消費税率の引き上げ時期と重なることから,「国民に負担増を求める一方,公務員給与を実質的に引き上げることになり,批判を招く可能性がある」との理由で,引き続き人件費を抑制する政策を検討しているということだそうです。

 

この話を聞いて,ハッキリ言いますと政府に対してかなりムカッときています。

 

このニュースにおいて,私は消費税によって負担増を求まられる国民側で,それにともなう形で給与を下げられる公務員ではありません。

 

ですが,これによると来年の4月から消費税の増税で家計の負担が増えることになる我々国民は,国家公務員の給与が上がる(元通りとなる)とそれを妬んで批判するようなのです。

しかも,その妬みは国家公務員の給与を下げることで溜飲が下がると思われています。

 

これじゃあ,「朝三暮四」の四文字熟語で言うサルと同じです。完全にバカにされています。

 

そもそも,消費税増税において深刻な問題は,家計の負担が増えることもそうなのですが,その影響で買い渋りが起きて消費者物価の下落,すなわちデフレの促進であるといわれています。

 

その財政の壁が,来年の4月に訪れることになります。

その壁を乗り越えて軟着陸する方法が,消費者の購買意欲をいかに損ねないかということだとすると,所得が安定している消費者がなるべく多い方が需要の下落幅が浅いことになります。

 

にもかかわらず,国家公務員という職業からさえ安定を削ってしまうと,国内の消費活動に影響が出るばかりか,賃金におけるモラルハザードが民間においても起こりそうな予感がします。

 

ましてや,経団連に対して賃上げを求めたところ,公務員の給与を基準の参考にしているという回答があったという話を聞きました。

 

つまりは,「人を呪わば穴二つ」ということで,国家公務員の安定した給与を妬めば妬むほど自分に帰ってくるわけです。

 

もちろん,日本国民の労働者のほとんどは,そんなバカげた批判をするはずないのですが,誰も批判した覚えが無いのに大多数が批判したと報道されることに。。。。。

 

そういえば,日本におけるかつての不動産バブルにおいて,海外からは軟着陸したと評価する向きもあるそうで,その原因のひとつに終身雇用制が挙げられていたそうです。

要は,バブルがはじけた後も住宅需要などが,それほど大きく減らなかったという評価でしょう。

 

もっとも,当時の橋本政権において,バブルの後始末として財政緊縮政策と公共事業費の削減した結果,日本は長いデフレ不況に陥りそして未だにデフレを解消することが出来ていません。

 

だから現在の状況は,企業も消費者もお金を使わないで貯めているのが現状で,だから民間労働者に分配されにくくなっているわけです。

 

企業の立場からすれば消費者がお金を使わないのであれば設備投資したり人材を増やすより内部留保を増やした方がよい訳で,消費者からすれば会社の給与が下がっているのであれば貯めておいたほうが安心なわけです。

そして,物価が下がる分貨幣価値も上がります。

 

そうやって,どんどん不況の谷底に落ちていったのがこれまでデフレが続いた経緯なのです。

 

そうであれば,すくなくとも公務員には安定した給与を保障した方が,消費活動の維持に資するでしょうし,累進性により所得の多い者から多く取った税金が民間に分配される機会となるはずです。

 

ですので,足の引っ張り合いはかえって自分の首を絞めることになるのです。

しかし,ある特定の人達を敵を定めて大衆に攻撃を唆した方が,大衆というのは与し易くなり,かつ批判を体制への批判を逸らすことができるのだと思います。。

 

 

こんなことしてた人,ちょっと前でもいませんでしたか。

 

突然しゃしゃり出てきて,原発についていい加減なこと言ってる元総理。

今日は

2013-11-13

これから,佐倉ミレニアムセンターに相談員として参ります。

 

かなり冷え込んでますので,暖かくしてお出かけください。

騙されないために

2013-11-12

今月の下旬に高校生に向けた講義を担当することになりました。

 

現在,その内容を検討中です。

要望としては,学校を卒業してから労働により賃金を得るようになって,いち消費者となるにあたり知っておくべきこと,ということだと思うので,それに見合った講義を考えています。

 

もっとも,過去4回ほど経験があるので,仕事の合間でもなんとか準備は間にあいそうなのですが,毎度の事ながら考えさせられるのは,高校生達は基本的に親の同意がないと法律行為における契約が出来ないので,高額な契約などの話をしても現実味がなかなか湧かないであろうというところです。

 

まず,自分でアルバイトなどでお金を稼いでいる生徒は限られているでしょうし,生活にまつわるような出費もないとおもいます。また,闇金や悪質な商売なども漫画のうしじまくんの様なのをイメージするんじゃないかと思います。(あんな闇金いたら嫌です。)

 

もっとも,意外と大人も知らないんじゃないかと思っています。

ペーパー商法などは,豊田商事の事件から30年近く経ちますが未だに影を潜める気配はありません。

 

そのほかにも色々と詐欺や詐欺まがいのレパートリーは尽きませんが,大抵の人にとっては「何でこんなにの引っかかるんだろう?」と不思議な気持ちになるようなものがほとんどだと思います。

 

そうなんです。

 

泥棒と違って詐欺やまがいは,こちらから金品を差し出し,また印鑑をつかなければ被害に遭いようにないのがほとんどなのです。

 

要は,勧誘などには乗らず,必要なときに必要な物を必要な分だけ信頼できそうな業者に頼んでいれば,引っかかる心配はほとんどないと思います。

 

人から金品を詐取するために人の欲を煽るなど様々な手口があるようですが,そのどれであっても同じことだと思います。

色々な手口を知るよりも自分の心掛けだけで十分防げることだと思っています。

 

そうであれば,“上手い話などある訳ない!”これだけを心に決めておけば社会に出たばかりといえど付け入る隙がないのですが,これを家庭のコミュニケーションで伝えることが出来ていない現状があると思います。

 

それは,家庭内のコミュニケーションが不足していることもあるのかもしれませんが,私が思う一番の原因は,その肝心の親も上手い話を探しているのだと思っています。

 

もっとも,高度経済成長からバブルにかけては本当に上手い話がそこら中にゴロゴロと転がっていたのかもしれません。

その世代の人たちがその成功体験を忘れられないとしたら,そのさらに上の世代の人たちが若い世代に教えなければならなりませんが,世代を超えた普遍的な事柄が伝えられなくなっているのは核家族化の弊害といえるでしょう。

 

そして最近,最高裁により非嫡出子(婚外子)の相続分を娘息子の相続分と同じにする判決が,より一層家庭という枠組みを壊したように思います。(なんと,出生届の記載まで婚外子との区別をなくすとする戸籍法改正案が審議されたようですが,自民党の一部の心ある議員の強い反対により見送られることになりました。)

 

ということなので,現代の高校生は学校でお金の使い方まで習わなくてはならなくなったということから,私が派遣される次第です。

 

そうであるとしたら,色々な詐欺の手口があると個別事例を伝えるよりも,これから社会に出る人達にもっと知って欲しいことがあります。(もっとも,興味を持ってくれそうな個別事例は紹介するつもりですが)

 

それは,自分の心が自分の意図せぬ方へ向かうことがあるということです。

そのことを知っているかどうかで時間の使い方,すなわちお金の使い方が大きく変わるはずです。

 

 

それは,興味の方向についてもそれを知っていることにより変わってくるということです。

 

たとえばビジネスで財産を築いたような人はパチンコはやらないと思います。

パチンコを打って小金を失う時間があるのならさらに稼ぐための活動をすることでしょう。

 

 

知識や教養,ゴルフの腕などを普段から磨いてビジネスの場で発揮することを良しとするか,日がな一日パチンコ雑誌を眺めて朝一で給与の大半を失うことを良しとするか,それは善悪では無くいずれも好きでやっていることです。

 

多くの人は,後者について不思議に思うかもしれませんが,それは人間の心理が為すことのようです。

 

人には「希望的観測」という自分の都合の良いように考える心理が働くそうで,これが無ければわざわざ生殺与奪をパチンコ店に与えに行くことは無いはずです。

 

また,散々に損したにもかかわらず,かつて少し稼いだ記憶により,損した事実を自分の中で打ち消してしまう“認知的不協和”という心理が働くそうでそれによって頑固なまでに通い続けるということになるようです。

 

これらを知っていれば,パチンコ店に近づかないばかりか,むしろ自分が稼ぐ方に利用するでしょう。

なお,“認知的不協和”は,マーケティングの基本的な理論だそうです。

 

つまり,興味の違いは,時間の経過とお札などの貨幣そのものか,それとも人にお金を払わせるための自分の能力か,というところになると思います。

 

そしてこの関係は,悪い商売にも当てはまるはずです。

 

まぁ,お互い好きでやってるんだから良いんじゃないの?と思う方もおられるでしょうが,これが家庭崩壊というかなり悲惨な結果となる現状を,私は目の当たりにしているので,少なくとも若い世代にはこのことを心の隅にすこしでも置いて欲しいと願うばかりです。

メモ

2013-11-11

手帳はたいていの場合持ち歩いています。

 

何かあったときのメモには非常に便利です。(たまにボールペンなどの書く物を忘れていることがありますが)

 

このメモという行為も意外と意見が様々なようで,何から何までメモをとる人もいれば,メモに頼りすぎて覚えられないということからメモを取らない人もいるようです。

 

私は,どちらかというと取るほうだと思います。

 

ちなみに,私はものを覚えることが苦手ではありません。

しかし,それを意識し続けられればということです。

 

何かを覚えた拍子に,何かしらアクシデントの連絡が入って,その瞬間に様々なことを考えるのですが,(人間の脳のすごいところだと思います。)こういうときは直前に覚えたことがスポッと記憶から抜けていることがあります。

 

そして,その手の連絡が非常に多いのがこの仕事です。(私だけ?)

 

そういう状況を経験しているからメモはこまめに取るようにしています。

 

要は,自分をよく知っているということだと思います。

 

こういう趣旨ですと,メモを取るだけで安心していてはまずいと思っています。

 

見返すこともこまめにしないとメモを取ったこと自体忘れてしまうこともありますし,また怖いのはメモの誤記です。

 

書類提出日付の誤記に直前で気付いたこともありました。

 

実に心臓に悪いことですが,普段からメモを持ち歩かなければならないくらい覚えることが多い生活をされている方って日本には多くおられることと思います。

 

そういえば,メモ魔と呼ばれる逸話をもつ優秀な先人が多くいたことを記憶していますが,それは自分の記憶を過信しないという意味で大変参考になると思っています。

 

もっとも,覚えておく事とその必要の無い事を取捨選択する手段としても非常に有効ですし,そういう人たちは書きとめたメモを私の想像を超える様な有効な使い方を実践していたのかもしれません。

 

私においても,スマホに記録しておくよりも手書きで記した方が素早く,しかも整理も楽だと感じています。

 

少なくとも私の世代が生きている間は,紙媒体などのアナログから完全に離れるということは無いんじゃないかと思っています。

つるべ

2013-11-09

「秋の日は釣瓶落とし」といいますが,本当にこの時期はあっという間に日が暮れます。

 

金曜日にふと釣瓶って何?と思い調べてみると井戸の中につるす桶のことのようです。

 

するするっと早く落ちていく釣瓶を夕日の沈む早さにたとえたのでしょう。

 

そういえば,つるべおとしといえば,水木しげるさんが書く妖怪にもいたような・・・

 

それはもしかしたら,もともとあった地方の言い伝えをモチーフとして妖怪を描いたのかもしれません。

 

昔の人たちは,とても想像力が豊かだったのでしょうね。

 

良い休日を

自由という空間

2013-11-08

高校生くらいのときにMTRという多重録音機を買って,楽器を重ね重ね撮りして音楽制作をしていました。

 

それはまるで何の制約も無い空間で,その空間に楽器で奏でた音がひとつずつ重なっていき,(そこそこ)楽曲らしくなっていきます。

 

何も無い場所に自分の思うように音を重ねていく,「これこそが自由だ!」と当時の自分は感動したものでした。

 

もっとも音楽にも理論がありますが,言わば道標みたいなのもので従わなくてはいけないものではないと考えていますし,同じように考えている人が素晴らしい音楽を生み出していることの事実です。

 

また,当然楽器を入手して練習して演奏できるようにならなければなりませんが,その制約は自由な空間を阻害するものではありません。楽譜どおりに弾かなくてはならないという制約ももちろんその自由な空間を失うものではないのです。歴史や伝統を継承することももちろんです。

 

 

この自由の空間は音楽に限られず,絵画で言えばキャンパスがそうでしょうし,演劇で言えば舞台でしょう。

これを言論にたとえれば,世間ということになるかもしれません。

 

いってみれば,自由というのは静的な状態の表現だと思っています。例えば,魚目線でいえば自由に泳げる水の中というイメージです。もちろん陸に上がるとダメというその空間の範囲に限定されるでしょうけど。

 

一方で,制約からの解放のような能動的な表現で使われることも多いでしょう。というかこういう使い方の方が圧倒的に多いと思います。

前にも書いたことがありますが,英語で言う「liberty」という意味合いです。

 

ふと思ったのですが,自由についてのこの二つの意味は両立しないのではないかと思うのです。

たとえば言論に例えるなら,自由な空間においては誰もが好きなように発言できるのであれば,その内容がぶつかり合うこともあるでしょう。

これはこれで,空間が自由であるからこそ起こりえるわけで,そうであれば罵詈雑言などに制約を設けることは自由な空間を快適に利用するために必要なことで,自由な空間を侵害することにならないでしょう。

 

逆に,制約からの解放という能動的な意味で捉えると,ようは不満があったら自分で勝手にやれという風になりやすく,そうであれば個人に権「利」として与えることになるでしょう。

そうであるならば,罵詈雑言にもそれなりの言い分が含まれて個々が主張を膨張させた結果,その主張が衝突することになりますが,それぞれが自由を権「利」として持っているから国家としては整理のために介入しづらくなるでしょう。

 

だから,一元的内在なんちゃらとか言う,強引な技術論を持ち出さなければならず,よい言論を行うための規範も確立しません。

 

 

そういった現状を考えると,国民の権利として「自由」という曖昧な言葉を含める自体が非常にまずい気がするのです。

 

そもそも,自由なんて概念さえなかったであろう封建社会の江戸時代に様々な文化がうまれ,「白川の清きに魚住みかねてもとの濁りし田沼恋しき」といったような,(だれうまの)政治批判などが残されているように,意外と自由なんて謳わなくてもわりと気ままにやっていたのではないかなぁ,と思うのです。

 

つまりは,自由という権利を侵害する可能性というのは,国家よりもそれぞれ三軒両隣のイワユル権利者ではないかなと。

 

昨日の話しで言うと,楽天の社長が主張している営業の自由がドラッグストアや薬剤師さんの営業を阻害しているということですよ。

またもや

2013-11-07

政府は,インターネットを使った市販薬の販売を巡って焦点となっていた副作用のリスクの評価が定まっていない薬については,販売開始から原則3年以内でネット販売を認めることを決め,今の国会に薬事法の改正案を提出し成立を図ることにしています。

 

これについて楽天の社長が,この政府の方針に反対して政府の産業競争力会議の有識者議員を辞任する意向を固めました。

 

社長が言うには「今回の規制は、ネットユーザーを中心に大きな波紋を呼ぶと考えているし、特定の団体の利益を守る規制については断固として反対する。」ということだそうです。

 

この発言の中で言われている,「規制」を「規制緩和」とすると,不思議と私が言いたいことに早変わりします。

 

まぁそれはいいとしても,社長は,法案が成立すれば法的な措置(改正薬事法に対して違憲審査を求めるのでしょうか)を取る考えを示しております。

 

なお改正薬事法案は,その後内閣から国会へ提出されて国会の議決を経て法律として制定されるのですが,国会の決議を経る目的は権力のうち一番民意に近い国会議員で構成する議院による議決を経ることで,間接的ですが“国民を制約する法律は国民が決める”という建前になります。

 

では今まで(選挙で選ばれた国会議員ではない)民間議員という立場として法案の作成に携わった目的はいったいなんだったのか,ということになります。

 

まぁ言わずもがなですが・・・

 

全くもって,本末転倒のように思えます。

 

 

また,先の最高裁判決を振りかざしているようですが,この判決は,“現行薬事法にかかる省令(薬事法の委任を受けて厚生労働大臣が定める命令のこと。もちろん国会を通した薬事法より下位)が,一般薬品の特定の種類について郵便等による販売を「一律に禁止」している部分において現行薬事法の趣旨に適合していない(法律の委任の範囲を逸脱している)”ということを指摘しています。

そして,省令が一律に禁止している部分について無効と判断しています。

ですから例えば,種類を定め,または条件つきでインターネット販売を禁止する省令であったとしたら,それについての判断はしていないことになります。

 

そりゃそうでしょう。誰がどう考えてもすべての薬品をインターネットで販売することはまずい(というか恐怖を覚える人もおられるかと)と思うはずです。

 

なぜなら,消費者の知識というのは当然ですが,販売者や専門家よりも劣り,また消費者ごとに差があるからです。

 

たとえば,最近流行の偽装表示を思い出していただけたら解ると思います。(今年の漢字は「偽」になりそう)

車えびとブラックタイガーの違いが,分かる人も分からない人もおられると思います。当然初めて車えびを食べる人にはわからないでしょう。

もちろん,知らずにブラックタイガーを食べても「ああ美味しかったね」で住むかもしれませんが,(もちろん,これでも問題ですけど)これが健康の改善を目的とする医薬品となると非常にまずいことは想像できると思います。

 

だから,厳重な規制を設けて薬剤師という専門家を販売に介在させて,売り手に規制をかけるとともに我々消費者の安全を保障しているのです。

 

 

一方で,限界集落などに住む方々にはインターネットで医薬品の提供を出来たほうが良いという意見もあるようですが,そういった場所に住む方が専門家どころか全く人を介さずにインターネットで医薬品を購入できるって,安全保障の観点からはさらにまずくないでしょうか。

無作法に情報が飛び交うインターネットの世界で,一人暮らしのお年寄りが顔も見えない相手から医薬品を買うことを想像すると恐ろしいことです。

 

ちなみにこのたび社長がふて腐れている決議は薬事法の改正案に関するものです。

つまり,例の最高裁の判決は,省令については無効と判断したものの,郵便等の販売を禁止していなかった旧薬事法から現行薬事法に改正された立法過程を斟酌したとはいえ現行法が違憲などとは判断していません。

 

にもかかわらず,薬事法を改正して9割方ネット販売が認められるというところまで持ってこられたのですから,社長としては大成功だと思うのですが,それでも満足できないようです。

欲望に際限が無い,これがまさにこれがグローバル資本家の真骨頂ではないでしょうか。

私淑

2013-11-06

私,今まで知らなかったのですが,「私淑」(ししゅく)という言葉があるそうです。

なんでも,

 

『直接に教えを受けるのではなく,ひそかに師と仰いで著書などを通してその学問や人格に学ぶこと。』

 

なんだそうですよ。

 

 

ちなみに直接教えを受けている場合は「親炙」(しんしゃ)というそうです。

 

この「私淑」は,孟子の言葉だそうです。

 

孟子は,孔子の門人となって教えを受けることはできなかったのですが「子は私(ひそ)かにこれを人よりうけて淑(よし)とするなり」として,慕っていたことからこのような言葉が生まれたようです。

 

そういえば,孟子といえば性善説が有名ですが,個人的にこの議論については,意識に着目しすぎるあまりに自然の部分が排されているように思えて,それほど興味を持っていませんでした。

 

まぁそれはいいとしても,この「私淑」という言葉は恥ずかしがりの私にとっては非常にいい言葉だと感じました。

 

たとえば,人柄とか人物像というのは,基本は会って,話して,時には飲みながら胸襟を開いて語り合うことで,徐々に知りゆくことになろうと思います。

 

ですが,それでも時間というのはその人を変えていきます。

 

いえ,正確に言うなら自分が変わっていくのでしょう。お互いに。

 

だから,飲んで語り合った言葉も聞いたときの心には残れど,変わってしまった自分にとっては記憶に残っている言葉の意味も,受け止め方も変わってしまうのでしょう。

 

だから著作(文章に限らず)というのは,後に誰に何を言われようとも,その時の魂を記すという言わば覚悟であると思います。

もっとも,それは物理的に残さないとダメで,そういう意味ではいずれ消えて無くなってしまうかも知れないインターネットという虚像の空間に書き込んでいる私はズルいのでしょう。

 

そして,著作を通じて著者のその覚悟と魂に触れたとき,胸が熱くなり涙が溢れることもあります。

 

その時,「お会いしてお話を聞かせていただきたい。あわよくば,自分の存在をその著者に認識していただきたい」という思いが膨れあがりますが,まぁ来られても迷惑でしょう。

 

また,SNSやメールなど,ネットを通じてコミュニケーションをとれる非常に便利な時代でもありますが,それだけにそういう人の対応に追われている事でしょうから,私は直接指導を受けること無くとも,ひそかに師と仰がせて頂いているわけです。

 

現在,価値観が多様化したと言われていますが,その分多くの著作物が商品として出回りその内容も様々です。

ですが,個人的な意見として,玉石混淆と言うには,あまりに「玉」が少なすぎるように思えます。

 

それは,おそらく多くの著作者が,どんなことをしようとも,あまりに早い情報の流れが過去を浄化してくれると考えているからではないかと思います。

 

そう考えると,一個人の表現というのは大河に笹舟を流すような,何をしようとも誰の目にも留まらないという虚しさもあるのではないかと思います。

 

ですが,今の心を何らかの形で真剣に誠実に記したものは,たとえ後に残らないものだったとしても,その時それを受けとめた人の心には残ります。

また,その時点で評価が得られなくても時間が過ぎたために評価が変わることもあるでしょう。

 

そしてなにより,誰にも評価が得られないという理由で表現を止めてしまうことは,「私淑」している人にとっては悲しいことだと思います。

土曜の夜

2013-11-05

日曜日に日本シリーズで楽天が巨人を破って初の日本一になりました。

 

テレビ中継の関東地区の平均視聴率は27・8%だったそうです。

 

なお,無敗のエース田中将大投手が登板した土曜日第6戦の平均視聴率は関東地区では28・4%と最終戦より高かった模様です。

 

この試合で田中投手は今シーズン初の敗戦を喫したのですが,ちょうどその頃,私はBSで 「男はつらいよ」を見ていました。

 

もはや日本では説明をする必要が無いほど有名な映画で,ギネスブックにも認定されました。

 

全48作品も続いたこの映画は,寅さんが柴又に帰ってきてはドタバタを起して,恋をしては敗れるという毎度おなじみのパターン(まだ全部見てないですが)なのになぜか飽きがきません。何でこんなに面白いのでしょう。

 

私が生まれる前に第1作が上映されましたが,ちなみに満男は私よりちょっと年上です。

 

国内はもちろんのこと国外でも人気が高く有名どころだとフランスのシラク元大統領のほか意外なところだと金正日やイギー・ポップ(パンク歌手,ステージで自分の身体を切り刻んだりガラスの破片に寝転がるなど大変過激なパフォーマンスを繰り広げた過去を持つ反面,日本人の妻をもつ親日家で時に意外とまともな人。東日本大震災の際にも非常に丁寧なお見舞いのメッセージを贈ってくれました。)

 

私は今でこそ,この物語を昭和の人情物語としてみていますが,外国の人たちにもファンがいるとすると,映画の魅力は単純なノスタルジーだけでなく,日本の下町の人情味や恋に破れる男心などで,そういった魅力は外国でも理解されているということでしょう。

 

日本国内で落としたはずの財布が届けられることに外国人は驚くといいますし,私達が思っている以上に,日本と比べて外国における生活はすさんでいるのかもしれません。

反面,暮らしている我々が思っている以上に日本の暮らしというのは穏やかなのかもしれません。

 

もっとも,そうであれば外国並みの生活水準でも良いかと言うと,そういうことではなく先人から継承されてきたこの国におけるたしなみをきちんと代々に渡り引き継いでいるからこそ,人情となりまた文化として昇華されてきたのでしょう。

 

だから,諸外国を見回して体裁を取り繕うより(若者の間ではキョロ充と言うそうです。)当然のことながら過去をいつくしむことの方が大事であるはずです。

 

そして,寅さんがいつまでもフーテンでいられるように,高度経済成長期の様に豊かな経済を日本国民が享受できる日が再び戻ってくることを願ってやみません。

民主主義の限界

2013-11-03

例の参議院議員が大変な失態を演じました。

 

彼に関しては,いずれ何かしらやらかすんじゃないかとは思っていましたが,国会議員1年目というのは勉強やら様々な準備やらで議員らしい仕事はなかなか出来ないと聞いたことがあります。

だから,しばらくはおとなしくしているだろうと思ったところ,まさかこんな早くからしかも大変なことをやらかすは・・・・いったい普段何をやっているのでしょうか。

 

これ,何がまずいのかって少し考えればわかることです。

要は国民の民意を余すことなく汲んで政治を動かすという民主主義の理想を実現するためには,天皇陛下の御存在はあまりに影響が大きすぎるため,政治的行為は控えていただき,国事行為に関しても内閣の助言と承認により間接的な民意によるコントロールを効かせる様にしている,

ということを理解していれば,このような行為に及ぶことはないでしょう。

 

ましてや,選挙で選ばれ「全国民の代表」たる国会議員であれば,自分のシンパなど特定の人間の利益のために行動してはならず,そうであるからこそ間接民主制が健全に機能することになるのです。

ですから,原発のことでなにか言いたいのであれば,国会という場において質疑に問うという方法によるべきなのです。

 

また,天皇陛下に直接手紙を手渡した場が園遊会ということなので,天皇陛下に直訴するにあたり国会議員という立場を利用したというところも悪質なところでしょう。

 

なお,天皇陛下へのお願いは,憲法16条により法律で内閣に提出することによって認められていますが,これをしなかった。何故でしょう。テレビカメラがまわってないからでしょうか。

 

ですので,国家統治の趣旨や法律による手段に則ることを無視した行為など非難すべき要素は様々あるのでしょうが,もっとも責めるべきは天皇陛下に対する非礼であるはずです。

右とか左とか関係なく,意図的に天皇,皇后両陛下のご主催の社交の場を私利私欲の目的で乱したことは常識以前の許すまじ行為です。

 

普段ならこんなトンチキな人の行動など語るに及ばないと思ってます

ですが,この人が選挙に受かって,国会議員としては(人としても)慎むべき行為を公衆の面前で行い,しかもそれについて一部擁護の声が上がっていることについては,ひじょ〜〜〜に由々しき問題であり,かつ憂慮すべきことと考えます。危機的な状況だと言っても大げさではないと私は認識しています。

 

というのも,あの議員は選挙で当選するという正当な手段により国会議員の立場を得ており,しかも驚くべきことに今回の行為について国民の声の中は一部「賛」という意見も出ているのです。

 

つまりは,あの議員の行動は非合法とはいえ少数民意を反映しているといえるのです。(もっとも民意といっても,公益的なものでなく自らの身に降りかかる火の粉を払いたいという一心でしょうけど)

 

 

まぁ,なんだかなぁ・・・とは思いますが,一方で多数の民意を受けて政権与党となった自民党の信任による内閣,安倍政権の執る方策については,どうも資本家に操られているようで,有権者にとって選挙により国政を任せた意思とは全く違う方向に向かっていると感じる人も多いと思います。

 

つまりは,安倍政権は多くの自民党支持者の意思と違う方向に舵を取り始めている(実ははじめからか?)と思います。

そういう状況下において,少なくとも自分を信任した少数民意のためにプロパガンダやらアクションを起している議員の扇動によって,裏切られたと感じているその他の民意が極右にでも極左にでも一斉に暴発するんじゃないか・・・・

そんな危機感を抱いています。

 

それは,別にあの国会議員ではなくても大阪などまだまだ火種はある様な気がします。

 

そんな,デンジャラス(だと私は思っている)な民主政治を否定して,私心なき哲人による統治により国家を運営することを唱えたのは,かの有名なプラトンです。

なんと,紀元前から民主支配の危険性は語られていたのです。

 

また,民主主義にある危険な部分を説いたエドマンドバークによる「多数者の専制(独断政治)」という概念は,J・S・ミルに引き継がれ,「多数者の専制」を回避しつつ民主政治を現実にする方法として提唱されたのが「代議制統治論」でした。日本で言うところの議会制民主主義(間接民主主義)がそれを実現した形といえると思います。

 

このように先人達は,民主主義の怖さを理解しつつも専制政治を避けるために,なるべく多くの民意を取り入る方法を模索して,現在の政治制度が確立されているわけです。

 

ですので,その沿革を再考するならば,それぞれが国政の主権者であることを十分に理解しなければなりませんが,一方で普通選挙を保障する現憲法には主権者としての責務について何も記されていません。

 

しかし,国民の一人ひとりが主権者であるということは,一人の考えであっても国政に反映されて全国民の生活に影響するということですから,主権という崇高たる権利を持たされていると同時にそのことについてまわる責務を自覚しなければ,健全な国家運営は成り立たないはずです。

 

そして,この度の参議院議員による事件は少数民意が天皇陛下に粗相をするという形で全国民に影響を及ぼしたといえます。

 

しかし,原発問題もそうですが,独りよがりが集まって「これが民意です」などとして原発稼動を妨げるような人達に理解が出来るほど,自分以外の人々の生活というものは単純ではないのです。

 

だからまず主権者として必要なこととは,多様性(自分の考えの外にあること)を受け入れて,その違いや矛盾について多角度から理解してどうバランスを保つかを考えるということじゃないかと思います。

 

逆に,たとえ政治的な知識は無くても,”自分の主張は自分以外のどこかの誰かにもしかしたら迷惑がかかっているかもしれない”という意識だけでもいいと思うのです。

何もするな,考えるな,ということだけではなく心の隅にすこしだけ意識を持っておく,という慎ましさがまず必要という事です。

 

そうしないと,全国民のために自らの主権を行使するという自覚は生まれないと思いますが,それを根本で阻んでいるのが憲法のデキの悪い人権規定じゃないか考えています。

なんせ,なに考えたって自由だそうですから。

11月

2013-11-01

11月になりました。

 

ついこの間まで暑かったのにつくづく早いものだと感じます。

 

日も短くなくなりました。

 

秋も深まりいよいよ冬が到来します。

 

今日も朝方冷え込みましたのでどうかご自愛ください。

NHKの受信料

2013-10-31

NHK受信料訴訟における東京高裁控訴審判決において,「NHKが契約を申し込めば,受信者が承諾の意思表示をしない場合でも,長くても2週間が経過すれば契約が成立する」との判断を示し,受信料の支払を命ずる判決が出たそうです。

 

ネットでは,大ブーイングの模様です。

もっとも,ネットの人たちはNHKに限らずすべてのメディアに対してブーたれてますが,(私もその一人)NHKが視聴者にとって他のメディアと違うのは受信料が請求されるという点でしょう。

 

テレビを買っただけで見てもいないNHKの料金を支払わせられる,しかも他の局からは請求されないのに,というところがブーイングの真意だと仮定しますと,なぜNHKだけ受信料を請求されるのかが問題となります。

 

なお,NHK以外の民間の放送局は広告収入が主だった収入ということは周知されていることと思います。

 

で,NHKの受信料については放送法64条にて

『協会(NHK)の放送を受信することのできる受信設備を設置した者は,協会とその放送の受信についての契約をしなければならない。』

 

と定められております。つまり,初めてテレビを買ったら日本放送協会(NHK)と契約することを義務付けられているということだそうです。なお,NHKは特殊法人という企業体であり国営ではありません。

 

そうなるとなるほど,テレビを買っただけで意思表示をした覚えの無い契約を知らない間に強制的に結ばされていた,という不満が出てくることは解ります。

 

ということで,ひと悶着ふた悶着もあるようです。

 

これをよく“契約自由の原則に反する”,という批判がなされますが,この批判は根拠条文が示されていないので判断しかねる部分です。

もっとも,テレビを買っただけで,テレビを廃棄しない限り支払義務を負わされる契約を強制する法律というのはやはり違和感を覚えることと思います。

 

これについては,以前に高裁の判断があるようです。これによると

NHKという事業体の特殊性として公益性,政府からの独立,財源の自主性(受信料は総務省が国会に提出して承認を得るため,なんら資本の圧力を受けず民意が反映されているという建前),予算など国会からのコントロール(放送法は国会を通った法律です。)を挙げて,受信料は国家機関ではない特殊法人に『徴収権を認めた特殊な負担金というべきものであり,当該放送受信料の支払義務を発生させるための法技術』としてテレビ設置者とNHKとの放送受信契約の強制的な締結を認めています。

 

私もこの判断には賛成です。

なぜなら,どの地域にも等しく行き渡る情報というのは必要であるし,例えばインターネットなどつかえない田舎のおじいちゃんおばあちゃんが,都市部と同じ情報を同時に受けというという言わば,情報における社会保障的な意義がNHKにはあると思います。

 

それには,資本家などからの圧力を受けないように財政的には独立させなければならず,また国会のコントロールが働けば受信料徴収は合理的のように思います。

 

また,国営化しろ!と言い意見もあるでしょうが,そうすると税金からすべての予算を賄うことになるため,NHKを受信料分の増税が必要となり,テレビを持っていない人も負担することになるので,さすがに公平性を欠く気がします。また,予算案は内閣が発案するので政府からの独立という点は保たれなくなります。

 

もっとも,前政権下における尖閣の漁船やら原発やら,どうも政府などから完全に独立しているとは言えないという気配を誰もが感じているでしょうし,これが受信料における不満の理由であると考えます。

 

これは民意を通じて組織構造にメスを入れる必要があると思います。

 

それと,もうひとつの問題があります。

先ほど,NHK(というか公共放送)には社会保障的な意義があると書きましたが,この社会保障という意味は,社会から取り残されてしまった人への受け皿というよりも国民全体で社会を支えることで(中間層から)取り残される人をなるべく少なくするという観点から使いました。

 

そうすると,全国津々浦々の国民に同時に同じ内容(地方特番とかは除くとして)を提供する必要があり,そうであると受信料は「応益負担」(見る機会が多い人が多く負担する)よりも「応能負担」(支払う能力のある人が負担する)という方が馴染みやすい気がします。

 

なお,「応能負担」については,相互扶助や社会連帯というヒューマニズムに基づいた考えが根底にあります。要は,あまりNHKを見ない自分の受信料負担が,NHKばかり見てる田舎のばあちゃんと比べて重く感じるとしても,それは一人一人が社会全体を支えるため,という意識が少なからずないと不公平を感じるものだと思います。

 

そうだからこそ,先ほどの判例のように『受信料の支払義務を発生させるための法技術』というややこしい技術とそれを汲む判断という,ちょっと解りにくい方法になるわけです。

 

ですが,同判例において,憲法19条(思想良心の自由)違反についても論じているのですが,

『要するに,被控訴人(NHK)の放送を嫌悪しているのに,意思に反して被控訴人(訴えられてる人)との契約を強制され,放送受信料の支払を強制されることが憲法19条に違反する旨主張するものである。』として,思想良心の自由はもっと崇高な思想を保障するものとして訴えられてる人の主張を退いています。

 

さすがに,この意訳は無理があるんじゃないかなぁ・・・と。

 

なんどもいいますが,私は受信料を認めたという最終決断については大いに賛成です。

 

ですが憲法では,自由という非常に定義が解りにくいことを個人に保障しておきながら,その一方で誰にでも最低限度の生活を営む権利を保障しています。

 

そうなると,「最低限度の生活を営んでない人が沢山いるから相互扶助の精神で助け合おうぜ!」と持ち掛けても「いやだよ。個人の自由だろ」という風にそりゃ当然なると思います。

 

この,個人の意識やら精神やらを過度に尊重する現憲法は,相互扶助や社会連帯という精神に実に馴染まないものだと思います。

 

そして,その歪が年金不払い問題となって現れているように思えます。実に4割の負担者が未払いなのだそうです。

 

この状態のまま,混合診療を解禁したら間違いなく国民皆保険は形骸化してしまうでしょう。国民皆保険がまともに出来ないアメリカから貰った憲法(constitution国体)で国家を運営することはまさにアメリカナイズなのです。

 

相互扶助の原点として共同体という意識を呼び起こすためには闊達な憲法議論がなされる必要があるはずだと思います。

行動力によって日本は変わる

2013-10-30

行動力とよく言います。

 

たとえば持久力とか集中力などは,動的若しくは静的な状態を維持する力ということでよくわかります。

ですが,行動するのに果たして力が必要だろうかというと,なるほどものぐさなワタクシは休日外に出るのが億劫になることがあります。

そんなときは,年老いた猫のように陽だまりでゴロゴロしていることがあるので,この状態を脱出する力のことかと思いきや仕事において必要なことのようです。

 

そうだとすると,仕事として行動すること自体にいちいち力が必要となるのは,疲れてるときのもうひと踏ん張りくらいしか思いつきませんが,むしろ行動は最小限に留めた方が要領が良いように思えます。

 

仕事として動くこと自体に価値があるとするならば,本日忘れ物をしたため区役所を2往復した私はいい仕事をしたということになります。ですが,もちろんこれで実入りが増えるわけではありません。

 

最終的な成果や結果がそのまま収入となる自営業の世界では,極力動き回る時間を少なくして,余った時間分を付き合いなど宣伝にまわしたほうが効率がいいはずです。

 

ましてや,余計なことをして失敗すると責任問題,賠償問題ともなりかねません。

 

もっとも,固定給の場合に仕事の要領を突き詰めすぎると,次から次へと仕事が回されてきて,同程度の給与を貰っている同僚と比較して割に合わないということもあると思います。

そういう場合は何かしらやっているフリをすることも思いつくのではないでしょうか。

 

逆に言えば,固定給で個別の成果がわかりにくい仕事であれば,仕事をしているフリをするだけというズルい人もいるかもしれません。

 

そういう場合に自発的に仕事を探せという意味で,行動する力を持てというのが行動力という言葉の所以なのではないかと勝手に思っています。つまり,給与所得者に必要な心構えとして出てきた言葉じゃないかと思います。

 

自営業であれば,バブルの頃ならともかく現在では行動しなければ本当に何も起こりません。

もっとも,営業職など地道さが必要な業種などにおいて行動力を発揮するとしたら,新規開拓ということだと思いますが,新規訪問といっても闇夜に鉄砲を撃つようなもので,しかも新規ばかりまわっているとそれまでの得意先への対応がおざなりになることもあろうと思います。

 

もしその通りとなって,新規開拓できないばかりかそれまでの取引先の信用まで失った場合,給与であればせいぜい歩合査定に響くぐらいでしょう。ですが,それまで積み上げた信用の毀損と損害がそのまま降りかかる事業者としては堪ったものではありません。

 

つまり行動力という概念を評価の基準とするとロクなことにならないということだと思います。

 

仕事のために動くことは当然と考えていれば,いかに動く量と時間を少なくする方が効率的であり失うものも少いでしょうけど,行動していること自体を評価の対象とすると,その行動力をアピールする虚栄心に駆られて本来すべきことを怠り,一発狙いの大味な仕事になりかねない気がするのです。

 

まぁでも,本当に言いたいのは他人の仕事に対するケチではないんです。(でも,しつこい営業には言いたかった)

 

このところ,政治家でもタレントでもなんでも,行動力を評価して欲しいがために一生懸命目立つようなことをして,その度に報道で取り上げられるのがあまりに目障りだと感じていました。

 

まぁタレントはメディアに取り上げられるのが仕事という面もあるのでいいのですが,政治家はメディアの露出よりも街頭演説など本来やるべきことがあるはずです。

 

また,ある政党では,都市部以外での遊説は効果が薄いということで否定的だといいます。

 

こういう貧困な発想を基にすると,あまり目立たない長期的で地道な行動を否定して,やれ構造改革だなどと安易でかつ目立ちやすい方向に動くことになろうと思います。

 

そして構造改革などという,意味も結果も解らないような事を現実に行った者に対して「あの人は行動力がある」などとほめたたえた結果,本当に大勢の人が苦しんでいるのが現状です。

それでも新政府は,まだ続々と日本国民を苦しめる政策を考え出してているようです。

 

政治が国民の生活に大きな影響を与える以上,政治家がすべきことはメディアへの露出を狙って目立ったことをすることでは決してなく,現状を正確に把握してそれを国民に伝えて民意に問うという地道な活動だと思います。

 

そりゃぁ建前論なんでしょうけど,その建前が完全に無視されてしまってるから,選挙で選出されたわけでもない民間会社の連中が幅を利かすという無茶苦茶なことになってるんじゃないんでしょうか。

趣味はボランティア

2013-10-29

以前に就職活動サイトのTVCMの中で「趣味はボランティア」と動機として「人の喜びに繋がる仕事をしていきたい」とのことを履歴書に記載するシーンがありました。

 

ネットの反応はボロクソだったようですが,私は(CMとしてはともかく)現在における人の評価とか物事の認識などをよく現しているなぁという感想です。

 

ところで,ボランティア活動の原則として自発性,無償性,利他性,先駆性という4つ要素があるそうです。

 

この中で,自発性と無償性はわかりやすいと思いますが,“利他性”というのは他人を思いやる気持ちまたは欲求のことだそうで,“先駆性”というのは社会で何が求められているのかという内心だとのことです。

 

つまり無償性以外は主観に関わる事になります。

そうすると,履歴書に「ボランティアの経験あり」と書く目的のためにボランティアに行くことは利他性と先駆性という意味では当てはまりません。

 

ですが,自分で「結果的に履歴書に書くことになるが断じてそれが目的ではない」と思い込めばボランティアとして成立するんですねぇ。

 

もっとも,会社側の採用担当の人がボランティアの細かい定義まで知っているのか解りませんが,そもそも,ボランティア経験を評価の対象とすることはあまり無いんじゃないかと思います。

 

というのも,会社というのは利益を追求することが目的のひとつなので,どんなにいい行いだろうと無償で仕事をされたら困るのです。(もっともお給料要らないというのであれば別かもしれませんが)

 

会社が欲しがる人材というのは当然ながら売り上げを高める人材でしょうから,無償で行う代わりに社会的な責任も負わないボランティアというのは,経験としてはともかくメンタリティとして評価しにくいのではないかと思います。

 

実際に,ボランティアの要素である自発性,利他性,先駆性が客観的に表現できれば別かもしれませんが,他人の主観というものが解り難いからこそ大手の会社は人事のために部署ひとつ設けて綿密な採用試験を組んでいるのでしょう。

 

ただ,採用試験においてボランティア経験をアピールする人は多いそうで,会社側が欲しがる人材とアピールしていることに隔たりがあるのはなぜか,ということが気になります。

 

私が思うにこの隔たりは,自分という人間の存在を主観として認識するか,それとも社会的な認知により認識すべきか,という違いによって起きていると考えます。

 

要は,“ボランティアをやるような美しい心を持つ自分”というアピールが,多くの志望者の中で及第点を望む会社にとって必要か,ということではないでしょうか。

 

しかし,社会的にはボランティアの定義のうち自発性,利他性,先駆性という部分は営利を目的としていようともある程度必要な部分でしょうけど,それはボランティアを行ったという事実よりも良い方法でアピールできるでしょう。

 

そう考えると,「人の喜びに繋がる仕事をしていきたい」というのもとてもよく繋がる話で,仕事としてお金を頂く以上,(消極的なものも含んで)人の喜びに繋がらない仕事をしてはいかんはずなのです。

 

すなわち,寿司屋のカウンターで「寿司を食べたい!」といっているようなもので当たり前のことをわざわざアピールしていることになるのですが,これがもっともらしく聞こえてしまうのも,自らの存在を主観的に捉えすぎるあまり,社会は人材として自分を見ているという客観的な視点をおろそかにしてしまっていることの表れのように思います。

 

まるで,「我思う,ゆえに我あり」というデカルトの所謂コギトの話のようになりますが,すべての存在を疑った末に残ったのが“疑っている自分”ということなので,意識上で少なくとも自分の存在を否定しきれないということだと思います。

そうであれば自分以外にも,“自分以外を疑う面接担当官”は存在し,疑ってみても家族も兄弟も恋人も上司も部下も隣人も見知らぬ他人もみんな存在して社会はまわっていることになります。

 

屁理屈になりましたが,信念とか倫理とかそういった主観も見据える先は社会であって,単なる自分の思いつきであってはならないはずですが,戦後教育で個性というものをあまりに重んじたために自らが社会の一員という自覚が抜け落ちてしまっている気がします。

 

もっとも,私のろくでもない若き頃と比べると,今の若い人たちは実にしっかりしているという感じがしますので,やっぱり上の世代の責任なんだろうなぁと思うわけです。

もし

2013-10-28

急激に寒くなりました。

 

そういえば木曜日に風邪を拗らせまして,早退して熱燗をキュッとやって早々に寝てしまったところ,翌日見事に復活しました。

日本酒の力は偉大です。

 

日本酒といえば,先週父親が八海山(imeでは一発変換できませんでしたが新潟県魚沼市。)まで出かけたそうです。なお,八海山はブナが多いためこの季節は黄色が混ざりあまり赤くはならないそうです。故郷の湯沢町は紅葉で山が真っ赤だったと言っていました。

 

秋に一気に冷え込むと美しい紅葉となると聞いたことがありますが,まさに今朝方の様に冷え込むと鮮やかな紅葉が期待できそうです。

 

台風のおそれもなくなったので,11月の3連休は見ごろかもしれません。

 

もっとも,台風で大変な災害に見舞われた伊豆大島は今でも作業が続いているようです。(観光気分に水を差すようですみません。)

千葉でも久留里線がまだ復旧してないようです。

 

やはり,日本では地震に限らず自然災害を避けて通ることはできないということを改めて感じます。

 

この度の台風においてもそうなのですが,ニュースで被災された方々の状況を知ったときには,自分が同じ立場に置かれたことを想像して(家も財産も失ってしまったとき何を拠り所にするか)というようなことを考えます。

 

とりあえず,命は助かったものの生活を立て直していくには,相当な時間とエネルギーが必要と思われます。

それまで物質的なものに価値感を見出していた場合は保険でもかかっていない限り失ってしまうものが多いでしょうから,果たしてそこから立ち直れるものだろうか,ということを考えてしまいます。

 

幸い私は大きな災害に見舞われたことはありませんが,稼いだお金で物を買うということを繰り返して日用品と総でない物も含めて日常を創り上げてきた様な感覚もあるので,それらの物と日常が一瞬にして土砂で埋め尽くされてしまうという事態は,想像にあまる悲しさとお察しすると同時に,自分の生活にもむなしさを感じます。

 

犯罪も少なく高度なインフラに囲まれた良質な日常さえも一瞬にして破壊しつく自然災害という事態を,我々日本人はある程度覚悟して生きていかなければならないのかもしれません。

 

そう考えると,たとえ自分の身の回りの物と日常が失われたとしても,何を拠り所にして生きていくか,ということをまだ失っていない日常の中で探していくと,それまで気がつかなかったことが実はとても大切なことだった,と感じたりすることがあります。

 

そして,被災された地域の一日も早い復興を願ってやみません。

神の視点

2013-10-25

以前に,胎児の染色体異常の有無を調べる羊水検査でダウン症と判明したにもかかわらず,院長が妊婦への説明で誤って「異常なし」と伝え,その後に生まれた男児は,ダウン症の合併症のため3カ月半で亡くなったということがあったそうです。

そのため,両親が「妊娠を継続するか,人工妊娠中絶をするか選択の機会を奪われた」として損害賠償を求める事件となったようです。

 

現在の出生前診断における検査では,妊娠中の胎児の異常がかなり高い確率でわかるそうです。この件は,検査結果に誤りは無かったのですが,医師の告知に誤りがあったケースです。

 

本来,解るはずないものが解るようになったのは,めまぐるしい医学の発展のなしたことだと思います。“神のみぞ知る”とは言いますが,人間が神の視点に近づいているという比喩はあながちはずれでもない気がします。

 

もっとも,現実を目の当たりにしてそれに判断を下すのは紛れも無い一般の人なのです。そう考えると,“知る”ということについては,それに伴った思想や教養などを軸とした判断する能力も必要であると感じます。

 

もっとも,胎児の染色体異常については,“思いがけない事実”として捉える方が多いのでしょう。いつの時代でも起こりえる普遍的な出来事であるはずですが。

 

そして,決断を迫られたとき,胎児を人として考えるかなどと法律家のような杓子定規の考えを求める方はおそらくおられないのではないかと思います。こんなことはどうでもいいことだと思います。

 

 

育てる環境や愛情を注げるかなど,様々な要素を加味して当事者が決断しなければならないことでしょう。周囲の意見に流されても悲劇が生まれるだけです。

 

そして,この判断に対して何人たりとも正しいとか間違いという評価をつけるべきではありません。だって,自然の摂理では本来知りえることではないことに対して判断を下しているのですから,正しいとか間違いという概念で評価するのはおかしいわけです。

 

 

これに関連して思いつくことは,「安楽死」のことです。患者の求めで消極的には医師が必要な治療を控え,積極的には薬で死なせたりする行為であるとのことです。もっとも,中絶とは違い自分の意思で自分の生死に関する決断をすることになります。

 

そしてこれと似た概念で,少し前に大きな話題となった「尊厳死」というのは,過剰な延命措置をせず,人間の尊厳を保ちながら命を終えることとの事です。

 

 

要するに,「安楽死」は,医師の介在によるものであるのに対し,「尊厳死」は自らの意思で延命を断る事であるということで,おそらく治療中であるかなどの場面によって使い分けられるのでしょうけど,自らの意思で人生の終結に関わる判断をするという点では類似した概念だと思います。

 

ただ,生物の摂理と考えた場合に,自らの意思により積極的に死を望むという点で「安楽死」は特殊であることに対して,「尊厳死」は積極的に死を望むというよりむしろ自然に身を任せるという意味合いが感じられます。

つまり,「尊厳死」の方が,意思によって生死を決めるという意味合いが少ないように思えます。

 

「安楽死」が自殺と違うのは,生き続けること(延命すること)により本人が身体的に苦しむことが医学により客観的であるということが大きな違いといえるでしょう。

(個人的には,病気による苦痛のみならず,精神的や経済的などの苦痛も含めるべきだと思っていますが,実行することになるお医者さんの立場も尊重すべきでしょう。)

 

そう考えると,意識(意思)と生命どちらを尊重すべきか,ということを思いますが,本来であれば意思によって自然を予測し,変化させることには限界があるはずです。

天気や地震のことを考えると解ると思います。

 

人の生命も自然と同じで,本当は自然に任せるより無かったはずですが,それをどうにかできる様にしたのが医学ということでしょう。つまり医学とは自然の摂理に逆らう学問といえると思います。

 

そうすると,治療行為自体が自然に逆らう意思の基に行われているということだと思います。たとえば,義務による予防接種というのも自然に逆らう意思によるものといえるでしょう。一個人の意思ということではなく,自然に逆らう人間の意識的行為という意味です。

 

だから,国民皆保険によりほぼすべて国民が医療を受けることが出来る日本においては,生命を自然と考えれば,意思が生命を凌駕しているといえるのです。

 

この現状において法律により,生命を自己の意思決定によることが出来ないとすると,治療は自分の意思によるのに死の場面を自分で決められないという,なんとなくねじれた感じになります。

 

もっとも,一般的に言われる自殺というものを肯定することは,遺族や周囲の人たちのとの事もあり問題が大きいのですが,客観的にすでに終わりに差し掛かっているという命に対しては自己決定を尊重する方が,一貫しているように思っています。

 

そして,死期という本来なら解りようが無いことが解るというのは,まさしく神の視点でしょうから,自らの意思により死を選ぶという判断に善悪など付けられようものではないと思います。

 

とにかく私の考えのベースとなっているのは,人間の命も自然の摂理により,医学は自然の摂理に逆らう学問というところです。

空論とこころ

2013-10-23

前に東京MXテレビの「西部邁ゼミナール」という番組を見ていたときのことです。(毎週土曜日の10:30から放送)

 

まだ,民主党政権時代に現在総理大臣である安倍晋三氏が出演しておりまして,日米安全保障条約の話題のときに,“米軍の若い兵士達が命がけで日本を守ってくれるだろう。”という趣旨のことを話していたことを記憶しています。

 

即座に西部邁氏にたしなめられていましたが,強硬なタカ派路線の方とお見受けしていただけに,私はあんぐりしたことを覚えています。

 

一応,何かあったときにアメリカが頑張ってくれる約束(努力目標)になっていますが,アメリカ大統領と議会が軍人達に(アメリカ視点だと格下の?)国を守るために命を捨てろという命令を出すとはちょっと考えられませんです。

 

一個人である兵士が命を捧げると決めている覚悟というのは,当然のことながら母国のためというナショナリズムであって,強者に擦り寄ってくる島国(アメリカ視点)のためでは決してないでしょう。

 

そして,民主主義国家のアメリカでは宣戦布告の権限は議会にあるのですが,他国日本を守るために母国民を犠牲者とするような決議が通るとは思えません。

 

まぁアメリカのシステムについてはいいとしても,人間の生命とか覚悟とか心の部分においてちょっと見識が甘いんじゃないかなぁ・・という安倍晋三の氏の印象が,その一言以来私の心の隅に張り付いていました。

 

もっとも,難病をメディアに揶揄されたちょっと気の毒な人という印象の方が圧倒的に強かったのも事実です。

 

で,去年の衆院選のとき自民党は,金融緩和と同時に財政出動により経済活性を目指すとのことでしたし,デフレ時の増税やTPPには断固反対との事だったので,それまでの暗黒政権と比べてこれは良いと思い応援した次第でした。

 

また,ちょうど維新の会が新自由主義的な方針を掲げながら,予想以上に伸びなかったこともあって,これを民意をして理解していると思っていました。そのときは黒い影に気がつきませんでした。

 

そのときは・・・

 

しかし,産業競争力会議メンバーに竹中平蔵氏が選出されたニュースを聞いて,そのときから,一抹も二抹も不安を覚え始めました。

 

もっとも,TPPの参加に向けた協議はしていたものの,リフレにより滑り出しよく発信し,しかも当時はまだ新自由主義的政策を第3の矢として発表していなかったように思います。やっぱり,反対が多いことを見越していたのでしょう。

 

そして,夏の参院選で大勝した後は,ご存知の通りなし崩し的に新自由主義的政策が検討されて,今ではズブズブの新自由主義的内閣となってしまいました。

 

私は,総理大臣のお人柄について悪い方ではないと思っています。もっとも,冒頭で申し上げたとおり,人の心について非常に見識の甘い人だなぁと今を以ってつくづく感じています。

 

おそらく,国民や自民党の良識ある議員たちが怒りの声をあげている理由を理解していないのではないんじゃないかと思っています。

そして,民間議員に唆されている理由も,人の心の部分をないがしろにしているが故に,一見合理的に思える机上の空論がすっきりと頭に入っていくのではないでしょうか。

 

そして現在,これでもかとばかりにデンジャラス特区を生み出そうとしています。それはもうホントよく思いつくなぁ・・・とばかりです。

 

自民党が政権を奪取してねじれを解消できた理由は,決して新自由主義的な政策が民意から評価されたわけではないはずです。そのときは,まだ出していなかったところに悪意を感じますね。

 

はたして,これが議会制民主主義の限界なのか?

 

民主主義というのは,資本に丸ごと飲み込まれてしまう運命なのか?

言霊

2013-10-22

我らが地元千葉県をフランチャイズとする球団千葉ロッテマリーンズは,昨日惜しくも楽天にクライマックスシリーズで敗れ日本シリーズを逃しました。

 

まぁでも,伊東監督1年目にしてなかなかいい夢を見させていただいたと思っています。監督・選手ならびに球団関係者の方々大変お疲れ様でした。

 

今シリーズ中には,ちょっとしたアクシデントとして,東北の某大学の教授がツイッターで「千葉滅びろ!」などと暴言を投稿したことが話題となりました。よほど熱くなったのだと思われます。

正直,腹立たしいというより笑わせてもらいましたが,有名大学の教授でさえ酔った状態でのインターネットで失敗するということで,やはり恐ろしいツールだということを改めて感じました。

 

もっとも,一言二言の短い言葉で投稿するツイッターというツールの性格も災いしたのかもしれません。もし,自身のブログなどだったら書いているうちに冷静になることもあるでしょう。

 

人というのは失敗することが当たり前ということを前提として二重三重のチェックシステムを構築しないと,本当に取り返しのつかない失敗が起こります。

このことは司法書士なら間違いなく理解していることでしょう。

ジェイコム株大量誤発注事件などはまさに教訓とすべきだと思います。

 

もっとも,インターネット上にはどこの誰が投稿しているのか,大量の写真や言葉が掲載されており,中には目を覆いたくなるようなおぞましいものさえあります。(まぁ怖い物見たさっていうのもあるんですがね)

 

匿名だと思っていい気になっているのかもしれませんが,ついこの間アメリカの情報機関がインターネット上の個人情報を秘密裏に大量に収集していたと元職員が暴露した事件が起こりました。

 

また,米国人主婦がインターネットで圧力釜を注文したところ,家に警察が押しかける騒動があったそうです。なんでも,その前にインターネットで,旦那さんが「リュックサック」そして息子さんが「ボストンテロ」をそれぞれ検索していたそうです。(もっともこのニュースはちょっと眉唾な気がします。) 

 

そして,直接自らに災いが降りかからなくとも問題はあると思います。

 

例えば,心のタガを外した状態で発する言葉というのは,普段言えない言葉であると思います。

 普段言えない理由というのは様々でしょうけど,特定若しくは不特定であれ人に聞かれるのはヨロシクナイ言葉でしょう。

ですが,例え匿名であったとしても誰が見るか分からないスペースに残しておくことは言葉の意味を軽んじているように思えます。

 

それは,思ったことを飲み込むか,吐き出すかの差だと思います。

 

私も,書こうと思ったことを思いとどまることは良くあるのですが,それは一度書いてしまうと自分の意識が少なからずその内容に制約されてしまうからです。

 

たとえば,怒りに任せて罵詈雑言を書き込もうなら,他人からそういう人に見られるというよりも,自分のことを罵詈雑言をネット上に掲載するような自分と決め付けてしまうということです。

 

たとえば,例のヘイトスピーチ云々という問題は,このことに尽きるような気がしています。もっとも,この問題について私はどちらにも関わりたくないのでこれくらいにしておきます。

 

現在,インターネットが普及したおかげで様々な情報が手軽に得られるようになり,仕事の片手までも色々と情報が入手でき知識も広げられる様になったと実感しています。

一方で,あまり知りたくない情報や言葉に遭遇することも少なくありません。(でも,怖い物見たさもあるんですが)

それは,日常会話や文書でのやり取りでは見ることのないようなもので,やはり普段から周囲の人に話しているようなことではないのでしょう。

 

もっとも,表現の自由が憲法上保障されていることは皆知るところでしょうが,名前の出るところでそれを表現しないということは,表現というものが無制約に守られているわけではないことについては理解しているのでしょう。

 

しかし前述したように,言葉が自分にもたらす制約という意味についてはあまりに無頓着であることについては,どうも本来誰でも表現の自由を享受できるはずなのに現実社会において恩恵に授かっていない,ってなことを感じていることが理由じゃないかと考えます。

だから,裏で言う言葉に際限がなくなるんじゃないかと。

 

私は,言いかけた言葉を飲み込む心理は日本人の美徳からくるものであると思っていますが,(毎度の事ながら)アメリカ仕込の憲法を掲げているとだんだんアメリカナイズされてくるのかもしれません。

 

私は日本が,それぞれが好き勝手いい放題したあげく,国民皆保険もまともにできないような国になって欲しくないので,やっぱり古くからある日本の美徳は大事にすべきだと思っています。

 

そして,教授には申し訳ありませんが,楽天は日本シリーズ出れるでしょうし,自戒のいい機会とさせていただきます。

ヒストリカル・イフ

2013-10-21

「愚者は経験に学び,賢者は歴史に学ぶ」とは,ドイツ統一とヨーロッパの安全保障体制を築いたドイツ最初の宰相ビスマルクによる有名な言葉です。

 

この言葉について,以前に私の個人的見解として,学ぶとは主観的な意識をある程度,客観的な事実と融和することが必要で,そのためには自らの記憶に基づく経験よりも史実を辿っていく方が主観に捉われすぎない,といったような意味だと解釈していることを述べたことがあると思います。

 

もっとも,この言葉を言葉通りに受け止めて,自分の経験から得た知識を全く信用しないとなると,色々と進まないのではないかと思います。

 

ですが,そうだとしても歴史を学ぶということは,自分以外の他人が当時の大局をどう判断して乗り切った(若しくはしくじった)かということを俯瞰して客観的に見れる非常に有意義なことだと思っています。

 

日本の歴史などを辿ってみると,現在まで本当にひと続きであると感じることができ,それは実に感慨深く感じます。

 

そうであるならば,過去から現在までのひと続きの経過を辿ることで,未来のことを考えるにあたり,どこに向かうべきかを決める重要な基準にもなろうかと思います。

 

イメージで言えば,歴史を辿って現在に至るまでの延長線上を未来として進むべきと考えると,明快でわかりやすい気がします。

 

もっとも,歴史を学ぶにあたって,先人が築き上げた文明にあぐらをかいている現在の自分としての視点だけではなく,その当時にその立場に置かれたことを想像しないと,実際に当時の人の考えを読み取ることは出来ないはずです。

 

そして,そう考えると歴史の大局に立たされながら重大な決断を行った人たちは,まるで暗闇の中を手探りで進むようなもので,実に大変だったのだろうと慮ります。

 

例えば,学校の授業などで歴史を学ぶというのは,現代の人としての視線から過去の出来事を俯瞰しているというところでしょう。その当時の人々の心理まで突っ込んでいる教科書はあるのでしょうか。

しかし,人の心理を押さえておかなければ歴史のつながりの意味が分からないでしょう。たとえば,戊辰戦争のときに官軍から逃げ回った徳川慶喜の心理が理解できないのです。(大河ドラマでもあまり触れていませんでしたが,尊王思想の強い水戸出身であるため足利尊氏のように自身が後世まで朝敵として語られるのが嫌だったといわれています。)

 

それを検証することは,古くから伝わり続けた慣習や言葉や精神などを理解するということで,それはすなわち,未来において守るべきものが何かということを確認することだと思います。

 

ですが,当然過去のことが全部現在そして未来に当てはまるわけでは当然ないわけです。先ほど,歴史の大局での決断について,暗闇を手探りで進むと表現しましたが,それは現在においても変わりないはずです。

 

歴史を振り返ってみても,情報自体は凄まじく多くなったのでしょう。しかし,あまりに玉石混交でしかも,国民にとって一般的な情報源が都合の良いウソばかりついており,しかも民主主義ときているので,むしろ歴史上で一番厄介な時代かもしれません。

 

もうそこは,客観的な統計をグラフなどでデータとして提示して,かつ具体的でわかりやすい説明ができる(難しい言葉を用いて聞き手に分かったふりを強要する言論人が一番疑わしいと思います。)ニュースソースを信じるしかないわけです。

 

 

このように圧倒的に情報量が多くなった現代においても,手探りの判断を逃れられないのであれば,判断の結果として“もしあの時ああしていれば”と検証されることは当然あるでしょう。

 

そう考えると,スポーツの世界で“たら・れば”は禁物といいますが,歴史の検証において“ヒストリカル・イフ”を思考すると,当時の事情と現在の事情との共通する点としない点を理解でき,それによって未来に向けてどう進むべきかの判断が得られるように思えます。

相手を受け入れること

2013-10-18

あんまり,このことは話題としたくなかったのですが,少子化がよく問題とされている昨今です。

 

厚生労働省のデータによると,2012年の合計特殊出生率(1人の女性が生涯に産むとされる子供の数)が前年を0.02ポイント上回る1.41だったそうです。なお,上昇は2年ぶりとのことです。

 

しかし,その一方で出生数は過去最少だとのことで実質人口減少は続いていることになります。

 

なんでも,20代の出生率が伸び悩んでいるとの事で,子育て支援策は施した方が良いでしょう。

 

もっとも,男女が子供を生んで育てる重要な要素として結婚して家庭を築くことが挙げられます。

 

ですが,生涯未婚率(生涯を通して未婚である人の割合を示すものではありません。定義が気になるようでしたらおググり下さい。)のデータによると,男性で20.1%、女性で10.6%なんだそうです。男性に至っては,10人のうち2人の割合ということになります。

 

なお,1980年の生涯未婚率は男性2.6%女性4.5%との事で30年余りでずいぶんと変わってしまったものです。

 

結婚できない事情を経済的な問題と捉える向きもありますが,昔と比べると女性の働く機会が非常に増えていますので,一人で暮らすよりは男女で同居した方が食費も家賃も家事も分担もできますし,経済的にも時間的に余裕が出来るはずです。

 

そう考えると,少子化の原因のひとつとして男女の恋愛事情も挙げられると思います。

 

もっとも,お見合いパーティーなど,出会いの機会は以前よりもよく見かけるようになった気がします。

ですが,こういった機会に数多くのカップルが成立していればこのことは問題にならないわけなので,そうであるならば大きな成果を上げられた人はそれほど多くないのかもしれません。

 

そういった理由のひとつになるのでしょうか,女性が相手男性の条件として(不釣合いな?)高額な年収やルックスなどを提示して,ネット上で叩かれている(バッシング)のを目にすることがあります。

 

昔聞いた話ですが,かつて一般の女性が男性に求める条件は,真面目だとか誠実だとか,せいぜい人柄に纏わるもの一つか二つだと聞いたことがありますが,そうだとすると生涯未婚率が上がるのもよく分かります。

 

で,バッシングの内容としては,身の程知らずという意味のほかに主だったものとして挙げると,ハードルを高くして結婚できないことの面子を保っているとか,専業主婦希望などムシが良すぎる,などがありました。

 

確かにそれもあるのでしょうけど,ハードルを高くする理由としてふと思ったのは,男性を(様々な意味でほぼ全面的に)受け入れることに対しての条件なのではないかということです。

 

年収1000万円やら2000万円の男性が現在においてはそうそういないことは,普通に社会常識を身につけた女性となら分かることと思います。もし,そのような男性がそこらじゅうにいるのであれば,日本は完全にデフレを脱出したということで喜ばしいどころか逆にインフレが心配な状態です。

 

おそらく,難しい条件であることを分かっていて言っているのではないかと推察します。

つまり,自分が男性を受け入れる条件を無理といえるぐらい高くすることは,それくらい男性を信用していないということなのかも知れません。

 

もし,そうであるならば,その気持ちはよく理解できます。

たとえば,交際を始めたとしてそのまま結婚したとしても,互いの相違というのが埋まるわけではないでしょうから,その相違を受け入れながら暮らさざるを得ないと思います。

 

そして,その相違というのは性別が違うが故に,身体においても意識においても存在するはずです。

ですので,お互いが自由にやりたい放題であればお互い傷つけあうことになるでしょうから,受け入れ合うには必然的にそれぞれが行動を制御することが求められます。

 

しかし,今の男性にそれを期待することができない,ということから自分を傷つけても許せる男の条件として高収入などを望む,ということではないかと勝手に推測しています。

 

そう考えると,高い条件を提示すること自体は男性に対して若干失礼に感じるものの,同情するところも存分にあると思います。

そして,確かに女性にとって(現代の?)男性というのは手放しに信用してはならぬ相手だと私自身が思うわけです。もっとも,お互い様かもしれませんが。

 

逆に,男性の欲やわがままなどすべてを無条件で受け入れる,すなわち尽くすタイプの女性に対しては,多くの男性が近づいてくると思います。もちろん,それがモテているということかは別の話ですが。。。。

 

よく,男性に対して女性にモテるためのハウツーとして,反論せずに女性の話をひたすら聞くということが言われているわけですが,むしろ逆に女性が男性の一方的な話を(相槌は若干大げさに)聞く方が効果覿面なのではないかと思います。

 

そしてたとえば,多くの男性のもとを渡り歩いて逃亡を続けたといわれる福田和子や,婚活サイトで知り合った男3人が不審死を遂げたという殺人容疑で公判中の木嶋佳苗被告も尽くすタイプだった様で,そうやって男性の心を惹いたといわれています。

 

ですが,二人とも意図があってのことであり,結局それなりの理由が無い限り,男性に尽くし続けてしかも自由に泳がしておくなど,相手の男性がよほど理性的で無い限り無理な話だと思うのです。心も身体もぼろぼろに疲弊してしまうのではないかと。

 

そうであれば,男女相互の信頼というのは,“この人はさすがにここまではやらないだろう”という様に,行動の限度を把握できることだと思います。

 

そう考えると生涯未婚率低下の問題は,戦後教育において何をしても自由であり,それがどんな結果になろうとも自らに平等が保たれることを骨の髄まで教え込まれてそれを信じている世代において,果たして惚れた腫れたを超えた男女相互の信頼を築くことができるか,ということではないかと思う訳です。

 

そして,その意識を広げることが少子化問題を解決(だいぶ遠回りですが)に向かわせるのではないかと思いました。

 

もっとも,政治や行政の仕事とはいえないかもしれませんので,さてどうすればいいんでしょう。

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