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アメリカか

2013-09-18

表現とは,自分の感情や思想・意志などを,形として残したり,態度や言語で示したりすることである。(うぃき)

 

なんだそうですよ。

 

つまり,ごく日常において人と話したり,学校の授業や仕事や私生活などで普通に行っていることのようです。むしろ,表現をしないで日常を過ごすことの方が難しい感じですね。

 

ところで,実はこの表現というのが,日本国憲法のご加護により保障されていることをご存知でしょうか。本当です。21条1項に書いてあります。

 

そうすると,友人との他愛も無い冗談や,学校で作る粘土細工,秘密ノートに密かに書き連ねた愛のポエムも,憲法で保障されていないと出来ないのか?という疑問をもたれたことと思います。

 

そういえば,つい先ごろ憲法96条(憲法改正要件)を改正するかどうかが話題となりましたが,もしも,21条文が丸々削除してしまったら我々は人と話すことも出来なくなるのか,ということを思いうかべた方もおられるでしょう。(おられますか?)

 

それについては,どうもこの21条1項の条文が想定している,表現の自由を保障する場面というのは,公権力が国民の表現を規制した場合などの様です。

 

例えば,(私は好きだったのですがあまり視聴率がよろしくなかった)NHK大河ドラマの「平清盛」で出ていた禿部隊とか,スターリンの密告奨励,中国の文化大革命の時とかを想像すると,なるほど分かるような気がします。政権維持のために民衆の言論を封じてしまうことは歴史上多くあったことのようで,確かにこのような自体は避けなければなりません。

 

しかし,これを太平洋戦争中の報道規制を例とすると,私には少し分かりにくくなります。緊急事態においては,避難指示など政府の主導権限を強くする必要があるために,報道機関が自主的な見解を述べることを規制するという意味で,ある程度の報道規制は必要と考えるからです。

もっとも,シビリアンコントロールが効き難くなった事もまた事実でしょう。

 

しかし,現憲法において平和憲法を掲げている限り,シビリアンコントロールは考える必要ありません。自衛隊だって大丈夫です。外からの攻撃を9条が守ってくれるのだったら,内からのも守れるんでしょ?

 

 

まぁそれはいいとして,表現の話にもどりますが,実際に皆さんは「憲法が表現の自由を保障してくれてるから何でも言ってやるぜ!!日本国憲法バンザーイ!!」という印象をお持ちではないと思います。

 

現実には,何か一言を言うにしても非常に窮屈な思いをされている人の方が多いのではないでしょうか。

 

そうなんです。どちらかというと日常生活における表現の問題というのは,国民と国民とが衝突することの方が圧倒的に多いわけです。

 

この場合において法律などで一線を敷く場合の判断は,「公共の福祉」という基準によります。意味分かりませんよね。しかも,「一元的内在的制約説」というのが通説だそうです。更に分かりませんね。

 

これを,ちょっと前に話題となった東京都における児童ポルノの規制条例を例にしますと,たとえば,東京都在住のロリコンさん達が,「萌え〜〜!」(ふるいのか?)とばかりに同人誌を出版します。

それを目にしたおばさん達が「まぁ!なんてけがらわしい!!不潔ザマス!」といったことになった場合,同人誌に掲載したロリ漫画という表現によっておばさんたちの羞恥心を侵害するという形で人権と人権とが衝突しています。

 

そこで都知事が,おばさんたちの方に肩入れして,「非実在青少年」を対象とした性的表現を規制するような条例を掲げるたら,今度はプロの漫画家から横槍が入りました。

 

 

こんなかんじのときに,権力が表現に規制をかけるには,衝突している他の人権との調整のために必要最低限のものであること,ということのようです。

 

しかし,もっと別の場面,例えば婚約者へのプロポーズや両親にカミングアウトすることように,我々が言いたくても言い出せないことというのは,保障されているとか,人権を蹂躙するとかそういう理由だけではないはずです。

 

我々は,戦後教育によらずとも日常生活において,人が傷つく言葉とか不快にさせる言葉を学んでいます。それは,法律などではなく長年培ってきた文化によるものであるはずです。

 

表現とは違いますが,思い起せば東日本大震災のときに被災地の方々が食料を求めて並ぶ姿が世界に絶賛されたことがあります。これは,別に法律や憲法に書いてあるからそうしたのではなく,狭くて資源の乏しい日本で培われた知恵と文化の賜物だと思います。

 

ところが,日本に自由と平等を謳う美しい憲法をくれた国では,災害のたびに暴動や略奪が起こっているようです。それ以外でも,なにかと手加減を知らない人たちです。

自由や平等などという綺麗ごとなどよけいなお世話だと思わざるを得ません。

 

表現に関しても,礼儀や文化に則り,人を傷つけない様に,粗相のない様に人と接してきた日本国においては,そもそも表現には自由と責任が包含されているはずなのです。

 

そうであれば,そもそも表現に「自由」などという,言葉の意味は分からないがすごい自信の言葉をわざわざ謳う必要はないはずです。

公権力からの規制から国民の表現を守ることや,人権同士の衝突を調整することが目的であれば,憲法に個別にもっと具体的な言葉で記す必要があるでしょう。

 

ですが,表現というセンシティブな事柄にたった一言「自由」という曖昧な一言で保障するなどとなると,マスコミがデタラメを報道し,何かにつけては文句を言う人ばかりになり,発言力を持つ者の思うままという,むしろ衝突を助長しているように思えてなりません。

 

 

福澤諭吉は,“自由とわがままの違いは,他人を妨げるかどうかである。”といったそうですが,はたして日本国憲法が保障しているのは本当に自由なのでしょうか。それともわがままでしょうか。

イプシロン

2013-09-17

12年ぶりに開発された新型の国産ロケット,イプシロンは,14日午後2時に鹿児島県の内之浦宇宙空間観測所から打ち上げられました。

 

先週,打ち上げの予定だったもののトラブルのため,14日に延期されましたが,今回は無事に打ち上げられたようです。

 

喜ばしいニュースですが,従前の暗黒政権時代には,宇宙航空研究開発機構JAXAは,事業仕分けなどという茶番により予算を削減されたばかりか,組織丸ごと廃止案が検討されるという憂き目に遭いました。

 

本当に恐ろしいことです。

 

例えば,技術というのは使わなければ育ちません。

そして一度その技術の芽を摘み取ってしまったら,その技術がいざ必要となっても簡単には元通りになりません。というか,元通りということはありえないでしょう。何らかの代替が必要となるはずです。

 

それは,やはり技術の持ち主が“人”であるということを意味すると思います。

 

その証拠に,被災地の復興が遅れている理由として人員不足が叫ばれていますが,一度衰退させてしまった土木建築業において,いざ必要となったとしても,業者と人員を簡単に手配できないということに顕れていると思います。

働くだけなら復興ボランティアの方々もおられるでしょうが,専門的な現場での経験と技術は,マニュアルでなく人から人へしか伝わらないものということでしょう。

 

そして実際にロケット開発等によって収益をあげることは難しいでしょうから,(おそらく研究に費やす時間がほとんどだと思うので)公益的な事業として国家から予算を与えなければ,組織の継続は難しくなると思います。植物に水を与えなくするようなものでしょう。

 

宇宙のことなどどうでもいいと考える方もおられるかもしれませんが,日本において開発した技術を世界中に売り出せるということこそ,技術の先進国であって先進国であるからこそ,先進国並みの生活水準で毎日を過ごすことが出来ているはずです。

 

日本の原発技術を欲しているベトナムやトルコ,ヨルダンなどと日本の生活水準の高さ比べるとわかりやすいと思います。

 

直接的には関わりの無い技術であっても,日本における日本の技術が日本で生活する日本人に関係ないということはありえないということだと思います。

 

こうして,長年にわたり培ってきた技術の恩恵を受けながら続いてきた生活は,物でも人でも言えますが,慣れ親しみという感覚に還元されると思うのです。

 

家電製品でいえば,国内産のメーカーへのこだわりだとか,毎週末ゴルフの練習場に行けば,常に電気が供給されていていつもと同じように練習が出来るとか,毎年末にNHKを付ければ紅白歌合戦がやっているだとか,当然にずっと続くと思っていた慣れ親しんだ何気ない日常の風景は,様々な要素がすべてつながりを持って続いているからこそだと思うのです。

 

そして,最近流行の“反”○○とか“脱” ○○は,その一要素を取り除くということになるので,その代替となるものが必ず必要となるはずですが,“反” とか“脱”を言い出した人たちの代替案があまりにお粗末で呆れてしまうものばかりです。

 

そもそも,“反” とか“脱”を言っている人の,“反” とか“脱”をしなければならない理由自体が真摯なものであるとは考えにくいのです。真剣に考えたのならば,“反” とか“脱”とはおいそれと言うことはできないでしょう。なぜなら,そこで培った技術とそれを運営する技術者達が多数おられるのですから。

 

その心理を想像するに,DHCが目当てで毎日鯖を食べていた人が,骨が喉につかえて以来,鯖を見るだけで嫌になってしまい“脱”鯖を言い始めるようなものでしょう。「それでは,DHCはどうするの?」と聞くと「サプリメントで摂る」となるのです。

ですが,鯖にはDHCの他,EPAなど様々な栄養を含んでいるでしょうし,そもそも失ったものの損失と,それによって起こる現象をすべて想定できると考えている時点で非常に問題です。

想定しかねる事象が起こりえるからこそ,人は現状を守ろうとするわけですから,現状を変えることへの問題点を認識できてないことになります。

 

もちろん,私は,理論も技術も覆されないものなどないと考えています。

ですが,覆すものの土壌には,必ず覆されるものの実績があってこそです。

たとえば,相対性理論が,ニュートリノの実験結果により覆る可能性があるそうですが,ニュートリノの実験にいたるまでの経緯には,相対性理論の綿密な研究があったはずです。(たぶん)

 

新しい技術というのは,何かを取り払えば出来るようなものではないはずです。何かを取り払ったことによって起こる,想定を超えた悲劇は規制緩和で嫌になるほど見てきたでしょう。

 

それによって,慣れ親しんできた人や物を失った方もおられるでしょう。 

 

慣れ親しんだ物や人などとの別れる悲しさは,新しいものが出来る喜びよりも,強い感情を心に植えつける様に思います。

 

 福島をはじめ東日本大震災における被災地の悲しみの本質というのは,慣れ親しんだ物や人などとの別れという,もう戻ることのできないことへの悲しさというように感じています。

 

そう考えると,続けていくことができる喜びというのは,大切にしなければなりません。

 

そういう意味でも,一度暗黒面に堕ちかけたJAXAによるイプシロンの打ち上げは非常に喜ばしいことなのです。

9月の夜

2013-09-13

昨日,消費税に関するニュースが二転三転してあまりに混乱してしまったため(大事なことですので),めずらしく帰ってからテレビのニュース番組を見ました。

 

すると,「消費税増税ばんざ〜〜〜い!!!」と,既に決定したこととして,華々しく報道されていました。

 

そして,ニュースキャスターと思しき”フル勃チ”さんという方(あまりテレビを見ないので,存じ上げておりませんが確かにそう呼ばれていました。)が,「安倍首相は国際公約を守ったという意味ですばらしいご決断」との様なことを言っていました。

 

ははは・・・・・・

 

すべての日本国民に大きな影響をもたらす消費増税を,国際公約を根拠に決められたらたまらんですな。

 

例え公約だったとしても,他国から内政に関して言われる筋合いないですし,それこそ彼らの好きな民主主義の崩壊ともいえましょう。

 

私は,それを見て少しだけ微笑んで,静かにテレビを消しました。

 

9月の夜はとても静かで,ただただ虫の鳴く音が静寂の中に空間をなしていました。

誤報?

2013-09-12

読売新聞など一部マスコミが,“安倍首相が消費税増税の意向を固める”旨の報道をしたのに対して,菅官房長官は今朝の記者会見で「安倍首相が増税の判断を下した事実はない」と報道を否定した模様です。

 

先日,菅官房長官が安倍首相のことを「デフレ脱却の鬼」とまで呼んでおりましたので,増税ニュースには正直驚きました。

 

私を始め多くの消費者は,来年4月における消費税増税は見送るべきだと考えていると思います。まだまだ,一般の消費者層にとって景況は感じ取れていないと思います。

 

もちろん,消費者にとって見れば,理由にかかわらず消費税を増やすことについては抵抗があると思いますが,現実にその分所得が増えれば,それほど不満はないと思います。

 

私も,合理的な理由をきちんと説明してくれれば,適正な形で国民負担率を上げること自体には賛成です。なぜなら,国民に多額のお金を持たせて個人の預金とするより,税金として徴収して,政府主導で国内需要を創出した方が,経済がまわると考えているからです。

 

経済を優先にしないで社会福祉にまわすべき,という意見もあると思いますが,経済をまわすことにより名目GDPも増えて,それによって税収も増えれば社会保障費にも予算がまわり易くなるはずです。

 

でも,消費税増税によって国民負担率を上げるにはタイミングを見極めることが必要で,デフレから脱却していないうちから増税してしまうと,当然ながら消費者は財布の紐をきつく締めてさらなるデフレ傾向となるでしょうから,デフレ脱却は困難となってしまうでしょう。

 

そのあたりを踏まえたうえで,一般的な所得の世帯においては,現在において消費税を増税されるとかなりきついと感じる方が多いのではないでしょうか。また,7年後の東京オリンピック開催が決まったことで,6ヶ月の間で急激に景気が良くなるとは誰も考えていないでしょう。

ですから,私を始め一般的な消費者は,4月の増税は見送るべきと考えている方が多いと思います。

 

なお,“安倍首相が消費税増税の意向を固める”旨の報道を流した読売新聞では,ついこの間,来年4月の増税は見送るべきとの社説を掲載していたようです。本日,読売と同じ報道をした毎日新聞においても同様の社説を目にしました。

なお,両紙とも最後の方に,“平成15年10月に消費税率を10%に引き上げる際は,新聞には5%の税率を維持すべき ”と,ちゃっかりと書かれていて失笑しました。

 

ですので,新聞社が意図して報道したものではないのでしょうけど,かなり混乱しましたよね。

 

結局,報道を否定したのも安倍首相を「デフレ脱却の鬼」と呼んだのも菅官房長官でした。非常に慎重な対応に徹しておられるので,なんだか頼もしく感じるようなっています。(首相より?)

 

もっとも,立場をわきまえておられるというだけのことかもしれませんし,菅官房長官のお考えをはっきり聞いたことはありません。単純に(ちょっと軽すぎ?)と思われる首相発言に釘を刺しているだけかもしれません。

 

まぁ,ここまで言っておいてなんですが,いずれにせよ安倍首相に,デフレ脱却を主眼においた賢明なるご決断を仰ぐよりほかありません。

自分の姿

2013-09-11

今日は,佐倉で成年後見相談会の相談員をやってきました。

 

同業の先輩と同席させていただき,相談者は少なかったものの,いろいろとご指導していただき大変勉強になりました。

 

そして,執務の姿勢などのお話を伺う度に,実に自分の姿は見えにくいものだと痛感した次第であります。

 

基本的には,守秘義務もあることから同業者の執務姿勢というのはあまりお目にかかることはありません。逆に言えば,自分が見られることもありません。

 

ですので,自分が思うままに振舞うことも出来るのですが,色々と責任を背負いますし,実際の話は意外とできない物です。

 

しかし,責任というタガが外れてしまうと,人間ですので欲望が露となることもあるわけです。

 

これはあってはいけないことなのですが,我々が追う責任というのは職務上だけではなく,家族の中やら,住宅についてやら,友人関係やら様々です。

 

それらが,何かしらのきっかけでぶつかり合ってしまったとき,何を優先するかという判断が必要です。そして,職務における責任よりも家族や住宅を優先すべきと思ってしまったとき,果たしてどうするのかということです。

 

このとき,もし自分の姿やその他の人とその周辺を俯瞰することができれば,意外と間違った判断はしないように思います。要は客観的視点に立てば,判断の先き行きも分かりやすいという事だと思います。

 

ですが,たったそれだけのことを出来ずに人は過ちを犯します。もちろん私も例外ではないでしょう。

 

しかし,人の話を聞くということで,その話の中に自分を当てはめてみるとき,自分を客観的に見る機会というものを意識することが出来ると,今日改めて感じました。

 

ああすべき,こうすべきというイワユル倫理の話も大事ですが,時おり自らを客観的に捉える機会を持つことも,継続して責任を全うするために必要な事だと感じました。

 

結局言いたい事は,先輩の話をよく聞くこと,ということでした。

売り物にしてはいけない

2013-09-10

先日の厚生労働省による最低賃金(時給)の地域別改定結果を発表によりますと,最低賃金の全国平均は前年度に比べて15円上昇し,764円となったそうです。

 

なお,改定前には11都道府県で起きていた,最低賃金が生活保護水準を下回る「逆転現象」が,改定により北海道を除く全都府県で解消されるとのことです。

 

労働者にとっては一見いいニュースですが,これによって安定した収入が確保されたわけではありません。

大抵の人たちにとって労働における対価の価値観というのは,金額というよりも,収入が永続的に得られる期待によって見据えることが出来る将来であるはずです。

 

 

ですが,安倍内閣が掲げる3本の矢のうち,成長戦略を話し合う「産業競争力会議」には,派遣会社の取締役会長が幅を利かせているようです。

 

彼らの掲げる,いわゆる新自由主義的な考えによると,政府は市場には極力介入して欲しくないわけなのです。それは労働市場も同じで,企業にとって人件費は安いほどよく,人材派遣会社においても企業のニーズに合った安い労働力を提供できることを目指すでしょう。

 

そう考えると,今回の最低賃金の上乗せは彼らにとってはあまり言い話ではなさそうです。もっともそれなら,企業にとっては労働者の流動を円滑化して合理的にコストを減らすことができれば結構なことなのでしょう。(書いていて気分が悪くなりましたが)

 

先日,厚労省から派遣法改正についての報告書が提出されたようです。

 

これによると,派遣専門業務と一般業務の区分そのものを廃止すべきとのことです。

また,一人の派遣労働者が同じ職場で働ける期間を最長三年とし,業務による期間制限を撤廃すべきだとしているようです。

 

なお,現行法では,専門性が高いとされる二六種の専門業務には制限期間を設けておらず,専門業務以外は,企業が派遣を受け入れられる期間を原則一年,最長三年に限定しています。

これは,長期間会社で働くことが予定される正社員が本来やるべき恒常的な仕事を派遣にやらせてしまうことで,企業は正社員を雇用する必要がなくなる,という事態を防ぐための規制といわれています。企業内での派遣と正社員の仕事の住み分けをして正社員雇用の必要性を維持する機能といえましょう。

 

 

改正案が実現すれば,企業は働く人を交代すれば同じ職場でずっと派遣労働者を受け入れ続けることができます。

 

つまり,このたびの改正は,正社員と派遣の枠を取り払うことになり企業としては派遣が使いやすくなるわけです。そうなれば,派遣会社も儲かることになるでしょう。

 

これって,日本の誰にとって得かというと,派遣会社と外国に資本を移せる一部の大企業以外は誰も得しないと思います。

 

そもそも,最初はデフレ脱却するために国内内需を創出するという話でしたが,安定した雇用という下地がない限り,消費者は財布の紐を緩めないのは言うまでもないと思います。

 

デフレ脱却とは真逆であるように思えます。

 

新自由主義者にとっては,すずめの涙程度に最低賃金を上げておいて,その代わりに労働力を流動化することが出来れば,安いものだと思っているかもしれません。

 

とにかく,市場原理云々以前に道徳の基本的な考えに立てば,労働力を売り物となっている事自体がおかしいのです。

 

もう,いまだに残る小泉政権時の遺産でさすがに誰もが学んだと思うのですが。

 

それでも,新自由主義は国民に歓迎されているのでしょうか。

2013-09-09

人が生活していくうえで必要不可欠な条件として,衣食住の基本みっつがまず上がると思います。

 

その中でも,とりわけお金がかかるのは住でしょう。

 

住まいを購入するというのは,大抵の人にとって一生で一番大きな額の買い物でしょう。私も,仕事柄その場所に立ち会うことはありますが,やはり空気が張り詰めます。

 

しかも,かかる費用は不動産購入の頭金だけでなく,税金や不動産業者さんへの仲介料や我々に支払う登記手数料なども上乗せしてかかります。

 

また,購入後もローンの支払と税金は継続して支払っていくことになります。

 

ですので,不動産を購入すると転職も難しくなり,それ相当の覚悟が必要となります。

 

もし,住宅ローンの残額を残したまま,支払が長期間滞ってしまうと,自宅を失うばかりか,おおよその場合は多額の借金も残ることになります。この場合は,無理して支払うよりも自己破産するケースが多く,私もそのほうが妥当だと考えています。

 

一方で,賃貸においても,毎月の家賃を支払う必要があります。

また,入居に際して敷金,礼金を入れることも多いでしょう。

 

もっとも,敷金は基本的には借主の財産とみなされており,退去の際の諸費用を除いた額は基本的に借主に返されるものです。

 

また,修繕費は基本として,貸主の負担なので修繕を管理人又は大家さんに請求することができますし,自らが修繕した場合にはその費用を請求することも出来ます。

 

また,家賃の滞納についても1回や2回では,裁判ではすぐに出て行けという話にはならず,大家の事情で引越しを余儀なくされるようであれば立ち退き料を請求できることが多いです。

 

このように,居住のために借りているアパート等の契約は,借主が強く保護されています。

持ち家であれば,買う前から壊れていたなどの場合でなければ,修繕は自己責任となりましょう。

 

賃貸においては,貸主と借主の立場的な力の差が開きすぎていることから,借地借家法という法律によって借主は手厚く保護されています。

 

ですが,ローンを組んで自宅を購入された方においては,すべて自己責任となります。

 

以前,亀井静香議員が金融担当相だった当時にモラトリアム法という 返済猶予制度が施行されたことがありましたが,既に期限が過ぎてしまっています。

 

まぁ返済猶予が事の解決となるということもありますが,住宅ローンに関しては問題の先送りとなっただけというケースの方が多いように,私は実感しています。もっとも,あの時期にこの制度を立ち上げたこと自体は,私は評価しているのでありますが。

 

それはともかく,現在景気回復に向かっているというものの住宅着工については伸び悩んでいるようです。

 

また,一時期に緊縮財政を押し広めてしまったがために,その意識は消費者にも強く根付いてしまっているような気がします。将来の不安もあるでしょうし,消費者が大きな買い物に踏み切るにはまだ時間がかかる様な気がします。

 

終身雇用が形骸化してしまっているので無理もない話だと思います。35年後に同じ会社で働いている保障は一部の人を除き誰にも無いのです。いわば,住宅ローンというは果たされる保障の薄い約束といっても過言じゃない気がします。また,住宅ローンを完済できなくなった原因が,個人の責任ではない場合があまりに多く,しかもその結末は結構悲惨です。

 

だからといって,住宅の注文が無くなると,今度はそれを仕事とする会社や大工さんなどの職人さんが困ってしまうのです。この方々が,職業で食えなくなってしまうと当然職業人口が減ってしまうでしょう。それがどういう結果をもたらすかというと,東日本大震災の被災地において復興が遅れるということに繋がります。

 

また,遠くない未来に,首都直下地震や南海トラフ大地震が予想されている現在,早急な対応が必要となりますが,なにしろ建築の供給力が足りません。

 

とにかく,雇用の安定化をまず始めに(ぱ○なを儲けさせてる場合ではありません)消費者が大きな消費に躊躇することのないだけの土台作りが必要ですが,債務整理の現場の声として,住宅ローンのデフォルトについてもう少し寛容な処遇を施す必要があると考えています。

 

何が起こるかわからない世の中では,自分の未来を人に約束することはできませんよね。

 

ましてや,その約束が自分の家族をはじめ様々な要素に繋がっているのですから。

思想なきイデオロギー

2013-09-07

今朝,宮駿氏の引退会見をちょこっとテレビで見てきました。

 

想像以上に晴れやかな表情で,もうやり残したことはない,という様な印象を受けました。

 

正直,それについては羨ましくも,微笑ましく羨望のまなざしで見ていました。

 

なお,今度ばかりは本当に引退するとのことでした。笑いました。

 

宮崎氏のアニメには,戦闘機が良く出てきますが,やはり,以前に戦闘機を書くのが好きだとおっしゃられていました。でも戦争は嫌いだそうです。そりゃそうでしょうね。

 

そして,最後の監督作品であろう「風立ちぬ」は日本の航空機技術者で零式艦上戦闘機の設計主任である堀越二郎さんという方にスポットを当てたお話だそうです。

 

ゼロ戦のフォルムは私も好きで,映画にはとても興味があります。

 

ちなみに,宮崎氏は以前に憲法9条改正の反対論を唱えていましたので,おそらく反戦メッセージの濃い作品じゃないかと予想しています。

 

私は,といえば,現在の憲法は平和憲法も含めて一度作り直した方がいいと思っていますが,無論戦争は嫌いですし,恒久の平和を願っています。

 

ですが,軍備を持たないで,かつ戦争もしないことで果たして平和が保たれるかというと,他国からの侵略から国土を守れませんし,それを平和とはいえないと思います。実際,物理的・経済的に侵略されてますし。

 

結局のところ,おおむねの目的は改憲派と護憲派でそう違わないと思っていますが,平和憲法論議は方法論の部分だと認識しています。

ですので,いずれの論法にしても決してイデオロギーであってはならないわけです。論を守ること自体が目的となってしまいますので。

 

思うのは,芸術家の作品においてその人の思想というのは大いに作品に影響するのでしょうから,その思想を完全に否定してしまってはその人の作品には正当な評価が出来ない訳です。

 

ですが,例えば憲法改正を前述の通り方法論と捉えると,向かう目的はそう違わないわけですから,その作品を見て反論を含めた正当な評価を持って鑑賞することが出来ると思うのです。

 

そして,いっち番面倒で厄介でもうちょっと考えて欲しいと思うのは,イデオロギーの人たちではないかと思います。彼らの目的は自分達の言い分を通す(下手したら暴れたいだけかもしれない)ことが究極の目的となっていますので,話が通じる相手ではありません。

 

大体,民主主義を訴えている癖にに人の考えに聞く耳持たないのは,どう考えてもおかしいでしょ。大言壮語を標榜に掲げてる人は,大体何も考えていないような気がします。

 

そして私は,イデオロギストではないので,作品は機会があるときに観たいと思っています。

新旧

2013-09-06

古い物を捨てて新しい物に買い換える理由は,物の種類によっても場合によっても様々だと思います。

 

しかし,新製品に買い換えるのであれば,やはりそれまで使っていたものより性能の良いものを求めると思います。

 

もっとも,常に性能が良い新製品を買えばいいという訳でもない場合もあると思います。

 

例えば,一時代前のエアコンよりも今のエアコンは格段に消費電力が少ないと言われていますが,電気代の出費を安くすることを目的として,値段が高くて消費電力の少ないエアコンを購入するのであれば,それまで使っていたエアコンと新しいエアコンの消費電力にかかる電気料金を比較して,購入価格をどれくらいの期間でペイできるかは考えるべきかもしれません。

 

もっとも,音が静かだったり,掃除が楽だとかその他の付加価値も新しい製品の方がよいでしょうけど,電気代が安いという部分を主眼に置くという事情が家計の経済的な事情であるならば,買い控えることが妥当である場合もあります。

 

オール電化も,CO2排出量が大幅に削減できて,かつ光熱費が安くなる新しい技術として売り出されていましたが,電気料金の高騰により実際には導入前より光熱費の負担が大きくなってしまっているようです。

新しい技術とはいえ,これから導入する人はおられないでしょう。

 

結局,何が適切なのかを判断するには,新しい古いよりも,その状況に応じて選択することの方が重要です。

 

企業は常に製品のモデルチェンジを迫られているはずです。なぜなら,消耗品や食料品でもない限り同じ物を2個も3個も買ってくれる人はいないでしょうから。

 

ですので,商品に関しては基本として新しい製品の方が,最先端の技術を搭載していることが多いでしょう。それにしたって,家計や世帯などの状況によって本当に必要かどうかの判断が必要です。

 

これを政策や法律に置き換えるとどうでしょう。

そうそう新しい技術など導入できないでしょうし,世界中で出遅れているとか,古いとかで判断するよりも,それぞれの国のそのときの状況に応じたものであれば,それこそ過去の同じ状況時に敷かれたものを使いまわした方がよっぽど信頼できるはずです。

 

新しい古いの評価よりも,まず現状を把握する方が大事であるはずです。

通りすがり

2013-09-05

仕事においても,その他でも,様々な場面で様々な人とすれ違う場面があります。

 

もしかしたら,そのうち自分の顔も名前も忘れられてしまうであろう人に対して,その人が自分と出会う以前と通りすがった後の長い時間の中で,自分が少なからず認識されていた時間は,その人に幾ばくの影響を与えるだろうか,などと考えることがあります。

 

逆も然りで,自分が忘れてしまった人から受けている影響もあるでしょう。

 

たとえば,あるときに出会った人に起こっている出来事を,自分や親愛なる人達に重ねて合わせるとなんともやるせない気持ちにもなり,いっそのこと感情を交わす相手などいなくてもいい,とさえ思うときがありますが,考え直すとすれ違う人すべてに影響されながら今日も生きている自分を自覚します。

 

今日はたまたま,何かしら思い出のある場所を通り過ぎたとき,ふと湧いてくる郷愁の様なこころもちになんともいえない寂しさを感じました。

 

そして,ゆったりした流れの道路を走り事務所までの帰り道,雨上がりの夕方は夕日が濡れたアスファルトに反射してすこしまぶしく感じました。

習慣

2013-09-04

結婚していない男女間に生まれた子(婚外子)の遺産相続分を,結婚している夫婦の子の半分とする民法の規定が,「法の下の平等」を保障する憲法に違反するかどうかが争われた2件の裁判で,最高裁大法廷は規定を違憲とする決定を出したそうです。

 

あぁ〜〜あぁ,やっちゃった・・・

 

と言うのが感想です。

 

前にも書きましたし,面倒なので少しにしておきますが,実際の話,夫と同居して財産の維持管理に努めた配偶者さんとそのお子さん達にしてみれば,ハラワタが煮えくり返るような話ではないかと察するわけです。

 

家族のかたちとして結婚を基調としておきながら,夫婦の子と婚姻外の子との区別を取り払うのですから,おかしな話と思わざるを得ません。

 

しかも,取り払う理由が,平等原則に反するということであれば,あまりに平等という概念を形式的に捉えすぎているように感じます。

 

というか,平等という言葉を使えば,どの立場からも不平不満を言うのが可能となるでしょうし,実際そうなってる気がします。

なお,この“平等”という玉虫色の言葉を高らかに謳って,しかも意味の具体的な説明が無く解釈任せなのが,アメリカから頂いたわが国の憲法なのであります。

 

まぁいいです。。。。

 

 

話を変えて,平日ほぼ毎日時間が許す限りは,何かしら書いておこうと言うのが本ブログの趣旨でございます。

 

日によって,興味深い時事ネタが拾えた日には早く書けるときもありますが,何も書くことがなくて考え込む日が結構あります。

 

実際,出勤時や何もしていないときなどに,ネタを思いつくことが多いのですが,それを忘れてしまうことがほとんどです。外を歩いて周囲を見渡せば,数限りない話題が思いつきますが,帰ってきてから事務などに追われると忘れてしまうことが多いのです。

 

納期とかクオリティなど,一定の条件を求められプレッシャーを掛けられた場合,なかなかアイデアが生まれてこないものだなと実感します。やっぱり苦労するのは滑り出しですね。

 

でも,出ない発想を無理やり引き出すことを習慣にすると,やはりそれなりにその成果は顕れるもので,ひとつの情報から色々な角度で物を見る習慣が身についたり,いろいろなことを思いつくようになりました。

 

それは,文章を書くときだけでなく色々な分野で発揮できていると思っています。

 

ですので,いい習慣だと思っていますし,何かを習慣づけること自体が自分そのものの力となっているように思います。

 

ですので,安定した生活をおくるということは,とても私にとって大事なことだと思っています。

 

ただ,思いついたネタを忘れなければ,もっと楽に書けるのですが・・・

考えすぎ?

2013-09-03

インターネット通販を利用して物を買うとき時々考えることがあります。

 

(もし,注文してから商品が届くまでにかかわる人のうちの誰かが,自らの責任を放棄して商品をくすねたり,クレジットのカードの情報を悪用したりしたら・・・)

 

商取引をはじめ我々の私生活は,信用で成り立っている部分が大いにあることに気付かされます。

 

もちろん,継続的に商行為を行うのであれば,大きなダメージとなるような信用の毀損については抑制がかかると思います。

 

だから,長く商売を続けている老舗というのは,そういう意味で客観的な信用があると思います。

 

ですが,最近ともいえないくらい以前から,料亭,菓子,酒蔵,ホテルと続けざまに不祥事が発生しています。

 

もちろん,しっかりとやっている老舗が圧倒的に多いのでしょうし,若い企業と比べたら割合的には少ないのでしょうけど,受けるショックが大きいだけに強く印象に残る気がします。

 

たしかに,商売を長く続けると言うのはとても難しいと思います。

 

たとえば,街の電気屋さんが大手家電量販店の出店により閉店を余儀なくされたと思いきや,今度は大手家電量販店がインターネット通販に押されているそうです。

 

消費者の多くは,常に利便性を求めています。

 

ですので,新しく生まれた新サービスも,その次に新たに生まれるサービスによって淘汰されてしまいます。

 

ですので,企業は常に新しいものを追い求めて,また,追従していかなければならず,永続的な技術や設備の入れ替えが必要となります。

 

つまり,ついて行けなくなった企業は倒産するでしょうし,往年の技術者も追いやられてしまうとなると,結果として終身雇用が困難になるでしょう。

 

しかし,例えばある人が,仕事で現在与えられている役割に誇りを持って取り組んでいたとしても,雇う側にとっては捨て駒の様に思われていることを知ったとしたら,果たして役割を全うするモチベーションを維持することが出来るでしょうか。

 

一般的な日本の労働者は,自らが提供したサービスに不具合があった場合,そのサービスを受けた人の気持ちを想像すると思います。ですので,少なくとも自分の仕事は十分に遂げるべきだと自覚を持つわけで,それを責任感と呼んでいると思います。

 

それが,労働において不当な待遇を受けて,ルサンチマンよろしく世を恨んでいる人がその責任感を感じられようか,と思うわけです。

 

そういえばここ最近,お店の従業員があるまじき行為をインターネットに掲載して炎上するという事件が繰り返し起こっています。(そうじゃないのもありますが)

 

最初は,一部の○○の行為と思っていましたが,あまりにも続発するので何か共通の原因でもあるのではないかと思いました。

もちろん,これらのことで若い人達を誤解することは良くないことだと思います。まともな方々が圧倒的多数でしょうから。

 

これら問題の原因について,世間ではSNSなどの技術の方に求めがちのように感じます。

まぁそれもあるんでしょうけど,時代にともなう労働環境の変化というのも感じるところです。

一筋二抜け三動作

2013-09-02

今話題のドラマ「半沢直樹」第7回の平均視聴率は,関東地区で30・0%だったそうです。

自称テレビ嫌いのワタクシも,ここまで話題になっているとなると,さすがに好奇心をくすぐられて観てしまいました。・・・なるほど,面白いと思いました。

 

実は,ドラマを観るにいたった経緯には,以前にドラマの演出を手掛ける福澤克雄氏のコメントを目にしたのが,ひとつのきっかけでした。

 

なんでも,ドラマ制作においてのセオリーは,ドラマのメインターゲットと言われる女性が好むと思われる「女性の登場人物」と「わかりやすいキャラクター」そして「恋愛」と言われているそうなのですが,「半沢直樹」には,その要素をほとんど取り入れなかったそうです。

 

ただ,福澤氏は自分が面白いと思うものを作ろうと決意し,制作に情熱を傾けたそうです。

 

ところが,いざふたを開けてみると高い視聴率で,しかも女性が見ていたとのことです。

 

そのことを福澤氏は,『テレビの常識がいかに適当だったか、マーケティングというものがいかにアテにならないか』と語られておりました。また,続けて,『「●●がないから視聴者は見ない」という常識は、逆に言えば、「これだったら食いつくだろう」と視聴者に対してある種の「上から目線」』とも語られていました。

 

まさにそうなのでしょう。

 

しかし,テレビ制作の現場は良く知らないのですが,たとえば成功と失敗の例が水物であるようなことに関する企画立案というのは,ある程度のキャリアや立場がないと,自分が真に面白いと思える物を作りたいという願いはなかなか果たせないのではないかと思います。

 

というのも,企画立案は一人で出来るとしても,制作にはそれなりに多くの人が関わるでしょうし,費用もかかるでしょう。

 

ですので,出資者がいれば口も出してくるでしょうし,制作に関する方向性や熱意も関係者それぞれ違うこともあると思います。

 

だから,規模が大きくなればなるほど,様々な方面から意見が出てきて,いちいちそれを取り入れると芯の無いような,味気ない作品となるような気がします。

 

ですので,仮にこのとおりだとすると,大きな規模で制作した作品のコンセプトがしっかりとまとまっているということはあまり無いはずです。

 

つまりは,作品を見る人にとって深い意味が感じられず無味な作品になるということです。

 

ですが,基本的には商売のためなので,観てもらわなければ困ります。ですので,メインターゲットがどの層かをリサーチして,その特定の層が喜びそうな要素をところどころに含めて,番組宣伝などで流せばおkというパターン化,いわば方程式的なセオリーを作っておくと,多くの制作が手早く楽に数多く提供できるようになる訳です。

 

でも,そのような量産化は思考停止に向かっているようにも思えます。

 

しかも,この方程式は免罪符としても便利なのです。

 

つまり,福澤氏が挙げた「女性の登場人物」,「わかりやすいキャラクター」,「恋愛」の三つの売れる条件を含めたにもかかわらず,人気が出なかったとしたら,“やることはやったのに売れなかった”と言う結論になると思います。

だって,誰も自分の責任とは言いたくないでしょうから。

 

そして,とりあえず的外れな方向に責任を転嫁するのでしょう。たとえばネットのせいにするとか。

 

このように悪循環を続けたら,その業界は衰退してしまうでしょう。

 

実際にテレビの業界がどうなのかは私には分かりませんが,ドラマの視聴率が伸び悩んでいることは,最近よく言われていることで私も知っています。

 

その状況下で,福澤氏は“自分が面白いと思うもの”という一貫したコンセプトを打ち出して成功したわけですが,実際この提案が受け入れられ易い状況と言えるでしょうし,逆に相当な勇気も必要だったと思います。

 

もっとも,福澤氏の成功が,方程式的なセオリー化に対するアンチテーゼとなれば,今後のドラマ制作に多様化をもたらすとともに,才能のある若い人たちが台頭するチャンスとなるかもしれません。

 

そして,“自分が面白いと思うもの”を追求した結果が,人の心を揺さぶることになったというのは,すなわち自分自身を知ってこそ人を見る目が養われるということを改めて感じます。

 

答えというのは,これと決めずにずっと探し続けていることが,正解となるのかもしれません。

NO,WE CAN'T!

2013-08-30

第一次世界大戦は,ドイツ・オーストリア・オスマン帝国・ブルガリアからなる同盟国と,イギリス・フランス・ロシアを中心とする連合国との戦いでした。

かつて学校で習ったことを思いだします。

 

そして,オスマン帝国の領地だったパレスチナを含む東アラブ地方は中東戦線の主要な戦場となり,英仏両国軍とオスマン帝国軍がぶつかり合うことになりました。

 

そこで,イギリスはその戦いの中,戦争を有利に運ぶべく,この地域の戦後処理について三つの相矛盾する約束を結びました。

 

ひとつめは,オスマントルコ放逐後の東アラブ地域の分割統治に関し,イギリス、フランス、ロシア間で秘密協定締結。

 

ふたつめは,オスマントルコに対する反乱を起こし放逐すれば,戦地アラブ人の独立を認めると約束。

 

みっつめ,戦争協力を条件に,ユダヤ人がパレスチナ地域に建国することを承認し支援すると約束

 

このことは後に「三枚舌外交」と呼ばれることになります。

 

そして,第一次大戦は1918年,連合国の勝利によって終結し,オスマントルコ帝国は崩壊しました。

 

そして,三つの約束のうち,ひとつめだけは直ちに実行に移され,シリアはフランスに統治されることになりました。なお,パレスチナ南部はイギリスの委任統治領となり,エルサレムを含むパレスチナ北部は国際管理地域とされました。

 

そして,みっつめの約束を拠り所に,世界中に離散していたユダヤ人は,パレスチナ地域にどんどん移入を始めました。しかし,土地を奪われることとなるアラブ人(パレスティナ人)との紛争が頻発しました。

 

しかし,こうなると二つ目の約束はなかなか果たされません。

 

結局,遅まきながら1946年シリアは,共和国としてフランスから完全独立を果たすことが出来ました。しかし,反乱によって共和制が崩壊するなど,なかなか安定した国家運営には至らなかったようです。

 

 

一方,1948年イギリスによる委任統治期間が終了後,イスラエルが建国されました。

それに対抗して,1958年からシリアとエジプトは共同国家アラブ連合共和国を形成し,イスラエルに対して徹底的に牽制する勢いを示したものの,結局1961年にはシリア側から共同国家からの分離を申し出ました。

 

しかし、そのかわり旧ソビエトとの関係を深めていきました。

敵である西側諸国の更に敵である共産主義国家とはうまが合ったのでしょう。この関係は現在も維持されている様です。

 

その後の1963年シリアでは軍事クーデターにより,イラクと同様バース党が政権の座を占めましたが,なかなか政権は安定しませんでした。

そして,1970年防衛大臣で穏健派のハフェズ・アル・アサッド(アサド大統領の父親)が急進派を打ち破って大統領に就任し,本人が亡くなるまでの30年間大統領として君臨をしました。

 

なお,その間,多党制による選挙は行われず,大統領を認める国民投票のみが行われていたようです。

 

そして,息子のバシャール,すなわちアサド大統領は,就任とともに民主的な社会制度への方向性を打ち出しました。この期間は「ダマスカスの春」と呼ばれていたそうです。

 

しかし,事件は起きました。

イラクのフセイン政権が大量破壊兵器秘匿の疑いを掛けられてアメリカを中心とするNATO軍により壊滅されたのです。

このことを受けて,アサド大統領はシリア国内の秩序の締め付けを強化し,デモや集会を禁止し,著名な民主化活動家の拘束を行うなど,ガラリと民主化とは逆の方向に向かい始めました。

 

なぜなら,シリアとイラクは隣国で,しかもフセイン政権はアサド大統領と同じくバース党政権でした。

そのフセイン体制が,米国軍の軍事力の前に崩壊したことを目の当たりにしたアサド大統領は震え上がったことでしょう。

 ましてや,ありもしない大量破壊兵器をでっち上られて因縁をつけられたのですから。

 

なお,アサド大統領の反民主的な政策転換に対して,民主化勢力は2005年に「ダマスカス宣言」を発し,「権威主義的,全体主義的シリア政府」を糾弾し,民主的な選挙を求めました。

 

そして,2010年チュニジアで,失業者の青年が市場で青果を売ろうとしたところ警官から暴行を受け,青年は抗議の意味を込めて焼身自殺をはかる事件が起きました。

この事件をきっかけに政府に対する国民の不満に火がつき,いわゆる「ジャスミン革命」が起こります。

 

そして,このことをきっかけに民主化の波はアラブ各国に伝播していきました。いわゆる「アラブの春」です。

 

こうして,民主化を巡る混乱は現在まで続いています。

 

しかし,民主化運動が起こらない中東の独裁国家があります。カタールです。

カタールには,アメリカ軍が駐留しており,親米国と目されています。

そういえば,安倍首相もつい先日訪問していましたね。

 

ちなみに,民主化運動の伝播は,インターネットのSNSなどと言われることがあるようですが,中東でのインターネットの普及は低いため,それほどの影響ではないようです。

 

実際には,テレビ=アルジャジーラだったと言われています。

 

ちなみに,アルジャジーラの本拠地はカタールです。

 

カタールは独裁国家でありながら民主化運動が起きていません。

 

これはいったい。。。。。。

 

 

そして,昨日アサド大統領は,イエメンからの国会議員団との会談で、「いかなる侵略の脅しも、(政権の)確固たる原則と独立した決定への(国民の)支持を強固にするだけだ」と述べました。

その上で,反体制派を「地域の分裂をもくろむイスラエルと西側諸国に利用されているテロリスト」と非難して掃討作戦を継続する考えを示した。

 

化学兵器使用が本当かどうかはともかく,アメリカのシリアへの軍事介入が,アラブ世界に「自由」や「民主制」をもたらしたいという人道的な動機にもとづいていないことは誰の目からも明らかだと思います。

 

そして,イラク戦争のときと同様に,多くの無辜の一般市民の命が奪われるでしょう。

 

なお,イギリスではシリアへの軍事介入について議会で否決されたため実質断念したようです。

これは,軍のシビリアン・コントロールが機能しているということです。

 

一方で,わが国の首相は「シリア情勢悪化の責任は,人道状況の悪化を顧みないアサド政権にあることは明らかだ」と言っています。

 

 安倍首相は,9条改憲を明言していますが,国連総長(まぁあの国の人なんですけどね)はこの動きを憂慮していると言われています。日本は危険国の扱いです。

 

だからもし,9条を改正して国防軍を持とうとするのであれば,アメリカの非人道的な軍事介入にはハッキリと「NO,WE CAN'T!」と突きつけることが出来なければならないはずです。

ダッダッ脱米

2013-08-29

ブルネイにおいて,日本側が「(TPPに対する日本の)反対派は徐々に静まりつつある。(状況は)半年前ほど深刻ではない」と発言したことをマレーシアのムスタパ貿易産業相が,共同通信の取材に明らかにした模様です。

 

TPP交渉の内容さえ全く明らかにされてないにもかかわらず,日本が参加する気満々だということが,他国を通じて明らかになったということです。

主要品目を守れないなら交渉脱退といっていたはずですが,まだ途中においてまったく交渉から抜けるつもりは無い様です。

 

しかも,日本がISD条項に賛成していることが伝えられています。

(ISD条項とは「ある国の政府が外国企業,外国資本に対してのみ不当な差別を行った場合,当該企業がその差別によって受けた損害について相手国政府に対し賠償を求める際の手続き方法について定めた条約」です。つまり,企業からの訴えにより内政干渉が認められるという事態になります。)

 

ちょっと我々バカにされているような気さえしてきました。

 

そういえばここのところ,アフラックとかんぽの提携や混合診療の一部解禁,総務省が軽自動車の増税をほのめかすなど,アメリカから要求されそうなことをわざわざ日本から開放している動きがあります。

 

具体的にいったいどうなってしまうのだろうか,ということは,以前書いたと思うので省きますが,簡単に言うと日本国民にとって得なことはひとつもないということだけは確かです。

 

 

最初は,財政出動と量的緩和によってデフレ脱却を目指していると思っていましたが,成長戦略と呼ばれている政策では,自由貿易や規制緩和などデフレ脱却とは真逆のことをしているように思えます。これで消費税をもこのタイミングで上げたらデフレ脱却どころか,完全に内需が凍りついてしまいそうな気さえします。

 

そういえばワタクシ,アベノミクスを応援すると以前言いましたが,本当にごめんなさい。

第一・第二の矢は,評価していますが,成長戦略が酷過ぎます。というかやらない方がよっぽど良かったのではないかと。一時期持ち直した株価もまた下がってきましたねぇ。

最初は威勢の良かった安倍首相も,歴史認識について米から難色を示された途端おとなしくなってしまいましたし,8月15日靖国神社には現れませんでした。

 

首相の考えがよく分からなくなってしまいましたが,アメリカ追従ということだけははっきりと分かりました。そして,日本の今ある規制を強引にこじ開けてアメリカ企業を招待しようとしているところまでは。

 

そして,ついさっきのニュースですが,米政府はアサド政権による化学兵器使用を断定して,多数の市民を無差別に殺害したことが一般的に国際法違反に当たるとしたのに対して,ロイターの記者が「米国が核兵器を使用し,広島・長崎で大量の市民を無差別に殺害したことは,あなたの言う同じ国際法への違反だったのか」と質問したそうです。なお,米ハーフ副報道官はコメントを避けたとのことです。

 

よく言った!といいたいところですが,これが日本の報道機関から出ていないのは実に残念です。

特に日本の左翼紙は,日本人や日本に対しては執拗に攻撃するくせに,こういう的を射た質問がなぜ出来ないのか。。。

 

まぁ,それはいいとして,結局言いたかったのは,“あの国大丈夫?”ってことです。

 

別に「反」とまでいかなくとも,脱原発ならぬ脱アメリカだったら諸手を挙げて賛成します。

人類が制御できない悪魔

2013-08-28

アメリカのカリフォルニア州において,2000年夏から翌年にかけて電力会社が十分な電力を供給できなくなり,停電が頻発した事態が起きたことがありました。

 

当時,カリフォルニア州では電力再編成が行われていました。

 

それ以前は,発電・送電・配電は電力会社によって一貫して行われていました。また,電力小売価格は州政府によって規制されていました。これは,日本とほぼ同じです。

 

電力再編成では,電力会社が所有していた発電所は発電業者に,送電システムは送電会社(ISO)に売却されました。

 

そして,電力の卸売市場が創設され,電力小売業者は入札で電力を買うシステムとなりました。

従来の電力会社は配電会社となったが,配電会社は電気の小売で利潤を得るのではなく,配電手数料が収入であるとされた。

 

つまり,発電・送電・配電・小売と事業分けされて,これらを別々の会社が運営することになりました。

 

そして,従来の電力会社と契約していた消費者は,配電会社経由で電力を購入する以外に,他の電力小売会社と契約して電力を買う事も可能になった訳です。

 

この場合,消費者は電気代を電気小売業者に,配電手数料を配電会社に払うことになります。

 

なお,卸売価格には上限は設けられていませんでしたが,小売料金は上限が設けられていました。つまり配電会社は,電気卸売り価格が高騰した場合でも,消費者に対して小売価格の転嫁をすることが出来ないということです。

 

こうして,市場競争を取り入れたカリフォルニアの電力再編成は,電気料金を下げるものと期待されました。。。。。。。

 

そして,やって来た2000年の夏,天然ガス価格の上昇,猛暑など様々な要因も重なって電力卸売価格が高騰しました。市場原理からすれば,需要に対して供給が少なくなれば,価格が高騰するのは当然です。

 

そして,卸売価格と小売価格の逆ザヤにより,配電会社は大きな損失をこうむることになり,大規模な輪番停電を行うまでに追い込まれました。

 

また,卸売市場からの電力調達を義務づけられたパシフィックガス&エレクトリック社が倒産してしまいました。

 

なお,2001年に破綻したエンロンは,この件に関して電気の値段を吊り上げ利潤を増やす目的で,意図的に経営している発電工場を停止して,電気の供給を止めていたことが明らかになっています。

ちなみにエンロンは,ITやデリバティブなど様々な業界に進出し経営を多角化していました。また,ロビー活動にも非常に熱心で子ブッシュとも懇意にしていたようです。

 

当然,電気を安定して供給する使命感など微塵もないでしょう。

 

そういえば,日本にも多角経営で再生可能エネルギーの促進の旗頭となっているそっくりさんがいましたね。

 

最近この話ばかりですが,別に再生可能エネルギー自体が悪いというわけではなく,それによって原発を廃して従来どおり安定して電気を供給できる根拠があるのかということです。

 

また,福島の原発事故が政府・規制当局・東電による人災というのであれば,それに対する改善を行えば,安定した運営も可能であるということになります。

 

少なくとも,およそ40年にわたり安定して電力を供給してきた実績があり,また,東京電力の経営首脳はともかく,亡くなられた吉田所長をはじめ現場作業員の方々が強い使命感をもっておられることも広く知られました。

 

なお,いち早く脱原発に舵を切ったドイツにおいても買い取り価格が高騰した結果,固定価格買取制度は行き詰ってしまったようです。

 

別に原発を推進したい訳ではありませんが,事故前に近い状態に戻すことで,危険以外のほとんどの問題が解決します。

 

そういえば,アメリカがシリアに対し軍事介入をほぼ決めているようですが,液化天然ガス(LNG)の価格が高騰することが予想されます。これまた,火力発電に影響してくるでしょう。

 

原発をして“人類が制御できない悪魔”などと呼ばれたりしますが,エンロンや再生可能エネルギー固定価格買取への移行の過程を見ていると,実際に“人類が制御できない悪魔”は物質的なものでなく資本にまみれる”人”ではないかとさえ思えてきます。

嗜好の変化

2013-08-27

やはり年齢のせいか刺激物を受け付けなくなってきている気がします。

 

坦々麺以外。

 

ですが,なんとなく感覚が研ぎ澄まされてきているようにも思います。

 

じっくりと,心を落ち着かせると微妙な変化やディティールに気付く様になった気がします。

 

これを守りに入ったというべきか。それとも成長というべきか。

秋の気配

2013-08-26

日中はだいぶ涼しくなりました。

 

秋の気配ですかね。

土曜日

2013-08-24

ここのところ暑さが和らいだ気がします。

 

夏のおわりを感じますね。

 

明日は8月最後の日曜日です。

 

余韻をあじわったらいよいよ秋が訪れます。

善人ぶる

2013-08-23

ちょっと前に「やらない善よりやる偽善」などという言葉が流行っていました。

 

意味については解説がないと分かりませんが,この言葉を言った人の心理としてひとつ分かることといえば,善人と見られることへの執着です。

 

言い始めた人の真意は分かりませんが,「やらない善」を“思うところはあるけれど行動しない”という風に捉えてそれを「善」(とりあえず道徳的な価値と考えます。)と呼んでいます。

 

これについては,ありえると思います。

例えば,指導者的な立場の人が,指導される側の足りない部分に気がついてもあえて補わないことなど,一見して行動した方が良さそうな場合でも,他の利益との重要性を鑑みて行動しないときなどが当てはまると思います。

 

ですが,問題はこの後です。

 

「やる偽善」を前述の例に倣うと,指導者的な立場の人が足りない部分だけ補ってすべて自分の手柄にしてしまう感じになると思います。

 

そして,「やらない善よりやる偽善」は,前者より後者のほうを評価するとの事のように聞こえます。

 

つまり,“慎重に周囲への配慮や他人の利益などを考えた末に動かないことを善とした人よりも偽善者を評価すべし”というあまりにフザケタ意味として成り立ちます。

 

そして,この理屈がまんま罷り通っているのが,再生可能エネルギーの買取制度と,そこに群がる面々です。

 

まず,東京電力を悪人に仕立て上げ,(ある程度のバッシングは仕方ないとしても)自らが悪に立ち向かうヒーローであることを演出します。

 

そして,「原発は危険」「再生可能エネルギーなら安全」とのプロパガンダを影響力のある音楽家などを使って喧伝して,”原発は「癒着」とか「既得権益」だ”と,一般市民を煽ります。

 

そして,官僚や第三者委員会とどっぷり「癒着」し,がっぽりと「既得権益」を奪っていきました。

 

彼らは,世間に「やらない善よりやる偽善」と普及させる理由があります。なぜなら,利益至上主義が市民に支持されて,しかも儲かるからです。

 

ですが,市民は「やらない善よりやる偽善」という言葉など決して信じてはいけないはずなのです。なぜなら,偽善者に利用されるだけだからです。

 

今流れ出ている汚染水は,我々にはどうにも出来ませんが,それこそ再生可能エネルギーなどで金儲けを企んでいる連中が,無駄でもいいから出資して「やらない善よりやる偽善」とやらを実行すれば良いと思うのですがやりません。

 

なんででしょうか。もちろん,儲からないからです。

 

汚染水の問題は,事故後の事後処理の問題で,原発再稼動は今後におけるエネルギー安全保障の問題です。

交通事故に例えれば,一箇所で起こった事故を理由にすべての道路を封鎖するというのは理屈としておかしいわけです。

 

また,原発再稼動について福島の人がどう思うかというのは,TPOの問題です。はばかられるのは当然ですが,結局,事故の事後処理のためにも多量の電力が必要なのです。

 

ひとつの問題について早急に答えを出さずに,じっくりと考えれば問題の本質が多岐にわたっていることに気がつくはずです。それは,ひとつずつ解きほぐしていかなければなりません。

 

にもかかわらず,早急な答えを求めると,再生可能エネルギー買取りのようないかがわしい制度に騙されてしまいます。

 

そういえば,参院選のときも話題となった某居酒屋チェーンも参入を検討している様です。

居酒屋で犠牲者を出し,老人介護でも犠牲者を出し,次は電気で・・・

 

それでも,再生可能エネルギーの買取制度を続けますか。

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