タレントの政治的発言
ここ最近,TVタレントの政治などに関する発言が,昔(20年くらい前のことです)より目立つようになった気がします。
もちろん,そのことが悪いという訳ではありません。
選挙権だって持っているでしょうし,表現の自由ということですので,発言するについて特段問題は無いはずです。
また,タレントが政治家に転向したりすることについて,今となってはタレント議員などと揶揄されることもありますが,実際には1962年7月の第6回参議院議員選挙においてタレントの藤原あき氏が当選したことが最初のことだそうで,それなりの歴史があるようです。(うぃきぺでぃあ)
いまでは,めずらしくありませんね。千葉県知事も元は俳優です。
そういえば,流行語となったアベノミクスは,かつて俳優であったレーガン大統領の経済政策レーガノミクスを真似た物だといわれています。いずれも評価は人によりけりですが,その政策が名を残していることは事実です。
ですので,TVタレントが,将来政治家への転向を考えていたとして,TVで露出しているうちに自分の意見を述べようと考えること自体は悪いことでもなんでもなく,また,政治家になるつもりが無くても然りです。
しかし,私が気になった点は,マスコミがタレントの発言を金科玉条かのごとく祭り上げるようになったことです。
もし,「発言するのが自由なのだから,それを大きく取り上げたって何も問題ないであろう」と思われるのであれば,少し考えていただきたいことがあります。
たとえば,私が応援しているタレント(あまりいませんが)が,「資格なんて新規参入を阻害する非関税障壁なんだから廃止しちまえばいいんだよぉ!グローバリズムでイノベーションがウンタラカンタラ・・・」などと宣っていたら,即刻軽蔑するばかりか,思いつく限りの反論をタレントのブログにコメントしまくり炎上させることでしょう。(冗談です。)
それは,もちろん私の仕事や生活に差し支えるわけであり,そのタレントの発言を到底正しい意見として容認できないことは自分自身の考えがあるからです。
たとえ,そのタレントをそれまで応援していたとしても,自分の生活や考えの方がタレントの発言より重大な事ですので,その重大な基準によりその発言を解釈すると到底容認できるものではないわけです。
また,表面上それなりにもっともそうな発言だったとしても,私が常々勉強させていただいている専門家の意見とどちらを信用するかといえば,餅は餅屋ですから当然専門家の意見を信用します。
ですが,生活感も知識も考えもない人が,その応援するタレントの発言について反論(例え表現までしなくても)できるだろうか,ということを考えると,反論するにもある程度の能力が必要である気がしてなりません。
ですが,だからこそマスコミは自らのイデオロギーに沿う都合の良い発言を,広告塔であるタレントを利用して間接(ほぼ直接)的に訴えているのかもしれません。
もっとも,表現は自由という前提ですから,本来ならそれぐらいのことは容易に察するべきでしょう。
それは,全ての人がしっかりした情報を見分けることができれば,他愛も無いことであるのでしょうけど,実際にそれが出来ていないという事情があるからこそ,専門家を差し置いてタレントの発言が持て囃されるという現状を生み出しているように思います。
私自身,タレントの発言には靡きませんでしたが,実際に軸となる考えを探すのはとても時間がかかったように思います。
では,何を信じてそれを軸に思想を育めば良いのかというと,規範として法律というのが思い浮かぶかもしれません。
もっとも,法律を絶対的な規範と考えて“法律だけは守らなくてはならない”という考えは,とかく“法律さえ守っていれば良い”という考えに行き着やすいのです。
というのも,法律というものの趣旨は,ほとんどが利害関係人の相互調整を主題とされています。
刑法だって,罪刑法定主義といって,何を犯罪として刑罰を科するためには,事前に法律で定められていなければならないということとされていますが,お分かりのとおり,これは犯罪を侵した人を保護する趣旨であることが見て取れます。
法律家が,たまに「法律はあなたを守るためにある」的なことを言いますが,お分かりの通りマーティングのためのキャッチコピーです。言葉通りに受け止めれば独裁国家の誕生です。
法律家を使って,自分の主張を成し遂げれば主張の相手はその分何かしら失っているものです。もちろんそれが悪いということではありません。
ですので,実際法律を守ってさえ居ればよいという考えは,民主的に定めた相互調整のルールに則っているというだけの事で,それが立派な考えというわけではありません。(むしろややこしい人が多いような???)
そうすると,法律の王様のような最高規範たる憲法の理念を軸として,規範とすることが考えられますが,勉強して働いて税金払っていればよくて,みんな自由で平等を保障されているとのことです。
自由というとなんだか聞こえがいいのですが,何かしら判断を迫られ,また意見を求められたときに,自由というのは人と人との間にある潜在的な制約の存在に対してあまりに無責任であるように思えます。
たとえば,ある場所で「何でもいいから言ってみろ」と言われて戸惑うのは,それを言葉通りに受け止めれば,声を発しさえすれば考えたり選んだりする必要はありません。
ですが,実際に奇声をあげたならばおそらく奇異な目で見られるであろうという「場」自体は潜在的に意識するでしょうから,「場」という外部的であるものの顕在していない制約を自分の意識中だけで潜在的に感じた結果,戸惑うということになるわけです。
戸惑わずに体よくその場をやり過ごした人の要領というのも,その「場」が多くの人にどのように共有されているかをよく理解しているというというだけのことで,実際に秩序はそんな感覚を共有することで保たれているという部分が大きいように私は考えています。
ですが,自由という建前のもと,その「場」という概念が共有しれないほど広汎となってしまったため,何が良質で何が悪質なのかを考える機軸を判断しにくくなり,その結果欲望に根ざしたものや大げさで分かり易いものが跋扈し,持て囃されるような現状を生み出しているように思えます。
このことを価値観の多様化とか言ったりすることがありますが,単純に価値の判断能力が衰えただけで,価値観なんてたいそうな物ではないはずです。
価値判断がちゃんとできるのであれば,政治的発言をするタレントと専門家との発言の比較や,タレントを利用するマスコミの意図くらい読み取れるはずです。
本来であれば政治に関する意見は,誰が言ったからではなく何を言ったかに価値を置いて判断するべきですが,このことは国民主権であるが故に国政を決める重大な要素です。
私自身何を規範とするかというと,案外身近にある生活に根付いたものに目を向けることにしています。