まず,単刀直入に本音を申し上げます。
自分がうまくいっていないとき,同じ様な立場でうまくいってない人の話を聞いて心のどこかで落ち着ついたような気になったことがありました。
そのまま話を聞き続けながら自分の心境に気づいてゾゾッとしたことがあります。
大抵の人は,人の不幸を喜ぶのは良くないということを倫理的な部分で感じていると思います。
昔からよく「人の不幸は蜜の味」などと言われたりしていますし,「他人の不幸を喜んではいけない」とわざわざ戒めるあたり,そもそも我々の本質ということなのでしょうか。
しかし,自分においての話ですが,自分がトントンでうまくいっているときなどは,人がうまくいっていないことを喜ぶ気にはなりません。むしろ,何とかしてあげたいという気持ちにさえなります。そう考えると自分が置かれた状況によって人に向ける気持ちも変わってくるということになります。
では,自分がうまくいっていないときには何故人がうまくいってないことに落ち着きを感じるのでしょうか。
これについては,独立行政法人 放射線医学総合研究所(千葉市稲毛区にあります)というところで実験に基づいた根拠があるようです。もし興味があれば調べてみてください。
でも,それだけではタカハシが寂しいので自分なりに心理を分析してみますと簡潔に言えば「自分と同等か自分より大変そうな人が存在することによってうまくいかない自分に対する劣等感が和らぐような気持ち」です。
平たく言うと,「世の中には自分よりもっと大変な人がいるんだからがんばろう」と似た感じです。こうやって言い回すとそれほど悪意が感じられなくなりますね。
昔よく「世界中に食べたくても食べられない人たちがいるのだから・・・うんぬん」と偏食を叱られたのもコレと平行の関係に感じます。
だから,なんとなく心地よくなるのは仕方がないことなのかもしれません。
でも,その感じた心地よさを自分の中でどう昇華させるかが大事だと思います。
他人が苦しんでいるタイミングで感じる心地よさを「人の不幸は蜜の味」と呼ぶのは単純すぎて面白くありません。
たとえば,同じ境遇の人たちで集まって痛みを共有しあうのは(やりすぎなければ)健全なことであると思いますし,他人を貶めたり妨害したりするような方向へ向けない方法はいくらでもあると思います。
そもそも,人はそれぞれ主観を持っていますが,他人の主観というものは覗くことができません。コミュニケーションにより推し量ることはできてもあくまで憶測です。だから,主観の相対的な概念として客観を見出そうとしますが,これはいわば神の目のようなもので結局各々の主観の共有できるものだけを言っているに過ぎないと思います。
だから,道徳的に良からぬ事が頭をよぎったりしてもそれ自体が非道徳的というわけではなくそれをどう昇華するかだと思います。
前にも紹介したマザーテレサの名言です。
思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。
性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。
だから,単純におかしな心理が頭をよぎったら“まず考え直せ”という感じでいいんじゃないかと思います。
人間なんてそもそもは惰弱であるからこそ,昔の人は武士道などといって自らを律したりしているわけで自分の弱さを認めつつどう付き合っていくかという方が,他人への感情に固執しすぎずに思考の転換へと繋がる思います。
まぁ肩の力を抜こうじゃないですか。