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台風4号

2013-06-18

台風4号が日本列島に接近している模様です。

 

どうやら,土日あたりに関東に上陸するようです。

 

皆様,どうかお気をつけくださいませ。

リバティか?フリーダムか?

2013-06-17

自由になりたいですか。自由な場所に行きたいですか。

 

自由とは,個人のものなのでしょうか。それとも,場所とか国とかスペースにおける形容なのでしょうか。

 

たとえば,自由の意味をストレートに「自分の意思以外に何にも拘束されない」ことと解釈するとします。

それを前提として個人がそれぞれ享有するものと考えると,会社の同僚や友人のほか親族など自分以外のすべての人が意思を束縛する存在となりえます。

では,ある規制のない場所において暮らすことが自由と考えるならば,結局のところタックスヘイブンの問題のように他国など別の共同体から問題視され衝突することになるでしょう。

 

そうなると,そもそも自分の意思というのは,他人や他国から侵害されうる物なのかということです。

たとえば,ある人が“自分とその家族がずっと平穏に過ごす”ことを意思として持っていたのであれば,教育を受けて就職して時に社会保障を受けて意思を拘束されず自由に表現が出来てむやみに身柄を拘束されないことが必要なはずです。

 

一方で,例えば自由な表現により誰かから平穏な生活を侵害されることもあるかもしれません。逆に誰かの平穏な生活を侵害してしまうこともあるでしょう。つまりは,個々の意思を一律に保護すると矛盾が起こりえるということです。

そうであれば,その矛盾により衝突した二つの意思について判断を下すためには,統一された基準が必要となります。

その,統一された基準は何らかの権威が無ければなりません。

 

結局,自由であることには権威が必要であると思います。ただ,その権威が,自由を享有すべき人々の意思を根拠としていなければならないわけです。

 

現在の日本においては,日本国憲法の最高法規制がこの権威にあたると思います。

 

なお,日本の憲法は成文憲法といって文章により表現されていますが,イギリスは不文憲法として憲法典が存在せず,法律や慣習法などで構成されていると言われています。(成文憲法を作ろうとする動きがあるようですが。)つまり,明文がなくても規範は成り立ちえるということになります。

そして,“公益のため”という概念を持った成熟した人格においては,法律など明文の及ばない部分での道徳や倫理など,個人として規範を持つことも自由といえます。これは,長い人生経験の中で自らを律した人から若い人たちに伝えるべきことだと思います。

 

ですから,行動にブレーキをかける法律などの明文や目上の者からの訓戒は,自分や他人すなわち公共の自由を守っているともいえるはずです。

 

このことは,出来ないことに文句や言い訳をするよりも,出来ることを探してみるとわかりやすいと思います。

 

このあたりが,最近話題の構造改革やら憲法改正についての私の考え方の軸になっています。

 

つまりは,今まで自分の意思よってやってきたことも,意思にそぐわなかったことも,すべて国家に守られていた自由によるものだということと,今まで守ってもらっていた自由が,外からも中からも侵される可能性があることについて,やはり自由を守らねばと思うわけです。

 

ところが,自由を壊す側の方が“自由”という言葉を喧伝に利用するのが上手いんですよね。

 

今,大事に思える事があるのであれば,“自由”を謳った破壊的な話には乗らない方が身のためだと思います。

どたばた

2013-06-14

いや〜・・・

 

今日はちょっとこれだけですみません。

 

良い週末を。

言っちゃった

2013-06-13

どんな人でも誰かしらに伝えたいことって沢山あると思うのです。

 

心が弾むようなときとか,胸を焦がすような想いとか,深い悲しみや憐憫や怒りや憎悪や・・・

 

そこまで大げさじゃなくても,ちょっとした出来事や,クスリと来た話とか,少しイラッと来たことや,土産話や,ふと考えたこととか・・・

 

 

身近にいる人であれば,言葉以外の表現でもある程度伝えることが出来るかもしれませんが,やはり具体的に伝えたいと思ったら言葉を通常は言葉を使うと思います。

 

そういえば,私はたまに独り言を言うことがあります。(同業者では多いのではないでしょうか)別に誰かに意思を伝えたいわけではないのですが,思っていることを思わず声に出してしまう感じです。これも言葉となって口から出てきます。

 

別に誰かに伝えたいわけではない意思が時として言葉として出てしまうので人に聞かれたときは結構恥ずかしい思いをします。ビックリして振り向く人もおられますね。

 

まぁでも,声に出しているだけであれば聞こえる範囲だけですし,その場を離れればよいだけです。通報されたこともありません。(たぶん)

 

 

かつては,遠方の人に対しては電話によって言葉で色々と伝えていたと思いますが,これは特定の相手に対してのみのコミュニケーションでした。名前も素性も知れた相手には相応の話題を持ちかけると思いますが,声に出した言葉というのは録音でもされない限り記録されません。

ですが,話し相手の心に言葉は残るはずなのであまりおかしなことは言えないと思います。

 

一方で,インターネットでは文字情報を誰にでも見られるように掲示することができるようになりました。文字情報は残りますので本来であれば迂闊なことを書き込めないと普通は思います。

ところが,意外ととんでもないことが書かれていたりすることはご存知の通りです。

まぁ,匿名の掲示板であれば気軽に好きなことを書き込めるような気になるのでしょう。

 

でも,そういう人達も,書き込んだ文字を読む相手がいるということは想定しているのではないかと思います。反応が欲しいからこそ掲示板に書き込んでいると思いますので。

 

かつては,その手の掲示板はかなりアングラ色が強く一般的には馴染みにくい感じでしたが,現在はかなり一般化して普通の人の利用が多くなったと思います。

今でも,たまにおかしな人もいますが,単純に目立つだけで,利用者の割合としてはそう多くはないんじゃないかと思っています。

 

もっとも,書き込まれた事件予告が本当に事件になったケースもあるので,いるにはいるのでしょうが,それだけもって普通じゃない人の溜り場扱いをしたら,電車だってバスだって不特定の大勢の人が集まる場所はみんなそうなってしまいます。

 

逆に考えれば,おかしなことを考えている人が事件を起す前に言葉を発する場と考えるとセーフティな場ともいえるんじゃないかと思います。やばい!と思ったらそっと立ち去ることができるので。

 

しかし,普通の人でも,例えば砂をかむような思いをしている人は,そのことを誰にも話せなかったり,または,話しても話し足りないときなどは,インターネットのツールを使って自分の言いたいことを文字で表現したくなるでしょう。

もちろん,反応は期待しているでしょうけど,賛否は問題じゃないのではないかとおもいます。

そりゃ,賛同してもらった方がうれしいでしょうけどそれを期待しているわけではなく,ただ,単純に反応のある場で表現したくなったという率直な欲求という感じじゃないかと思います。

 

こうして,他人の心情を代弁していることについて「なんでお前が分かるんだ」と,言われれば,毎日書いている本ブログは正にこんな心境で書いているからです。

まぁ2ちゃんねるは匿名ですのでちょっと違うかもしれませんが,ツイッターとかフェイスブックとかミクシーとかを利用して,ちょっと言い過ぎちゃってる人の心理はなんとなく理解できるような気がします。

 

逆に,日記みたいな感じで書かれているブロガーさんとは,徒然というより書く内容に目的を持っている部分においては,ちょっと違う心理なんじゃないかと思っています。(大変失礼しました。)

 

ただ,本ブログとツイッターなどのSNSとの違いは,読んでの通り文字の多さです。

これは,自分の主張したいことを何度も咀嚼している為に,多くの文字を使って表現する必要があります。

ここ最近は,マスコミをdisる(基本的には特定の人を攻撃することは禁止しています)ことが多いですが,一言“羽織○ロ”と言うだけで済ましてしまうよりは,言いたいことを一度飲み込んで何でそう思うか考えてみた方が,自分の為になると思っているからです。

 

 そういえばつい先頃,ツイッターで市民団体などを中傷した復興庁の幹部がニュースとなりました。

 

このニュースを知ったときの第一印象は,(この人,相当参っているだろうか)という感じでした。別に擁護するつもりはありませんが,実名じゃないとしても本人と特定される可能性を想定できそうなものですが,それでもツイートした理由は単にスリルを味わいたい訳ではなかったはずです。

 

 

もちろん,復興庁をはじめ他の官僚や公務員が同じ様なことを思っているわけではないはずですが,一度言葉してしまったことに批判が始まると,もう何を言っても聞いてもらえなくなってしまいます。大阪市長の例の発言も散々言い訳していましたが聞いてもらえませんでしたね。

 

今回のこの事件について,私は誰を批判するというよりも言葉の恐ろしさを改めて認識したように思います。

 

なお,インターネットユーザーの間でツイッターの危うさは前々から指摘されていました。実際に,政治化をはじめ責任ある立場の人からアルバイト従業員まで様々な立場の人が軽口で不祥事を起しています。

それでも,未だ人気ツールのひとつです。みんな,つぶやきたいんですね。というかつぶやく場所さえないのかもしれません。

 

ふと出てしまった乱暴な言葉も,体調の良し悪しやその日のちょっとした出来事など,基をたどるとそれほど責められる様な事ではなかったりすることもあるんじゃないかと思います。

しかし,それを公衆の場に晒してしまうのがインターネットの恐ろしさです。もちろん,本人が書き込むという能動的な部分はありますが,アルコールが入ってるときに迂闊に・・・というケースを想像すると恐ろしいです。

 

私も気をつけよう。。。。。

ハーグ条約はこどものためなの?

2013-06-12

欧米では,乳幼児期のかなり早い段階から子ども部屋を与えて,寝るときは子どもと夫婦が別々に寝るのが一般的だそうです。 

 

ちなみに,私が幼少の頃の高橋家は5人家族で社宅に住んでおり,子供に一人ずつ部屋を与えることは物理的に無理でした。別に日本の一般家庭と比べて高橋家は特別じゃないはずです。

 

また,幼い娘さんをお持ちのお父さんはよく「娘といつまで一緒におふろに入れるか」というのがひとつの心配事だとよく聞きますが,欧米ではそもそも一緒にお風呂に入る(というかシャワー)習慣が無いようです。そればかりか下手したら性的虐待とさえ言われかねないそうです。

 

また,泣いている子供を放っておく欧米の考え方も日本ではちょっと考えにくいです。というか,迷惑となると考えて一生懸命なだめるのが大抵の日本の親だと思います。

 

家制度の名残ともいえる亭主関白というも欧米には受け入れられないかもしれません。

 

これらの日本と欧米の違いは,日本の特徴である人口密度の高さをはじめ,欧米と違った様々な部分において順応してきた日本独自の文化だと思います。

 

当然,良し悪しの問題ではなく自国の事情なのです。

 

そして,たとえば,「子供を大切にしよう」ということ自体は,どこの国においても大事にしているいわば普遍的な価値観で日本人も欧米人も異論は無いはずです。しかし,日本のお父さんが「娘と毎晩一緒にお風呂に入るのが楽しみで仕方ないよ」というと欧米のお父さんは「それってまずいんじゃないの?」となるんじゃないかと思います。

 

子供を大切にする方法の部分においてその国,その文化圏で違ってくるのです。

 

そして,今日入ったニュースです。

 

国際結婚が破綻した際の子どもの扱いを定めた「ハーグ条約」への加盟に向けて、国内の制度を整備するための関連法が,12日の参議院本会議で全会一致で可決・成立しました。

 

「ハーグ条約」とは,国際結婚が破綻して相手の承認を得ずに子どもを国外に連れ去った親が、もう一方の親から子どもを返すよう求められた場合,子供をそれまでいた国に戻すとしています。

 

ちなみに,“条約”とは国際法にもとづいて成立する国際的合意であり,国家および国際機構を拘束します。そして,日本国内の“法律”より上位にあるため“条約”を締結するに当たっては国内の“法律”を“条約”に沿うように整備しなければなりません。

 

 

なお,ハーグ条約は子の返還を拒否できるケースを「子の心身に害を及ぼす重大な危険がある場合」と定めています。とはいえ,「子の心身に害を及ぼす重大な危険がある場合」の解釈が各国によって違うのは明らかだと思います。

 

 

それについて,国内手続き法案は,DVの恐れがある場合や外国での子育てが困難な場合なども日本の裁判所が返還を拒否できる事由にとしたようです。

なんでも,加盟国がこうした規定を明示するのは異例だとのことです。

そりゃそうでしょう。他の国も同じように自国の文化を持ち出してそれぞれ返還拒否事由を国内法において定めると結局ハーグ条約は形骸化してしまうでしょうし。

 

ですので,その解釈の違う条約加盟国同士において子供の返還が問題となった場合,どこで線引きをするかというと結局のところパワーゲームになるのではないかと危惧しています。

 

そもそも,条約加盟のきっかけとなったのが,2011年に米国のテネシー州での裁判です。

 

同裁判では,離婚後に子供を無断で日本に連れ帰った日本人の元妻に対して,米国人の元夫に610万ドル(約4億8900万円)という巨額の支払い命令が出されました。

 

なお,元夫は,裁判以前に日本から子供を米国に連れ戻そうとして逮捕された経緯があるそうです。

 

日本人の私には,アメリカの方がトンデモな裁判で,かつ,連れ出した方はFBIに指名手配されるとの事も聞いてびっくりしました。

逆に,子供を日本から連れ出そうとするにも程度によってはまぁ逮捕されることもあるだろうと思うのですが,つくづく法律や文化や価値観の違いを感じます。

 

で,それについては当然是非を問う,若しくは問われる問題ではないと思うのです。内政とか異文化の問題となりますので。

 

そして,国際結婚の当事者同士であればそれらの違いを理解して結婚しているでしょうから,離婚も子供のことも当事者単位で理解していればいいと思います。テネシー州の人と結婚してそこで暮らせば,離婚後に子供を連れ出せば4億8900万円を賠償し,FBIに指名手配されることを理解した上でいくらでも国際結婚すればいいのではないかと思います。

 

なお,日本においてはよくある話で,自宅から子供を連れ出して別居しても基本警察は動きません。しかし,それを連れ戻そうとした場合においては未成年者略取誘拐罪になる場合があるようです。

まさに,先ほどのテネシー夫ですね。

 

別にその運用を全面支持するわけでもないのですが,日本国内においてはなるべく当事者同士で解決すべきという認識があるのに対して,法律変えてまで他国に合わせるというのは,ちと問題だと思います。該当する事実がないとはいえ日本国民全員に等しく及んでしまうわけですから。

 

しかも下手したら,国内の大衆の意識までが変化して日本国内においても条約に沿う形で法律が制定されてしまうかもしれません。

 

それについては,もう一度言いますが,他国との意識や文化の違いは国土における独自の理由によるものであるはずだから問題だと思うのです。

 

しかし,お決まりの「国際社会に乗り遅れる」が出ると(またグローバルですか・・・)と正直うんざりします・・・

 

国際社会で認められたいのであれば自国に誇りを持たないといけないと思うのですよ。

 

少なくとも,欧米では自らに誇りを持たない相手に対して尊敬しないのではないかと思います。

徒歩

2013-06-11

市役所くらいまでなら時間が許す限り徒歩で行くことにしています。

 

車の運転もキライではないのですが,徒歩だと風とか湿度とか気温とかいろんなことが感じられます。

 

歩いているうちに額に汗が滲み前髪から滴り落ちて顔にかかります。

 

そういえば紫陽花が良く咲いていました。梅雨を彩る花らしく曇り空でも見栄えします。

 

車の無い時代は,徒歩での移動が普通だったとおもいます。

 

なお,このあたりに御成街道という徳川の将軍が鷹狩りの為に使ったとされている道が通っています。

当時の人は船橋から東金まで37kmの道を歩いて移動したのでしょう。

 

現在では,車の抜け道として利用されていてしかも狭くて歩道も無いためとてもじゃないですが歴史を感じながら歩くといった雰囲気ではありません。

 

でも,御成街道に限らずとも今日のような曇り空でも歴史情緒を感じられるような場所をゆっくりと歩いてみたくなります。

 

ビール片手に・・・

深淵

2013-06-10

ある人の行動について“どう思っているのだろうか”と,心の中を探りたくなることがあるのは私だけではないはずです。

 

人の心を探るにあたっては,自分の心理しか基準にならないわけですから,それを基に人の心理を考えます。そう考えていくうちに,自分が今まで期待していたことに沿わなくなってしまうこともあると思います。

 

しかし,人というのは自分の都合のいい情報だけを集めて自分の都合のいい様に考えてしまうもののようです。これを確証バイアスと言うそうです。

 

また,今までの自分の考えと違った事実を目の当たりにしてしまうと,人のせいにして悪者と決め付けてしまうこともあります。

 

このように,ひとつやふたつの事実から様々なことを想像して,人の心の奥底を覗き込もうとしたとき,実際に覗いている心の深淵は,実は自分そのものではないかと思います。

 

前述した2つの思考パターンは,事実を認めないために回路を捻じ曲げた言わば回避です。その回避を認めたくないことが起こる度に繰り返していくことで,人にとってそこの見えない心の深淵が出来上がっていくのではないかと思います。

 

銀行強盗の人質が犯人を庇うというかの有名なストックホルム症候群も,自己欺瞞的心理操作と言われています。要するに,人質としてあじわった屈辱や恐怖を自分に認めさせないために,犯人を庇うという行動で回避しているということでしょう。

客観的には理解しがたい心理ですが,自分の心の深淵を覗けば心当たりが見つかるかもしれません。

 

 

逆に,認めたくないことを認めた人の心理というものは,実はかなり(いい意味で)シンプルなのではないかと思っています。もともと,生まれてたての頃はどんな人もほぼ同じ程度の思考能力だったでしょう。

そうであれば,長い人生のうちでいくつかの価値観を定めていき,それに自分がそぐわなくなったときに回避を続けていくことで客観的には見えない心の深淵を作り出していくのかもしれません。

 

もっとも,実際の自分と価値観とのギャップを克服するために努力したり考え方を変えたりする人もいるわけで,価値観にギャップが出来ること自体が悪いことではないはずです。ですが,努力するにしろ考えを変えるにしろ価値観にそぐわない自分自体をまず認める必要があるわけです。

 

しかし,例によってマスコミが「勝ち組・負け組」やら「草食・肉食」やら,一生懸命に二極化した価値観を煽り,それに大衆が見事に乗っかってしまいました。

こういう記事を目にする度に思うのですが,そこいらの井戸端会議みたいなネタを記事にして金になり,そこらで話題となるわけですからマスコミ関係者は笑いが止まらないでしょう。偏向報道する気にもなるでしょう。

 

価値観が多様化したなどといわれますが,それは生活スタイルをいくつかに分類化して報道したことにより生活スタイルの数が多く見える様になっただけのような気がします。ではなぜ,マスコミはそんなことをしたかというと物を売るためでしょう。例えば,ワタクシの様な独身男性に対してその生活スタイルを肯定してあげた方が,趣味にお金を掛け続ける訳です。だから,商売相手にならない層の人たちにはスポットライトを当てません。

 

まぁそれはいいとしても実際に人の内面的な価値観は,むしろ二極化という悪い意味でのシンプルな方に向かっているように思えます。同じシンプルで何故良い悪いがあるかというと,良い意味でのシンプルは,多様な経験や知識をきちんと引き出しに収納して価値判断ができるのに対して,悪いシンプルは,二極化によってふたつしか考えることがなくなってしまったようなイメージです。

 

価値観が二極化するということは,認める価値観と認めざる価値観の二つしかなくなることです。それはすなわち自らが認めざる価値観に当てはまってしまう場合が2分の1となることです。このように私生活における様々な部分で価値観が二極化されたらすべて自分の思った通りになることなど無い訳です。だから,ある部分において自分の価値観に自分がそぐわなくなると回避をして,それが多くなればなるほど深い心の闇が出来てしまうのかと思います。

 

だから,現在の状況において世間で言われている二極化した価値観を信仰している限り,苦手な事も嫌いな部分も含めて自分自身を肯定することって,すごく難しいのではないかと思います。

 

でも,自分自身を肯定すること自体は必要なんでしょうね。人のことを知るためにも。。。。。

 

 

そういう意味でも,世間一般で言われている価値観について,自分なりにもっと多様に考えてみることは大事だと思いました。

これから会議です。

2013-06-07

これから会議です。

 

良い週末を。

国境を超えて

2013-06-06

私が,高校生くらいの頃,周りでちょっと気取ったような人は大抵洋楽を聞いていて,ご他聞にもれず私もその一人でした。

 

当時は,空前のバンドブームでして,そういう人たちの中で流行っていたのは,アメリカやイギリス等の西洋のロックまたはヘビーメタルなどでした。

 

もちろん,国内にもすばらしいロックバンドやヘビーメタルはあったのですが,彼らの中でも「世界を目指す」といった風に海外を目標としているグループも多かったようです。

一方で当時の国内ポップミュージックは,それらとは相対的にマイペースに国内市場に向けてシェアを獲得してきたように思えます。

 

もっとも,団塊世代くらいから既にビートルズなどの西洋のポップミュージックに影響を受けてそのまま追従して今に至るといった感じなのでしょう。そして,その反動なのか分かりませんが,演歌などの純粋な国内発祥の音楽がシェアを下げてきたように思えます。

 

で,ポップミュージックにおいて洋楽と邦楽の聴き所として,音楽に乗りながら流れてくる言葉の川に身をゆだねられるかという,要するに聴くと同時に歌詞の意味が分かるかどうかが,私と同じように英語が苦手な方にとっての違いだと思います。

 

もっとも,歌詞カードの和訳を見れば意味は分かるのですが,音楽(音声)を聞きながら音声から意味を認識するか,視覚から意味を認識するかは大きな違いだと思います。

日本で聞かれている洋楽のほとんどは,その国である程度評価されたからこそ商品として輸入されているのでしょう。そして,少なくとも母国のリスナーは音声を聞きながら聴覚から歌詞の意味を解釈しているはずです。

 

もっとも,外国人が書いた歌詞は言葉が違っても和訳を読めば意味は分かります。そして,住んでいる場所や文化が違っても感動は出来るのですね。もっと言えば,日本と西洋の恋愛事情においては,長年男尊女卑を続けて来た国(今は分かりませんが)とレディーファーストの国とでだいぶ国柄が違いますが,洋楽のラブソングや恋愛物の洋画を見て日本人は感動できるのです。

だから,どこの国においても普遍的な感覚はありそれは国境を超えて共有できるのだと思います。

 

 

逆に日本国内の文化が海外に通じのるかというと,世界の映画監督358人が投票で決める最も優れた映画に,小津安二郎監督の『東京物語』が選ばれたことがありました。戦後の東京という他国に無い日本独特の背景を舞台とした映画のようですが,(実は観たことがありません)様々な国の人たちに感動が伝わった様です。

もちろん,小津監督は世界中から評価を受けようとして映画を製作したのではないと思います。背景が特殊ですし,何よりもアイデンティティを重んじる西洋の人達が,人気を取るために媚びたような作品を評価するとは思えません。

 

また,同じく海外で絶大な評価を受けている浮世絵も西洋文化から一線を画した独特の描写によるもので,しかも鎖国をしていた江戸時代の文化です。

 

つまりは,今でこそ文化は国境を越えて行き来するようになりましたが,結局のところ国内において評価を得るためにコツコツと積み上げてきた文化が外国にも評価されるのではないかと思います。

それは,逆に我々日本人が評価できる海外の文化を考えれば明らかだと思います。

明らかに日本市場を狙って製作されたようなハリウッド映画を見たいと思いますか。

 

そう考えると,現在として掲げられているクールジャパン政策についてはどうかと思います。日本の伝統文化を海外に紹介することはとてもいいことだと思います。また,芸術家個人が海外に活動の拠点を求めることもすごいことだと思います。

 

しかし,外貨を稼ぐための政策に利用される金儲けのための芸術などを海外に向けて「これが日本の文化です。」などと発信したら評価されるどころか嘲笑されるのではないかと心配してしまいます。

 

だからといって,別に海外との文化交流を否定するわけではありません。それどころか他国文化を大いに取り入れるべきだと思います。工業製品も音楽も絵画も中華料理もイタリアンもフレンチもエスニックも全部日本風にアレンジしてしまうのも我々日本の文化だと思います。

 

エピソードとして,ある食品会社の話で,その会社で開発したカレールーの出来栄えが大変良かったため,“是非,本場のインドの方にも食していただきたい”ということでインドの方を招待してそのルーで作ったカレーを振舞ったそうです。

それを食べたインド人に感想を聞くと「これは美味しい!!・・・で,これは何ていう食べ物なのですか?」と聞き返されたそうです。

 

そもそも,文化とはその場所のその時代の人たちに馴染んで受け継がれていったものなのではないかと思います。そして,そこから生まれた芸術というのはやはり馴染まれてきたからこそ残り続けたわけで,違う場所においてそのまま受け入れられるかはその人たちが共感できるかどうかじゃないかと思います。

 

しかし,違う場所に住み,違った文化を持つ人たちの感覚など図ることが出来ないわけで,結局,身近の人たちの中で誰もが共感できる普遍的なものを探るほか多くの人から共感を得る方法は無いのではないかと思います。

 

だから,「海外に向けて発信!!」などと大見得を切ったものよりも,大切な人のために作った曲とか,近所の風景の描写とか,そんな感じの内向きなものの方が夢がある気がします。

ストーリー

2013-06-05

「♪安全と冒険で君はどっちへ行く? 退屈と充実で君はどっちをとる?♪」

 

スガシカオさんの歌詞の一部です。この方の歌詞はシニカルで皮肉っぽさが特徴的で魅力だと思います。また,曲を聴いていると小説の一場面に引き込まれていくような感覚を覚えて,心理と風景の描写がとてもリアルに伝わってきます。

 

で,冒頭の歌詞については若い頃と比べて年齢を重ねるにつれて重みを増してくるのではないかと思います。

 

若い頃に冒険と充実を選択した私が今現在において,同年代の安全な方を選択した人を見ると(実は安全な方を選択してもそれなりに充実していたのではないだろうか?)と思うことがあります。

しかし,結局(安全な方を選択してもおそらく長続きしなかったであろう)という結論に至ります。

隣の芝生は青く見えれど自分の敷地に同じ芝生は生えないというのが私の答えです。なるべくしてなったと思っています。

 

実際に現在まで堅実な人生を選択されている方も冒険の願望はあるんじゃないかと思います。だから,宝くじがあれだけ売れるのでしょう。

 

今になって考えると,この人生の重大な選択はかなり若い頃に迫られていると感じます。あの頃において今と同じくらいの経験と知識があったとしたら別の選択をしたであろうと考える方も少なくないでしょう。

 

仮に40歳くらいの年代の人を対象に公務員再雇用の募集をしたらかなり多数の応募があるのではないかと思います。まぁ今までの経済状況によるところもあろうと思いますが。もっとも,マスコミが公務員を叩きまくったおかげでここ15年間減少を続けて,現在,日本の公務員数はOECD(経済協力開発機構)で最低となっているようです。世論に強い影響力を持つマスコミが,愚にもつかぬ理由で特定の立場の人を攻撃するのは感心しませんなぁ。まぁそれはいいとして。

 

逆に定年退職してから長年描いていた自分の夢を叶える方もいらっしゃいます。昨日,成年後見事件の関係で佐原へ行ってきましたが,佐原は日本の正確な地図を作った伊能忠敬のゆかりの地です。伊能忠敬は50歳くらいで本業の酒屋を息子に譲り渡して隠居し,30歳前半の天文学者高橋至時に弟子入りをしました。そして,人生の後半から壮大なストーリーを描き始めたのです。

 

自分のことについて思い返せば,苦しんであがいた経験が自分の見識を少しだけ深くしていたのだと強く感じます。ただ,それは熱さがちゃんと喉もとを過ぎているから思えることで,根に持ったり悔やみ続けていたら自分を省みるまで思考が及ばず,結局記憶は歪んでしまったのではないかと思います。

 

もちろん,今でも(あいつだけは絶対に許せん)とか(あの時ああしていれば・・・)はあるのですが,視点を主観から客観に移し変えると“あの時は仕方なかったのかな”という理解も時間が経つにつれ深くなっていきます。

それは,健全に思い返せることによって充実していたと考えることも出来ると思います。

 

まだまだ我々の世代は行く先の分からない迷子ちゃんな状態ですし,人生を変えるような選択を迫られることもまだまだあるんじゃないかと思っています。

結局,苦しむことはこの先もあるのでしょうけど,安全を選ぶにしろ,冒険を選ぶにしろ人生を真剣に考えてさえいれば,後になって充実した日々だったと思い返せるのではないかと自分では思っています。どうせいつか死んでしまうんだし。

 

最後に,わが心の師伊能忠敬先生の名言です。

 

「人間は夢を持ち前へ歩き続ける限り、余生はいらない。」

「願望は寝ても覚めても忘れるな。泥棒でも、敵をやっつけるのも、美女を手に入れるのも、そう願う心をどんなに状況が変化しようが、一時も忘れずに心がけていれば、かならず成し遂げられる。」

 

 

涙が出ます・・・

 

本日は佐原へ出張

2013-06-04

本日は,佐原に出張です。

 

佐原は尊敬する伊能忠敬のゆかりの地でもあります。

 

なお,電車での移動となるため連絡がとりづらくなると思われます。

 

ご迷惑をおかけしますがなにとぞよろしくお願い申し上げます。

思い違い

2013-06-03

(注)仕事の話ではありません。

 

“確かな事実をもってのみ判断の材料とすべき”であると御託を並べた人がいます。

 

その人は,勝手な思い込みから重大な思い違いをして見るべき事実から目を背けていたようです。

 

何を隠そう,わたくしの話でございます。。。。

 

事実と認識している事柄でも,そう考えるに至った経緯を分析してみると,意外と自分の想像による部分が多く占めていることに気がつきます。これが,自分にとって弱い部分であれば感情的になるでしょうから,なおさら想像が働きます。

 

不思議なことに大切にしようと思っている事ほど,様々なことを想像して様々な感情が芽生えて,そして過剰に反応してしまいます。

 

今こうして自分のことについて書きつつ,恥ずかしながら初めて人の感情にも気がつきました。

 

何度も同じ事を繰り返して全く成長が見られないばかりか,傷つけてしまっていることに目を背けてしまっていました。

 

 

今は反省すれどももしかしたらずっとこんなことを繰り返すかもしれません。自分が子供の頃に思い描いていた理想の大人にはこのまま届かないのかもしれません。

 

ここで言い訳をしても,きっと後悔は消えないと思うので,自分を守るために一生懸命考えた正当性と同じ事を,人も考えていることに何故気がつかなかったかを一人で思い続けます。

梅雨入り

2013-05-31

今日はとてもいい天気です。

 

明日も晴れるようですが,もしかしたら梅雨が明けるまでお天道様の見納めとなるかもしれません。

 

私は雨の日が嫌いではありませんで,晴れが続いた合間にシトシトと降る雨を意外と心地よく感じたりもします。

 

ただ,梅雨のようにずっと続くとさすがにうんざりすることもあります。

 

紫陽花はもう咲き始めているのかな。

 

来週から衣替え・・・と思ったら近所の中学校では今朝夏服で登校していました。

 

ついこの間まで寒かったような気がしたのにあっという間にまた夏を迎えます。

 

季節は緩やかに移り変わっています。

 

では,また来週

梅雨入り

2013-05-31

今日はとてもいい天気です。

 

明日も晴れるようですが,もしかしたら梅雨が明けるまでお天道様の見納めとなるかもしれません。

 

私は雨の日が嫌いではありませんで,晴れが続いた合間にシトシトと降る雨を意外と心地よく感じたりもします。

 

ただ,梅雨のようにずっと続くとさすがにうんざりすることもあります。

 

紫陽花はもう咲き始めているのかな。

 

来週から衣替え・・・と思ったら近所の中学校では今朝夏服で登校していました。

 

ついこの間まで寒かったような気がしたのにあっという間にまた夏を迎えます。

 

季節は緩やかに移り変わっています。

 

では,また来週

リメイク

2013-05-30

ブログを読み返してみると今の考えと違うことが書いてあることがあります。

 

このブログに日々書いているのは私だけで,内容は他の方の文章を引用させていただくことはあれど基本自分で考えています。そもそも自分のためにやっていることですから。

 

そのときはそのときでそう考えていたのだけど,現在までに入って来た情報により考えが変わったり,そもそも思い違いがあったりとさまざまな事が原因だったりしています。

 

特に正当化するつもりは無く,(考えが浅はかだったなぁ・・・)と,思ったり(どうして当時と変わったのだろうか?)と検証してみることもあります。別にここに書いてあることが正しいとは思っておらず自分のためと思って粛々と書いております。

 

ここに書いてあることに限らず,夜に散々悩んでいたことが朝起きたころにはすっかり忘れていたりと,気分によって深刻に思っていることがコロコロ変わるのは本当に不思議な気がします。私だけでしょうか・・・

 

ただ,記憶自体はひと続きだからこそ(何でこんなことで悩んでいたんだろう)と省みることが出来ます。このあたりが,根を詰める部分と緩める部分として日常生活においてバランスを保つ機軸となっているのではないかと思います。

 

たとえば,食事後のおなかいっぱいの状態でふとアフリカの難民の人たちのことを思うと,なんだか申し訳ない気分になって,その日一日食事を抜くと今度は自分が何か食べたいということで頭が一杯になります。生理的欲求もあるでしょうけど,それを差し引いても自分の考えなどその程度でそれでいいと思っています。

 

そう思えるのはやはり記憶がひと続きだからだと思います。思い返せば考えてることは自分のことと人のことの繰り返しなので(所詮自分の考えなど・・・)と,多少リラックスしたスタンスにもなれる訳です。

 

だから,傍から見ると言っている事が気分によって変わっているのかもしれませんが,基本的には思い返すことで大きなスパンでひと続きであると思っています。(一貫しているとはいえないかも・・・)

 

このバランスは,自分でとても大事にしています。

 

たとえば,前にも紹介しましたが新興宗教などで配布しているマンガで信じることによって“新しい自分が見つかる”などと文句を並べていました。

 

(“新しい自分”なんて見つけるまでもなくそもそも時間を経るたびに人って新しくなってないか?)と疑問を感じることが出来たのは,以前に考えていたことと今考えていることが記憶によってひと続きとなっているからだと思います。

 

今までの考えと今の考えが違うのであれば,過去に何故そう考えていたかを考えなければひと続きになりません。“新しい自分”というととても受け入れやすいキャッチですが,要は無かったことにするという,言ってみればゲーム機のリセットボタンのようなものです。

 

本当にすべて無かったことにできればいいのだけれど,今まで発した言葉も行動もすべて物理的にも人の心にも残ってしまうので,自分だけ変わったと思っても自分以外がそう思っていないのでひどくバランスの悪いことになると思います。

 

 

人間は常に新しい細胞を作り変えているので物理的にはいつも新しいはずです。意識の部分で“新しい自分”を求めるのであれば,「なる」前提として「みつける」事だと思います。外部的にも内部的にも。

敵は本能寺にあり

2013-05-29

戦国時代にある武将がいました。

 

その武将は,領国では税を低く抑えるなど善政を敷いて民衆からとても慕われていたようです。また,歌を詠み茶の湯を愛する風流人でもありました。

それだけではなく,生涯の大半の戦で勝利し自身も射撃の天才という,文武両道の名将でした。

 

生涯,側室もなく妻一人を愛し続けて,敗将の命を救う為に奔走する心優しい人柄だったようです。

 

しかしこの方,夜明け前の無防備な主君を急襲したことから卑怯者呼ばわりされることが少なくありません。

 

ご存知の通り三日天下で有名な明智光秀です。

もちろん,主君は織田信長で夜襲とは本能寺の変のことです。

 

 

明智氏は最初斎藤道三に使えていましたが,親子喧嘩に巻き込まれて一族の多くを失ってしまいました。生き残った光秀は明智家再興のために諸国を放浪したそうですが,やがて鉄砲の腕を買われて越前の朝倉義景に召抱えられました。

その後,13代将軍足利義輝が暗殺されたためにその弟の足利義昭が朝倉家に身を寄せてきたために光秀は義昭と知り合うことになります。

 

そして,室町幕府復興を願う義昭とともに朝倉氏と別れて信長との仲介者となったことから全てが始まりました。

 

以来,結局幕府を滅ぼされても,かつての主君の頭骸骨で祝杯を強要されても,人質となっていた母を見殺しにされても,自らを頼ってきた僧侶の助命嘆願を一蹴されても,髪が薄いことを「きんかん頭」とオチョクられても,公衆の面前で髪のマゲを掴まれ引きずられても,信長との仲を取り次いできた相手への武力討伐を決行されて面目を潰されても織田氏家臣団のトップとして忠節を尽くしてきました。

 

一方で織田信長の人柄といえば,他の歴史上の英雄の中でも神経質で残忍で狭量で執念深く攻撃型で独断専行な徹底主義者といったような強烈なネガティブイメージが強いのが最大の特徴だと思います。

また,虐殺の逸話には事欠かず,自らの神格化さえしてしまうほどの傲岸不遜ぶりでした。

 

もし,身近にこんな人がいたら現代の人はちょっと嫌だと思うはずです。

信長は,家臣に徹底して評価主義を通して続け,長年にわたり仕えてきた家臣といえども成果が上がらなければ追放してしまうこともあったようです。

もっとも,信長は三成のことを「粉骨の度々の功名比類なし」いって全幅の信頼を寄せていたようです。

 

しかし,破竹の勢いで天下をほぼ手中に収め天まで我がものにしようというその勢いに,朝廷を始め身の危険を感じていた人は少なくないのではないでしょうか。

 

なお,光秀の母親を見殺しにされたと同じ頃,信長は徳川家康の妻と長男信康が武田氏と内通していると疑い家康に殺せと命じました。実際には無実だったのですが,家康は信長の要求に抵抗できず愛する妻子を殺すことになりました。

 

このあたりのいきさつを考えると家康は光秀に対して敵対心どころか共通の憎しみを持つとしてシンパシーさえ感じていたのではないかと思います。平和な現代に暮らす我々が生き馬の目を抜く戦国時代の武将の気持ちを語るのは少々はばかられますが,普遍的な感情というのもあろうかと思います。

 

そして,光秀が本能寺において信長を討ち果たしたことにより光秀が本当に卑怯者と思われていたかというと・・・ちょっと疑問ですね。光秀を討ち果たした豊臣秀吉も家康もこれが無かったら信長に敵わなかったでしょうし。

 

ここまでで,現代において信長と光秀のどちらが人として馴染みやすいかといったら多くの人が光秀を挙げるのではないかと思います。

 

それでも,安土桃山時代の英雄を挙げるとすれば間違いなく織田信長となるでしょう。

 

なんというか,語り継がれる歴史というのはどうしても勝者に有利となるようです。

 

戦争などにおきましても,一般市民を虐殺した戦勝国が全く裁かれない裁判において我々のご先祖は戦犯との誹りを受けてしまっている有様です。

 

そして,私世代が子供の頃は,学校で戦争のことを勉強するたびに“日本は悪いことをした”と教えられました。(もっとも私はデキが悪い子供でほとんど話を聞いておりませんでした。)

 

別の歴史における事実の解釈がどうこうという話ではありません。それは現存する証拠によってのみにより検証して語られるべきで,調査能力の無い私には主張も反論も出来ませんし。

 

しかし,歴史を学ぶにおいてその当時生きていた人物を悪者とした時点で感情移入ができなくなります。将来を見据えるために歴史を紐解くというのなら愛情とか義侠心とかいう感情は普遍的なものとして捉えなければ意味が無いはずです。

 

たとえ負けたとはいえ,歴史に残る人物は皆必死で生きたでしょうから,歴史を知るには歴史が動いたきっかけがどの人のどういう感情だったかを知ることに意義があるはずです。

 

明智光秀もそうですが,石田光成など敗者となってしまったがために悪者扱いされてしまっている人の人柄や心にとても心惹かれます。

迷子

2013-05-28

子供の頃,お盆に親の実家に連れて行かれました。

 

道路の渋滞を避けるため電車に乗るのですが,駅のホームも人でいっぱいで小さかった私は迷子になるまいと親の服を力いっぱい握り自分より大きい大人たちにモミクシャにされながら必死でついて行ったのでした。

 

当時は,都内で数回乗換えをしなければなりませんでしたが,電車の扉が開いた瞬間に雪崩れてくる人達の逆流に必死に抗いながら電車に乗り込むのですが,降車する人並みに流されて思わず手を離してしまったことがありました。

 

自分の背丈では,あっという間に親の姿を確認することができなくなってしまいとりあえず電車に飛び乗りました。そのあとすぐに見つかったのですがあのときの不安は未だに忘れられません。

 

自分で行き先を決めていれば不安も無かったのでしょうが,やはり当時はまだ子供でした。

 

いまでは,自らすすんで人並みを外れるようになりましたが,(人の道ははずしません。)行き先が分からなくて不安になるのは今も変わりません。

 

場所などの物理的な事情による不安は世の中がすごく便利になってだいぶ解消されたと思います。知らない場所に行っても携帯ひとつあれば何とか帰ってこられるようになりました。

 

でも,先行きのわからない不安というのは時間の問題で,時間はそもそも戻すことが出来ないものです。だから,不安を感じるかどうかは別として,生まれてきたときから戻ることの出来ない環境におかれてずっと生きているわけです。

 

そして,修復したりして元の姿を復元したりすることはできますが,完全に元のままとなるものなど何ひとつ無いはずです。

 

だから,何事も実は手探りでやってきていたわけで,一番確実で見通しが良い方法が人のやったことをそのままやることです。ですが,時代は常に変わっていきますから意外とこれが最善とならないこともあるでしょうし,それほど簡単ではないでしょう。

 

結局外れてしまったとして,そのときにはじめて不安を覚えたとしても実際は感じていなかっただけで元々不安定な状況にあったのだけれどそのことに気がつかなかっただけかもしれません。

 

そうであれば,考えるべきことはひとつどうやって現状を打破するかだと思います。

 

そういうときほど,自分が本当にやりたいことが見えてくるような気がします。

 

ずっとみんな迷子のようなものだと考えると意外と気持ちが楽になったりします。

インセンティブ

2013-05-27

やる気などを外側から刺激することをよくインセンティブといいます。

 

頑張れば頑張るほど成果が称えられてそれに見合った報奨が得られると人はやる気を出すようです。

 

逆に先行きに期待が持てないとやる気は損なわれてしまいますね。

 

そう考えると景気というのは人々の気持ちが大きく影響するように思います。

 

スーパーなどで買い物をしているとやはり安さを売りにする商品が多いようです。

 

消費者としては,この先何があるか分からない為預金を増やそうと思うでしょうから家計の負担をなるべく軽くしたいとおもうでしょう。そうであれば,同じものなら安い方を選んで買うはずです。だから,売る方としては価格を極力下げる努力をします。そのしわ寄せが人件費に周ってしまいお給料が下がったり,雇う側が人員整理を行ったりしているのがこれまでの状況だと思います。

 

やはり,それだと先行きが暗く全体的に士気が上がってこないと思います。

 

政治のせいにしていてもしょうがないのでとりあえず何かやる気が出る方法をそれぞれで考える必要があると思います。しかし,労働時間の超過と給与の減額という憂き目に会ってやる気を出せというのも無理な話かもしれません。

 

なお,人権問題等を扱っている国連の社会権規約委員会が,長時間労働などが原因の過労死や自殺について,日本政府に懸念を示し,対策を講じるよう勧告していたと報じられています。

 

やはり,世界から見たら人権として問題視するくらい異常な環境なのでしょう。

 

労働とは付加価値をつけることだと思います。あるものやサービスに付加価値をつけて商品としてお金を頂くわけです。

 

しかし,付加価値の高い商品よりも安値の商品の方を誰もが選択するようになってしまうと労働自体の価値が下がってしまうのです。

 

でも,(一部の)大企業経営者側はそれを望むでしょう。人件費を下げれば利益が上がるからです。利ざやが少なくても大規模展開して大きなシェアを確保できていれば商品価格下げても競争に勝てるので,出来るだけ人が働いたことによる価値に値段を付けたくないわけです。

 

そして,そのあおりを受ける下請けもなるべく賃金を安く抑えたいというのが本音でしょう。

 

だから,これは行政が積極的に介入しなければならない問題です。早急に手入れをしないと,未払い残業代が過払い利息の不当利得返還のような事態になりかねません。そうなったら多くの中小企業が廃業に追い込まれてしまうでしょう。(もっとも,過払い利息の不当利得返還を否定しているわけではなく,(一部を除く)多くの専門家が貸金三法の改正運動に精力的に取り組んでいたことはすばらしいことだと思っています。)

 

日本で週休二日制をいち早く導入して普及させたのが松下幸之助氏という話は有名ですが,当時会社として順調なときではなかった様です。週休二日制を導入した理由は生産性を向上させる為だったようです。正に逆転の発想といえるでしょう。

 

しかし,業種や環境がそれぞれ違った条件で経営しているでしょうし,すべての経営者が同じように出来るとは限りません。では,そのままでいいかというとその先に光は無いのではないかと思います。

 

やっぱり働く人々あっての景気といえるでしょうから,ブラック企業が増殖している現状は行政の介入で変えていく必要があるはずです。

 

今回の国連の指摘について日本の多くの人が「よく言ってくれた!」と賞賛していると思います。

 

しかし,TPPに賛成している人がいまだに多いのはちょっと分かりません。

 

外国企業との価格競争が活発になればますます労働の価値が下がってしまうでしょうに・・・

今のうち

2013-05-25

すこし暑い日が続いています。

 

日中は,上着を脱いで仕事をするようになりました。

 

外を少し歩いただけでも額に汗が滲んできます。

 

日もだいぶ長くなりました。

 

もうすこししたら,梅雨になりしばらくお日様も拝めませんので今のうちに。

踏襲

2013-05-24

様々な分野で新しい製品が日々市場に出てきています。

 

携帯電話などもかねてからある機能に少しずつ付加価値を加えられて,10年前くらいと比べるととても機能的でスマートになりました。

 

かつては,肩に下げて持ち運び重量は3kgほどあったそうです。(こち亀で見ました。)

 

そのご1990年代頃に小型化が進み,当時の女子高生が持ち始めたこともあって急速に普及したとの事です。なんでも,当時ここまでシェアが伸びるとはメーカーも期待していなかったとの話を聞いたことがあります。

 

かつて,携帯にカメラ付きが出始めた頃に面白半分に購入してみたことがありました。色々遊べて面白くはありましたが,遊びのような機能が個々まで普及するとは当時思っていませんでした。でも,バスのダイヤ改正のときなどバス停でパチッと撮っておけば,自宅でプリントアウトしておけます。

 

突然に今のような便利なスマートフォンが発売されたのではなく,旧来モデルの機能を踏襲しつつ少しずつ付加価値をつけて発展させてきたわけです。

 

このことは,思想とかにも言えると思います。

 

保守思想ってここ最近はよく言われますが,まず古くからの考えを認めて重んじることから考えが始まります。

でも,ご先祖様と現在を生きている我々は別人格ですし,生きている時代も違います。

ただ,感情とか感覚とか想いだとか普遍的な部分では変わらないはずなので,当時の人たちがどういう理由で行動したかを繰り返し思い返して検討する必要があります。

 

でも,これってでも当たり前ことであるはずです。

 

ご先祖様を完全に現代人とは別として理解を示さないでいると,両親や祖父祖母も世代が違う訳ですから思いを共有する理由がありません。家族でさえそうなのだから組織内でも常に個性を強調することになります。だから内ゲバが好きなんでしょうな。

 

旧来の物や考えを否定することは破壊の論理だと思います。先人が積み上げてきた物をすべて否定して新しく作り直すという作業はこれまで積み上げてきた時間以上の時間がかかり合理的ではないはずです。国民感情にもあわないでしょう。

 

行き詰ったから今まであったものを否定するというのは思考の停止だと思います。

現状あるものを否定してしまうことにより想像の及ばないような事態になりかねません。

人為的な原因による想像の及ばないような事態を容認するということは思考停止以外の何者でもありません。

 

原発においてもTPPにおいても公共事業にしてもそうだと思います。

 

その思考停止をマスメディアが推し進めているからなお始末が悪いのです。

 

しかし,考えるのが面倒だとしてもいずれ生きとし生けるものすべて思考が停止してしまう日が来ます。

 

では,いつ考えるか。

 

今でしょ!

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