アメリカか
表現とは,自分の感情や思想・意志などを,形として残したり,態度や言語で示したりすることである。(うぃき)
なんだそうですよ。
つまり,ごく日常において人と話したり,学校の授業や仕事や私生活などで普通に行っていることのようです。むしろ,表現をしないで日常を過ごすことの方が難しい感じですね。
ところで,実はこの表現というのが,日本国憲法のご加護により保障されていることをご存知でしょうか。本当です。21条1項に書いてあります。
そうすると,友人との他愛も無い冗談や,学校で作る粘土細工,秘密ノートに密かに書き連ねた愛のポエムも,憲法で保障されていないと出来ないのか?という疑問をもたれたことと思います。
そういえば,つい先ごろ憲法96条(憲法改正要件)を改正するかどうかが話題となりましたが,もしも,21条文が丸々削除してしまったら我々は人と話すことも出来なくなるのか,ということを思いうかべた方もおられるでしょう。(おられますか?)
それについては,どうもこの21条1項の条文が想定している,表現の自由を保障する場面というのは,公権力が国民の表現を規制した場合などの様です。
例えば,(私は好きだったのですがあまり視聴率がよろしくなかった)NHK大河ドラマの「平清盛」で出ていた禿部隊とか,スターリンの密告奨励,中国の文化大革命の時とかを想像すると,なるほど分かるような気がします。政権維持のために民衆の言論を封じてしまうことは歴史上多くあったことのようで,確かにこのような自体は避けなければなりません。
しかし,これを太平洋戦争中の報道規制を例とすると,私には少し分かりにくくなります。緊急事態においては,避難指示など政府の主導権限を強くする必要があるために,報道機関が自主的な見解を述べることを規制するという意味で,ある程度の報道規制は必要と考えるからです。
もっとも,シビリアンコントロールが効き難くなった事もまた事実でしょう。
しかし,現憲法において平和憲法を掲げている限り,シビリアンコントロールは考える必要ありません。自衛隊だって大丈夫です。外からの攻撃を9条が守ってくれるのだったら,内からのも守れるんでしょ?
まぁそれはいいとして,表現の話にもどりますが,実際に皆さんは「憲法が表現の自由を保障してくれてるから何でも言ってやるぜ!!日本国憲法バンザーイ!!」という印象をお持ちではないと思います。
現実には,何か一言を言うにしても非常に窮屈な思いをされている人の方が多いのではないでしょうか。
そうなんです。どちらかというと日常生活における表現の問題というのは,国民と国民とが衝突することの方が圧倒的に多いわけです。
この場合において法律などで一線を敷く場合の判断は,「公共の福祉」という基準によります。意味分かりませんよね。しかも,「一元的内在的制約説」というのが通説だそうです。更に分かりませんね。
これを,ちょっと前に話題となった東京都における児童ポルノの規制条例を例にしますと,たとえば,東京都在住のロリコンさん達が,「萌え〜〜!」(ふるいのか?)とばかりに同人誌を出版します。
それを目にしたおばさん達が「まぁ!なんてけがらわしい!!不潔ザマス!」といったことになった場合,同人誌に掲載したロリ漫画という表現によっておばさんたちの羞恥心を侵害するという形で人権と人権とが衝突しています。
そこで都知事が,おばさんたちの方に肩入れして,「非実在青少年」を対象とした性的表現を規制するような条例を掲げるたら,今度はプロの漫画家から横槍が入りました。
こんなかんじのときに,権力が表現に規制をかけるには,衝突している他の人権との調整のために必要最低限のものであること,ということのようです。
しかし,もっと別の場面,例えば婚約者へのプロポーズや両親にカミングアウトすることように,我々が言いたくても言い出せないことというのは,保障されているとか,人権を蹂躙するとかそういう理由だけではないはずです。
我々は,戦後教育によらずとも日常生活において,人が傷つく言葉とか不快にさせる言葉を学んでいます。それは,法律などではなく長年培ってきた文化によるものであるはずです。
表現とは違いますが,思い起せば東日本大震災のときに被災地の方々が食料を求めて並ぶ姿が世界に絶賛されたことがあります。これは,別に法律や憲法に書いてあるからそうしたのではなく,狭くて資源の乏しい日本で培われた知恵と文化の賜物だと思います。
ところが,日本に自由と平等を謳う美しい憲法をくれた国では,災害のたびに暴動や略奪が起こっているようです。それ以外でも,なにかと手加減を知らない人たちです。
自由や平等などという綺麗ごとなどよけいなお世話だと思わざるを得ません。
表現に関しても,礼儀や文化に則り,人を傷つけない様に,粗相のない様に人と接してきた日本国においては,そもそも表現には自由と責任が包含されているはずなのです。
そうであれば,そもそも表現に「自由」などという,言葉の意味は分からないがすごい自信の言葉をわざわざ謳う必要はないはずです。
公権力からの規制から国民の表現を守ることや,人権同士の衝突を調整することが目的であれば,憲法に個別にもっと具体的な言葉で記す必要があるでしょう。
ですが,表現というセンシティブな事柄にたった一言「自由」という曖昧な一言で保障するなどとなると,マスコミがデタラメを報道し,何かにつけては文句を言う人ばかりになり,発言力を持つ者の思うままという,むしろ衝突を助長しているように思えてなりません。
福澤諭吉は,“自由とわがままの違いは,他人を妨げるかどうかである。”といったそうですが,はたして日本国憲法が保障しているのは本当に自由なのでしょうか。それともわがままでしょうか。