出勤前にNHKで東日本大震災の特集を見ていました。(再放送かな?)
その中で,釜石市の学校に通う小中学生全生徒のうち,学校を休んでいたなどの数名を除く全員が津波から逃れたということを紹介していました。
なんでも,被災した瞬間に学校の管理下にあった児童生徒だけではなく、下校していた子どもの多くも自分の判断で高台に避難したということです。なかには,「大丈夫だろう」と高をくくった大人達を信じずに自らの判断で避難したという子供も紹介されていて感動するとともに不思議な感じもしました。
なんでも,釜石市では徹底して防災を子供達に教育していたそうです。
この釜石市の防災教育について指導をされていた群馬大学大学院の片田敏孝教授の言葉が胸を打ちました。
「津波てんでんこ」(てんでんばらばらに自分で責任を持って逃げなさいという意味)とは,他人のことなど考えないで逃げろということではなくて,“お互いがお互いの命に責任を持つということを信頼関係で結び合ってること”と理解しているとのことでした。
普段から家族の絆が強ければ,何かあったときも子供は自分の判断で避難して生きているだろうから必ずどこかで会えると親子で信頼し合えることが,「津波てんでんこ」の本質であろうというお話を聞きました。
思うに,都会で暮らしていると車にさえ気をつけていれば,ほかに命を失う危険を感じる機会というのはあまりないような気がします。なかには,生きている実感が欲しいとのことで自分の体を自ら傷つけるという行為に及ぶ人までいるほど自分の命というものは感じにくくなっています。
東日本大震災に関する一連の事件で私が改めて感じたことは,原発という人災に近い形の災害が複合的に起きたおかげで見えにくくなってしまいましたが,普段我々が何よりも大事だと思っている命というものが自然の前ではあまりに儚く小さいものだということです。
そのことは,子供の頃の遊びで嫌というほど感じた記憶があります。
川遊で向こう岸まで渡ろうとするときでも一見ゆるやかに見える川の流れも強い水の圧力でもしかしたら流されてしまうと思うような身の危険を感じ,また,海でちょっと先の堤防まで泳いで行った帰りに腕をくらげに刺されて声を出そうにも誰にも届かないような時など,もしここで片手ででも泳ぎきらなければおそらく誰も気づかないまま死んでいくのだろうと思った時,自分の命を守れるのは自分しかいないと感じました。
どんな生き物も何れ必ず死が訪れるにもかかわらず,どんな生き物でも死を恐れます。それは,生存本能に忠実に従うと同時に自分の命に向きあうことだと思います。自分の命に向き合えない人が他人の命と向き合うことは難しいのではないかなと思います。
人災といえるような事故は,どこかそういう無関心さというか無感動というかそういったことが根本の原因であるように思えて仕方ありません。
「絆」というには,まず信頼を得られる自分からということを思いました。
あとがき
この1年,割といいペースで更新をしてきた本ブログであります。
こうして,継続して書き続けることを自らに課したおかげで書く楽しさというのを知る機会ともなりました。
また,ブログを書くにあたり自らの決め事として個人の中傷は絶対にしないというようにしておりまして,そのため,ちょっと批判めいたことが書きたくなってもストレートに非難ができないので,人の立場を考えて心境を探ってみたり,批判の対象となっていることについてその裏側のいい部分を探ってみたりしてきました。
そのことが,自分を少しだけ成長させていると実感することがあります。普段の行いが少し良くなった(?)様な気(だけ?)がします。
また,違った分野で活躍される方のブログも楽しく拝見させていただき,時にはインスパイアされ,また時には感動のあまりすこしお言葉を拝借したり,また意見の相違も興味深く受け入れられるようになりました。
来年も更新を続ける予定ですが,ひとまず読んでいただいてありがとうございました。
来年は,7日から営業する予定です。
皆様,どうぞ良いお年を