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冷え込み

2013-10-17

台風が過ぎ去ってから夜が寒くなりました。

 

体調には十分お気をつけください。

災害

2013-10-16

今日のまだ夜の明けきらぬ早朝,携帯電話のけたたましい警報音にて目を覚ましました。

 

なんでも,住まいのすぐ近くの地域に避難警報が出ているとのことでした。

 

とりあえず,トイレついでに外を確認してみましたが,暗闇の中で雨がガラス窓を激しく打ち付ける音と樹木が風にあおられて起こる唸り声のような音だけが聞こえました。

 

しかし,よく耳を澄ますとアスファルトに雨が降り注いで聞こえる雨だれのような音がしません。おそらく,道路が冠水していたのかもしれません。

 

もっとも,自宅は地域の中でも比較的高い場所にあるので,さすがに床下まで浸水することは無いだろうと思いましたが,そこで気になったのが今日の仕事のスケジュールでした。

 

たまたま,面談などの約束のスケジュールが今週のうち今日だけすっぽりと空いていました。運が良かったです。

 

交通情報を確認すると千葉県内の交通機関はほとんど停まってしまっており,また,普段出勤する道でも3年前くらいの大雨のときに冠水して車が通れなくなっていた箇所があったために,普段よりすこし時間をおいて出勤しました。

 

それでも,雨が上がるのは比較的早かったので,車でいつもどおりの道を通ったのですが,おそらくちょうど頃合だったのでしょうか,道路はいつもの出勤時間と同じような賑わいでした。

 

そして,気になったのは,例の冠水する箇所なのですが,路面も比較的乾いていたので車が通れる程度にはなっているものの多少なりとも雨水が溜まっていると思っていましたが,実際には全く溜まっておらず難なく通り過ぎることが出来ました。

 

そういえば,いつ時かこのあたりを工事していたことが思い出されました。当時は,工事によって渋滞が起こることを若干鬱陶しいという思いも少なからずありましたが,今日のような非常事態において交通(例えば避難経路だったとしたら?)が確保されることを考えると,期間は一時的ですし,時間など個人的な事情で不利益を被ることはあっても今後,特に非常事態において安心して走れる道路が残る訳です。

 

そういえばここ最近,消費税増税のタイミングを見計らったかのように公共事業不要論が再び湧き上がって(でもないか?)ある特定の新聞紙上を賑わせているようです。

要するに,“消費税を経済的余裕の無い庶民に負担させておきながら,税金を無駄な公共事業にばら撒くな”という,およそ想像のつきそうな決まり文句です。

 

 

まぁ消費税増税については,デフレから脱却していない時点での決定ということでは,非常に残念と思うところですが,現在よりも国民負担率を上げることについて私はむしろいいことだと思っています。

 

つまりは,国の主導で利益の再配分が行われると期待できるからです。(同じ意味で法人税減税はよろしくないでしょう。)

 

その利益再配分が,どのような形で行われるかとしたら,そのひとつに公共事業があたると思います。(もっとも,消費税増税分は全額社会保障費に充てられるとのことなので,そうであれば増税した消費増と公共事業の予算は別に考える必要があります。)

 

都会に住む方々には,いまひとつ分かりにくいかもしれませんが,例えば,現在において深刻な経済格差を埋めるには地方のインフラを整備する目的で公共事業を行うことにより,少なくともその場所に仕事が生まれます。それにより人が集まり,お金が落ち,交通インフラも整備されて地方の活性化に繋がることが考えられます。

 

そしてなにより,たとえ住む人が少ない地域だとしても,国家はそれを切り捨ててはならないはずです。

 

地域によって経済格差が生じる理由というのは,地計上やら地域文化やら挙げるとキリが無いくらいくらい様々な理由があるのでしょう。

つまり,経済的格差が出ることは然るべきとして,その差を埋める必要がでるのですが,それが出来るのは通貨発行権をもつ日本政府だけだと思われます。

そうであると,今話題となっている道州制は,結果として地方分権化が進むことが予想されますが,地域の経済格差はますます広がることになるでしょう。

 

まぁ道州制の話は置いといたとしても,公共事業をムダかどうかの判断で減らしてしまうと,私の通勤路にある冠水箇所は修繕されないまま放置されてしまうかもしれません。

だって,つい昨日の時点では3年間特に冠水などしていませんし,都会と比べたら人は少ないでしょうから,ムダ認定されてしまうおそれがあります。

 

そしてたとえば,修繕されないままこの度の台風を迎えたとしましょう。私が仕事に行けないばかりか避難経路を絶たれてしまう人もおられるでしょう。救急車だって通れなくなるかもしれません。

それがどういうことか想像できますか。

 

公共事業分を社会保障費に充てるべきという考えもあるでしょう。たしかに社会保障は国家運営においては欠かせない大事な部分です。

 

しかし,そう遠くない将来に大地震が想定され,また,竜巻やらこのたびの台風やら気候変化による災害がここのところめまぐるしく起こっています。また,高度経済成長期に作った施設が老朽化を向かえており修繕は喫緊の問題と思われます。

まず,人々の安全を守るために,いますぐやる必要があるはずです。

 

ですので,消費税の話において,個人の経済格差を問題とする論法で公共事業を否定することは,個人間の経済格差を非としながら地域間の経済格差を是とする,という矛盾が生じているように思います。

 

そして,かつて新聞屋が大バッシングを仕向けた土木建築業の労働者のほとんどは,今でも国家に頼ることを良しとせず懸命に働いている人が多くおられます。

 

そして,その方々がまず必要としているのは仕事と所得なのです。

 

人と地域と社会,それぞれに有益となる方法はわりと身近で見つかるように思えますが,なぜかそう捉えない考えもあるようです。

 

ここのところ,各地で頻繁に災害が起こり,そのことがニュースとなるたびに,その地域の人々のことを想うとともに,その後の対策が気になっているところです。

台風26号

2013-10-15

今年最大の台風26号が北上中の模様です。

 

本日は,これにて早めに帰宅することにします。

 

明日の朝には,関東地方が暴風域に入るおそれがあるとの事です。

 

皆様,どうかお気をつけてくだいませ。

大草原とお馬さん

2013-10-11

昨日の夜,ふと見ていたテレビにおいて,モンゴルの平原で乗馬のレースをする少年のドキュメントが放映されていました。

 

その中で,調教したにもかかわらず,レースであまり一生懸命走らないお馬さんを野に放してしまうというシーンがありました(そうです)。

 

大平原で暮らすモンゴルの遊牧民達は,土地について所有すると言う概念が無いそうですが,そのことひとつとっても日本に住む我々と権利に対する意識の違いを感じます。

 

こと,お馬さんとの関係に関しても,日本においてのペットのような所有の感覚とは違うのでしょう。

 

日本において,ご主人に飼われていたペットは,人間社会においては生きる術としては野良さんとして,人の生活に依存して生きていくよりありません。

また,保健所の捕獲もあるでしょうから生き抜いていくのは困難でしょうし,ペットを飼う(所有する)ことに対して責任がセットでついてきます。

飼っているペットが他人に怪我をさせた場合も,怪我をした人に対して飼い主が責任を負うことになるでしょう。

 

ですがモンゴルの場合,誰の物でもない広大な大草原においては,お馬さんの生活も人に飼われていようがいまいがそれほど変わりがないのでしょう。

なんせ,どこに生えている草を食べてもだれも文句を言ってこないでしょうし。

 

そう考えると,人間に走る意思がないと看做されて大草原に放されたとしても,お馬さんにとって何も不利益はないのでしょうから,人間と一緒に暮らすことについて人間の所有の意思だけが問題となるのですが,農耕馬などとして使う訳でもなくたやすく放してしまうのです。

 

これを,日本人である私の感覚からすると,(なんともったいないことを)と思いましたが,国土が細長く,平野における人口が過密で,しかも資源が少ない場所で生活して北日本にとっては,権利意識というのは秩序を保つためにも大事なこととして,各々に根付いていることが理由なのかもしれません。

 

反面,争いを避けて,譲り合いを大切にして,困っている人を地域で助け合う文化も,国土の条件に適ったものではないかと思うのです。

 

ですので,権利も(責任を負う)義務も,その国,地域における生活において,国土などの条件に適応することを模索した結果,生まれたという経緯があると思います。

 

そのように長い年月をかけて培った譲り合いの文化の中で,自己主張を通すことはいともたやすいことでしょう。大きな声をあげて他人を非難すればよいのですから。

どこぞの大阪市長がやっておりましたが。。。。

 

私は,道州制をはじめあの人の言っていることがさっぱり理解できませんでした。理論がきちんと繋がりを持っておらず飛び飛びの様に聞こえたからです。

私の能力のせいか?と思い,熱烈な支持者にどういうことを主張しているのか聞くとちゃんと説明できないのです。

ワンフレーズポリティクスとは言いますが,大衆の扇動がここまで容易であることにおそれを感じました。

 

まぁそれはいいとして,このたびモンゴルの遊牧民と馬との共存は,なんとなく対等な契約のような感じなのかなぁと思ったわけで,そうであると知能の格差とか生命とかの理解も日本とはだいぶ違うように思えます。

 

どちらが良いという訳でなく,それぞれ環境に適応した結果なのでしょう。

 

こういう外国との違いを通して日本のいいところも良く見える様になる気がします。

知識と経験の使い方

2013-10-10

私達は,今までに得た知識や経験を基に行動の範囲を決めると思います。

 

だから,生まれたばかりでまだ知識も経験もない赤ちゃんの行動は奔放そのものです。

 

ですが,それは世間一般において,赤ちゃんについて知識や経験が無いことの共通認識があるからこそ許されていることだと思います。

つまり,知識や経験がなければ奔放に振舞ってよいと言うことではなくて,その事情を世間が理解して許容していることが前提です。

 

ですので,学生など社会経験の浅い人たちであっても,ツイッターなどでおかしな行動をインターネット上に公開すると非難を浴びることとなるわけです。

 

そうすると,行動や思考の範囲を定めているのは,主観的な知識や経験そのものではなく,どこかで得た知識や今までの経験により知りえた世間が許容してくれる範囲と言ったところではないかと思います。

 

たとえば,テーブルマナーという人前で食事する作法の知識がないまま,会食へ出向いたとします。そのときテーブルマナーそのものの存在を知らなければ,(なんか,みんな僕が食事しているのを見ているなぁ)くらいの認識で恥ずかしさなど感じないと思います。

 

ですが,テーブルマナーの知識が無く,そのことを会食する人たちが許容していないと言う認識があれば,恥ずかしさを感じるでしょう。

 

そうすると,自分はテーブルマナーの知識を持っていると思っていたのに,周りを見渡すと自分が知っているテーブルマナーとはまったく別の作法で食事をしていた場合はどうでしょう。

 

これは,人によって違うかもしれません。性格が問われると思います。私多少気にするともマイペースに自分の知っている作法を貫くかもしれません。

 

そういえば,ずいぶん昔のだいぶ若い時分に地元ではちょっと知られたフレンチのお店に食事しに行ったときのことなのですが,テーブルにシルバーの他にお箸が並べられていてびっくりしたことを思い出します。

 

今でこそ,それほど珍しくないでしょうけど,当時はフランス料理にお箸を並べると言うのはほとんど普及しておらず,まだ斬新な発想だった筈です。

 

そのとき,一瞬と惑ったものの試しに箸で食べてみると実に食べやすく,いいアイデアだと感心したものです。別にお箸を並べただけなんですけどね。

 

そして,ご存知の通り現在ではそういうお店を良く見かけるようになりました。

 

もっとも,これはお店側から提供された物であることと,お箸の文化と作法がある日本においてのことでして,フランスの由緒正しきレストランでmy箸を持参して食べ始めたら恐らくぶったたかれるのではないかと思います。

 

そう考えると,ありとあらゆる国における食事の作法を習得したとしても,インド料理の作法で和食を食べたら間違いなくぶったたかれるでしょう。(寿司ならおk)

 

これはもう優劣とかの問題ではなく,その時と場所,場合という所謂TPOの問題だと思います。

このことを議論などに置き換えると,たとえ専門分野を深く突き詰めて得た知識でさえ場合によっては使わない方が望ましい場合があると私は思っています。

 

ただ,どうしても自分の得意なグラウンドの話というのは出てしまうでしょうし,そもそも物事を考えるフレームというものが得意分野を基準に形成されてしまっていると思います。

 

ですから,議論などをするときには,得意分野の知識や実務経験などを元に論を展開することはもちろんいいのですが,相手の意見も受け止めた上で発言するなどしないと,単なる知識のひけらかしになってしまい,また聞き手からは偏った意見ととられてしまうと思います。

 

テレビ番組討論など,言った者勝ちさながらの知識をひけらかしただけで人の意見を聞こうとしない人が多くいるので,どうもイラッときてしまいあまり見ることがなくなりました。

 

もっとも,出演者のうち誠意を持って話されているごく少数方々にとっては,正しい情報を(出鱈目だらけの)テレビを情報網としている視聴者に提供できればひとまず良いと考えられているのかも知れません。

私もそのことはとても有意義だと思っています。

 

でも,私としては,討論形式で余計な人の話を挟むよりも,ワンマン若しくはまともな人との対談形式で持論を展開してもらった方が,じっくりと考えることができて好きです。

誰が為?何の為?

2013-10-09

本日は,ずっと外回りをしていまして,お昼も外で食べた後,佐倉市の施設内でひと休みしていたところ,淑女様方のランチタイムトークが聞こえてまいりました。

 

聞き耳を立てていると,今朝方ニュースとなっていた例の元交際相手のストーカー殺人の話題で大いに盛り上がっていたようです。

 

なんでも,容疑者と被害者はインターネットサイトを通じて知り合ったとのことで,その話題の中で淑女様方の周囲でもインターネットによる交際や縁結びの事例が割りと多くあるとの事の様でした。

 

また,話によるといわゆる出会い系サイトとはまた違うようなのです。たぶん,SNSのことを言いたかったのではないかと思いますが,少なくともその会話の中では比較的容認する雰囲気だったことがちょっと意外な感じがしました。

まぁ出会いのきっかけが何であれその後に心が通じ合えばいいしょう,と言ったような会話に落ち着いていたように思います。

 

 

まぁ,人それぞれでし,それはいいとして本題です。

 

最近,ここでよく書いていることのひとつとして,過当競争を招く規制緩和はよくない!と言うことを強く主張させていただいております。

 

私などは,独自の調査方法も資料もないですし,それほどの知識も教養もありません。せいぜい,ネットで見たニュースについてどう思うかと言うことを書くあたりが限界です。

 

ですが,業務において,不景気が労働者に及ぼす影響というものについて,労働者の視点から具体的に知る機会を持っていると強く感じています。

 

守秘義務と(自分自身の)職業倫理のため,個人を特定されるような内容は書きませんが,統計として公表した方がいいのではないかと思うこともあります。

 

何を言いたいのかというと,ある業種において新規参入を促すために規制緩和を行ったことによる労働者へ影響が如何に残酷かということをもっと世に知らしめた方が良いということです。

 

たとえば,小泉政権時代の規制緩和により,タクシーの規制緩和が行われましたが,それによって運転手の労働環境はかなり悪化して現在まで至ります。

詳しく書けません(書くまでもないかも)が,労働環境の悪化と規制緩和との因果関係は,依頼者からの事情の聴取によって明かです。

 

これらは,高速バスや運送業においても同様で,すべて小泉政権時代に規制緩和を行った結果,過当競争のしわ寄せが労働者にまわってきているのです。

 

これ,業種が違うからと言って看過できる問題ではありません。

 

以前に,ディズニーランド行きの高速バスが死亡事故を起こしたことがありました。

ちょうどその頃,私は高速バス運転手をされている依頼者さんから業務の実態を聞く機会がありまして,色々と思うところがありました。

 

やはり,このような悲惨な事故を防ぐためには,最低限の労働環境は確保しなければならないのですが,大きな資本を持つ企業が新規参入して苛烈な格安競争が起こる中で中小企業が生き抜いて行くには,従業員にしわ寄せを持っていくしかないのです。

 

その話を聞かせていただいた方の働いている会社は,社長自らも運転手として遠方まで往復して,なんとか営業を成り立たせているそうです。

 

なお,小泉政権時にブレーンとして規制緩和を推し進めてきた竹中平蔵は,現政権においても民間議員として産業競争力会議のメンバーとして幅を利かせているようです。

ちなみにこの人は労働者派遣会社パソナの取締会長でございます。

そして,多くのネットカフェ難民を生み出した諸悪の根源である労働者派遣法の改正は小泉政権時代になされており,またこの度,労働者派遣法が更なる規制緩和の方向に改正されようとしています。

どういうことか,お解りだと思います。

 

そして,規制緩和断行の理由として,“日本企業が民間活力を発揮して強い競争力を持つ”ということだそうですが,これ意味分りますか?

 

すくなくとも,私の目の前で起きている事実を通して解釈すると,“日本企業が外国企業との競争に勝つには日本の労働者(消費者)から労働環境を取り上げてしまえばよい”という感じです。

だから,口癖のように移民受け入れを言っているのでしょう。

 

もう実際,誰が為,何の為だか分らなくなってます。

そして,解ることと言えば,我々日本国民の生活が無茶苦茶にされているということです。

 

こんなときに,もちろん自分の生活やその周りの人達を守りたいという気持ちがまず浮かびますが,ではどのような形で守ればいいかということを考えると,私は「 国体」という概念によるとスマートに収まるように感じます。

なぜみんな横並びがすきなのか?

2013-10-08

ため息がふと出てしまう今日この頃です。

 

プライベートの話ではありません。日々の業務上の出来事です。

 

この仕事を続けていて非常に(嫌になるほど)感じることは,横並び意識の根強さというか意地になって横並びに食い下がる姿勢です。しかも,多くの人は車や自宅など物質的な部分でその横並びを求めようとする傾向があるように思えます。

 

井戸端会議などで話を合わせるという行為から,意識的にも横並びの傾向があると言う風に思えるかもしれませんが,これは表向きだけのことだと思います。いざ自宅に帰れば,“あそこん家には負けたくない”が本音ではないかと思います。

 

そして,そのグループ内において皆が所有している物を,一人だけ持っていないということはありえないこととなるので,無理してでも買ってしまうという事があるように思えます。

 

それでも,どうしても持つ者と持たざる者は出てきてしまいます。

 

資本主義の社会においては,働く人の能力により収入が変わる事が多々あります。

 

また,資本主義でなくても生まれついて人は,運動能力や頭脳・顔やら手先やら一人として同じ人はいないわけで,それについて優劣を比較すると「平等などときれいごと」と言うことになります。

 

では,どうして生まれついて不平等であることが当然なのに平等という言葉があるのでしょう。

 

もともと江戸時代まで遡ると,当時は武士階級が支配していた封建社会でした。原則的に生産活動はせず,幕府や藩から支給される禄を食む存在でした。彼らの生活を支えるために農民が年貢を納めており,これはちょっと平等とはいえません。

 

ですが,大変平和で文化的であったことはご存知のことと思います。

 

その後,江戸時代が幕を閉じ明治政府が誕生しましたが,旧武士階級であった士族があちこちで反乱を起していることから,旧武士階級においては階級の撤廃についてかなり不満があったと思います。

その溜飲を下げるひとつの方法として,平等という概念がどれだけ素晴らしいかを周知させることは有効だったはずです。大河ドラマでおなじみの新島襄もかつて武士階級でありながら,翻訳された聖書を読んで平等思想に感銘を受けたといわれています。

 

なお,大日本帝国憲法においては平等原則についての一般的規定がなく,公務就任資格における平等について定めるにとどめています。

 

おそらく,新政府が発布した「四民平等」により日本における不平等は解消されしまうという,つまり平等とは階級がない世の中ということとして認識して,それ以上もそれ以下も無かったのかもしれません。

こう考えると,ドラマの中で新島夫妻がお互い名前で呼びあうような,夫婦間における平等の様なものとは,社会構造から差異を無くすことと慣習の幅を広げるということで,違った概念ということになるでしょう。

 

なお,国民が守るべき道徳的な規範は教育勅語として明治天皇からのお言葉として発布されています。日本人として当然のことが非常に分かりやすく書かれています。(不思議に思うのは,現在は人々の意識が教育勅語とは逆の方向に向かい始めていると感じることです。)

 

 

19世紀初頭に当時新興の民主主義国家であったアメリカ合衆国を旅したフランス人の政治思想家アレクシ・ド・トクヴィルという人がいました。その当時は,西欧諸国においては貴族制の国家が普通だったようで,アメリカに降り立ったトクヴィルは市民達が皆平等であることに大変驚いたと言われています。

 

そして,アメリカのデモクラシーについて多数者の幸福を目ざすという美点を挙げる一方で「多数者の専制」を生じるという懸念もしています。

 

すなわち,市民たちが平等になることにより,人々がある階級を盲信する傾向は減少してゆく代わりに,大衆を盲信する傾向は増えていき,すべての人々を導くものはますます世論になってゆくことを指摘しました。

 

そして,その多数派世論を構築するのは,今で言う所謂マスコミではないかと考えました。

 

今の日本じゃないか!!と思わず叫びたくなりますが,このことは日本が江戸時代のときから指摘されていたのです。

 

で,冒頭の話に戻りますが,物質的なものに横並びを求めるのはまさにマスコミに煽られているからだと言えるでしょう。

 

日本は,階級を廃止してだいぶ時が経ちましたし,現在において階級の撤廃という意味で平等を捉える感覚は,大衆においてはだいぶ薄まっているのではないかと思います。

 

一方で,貴族制の社会が普通であった時代にアメリカにおいてトクヴィルが見た平等は,結果として懸念した通りとなっているという笑えない事態になっています。

 

 

ですので,肥大してしまいがちな平等の意義を,法の下の平等に限定するなどした方が良いと個人的には思いますが,憲法14条では非常に不鮮明な様に思います。

ウソつかない。TPP断固反対。ブレない。

2013-10-07

インドネシアのバリ島で開かれていた環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)交渉の閣僚会合は6日,交渉の年内妥結に向けた方向性を確認し閉幕したそうです。

一方、自民党の西川公也TPP対策委員長は同日,現地で記者団に対しコメ,麦,牛・豚肉などの重要農産品5分野について,関税撤廃の可否を検討すると表明した模様です。

 

安部総理はデフレ期での増税はしないとの選挙公約を早速破りましたが,またしてもやらかしそうな予感です。

 

上記は,前の衆議院選挙のときに自民党がポスターに掲げたキャッチコピーです。

 

私もこれを見て,暗黒政権時の首相が一生懸命進めようとしていたTPPへの惨禍を見直してくれると思い込んでいました。

 

それがなぜか,農産品5品目の関税を維持することを条件として協議に参加するということになりました。私は,この時点で問題がすりかえられていると感じました。

 

そもそも報道では,盛んに「守るべきものは守り、攻めるべきものは攻める」などと,対外国との交渉において成果を勝ち取るべきことのように報じられていますが,これについて私は,対立軸を完全に見誤っていると考えています。いえ,見誤らせているのかもしれません。

 

たとえば,アメリカの左系メディアであるハフィントンポストをはじめアメリカ本国でもTPPの批判があります。もちろん,関税を撤廃するのは日本だけではないわけで,そうするとこれは日本に交渉が有利ということか,というとそうではないようです。

 

 

その理由のひとつとして,ISD条項をTPPの中で定められる可能性が非常に高いことが上げられます。

 

ISD条項とは,主に自由貿易協定などを結んだ国同士において,日本の法律などの規制によって外国企業が国内企業と同等の待遇を得られなかった場合,企業と政府との賠償を求める紛争の方法を定めた条項です。

 

つまり,日本に参入した外国企業が,日本の法律などの規制によって損害を受けた場合,日本政府などを相手に賠償を求めるために国際投資紛争解決センターというところに駆け込むことができるのです。

 

ちなみに,日本の国内企業が国内の法律を不服とした場合に,国から賠償を得られる場合は,憲法判断が求められる場合でないと考えられないでしょう。

なぜなら,当然のことながら法律というのは権力の中でも一番民意に近い議会において議決されているからです。

一企業が法律を不服としても簡単にひっくり返されたり,賠償されたりしていては,民主主義が形骸してしまいます。

 

だから,パソナや楽天は政府機関にうまく潜り込んで,国の形を変えようとしているのです。もちろん,これをいいことだとは思っていません。

 

つまり,日本企業と外国企業はこの時点で日本国内において対等ではありません。

 

また,国際投資紛争解決センターがどんな判断をするかについては,メキシコにおいて政府が,地下水汚染の危険性を懸念してアメリカ廃棄物企業の許可を取り消したことに対して,メキシコ政府に多額の賠償義務を認めたことがあります。

これについて,投資家有利に偏っていると批判されることがあるようです。

 

というか,日本国内において民主的に定められた規制について外国の機関が正当性を判断できるはずがないのです。例えば,左側通行であることを前提として定められている日本の交通規制について,右側通行の国がその正当性を正しく判断することは出来ないはずです。

 

つまり,TPPによって利害関係が起こるのは,グローバル企業や投資家とそれ以外の一般庶民や中小企業・農家の方々等ということになりましょうが,前述の通り対立軸は外国との交渉というフェイクにより,“交渉力が日本の鍵”というように歪められてしまっています。どんなにうまく交渉してもデフレを促進するわ,雇用を奪われるわでいいこと全くないこと請け合いです。

 

また,ノーベル経済学賞を受賞した アメリカ人経済学者ジョセフ・スティグリッツ氏でさえ「TPP参加は日本にとって不公平になる」懸念を示しています。

 

 

結局,TPPという条約よりも上位にあるのは日本国憲法のみになりますが,これはもう全然ダメダメです。というか,平等と自由を高らかに謳いあげているのでむしろTPP惨禍と整合するように思えます。それこそ,アメリカ人はこういう結果を見越していたとさえ思えてきます。

 

とにかく,心ある自民党の議員の方々において国会での承認を否決することを願わんばかりです。

それで,すべての問題が解決するわけではないですが,アメリカも同様に民主国家である以上,民主的判断であることの理解を求めるべきでありますし,全面的に受け入れるよりはよっぽどましであるはずです。

 

とにかく,嘘つきでTPP大賛成のブレブレの人では,総理大臣としての適正を疑わざるを得ないでしょう。

きのうのつづき

2013-10-05

昨日の急いで書いた文章を改めてみると,言葉の使い方とか色々と気になるところが発見できます。これはこれで勉強なのかなぁと思いますが,あえて訂正しないでおきます。

 

で,昨日の続き,注視すべきポイントを見定めるためには守ろうとしている利益を明確に認識すると言うことでしたが,たとえば,「コンクリートから人へ」をスローガンに日本を外国に売り飛ばそうとする政党があったとしましょう。

 

この,「コンクリートから人へ」という言葉の意味を表面的に捉えると,殺風景で冷たいイメージがあるスケルトンのコンクリートのから温かみのある人のぬくもりというイメージを想起させなくもありません。

 

ですが,実際これだけでは言葉として中途半端で,文章として意味を成していません。

 

ですので,疑わしいですが意味が通じない以上,ここから嘘を暴くのは難しいことだと思います。

 

ですが,実際に政権を握った政党の使命と言うは,経世済民(世の中をよく治めて人々を苦しみから救うこと)ですので,守るべきは人々の生活と日本国です。

 

そう考えると,すでに人々に根付いている生活を大きく変える方針自体をまず疑わなくてはなりません。それは,例えばいい結果が予想できるとされていても,所詮人間の頭で考えることを現実に起こる事と完全に整合させることはできません。新しいことを始めると言うことは,想定しきれていないリスクがあることを必ず認識しなければならないとおもいます。

 

そうであれば,実行力だのなんだのを評価するよりも安定して運営してきた実績を評価すべきなのですが,評価という概念事態が目に見えるようなものしか対象としないような意味へと変わっている気がします。

 

だから,評価を得ること自体が目的であったとしたら,闇雲にあちこち掘り起こすような方法により高い評価を得ようとすることでしょう。

 

ですが,申し上げたとおり守るべきは人々の生活と日本国です。

 

そして,ほとんどの人が,どちらに転ぶか分らないような劇的な生活の変化よりも,今より少しずつ良くなるくらいの生活の安定を求めていると思います。

 

そうであれば,大きな変化をもたらす様な政策は常に疑わなければならないはずです。

 

そして,一時的な結果に対する紋切り評価についても,長期的に運用する意思と実績に対する評価へと考え直す必要がありそうです。

 

例えが人ではなくなってしまいましたが,言葉や言い方で人の真意を見抜くのは難しいと言うことです。

それをやってしまうとますます疑心暗鬼になって,その結果陰謀だとかまでに想像力を膨らませてしまうのかも知れませんね。

人を見る目

2013-10-04

「人を見る目」とよく言いますけど,業務上でもプライベートでも実に悩まされるところであります。

 

とくに業務上では,不動産の名義を変更する職業柄,不動産所有者のなりすましを見抜けなかったりすると多額の損害賠償を負う事もあるため慎重を極めるところです。

 

実際に,業界において本人確認のテンプレはあるのですが,騙そうとする方も杓子定規の本人確認など簡単にクリアするぐらい用意周到で来るでしょう。

 

そうなると,直感とか洞察力など注意力を総動員して見極めるほかありません。

 

たとえば,このたびの消費税増税の事も最後の最後に首相は決断しましたが,実際の話,法律ですでに決まった増税を附則条文により延期するにはそれなりの地ならしが必要であるそうですが,実際にそれをやった形跡が見当たらない時点で疑うことが出来たかもしれません。

 

もっとも,議院内閣制の趣旨から簡単に首を挿げ替えることは出来ないので,気付いたとしてもどうにもなりませんでしたが。。。そしてそれに代わる選択肢というのも私には見つけられません。

 

まぁ名残惜しいですが,その話は置いといて,いわゆる人を見極める方法として言葉尻を捉えて嘘を暴こうとする傾向があると思います。

 

これは,実際の話無理だと思っています。

 

個人又は団体でも,これが出来るのであれば裁判官が必要なくなってしまいますね。

 

証拠が出ようがなんだろうが,間違いなく恣意的な解釈がなされるおそれがあることから,客観的視点で公平中立を保つため公的機関が必要なのです。

 

ただ,誰かが疑わしいなどといちいち裁判所にお伺いを立てられませんし,そんなこと受け付けてもらえません。

 

ですので,自分で判断する力は社会で生きる能力として必然的に磨かなければならないでしょう。

 

これについて大事なのは,疑っている目的を明確にすることだと思います。

 

たとえば,自分が守ろうとしている利益を明確に把握していれば,中止すべきポイントを数点に絞ることが出来ると思います。

 

時間がないのでまぁこんな感じで。

 

よい週末を。

だめのみくす

2013-10-03

住宅の折込チラシが先週とは比べ物にならないくらい沢山入ってきています。

 

もちろん,消費税増税前の駆け込みの購入を狙っているのでしょう。

 

おそらく,来年4月までは好況が予想されます。

 

問題は増税した後の冷え込みじゃないかと。

 

考えるだけでぞっとします。

 

消費税の増税だけならそれほど騒ぎません。

 

ですが,後に続くTPPやら規制改革やらデフレ対策とは間逆の政策が盛りだくさんであるにもかかわらず,どうも財政出動が中途半端になりそうな雰囲気です。6兆円では全然足りないと言われています。

 

もう現政権ではデフレ脱却は無理だと分かった以上,政権交代が望ましく思っていますが,近いうちに選挙がありません。参りましたね。。。。

 

また,消費税増税に反対している人たちも玉石混交です。消費税を増税する前に無駄な公共事業を削減しろって・・・

 

消費税増税分は社会保障費に充てて,建設国債で公共事業を賄うんじゃなかったかしら。

 

しかも,消費税の逆進性にまで逆説が出てきていいる始末。。。。

 

もう,言った者勝ちという感じです。

 

また,前に消費税増税についての新聞社のアンケートで賛成と反対が半々という結果をご紹介いたしました。

そのときは眉唾でしたが,もしかしたら本当なのかもしれないと思い始めています。

 

私はテレビのニュース番組を見ませんし,新聞もそこそこしか読みませんので,これらがどのような論調なのかハッキリとは認識していません。

 

しかし,概ねマスコミが消費税増税を報じていたことは知っているので,それを見ていた人たちは早い段階で完全に増税するものだと信じていたと思われます。

 

そして,TPP報道のときのように都合の良さそうなことばかり挙げ連ねているのではないかと容易に予想がつきます。

 

目的は確かデフレ脱却でしたよね。

 

たぶんそのうち,デフレの方が家計にやさしいなどと,また報道され始めるような気がしてなりません。同じことの繰り返しです。。。。。

 

とりあえず,今の総理大臣は公約違反をしたというこで,ダメということがハッキリ判りましたが,なんとか次々と策定されている新自由主義的政策は阻止したいと願うばかりでございます。

見えない銃

2013-10-02

自由と言われてどんなことを思い浮かべますか。

 

日本国内においては,様々な答えが出るのでしょうがハッキリとしたものはないんじゃないかと予想します。

 

これを例えば,北朝鮮の方やシリアの方に自由とは?と聞くとハッキリした答えが返って来るんじゃないかと思います。(憶測続きですみませぬ)なぜなら,渇望しているものだからです。

 

自由と言う言葉の理解が,日本において曖昧である理由として,その概念に対比するものが見つからないということが考えられます。要は,白色しかない世界の人に「白」と言う色があること教えるようなものではないかと考えます。

 

そうすると,“日本国憲法が我々の自由を権力から守ってくれているから我々は自由を享受できているんだ”という結論に繋がりやすいと思います。

 

もっとも,自由っていったい誰が言い出した概念なんだろうということが気になりますね。

 

なんでも,福澤諭吉がLibertyを訳す際に仏教用語の「自由」を当てたのが、この日本語の「自由」の由来のようです。

 

仏教用語で言う「自由」とは,なんらの影響も受けずに自らを拠り所にしてことを行うということのようです。いままで思っていた自由と比べてどう感じましたでしょうか。

 

また,英文のLibertyを基にしていますが,もうひとつ似た概念でFreedomと言うのもあります。自由と言うとどちらかと言えばFreedomを連想される方の方が多いとお見受けします。

 

その違いはといいますと,Libertyは過去の束縛などからの解放という具合であるのに対して,Freedomはもともとあるという概念のようです。

 

だから,南北戦争でリンカーンが奴隷に与えたのはLiberty。で,ロックンローラーが叫んでいるのはFreedomの方が近いのではないかと。

 

もっとも,福澤諭吉もLibertyを約するのには大変苦しんだようで,いわばそれまで日本にその概念がなかったことが考えられます。

 

西洋においては,古くから培われてきた概念のようですが,賢い日本人でさえ江戸末期若しくは明治の福澤諭吉の時代までその概念が普及していなかったということでしょうから,意外と日本の民衆は自由に無頓着と言えるくらい割と気ままに暮らしていたのではないかとさえ考えられます。

 

もっとも,度々動乱によって為政者が変わったり,圧制に対する一揆なども起こったようですが,これも自由を求めるというRock 'n' Rollな理由ではなく切実な問題だったのかもしれません。結果,日本において革命は起こらず,天皇家の血筋も途絶えることはありませんでした。(よね?)

 

そして,福澤諭吉がLibertyを自由と翻約した以降,“自由民権運動”など良く使われる言葉となったようです。

もっとも,征韓論に敗れた板垣退助などが新政府に不満を持つ士族達を集める煽るために使われた感は否めません。

 

名言と言われている「板垣死すとも自由は死せず」も,言ってる意味がさっぱりわかりませんね。まぁ板垣が実際に言ってはないと言う説が通説となっている様ですが。

 

それでもたかが言葉と思われがちですが,歴史の中には,自由・平等・友愛を掲げつつ,暴力を行使して国家を転覆させてしまった恐ろしい史実があります。

ハトヤマ政権ではありません。フランス革命です。

 

このフランス革命について,イギリスの政治思想家エドマンド・バークは,痛烈に批判をしました。

 

バークの言う自由とは,国家の長きにわたる歴史の中で醸成されたものであり,祖先から相続した財産であるがゆえに国家に対して不可侵権をもつのであるのであるとして,人権や自然権がもたらすものでは無いとしています。

 

つまり自由とは,長い歴史のなかで生まれた慣習により人々の権利が確立して,人々はその範囲内で秩序正しい自由を享受することができ,それを伝統として代々引き継いでいくということのようです。

 

なお,バークの批判したとおりフランス革命は,ジャコバン党による恐怖政治,テルミドールのクーデターを経てナポレオン独裁へと向かいます。

 

 

このあたり,今の日本においては,敗戦によって完全に伝統がすり替えられて,概念があやふやな“自由”が横行してるように思えます。バークの言うそれとは違ってしまっているようです。

 

そのため,今に至っては自由という言葉が実に様々な意味で使われている様におもえます。ある意味便利な言葉です。

 

もしかすると,福沢諭吉がLibertyを自由と訳するまで,この便利な概念が生まれなかったのは,実は昔の日本人がバークの言う自由の意味を理解していたからかも知れません。

 

余談ですが,私は学生自分からロックが好きでして,よく歌詞に使われる自由という言葉の意味を探していた時期がありました。

とりわけ,尾崎豊がよく自由を求めていたので,どういう意味かなぁとなんとなく考えたものです。

 

ですので,自由を考えた私なりの長い時間があった訳なんですよ。

〜ワイルドだろう〜

2013-10-01

来年4月に消費税率を8%に予定通り引き上げると正式に表明したようです。

 

なんでも,「社会保障制度を安定させ、厳しい財政を再建するのは待ったなしだ」そうです。

 

デフレ脱却はあきらめたわけではないようで,財政再建と同時に行ってことのようです。

 

日銀短観が好調であるということで最終決断をしたようですが,増税前の駆け込み需要における反動は避けられないでしょう。

 

そのため,5兆円規模の経済対策と1兆円程度の減税措置を策定しているとのことでしたが,消費者が買い控えしている状態において,中小企業に向けての投資減税って如何ほどの効果があるのか。。。と考えてしまいますが,もう期待するほかありません。

 

なんにしても,消費税が来年から8%に増えることは決まってしまったのですから。

 

それにしても,わが国の総理大臣について,このごろ口の軽さが若干気になるところです。

 

消費増税が経済に与えるリスクに関しては「私の責任だ。結果にも責任を持たないといけない。」と発言されていましたが,例え一国の総理大臣といえど,政策によって結果的に不利益を得る人々(すべての人の利益となる政策はありえないと思われるので)への責任をどう持とうと思っておられるのか。

取り返しのつかないことなどないと考えておられるのかもしれません。

 

 

 

ばかりか,先日「TPPをつくるのは,歴史の必然です。」と発言した模様です。

いったい何を根拠に歴史の必然と考えたのでしょうか。

 

 

まぁそれはそれとして,日本国民の皆様,暗黒政権が倒れたと思ったら,またしても試練が訪れるようでございます。

 

いまだデフレから脱していないにもかかわらず,(コアコアCPI(食料品やエネルギーなど価格変動の大きい品目を除いた消費者物価指数)▲0.1)消費税増税,TPP惨禍,規制緩和と3連コンボにより,更なるデフレ推進策が繰り広げられようとする中で,我々は逞しく暮らしていかなければなりません。

 

総理大臣が責任を持ってくれるそうなので,どう責任を取らせるか想像しながらなんとか巻き返していくしかありません。

 

私も覚悟はしていましたが,期待していた当初とは全く話が違ってきてしまっているので,正直かなりガックリきています。

恥も外聞もない

2013-09-30

明日,安倍晋三首相は日銀短観で景気動向を最終確認した上で,消費税を平成26年4月から8%に引き上げるかどうかを表明するそうです。

 

ニュースでは,さも増税が決定されたように報道されていますが,実際に首相はまだそのことを表明していません。

 

ですが,インターネットで情報を入手せず,特定の新聞とテレビ番組によって情報を入手されている方は,もうすでに来年4月の増税が決定されていると思われている方も多いのではないかと思います。実際はまだ決まっていません。

 

そして,庶民にとっても中小企業にとっても消費税を上げてほしくないというのが本音だと思います。

実際に家計の負担が重くなるでしょうし,製造したり売る方にしてみても消費者が財布の紐を固くすることは歓迎できないでしょう。

 

もっとも,ある新聞社のアンケート調査によりますと,消費税増税について賛成が47%、反対が48%と拮抗しているとのことです。これは意外でした。年代別や地方別も見てみたいものです。

 

現在の状況から来年4月の増税を想定すると,とてもじゃないが出費を控えざるを得ないだろうと考える方の方が圧倒的に多いと思っていました。 ということは,税金の使い道について現政府を信用しているということなのかもしれません。

 

確かに,前暗黒政権から交代してから右肩上がりの景気の復調が顕れています。去年の今頃と比べると,世間の雰囲気も大分明るく感じます。

 

ですが,成長戦略を考えるに,首相自身が掲げた「瑞穂の国の資本主義」を目指すにしては,どうもいろいろと疑問が絶えません

 

正直申し上げると,私はアベノミクスの成長戦略についてはあまり信用していません。

 

また,地方に住まれる方々には,まだまだ景気回復の兆しが実感できていないという人が大半なのではないでしょうか。

 

消費税は,地域を問わず一律上がる訳なので,地域経済の活性には大きな足かせになることも予想されます。

 

では,果たして増税をした消費税を財源として,公共事業などで国内需要を創出できるかということになります。

 

それが出来れば増税した分が,中小企業の増収や雇用,賃金に還元され,また所得税,地方税の増収にもなりますし,それにより社会保障費にも回るようになるので利益の再分配という形が出来ると思います。まぁ100歩譲って(?)良しとしましょう。

というか,もし消費税増税を延期する結果となったとしても,ゆくゆく国民負担率を上げたほうが私は国民自身の為になると思っています。

 

ですが,それは日本の中で循環することが条件で,海外の企業が日本に参入して人件費の安い外国人労働者に賃金を支払い,出稼ぎの外国人労働者がそのほとんどを母国に送金してしまっては,日本国民が受ける恩恵はほとんどないことになります。

 

また,外国企業が公共事業に参入すれば,企業間の競争が激化することとなるでしょうが,デフレを完全に脱出したとはいえない状態で,供給量を増化させることは間違いなくデフレの傾向に進むように思えます。

 

もっとも,所謂リフレ派という人たちの,“デフレの原因は純粋に貨幣的要因であるであるから,日銀が通貨供給量を大幅に増やせばデフレから脱却できる”と言う考えに基づけば,財政出動などなくともデフレから脱却できることになります。

 

ですが, 公共投資が民間投資と同じく投資乗数倍の国民所得の増加を生み出すという所謂ケインズ主義的な考え方の説明の方が,一般庶民にとってはすっと喉元を通るように感じます。

 

このあたり,三橋貴明氏のブログや本が非常に解りやすく書かれています。

 

いずれにしろ明日が首相の決断(もうしてるのかもしれませんが)表明の日です。

 

ですが,本当に実に気になったのは,明日が正式発表にもかかわらずにもう決定したかのように触れ回ったマスコミです。たとえ,関係筋から明らかになっていたとしてもこの報道の仕方はいかがかと思います。確か菅官房長官がその都度否定していました。

 

そのくせ新聞社は,大々的に新聞への消費税軽減税率適用を声を高らかに訴えています。

 

この様なことを言い表す良い日本語が確かありましたね。

 

政府よりもこれらが一番信用できません。

 

そして政府には,報道機関など本来公正中立を保つべき立場の者が,一般の声の届かない者と同様の自由を享受できるという現憲法の表現の自由について,是非とも改正を検討していただきたく思います。(もうしてるか)

機密

2013-09-27

1971年の沖縄返還協定にからみ,取材上知り得た機密情報を国会議員に漏洩した毎日新聞社政治部の記者らが国家公務員法違反で有罪となった事件があります。

 

この事実は,後に西山事件と呼ばれ,山崎豊子氏の原作小説「運命の人」(フィクションとのこと)のモデルとも言われております。

「運命の人」といえば,去年の日曜9時のTBS連続ドラマ(半沢直樹と同じ枠)で放映されていましたね。

 

本木雅弘さんが演じる新聞記者が,(密かに情を通じ?)外交官の女性事務官(真木よう子さん)から入手した機密文書を国会議員に手渡したことに端を発して,二人が国家公務員法違反により罪に問われるというストーリーだったと思います。

 

貪欲にスクープを追い求める前のめりな姿勢の記者と,女性事務官が起した過ちによって,その周囲の様々な人たちの人生が巻き込まれて,関係が徐々に瓦解していく雰囲気はインパクトが強く良く覚えています。真木よう子さんの雰囲気がよかったです。

 

さて,ドラマの方はそれぞれの暮らしと人間性が絡み合って面白かったのですが,実際に起きた西山事件では報道の自由と国民の知る権利における問題に焦点が当たります。

 

事件概要は次の通りです。

 

1971年の日米沖縄返還協定に際しての密約について,毎日新聞の記者が、外務省女性事務官に酒を飲ませた上で半ば強引に性的関係を結び,その関係を背景に外務省から機密文書を持ち出させたとして,国家公務員法違反で起訴された事件。

 

まぁドラマとそう変わりませんです。

 

ちなみに密約とは,第3次佐藤内閣当時,米リチャード・ニクソン政権との沖縄返還協定に際し,公式発表では米国が支払うことになっていた地権者に対する土地原状回復費400万ドルを,実際には日本政府が肩代わりして米国に支払うという内容のものでした。

 

これを,アメリカとの沖縄密約を追求していた社会党の議員が国会で,記者から譲り受けた外務省機密文書のコピーを提示して,沖縄密約について政府与党を追求したことで,文書の出所から足がつき,女性事務官は国会公務員法100条(秘密を守る義務)違反で逮捕され,記者は国会公務員法111条(そそのかし)違反で逮捕されました。

 

一方、マスコミ共闘会議なども立ち上がり、マスコミ各社は「知る権利キャンペーン」を展開し,当時は世論も味方していましたが,検察の起訴状により記者と女性事務官双方の不倫関係が明かされてから,大きく風向きが変わったといわれています。

 

いの一番にワイドショーや女性誌が,男女関係について二人に非難を浴びせ始め,世論も一転したようです。

 

なお,公判で女性事務官は求刑された罪状を全面的に認めた上で,改悛の情を訴えました。これはすなわち,記者が女性事務官を唆したという印象を強く与えることになります。

 

もっとも,国家公務員法100条の罰則は,1年以下の懲役又は50万円以下の罰金ということで,最高刑でもホリエモンの懲役より軽くなります。

 

しかし,報道関係者にとっては,取材方法と報道の自由にかかわる重大な裁判です。

 

とはいえ,主権者である国民にとって沖縄の返還についての密約は間違いなく重要な情報であるはずです

 

ですので,国民を味方につけるために「知る権利を守る」ためとして「知る権利キャンペーン」を展開したのでしたが,当の主権をもつ国民は,報道の自由云々よりも男女関係におけるスキャンダルの方に興味を惹かれたようです。

 

 

結局,最高裁は「取材対象者の人格を著しく蹂躪した本件取材行為は,正当な取材活動の範囲を逸脱している」,「報道機関といえども、取材に関し他人の権利・自由を不当に侵害することのできる特権を有するものでない」と判示し,記者は有罪となりました。

この限りでは,裁判において肉体関係を含む男女関係に焦点を当てて,記者が女性事務官を「そそのかし」ているかどうかの判断としているように思えます。

 

ですが,記者が女性事務次官にお酒を飲ませて半ば強引に肉体関係を迫り,その後日も記者から誘った上での情事後のベッドにて,記者が秘密文書の持出しを懇願して,女性事務次官がそれを受諾して・・・・って,なんか妙な感じがするのは私だけでしょうか。

 

また,「そそのかし」た後の事について,記者が女性事務官に対して取材の必要がなくなってから態度を急変して他人行儀となったことを挙げて,「人格の尊厳を著しく蹂躙」したから「正当な取材活動の範囲を逸脱している」としていますが,もし,その後も不倫関係を続けていたり,双方とも婚姻を解消して正式に結婚していたら判断は変わったのだろうか,と考えてしまいます。

 

いずれにしても,取材するにあたり人権を侵害する範囲で制限が与えられるという,一般的な道徳的な考えをもってすれば「当たり前だろ!」と言いたくなるような程度のことがなんとか読み取れるだけです。

 

現代憲法では,表現について自由を保障するとしか書かれてないので,法律や裁判例でネガティブリストを定めることになのでしょうが,その結果,その時の世論に流されるのか,規範として見るとなんだか不思議なことになっている感じがします。

 

聖徳太子の17条憲法のように規範を定めた書き方であれば,取材としてどこまでやっていいのかをもっと踏み込めたような気がしてなりません。

 

ところで,今日こんなことを書いているのも,「特定秘密保護法案」なるものの原案が,政府から自民党に示されたというニュースに端を発しています。

これは機密情報を漏らした公務員らへの罰則を強化するものであるそうなのですが, 案をめぐっては「知る権利が守られるのか」といった懸念の声があるそうです。

 

法案の内容は,外交や防衛に関する重要情報を「特定秘密」として指定し,これを漏らした公務員らに最高で懲役10年の罰則が科せられるというものです。

 

???西山事件の話だと,国家公務員には国家公務員法100条の規定がありました。

だから,このたびの法案は国家公務員にとっては違法行為についての罰則強化ということになります。

そうすると「特定秘密保護法案」を定めることによって「知る権利が守られるのか」という問題とする意味は,「知る権利」が違法法行為により漏洩した情報にも及ぶということなのか???

 

それとも,報道機関が「国民の知る権利」をプロパガンダとして,それを盾に再び「そそかし」によってスクープを得るつもりなのか?

 

まぁ報道機関としては,取材の自由を表向きとよりも「国民の知る権利」を主張した方が世論を動かしやすいでしょう。

 

 

しかし実際に行政,とりわけ外交について情報ダダ漏れというのはとても危険で,当然国民の利益になりません。

また,行政執行がガラス張りとなり,いちいち国民の監視が働くとしたら,民意の代表者の集まりである議院の信任を得た内閣による行政についての阻害にもなるため,間接民主制と議院内閣制にもかかわることです。

 

たとえば,米情報機関による個人情報監視を告発して亡命したスノーデンは,我々日本国民にとっては情報提供者ですが,アメリカにとってはとんでもない売国奴でしょう。

もちろん,アメリカ国民にとってもプライバシーを侵害されていた事実として知ることに利益があるかもしれません。

一方で,国家がテロリストから国民を守る目的で行っているというところに視点を移せば,機密でなければならないわけで,漏洩することは国民にとっては不利益ともいえます。

 

逆に考えると,日本の外交機密情報を持ち出してどこかの国へ亡命する奴を良くやったと賞賛するのでしょうか。

 

結局,行政というのは一定程度の機密が必要なわけでして漏洩してはいけない情報は山ほどあるでしょう。

そして,報道機関はその秘密をすっぱ抜ければ利益となります。しかも,それをなるべく面白おかしく報道できた方がいいのです。

そして,面白おかしく煽った報道に世論は向くでしょうが,その結果本当に大事な核心がきちんと議論に乗らないまま皆が飽きてしまう,ということを繰り返している気がします。

 

だから,「国民の知る権利」を国民から主張するのであれば,民主主義の主役たる主権者は(もちろん私も含めて),公益となるかどうかの判断について,その主権者たる素養を育むことが大事だと思います。

 

もちろん,A作を擁護する気はさらさらないのですが。

今週は

2013-09-26

平日が4日ですが,長く感じました。

わろうべのさと

2013-09-25

本日相談会を行います。

 

是非お越しください。

血の報復の掟

2013-09-24

今週日曜日に最終回を迎えた,TBS系ドラマ「半沢直樹・第10話」の関東地区での平均視聴率が42・2%を記録したそうです。

 

 

ご覧になられた方であればご存知かと思われますが,「やられたらやり返す。倍返しだ!」をキメ台詞に,たとえ上司であっても理不尽な仕打ちに対しては,真っ向から挑む主人公半沢直樹の姿勢が共感を呼んだ模様です。また,この台詞は流行語大賞の有力候補との呼び声もあるようです。

 

私も,仕事柄,会社内でのパワハラなどの実情をたまに耳にしますが,この物語の人気の背景には,やはりサラリーマン社会の世知辛さの後押しがあるでしょう。

 

もっとも,世の上司と呼ばれているほとんど方々には,一方において部下としての立場もあるわけで,そもそも板ばさみの状態であるのに,さらに下からの突き上げが激しくなれば,組織としては様々な部分に綻びが生じてきましょう。

 

そうなれば,今度は部下を完璧に統率するサラリーマンを描いたドラマが人気を博するのかもしれません。

 

なお,瞬間最高は,最終盤,半沢に衝撃の“左遷通告”が行われた場面だったそうです。

 

あのシーンをご覧になられてどのように思われたでしょうか。

 

私は,あのドラマの最後の最後に用意した,視聴者を現実の世界に引き戻すであろう場面は,観た後にもやもや感が少し残ったもののそんなに嫌いではありません。

 

なぜ,嫌いではないかというと,半沢が成し遂げたかったことはいったいなんだったのか,そして,それを実際になしとげられたのだろうか,ということを最後に考える機会を与えさせてくれるためのもやもや感だったからです。

 

私は,「やられたらやり返す。倍返しだ!」の台詞から,チェチェン人の「血の報復」の掟のことを思い出しました。

 

「血の報復」の掟とは,7代以内の男系祖先に殺害された者がいる場合,殺害した相手方に対して7代にわたって報復しなければならないというものだそうです。

 

 

チェチェンの男子は,物心ついた頃に祖先の7代までのうちに殺された人と誰に殺されたかを暗記させるそうです。そして,仇討ちの旅に出なくては一族に許してもらえないそうです。

この掟が現代においても根強く残っているかというと正直分かりません。ですが,大国ロシアを相手にひるまず戦い続けたメンタリティは,この掟が関係しているのではないかと思うのです。

 

というのも,この掟によって地域に安定した治安をもたらしたとも言われています。つまり,誰かを殺してしまうと,7代に渡って付け狙われることになるからです。

以前にご紹介した核兵器における相互確証破壊の理論のようなものです。

 

この掟がどのような規範から生まれたのかを考えるに,祖先にかかる報復という意味では祖先への敬愛,命を奪った者への報復という点では生命への尊び(報復によって命を奪うという行為が命を尊んでいるかというと疑問もありますが,命の尊さを語るにおいてこの掟は説明がつきやすいと考えています。)そして,他者への配慮(極力争いを避けるでしょうから当然配慮するでしょう。)ということが窺えます。

 

一見して過激なように見える掟ですが,それが地域の治安を安定させるという効果があるというのは,人間の本質に根ざしたものであったからでしょう。

 

ですが,もともとチェチェン人は,他宗教儀式と混じり合うことを容認するイスラム神秘主義(スーフィズム)を信奉していたのですが,宗教の自由化を図りイスラム原理主義が流入した結果,反ロシア思想が後押ししたこともあり若者をはじめとして原理主義思想が広がったそうです。

 

イスラム原理主義といえば,“聖戦で死んだら天国へ直行できる”という考え方ですので,命への執着というのは薄くなるでしょう。これだと,自分にとっても相手に対しても生命という意識が薄まるでしょうから,血の報復の掟は互いにけん制するという意味を持たなくなります。

 

 

そして,いわゆるチェチェン戦争と呼ばれる二度の流血戦の結果,首都グロズヌイの街は壊滅的な打撃を受けました。そして多くの人が戦死しました。

 

なお,現在のグロズヌイの街は,戦争直後の惨禍から見違えるような復興を遂げたといいます。これには,ロシアから巨額の復興資金が投入されたといわれています。

 

そこまでして,チェチェンに独立を認めない理由として,ロシアにとって,チェチェンは石油パイプラインの通り道にあることが挙げられます。

 

まぁ,露骨な懐柔作戦の様にも見えますが,チェチェン国民も長引く紛争に疲れ果ててしまい,ロシアによる統治を受け入れて地域の安定化を図った方がよいという機運が高まっているそうです。

 

もっとも,イスラム原理主義の過激派のテロ活動は未だやまないようで,つい先日のボストン爆破テロの犯人もチェチェン出身と報道されていました。

 

 

報復というのは,それによって守るべき目的を明確に定めておかないと,終わりの無いものになってしまうようです。

 

 

このようなことを踏まえつつ,半沢直樹の話題に戻ると,結果として自らの地位を犠牲にしましたが,父親の無念を幾ばくか果たし,また自らの誇りも守ったというべきでしょう。

 

ただ,奥さんはがっかりするでしょうな。

3連休

2013-09-20

また,三連休です。

 

良い連休を

ここ最近

2013-09-19

急に涼しくなってきました。

 

日中はまだまだ暑い日もありますが,体調管理には十分お気をつけください。

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