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タレントの政治的発言

2014-01-20

ここ最近,TVタレントの政治などに関する発言が,昔(20年くらい前のことです)より目立つようになった気がします。

 

もちろん,そのことが悪いという訳ではありません。

選挙権だって持っているでしょうし,表現の自由ということですので,発言するについて特段問題は無いはずです。

 

また,タレントが政治家に転向したりすることについて,今となってはタレント議員などと揶揄されることもありますが,実際には1962年7月の第6回参議院議員選挙においてタレントの藤原あき氏が当選したことが最初のことだそうで,それなりの歴史があるようです。(うぃきぺでぃあ)

いまでは,めずらしくありませんね。千葉県知事も元は俳優です。

 

そういえば,流行語となったアベノミクスは,かつて俳優であったレーガン大統領の経済政策レーガノミクスを真似た物だといわれています。いずれも評価は人によりけりですが,その政策が名を残していることは事実です。

 

ですので,TVタレントが,将来政治家への転向を考えていたとして,TVで露出しているうちに自分の意見を述べようと考えること自体は悪いことでもなんでもなく,また,政治家になるつもりが無くても然りです。

 

しかし,私が気になった点は,マスコミがタレントの発言を金科玉条かのごとく祭り上げるようになったことです。

 

もし,「発言するのが自由なのだから,それを大きく取り上げたって何も問題ないであろう」と思われるのであれば,少し考えていただきたいことがあります。

 

たとえば,私が応援しているタレント(あまりいませんが)が,「資格なんて新規参入を阻害する非関税障壁なんだから廃止しちまえばいいんだよぉ!グローバリズムでイノベーションがウンタラカンタラ・・・」などと宣っていたら,即刻軽蔑するばかりか,思いつく限りの反論をタレントのブログにコメントしまくり炎上させることでしょう。(冗談です。)

 

それは,もちろん私の仕事や生活に差し支えるわけであり,そのタレントの発言を到底正しい意見として容認できないことは自分自身の考えがあるからです。

たとえ,そのタレントをそれまで応援していたとしても,自分の生活や考えの方がタレントの発言より重大な事ですので,その重大な基準によりその発言を解釈すると到底容認できるものではないわけです。

 

また,表面上それなりにもっともそうな発言だったとしても,私が常々勉強させていただいている専門家の意見とどちらを信用するかといえば,餅は餅屋ですから当然専門家の意見を信用します。

 

ですが,生活感も知識も考えもない人が,その応援するタレントの発言について反論(例え表現までしなくても)できるだろうか,ということを考えると,反論するにもある程度の能力が必要である気がしてなりません。

 

ですが,だからこそマスコミは自らのイデオロギーに沿う都合の良い発言を,広告塔であるタレントを利用して間接(ほぼ直接)的に訴えているのかもしれません。

 

もっとも,表現は自由という前提ですから,本来ならそれぐらいのことは容易に察するべきでしょう。

 

それは,全ての人がしっかりした情報を見分けることができれば,他愛も無いことであるのでしょうけど,実際にそれが出来ていないという事情があるからこそ,専門家を差し置いてタレントの発言が持て囃されるという現状を生み出しているように思います。

 

私自身,タレントの発言には靡きませんでしたが,実際に軸となる考えを探すのはとても時間がかかったように思います。

 

では,何を信じてそれを軸に思想を育めば良いのかというと,規範として法律というのが思い浮かぶかもしれません。

もっとも,法律を絶対的な規範と考えて“法律だけは守らなくてはならない”という考えは,とかく“法律さえ守っていれば良い”という考えに行き着やすいのです。

というのも,法律というものの趣旨は,ほとんどが利害関係人の相互調整を主題とされています。

 

刑法だって,罪刑法定主義といって,何を犯罪として刑罰を科するためには,事前に法律で定められていなければならないということとされていますが,お分かりのとおり,これは犯罪を侵した人を保護する趣旨であることが見て取れます。

 

法律家が,たまに「法律はあなたを守るためにある」的なことを言いますが,お分かりの通りマーティングのためのキャッチコピーです。言葉通りに受け止めれば独裁国家の誕生です。

法律家を使って,自分の主張を成し遂げれば主張の相手はその分何かしら失っているものです。もちろんそれが悪いということではありません。

 

ですので,実際法律を守ってさえ居ればよいという考えは,民主的に定めた相互調整のルールに則っているというだけの事で,それが立派な考えというわけではありません。(むしろややこしい人が多いような???)

 

そうすると,法律の王様のような最高規範たる憲法の理念を軸として,規範とすることが考えられますが,勉強して働いて税金払っていればよくて,みんな自由で平等を保障されているとのことです。

 

自由というとなんだか聞こえがいいのですが,何かしら判断を迫られ,また意見を求められたときに,自由というのは人と人との間にある潜在的な制約の存在に対してあまりに無責任であるように思えます。

 

たとえば,ある場所で「何でもいいから言ってみろ」と言われて戸惑うのは,それを言葉通りに受け止めれば,声を発しさえすれば考えたり選んだりする必要はありません。

ですが,実際に奇声をあげたならばおそらく奇異な目で見られるであろうという「場」自体は潜在的に意識するでしょうから,「場」という外部的であるものの顕在していない制約を自分の意識中だけで潜在的に感じた結果,戸惑うということになるわけです。

 

戸惑わずに体よくその場をやり過ごした人の要領というのも,その「場」が多くの人にどのように共有されているかをよく理解しているというというだけのことで,実際に秩序はそんな感覚を共有することで保たれているという部分が大きいように私は考えています。

 

ですが,自由という建前のもと,その「場」という概念が共有しれないほど広汎となってしまったため,何が良質で何が悪質なのかを考える機軸を判断しにくくなり,その結果欲望に根ざしたものや大げさで分かり易いものが跋扈し,持て囃されるような現状を生み出しているように思えます。

 

このことを価値観の多様化とか言ったりすることがありますが,単純に価値の判断能力が衰えただけで,価値観なんてたいそうな物ではないはずです。

価値判断がちゃんとできるのであれば,政治的発言をするタレントと専門家との発言の比較や,タレントを利用するマスコミの意図くらい読み取れるはずです。

 

本来であれば政治に関する意見は,誰が言ったからではなく何を言ったかに価値を置いて判断するべきですが,このことは国民主権であるが故に国政を決める重大な要素です。

 

私自身何を規範とするかというと,案外身近にある生活に根付いたものに目を向けることにしています。

フィクショナルな妄想

2014-01-18

この仕事をしていると様々な家庭の事情を知ることになります。

 

最初のうちは,正義感っぽい気持ちと少しの好奇心のおかげで,家庭の事情を知る機会というのをいいものだと思っていましたが,経験を重ねれば重ねるほどだんだんと精神的に重くなってきます。(重が沢山)

 

重いのは時代のせいもあるでしょうけど,テレビのドキュメントには映らない事情というのをよく見るわけで,それはちょっとした心の負担にはなります。人にはオヌヌメできませんね。

 

ここからはフィクションですが,光熱費を節約するために電気ストーブの使用を控えると幼い娘が寒いと言ってと泣く・・・なんて話も聞いたりします。(守秘義務の問題もあります。あくまでフィクションです。)

 

こんなフィクショナルな妄想を抱くワタクシが,たまたまテレビを見ると『東京電力が“原発を再稼働しなければ電気料金を上げる”とおどしてきている。』『東京電力は破産させるべきだった』・・・・

 

テレビを殴りつけそうになりました。

 

そんなに原発が嫌いなら電気料金を維持する方法をまず示せ!ということです。(再生可の(略)は,現実味が無いのでNGワードです。)(発そ(略)はアメリカの例により失敗が明らかなのでNGわーどです。)

 

テレビが「現実」として報道し論評している事は,私の知っている実態と全然違います。

 

光熱費があがるだけで死活問題となる家庭はたくさん存在します。

 

いい人ぶるのは結構なのですが,いい人なら今後の見通しの利かない「脱原発」は絶対に言ってはいけません。

 

自然災害が見通せないことは自然なので当然であり,それを前提として国内のエネルギー供給を運用して来ていたわけです。

ですから,震災により顕在化した弱点を補填すればいいものを,原発を無くしてしまうとすると,震災前までに保ってきた様々なバランスが大きく,しかも予想外の方向へ偏ることでしょう。

 

当然,電気料金は高くなるでしょうが,タダでも高くなっている電気料金がさらに高騰すれば,生活費の負担ばかりか,企業への負担も大きくなり,国民所得にも影響しかねません。

マスコミだって広告収入が減るでしょうに,嘘までついて脱原発を煽るいまいちワカラン連中です。

 

私の妄想がフィクショナルならどれだけ良いことか。

小雪

2014-01-17

今朝は小雪がちらほらと舞っていました。

 

寒くなっておりますので,お体にお気をつけください。

 

また明日。

どうぞどうぞ

2014-01-16

 都知事選は,脱原発フィーバーの様相を呈しています。

 

最初の候補者が,脱原発を掲げたのをきっかけにその後から出てくる候補者も次々に自分は脱原発派だといい始め,それはまるでダチョウ倶楽部のどうぞどうぞのネタを想起させます。

 

もちろん,都知事選の公約において脱原発を掲げることのおかしさは,安倍首相をはじめ様々な方が指摘していますし,その指摘に対する明確な回答は今のところ候補者側から今のところないようです。

 

それでも,脱原発というワードそれだけで多くの票を得られると見込めるようで,とりあえず脱原発と言っておいた方がいいくらいの異様な雰囲気を感じます。

 

もちろん,色々と事情はあれども,原発によりあれだけの事故が起きてしまった訳ですから,今後も原発を運用し続けることが正しいのか否かの議論が起こるのは当然です。

 

そして,否と考える人は,都政だけでは脱原発を掲げてそれを実行することが困難ということであっても,脱原発という共通する理想(?)を掲げた候補者を信頼して投票することも大いに考えられます。

 

そういう打算が働いたからこそ,次々に脱原発を言い始めたのだと考えられます。

 

もしかしたら都知事選が終わってしまえば,候補者達は当落に関わらず,どうぞどうぞするかもしれません。

 

そもそも,都知事として立候補された候補者の方々には,それぞれ将来の都政についての理想を語って欲しいと都民は思っている(はずな)のです。

 

では,果たして脱原発というものが,都政において可能かどうかは置いといたとしても,それを理想といえるだろうか,という疑問がのこります。

 

というのも,まず脱原発議論が巻き起こっている一番の理由は,事故が起きたときの危険性であるはずです。

つまり,国民の生活の安全を求めるとの理由から脱原発という結論を導くのでしょう。

一方で脱原発には,電力の安定供給という課題があります。そこで,脱原発の人達は再生可能エネルギーの普及をしきりと訴えるのでしょう。

 

つまり脱原発の人が抱える潜在的な問題は,国民の生活の安全と,安定した電力の供給であるわけで,そうであればそれを理想として掲げればいいはずです。

 

そして,その理想は反脱原発を訴える我々と共通しています。

つまりは,ひとつの共通した理想にたどり着くという共通の目的の基に議論が出来ることになります。

 

そうすると,原発今後原発を運転するかどうかという論点は,理想を達成するためのひとつの筋道となるわけで,理想そのものではなくなります。

また,一言で脱原発というだけではおさまらない様々な方法が提案されるはずで,そのことは当然のことながら,エネルギー事情や負担地域への配慮などなど複雑極まりない事情を網羅するほか,想定し得ない事態をも対応する必要があるからです。

 

つまりは,国民の生活の安全と安定した電力の供給を両立させた理想というものは,専門外の人には理解できないほど複雑であるはずで,だからこそ民主主義政治における政治家は理想を語り国民の信任を得るべきなのです。

 

ところが,脱原発が理想として語られると,脱原発を達成した後どうなるのかが具体的に考えられておりません。

また,国民の生活の安全と安定した電力の供給を理想とする反脱原発が,脱原発の人に問いたい部分は,まさに脱原発を達成した暁には反脱原発派が掲げる理想が脅かされるのではないか,という点なのです。

 

国民の生活の安全と安定した電力の供給を両立させることを共通の理想とするならば,その方法において原発の今後の運用について食い違いが出る事は仕方ないとしても,話し合いでなんとか歩みよれそうなものです。

ですが,脱原発の人は理想(?)自体が,国民の生活の安全と安定した電力の供給脱原発ではなく“脱原発”ですから,向かうべき理想がそもそも違ってしまっていることから,話がかみ合わないのだと思います。

 

そして,“国民の生活の安全と安定した電力の供給の両立”と“脱原発”のどちらを理想として掲げるべきかは,考えるまでもないはずです。

 

ですが,“脱原発”というワンフレーズが多くの支持を得るというのは,その多くの人が複雑性からの逃避だといえるでしょう。

もちろん,多くの方は日々お仕事などで忙しく,また政治やその他諸々に関する専門的知識も持ち合わせない方がほとんどでしょうから,選挙にて候補者が乱立した場合にはなかなか選ぶのが難しいかもしれません。

 

そこは,刺激的なワンフレーズで理想を語れば,得票に結びつき易いでしょうし,それは民主主義の孕む危うさだと思います。

 

また,自由とか平等とかもこれと同じことが言えるかもしれません。

 

不当な制約をされずに闊達に表現をすることができ,また不当な差別を受けないという理想を,自由や平等という一言で掲げてしまうと思わぬ方向に行ってしまうということです。

批評

2014-01-14

私はこれまで,表現する者を萎縮させ,また作品を好んでいる人の気分を害すると言う理由から,芸術作品などの表現に対する辛辣な批評を好ましく思っていませんでした。

 

そのことは,子供時代に,ある作品に対して素直な感想を述べたことをたしなめられた経験にもより,世間一般の風潮というように感じていました。

 

そういえば,プラトンの著書において,国家を構築するにあたり,良き芸術と悪しき芸術を判別して,悪しき芸術を排除しなければならない旨をソクラテスが語ったことが記されていたと記憶していますが,それを読んだときも時代が違うこともあって???でした。

 

もっとも,現在のポップカルチャーを例にしたあるお方のご指摘により,現実に危険を孕んでいると感じ,また視聴者に及ぼす心理的な影響についても理解できました。

 

そうなると,芸術に対する批評は辛辣なものも必要となりますが,流行曲に対して辛辣な批評をして経済的利益を得る事はなかなか難しいことでしょうから,真っ当な批評であっても周知されるまでになかなか到らないことが予想されます。

 

また,これまでの私と同じように,芸術作品に対して辛辣な批評をすることや,辛辣な批評する人を好ましく思わない人も実際多くおられるはずで,批評に対する心理的な抵抗は大きいものだと思われます。

 

しかし,そのことが原因なのか,名の知れた芸術家の人達における,昨今の自身の無責任かつ影響力を省みないメッセージの数々は(主なものとして脱原発など)目を覆うばかりです。

 

(逆に氷室京介さんには,氷室さんが書いた歌詞に影響された若者が,「あなたの言うとおり学校を中退した」などとする内容の手紙を氷室さんに充てて送ってきたことにより,自身の書く歌詞の影響力を知って作詞を自粛したという,それなりに有名なエピソードがあります。)

 

 

ですが,辛辣な批評をされずに増長して行くそれらメッセージを悪い芸術として評価して分別することを試みても,視聴者個々においてそれをすることは結果として潜在意識に訴えた作品が良い芸術とされることでしょう。

 

また,法律などによって規制(出来ると仮定して)するとしても,一般的抽象的な文言で規制の内容を定めることによって,基準が曖昧となる結果,多くの反発を生むことが考えられます。

東京都の漫画などの売り場を規制した育成条例のときの反対のような拡大解釈がなされる事は避けられないように思えます。

 

また,前述のソクラテスの話もこのあたりの問題で???となりました。

 

ソクラテスは,音階の響きによって聞く人に悪い影響を与える音階があるから,そのような音楽は排除しなければならないというようなことを言っていたのですが,その音階というのは現在においてポピュラーに使われている音階で(という,紀元前から観念されていたことにまず驚きました。)それを使ってはいけないとなると,音楽家の技術を取り上げることになるからです。

 

そこで,まず悪い芸術を評価するための見識を個人によって深めて,ある程度の人数によって危険性を警告することにより,すこしずつ世に知れ渡ることを目標とすることがいいのかもしれません。

またなんか出てきたよ・・・

2014-01-12

昨日から今日にかけかなり冷え込んでいます。

 

わが事務所は,エアコンと電気ストーブだけという暖房は電気頼りなので,冷え込むと冬の電気代がかさみます。

 

ただでも,電気料金が値上げされているので,結構な負担です。

 

千葉県在住の私なんかマシなほうでしょう。

 

寒い地域にご在住の方々には,電気料金の値上げが死活に関わることにもなりかねません。

 

そういえば,都知事選の候補者の中には脱原発とか原発ゼロとか言っている人が多いようですが,はたして都知事選というのは原発のあり方を訴える場なのでしょうかね。

 

都知事となった暁には,東京都は今後原発によって発電された電力は一切使わないとでも言うつもりなのでしょうか。

迷惑なので,くれぐれも波及させて欲しくないですね。

 

そして,今度は陶芸家と日本をめちゃくちゃにした張本人がタッグを組んで出馬する動きがあるそうではないですか。ホンといい加減にして欲しいものです。

 

もっとも,脱原発しかいえないAHOでも,昨年の参議院選挙で65万の得票の実績がある東京都ですので,実際何が起こるか分かりません。

 

そして,このことを候補者側から見れば,脱原発と言ってるだけでも都知事選において有効なカードということになるでしょう。

 

まぁつまり,脱原発というのを都知事選に掲げているという事自体,都民を完全になめているということでしょう。

 

東京都民は,そのあたりをしっかり見据えて候補者を選ばなくてはならないと思います。

一週間フル

2014-01-10

9連休明けの怒涛の一週間でした。

 

 

なんだか,すでに三が日の記憶は,空を見上げて目を細めて思い出すような遠い昔のことのようにさえ思えます。

 

もっとも,あすから三連休が控えているわけで,すっかりなまった身体で一週間フルに働いた疲れをゆっくり癒すことが出来そうです。

 

もっとも,私は日曜日に出勤しますが。

 

話は変わりますが,都知事選の候補者が出揃い始めましたね。

 

中でも話題を呼んでいるのが元航空幕僚長の田母神俊雄氏の出馬でしょう。

 

私は,残念ながら都民ではないので投票できませんが,東京といえば日本の首都ですから日本国民としてやはり都知事選は気になるところです。

 

この先はオリンピック開催も控えていますし,今後の都政のあり方は日本の将来においても影響が少なくないはずです。

 

注目していきたいところです。

 

では,

接続詞

2014-01-09

朝日新聞から『国土強靱化―防災と経済を分けよ』というタイトルによる,2012 年 12 月の総選挙以前から自由民主党が公約としていた国土強靭化計画における基本法である国土強靭化基本法に対する批評の記事が掲載されています。

 

まぁ朝日らしい記事です。

賢明な方ならタイトルを読むだけで何が書いてあるかおよそ察しがつくのではないかとさえ思います。


ところで,朝日の記事を見てひとつ気がついたのは,接続詞が非常に少ないという点です。

そのことは,まるで箇条書きの分を文章ひとまとめにした様な印象を受けます。

そのため,段落の前後において文章のつながりが不明瞭となり,読み終わった後の印象としては,訴えていることの意味内容よりも,「ワード」のみが直接的に記憶に残っている感じがします。

このことを逆に考えると,もし朝日新聞の記者が,国土強靭化基本法に対して『防災と開発・経済は、分けて考えるべき』とか『公共事業をばらまく』とか『財政難への意識』という言葉のイメージだけを読者の記憶に残し,かつ読者にネガティブイメージを持たせることにより法の趣旨を考える機会を失わせることが目的だとするならば,この記事は非常に巧妙で有効であると思えるのです。

ましてや,新聞という古くからあるメディアですから,読者にとってみれば信用性の高い情報のひとつであるはずです。

たとえば,朝日新聞の読者が,会社の同僚達との間で国土強靭化基本法の話題をしているときに,一言『防災と開発・経済は、分けて考えるべき』と言っておけば,おそらく割と多くの賛同者が得られるのではないかと思われます。

なんせ三大紙のひとつですから。

そして,そのことは,朝日新聞の読者が国土強靭化基本法の趣旨に理解を示して,「私はこれまで国土強靭化基本法に対して理解が足りていなかった・・・」と,省みるハードルをとても高くしていることでしょう。
引っ込みがつかないという心理もあるでしょうし。

ですので,一度こういう記事で先入観を持ってしまうと,先入観を捨てて理解に向かうということは容易なことではなくなります。

だからこそ,それぞれが情報に接するファーストコンタクトにおいて気をつけておくべき事があるはずなのですが,そのひとつとして個人的には接続詞の有無について気をつけてみようと思った今日この頃です。

 

海の向こう側の事情

2014-01-08

安倍総理とトルコのエルドアン首相との首脳会談において,トルコへの原発の輸出を可能にする原子力協定について「通常国会の最優先課題として取り組んでいきたい」と伝え,国会承認の手続きを進めることを確認したそうです。

 

あれだけ大変な事故を起して,それが世界中に知れ渡ったにもかかわらず日本から原発を輸入するというのはちょっとビックリする感じもします。

 

その前にトルコで思い出すのは,ふ・・・じゃなくて,2020年の夏季オリンピック開催地の候補地として最終選考まで東京と争ったイスタンブールが所在する国でもあります。(ちなみに首都はアンカラです。)

 

なんでもトルコは「2023年に世界10位の経済大国になる」という目標を掲げているそうで(ちなみに2011年時点で世界18位だそうです),その目標に到達するまでの道筋として,イスタンブールが2020年の夏季オリンピック開催地となれば,かなり現実味を帯びてくると考えたのでしょう。

 

それだけに,口惜しかったのではないでしょうか。

この気持ちは,デフレにあえぐ中,開催地として選ばれた東京を誇る日本国民なら慮ることが出来ることと思います。

アレだけ浮かれましたから,逆の立場になったことを考えると・・・

 

にもかかわらず,トルコのエルドアン首相が安倍晋三首相に駆け寄り抱擁で祝意を示したという逸話もあります。素敵な国ですね。

なお,トルコと日本の関係は,遡ること・・・どうぞ,お調べになってくださいませ。

 

それにしても,オリンピック選考会当時の東京都知事が逮捕されそうなことをトルコの方々が知ったら一体どんな気持ちになるのでしょうかねぇ。しかも,その直前に本まで出版しているとは。

 

ということで,経済発展を目指す国として更に多くの電力供給が必要と考え,その方法として原発が不可欠と考えたのだと思います。そりゃそうでしょうな。電気が安定して供給されていることの有難さを,我々日本国民はあのときの計画停電を通して嫌になるほど思い知ったはずです。

 

トルコは,比較的に再生可能エネルギーによる発電量が多いようなのですが,それでは安定性に欠け,また火力や石炭はコストがかかりすぎるという事情を抱えているのだと考えられます。もっとも,再生可能エネルギーによる発電を主力として期待することが出来ないという点では,国土の狭い日本との大きな違いだと思います。

 

 

なるほど,原発を必要としている事情はある程度推測できましたが,別に原発の技術を輸入するのは日本でなくてもいい気がしますね。だって,わざわざ原発によって大きな事故を起した国から輸入しなくても,他の国から提供してもらう選択肢だってあったはずです。

 

それなのに,なぜ日本から輸入することを決めたのでしょうか。

 

おそらく,親日的なトルコ国内でもさすがに反対の声はあったはずです。しかも,かなり多くのです。

 

それでも,踏み切った理由は,外交などにおける様々な要素が絡んで,独自に情報を得ることの出来ない私には想像もつかない事情があるのかもしれませんが,少なくとも安全性の担保についてはどう考えたのか気になります。

このことは,トルコ国内において,安全性について疑問を持つ人達を納得させるために表明する必要があることから,細かい内部事情を考慮せずに推測することが出来るはずです。

 

特に,トルコは国内に多くの断層を持つ地震国だそうで,反対している人は福島の原発事故と同じ事態を想定しているでしょうから,説得には骨が折れそうです。

 

それについて逆に,同じ地震国の日本が,事故の経験を踏まえて更に安全性の技術を向上させたのであろうと考え,日本からの輸入を決定したのであれば,それはとても興味深い考え方だと思います。日本の反対派には通じないかもしれませんが。

 

たとえば,私がトルコ国民になったとして,どうしても原発が必要なったと政府から言われて「え〜〜〜!日本で事故があったし危ないよぉ〜」と,当然思います。

 

それでも,国が掲げた「2023年に世界10位の経済大国になる」という目標は,国民全員が一致団結しなければ達成できないでしょうから,国民としてしぶしぶ従わざるを得ないと考えるでしょう。自分だって恩恵を受けるわけですから。

 

そして,「では,どこから原発の技術を輸入するか」と考えたときに,やはりトルコにおいて原発の安全性を脅かす要素である「地震」が,同じように多く起こる国において継続して運転している原発が良いと考えるでしょう。

 

しかし,その国では大きな原発事故が起こり大惨事となった経験があります。

 

「・・・日本はやめておこう・・・」と普通なるのでしょうけど,なんと!原発の再稼動を始めたではありませんか!

 

「ということは,あれだけの地震が再び起こったとしても,耐えうるだけの技術まで向上させたということか。」と考える事は不自然なことではないと思います。

 

条件が悪い地域で発展した技術というものは,当然ながら悪条件を克服しながら発展していくわけで,当然ながら条件の良い地域において同じような技術は発展しないでしょう。

 

逆に言えば,悪条件において運転を継続してきたからこそ選ばれたともいえるはずです。

 

たとえ日本では事故が起きた事実があったとしても,それまでの安定した運用について称えるところはあるはずだということをこのニュースによって考えました。

多様な価値観

2014-01-07

しいたけの美味しさに気付いたのは10台の頃,鯵の塩焼きの美味しさに気がついたのは20歳を過ぎて一人で暮らし始めた頃,らっきょとカレーのあわせ技の美味さに気がついたのはわりと最近のこと。

 

私は幼い頃から食べ物に関しては厳しくしつけられたため,食わず嫌いがありません。

 

もっとも,幼い頃から口に入れていた食べ物すべてを美味しいと感じていたわけではなくて,とりあえず食卓に出された物はすべて平らげなければならないとの使命感の下,ひたすら口に放りこんでいた記憶があります。

 

母親には申し訳ないことですが,時には我慢して食べていたこともありました。

 

私も子供時代は,ご多分に洩れずカレーやラーメン,ハンバーグなど味がシンプルな食べ物を好んで食べていましたし,ほぼすべての食材を食べることが出来たのですが,モチロン好き嫌いもありました。

 

その嫌いが,冒頭に挙げた食材なのですが,不思議なもので嫌いであっても無理して口に含んでいると,ある時をきっかけにふと美味しいと感じるものなのです。

 

それは,それまで解けなかった問題があくる突然理解できるようになったときの感動に似ていました。

 

もっとも,考えてみれば当然のことかもしれません。

 

勉強を続けていれば,幼少時代よりも大人の方が理解に優れるようになりますし,グアニル酸の風味や淡白な白身魚の味なども継続的に学習して初めて理解できるものでしょう。

 

当然,子供から大人になる経過において多くの味にたずさわり,それらを理解していく過程で様々な価値観を育み,それによって楽しみ方も増えているはずです。

 

それは,子供時代が大人になるための訓練であるならば,世の中の様々な価値観を学ぶ機会となるはずです。しかも,大人になってから微妙なニュアンスを価値として受動的に説明してもらえる機会というのはあまり無いように思えます。

 

というか,社会に出てからは,食べ物に限らず,そのほとんどのことに自らが進んで理解をしようとしなければならないように思えますが,様々な情報が行き来しているなかでじっくりと吟味をするという時間は,子供の時代と比較すると限りなく少なくなることと思います。

 

そうなると,微妙なニュアンスを求められるあらゆる場面において,多様な価値観が子供時代に育まれなかったとすると,アンバランスになったり大味になってしまうように思います。

 

その事は,芸術であればもちろんコミュニケーションや,スポーツにも言えることかもしれません。

 

また,日本という国は季節でさえ4つもあり(梅雨も加えれば5)退屈しのぎなのかもしれませんが,封建社会において300年も泰平の世が続いたことで,様々な文化が生まれ多様の価値観が育まれたのだと考えています。

 

そして,その時代の価値観というのは,現代と比べて刺激的な情報が少なかったと思うので,非常に繊細で多様な価値観があったと思います。

 

そして,その名残は現代においても確かにあったはずです。

日本製品がメイドインジャパンとして世界中に名を馳せた理由は,その多様な価値観によって機能を充実させて繊細に創り上げることが,他の国には出来なかったと私は考えております。

 

逆に日本の芸術作品や料理は,外国人にとっては面白味を理解することところからはじめる必要があるように思っていましたが,最近では外国でウケているようですね。

 

ところが,肝心の日本国内のメディア,特にテレビで映されているものにはその価値観というものが,なんだか薄くなっているような気がしています。

 

私が,特に気になったのは歌謡曲なのですが,ここ最近の紅白歌合戦を見ていると昔と比べて非常に大味になったなぁと感じました。

音や演出は迫力があるんですけどね。なんか歌詞がだいぶ大雑把というか・・・

 

また,出演者ごとにキャラクターとしてのバラエティはあるのでしょうけど,曲として訴えている価値観が均一的な感じがしました。特に最近の曲はほとんどラブソングだし・・・

 

まぁそれでも好きな人がおられるでしょうから,あまり言うのもアレですが,あまりに金太郎飴のように同じのが続くと若干退屈してしまいます。

 

この傾向は,かなり多くの人が,自らの感性に従わずに“これは今流行の皆が認めるいいものだ”と提示されたものを,その通りに受け止める傾向にある,という風に考えています。

 

それは,それまでの時間において多様な価値観を積み上げていれば,横軸としてその当時における他のものとの相対的な価値として考えるほかに,縦軸として過去それまでに理解してきたものが価値の支柱となるわけで,おのずと流行というものには慎重になるはずなのです。

 

ですが,それまでの時間における価値を失えば,上記でいう縦軸を失うわけですから,新しい情報の中での相対的な価値観しかなくなるわけです。だから,ひたすら新しいものを追いかけるしかありません。

 

もちろん,それを価値として感じているわけではないでしょう。なぜなら,その価値に対して自ら率先して理解に向かおうとせず,情報に対してひたすら受動的であるからです。

 

そして,ここで思い出されるのが,原発再稼動や特定秘密保護法案のときの大騒ぎです。マスコミが「これは危ない!」とあおれば,情報に対してひたすら受動的に従い,どんな説明をしても理解をしようとせず,ひたすら国家を疑い続けながら「民主主義ガー!」と大騒ぎする不思議な状態を起すわけです。

 

これについて,もし価値観の多様性があったのであれば,立場の違う人のことや海の向こう側にある国へ想像も出来そうなものだと思いますが,如何せんそれまでの価値観を時間軸として置き換えることが出来なければ,情報に対してひたすら受動的であるしかないわけです。

 

私は,あのときとても怖いと思いましたし,今後再び大騒ぎが起こりえると考えています。

 

そして,公共事業予算についても無駄遣いなどと大騒ぎしておるようですが,この人達がこの先起こるであろう首都直下地震の後にどんな大騒ぎをするのか,恐ろしくて仕方ありません。

 

また,小泉構造改革で全く懲りてない新自由主義者については特に価値観が貧困であるように思います。

 

少なくとも私の経験からは,自由に好き勝手に出来る空間において多用な価値観など生まれないように思えるのです。

芸術への非難

2014-01-06

あけましておめでとうございます。

 

今年もよろしくお願いいたします。

 

ということで,やってきましたよ!仕事始め!

 

本当は,休日中もブログも稼動させたかったのですが,自宅用PCのmacにはサイトが対応していないため,更新が出来ません。

休日中は,いそいそと趣味の音楽活動にいそしんでおりました。

 

ほとんど外出しておりません・・・

 

毎年の事ながら初詣は,日を遅らせることになりました。

 

そして,大晦日はモチロン紅白歌合戦とゆく年くる年で締めました。

 

・     ・・が,昨年は人事や受信料やらで何かと話題となったNHKには私も思うところがありました。

 

特に報道に関しては問題点が指摘されていることもしばしばで,(ネットなど私の知る限りです。)確かに私的の通りだと思うことも多々ありました。

 

もっとも,そのことを理由に一切NHKを視聴しないとすると,受信料の事情を除いたとしても,それはあまりにも偏屈にすぎるなぁと思っておりまして,報道のことをあえて気にしないようにしているのであります。

 

そうであっても,昨年の大河ドラマ中で気になる台詞がいくつかありました。

そして,その台詞から製作者側の意図を垣間見たような気になりました。

 

しかし,芸術作品に関しては,(他のコンテンツと区別しにくくはありますが)明らかに考えが違う方が制作された作品についてもそのことだけを理由に食わず嫌いをせずに,また非難をしないようにと考えています。

 

このことは,かつてさだまさし氏の名曲「関白宣言」の歌詞について,女性団体などから「女性差別」,「男尊女卑」と反発を受けるなどの騒動となったことがありましたが,このことをナンセンスだと考えたからです。

 

この曲の歌詞は,夫が妻及び家庭の中で最も権力がある夫婦関係や家族関係を意味するイワユル亭主関白を,結婚前に男性が相手の女性に宣言するというなんとも昔気質の歌詞なのですが,1970年代という団塊世代の方々がちょうど結婚するくらいの年代に曲が発表されたという背景が,歌詞の味を出すひとつのポイントだと思います。

 

その団塊世代の方々の父親というと戦時中という厳しい世を生きてこられた方ですし,その当時は家族の形態は,現在に多い核家族とは違い一家の家長に強い権限を法律によって与えていたため(いわゆる家制度),まぁ亭主というのは威張っておられたのでしょう。

 

しかし,戦後すぐに家制度は廃止されてそれに伴い現在の民法でいう家族法に改正されたのですが,戦後に生まれた方が戦前当時の家族形態を非難するというのも考えればおかしな話ではありますが,そういう時代だったのでしょう。

昭和30年から40年代頃の映画を見ると,台詞などから時代背景を色濃く感じることがあります。

 

そのような亭主の威厳が揺らぎ始めた時代において,結婚前の若い男がいっちょ前に父親にならって不器用な告白をする訳で,その一見して尊大な言葉の奥に男の弱さやら優しさが滲んでおり,それを感じ取った人達からの支持を得てヒットした曲だと思うのです。

 

おそらく,当時の青年たちは曲を聴いて自分の父親に思いを馳せたのではないか,と思います。

 

ですので,歌詞の内容が時代にそぐわないのは,ファンからしてみれば愛らしいところでしょうが,その文言に過敏に反応する方もまぁおられるのでしょう。そこは人それぞれなのですが,女性「差別」という社会的には非難すべき表現を持ちしてバッシングするのはちょっと短絡ですし,デリカシーにかけるように思えたのです。

 

作詞したさださん自身が,現実に女性を差別したわけではないでしょうし,歌詞の内容が男尊女卑を助長すると考えたとしても,それは他の家族に対する干渉ともいえるでしょう。

 

そもそも,戦後の家制度廃止の趣旨が,法律の介入を少なくして自由な家族像を実現することであるならば,個々の家庭内に民主的な意思は入りづらくなるわけで,それは民主的な機関から委任を受けた行政執行に関しても同様でしょう。

その事は,ドメスティックバイオレンスやネグレクトなどを発見しづらくしているようにも思えます。(というか,根本的な原因を生じさせていると考えられるかもしれません)

 

これらは,社会的問題ですので本来であれば,国家が介入し,または未然に防ぐ措置を施した方がよいのかもしれません。

だって,いろんな人がいるのですから,誰にでも家庭といういわば密室を与えることが良いことかどうかは,ニュースを見れば一目瞭然だと思います。

 

しかし,戦前の家制度を両性の平等として廃止することによって,家族の形態が自由となったということですが,それは法律が家庭への介入を制約されているということですので,家庭内で問題が起きているときの対処を難しくしているはずなのです。(かつて保育士だった母による子供のDV救出事件はだいぶ前に書いたことと思います。)

 

 

そして,それらの経緯を踏まえれば,男女合意の上で戦前と同じような関係により家庭を築こうと考えることは,自分たちの両親を手本とするということにもなりますし,もちろん家族形態は自由なわけですから(制度じゃないし),それについて男女差別と非難するのは矛盾している

 

・     ・・とそこまで考えたわけではないのですが,作品を楽しんでいる人がいるわけでよほどで無い限り,芸術作品に差別という言葉で非難するのはいかがかと思ったわけです。

 

もっとも,ここ最近は外国人が芸術と称して政治問題やら手加減なしの差別発言を行っていることも存じておりまして,「これをどう理解すればいいのか」と反論されると私には返す言葉ありません。

 

あくまで,日本国民限定の理解でございます。

ふ・し・ぎ?

2013-12-27

安倍首相が昨日靖国神社へ参拝しましたが,反響がすごいですね。

 

 なお,自由民主党と与党連立を組む公明党の山口那津男党首でさえ安部晋三首相による靖国参拝を批判している模様です。

私は,この度の公明党の立場を支持したいと思っています。

公明党は,今回の安倍首相の靖国参拝に対して,憲法が示す政教分離原則に違反していると訴えるべきです。

 

まぁ冗談はこれくらいにして,なんだか今朝はとてもすっきりとした寝覚めで朝を迎えられました。

それは今日で仕事納めということもあるのでしょうけど,我が国の総理大臣がアメリカを含む諸外国に対して毅然とした態度を示し,国のために犠牲となった戦没者が祀られている靖国神社を参拝したということで,これだけすがすがしい気持ちになれるものなのだなぁ・・・なんだかしみじみとしてしました。

 

なんでも,総理大臣の参拝は小泉氏以来7年ぶりだそうで,戦後から総理大臣が靖国神社を参拝するという行為を,ずいぶんと大げさに「問題」として捉えていたことが伺えます。

 

そういえば,小泉氏が総理大臣として靖国神社に参拝した当日,私は靖国通り近くのラーメン屋のカウンターでラーメンをすすっていました。店主が,「文句があるなら日本から出てけばいいんだ!」とテレビに向かってすごんでいて(客の前でこんなこと言って大丈夫か?)と,心配したことを覚えています。

 

もっとも,♪私も共産党員 あなたも共産党員 み〜んな共産党員♪(チャイコフスキー交響曲第4番第4楽章)といった真っ赤な環境で純粋培養されてすくすくと育った私は,靖国神社という場所にはイワユルA級戦犯(もちろんこの意味も誤解しておりました。)が祀られているというような認識でした。

 

また,小泉政権に対しても非常に悪いイメージがあったので,靖国神社の参拝の是非については若干懐疑的でしたが,一方で,昨日も書いたように中国人と一緒に働いていた経験があったので,彼らの性格や行動原理も嫌になるほどよく理解していました。

 

ですので,(中国人がここまで反対するのなら,靖国参拝という行為はそれほど悪いことではないのでは?)という肯定的な部分もありました。

 

また,今は亡き祖父の戦争話をよく聞いていたことも,どっぷりと戦後教育に漬かり切らなかった原因といえるでしょう。

私の場合は,様々な実体験を通して(今まで覚えてきたことや世間で正しいと言われている事は何かおかしいぞ)という疑問を持ちながら,”何がおかしいのか”というところまでなかなかたどり着けなかった,という経緯があります。

 

もっとも,最近は保守っぽいことをよく言っていますが,「保守」だけに考えをコロッと変える人間が保守を名乗るのはおかしなことでしょう。しかし,自分は根が素直ではあると自負しており,(なにかおかしいぞ)という違和感を持ち続けていた結果,たまたま出会った保守思想の方々の意見が具合よく疑問の答えとして収まったということだと思っています。

 

そして,事実に対して湧き出てくる感情を自然な形で論理立てできるところが,それまで覚えた左翼的な理屈との根本的な違いだと感じました。つまり,それまで私が覚えた左翼的な理屈というのは机上でしか成り立たないものだと実感したわけです。

 

 

例えば,戦後の歴史についても,「戦時中,日本人は中国や韓国に酷いことをしたので,我々は中国や韓国に償わなければならない。」と,実際に教えられていました。その酷いことという事実の信憑性はどうも怪しいものばかりですが,戦争ということですからまぁそういうことも多少はあったかもしれません。

 

ですので,百歩譲るとします。そうしないと,これで終わってしまうので。

 

で,その理屈によれば,我々の先祖が戦時中に起こした行為に対する「償い」というのが,日本人である限り末代までも脈々と受け継がれていく,ということにされています。

 

実際に,現在においても,我々も含めて実際に戦争を体験していない世代が償わなければいけないという理屈になってしまっています。

 

何でそうなるかというと,時代が変われど日本という国が次世代に引き継がれていくので,償いの責任も次世代に引き継がれるという理屈のようです。(これを日本の「相続」制度と同じ様にと考えるとちょっと違ってしまいます。なぜなら,相続は財産に関する規定であり,そうであるが為に相続承認・放棄という制度が設けられています。)

 

そうであるならば,対外国に関するものならず,当時の国内における精神性までも我々に承継されなければならないはずです。

 

それを考えると,果たして戦争で亡くなられた方も含めて勇敢に戦った先人達は,要求どおりみすみす賠償などしただろうか?ということを考えるわけで,おのずとその「償い」の話がおかしいとなるわけですよ。

もちろん,ほかにも色々おかしなところはあるでしょうけど。

 

そして,今現在において自分という存在とその生活における様々な人や物の存在の理由を考えると,日本の歴史を紐解かない訳には行かない訳で,そのうちの戦時中における日本人の心理と行動を否定するという事は,自分の存在の根拠を失うことになるはずです。

 

このことが自然なことかどうかは,考えるまでもなく日常生活において何気なく辺りを見渡せば気付く程度の当たり前な感覚だと思います。

 

もっとも,私はその当たり前の感覚が持てなかったことになります。それは,違和感に対して真摯に向き合わなかったためだと,いまさらながら思っています。

 

なぜ,違和感を持っていたにもかかわらず,それを真剣に考えようとしなかったというと,他人のせいにするのもちょっとアレなのですが,日本の構造そのものがそうなっているようにも思えるわけです。(そうじゃない方にとっては大変失礼な言い回しかもしれません)

 

分かり易い例として,そのおかしさが顕在化しているのがまさにマスコミですよね。

この度の靖国参拝の報道も非難一色ではあるのですが,非難も人によって様々で,そのバリエーションがなかなか面白いです。なかには,芸能人も使っていてそれはもう豪華キャストだったりで,ここ最近では一番楽しく拝見させていただいております。

 

そして,どの発言にも共通しているのが,人の気持ちを慮るという部分において欠如していると感じました。

 

もちろん,中国が本当に傷ついていると言葉通りに受け止めてはいけません。

たしか,あの国には,騙す方より騙される方が悪い的な諺があったと記憶していますが,まぁ模造品大国となっている現状から容易に察することが出来るでしょう。

ちなみに昨日は偶然か,毛沢東生誕120周年の日だったそうですが,凄まじい数の自国民を殺戮した人物を奉っているくらいですから,やっぱりあの国にとって靖国は外交問題でしかないわけでしょう。

 

また,靖国神社に参拝に訪れるのは総理大臣だけではありませんで,当然その方々にとって総理大臣が参拝に来る事は嬉しいことでしょうが,報道しない自由が発動します。

 

そして,やはり戦没者の気持ちを慮れば,総理大臣が参拝することは当然のように思えますが,そこを汲まないのです。安倍総理大臣にとっても同様の気持ちでしょう。

 

それは,何かを一生懸命ごまかして忘れ去ろうという露骨な態度に見えて,実に不自然だと感じるのですが,各マスコミが同じ趣旨のことを一斉に報じると,「そういうものなのか・・・」と,その違和感を捨ててしまうということはあると思います。

 

なぜ,マスコミは公共性を捨てて勝手な報道が出来てしまうのかという疑問を辿ると,やはり憲法の問題にたどり着くのです。

 

ましてや,日本国憲法の存在自体が,大日本帝国憲法からの改正の過程において主権者が変わってしまっているという改正の限界の問題を補いきれておらず,後付で(8月革命説呼ばれる)革命が起きて天皇から国民に主権がひっくり返ったことになっています。

革命って・・・

 

つまり,憲法自体が過去の歴史の流れを遮断して覆い隠してしまっているわけです。

 

そして,大日本帝国憲法と教育勅語を一貫して否定することにより,日本人は戦争に到った経緯と,敗戦して占領された後がまるで別人のように扱われ,未だにそれが続いているように思えるのです。

 

ましてや,本当に平和を願うのであれば,戦争に到るまでの経緯は真面目に解析しなければならないはずですが,総動員で過去を忘れようとしているおかげで,我々が平和を享受して安心して暮らす事はできていません。

実際に,歯向かっていないだけで領土も国柄も経済もむちゃくちゃ蹂躙されています。

 

このままでは,そのうち日本でもハリーポッターの20作目や,変形のドラえもんや,アップルに先立ってiPhone7が巷にあふれ出すことでしょう。

 

そもそも,なぜ左翼の人達は反米姿勢をとるくせに,アメリカの占領下において押し付けられた憲法を後生大事に守ろうとしているのでしょうか。

 

色々と不思議に思うことが沢山ありますが,感じる心とその理由を突き詰める思考というものは大事にしなければならないと今更ながらに思うわけです。本来であれば初等教育課程で養うことなのでしょうけど。

 

そういえば,ほかに靖国参拝に反対している国ってありましたっけ?

 

まぁそういうわけで,今年はこれで仕事納めとなります。

 

来年は,6日から営業となります。

 

今年は大変お世話になりました。

 

来年からも引き続きよろしくお願いいたします。

 

では,良いお年を。

おみそれしました。

2013-12-26

安倍晋三首相が今日の午前,靖国神社を参拝したそうです。

 

私は,行かないと思っていたのでちょっと予想外でした。

 

そういえば年内には必ず参拝すると仰っていた様な記憶がありますが,すっかり忘れてました。

 

というのも,就任当初は,靖国神社参拝について他国に文句言われる筋合いなどない,という風に息巻いていたのに,今年の8月15日の参拝を見送りました。

私は,その理由を,対中関係を意識するアメリカからの牽制があったから,と考えていたからです。

 

事実,米政府は安倍晋三首相が靖国神社を参拝したことに対し,「日本の指導者が近隣諸国との緊張を悪化させるような行動をとったことに失望している」とのコメントが米大使館を通じて発表されているようです。

 

なお,11月に衛藤首相補佐官が協議のためにアメリカを訪問した際には,アメリカから「参拝すれば日米関係を害するだろう」などと強く反対されていた,とのニュースもあります。

 

そうすると,この度の安倍首相の靖国参拝は,アメリカの反対を押し切った強い決意の表れともいえましょう。ましてやTPP交渉中であり,また尖閣周辺が非常に緊張している状況であり,アメリカに頼らざるを得ないと考える人も多い中で,思い切った決断をされたと思います。

 

もちろん,自民党支持者の大半を占める保守派と呼ばれる人達へのアピールが狙いということもあるでしょう。

が,しかし,保守派と呼ばれる人達のなかでは,アメリカに追従してこそ日本の国益が守られる,と考える人が多く,その人達が今回の首相の参拝について,もろ手を挙げて支持するとも考えにくいのです。

 

また,ここ最近のニュースでは,安倍政権が大きく支持率を下げたと報道されており

それに対応したとも考えられます。

しかし,ニュースによると,支持率を下げた原因を特定秘密保護法案の可決成立としており,そうであればアメリカ追従の保守派の人達が,特定秘密保護法案を理由に支持を取りやめる事はありえないはずです。

 

なぜなら,特定秘密保護法案は,アメリカの国家安全保障会議(NSC)と同様の制度を日本に設置するのに伴って必要とされる法であり,日本国内において機密情報を手厚く保護することにより他国からの機密情報を得やすくすることがひとつの趣旨だと考えれば,当然,アメリカとの情報の連携を強めることを想定しており,それのことを理解していれば特定秘密保護法案に反対するはずがないわけです。

 

 

そうであれば,左翼方面とアメリカ追従方面の双方から責められることにもなり得ます。にもかかわらず靖国参拝に踏み切った思惑は,それほど支持率を意識したものではなく,年内に必ず参拝するという以前した発言を守ったのだと思われます。

 

ということは,明確にしかも事前にアメリカは否定しているという事実から,アメリカに対して事前に相談したということでしょうけど,それにしても靖国参拝とご自身の発言とを,アメリカからの意見よりも重くとらえたということでしょうから,これは評価すべきだと思います。

 

しかし,先日,中国が東シナ海に防空識別圏を設定して周辺国を牽制したことがありました。なぜ今になって,というについては,覇権国アメリカの権威の低下を見計らったとも言われています。

 

というのも,アメリカでは,深刻な財政赤字問題等により国防予算の削減を目指しており,それは世界の警察という立場から降りようとしているようにも見えます。

そのため,安倍首相の就任直後には,中国の顔色を窺って靖国参拝に対して牽制をしたのでしょう。

なぜなら,アメリカは,日本と中国との間で何かあった場合は,日米安全保障条約により一応対処しなければならないという縛りがあるため,日本が中国と諍いを起すことを嫌ったと考えられます。

 

逆に言えば,それだけ中国の軍事プレゼンスがアメリカにとって警戒すべきものであり,また,それに対してアメリカが若干及び腰であることも窺えます。

 

そのことは,領土拡大を目指す中国にとっては,隙を窺うのに十分な事情といえるはずです。

 

そして,中国が隙と見るのに決定的だったのが,アメリカのシリアにおける軍事介入の断念だったと言われています。一度は軍事介入を発言しがら,実際にはしなかったことで中東におけるアメリカの地位が大きく下がったため,アメリカは中東から手が離せなくなると踏んだのでしょう。アフガニスタンやイラクにおける失敗とも重なってるでしょうから。

 

そうすると,これからも中国はこの手の圧力はかけてくるでしょうし,おそらくこの機会をかなり重要だと考えているのではないかと思います。

ましてや,アメリカは10年間で約5000億ドル国防支出を削減すると発表していますので,そう遠くない将来中国は必ず何か仕掛けてくるでしょう。それはもちろんアメリカに対してではなく日本に対してです。

 

それどころか,既にアメリカと中国との間のみで,東アジアの覇権について話し合いがされているのではないかとさえ言われているようです。

 

先日,アメリカのバイデン副大統領が習近平国家主席と会談し,中国が一方的に設定した防空識別圏をアメリカは認めない,との立場を直接伝えたのに対して,習主席は,中国側の立場を繰り返すにとどまった,というニュースが伝えられました。

 

このことは,逆に何も話し合いがされていない状態だとしたら,たとえ国力が低下しているとはいえ,大国アメリカに対してあまりに挑発的な行為とも考えられる訳です。

私は,あの国の人達と仕事した事がありますが,私の知っている彼らの行動に当てはめてみると実に解りやすい主張の方法だと感じました。

 

そして,この度の安倍首相の靖国参拝に対して,異議を唱えたアメリカの姿勢というのもこれまた分かり易く,要は本気で日本を守る気など更々ないわけです。

本気で守るつもりであれば異議を唱えないでしょう。だって,これまで安倍首相は就任して以来,靖国に訪問していなかったにもかかわらず,中国から度重なる領海侵犯が為されており,既に緊張状態にあるわけですから。

 

アメリカの弱体化を見計らって中国が尖閣を含む東アジアの覇権を取りに来ているのであれば,アメリカ頼りではいけないということになります。

 

そう思ったのかどうかは分かりませんが,この度の安倍首相の靖国参拝は,それまで対米外交からの大きな変化と見てとれるように思います。もちろん,いい意味です。

 

その意気を経済外交にもそのまま向けて欲しいと思うのが,言わずと知れたTPP交渉です。

ISD条項など積極的に賛成して,アメリカの対他国へ主張の後押しをすることによりアメリカの譲歩を狙うという愚にもつかない作戦が暗礁に乗り上げたようで,年内妥結は断念したようですが,私は妥協しないアメリカの姿勢を喜ばしく思っています。

 

なぜなら,TPP交渉脱退を望んでいるからです。

 

もし,脱退したら日米関係がかなり冷え込むでしょうけど,“とりあえず交渉参加してみてダメだったら抜ければよい”と訴えていた人達は,当然その事態を想定していなければならなかったはずです。

 

ですので,それはしょうがないことなのでしょう。交渉参加に反対していた人にしてみればかなり迷惑なはなしですけど。

 

いずれにせよ,安倍首相には,これを機会に対米外交に強い姿勢で臨んでいただけることを期待します。

 

そういえば,ほかに参拝に反対してる国ってありましたっけ?

10年計画

2013-12-25

東京電力と原子力損害賠償支援機構は,柏崎刈羽原子力発電所の運転再開による収益改善などを盛り込んだ今後10年間の事業計画を固めたそうです。

 

計画では,新潟県の柏崎刈羽原発の6号機と7号機については来年7月に,1号機と5号機は再来年春にそれぞれ運転を再開すると想定しているそうです。

なお,国の新たな規制基準に合わせた準備を進める2号機から4号機については,平成28年度までの再開や今後10年間運転再開できないケースも想定しているそうです。

 

そのほかの内容としては,島第一原子力発電所事故の賠償や除染費用が膨らむ見通しとなったため国の支援や廃炉・汚染水の対策,福島復興本社に関することなどが盛り込まれているようです。

 

そして,ちょっと気になったのは,平成28年をメドに持ち株会社に移行して「燃料・火力」と「送配電」,それに「小売り」部門を子会社として独立させるということが盛り込まれているようです。

その名目は,経営の効率性を高めるということのようですが,政府が進めようとしている電力改革に先行する形で盛り込まれたのは明らかです。

 

東電を分社化する時点では,親会社と子会社という人事権の掌握や資本関係があることから発送配電部門完全な独立というわけではありませんが,発電会社の新規参入を促すでしょうから,おのずと複数の発電会社の競争となることでしょう。

 

こうなると,どっかの方面から原発反対の声が今後更に大きくなるように思えます。

なぜなら,さすがに原発にまで新規参入という訳には行かないでしょうから引き続き東電が独占して原子力による発電を担い,大きなシェアとなるでしょう。

 

そうすると,新規参入してきた火力発電などの会社にとっては,原発がなくなればシェアを広げられるわけです。

 

で,実際に原発がなくなれば,固定買取という高コストの癖にまるで発電の用を為さない再生可能エネルギーなど,競争相手とならないでしょうから発電会社同士の価格競争の末に寡占市場となることが考えられます。

それがどういうことになるかというと,価格を吊り上げるために発電を停めるなどというカリフォルニアで起こった暴挙と同じことが起こりえるわけです。

 

利用者にとっては,はじめのうちは電気料金が安くなるかもしれませんが,地獄への第一歩となるでしょう。実際に,カリフォルニアで起こった事件ですので,対策が必要なのは間違いありませんが,そうであれば発送配電分離しなくても良いじゃないか,という話です。

 

実際にこれまでの日本の電力会社は,発電・送電・配電を一社で担い世界でも随一の停電率の低さで運用してきた実績があるのです。ましてや,外国企業が日本において国民のライフラインを担うという強い意識を果たして持てるのか,甚だ疑問でなりません。

というか,他所の国に金目当てで来るような電力企業は,自国でさえその意識が薄い連中でしょう。

 

そう考えると,いまさらながら,それまでの電力を担ってきた東京電力の功績は再考すべきだと思うのです。

 

なお,計画においては,コスト削減についても,首都圏の10の支店の廃止や,1000人規模の希望退職者の募集を盛り込んでいるとこことです。もちろん,損害賠償への対応の為でしょう。

 

そういえば,先週の金曜日に経済評論家三橋貴明先生の講演会に行ったときに,同じく参加されていた某(?)電力会社の社員の方とお話しする機会がありました。

 

なんでも,少し離れた間に車をボコボコニされた等,ヨハネスブルグさながらの強烈なエピソードを教えいただきました。また,社員のみならずその家族も危険に晒されていたと聞きます。もちろん減給+ボーナスゼロとの事でした。

 

震災直後の計画停電も,それまで築いてきた信用を損なうことを承知した苦渋の選択だったそうです。

 

私も,かつていささか良からぬ気持ちを持っていたこともありますが,さすがにそれを反省させられるほどでした。

 

このことをマスコミは報道していないようですね。

 

それにしても,こういった暴力を行使する人は,おそらく自分を正義に見立てているのだと思います。

この人に対して,先ほど書いたそれまでの東電の実績やら,東電を縮小することにより我々に及ぶであろう災いを説明したところで,反論どころか理解すらできないと思います。

 

なぜなら,自らの行為を正義感によるものと確信しているからです。

すこしでも,疑う気持ちがあるのであれば,これほどエスカレートな行動に出る事はないでしょう。

 

当時は,マスコミがいっせいに東電バッシングを行った(ある程度は仕方なかったのかもしれませんが)ことが,いわゆる大衆を焚きつけたということもありましたが,このようなエスカレートした行動の背景には,“みんなの敵”と見立てた相手に対して正義の鉄槌(と勝手に思っている)を下す,という名目により,日ごろの鬱憤を晴らしているように見えて仕方ありません。

 

ところで,(私どもも含めた)法律専門職においては,“社会正義”という風に好んで正義という言葉を使いますが,私は依頼を受けて遂行している業務に社会正義というものを見出したことがありません。

 

これは,ぶっちゃけになりますが,有償で行っていることに正義があるとは考えづらいのです。もちろん,お金を貰って依頼者さんの望むように業務を遂行する事は,我々にとっても依頼者さんにも正当性があります。ですが,そのことが他の誰かへの圧迫ともなる訳ですが,少なくとも私はそれを調整できるような万能な立場であると思っておりません。

 

つまり,有償であればおのずと報酬を支払う側の味方となるわけで,それには業務として行っているうえでは正当性があるのですが,それによって行使する様々な言動を正義と呼ぶのは,ちょっとおかしいんじゃないの?ということを言いたいわけです。

 

そうであるならば,例え無償であっても配慮を欠いた言動というのは正義からは遠のく訳です。そうなると,(潜在的にさえ)関係するあらゆる立場に配慮を置いて初めて社会正義と呼べるのではないかと考えています。

 

そうすると,おいそれと使える言葉ではなくなってしまいますが,それでいいと思っています。我々は下手に正義を称するべきではないんじゃないかと思うのです。

 

そして,十分な制裁を受けたであろうにも関わらず未だに東電社員に対する嫌がらせが続いているとのことでしたので,もし,未だに東京電力に対して許せない気持ちがあるのであれば,果たしてそれが社会正義に基づいているのかどうか,その理由を自らに問うてみてはいかがでしょうか。

成長

2013-12-24

あるひとつのことに没頭した結果,その成果が思ったより良くも悪くも “もっと追求したい”という衝動に駆られることってありませんかね?

 

たとえば,創作物とか,仕事とか,学問とか,ゲームや趣味などでも当てはまると思います。

もうちょっと細かいところで言いますと,私の場合,車でいつもの通る道にある曲がり角をいかに自分の描いたラインの通りに曲がれるか,という挑戦(?)を毎日のように繰り返しておりまして,これが日々違う結果になるのであります。

 

私は,サーキットを走るドライバーではありませんので,これをやって何か得る物があるのかといわれると何も思い当りませんし,また,普段からスピードもそれほど出しませんので,日々の結果がそれほど変わるわけでもありません。

 

これは私だけに限らず,繰り返される平凡な日常のルーティンワークの中で,小さくても挑戦して得られる刺激や失敗による落胆や,また成功による喜びやら,何かしらの方法で感情の起伏を起しながら,日常生活に意義を見出しているのだと思います。

 

もっとも,職業という,ある意味でその人自身を構成するとも言える営みでさえ,そういった要素はあるでしょう。今年の3月に行った館山の寿司屋の大将が「この仕事は小さなことに楽しさを見出すことが大事」とおっしゃっていたことを思い出します。本ブログでも書きましたね。

 

そのような小さな事への感心とこだわりを持って追求するという事は,成長を促すことにもなりうるでしょう。

 

ですので,たとえ見返りがなくとも成長を求める欲求というのは,人間の欲求として純粋で自然なものなのだと思います。そして,その欲求はあらゆる分野において発揮できると思います。例えば職業であれば,自らの職業的立場を全うすることにより得られる喜びもあるでしょうから,たとえ報酬を目的として職業に就いていたとしても,労働における喜びと報酬を得る喜びは分けて考えることが出来ます。

 

ですので,報酬が少なくとも仕事のやりがいに価値を感じる人もいれば,その逆も然りだと思います。

労働に価値を見出さずに報酬に価値を見出すのであれば,本業の労働量・労働時間をいかに少なくして多くの報酬,または賃金を得ることを考えるでしょうけど,そういう人達でさえ厳密にはお金自体が目的ではないかもしれません。

 

たとえば,労働量・労働時間を少なくしつつ多額の収入を得るためのスキームを追求することだったり,多くの人や規制の中での立ち回り方の追求だったり,人の支配の方法だったりする可能性もあると考えられます。

 

これらで成果が得られると,お金と名声が集まってくるでしょうから,正当性が得られたと少なくとも本人は思うことでしょう。当然のことながら,労働そのものに価値を持つ人達と比べて(少なくとも一時的には)お金を得易いはずです。

 

なぜなら,労働とは,物やサービスを誰かに提供することが目的ですから,もちろん対価が伴いますが,あくまでそれは二次的なことでしょう。

そのことは,給与所得の方であっても,同じ労働を自営業者となったとして例えれば,所属する会社に労働力の他,拘束時間や裁量権を提供したと考えれば同じことが言えそうです。(もっとも,法律による会社への拘束がありますが)

 

ですので,本来二次的であるものを最優先の目的とすれば,労働を主と考える人よりも要領よくお金が得られるでしょうし,労働を主としていてもお金は得る必要があることからお金を要領よく得る方法に全く興味がないという方は少ないと思われます。

 

そういう事情も合って,上手くお金をもうけた人には注目が集まり名声へと繋がるのだと思います。もちろん,それが一概に悪いというわけではないと思っています。ただし,それによって人々に良質な何かを提供できていたら,ということだと思います。

 

というのも,人々に良質なことを提供していない人が,仕事等のノウハウを提供する事は,中小企業の存在価値や労働者の労働環境,また人々の消費生活までも歪める可能性があると考えるからです。

 

前述のように,お金を儲けることのみに主眼を置くという事は,本業よりもお金儲けのスキーム作り等にウェイトを傾けるでしょうから,当然ながら提供する物やサービスにそれほど意義を見出さないことでしょう。

 

また,どんな方法であってもお金さえ儲けていれば,(AHO)マスコミがもてはやすでしょうから,その方法が正当なものと世間に誤解されれば,社会に大きな影響を及ぼすはずです。

 

その事は,真面目に取り組んでいる中小企業の経営を圧迫し,労働者の労働環境に過酷さと虚無感を蔓延させ,消費者に劣悪な商品を提供することになるでしょう。

 

よく,急成長企業などともてはやされている企業がありますが,私はそういった企業に対してあまり良い印象を持っていません。(というか,私の実務において,それらが問題を起している事実を散見します)

 

成長という言葉は,企業について人間を含む生物に見立てた表現なのでしょう。

従業員全員がむくむくと巨大化する事は無いと思いますので,企業が売り上げを大きくしながら規模を拡大している状態を表しているのだと思います。

 

ですが, 日本という同じ条件のもと同業から抜きん出て,しかも業界に老舗が存在するのであればそれを抜いて大きくなるということは,その原因が素晴らしい商品を提供しているということであればいいのですが,そうでないのであれば何か特別な理由があるのではないか,と考えるのは自然なことだと思います。

 

冒頭で申し上げたとおり,成長することが自然の欲求であるならば,それをしないという事は何か理由があることになります。面倒という理由も,欲求がなければそもそも思わないことでしょうから欲求があることが前提となります。ただ,面倒だと思う理由の方が比較すると重要というだけのことでしょう。

 

そうすると,企業として大きくしたいが,その結果今まで提供してきたサービスの質が落ちるのは許せないというジレンマもその理由となると思います。

これは,今まで築いてきたことをこれからも積み上げて提供していきたいという欲求と,それまでの業績を更に上向きにしていくという,いずれも成長するという欲求が違う形で同時にあることになります。

 

そして,その二つの欲求を両立してジレンマを解決することを企業の成長と呼んだほうが,人間などになぞらえた表現らしく感じます。

 

健全な形で成長を欲するという事は,他の欲求に抗う事にもなるでしょうし,その事は正しい生き様や使命感として他の人に与える影響もいいものだと思います。

 

それは,一見すると毎日同じ事を繰り返しているようにしか見えないこともあるかもしれません。

首都直下地震

2013-12-20

昨日,首都直下地震の被害対策について,30年以内に70%の確率で起きるとされるマグニチュード(M)7級の地震により,最悪の場合だと死者が2万3千人,経済被害が約95兆円に上るとの想定を発表されましたね。

 

30年内とすると,私はまだ生きている可能性が高いので,おそらく何かしら被害を受けることでしょう。もしかしたら,この地震によって命を落とす事だってあるでしょう。

 

私は千葉県においてですが,現実に東日本大震災の被害を目の当たりにしていますので,その発表は現実問題として受け止めることが出来ます。千葉市では,海岸沿いにある工場のタンクが爆発してその爆発音が20km先まで轟いていました。

 

とにかく,死傷者を少しでも減らすには公共インフラの強靭化などが必要であるはずですが,この期に及んで未だ公共事業費は税金の無駄遣いと考えておられる人はいるのでしょうか。

 

税金で日本国民の生命を救うのが無駄遣いならば,一体何に使えばいいのでしょうかね。

 

こういう発想は,個人主義的な考えから生み出されてると思うのですが,(私には分かりませんけど)そうであれば,行き過ぎた個人主義というのも少し見直さなければならないような気がします。

 

まぁそういうことでよい連休を

優しい気持ち

2013-12-19

大抵の人はどこかしらで持っているはずです。

 

マフィアのボスが家族だけは優しいとか(会ったことないけど)

 

その逆で,身内には厳しいけど,総体的に見ると全ての人に対して分け隔てない態度を示すことも優しさといえましょう。

 

それでは,海外の恵まれない方々への募金は惜しまないけど,街の公園に住み着いているホームレスの人には非常に厳しい態度をとる人は優しい人でしょうか。

 

また,その理由は,その人の孫が遊ぶ公園であることから,孫の身を案じてのことだったとしたらいかがでしょう。

 

ところが,孫がそのホームレスの人と遊ぶのが楽しみで公園に通っているとしますと,祖母の心配を尻目に公園に居ついて孫と遊ぶホームレスの人は優しい人でしょうか。

 

そして,これらを優しさとした場合の優しさ同士の対峙についてどのように判断すべきでしょうかね。

 

例えば,ひとつの見方として,優しさというものを心に秘すのか,それとも示すものかによって解釈が変わってくると思います。

 

なぜなら人は,示された事実のみしか認識できません。その認識を基に自らの知識や経験によって感情移入を働かせて内心を推測するでしょう。そうすると,人によって判断が変わってきてしまいます。

 

そうなると,例えば刑事事件における情状酌量の判断を一般の方々がすると様々な意見が出てくると思います。

 

上の例で言えば,祖母も孫もホームレスも優しい人に思えるわけです。

 

ですが,ホームレスがあくる日公園からいなくなってしまいました。

祖母は喜んで公園に塩を撒き,孫はとても寂しそうです。

 

 

こうなると,ホームレスがどうしていなくなってしまったのかが誰にも分かりません。

ですが,何事もなく公園に訪れる人々の日常は続いていくことでしょう。

 

もしかしたら,自分が人々にとって迷惑な存在であると考えたのか,それとも(BBAとGAKIがUZE〜!)と考えたのか,いずれにせよ居なくなったという事実だけしか分かりません。もっとも,本人にとっても内心というのは常にはっきりとしたものではないとさえ思います。

また,もしかしたら自分の意思に基づかない理由なのかもしれません。

 

まぁでも,誰かが創作したストーリーでもない限り,登場人物が語らない内心など分かるはずもないわけで,その他それを物語る別の事実でもない限り,誰にも知らされることはないわけです。

 

つまり,優しさを心に秘している人の優しさは,とても分かり辛いものでしょう。

 

そう考えると,大抵の人が持つ優しさというのは何かしらの形で示されたものだと思います。

 

ですが,それが他人との衝突の原因となる事があるわけです。

 

そして,その衝突を回避することが,他人からは優しさを捨てたと映ることもありましょう。

 

いずれにしても,どんな人でも優しく見える部分はあるのではないかと考えます。凶悪な事件を起した犯罪者でさえそうだと思います。

個人民事再生手続の立法に至る経緯について

2013-12-18

平成2年頃,地価の高騰の影響により一般庶民の所得ではマイホームに手が届かないとの声を受けて,日本銀行による金融引き締めと,政府の地価上昇に対する抑制政策により地価の下落が起こりました。

 

バブル崩壊後の地価下落によって,優れた立地,設備,機能を備えた最新マンションが一般庶民にも購入できるほど廉価となったため平成7年ごろまで住宅需要は伸び続けました。

 

しかし,平成8年からの橋本龍太郎政権においての緊縮財政,消費税増税,及びアジア通貨危機が重なった影響により,国民所得は減少して住宅ローンを抱える世帯は月々の生活費に困窮しました。

 

一方で,バブル崩壊によって経済的に苦しい世帯が増加したことにより消費者金融が台頭してきました。そして,平成5年の自動契約機の導入や平成7年のそれまで深夜帯に限られていたテレビコマーシャルの解禁などにより,それまでのイメージを浄化しながら徐々に一般的に周知されるようになりました。

 

そのため,住宅ローンの支払によって足りなくなった生活費を消費者金融から賄う世帯が増加し,平成10年では約10万件であった個人破産は平成13年には約16万件と,増加の一途を辿っていました。

 

尚,個人民事再生手続が施行される以前の平成13年3月までは,自己破産の申立,特定調停,任意整理によるしか個人が多重債務を解決するメニューはありませんでした。

 

その事は,定期的収入があり債務の一部弁済を行うことで生活再建が可能な者から,健康で文化的な最低限度の生活を営むために必要な条件の一つである住居を奪う結果を生み出していました。

 

このような背景の下,平成12年4月から施行された民事再生法の制定を受けて平成13年4月1日から個人再生手続きが施行されました。なお,立法段階では申立時において既に住宅ローンに滞納があるケースを想定していたものの,実務では約定どおりに住宅ローンを支払っていたケースが多くあったため,平成15年より民事再生法197条3項が新たに設けられた経緯があります。

 

 住宅資金貸付債権に関する特則は,民事再生手続きにおいて,再生債権者が抱える住宅ローン債権のうち,法が定める一定要件を満たすものを「住宅資金貸付債権」とし,再生債務者が再生計画において「住宅資金貸付債権」について「住宅資金特別条項」を定めた場合には,再生債務者が住宅ローンの返済を続けことを可能とする制度です。

 

これにより,住宅ローン以外の債務を整理しながら住宅ローンの返済を続けることにより,再生債務者の生活の基盤である住宅を確保することが可能となります。

 

 もし,破産手続きによるのであれば,住宅ローン債権者は住宅に設定された抵当権を別除権として行使できることから債務者はそれまでローンを払い続けてきた住宅を失うことになってしまいます。

ですが,それは債務者の再生や生活の建て直しを図るという観点からは決して望ましくはないことから,法は住宅資金貸付債権に関する特則を設けたと考えられます。

鞭と縄と木馬

2013-12-17

日本国憲法の護憲派の方々が,改憲論に対してよくする反論というのが,“憲法は公権力を『縛る』ものである”ということです。

とすると,どうも憲法を守るには“むち”も必要であるようです。(爆)

また,木馬で逝ってしまったトロイアという国家は,どMということなのでしょう。(大縛)

 

 

まぁこれは,いわゆる「べき論」なのでしょう。

「縛る」ということの意味が分かりにくいのですが,国家権力が暴走することをけん制するということを念頭においておられるようなので,憲法が国家権力を制約するという意味としておきましょう。

 

しかし,そうであるならばこの事はどうも憲法に関する万国共通の認識ということではないようです。たとえば,イギリスには成文憲法がありません。暴走するような権力であれば不成文憲法の国なら暴れ放題でしょうけど,一応民主的な政治運営を行っているようです。

 

とすると,イギリスと比べて日本の統治を定める憲法がまずいのか?という疑問がまず浮かびますが,護憲という立場からはそういった意見はではないでしょう。また,下位法についてもそれほど問題とされてないようですし,選挙区割りが大きく結果を変えることもないでしょうから。

 

そうすると,国家権力を握ったとたん暴走するような人を選んでいる主権者が悪いのかということも考えられます。

まぁそれもあるんでしょうけど,民主主義というのは計らずとも国家運営の責任を国民が負うことになるでしょうから,他の統治の方法と比べて優れているというよりも悪政によって国民にまわってくるツケに関する責任の所在が理解し易いということだと思います。

 

それは,選挙権と被選挙権が差別なく国民に与えられていることからして,国家権力に携わる人も(一定程度の制約を受けるものの)国民であるのです。

 

もっとも様々な国の歴史の中では,権力を手に入れた為政者が圧政を敷いたという事実は確かにあるわけで,それを踏まえると国家権力に一定程度の制約を与える事は妥当でありましょう。

そうすると,国家権力に制約を与えるという事は,国民主権である以上,主権者に対する制約であると同時に,たとえ民主的に選んだ者でも“権力を持つ者が暴走する事はありえる”という前提があるはずです。

 

しかし,国家権力に制約を与えると,程度の問題もありますが国家の権力は弱まる訳で,その分権力(主権が与えられていますので我々には権力があります。)は国家権力に携わらない国民側に偏ることになります。

 

そして,“権力を持つものが暴走することがありえる”という前提に立ち返れば,国民に権力が傾けばそれだけ暴走する可能性が高まるということと思います。

しかも,選挙で選ばれていないその他大勢の暴走であるため尚たちが悪いことでしょう。

 

思い出せば,「コンクリートから人へ」等“何でも言うこと聴きまっせ!”的キャッチフレーズを振りまいて民主党が政権をとったことがありました。そのことを民主的革命が起こったと表現されたこともあったようですが,確かに民主的革命だったと今にして思います。

 

このことは,小泉構造改革の総括をしなかった自民党に大いに責任があるでしょう(今からでも即刻すべき!)が,それでも権力を国家から国民に移譲しようとした結果がこれです。

 

ここまでの話を考えると,どうも,国家権力という恐ろしい怪物が国民を丸呑みしてしまうことのないように縛り付けておく,というような憲法の在り方に関する解釈には疑問を持たずにいられません。

 

憲法が,国家運営をする側の国民だけを縛り付けて,その他の国民には国家から制約を受けた場合に自由を主張する権利を与えるというのは,あまりにアンバランスです。

 

それにしても,なぜ憲法改正を否定する人達はこんな片面的な見方をするのでしょうか。

 

思うに,人間の本質の捉え方にひとつの理由があるように思います。

 

前述の通り,国家権力に立つ側は暴走するけど,それ以外の人は暴走しないという理屈の裏側には主観と客観の分離があるように思えます。

 

つまり,権力者が暴走して自分はしないという理屈は,当然に権力に立たない側から主張されているのでしょうけど,フランス革命のように被支配者が大暴れすることがあるという事実は客観的に明らかであり,そのことについて「私だけは違う」というのは主観を客観的事実から分離させなければ成り立たないでしょう。

 

なお,憲法を擁護する立場の人は,法律に携わる職業の方が多くおられるようですが,法学の分野では主観と客観について二元的な考えを基にしています。

 

たとえば,主観とは事件の当事者が通常行為にあたってどのような認識や判断を持っていたのかという意味であるのに対して,客観とは,当事者ではなく第三者が冷静に見たならばどのように見えたのかという意味で使われています。

 

というのも,日本の法律は特に行為者の意思に重点を置いているのですが,(刑法39条や成年後見制度などでも分かると思います。)内心というものが実に(行為者本人にとってさえ)分かりにくいものであるために,提示された証拠についてその当時における第三者の目から推測するという考え方は,確かに必要であると思われます。

 

ですが,これは実務においては裁判官が行為者の内心を推定するための技術論であって,真実として主観と客観が二元的であることを認めているわけではないはずです。

 

なぜなら,主観と客観が二元的であるならば,証拠という客観性から意思という主観性を推測することが出来なくなってしまいます。

 

ですので,机上の技術論としてならともかく,真実としては主観と客観について二元的に考える事には無理があるように思えるのですが,無理を承知で考えると“自分は絶対に暴走しない”という考えになります。

そして,そういう人達が沢山現れるとどうなるでしょうか。周りのみんなが同じ行動を取っていることで暴走している自分に気がつかなくなるのではないでしょうか。

 

ましてや,主観と客観が別となっている人ですから,暴走していた事実を主観的には無かった事に出来るのでしょう。

 

なお,この主客二元の考えは日本国憲法においても,表現の自由と内心の自由を別に保障していることにより観念されているように思えます。とても根の深い問題でだと思います。

 

ですが,“憲法は公権力を『縛る』ものである”ということを前提として改憲議論をする事はあまりにアンバランスであり,人間の本質をも見誤っているように思えます。

 

また,『縛る』という拘束的な表現ではなく,『規範』という表現の方が,国民の中の代表者が国政を担う民主主義の理念に合うように感じます。

 

そして,改憲議論の焦点は誰を縛り付けるかということではなく,何を機軸として何を守るための『規範』とするか,ということではないでしょうか。

andante

2013-12-16

久しぶりに東京へ出て思った事はとても歩きにくいということです。

 

というのも,私は比較的歩くのが早いようで,街を歩くときは人の間をすり抜けながら進んでいくのですが,東京では人と人との感覚が狭くすり抜けにくいと感じます。

 

それは当然,人が多いことと歩くスペースが狭いことが理由なのでしょう。

 

千葉でも人通りの多いところはありますが,大抵はその横を抜けるくらいのスペースはあるので,すこし横にそれてあるけばそれほど歩くペースを変える必要はありません。

 

そう考えると,他県と比べて建物や自動車が通行する道路が多いことも人が通るスペースを狭めている原因なのかもしれません。

 

もっとも,人が多く歩く場所には自然と建物も多く建つしょうから,人が多く集まるところは相乗的に窮屈になるのは仕方ないことかもしれません。その逆も然りで,人がいない場所は建物も老朽化していき,当然人も少なくなるでしょう。

 

まぁそういう問題はありつつも,歩く早さを人に合わせるというのは意外と難しいと感じます。自分のペースと比べて早く歩くのであれば体力や息切れの問題もありますし,逆にゆっくり歩くにしても,ふと立ち止まり歩くペースを大衆に合わせる事について一度自分にしっかりと言い聞かせてから,ひとつため息をして・・・というようなことを自分の頭の中だけで瞬時に行っている気がします。やっぱり若干のストレスがあるんでしょうかね。

 

もっとも,私も一人ばかりではいませんので何方かと一緒に歩くときは,そりゃ合わせます。

 

もっとも,これは無言のコミュニケーションといいますか,意思の疎通のようなものは感じます。それは,歩くペースを早めるにも緩めるにも同行者の体格や意思などを考慮しつつペースを合わせるということなので,分かる限りの同行者についてのことを意識しながら自己主張をするということだと思うのです。

 

これを,言葉によるコミュニケーションに置き換えると,別に言語の意味内容に関する解釈等の問題はあるにしても,姿勢としては同じことが言えると思います。

それはいい意味でも悪い意味でもでしょう。

 

ですので,私にとっては歩くペース(比較的早い)という個性があるのですが,その個性の変更を強いられるときにはストレスを感じているということです。

しかし,個性を変更する理由が他人の個性に合わせるという事だった場合は,他人の個性ということに納得できて,かつ意思疎通が出来るのであればストレスはあまり感じないということです。

 

そう考えると,ストレスを感じないために大事なのは,各々の個性自体を発揮することではなくて,ある人の個性を知りその人の主張を理解して自分の個性を主張するという,意思疎通の意識をそれぞれが持つことなのでしょう。

そして,認識しえる他人の個性は,自分の個性の相対的ともいえるでしょう。だから自分自身を知っていることも必要ということになります。

 

このことについては,以心伝心という言葉もありますが,それは意思疎通しようとする意識が不要というわけではなく,その意識を持つことで言語を介さずに意思疎通が出来るということでしょう。

 

それは,前述の歩くスピードの通り,相手の状況などを把握したりしなければ出来ないことでしょう。漫画でもない限り,心の声が聞こえるという事はありえないでしょうから。(少なくとも私は経験ありません。)

 

そういうことを意識して,情報を一方的に伝えてくるテレビや新聞などを眺めると,ニュースの内容とは別の事情が浮かび上がってくるように思えます。(新聞社のイデオロギーとか)

 

特にマスコミが大衆をあおるときの報道は,言葉についての概念が不鮮明だったり,事実の解釈についての説明が不十分であったりと,私のペースでしっかり読み込もうとするととても違和感があります。

 

これについては,私もそれほど人のことを言えないのですが,マスコミの理屈がおかしく美辞麗句で飾ってある報道に違和感をもたないというのは,日常における意思疎通を意識する機会の問題じゃないかと推測します。

 

思うに,それぞれの人に独自の歩く早さがあるのと同じで,人それぞれの考え方があるでしょう。生まれも生活環境も違うのですから当然のことです。

しかし,理屈として通っているかどうかの理論の正当性は,どの人においても共有しているものでなければなりません。その人以外の誰もが理解できない話は理論とはいえません。

 

素直な人であれば,間違いを指摘するまでいかなくとも,疑問をもつと思います。

 

ところが,そのおかしな話に全く違和感なく信じてしまうという事は,情報を提供する側に対する意思疎通の意識が少ないことが考えられます。

しかし,何故理屈として通らないようなマスコミなどの意見を違和感なく(若しくはあっても)受け入れてしまうのでしょうか。

 

それは思うに,簡潔で明瞭な言葉である問題に対する答えが提供されると,それを訴えることにより自分も正当性を得たような気になるのだと考えられます。

 

ですが,これだと人との歩調を合わせられないことになるでしょう。

 

というのも,根拠や理屈がおかしな報道を鵜呑みにしてしまうという事は,(そのことについての)自分の考えが乏しいということです。

だから,他人の言葉を金科玉条のように振りかざして自分の正当性を主張します。

 

一方で,それと違う意見が主張されたとするとそれを理解することが出来ないでしょう。というのも,生活環境や立場の違いによる意見の相違というのはあるわけで,そうであるとどちらにも正当性があるということがありえるでしょう。

 

ですが,主張していることが他人の言葉を借りただけで,自身としての考えが無い以上,自分と他人との意見の相対的な比較ということが出来ません。また,そういう人の興味というのは人とのコミュニケーションよりも自分が正当であると自身で思い込むことに傾いているでしょう。

 

これを歩くペースに例えると,大衆のペースには平然と合わせる割に,誰かと歩いているときには他人のペースに合わせようとしないということになるのではないでしょうか。

 

つまり言いたかったのは,自分自身を知らないと他人に対する配慮が疎かになるんじゃないか?ということです。

 

そういう意味では自己評価も意外と大切と思った今日この頃でした。

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