朝から小雨が降り続いています。大変寒いです。
いつも通る公園では雨で濡れた小鳥が枝に止まったまま凍えているように見えました。
見ただけでも冷たさが伝わってくる鉄棒から雫が滴り落ちています。
小鳥を抱き上げて家にまで連れて行ってストーブで暖めてあげたいけど,小鳥との距離は10メートルくらいでもし近づいてもきっと飛び立ってしまうでしょう。
でもなんでそんなことを思うのでしょうか。
D.H.ロレンスという方の「自己憐憫」というタイトルの詩があります。
(ちなみにD.H.ロレンスさんは,日本国内ではわいせつ性と表現の自由の関係が問題となった『チャタレイ夫人の恋人』の著者としても有名な方です。)
『野性なるものが 自らをあわれむのを私はみたことがない。 小鳥は凍え死んで枝から落ちようとも自分を惨めだとは 決して思わないもの。』
だそうです。
そうだとすると抱き上げたかったのは何だったのでしょう。
施しを受けることを良しとしない者に施そうとする気持ちって何なんでしょう。
でも,人のおせっかいに助けられたことが幾度もあります。
今考えるとありがたい気持ちとともにおせっかいな人の満足も満たせていたらいいな・・・とも思います。
もしかしたら,施しを与えたい気持ちなんて善でも悪でもなくもっと心の自然な部分から沸いてくる欲求なのかもしれません。
自分が痛みを感じるから人の痛みも理解できるのでしょうし,感受性というのは行動規範へ繋がっているような気がします。
そうすると,ひとりひとり感じ方の違いにより想いもまた違うわけですからどう行動するかはそれぞれの別の考えになるはずです。
それでも,東日本大震災のときに被災地へ向けた多額の寄付金やボランティアの方々が集まりました。それは,感じ方はそれぞれ微妙に違っていても向ける想いは同じできっとそれぞれの想いから突き動かされた通りに動いた結果だと思います。
だから,大切なのは自分の感情のすこし深いところを覗いて大事にしてあげることではないかなと思っています。