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まず,単刀直入に本音を申し上げます。

 

自分がうまくいっていないとき,同じ様な立場でうまくいってない人の話を聞いて心のどこかで落ち着ついたような気になったことがありました。

 

そのまま話を聞き続けながら自分の心境に気づいてゾゾッとしたことがあります。

 

大抵の人は,人の不幸を喜ぶのは良くないということを倫理的な部分で感じていると思います。

 

昔からよく「人の不幸は蜜の味」などと言われたりしていますし,「他人の不幸を喜んではいけない」とわざわざ戒めるあたり,そもそも我々の本質ということなのでしょうか。

 

しかし,自分においての話ですが,自分がトントンでうまくいっているときなどは,人がうまくいっていないことを喜ぶ気にはなりません。むしろ,何とかしてあげたいという気持ちにさえなります。そう考えると自分が置かれた状況によって人に向ける気持ちも変わってくるということになります。

 

では,自分がうまくいっていないときには何故人がうまくいってないことに落ち着きを感じるのでしょうか。

 

これについては,独立行政法人 放射線医学総合研究所(千葉市稲毛区にあります)というところで実験に基づいた根拠があるようです。もし興味があれば調べてみてください。

 

でも,それだけではタカハシが寂しいので自分なりに心理を分析してみますと簡潔に言えば「自分と同等か自分より大変そうな人が存在することによってうまくいかない自分に対する劣等感が和らぐような気持ち」です。

 

平たく言うと,「世の中には自分よりもっと大変な人がいるんだからがんばろう」と似た感じです。こうやって言い回すとそれほど悪意が感じられなくなりますね。

 

昔よく「世界中に食べたくても食べられない人たちがいるのだから・・・うんぬん」と偏食を叱られたのもコレと平行の関係に感じます。

 

だから,なんとなく心地よくなるのは仕方がないことなのかもしれません。

 

でも,その感じた心地よさを自分の中でどう昇華させるかが大事だと思います。

 

他人が苦しんでいるタイミングで感じる心地よさを「人の不幸は蜜の味」と呼ぶのは単純すぎて面白くありません。

 

たとえば,同じ境遇の人たちで集まって痛みを共有しあうのは(やりすぎなければ)健全なことであると思いますし,他人を貶めたり妨害したりするような方向へ向けない方法はいくらでもあると思います。

 

そもそも,人はそれぞれ主観を持っていますが,他人の主観というものは覗くことができません。コミュニケーションにより推し量ることはできてもあくまで憶測です。だから,主観の相対的な概念として客観を見出そうとしますが,これはいわば神の目のようなもので結局各々の主観の共有できるものだけを言っているに過ぎないと思います。

 

だから,道徳的に良からぬ事が頭をよぎったりしてもそれ自体が非道徳的というわけではなくそれをどう昇華するかだと思います。

 

前にも紹介したマザーテレサの名言です。

 

思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。
性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。

 

だから,単純におかしな心理が頭をよぎったら“まず考え直せ”という感じでいいんじゃないかと思います。

 

人間なんてそもそもは惰弱であるからこそ,昔の人は武士道などといって自らを律したりしているわけで自分の弱さを認めつつどう付き合っていくかという方が,他人への感情に固執しすぎずに思考の転換へと繋がる思います。

 

まぁ肩の力を抜こうじゃないですか。

忙しくて時間が足りないとき睡眠時間を犠牲にしがちになります。

 

わたしは,のび太並みに寝るのは得意なのですが,どうも睡眠が深くないようで寝覚めの悪いときが結構あります。そして,目覚めのときは楽天家の私がペシミストに変わるときでもあり一番弱いときでもあります。おそらく,猫とけんかしても負けると思います。

 

元飼い猫のもっきーさんにはよく寝起きを襲撃されていました。

 

体を動かし始めるとだんだん強気になってくるのですが,どうも寝起きはダメですね。まるで違う人間のようです。

 

逆に飲み明かして寝てない朝のテンションもまた別人格となります。最近ありませんけど。

 

とにかく,ここのところ睡眠には気をつけています。なにか,悲観的になったり極端に感情が高ぶったりだるかったりするときは,なんとかして寝る時間を確保するようにしています。それで,きっちり寝ると嘘のようにリフレッシュできるので不思議です。

 

たとえば,1日24時間のうち6時間寝ているとすると生きているうちの4分の1は寝ていることになります。つまり何もできない無意識状態です。だけど,全く体の機能が止まってしまっているわけではなく,むしろ寝てから活発になる機能もあるようです。

 

たとえば,右脳が活発だと良く夢を見るそうです。私は子供の頃,パーマンセットを身に纏って当時住んでいた社宅の5階のベランダから飛び立つ夢を良く見ていました。

 

意識が働いていないので見落とされがちですが,一日の4分の1もある寝ている時間の体の機能も大事なようです。

 

ただ,本当に職場の時間拘束が長すぎるのは問題にするべきだと思います。

2013-01-22

朝から小雨が降り続いています。大変寒いです。

 

いつも通る公園では雨で濡れた小鳥が枝に止まったまま凍えているように見えました。

 

見ただけでも冷たさが伝わってくる鉄棒から雫が滴り落ちています。

 

小鳥を抱き上げて家にまで連れて行ってストーブで暖めてあげたいけど,小鳥との距離は10メートルくらいでもし近づいてもきっと飛び立ってしまうでしょう。

 

でもなんでそんなことを思うのでしょうか。

 

 

 

D.H.ロレンスという方の「自己憐憫」というタイトルの詩があります。

(ちなみにD.H.ロレンスさんは,日本国内ではわいせつ性と表現の自由の関係が問題となった『チャタレイ夫人の恋人』の著者としても有名な方です。)

 

野性なるものが 自らをあわれむのを私はみたことがない。 小鳥は凍え死んで枝から落ちようとも自分を惨めだとは 決して思わないもの。

 

だそうです。

 

そうだとすると抱き上げたかったのは何だったのでしょう。

 

施しを受けることを良しとしない者に施そうとする気持ちって何なんでしょう。

 

でも,人のおせっかいに助けられたことが幾度もあります。

 

今考えるとありがたい気持ちとともにおせっかいな人の満足も満たせていたらいいな・・・とも思います。

 

もしかしたら,施しを与えたい気持ちなんて善でも悪でもなくもっと心の自然な部分から沸いてくる欲求なのかもしれません。

 

自分が痛みを感じるから人の痛みも理解できるのでしょうし,感受性というのは行動規範へ繋がっているような気がします。

 

そうすると,ひとりひとり感じ方の違いにより想いもまた違うわけですからどう行動するかはそれぞれの別の考えになるはずです。

 

それでも,東日本大震災のときに被災地へ向けた多額の寄付金やボランティアの方々が集まりました。それは,感じ方はそれぞれ微妙に違っていても向ける想いは同じできっとそれぞれの想いから突き動かされた通りに動いた結果だと思います。

 

だから,大切なのは自分の感情のすこし深いところを覗いて大事にしてあげることではないかなと思っています。

2013-01-21

ここのところ冷え込む日が多い気がします。

 

どんなに着込んでも寒さが骨身に伝わってくるぐらいで本当に春が待ち遠しいです。

 

思いもむなしく,これから寒さは本格的になるでしょうから体調には気をつけたいと思います。

 

この季節を冬眠して過ごす動物がいますが,ちょっとうらやましい?

 

食べ物の多い秋のあいだに体に脂肪を蓄えておいて食べ物の少ない冬を寝て過ごすという人間から見たらなんとものんびりした話ですが,実際には結構大変かもしれませんね。

 

体を動かさずにじっとあなぐらで寝ていれば,体力を温存できるという身体の仕組みなのでしょう。

 

しかし,何も食べないまま一冬過ごすというのも寂しい限りで,鍋をつつきながら熱燗をキュッとやることもできない訳です。

 

さて,寝るのと食べるのどっちが良いですか。

ここ最近小学校などの運動会での徒競走で「手をつないで一斉にゴール」ということが行われていると聞いたことがありました。

 

まず,何でそんなことをするのだろうと疑問に思い調べてみると走るのが遅い子供のための配慮だということです。

 

なるほど,足の速い子も遅い子も運動会というご父兄の方々が見学に来られる大舞台においての徒競走で全員同着というにすれば,走るのが遅い子供もそのご父兄も自尊心が傷つかずに済むかもしれません。

 

しかし,走るのが速い子供と遅い子供がいることは事実です。実際に競争させなくても身体的個性というのは必然的に存在しているはずです。

 

たとえば,二人三脚のように互いの息を揃えるという部分に重点を置いたとしてもそれはそれで優劣が出てきます。

 

ことさら,子供のときは走るのが速いと注目を浴び羨望の的となります。つまり,見方も多くつくと思われます。

 

一方で,大人が一方的につけた「同順位」という順序に子供たちは何を思うか・・・

 

ところで,最近はどうか分かりませんが,プロ野球の有名選手のエピソードで高校時代に上級生たちから苛烈ないじめを受けたことがあるという話を何度か聞いたことがあります。

 

やはり,そのときに野球を辞めたいと思ったことがあるそうで(実際に辞めてしまった超有名選手もいますが・・・)そこで思いとどまったからこそプロ野球において輝かしい成績を残せたものの学生時代のいじめが原因で失ってしまった逸材も少なからずいるのではないかと伺えます。

 

 野球というスポーツは九つのポジションがあるので9人を超えた部員が揃えば当然奪い合いとなります。

で,野球は勝つことが目的であるので優れた選手に優先してレギュラーポジションを与えます。しかし,学生である以上,野球の優劣の他に学年という順位付けがあります。日本には基本的に先輩の言うことを聞くという文化が根強く残っているため先輩は後輩に対して威張ることが少なからず許されているわけです。

 

だから,後にプロ野球選手となるような優れた逸材は,先輩から目を付けられるのでしょう。それは,自分を脅かす芽を摘んでおくという計算高い人もなかにはいるでしょうけれども,本質的には,今まで従ってきた学年という順序をすり抜けていとも簡単にレギュラーポジションを奪っていく後輩に対して序列を糾すような感情ではないかと思うのです。

 

精神的な個性というのは社会に出るための訓練として統一的に抑制するのが教育だと思いますが,身体的な個性はどうしても存在し続けます。そうであれば,むしろ人それぞれに違った形の教育方法があるわけでひとりひとりに違った形で訓練やアドバイスを行えば,結果として順位が出たとしても観念的な序列や順位付けを感じなくなるのではないかと思っています。そして,その方が人それぞれという感覚で純粋に自らの成長を楽しむことができる様な気がします。

 

もし,この「手をつないで一斉にゴール」を提案したのが大人からであれば,その方は学生時代にさぞ悔しい思いをされたとお気持ちをお察しいたします。ただ,自分としてはそのときの悔しい思いがいかに自分を成長させたかと大人になってから感じておりまして,このあたりは他人に評価され難い見えにくい部分だと思います。ただ,いろいろな人のちょっとした部分を見て(この人すごいなぁ)と素直に感動するたびに自分のいい部分もなんとなく見つけられるようになりました。

2013-01-17

暮らしの中では,うれしい出来事やかなしい出来事がいつも起こってその度に私たちの感情は揺れ動きますね。

 

嫌なことがあったり心配事を抱えたまま日常を過ごしていて,それでも待ち遠しい時間や大好きな時間をすごしてリフレッシュしてまた憂鬱なことに飛び込んでいく元気をもらったり・・・

 

憂鬱や不安なことが全く無い場所はさぞ住みやすいでしょうけど,本当にそういう場所があってそこで暮らすことができるのならみんなそこへ行っているはずです。
 

結局,ここでしか生きられないのならそうするしかありません。

 

時間は停めようにも止まりません。みんな平等に時間が流れていきます。そして,人生には終わりがあります。

 

どちらにしろ終わりに向かって時間が過ぎて行くのであれば,未来の不安を煽る錯綜した情報を信じて不安のまま過ごすよりもどんな境遇だって充実を感じていたほうが良いはずです。

 

今を一生懸命生きてるってとっても素敵なことだと思います。

2013-01-16

昨日は,電車を乗り継いで帰りました。

 

普段は,車で移動しているのですが,乗り合わせが悪かったため帰途に倍以上の時間がかかりました。

 

というか,車に乗れば電車を待っている時間だけで十分自宅に帰れます。

 

待ち時間は,思わずスマートフォンに手が伸びてしまいます。

 

そういえば,ここ最近何かあれば携帯を見るようになりました。

 

とても便利なのは間違いないですが,なんか気もそぞろというかそわそわと落ち着かなくなった気がします。

そんな折にふと雪解け水が滴り落ちる雨だれの音に気づきました。

 

ショパンが有名ですがほかにも雨だれをテーマとした曲をたまに聞きます。

 

それぞれ,微妙に違った音程で規則的とはいえなくてもどこか規則性を感じるようなリズムで時には強く時には弱くピアノの鍵盤をたたくようなタッチのように聴こえてきました。

 

(退屈なのもいいものだ)などと考えたときに不意に出た吐息が白く曇って空に消えていったのを見て「夜空ノムコウ」という曲が頭の中をぐるぐると回りまじめました。

 

そういえば,最近はスガシカオ版をカーステで流して歌の練習をしています。

 

しかし,歌って難しいですよねぇ。

2013-01-15

昨日は,何か世界が変わったような気持ちになって大はしゃぎでしたが,出勤時に残っている雪の忌々しいことといったら・・・

 

今日は,車は使わず電車を使って出勤しましたが,小さな雪だるまを何体か見かけました。

 

子供は雪を喜んでいたのではないでしょうか。

 

昨日も吹雪の中,ふらふらと近所を歩き回っていると吹雪の様な天候の中元気に遊びまわっている子供たちを何人か見かけました。

 

環境の変化を喜んで順応する素直さは逆境を切り抜けるヒントになるかもしれません。

 

とはいえ,暮らしの中でどうしても気象には振り回されてしまいます。

 

自然を凌駕するか,それとも共存をえらぶか。

 

これは,大事なテーマだと思います。

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昨日は,久しぶりに「欽ちゃん&香取慎吾の全日本仮装大賞」を見ました。

 

昔見たより出演組が少ないような気がしましたが,出演者の皆さん熱のこもった仮装に楽しませていただきました。

 

まだ,子供の頃に父親が家族でようと提案したことがありましたが,誰一人まじめなアイデアを出さず結局うやむやになってしまったことがありました。

 

かつて,隣町の少年野球チームの選手の一人が仮装大賞に出演したことがあって,大会の開会式のときに話題で持ちきりになったことがありました。

 

タレントさんも出るようになって黎明期はよく話題となっていました。

 

今でもクオリティの高い作品がいくつかあってどうやっているんだろうと感心させられました。

 

ただ,山本監督がいないのがなぁ・・・

千葉司法書士会の会報が昨日届きました。

 

そのなかで,司法書士における法テラス千葉の年度別利用件数が掲載されていました。

 

2012年度(4月〜10月)までの書類作成援助利用件数は79件・・・

 

なんと零細たるウチの事務所が1割以上占めているではないですか!!

 

法テラスを利用するには,収入が一定の基準を下回る世帯の方について利用できるという要件がありますが,そういった方々がウチに集中してきているということでもないだろうし・・・

 

 

まぁいいです。

 

子供の頃,母親に連れられて千葉の東金にある母親方の実家によく行っていました。

 

当時,乳牛をやっており牛舎に牛が数頭つながれていました。ほかにも鶏やチャボやひよこちゃん,ガチョウなど動物がたくさんいて動物好きの私には魅惑の聖地でした。夏にはかえるを捕獲して秋には虫かごいっぱいになるまでイナゴを捕獲しました。

 

あと,牛のお産も見たことがあります。子供の私にはとても壮絶な光景でした。命というものを考えるきっかけにもなりました。

 

まず,到着するととても利口な飼い犬「マリ」がいつも最初に出迎えてくれます。

 

「ワン!ワン!ワン!」(また来たか坊主ども!たっぷり遊んでいってくれよな!)といった具合に顔をベロベロ舐めまくられました。

 

そして,家に上げてもらいお線香を上げた後,僕らは外に出かけます。

 

すると,マリが「ワン!!」(最高に楽しい遊びがあるぜ!来るかい!)と誘いをかけてきます。

 

そして,マリ先導にされるように僕らはついていきます。

 

マリは,僕ら子供の歩幅に合わせて長い田んぼの畦道を軽やかに歩いていきます。僕らはそれについていきます。知らない道を延々とついていきます。

 

天気のいい昼下がりです。用水路のせせらぎとかえるの鳴く音が聞こえます。

 

マリは,時々足を休めて振り返ります。

「ハァハァハァ」(疲れてないかい?まだいけるかい?)

 

 

そして,時には竹垣をくぐったりしながら規則正しく苗の植えられた田んぼの畦道を延々とついていきます。

 

夏目漱石が猫目線で小説を書きましたが,私は犬目線ですね。

 

結局,夕暮れどきには見慣れたお寺の境内まで連れてこられます。

 

「ワン!ワン!」(どうだい!最高だっただろ!ここまで来たら坊主でも帰れるよな!こっちはコレ(小指)と約束があるからこれで消えるぜ!)といってどこかへ行ってしまいました。

 

マリは18年くらい前に亡くなりました。結構長寿だったはずです。

 

とても利口でお手が上手でした。

 

今思うとどこかほかの動物の番をご主人から任されているというような自負を持っていたのではないかと感じます。どこかいつも凛々しい感じがしていました。

 

そして,いまでも遠き記憶の中で遊んでもらっています。

 

 

ちなみにマリはメスです。

2013-01-11

人間が他の動物と比べて優れていることのひとつに自制が利くということがあげられると思います。

 

我々は,子供の頃から親や教師,その他の大人から自制すべき事柄を学んできました。

 

それは,大人になっても幾分緩やかに考えたり,時勢により変化させたりしながらも守ってきている人がほとんどで,だから秩序が保たれています。

 

だから,社会はどんな人も最低限の自制心があるということを前提として動いています。

 

そして,時として人やお金を管理する義務を与えられることがあります。

 

この与えられた義務と同時に権限も与えられるはずです。

 

この権限は,義務を執行するために必要な範囲で与えられているはずです。

 

しかし,これを“権力を与えられている”と解釈してしまい自制心が解かれてしまうことがあるようです。

 

 

ちょっと前に『es』(エス ミスチルじゃない)という映画を見たことがありました。

 

この映画は,スタンフォード大学で実際に行われたスタンフォード監獄実験を元にした小説を原作としたものです。内容は,新聞で,看守と囚人に分かれてそれぞれ与えられた役になり切り2週間生活するという実験の被験者募集記事を見て応募したらえらい目に遭ったというものです。

 

で,前述の通りスタンフォード大学で実際に実験が行われています。

できるだけリアルな設定で囚人役と看守役を被験者に演じさせた結果,看守役から囚人役へ様々な陵辱が与えられ,ついには禁止されていた暴力までが開始されたために6日間で実験は中止されたそうです。なお,看守役は「話が違う」と続行を希望したとのことです。実験の中止を要請したのは,実験の成果を試すために協力していた牧師さんだったのですが,実験を主催した学者までがその状況に飲まれてしまい危険な状態だと認識できなかったと言っています。

 

実験の結果として

強い権力を与えられた人間と力を持たない人間が,狭い空間で常に一緒にいると,次第に理性の歯止めが利かなくなり,暴走してしまう。

ことと

しかも,元々の性格とは関係なく,役割を与えられただけでそのような状態に陥ってしまう。(うぃき)

 

ということらしいです。

 

この実験のシチュエーションは,看守と囚人という我々の生活ではあまりなじみのないものでしたが,実際には教育現場や会社や家庭など小さな社会を形成している場所でも起こりうることだと思います。

 

信賞必罰の言葉の通り行き過ぎた対応へは罰するとしても,“あいつが悪い”では第2の悲劇を防げないとおもいます。

 

今でも別のどこかで暴発寸前の事態が起きているかもしれません。風通しが大事だと思います。

2013-01-10

一昨年のちょうど今くらいの時期に“そうだ京都へ行こう!”とひとりふらりと京都見物に行った事がありました。

 

土曜日に到着して一泊して日曜日の朝早くから巡回バスの一日パス(便利ですよ)を購入してまずは清水寺まで。

 

冬の京都は関東と比べてとても寒かったのですが,空気が乾いて独特の冷たさを持っていました。雲ひとつ無い晴天の下,参道のきつ〜い坂を上っていきました。立ち並ぶお店はまだ開いていませんでしたが,ショウウィンドウにはかわいらしい清水焼の湯飲みなどが飾られていて欲しくなりましたが,値札を見て見るだけにしておきました。

 

さて,参道を登りきったところで境内に着き舞台まで上がり一面を見渡すと冬の木々の合間から冬の京都の街が見えました。その前に来たのはたしか高校生のときの修学旅行でとても紅葉が美しかったことを思い出しました。季節により彩りの変わる景色が好きです。

 

さて,境内をふらふら散歩していると年頃の女性がこんな朝早くからひとりでお参りしているではありませんか!おいおい!これはもしかして・・・

 

・ ・・と,意識し始めた束の間,浮ついた気分の男の前に現れたのは杉の大木。そして,深く深く打ち付けられた五寸釘の跡・・・

 

地主神社のご神木「いのり杉」別名「のろい杉」とも言われているそうです。

 

そして,五寸釘の跡はもうお分かりかもしれませんが,丑の刻参り(うしのこくまいり/うしのときまいり)の跡だといわれています。八つ墓村みたいなかっこをして藁人形を五寸釘で打ち付けて憎い相手を呪う例のアレです。

 

何時,誰が,どんな事情で,誰に対して恨みを持っていたのかは分かりませんが,杉が自らに空けられた穴を長い年月をかけて塞ごうにも塞がらない深々と刻まれた穴を見るとその心の闇に誘い込まれたような気分がして身の毛がよだちました。

 

人を妬んだり恨んだりした経験がどんな人にもあるのか分かりませんが,少なくとも私にはあります。(その最初の対象が弟だっだりします。でも,仲良しですよ)だから,その感情の方向は理解できるとともに自分には経験がないほど深く深く刻まれた負の感情にただただ怖れを感じます。

 

人を呪わば穴二つという諺がありますが,人を呪うにも相当な覚悟がいるはずです。丑の刻参りにはルールがあり白装束を着て頭に蝋燭を3本立て・・・とそれなりの格好をしなければならず,また7日間連続で決行しなければなりません。もちろん,五寸釘と藁人形と熱いハートは忘れずに。

 

そして,「誰かに目撃されてはならない。もし見られたのなら、その相手を殺さなければならない」という恐ろしいルールまであるそうです。。。。。

 

ただ,こういった行為に及んだ経緯として一途な気持ちや深い愛情などの感情が歪んだかたちになってしまっただけで,事情を聞けば大いに同情できるような仕打ちを受けているのかもしれません。

 

それに,いくら昔の話とはいえ効果があるかどうかはやっている本人さえ疑心暗鬼だったかもしれません。もしかしたら,”ひとしきりアイツを呪って次の恋を探すぞ!”(昭和)という儀式だったかもしれません。

 

無理してでも明るく振舞う必要があるような場所で生きていると,負の感情というのはなかなか人には相談しにくく自分の心の奥底に隠してしまいがちですが,溜め込みすぎると溢れてしまいます。その前に何か違法でない方法で消化・発散できればその方がいいような気がします。

 

二日連続でネガティブなことを書きましたが,翏橋はこういう機会にすこし自分の心を覗いてみることにしています。そうやって,隠れていた心と向き合い考えることでおかしな方向へ向かないよう方向修正をしておきます。人に相談するよりもこの方法が精神衛生として私には向いているような気がします。

 

そういえば,ソングライターの中島みゆきさんの書く曲はとてもディープな感じですが,ご本人はとても明るくお話好きな性格というのもなんとなく自分と同じなのかなという気がします。

 

そして,今でもご神木「いのり杉」はおかげ明神の社の後ろで訪れる女性たちを静かに見守りながら少しずつ過去の釘の穴を埋めていっていると思います。

 

なお,その後私の浮ついた心は一気に縮み上がってしまいアバンチュールの夢など忘れてそそくさと清水寺を後にしましたとさ。

2013-01-09

昨日,四街道の駅前のマクドナルドの前を通る際に店内を覗くとカウンターの前に行列ができていました。

 

マクドナルドはここ最近新しい企画を打ち出しているようだけど結構入っているんだなぁと少々感心しながら通り過ぎました。

 

そういえば,日本マクドナルドの創業者故藤田田氏(打ち間違いではないです。)が生前にこんな言葉を仰っていたようです。「世の中の動きというのは、実態はみんなが考えているよりも速いだから現場を知らない机上の政策はいつも後手後手に回るのだ。」

 

ですって・・・

 

藤田田氏は,戦後混乱期の1950年に東大在学しながら輸入雑貨販売店「藤田商店」を設立して若くして実業家の道を歩んだ方です。

なお,そのちょっと前の1948年に同じく東大在学中に貸金事業「光クラブ」を設立した山崎晃嗣という方がいたようです。同じ東大ということで藤田氏は「光クラブ」への出資者だったようです。

 

「光クラブ」は,開業後すぐに著しい成長を遂げますが,1949年7月4日に山崎氏が物価統制令違反で逮捕されたことをきっかけに出資者の信用を失い「光クラブ」の業績は急降下していき出資者から取り付け騒ぎがおきました。そのため,同年9月に債権者集会を開きその場で債務の一部を11月25日までに支払うことを約束しますが,11月24日深夜本社の一室で青酸カリを飲んで自殺しました。27歳でした。遺書にはこのような言葉が残されていました。「契約は人間と人間との間を拘束するもので、死人という物体には適用されぬ。私は事情変更の原則を適用するために死ぬ。私は物体にかえることによって理論的統一をまっとうする」。

 

興味深い話として自殺直前に山崎氏は藤田氏に資金繰りが行き詰まったことを相談したようです。それに対して,藤田氏の一言「法的に解決することを望むなら、君が消えることだ」

なお,藤田氏は自殺直前に山崎氏から出資金をきっちり回収していたようです。

 

山崎氏のモットーは「人間の性は,本来,傲慢,卑劣,邪悪,矛盾であるが故に,私は人間を根本的に信用しない」ということだったようです。

このような考えは,戦争中の配属先で上司のリンチにより同級生が死亡した事実を隠匿されたり,上官たちの物資横領横流し事件に巻き込まれ,執行猶予付きの有罪判決を受けてしまったりした暗い経験によるものと言われています。

 

このような考えのもと山崎氏は6人の愛人を囲いその一人から“あなたは人の誠意が解らぬひとだ”と咎められたときに「誠意とはいいわけと小利口に逃げることである。私の誠意を見てくださいという言葉ほど履行されぬものはない。人は合意にのみ拘束される」と言い放ったそうです。

 

しかし,愛人の一人が税務署に恋人をもつスパイで彼女を通じて「光クラブ」の経営実態が税務署に筒抜けになり,結果山崎氏は逮捕されてしまったそうです。法律に通じていた山崎氏は不起訴となりますが,それをきっかけに転落の一途をたどります。

 

この戦後の混乱期に禍々しい光を放ちながら猛スピードで消えて行ってしまう彗星のような生き様は,どこか人の目を引きつけます。

 

人を信用しないことをモットーにおきながら,愛人に嵌められるところなど一見して間抜けな感じに見えますが,法律知識に関する絶対的な自信によりどんな境遇からも切り抜けることができるという自負心からくる余裕という風にも感じます。

 

合理主義に強いこだわりを持ったために非合理な部分に気づけなかったのかも知れません。ある意味徹底して一貫した合理主義といえるかも知れません。

 

なお,藤田田氏は「仕事で一番大切なことを挙げるなら,それは「信用」だ」と言う言葉を残しているそうです。

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依頼者さんからの頂き物です。どうもありがとうございました。

今日の午後は徒歩と電車で隣の駅まで行ってきました。
 

普段はほぼ車移動なのですが,パーキングの都合でいつもと違う交通手段を選びました。

 

コートを羽織って出かけたのですが思ったより寒くはありませんでした。

 

車移動ではあまり味わえない少し冷たい風を頬に受けて駅まで歩き,午後4時の日差しに照らされた階段を上ると改札口は高校生たちで賑わっていました。

 

彼(女)らも色々と年頃の悩みがあるんだろうなぁと考えながら改札を通り抜けてホームに下りると冬の風が吹きぬけ少しノスタルジックな気持ちになりました。

 

すごく不安定で心もとない世間の空気を子供ながらに感じながら同世代でしか分かち合えない悩みや不安を抱えているのかなと想像したら,人ごみの中でおどけて笑っている姿を見てなんとも切ない気持ちになってしまいました。

 

みんなの未来が明るいものであるよう願いながら暮れゆく街をとぼとぼと歩きました。

去年「七草の歌」というタイトルで書いたブログがすさまじい勢いで検索にヒットされているようです。

 

私のは自作の出鱈目です。本当にすみません。

 

そして,今日から本格的に始動いたしました。

 

お正月は本当にあっという間に過ぎて行ったという感じがします。

 

一日という区切りは,暦においての最小単位であり,時間という単位も一日を基準にして何分割にできるかという発想からできたものではないかと思います。

 

そして,暦はまだきていない未来の予定を立てるために必要となります。

 

そういえば,マヤ文明の暦が先月で終わることからちょっとした話題になりました。

 

中には世界の終わり(どうやって終わるの?)と囃し立てる人もいて中国ではデマを流したとして1300人以上も拘束されたそうです。

 

もし,本当に世界の終わりが予定されていたらきっと多くの人が世界の終わりまでどう過ごすかの予定を立てると思います。最後の最後まで予定を立てて自分の行動を拘束するというのも現代人ならではだと思います。あくまで憶測ですけど。

 

休暇でさえ予定に縛られていますからね。

 

でも,予定が無くなったら無くなったで不安になって無理にでも予定を作ったり,どうでもいいことを手帳に書き込んで隙間を埋めたり,やはりある程度時間に拘束されていないと落ち着かない感じがきっとすると思います。

 

たぶん私は,ずっとそうやって生きていくと思います。

 

そうして,生きている時間が残り少ないと気づいたときに手元に残っているのは愛情か,経験か,お金か,思い出か,それとも残りの時間だけか・・・

あけましておめでとうございます。

 

今年もよろしくお願いいたします。

 

お正月はいもむしの様にごろごろと駅伝を見たり映画のDVDを見たりして過ごしていました。

 

そのなかで,昨年公開された『マネーボール』という映画をみました。

 

〜〜〜〜〜〜以下,若干ネタバレあります〜〜〜〜〜〜

 

 

 

内容は,米メジャーリーグの貧乏弱小球団を独自の経営理論で常勝チームに変貌させた剛腕ゼネラルマネージャー、ビリー・ビーンの実話を描いた野球映画です。監督はベネットミラー,主演はブラッドピット。もともとの原作は書籍でそれを映画化したものです。

 

 

 

映画のなかで,ブラッドピットが演じるビリービーンは,アスレチックスのゼネラルマネージャーなのですが,主力選手が相次いでFA(フリーエージェント:自由移籍の権利)により強豪チームに移籍してしまい,選手を補強するにもそれに代わる様な人材を確保する財力がチームに無い中で,メジャーリーグにおける旧態依然の固定観念を一掃して独自の統計を駆使してチームの変革を目指しますがなかなか結果が出ません。

 

 

そのときのビリービーンGMが発破を掛けるシーンでのセリフ「 勝ちたい以上に負けたくない」という言葉が印象に残りました。

 

「勝ちたい」気持ちと「負けたくない」気持ちの違いとは何でしょうか。

 

ふと思いついたのは剣豪宮本武蔵です。

 

60回以上の戦いで一度も負けたことの無い件の達人ですが,現代においては勝てる相手を選んで戦っていたという説もあるそうです。(私が言ったんじゃありません。本にそう書いてあったんです。)

この説が本当だとした場合,宮本武蔵の心理にあったのは負けたくないという気持ちだったのではないでしょうか。宮本武蔵の目的が,自分の名を轟かすことや仕官することであれば合理的な考えだと思います。

 

しかし,宮本武蔵が全国に名を馳せているのを見て「俺のほうが強い!」と挑戦を希望するにも叶わない人にとっては面白くはありません。この人にとって純粋に剣の強さを競いたいのであれば,武蔵に「勝ちたい」という気持ちでしょうし,名を売ったりすることが目的なら「負けたくない」という気持ちだと思います。全国に名を轟かす宮本武蔵と同列なら名前は十分売れるわけですから。ボクシングでも見かける話ですね。

 

ただ,当時の情報伝達などせいぜい伝聞でしょうから相手を見極めるということは困難だと思います。ランキングなんて無かったでしょうから。その中で相手を研究して勝つ手段を講じて一度も負けず,相討ちにも遭わずに生き延びたというのはやはりすごいと思うのです。

 

また,誰かからの対戦を拒否したということがあったとして,その相手が自分よりも強いかどうかは見方によっても変わってくると思います。たとえば,今年のプロ野球の優勝チームは巨人でしたが,セリーグの対戦成績ではヤクルトに負け越しています。

 

勝つということは,「試合に勝って勝負に負けた」という言葉もあるとおり見据える目的によって変わってくると思います。

 

ただ,一方でスポーツ全般において対戦相手が選べない方式のルール運営が多いと思いますが,「負けたくない」という心理のみだと相手を陥れるなどアンフェアなプレイを許容するメンタリティにもつながりかねません。

 

で,映画の話に戻って,この物語は様々な分野で世界一を自負するアメリカでの話であり,映画のテーマにもなっているベースボールの発祥の地でもあります。そして,他の国の野球(ベースボール)を差し置いてメジャーを名乗るリーグにおいて抜け落ちていたメンタルを認識させる言葉だったのかなと思っています。たとえば,目的意識とか合理性とか堅実さのことではないかと。

あと,独自の理論でチームの改革を試みるもなかなか結果が出ずに批判にさらされた状況下におけるビリービーンGMの心境から出た言葉かもしれません。

 

ただ,野球に限らずこの手のことは日本においては(自分に負けない)というような形で十分に行き渡っているのではないかと個人的には思っています。むしろ,「勝つための経営戦略」というような「勝ちたい」気持ちを煽る宣伝コピーが多くあることから「勝ちたい」という気持ちの方が足りていないと感じている人の方が多いのではないかと思っています。

 

もし,何か打ち込んでいるものがあるならどちらに近い心理ですか?

 

「勝ちたい」気持ちと「負けたくない」気持ちのどっちを強く持つかは状況によりだと思いますが,違いを考える機会を持てたのは良かったです。

 

そして,映画もおすすめです。

 

ぜひ,見てください。ネタバレ書いておいてなんですが・・・

出勤前にNHKで東日本大震災の特集を見ていました。(再放送かな?)

 

その中で,釜石市の学校に通う小中学生全生徒のうち,学校を休んでいたなどの数名を除く全員が津波から逃れたということを紹介していました。

 

なんでも,被災した瞬間に学校の管理下にあった児童生徒だけではなく、下校していた子どもの多くも自分の判断で高台に避難したということです。なかには,「大丈夫だろう」と高をくくった大人達を信じずに自らの判断で避難したという子供も紹介されていて感動するとともに不思議な感じもしました。

 

なんでも,釜石市では徹底して防災を子供達に教育していたそうです。

 

この釜石市の防災教育について指導をされていた群馬大学大学院の片田敏孝教授の言葉が胸を打ちました。

 

「津波てんでんこ」(てんでんばらばらに自分で責任を持って逃げなさいという意味)とは,他人のことなど考えないで逃げろということではなくて,“お互いがお互いの命に責任を持つということを信頼関係で結び合ってること”と理解しているとのことでした。

 

普段から家族の絆が強ければ,何かあったときも子供は自分の判断で避難して生きているだろうから必ずどこかで会えると親子で信頼し合えることが,「津波てんでんこ」の本質であろうというお話を聞きました。

 

思うに,都会で暮らしていると車にさえ気をつけていれば,ほかに命を失う危険を感じる機会というのはあまりないような気がします。なかには,生きている実感が欲しいとのことで自分の体を自ら傷つけるという行為に及ぶ人までいるほど自分の命というものは感じにくくなっています。

 

東日本大震災に関する一連の事件で私が改めて感じたことは,原発という人災に近い形の災害が複合的に起きたおかげで見えにくくなってしまいましたが,普段我々が何よりも大事だと思っている命というものが自然の前ではあまりに儚く小さいものだということです。

 

そのことは,子供の頃の遊びで嫌というほど感じた記憶があります。

 

川遊で向こう岸まで渡ろうとするときでも一見ゆるやかに見える川の流れも強い水の圧力でもしかしたら流されてしまうと思うような身の危険を感じ,また,海でちょっと先の堤防まで泳いで行った帰りに腕をくらげに刺されて声を出そうにも誰にも届かないような時など,もしここで片手ででも泳ぎきらなければおそらく誰も気づかないまま死んでいくのだろうと思った時,自分の命を守れるのは自分しかいないと感じました。

 

どんな生き物も何れ必ず死が訪れるにもかかわらず,どんな生き物でも死を恐れます。それは,生存本能に忠実に従うと同時に自分の命に向きあうことだと思います。自分の命に向き合えない人が他人の命と向き合うことは難しいのではないかなと思います。

 

人災といえるような事故は,どこかそういう無関心さというか無感動というかそういったことが根本の原因であるように思えて仕方ありません。

 

 

 

「絆」というには,まず信頼を得られる自分からということを思いました。

 

 

 

あとがき

この1年,割といいペースで更新をしてきた本ブログであります。

こうして,継続して書き続けることを自らに課したおかげで書く楽しさというのを知る機会ともなりました。

また,ブログを書くにあたり自らの決め事として個人の中傷は絶対にしないというようにしておりまして,そのため,ちょっと批判めいたことが書きたくなってもストレートに非難ができないので,人の立場を考えて心境を探ってみたり,批判の対象となっていることについてその裏側のいい部分を探ってみたりしてきました。

そのことが,自分を少しだけ成長させていると実感することがあります。普段の行いが少し良くなった(?)様な気(だけ?)がします。

また,違った分野で活躍される方のブログも楽しく拝見させていただき,時にはインスパイアされ,また時には感動のあまりすこしお言葉を拝借したり,また意見の相違も興味深く受け入れられるようになりました。

 

来年も更新を続ける予定ですが,ひとまず読んでいただいてありがとうございました。

 

来年は,7日から営業する予定です。

 

皆様,どうぞ良いお年を

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2012-12-28

今日で仕事納めです。

 

でも,明日も来ます。

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依頼者さんからのありがたい頂き物です。

 

ありがとうございました。

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運転はしておりません。

 

 

今年も数えるところ後数日となりました。

 

強烈な寒波が来ているようで日中でも容赦ない寒さに凍えそうになります。

 

だけど,冷たい風にあたるとなぜか静謐な空気に触れた気がして純粋というか嘘の無い世界を想像します。

 

もし,嘘をつく人が誰もいなくなったら今の仕事は成り立たなくなるかもしれません。

 

そして,誰の言うことも疑う必要が無くなります。

 

ただ,人の言うことすべてに嘘が無いというと人の身の上などを聞くときは覚悟が必要になるかもしれません。特に憧れの人や好きな人の過去も疑う余地がなくなったらそもそも人間関係って作れるのかな・・・と思います。

 

たとえば,医師から余命宣告を受けた家族が本人に言うことをためらうのも本人が余命を受け入れることができないかもしれないという配慮からであると思いますし,これに似た嘘とか誤魔化しはどんな人も生きているうちにいくつか言っているのではないかと思います。

 

また,採用試験などで多少見栄を張って大きく見せてみせて,それを多少見破りながらもまぁいいだろうということ採用する場合などでも需要と供給を滑らかにするためのいわば潤滑油のような役目を果たすこともあると思います。

 

きっと,一生のうちに知ることより知らないことの方が圧倒的に多いだろうし,知らない方がいいことってたくさんあると思います。もし,誰かが知らないほうがいい事実に突き当たったとき私だったらその人を傷つけないような嘘を言うかもしれません。

 

ほとんどの人にはすべての事実を受け入れられるような度量は備わっていないのかもしれません。だから,やさしさからつく嘘というのもありえるのだと思います。

 

ただ,やっぱり正直であることが大原則なので嘘とかごまかしは人への配慮のときに使うイレギュラーだと思います。

 

最後に別に私に隠し通したいやましい過去があるわけではないですよ・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

・・・いや,どうかな。

2012-12-26
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手伝いに来てくれました。

 

どうもありがとうございました。

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