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互いの見方

2014-06-14

私は,車も自転車も乗りますので,車に乗っているときには自転車の,自転車に乗っているときは車に乗っている人の気持ちを想像することがあります。

 

やっぱり,立場に立てば意外と行動の理由とかが解り,どう動くかの予測も立つので,運転中いらつくことはほとんどありません。

 

ただ,話に聞くと,自転車に対して車道を我が物顔で走るという,あまり良い印象を持っていないドライバーがそれなりにおられるようです。

 

それに対して自転車に乗る人からすれば,自動車に対して自転車は交通弱者という意識が強くあることと思います。それは,そのはずで双方が接触したら,どうなるかは一目瞭然でしょう。

 

そのことは,自動車にも自転車にも同じ意識があるわけです。

 

だから,自動車は自転車をとても恐れます。

轢いて怪我をさせたくないからです。

損害賠償云々はあるでしょうけど,直接的な感情として,時分の運転によって人に怪我をさせたくない,と言う思いがあるでしょう。

 

それに対して自転車ですが,最近歩道を走ることについてうるさくなって来ていることから,路肩を走る自転車が多くなりました。

もちろんそれが,道路交通法では原則なのですが,自転車が歩道を走ることが割と容認されていたのを,あえて正したことから狭い道路での判断が不十分だったりすることがあるように思えます。

 

で,路肩を走る自転車は,後ろから風を切って追い抜く自動車に多少なりとも恐怖を感じるわけです。逆に,車のドライバーにしてみても,前をゆらゆら走っている自転車に対して少なからず恐怖心を持っています。

 

これは,お互いの恐怖の理由が,接触を避けるという共通の認識であって,それだけならいいのです。

 

ただ,お互いがお互いを避けている理由を,少しねじれた形で見透かした(と勘違いした)りすると,それまで安定して均衡していた関係が崩れるように思います。

 

なんか,自転車は車道を我が物顔で走ることを権利のように捉えて,車はそれをよけなければならないことを義務のように捉えている人って少なからずおられるような気がします。

 

これって,まず,人VS人の関係から思い起こす必要があると考えるのですが,事故など何も起こっていないうちに権利だ法だと十把一絡げの解釈をもちすだすことは,それまで安定を保つ為に共有していた共通認識を覆すことになりかねず,そのことは臨機応変に対応すべき交通事情から柔軟性を削ぐことになり,結果それまで保たれていたいわゆる交通弱者と強者との均衡が崩れることになるように思えます。

 

このことは,どちら側にも立つことのある私にしてみれば,非常に迷惑だと考えます。

 

でも,こんな関係って色々なところで見かけますよね。

 

両方の立場に立つ人が多くいると言う部分では,なかなか交通事情とは共通しませんでしょうけど・・・

法律が悪い?

2014-06-12

埼玉県在住の無戸籍の女性(32)が12日までに、母親の前夫(故人)と親子関係がないことの確認を求める訴訟を、神戸家裁に起こしたとのニュースが入りました。

 

このいわゆる「戸籍のない子供」の問題は,テレビで取り上げられる程の社会問題となっておりますが,大人になってもその問題を引きずることもあり得るという事実が,この度の裁判でクローズアップされることでしょう。

 

問題の所在は,前夫の暴力によって家を出た妻が,他の男性との間で子供を出産したものの子供の父親は暴力をふるった前夫と推定されてしまうため,出生届を出すと一度は前夫の子として戸籍に記載されてしまいます。

 

それを正すには裁判による必要があるのですが,暴力をふるった前夫には会いたくないどころか思い出したで身震いするような思いをすることと思われます。それにしたって,専門家の報酬も色々ですし,なかなか足が伸びないと言うこともあるでしょうから,こういう問題となるわけです。

 

もっとも,すでに別居していた等,妻が前夫との間において妊娠することがあり得ない場合など嫡出の推定が及ばないことから,家庭裁判所に親子関係不存在確認の調停を申立てることが出来ます。

 

離婚後300日以内に出生した子供がこの問題に突き当たることは,割と知られた話ですが,この度の裁判のケースによると出生時には別居していたものの離婚届を提出していなかったために前夫との婚姻中の出産とのことの様です。

なお,当事者たる前夫が亡くなってからの裁判と言うことで,調停ではなく訴訟を提起されている模様です。

 

それにしても,夫の暴力という問題はとにかく始末の悪い問題を引き押します。

今回の裁判のケースは,出生時に離婚届が出ておらず婚姻中にできた子供と言うことでしたが,前述した離婚後300日以内の出産に掛かるケースも相当見られるのではないかと推測します。テレビでクローズアップされるくらいですから。

 

そもそも一番の問題は夫の暴力でして,そこに異論を挟む人はおられないはずです。

もちろん程度というのはあるでしょうけど,出て行って会うのも怖くなるくらいですから,言わずもがなです。

 

もっとも,離婚後300日の立法趣旨は,取り合えず暫定的にでも子供の父親を確保して,前夫に扶養義務を負わせるという,言ってみれば子供を保護する意味合いもあるでしょう。

この規程がないと父親のいない子供が多く存在することになり,養育費を請求することもままならないケースも生じることが想定できると思います。(そう言う意味では,前夫に責任のない離婚の場合に,子供と関係ない前夫が割を食うケースもあろうかと)

 

そうすると,会うことさえ危険を感じるくらいの暴力を夫が妻にふるうということは,立法の想定外のことなのかも知れません。

でも,現実に起こっているからこそ,離婚後300日の規程が問題となるわけです。(暴力のケースだけでも無いのかも知れませんが)

 

なんというか,私は幸い夫が妻と子供に暴力をふるうという家庭環境には縁がありませんでしたので,ちょっと想像しがたいのですが,時代の流れなのか解りませんけど,法律の想定を遙かに超える行動を起こす人間は確かにいて,しかもそれが増殖中となると,立法のあるべき姿というのは,みんなで考えるべきことのように思うのです。

2014-06-11

6月になってから本当に良く降りますね。

 

降られっぱなしですよ。ホント。。。

 

でも,紫陽花があちこちで鮮やかに花を咲かせています。

 

この時期の風物詩ですね。

 

今日は,早く帰ります。

遠距離射撃

2014-06-10

一番槍と言われるくらい,戦国時代において合戦の最前線で活躍したのは槍だったと聞いたことがあります。

 

武士と言えば,武士の魂なる刀がすぐに思いつきますが,よくよく考えれば市街戦の様な狭い場所での戦いでない限り,刀と比べて槍の方が圧倒的に有利であることは想像が付きます。

 

鎌倉時代には弓矢が花形だったそうですが,一対一の場合には一度狙いを外してしまうと大ピンチに陥るでしょうから,やはり使いようだったのでしょう。

 

火縄銃も玉込めに時間が掛かったり,雨の日は使えないなど色々制約があった様ですが,何よりも他の武器と比べてお金がかかったことと思います。

 

そして時代は移り変わり幕末の頃,舶来より取り寄せた銃は,戦国時代のそれよりもはるかに性能が高まり,また長距離砲アームストロング砲は戊辰戦争においてめざましい活躍を見せたそうです。

 

ほどなくして,戦争の主役は飛び道具に切り替わり,日露戦争では,旅順で激しい銃撃戦が行われたと言いますし,海戦はもちろん砲撃が中心だったのでしょう。

 

さらには,戦闘機や魚雷など相当な遠距離から敵を狙撃するまで技術が発展し,ついには飛行機から核爆弾を落とすまでに至りました。

 

このような歴史による兵器の技術発展は,如何に遠距離から多くの人間を殺傷できるか,という流れに見て取れます。

 

そして,極めつけは核弾頭を備えた世界のどこをも狙うことができるミサイルを多数配備することによって,大国同士の確執は冷戦呼ばれるように物理的行使に及ばず情報戦として膠着するに至りました。

 

このとき,もし両国に核兵器が無ければ,凄惨な戦争になっていたのかも知れません。

 

敵国に赴くことなく,自国から敵国に致命傷となる攻撃を加える事ができる武器をお互いに持つことにより,事態が膠着するというのは何とも皮肉なものですが,歴史の沿革によれば割と解りやすいことのように思えます。

 

兵器の技術が向かう先が,いかに敵から離れた安全な場所から敵に致命傷を負わせるかということであれば,国同士の戦争で相互に自国から核ミサイルを敵国に向けて発射する事ができる場合には,物理的攻撃などしない方がよいという向きに当事国相互がなるはずです。

 

そう考えると,核兵器を既に持っている国と,持ってない国,これから持とうとする国に対するアメリカの態度の違いは実に分りやすいように思います。

 

もっとも,冷戦後は,強力な経済力と軍事力を背景に覇権を握ったアメリカは,「世界の警察」を自認し,アメリカ国民のナショナリズムもそれに焚きつけられていたのではないかと推察します。

 

そのことは,対立していた共産主義が崩壊したことにより覇権国家として,アメリカが掲げた民主主義を絶対的な正義として掲げ,それによりイスラエルに肩入れして他の中東近隣諸国との関係を悪化させてしまったように思いますが,それでも,アメリカ国民の意思は民主主義という正義を全うすることに肯定的だったのではないかと思います。

 

その背景には,圧倒的な軍事力を保持する母国が他国から攻撃を受けるはずがないという国民の潜在的な心理もあったのではないかという気がします。

 

ところが,9.11と呼ばれる同時多発テロの発生によって,アメリカ国民は自国においても危険を免れることはできないということを初めて認識したのだと思います。

 

そのことは,一時的にアメリカ国民のナショナリズムを強く焚きつけて,多大な国内支持を後ろ盾にアフガニスタン侵攻に至るものの結果として治安問題で泥沼と化し,また,大量破壊兵器を保持しているとして国連安保理の決議を経ずにイラクを攻撃するもののその正当性について各国から批難を浴びることになりました。

 

アメリカ国民にしてみれば,アメリカは正義のために闘ったという意識が強かったでしょうから,これらの失敗によってアメリカ国民のナショナリズムは興醒めしてしまったのかも知れません。

 

ましてや,アメリカ国内においてもテロに巻き込まれる危険性を否定出来ないわけですから,もはや正義と理想を掲げているよりも身の安全の方が大事だと考えることでしょう。

 

そういうことから,「世界の警察」を降りたがっているのは,民主主義国たるアメリカの国民の総意という風に思えるのです。

 

ましてや選挙で大統領を選ぶわけですから,当然大統領の意思は民意にかなり近いわけで,裏を返せば大統領は民意を強く意識すると言うことだと思います。

 

そこのことは,オバマ大統領の外交政策に大きく影響を及ぼしているでしょうし,たとえオバマ氏でない人が大統領となっても同じことでしょう。

 

そして,ナショナリズムというこれまで覇権国としてのアメリカを支えてきた強力なバックボーンが行き場を失った後のアメリカ国民の意識の向かう先は,いったい何処なのでしょう。

 

もちろん,自国経済の立て直しは当然なのでしょうけど,果たしてかつての覇権国はどのような手を打ってくるかと言う部分で,手段を選ばなくなる様にも思えるのです。

 

そのことは,当然ながら外交政策にも強く表れることでしょう。

 

つまりは,アメリカの経済立て直し政策によって割を食うのはいったい何処の国なのかという話になるんじゃないかと思うのです。

おのこり

2014-06-09

最近,帰りが遅くなってます。

 

明日も早いというのに・・・

明日は

2014-06-06

晴れると良いですね。

あ○まお○しいの○○んぞうと○○なかで○た

2014-06-04

ニュースの見出しだけサラサラっとみると,

 

「出生数は過去最少」「生活保護世帯が160万人を超す」「どうなる公的年金」並んで出てました。

 

大問題のように並べ立てていますが,問題を解決するための方向は実にハッキリしていて,日本国民の所得が上がれば一気に解決するように思えます。

 

というか,これらに限らず,国民の所得を高めるだけで解決に向かう問題って少なくないように思います。

 

じゃあそうすればいいじゃんって思っている人ならば,正社員や公務員が既得権益なんていう発想自体があり得ないはずなのですが・・・

 

移民もそうだけど,それにしても何で奴は幅を利かせているのだろうか。

 

人に取り入る才能だけは,ずば抜けて長けているのだろうけど,日本国民にとっては迷惑以外何者でもない。

 

ハッキリ言って・・・

知らない方がいいこと

2014-06-03

先ほど入ったニュースですが,2005年に栃木県旧今市市の小学1年の吉田有希ちゃんが殺害された事件で,警察は32歳の男を逮捕したそうです。

 

当時たしか,犯人は土地勘がある者であろう,ということが手がかりと報じられていて,どうも迷宮入りしそうだと思ったことを記憶しています。

 

それにしても,9年前のことです。

 

この事件は,強く印象に残っていて,ずいぶんと月日が経つのは早いと感じます。

 

たしか,そのちょっと前に同じく奈良で小学校1年の女児が殺害された事件が起きていて,その公判中に起こった事件だったため,非常に強いショックを受けたことを覚えています。

 

親御様の気持ちははかり知れ無いほどの悲しみだったと推測しますが,多くの方にとって,それを覆い隠すほどのおぞましさをこれらの事件について感じた事と思います。

 

そして,その感情にかこつけて特定のメディアに向けて強い非難が浴びせられたり,それを愛好する人達が白い目で見られたりと,当時,大変な混乱を来しました。

 

2010年の都条令もこの流れと言えましょう。それにしても,石原都知事(当時)のやることに主婦層がバックアップしたのは,あのときが最初で最後だったのではないでしょうか。

 

まぁそれはいいとして,この手の理解しがたい犯行に及んだ犯人の供述というのは,毎度ながら右往左往しつつ,結局何が何だか分らないまま,審理が終結してしまうというのがお決まりのように思います。

 

もっとも,怖いもの見たさなのか分りませんけど,それでも結構世間の注目を集めるわけですが,結局誰にも解らず終いということで多くの人にフラストレーションが溜まり,その怒りの矛先が弁護人に向けられることもありますが,これはちょっと気の毒な気がします。

 

実は,私自身も怖いもの見たさで,その心理を覗いてみたく思うのですが,それよりも強く,知ってはいけないことのようにも思えて,結局怖くなって目を背けてしまいます。

 

なんだか,暗い闇の世界に引き込まれるような怖さを感じるのですよ。

 

たとえ,凶悪な犯罪者でなくとも,なんとなく人の心の深淵というのはちょっと覗くのが怖い気がします。それは,自分にもその深淵があるからなのでしょう。

 

ちなみに,自慢じゃありませんが私はよく嘘をつかれます。そういう仕事と開き直って許すことにしていますが,人の言うことって信じてみたくなるものなんです。俗に騙されやすいと言われる人も,実は判断力が乏しい訳ではなくて,嘘と見抜けていても信じてみたいという欲求がそれに勝ってしまうのではないかとも思っています。

 

ですが,そのことを繰り返すことによって,心のどこかしらを摩耗しているように感じることがあります。やっぱり,そういうものです。

 

そして思うのは,善良な人にとっては,専門知識や信念なんかが無い限り,決して理解を超えるような行動を起こす人の心理など知らずにいた方が,きっと幸せだということです。

 

理解しない方が良い事って確かにあると思います。

 

そんなことに興味を持つよりも,可愛いと思う人や動物やものをなでなでしてあげましょう。

扇風機の音

2014-06-02

小学生も低学年ぐらいだった頃,夏休みに父親の実家によく泊まりに行かされていました。

 

当時は両親共働きで,まだ幼い私を預けると千葉にとんぼ返りしてしまいました。

 

なお,私には弟が2人おりますが,二人ともまだ幼かったため両親と一緒に帰って行きました。

 

残された私は,親戚と共に寝食を共にする事になります。

 

まぁ親戚の家と言うことで,別に赤の他人の家に泊まったわけではないのですが,困ったのは昼の過ごし方です。

 

親戚の家の近くに小学校がありまして,そこのプールで子供達を集めて水泳の指導をしていたのですが,そこに参加してこい,と言われるわけです。同伴して「こちらは千葉から来た〜」と他の子供達に紹介のひとつもしてくれれば,まぁそれなりに溶け込めたのかも知れませんが,そういうのまったく無しの道場破り的な参加でした。

 

たぶん,先方にも話が通って無かったのでしょうけど,当時は子供一人くらい仲間に入れてやろう,というおおらかさがあったのかも知れません。

逆の立場でも,公園で野球やサッカーをしている時など,仲間に入りたそうな子供は知らない子供でも随時受け付けていたと記憶しています。

 

もっとも,私は転校した経験はありませんが,転校生の不安というのは想像に難くなく,子供の世界というのは大人が思っているよりもずっと序列に厳しく,余所者に強い警戒を示し,時にバイオレンスだったり狡猾だったりします。

 

時代によってそのことが変らないのであれば,どんな人でも子供の時分を経験してそのことを少しでも把握しただろうに,なぜ大人になるとどんかんになるのか?と,今更ながら当時の自分の気持ちを少しばかり代弁したくなります。

 

そして,こちらとしては,なじみのない土地でその地元の集まりに単身乗り込んだというスティーブンセガールの様な設定に戸惑いと警戒があったのと,それを地元の子供がおそらく感じ取ったのであろう,ということで,お互い上手く折り合うことが出来ないまま,私はすたすたと一人で帰っていったのでした。

 

帰ってきても家には誰もおらず,部屋で一人扇風機を付けると,けたたましいほどのセミの鳴き声と扇風機の音だけが聞こえたのでした。

 

今日は,とても暑く夏の始まりを思わせるような一日でしたが,事務所で扇風機を付けながらなんとなくそんなことを思い出しました。

じっくり考える時間

2014-05-30

ほしいなぁ・・・

 

最近本もあまり読めてないですし,こちらもちょっと書けてませんです。

 

もっとも,趣味の音楽関係はまぁなんとかできてるので,あまり贅沢言ってはいけないのかも知れませんね。

 

楽しいことだけして生きてはいけないでしょうし,それを踏まえつつお休みを過ごそうと思ってます。

 

では,良い週末を

日暮れの気温

2014-05-29

ここのところ昼間は非常に暑いですが,やはり日が落ちると結構涼しくなります。

 

体調を崩さぬようお気をつけ下さいませ。

社会的意義とやせ我慢

2014-05-28

我々が所得を得るためには,何方かが見合った対価を払ってくれるだけのものやサービスを提供しなければなりません。

 

そして,それを生業として継続的に所得を得るためには,インフラや法整備など様々な面で公共の恩恵に授かるわけで,所得に見合った税金も納めなければなりません。

 

また,対価を払う価値のあるものに対してお金を支払ってものやサービスの提供を受けます。

 

その循環の中で,各々が必要とし必要とされながらその立場を確立していき,企業や個人において社会的な意義を見いだすことが出来ると思います。

 

そうであれば,競争に揉まれて低価格を実現するためのスキームを考えることも,それまでのクオリティを維持する事も,社会的意義となり得るのではないかと思います。

 

ですので,採算が合うかどうかは重要な問題で,採算の合わないことをすることでどこかにしわ寄せがあるのであれば,それは社会的意義という概念に反する事にもなりますから,こだわりすぎは時に良くないことになることもあるでしょう。

 

もっとも,我々は法律で定められた資格を必要とすることで参入を制限されているわけですから,競争という部分では他分野と比べて比較的緩やかであるはずです。

それは,見方によっては参入を制限する代わりに多少採算が合わないことでも引受けなければならないという社会的意義も含んでいるように思えます。

 

つまり,新規参入が制限されているのであれば,競争を意識することによるコストや時間の負担がないわけで,その分の余裕は採算の合わない仕事に充てろ,という意味に取れると言うことです。

 

まぁでも,登記など誰がやっても同じ結果しかでないことを生業としていると,供給過多という状態は価格競争以外で競争の手段が生じ得ないわけでしょう。しかしそれでは,様々な部分にしわ寄せする必要が生じるため,社会的な意義にそぐわない部分も出てくるはずです。

もちろん,成功が同じ結果ということなら,実績が見るべき部分なのでしょうけど,新規の顧客にはそれが分らないでしょう。

 

ですので,社会的意義を全うするなら結果として地場に根付くことになるんじゃないかと思います。

 

で,割に合わないこともある程度引受けるという所謂やせ我慢は意外と必要なこと何じゃないかと思うのです。

太くて長い・・・

2014-05-27

太くて短いのと細くて長いのどちらを望みますか。

 

もちろん,体格の話ではありません。

 

享楽も辛苦も味わい尽くして老いを待つことなく一生を終えるか,それとも何事もない日々を喜びささやかな一生を送るか,いかがでしょう。

 

自分としては,若い頃は前者でしたが,だんだん後者に考えが変りつつあります。

 

というのも,10代20代というのは,それまで生きてきた時間よりも,今後生きて行くであろうと思われる時間の方が圧倒的に長く,ほんの数十年の知識や経験から未来を想像し切れないこともありましたし,そのことを無限の可能性と大人達から言われて,(人とは違う何かがあるのではないのか)という期待があったと思います。

 

ところが,ときが過ぎて祖父母の死や両親の老い,そしてそれなりの時間で培った知識や経験からして,おおよそ先のことを見通すことが出来てしまうようになった訳です。

 

数多くの他人の生き様を目の当たりにして,自分の人生はまぁこんなものだろう,と言った当て込みによって,自分の人生の軌道をイメージがつきます。

 

まぁ,とはいえ実際には,どう変るか分らない社会情勢に強く影響されることでしょうし,実際にアンパイなんてどこにも無いように思えます。

 

そうであれば,やっぱり短い時間の中で享楽に溺れる時間があった方が良いとも考えられますが,それが意外と良かったのはその時だけで,マンネリになったり,ツケがまわったりきたりと,実はそれほどたいしたことでもないという事が実体験を経ずに大体想像が出来ると言うことも,生きた時間によって培った知識や経験のタマモノとも言えると思います。

 

つまりは年齢によって年齢なりの人生観があると言うことだと考えています。

 

だから,きっと10年後にはまた違うことを言い出すかも知れませんが,大事なのは変った理由を認識しているかで,それが一貫性だと思います。

最後の言葉

2014-05-26

遺言って書いてなんと読まれるでしょうか。

 

「ゆいごん」と読まれる方が多数だと思いますが,我々専門職は「いごん」と言う読み方をしています。

 

もっとも私自身「ゆいごん」の方が言いやすく普段も気にせずそう言っています。

 

この遺言なのですが,普通方式と特別方式がありまして,まず特別方式というのは死亡危急者,船舶遭難者,在船者,伝染病隔離者のために遺言の方式を定めた条文が民法にあるのですが,レアケースでありながら方式が以外と面倒であるため,実務上使われたことがあるのかわかりません。

普通方式は,①自筆証書遺言②公正証書遺言③秘密証書遺言の3とおりがありますが,③の利用はほとんど無く,大抵①か②に方法による遺言が見受けられます。

 

まぁ,本などを見て①の方式で書かれる方なら大抵問題ないのですが,要件を満たしていないと無効となる可能性もあることから,万全を期すにはやはり②の公正証書遺言がオススメでしょう。

 

ちなみに遺言書の内容について,法律上の効果が発生する事柄は限定されています。

ですので,「遺骨は海に捨てて欲しい」と言う旨の遺言をしたためても,相続人に義務は生じないわけです。

 

でも,それではなんだか味気ないというか,死後に家族へ残しておきたかった言葉にしてはどうも素っ気ない気がすると思われるかも知れません。また,侵害される範囲において遺留分が認められることから相続人間での火種はまだ残されているとも限りません。

 

もっとも,遺言には付帯事項といって,法律上に効力が及ばない内容も載せることが出来ることがあります。

 

もし,遺言にて財産分けを指定されたのであれば,その理由を付帯事項として載せておくとご家族がその意思を理解されることで,すみやかに相続手続が済むことと思われます。

 

もっとも,遺言を残す理由の一番の理由を考えると,財産のことも大事ですが,やはり家族に残す最後の言葉としての遺言書をしたためる事が,ご家族にとっても心を尽くされたとのように写ると思います。

 

もっとも,業務上で見かける遺言の中には,涙腺の我慢が効かなかったりするものもあったりするのですが・・・

 

自分の意識がなくなり言いたかったことも言えなくなって,家族の声も聞こえなくなったときの事を想像すると,どんな言葉を残せばいいのか,なかなか決まり切らないこともあると思います。

 

ですが,残された財産というのは,それまでに家族と共有した時間という財産的価値としてはかれない部分もありますし,預金や流動資産でさえそう言った面は無いとも言い切れないと思います。

 

それらの扱いについて,もし自身の意思の反映を望むのであれば,残された家族において共有できる言葉を残しておく事ことで,最後に託された財産というに風にご家族が感じられるかも知れませんよ。

 

もっとも,公正証書遺言の作成では証人の前でその内容を読み聞かせるので,若干こっ恥ずかしい面はあるのでしょうけど,最後の言葉となるでしょうからそれは仕方のないことかも知れません。

 

むしろ,恥ずかしいくらいの方が気持ちは伝わるものだと思います。

金曜日

2014-05-23

今週もお疲れさまでした。

 

良い週末を

司法はもう・・・

2014-05-22

福井県にある関西電力大飯原子力発電所の3号機と4号機の安全性を巡る裁判で,昨日,福井地方裁判所が,住民側の訴えを認め,関西電力に対し,運転を再開しないよう命じる判決を言い渡したことが大きな話題となっています。

 

まぁ第一審判決で仮執行宣言が付されていないそうなので,関西電力側が控訴をすれば(するでしょうけど)判決は確定しないまま控訴審に移行することになりますので,運転再開の手続を継続することは出来るのですが,他の地方に与える影響は大きいでしょうねぇ。

 

原子力発電所の是非については,福島事故以前からも,そして特に事故以降に,様々な意見が交わされていますが,未だにこれらの意見がまとまる様子はなく,裁判所に差し止めを申し立てるまでに至り,この度の判決となったわけですが,なんでも福島の事故以後で原発の差し止めを認める判決が出たのは初めてだとか。

 

まぁそう簡単に纏まるはずがないのは仕方ありません。

 

私の居住区の周囲には原子力発電所はありませんですが,もしあったと考えればこの度の差し止め審の原告となった方々の心情も多少は理解できているつもりです。やはり恐ろしいでしょう。

 

それに対して,それまで原発によってまかなってきた電力の供給が少なくなると言うのは,経済活動においても私生活においても誰にとっても重大損失でして,原発に代わる電力供給のためのエネルギーが無ければ,やはり原発を使うしかないだろう,という主張ももっともであるはずです。

 

そもそも事の始まりは,震災のときに例の菅政権が原発を全部停めてしまったことが始まりだったのですが,現政権に代わってからは,改正された原子炉等規制法に則り,それ以前よりも更に厳しい基準に適合することを条件に原発の再稼働を進める方針でした。 

 

そして,大飯原発を含む全国の原発において,原子力規制委員会が運転再開の前提となる安全審査を進めているところに思いっきり釘を刺したというのが,このたびの判決だといえましょう。

 

なお,判決の要旨をサラッと読んだ感じだと,どうも大飯原発の耐震性を超える地震が起こる可能性についての想定が甘いんじゃないか,ということや,原子炉の冷却機能の欠陥,冷却機能が故障した場合の放射性物質の閉じ込めの甘さなど,福島第一原発事故と同様のケースを想定しているようです。

 

また,冒頭において,原発の事故による地域住民の(避難などの)被害と,関西電力における電力供給という経済活動の為の原発稼働について,これらの比較衡量を判決の理由として書かれています。

 

また,注視すべきは,主文において,大飯原発から250キロメートル圏に居住する原告の請求を棄却していることです。

 

この250キロメートルというのは,『原子力委員会委員長が福島第一原発から250キロメートル圏内に居住する住民に避難を勧告する可能性を検討した』とのことでして,原告・被告のどちらがそれを主張したのか解りませんが,裁判所自らの判断だとしたらこれについては意見が色々と出てきそうです。

 

また,原発から居住地までの距離を基準として,その範囲に居住する原告に限定して差し止めを認容したということは,原発の事故によって侵害される『人格権』は,大飯原発から250キロメートル圏外に居住する人に限られるということでもあるでしょう。

そして,避難する可能性として250㎞を挙げていることから,原発による人格権の侵害は行政機関からの勧告により避難を余儀なくされる範囲に限られると言うことでしょうか。

 

ちなみに,ご存じのとおり福島の場合は原発から20〜30キロ圏内が避難区域とされていたことから考えると,またずいぶんと広いように思いますが,そういえば250㎞といえば東京オリンピックの招致のときに聞いた覚えがありますが,関係あるのかしら?

 

というか,この裁判の原告のうち,大飯原発から250㎞離れた場所に住んでいる方が23人もいたと言う事実も色々と感心させられるところではあります。

 

 

で,『原発には極めて高度な安全性や信頼性が求められているのに、確たる証拠のない楽観的な見通しの下に成り立っている』とのことで,この度の判決に至った訳のようですが,これだけだと,原発再稼働容認派の方々からすれば「おいおい,関電からもっと主張することがあるだろう」と言いたくなるのでしょう。

 

ニュース見ていて私もそう思いましたが,いやどうも『本件原発の稼動が電力供給の安定性、コストの低減につながる』と主張したようなのです。。。が,それについて『当裁判所は、極めて多数の人の生存そのものに関わる権利と電気代の高い低いの問題等とを並べて論じるような議論に加わったり、その議論の当否を判断すること自体、法的には許されないことであると考えている』んだそうです。

 

これは,関電側の主張に対して審理しなかったと言うことなのか・・・

 

 

 しかも,電気代の高い低いの問題って・・・

 

 

また,『本件原発の運転停止によって多額の貿易赤字が出るとしても、これを国富の流出や喪失というべきではなく、豊かな国土とそこに国民が根を下ろして生活していることが国富であり、これを取り戻すことができなくなることが国富の喪失であると当裁判所は考えている』そうなんですよ。

 

憲法では,「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。」とされているけれど,なんか自由すぎないか・・・

価値感の押し付けか?

 

そして,原子力発電所の稼動がCO2排出削減に資するもので環境面で優れているという主張に対しては,『原子力発電所でひとたび深刻事故が起こった場合の環境汚染はすさまじいものであって、福島原発事故は我が国始まって以来最大の公害、環境汚染であることに照らすと、環境問題を原子力発電所の運転継続の根拠とすることは甚だしい筋違いである。』とのことです。

 

冒頭で『年間何ミリシーベルト以上の放射線がどの程度の健康被害を及ぼすかについてはさまざまな見解があり』としているけど,環境汚染については様々な見解を考慮しないのか。。。

 

まぁ,結果としてこれらは一笑に付されたように見て取れます。

 

なお,冒頭には,「人格権そのものに基づいて侵害行為の差止めを請求できる」とされており,このあたりが訴訟物(争いの対象)だとされたとすると,大飯原発が原告の人格権を侵害する可能性に争点が置かれるでしょうから,大飯原発にどれくらいの不備があり危険であって近隣住民の人格権を侵害するかという原告の主張(要件事実)に対して,燃料コストや貿易赤字やら環境問題等の関電の主張は,抗弁たり得なかったのでしょう。

 

要は,裁判所は「いま人権の話してるのにカンケ−ネー話してんじゃね−よ」と言ったところでしょうか。

 

なお前述しましたが,関電の権利と原告との権利との比較について『原子力発電所は、電気の生産という社会的には重要な機能を営むものではあるが、原子力の利用は平和目的に限られているから(原子力基本法2条)、(ここちょっとわかんないですよね)原子力発電所の稼動は法的には電気を生み出すための一手段たる経済活動の自由(憲法22条1項)に属するものであって、憲法上は人格権の中核部分よりも劣位に置かれるべきものである。』と判断しています。

 

これは,二重の基準の理論(精神的自由権と経済的自由権を対比して,精神的自由権等の重要な人権を制限する立法は,それ以外の経済的自由権等を制限する立法より,厳格な基準によって審査されるべきとする理論)の趣旨を応用しているように思えますが,実際に原子力発電所の再稼働の是非は関西電力の経済活動の不利益だけでは済まないわけです。

原発の再稼働を主張する方々の言い分は,原発を再稼働しない事によって国民が被る様々な不利益を考慮しているわけです。

 

例えば,我々は既に電気無しで生活することは無理でしょうから,

①原発に代わるエネルギーを探さなければならず,いくつかあがるとして

②そのエネルギーに掛かるコストを考えなくてはならず,それを無視することは結局我々の所得や税による徴収で賄わなければならなくなる訳で,それがクリアできたとしても,外国からの輸入に依存することは

③セキュリティの面で問題なのは,現在EUとロシアの問題に目を向ければ一目瞭然でしょう。

そして,最後にこれまで原子力で運用してきたからには

④使用済核燃料の処理の方法で結局再処理を施さなければ,そのまま埋めるより無くそれはむしろ危険というところです。

 

そして,4つ挙げたこれらの問題にたいする提案があったとしても,更に問題が枝分かれしていくでしょうから,結局の所原発,ひいてはエネルギー問題は,あらゆる部分に目を向けて論点を広げていかなければならず,民事訴訟という論点を絞り込んで(地裁では合議体でさえたった)3人の裁判官が判断を下す場で語るには絡み合う要素が複雑すぎるのです。

 

また,以前,楽天の薬品インターネット問題のときに書いたかと思いますが,原告対被告という二極の対立関係として,相互の権利の比較衡量をするという方法では,公共性やパブリシティが主張として評価されにくいため,本質的な問題が浮かびにくいと言うことがあると思います。この度の原発の問題はまさにその本質が審理の対象とされなかったと言うことでしょう。(裁判官によりますが)

 

そういえば,ここ最近(?)winwinなんて言葉がありますが,こういう事案こそ裁判外紛争解決手続を利用するのがよろしいかと思うのですよ。訴訟ほど厳格に手続が定まっていませんから,二極対立である必要も無いですし,時間をかければ様々な論点が浮き彫りになる事と思います。

大事なのは,まずどれだけ考慮すべき問題が有るのかを認識するところから始めるべきだと思うのです。

 

とはいえ,原発を稼働させない所謂「脱原発」が直接の目的だとしたら,そもそもエネルギーにまつわる複雑性を理解する気などサラサラないでしょうから,後先のことなど知ったことでは無いのでしょう。

 

そうであれば,私自身の人格権を行使してそういう人達の差し止めができないかなぁなどと考えています。

自分を表わす言葉

2014-05-20

例のネット遠隔操作事件で保釈中に姿を消した片山被告が見つかったようです。

 

しかも,事件への関与を認めいているようです。

 

先ほど,主任弁護人の佐藤弁護士が記者会見を開いたようですが,一貫して無罪主張していたにもかかわらず,この掌の返され方については何ともいえない気持ちではないかとお察しします。

 

まぁ代理として動く仕事であれば,クライアントの言い分が変ることは,それほど珍しいことでもないのですが,これはちょっと端から見ていても強烈な掌返しだと思います。

 

ましてや,片山被告のお母さんが1000万円の保釈金を納めたと言われていますから,今回の逃亡といい,訳の分らない裏工作といいちょっと信じられませんねぇ。

 

しかも,4名の方が誤認逮捕されてしまいまして,この方々も私生活に何らかの影響があったことでしょう。

 

なんでも,佐藤弁護士によると昨日の夜に電話で事件への関与を告げられたそうで,死のうと思ったが死にきれなかったとも話したそうです。

 

でも片山被告がやったことといえば,コンピューターウィルスを利用した遠隔操作とネット上の殺人予告でして,本当かどうか知りませんがよく死のうと思う気になるなぁと逆に感心してしまいます。

 

このことを価値観の違いと言うべきなのか解りませんが,そもそも遠隔操作とネット上の殺人予告が命がけでやるような事だったのか考えると,本当にさっぱり解ら無くなります。

 

コレきっと片山被告の心理を理解しようとしても専門知識のない我々のような普通の人に出来るわけがなくて,ただただ混乱するのみでしょう

 

なお,佐藤弁護士は記者からの質問に対して「こういう事態になり、どうしてああいう人が生まれたのかということを考えないといけない」と語ったそうです。

 

なるほど・・・きっとそのとおりなのでしょうね。

 

そして,その「ああいう人」がどうゆう人かといいますと,まぁ解らないんですけど,ちょっとした参考となると思える情報がありまして,

 

『片山被告は以前、「真犯人はサイコパス(反社会的人格)だと思う」と話していたといい、20日には「それは自分。嘘を平気でつける」と語ったという。』

 

これなのですが,サイコパスの意味については調べて頂けたらと思うのですが,重要なのはサイコパスの意味ではないと私は思っています。

 

思うに,ちょっとした悪ふざけがエスカレートして,大きな騒ぎとなってしまったと。

 

そして,その騒ぎを扇動しているのが自分であるという事実を自分しか知らないと言うことが何よりも自尊心を満たすと同時に,もし自分がやったことが発覚してしまったらと言う恐怖感もあることから,肉親や周囲の人に対しては知らぬ存ぜぬで通し続け,自分を一生懸命擁護してくれる弁護団の先生方にも嘘をつき続けたわけです。

 

それは,もちろん一般で言われる道徳からは反しているし,きっと本人もそのことを意識したことでしょう。

 

ときに,自分はなんと酷い事をしているのだろう,と考えたこともあったんじゃないかと思うのです。

 

そして,強烈な認知的不協和に襲われて,その自己矛盾から逃げるための出口として「サイコパス」という言葉を利用したのではないかと思うのですね。

 

つまりは,悪いことをしていると自覚しながらそのことを続けるのは自己矛盾でして,そのことは人間にとっては非常に苦しいことなので,その矛盾を正すには自分がそもそも反社会的な人物であったことにすればいい,という訳です。

 

そう考えると問題というのは,大騒ぎとなってしまったある時点で改悛の情が芽生えると共に保身(というより恐怖に近いんじゃないかと思いますが)の気持ちがそれを抑え付け,まるで天使と悪魔のせめぎ合いのような心理に陥ったときに,その悪魔が天使に勝るという結果,すなわち人としての弱さを肯定できる言葉の比喩が世の中には沢山用意されているのではないかと考えます。

 

とりわけ,ネット上では自分の身の上を匿名で語り,他の匿名者から文字を伝って共感を得ることが出来たりするわけで,そのことは人とは違うことで悩んでいる自分が他人の言語表現により認められ,それにより自らも肯定する事ができるわけです。

もちろん,誰しもそういう部分は持っているでしょうから,それが悪いというわけではなく,むしろそうやって救われた方も多くおられるでしょう。

 

ただ,精神的に弱い人達が寄り集まってお互いを肯定し合うと言うことは,言ってみれば傷のなめ合いで,言葉による形容によって弱い自分を肯定することが出来ます。

 

ただ,正しいことをすると言うことは,誰にとっても非常に勇気のいることでしょうから,弱い人には出来ないことでしょう。だから,弱さを肯定すると言うことは,自分は正しいことをしなくても良いと自覚する,と言うことでもあるように思えるのです。

 ,

もちろん,自分の弱い部分を認識することは大事だと思いますが,言葉による傷のなめ合いというのは弱さを忘れようとする行為だと思うのですよ。

 

このことを片山被告に当てはめると,認知的不協和に陥ったときに誰かとネットでコミュニケーションを取ったかどうかは解りませんが,正直に真実を話すということが出来ずに苦しんでいる事から解放されるために,そもそも真実を話す事がない「サイコパス」という,人格を形容した表現に自らを落とし込んだのであろう,というのが私の考えです。

 

とはいえ,別にネットの悪口を言いたいわけではなく,私はネットを噂話や裏話のための進化したツールみたいなものだと考えていて,そこに顕われるおぞましい表現も自らを映す鏡のようなものと考えているわけです。弊害はもちろんあるでしょうけど善とか悪とかはネットを表わす適切な表現ではないと思っています。

 

ただ,そこに節操なく次々と生み出される新しい言葉が,ときに人間の弱さを肯定することで,道徳や秩序や安全や幸せを踏みにじることも許容される表現となることが懸念されることだと思うのです。

 

たとえば,グローバル社会って言葉は,本来国民の幸福を死守すべき国家の責任を放棄する事も許す表現のように思えるのですよ。

 

「世界はグローバル社会だから一部の国民が苦しむのは仕方ないんだよ」みたいに。

酒とバラの日々

2014-05-19

金曜日は,奥方がご不在の隙をついて,豊田家にて朝まで・・・いや,朝再開コースでサシ飲みでした。

 

ここのところ外で飲むことが無かったこともあって,金土はまぁよく飲んで話をしたと記憶しておりますが,こういっちゃアレなのですが,天気の良い土曜日の朝に朝食と一緒に・・・というのは,別に旅行先でなくても十分に非現実の世界を楽しむことが出来ることが分りました。

 

その時ちょうど,レースのカーテン越しに青空を覗かせる窓辺を背にした私の右隣にあるステレオから,沢田研二の「時の過ぎゆくままに」が流れてきて,(いいね〜堕ちてるね〜)と堕落気分を存分に味わうことができました。

 

まぁこんなことは滅多に出来ないからこそ気持ちいいのでしょうね。

 

それこそ我々は,ほんの数日のために,なけなしの収入から旅行代金を捻出したりするくらいですから,みんな日常から離れたいという欲求をよほど強く持っているのでしょう。

 

もっとも,旅行という期限付きの逃避行であれば,ちゃんと帰って来たときに悲しいかな,ちゃんと日常が待っていてくれて,何事もなかったようにそれまでと同じ日々が始まるわけです。

 

ですが,土曜のワタクシもそうですが,手短に逃避行する事ができる魔法のドリンクが世の多くの方に嗜まれているわけで,それはもちろんアルコールのことです。

とはいえ,アセドアルデヒドという嫌な奴が,早朝にすさまじい頭痛をもって飲み過ぎの警告をしてくれますし,大抵の人は溺れることなくお酒を楽しんでいます。

 

もっとも,正月の迎え酒などは,胃もたれと頭痛を我慢しつつ無理矢理に口にしているうちにだんだんと気持ちよくなってくるもので,正月という期限付きで無い限りちょっと怖いと感じることがあります。

 

怖いと感じるのも,快楽に身を委ねてしまい理性が効かなくなる様なことが自分自身に起こり得ることを想像することが出来るからでして,そのことは堕落の欲求が潜在的に自分に存在することを意識しているからでもありましょう。

 

そういえば,「酒とバラの日々」というジャズのスタンダードナンバーがあるのですが,タイトルにも惹かれるものの,曲調もとっても幸せそうな感じです。私はこの曲をアール・クルーのCDで知ったのですが,歌詞がないのと彼のギターがとても軽快で幸せそうに聞こえて,まるで酒とバラに囲まれる日々が永遠に続くというようなイメージで捉えていました。

その時は知らなかったのですが,実は同タイトルの映画の主題歌だったそうで,映画の内容としてはアルコール中毒で生活が破綻していく夫婦の姿を映したシリアスな内容のもののようです。(実は観たこと無いんですが)

 

そう考えると,思わず幸せな日々が永遠に続くであろうと思わせるようなタイトルが実に秀逸だと思います。実際に主人公はそう思っていたのかも知れません。(観たこと無いんですが)

 

もちろん,もし幸せな日々が永遠に続くという選択肢が人生の分岐点に突如現れたら迷わずそれを選ぶでしょう。人がそれを堕落と呼ぼうと呼ぶまいとです。

 

でも,実際に宝くじがあれだけ売れるのは,多くの人にそういった意識が潜在的にあるという現れなのかも知れません。(宝くじを買うことが良くないと言うことではないですよ)

 

とはいえ,ほとんどの人は快楽に溺れることなく日常を全うしているわけでして,逆に人に対してそういう信頼があるからこそ世の中がまわっているのでしょう。二日酔いを理由に約束を反故にする事がまかり通ったら世の中メチャクチャになってしまいますし。

 

そういえば私事で恐縮ですが,ちょうど「酒とバラの日々」の曲を知った学生の頃,太宰治や坂口安吾に感化されたことがありまして,友人のアパートに入り浸りひたすら飲んでいた青春の頃がありました。

 

まぁ言ってみれば中二病ということです。堕落や退廃といった文言を自分にとって収まりよく解釈して,それに儚さや甘美さがあると信じて,それが解るオレと解らないオマエラと言ったような人の見方でした。

 

ただ,坂口安吾の「人間は可憐であり脆弱であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる」という堕落論の一節が,(何故なんだろうなぁ)とずっと心に引っかかっていました。

 

その後,卒業して働いた後に一時的に休職して,前にも書きましたが就業中に貯めたお金で数ヶ月ニート生活を試みたのですが,不安で怖くなって断念しました。その時,あの安吾の言葉が頭をかすめたわけです。

 

そして,今にして思うと他人をもってそれがとてもよく分るのです。

 

不安や恐れなど内心的な要素から,家族や職場などの要請,はたまた請求や裁判,脅迫など外部的な要素が堕ちることを許さず,それ故に堕ちきれないからこそ借金の整理という仕事が成り立つ訳です。

 

そのことは,自分の身の回りに複雑に絡む何らかの事柄によって,人は堕ちきれないものだとつくづく考えさせられます。

 

そして,だからこそ人は苦しむのでしょう。

 

すべてを投げ出せたらどんなに楽か,と誰もが一度は感じたことがあるでしょう。それがときには自殺という選択となることもあるのでしょうが,それは命を捨ててさえ堕落することが出来なかったということでしょう。

 

良いか悪いかということではありません。

 

人によっては,命を投げ出すよりも,絶対に放棄してはならないと思い込んでいる事を放棄する事の方が遙かに困難である場合があるということでしょう。

 

そして,それは人によっても様々なのでしょうけど,人間であればどんな人にでもあるように思えます。なぜなら,どんな境遇の人も生活にルーティンを求めて持つからです。そして,それがその人の日常となるのでしょう。

もちろん,他の人にとっては非日常と見えることもあります。

 

そういえば,また芸能人の薬物が話題となっていますが,我々一般の人にとっては金銭的収入もさることながら,彼らの生活は非日常の世界であることでしょう。

そんな彼らが,地位や立場を捨ててまで溺れる快楽とはいったいどれほど・・・と多くの方が思っておられると思います(私はそうでもないですよ。本当に)

 

もちろん,当然ながら私は経験無いですが,何故,芸能界において薬物問題が絶えないかについて,彼らにとっては非日常を味わうためのものだったのではないかと私は推測しています。

 

たとえば,我々が小金を一生懸命貯めて行く旅行先でさえ,時間とお金のある彼らにとっては簡単に足を伸ばせる日常に程なく近い場所でしょう。もしかしたら,何処に誰と旅行しても味わえない世界がオクスリの世界にはあるのかも知れません。

 

でも,それはあらゆる楽しみを享受出来る彼らにとっては魅惑の世界かも知れませんが,二泊三日の小旅行で現実逃避できる我々にとっては,むしろ朝食に飲むお酒の方がよっぽど刺激的な快楽なのではないでしょうか。非日常を求めるのであればそれで十分でしょう。

 

そして,彼らが求めた非現実の世界も,我々一般人にとっては,よくある芸能スキャンダルで三ヶ月も経てばきっと話題にもならなくなることでしょう。それが我々の日常の世界です。

 

そして,彼らも例外なく堕ちきることはできないでしょう。

骨の髄までしゃぶられるとはよく言いますけど,それって言ってみればその人達に必要とされているってことでしょうし,その人間関係についてまで放棄してしまう事は,大好物を得ることが出来なくなるわけですから,共依存の関係は続けざるを得ないわけです。

 

そんなオドロオドロシイこの世の中に天国があるとすれば,それは堕落して堕ちきることが出来たときのことかも知れません。

 

でも,それは実際に出来ないわけで,自分についてそのことを知っていると言うことは,非常に安心できると同時に苦しいことでもあるのです。

 

でも,だからこそ堕ちきれない日常でひたすらルーティンに勤しみ,時折,非日常に出向いてさんざん堕落した後,また日常に戻るという,日常と非日常の行き来をすることが出来ます。

 

だから,お酒とバラに囲まれた日々に憧れを抱いて,美しいメロディに酔いしれるということを楽しむ事ができるのかも知れませんね。

kokorozashi

2014-05-16

志とはよくいいますが,どういう意味なのでしょうかね。

 

何かを目指す気持ちや信念などを表わすときはとっても使い良いのですが,困るのは謝意のときですね。

 

何が困るかというともちろん金額の話です。

 

ただ,最近はネットで検索すればおおよその金額はすぐ調べられますが,肝心なのはその関係というか距離というか,お互いの関係を相手はどう見積もっているのかという所じゃないでしょうかね。

 

もちろん,相場より多く志すに越したことはないのですが,それをやっていたらいくらあっても足りなくなってしまうわけで,お互いの関係を計りつつ相当な額で関係を保っておきたいものでしょう。

 

なんというか,本来謝意や好意を表わすために手渡すものでありながら,なぜか手渡す方にプレッシャーがあるのは,日本ならではの人間関係の複雑さなのかも知れません。

 

それは,もっと単純に考えれば良いというものでもなくて,その複雑さを包含しつつハッキリした意思を伝えることからこそ志と呼ぶのかも知れませんね。

 

というわけで良い週末をお過ごしくださいませ。

また日は昇る

2014-05-15

今日は,久しぶりに涼しかったですね。

 

連休明け最初の一週間も明日で金曜日を迎えますが,体調の方はいかがでしょうか。

 

イワユル5月病を患ってしまうと大変です。

 

私に関しては,毎年この時期はあまり調子がでなかったりします。

 

でも,今年は比較的良い感じです。

 

この5月病の原因については色々な事が言われていますが,ちょうど暖かくなる時期ですから,ぼお〜っとしてしまう事が多いです。

おのずと,仕事もはかどらなくなると・・・

 

そのほかに5月と言えば,さつきと読んで五月晴れという言い方もされますね。とにかく晴天と新緑がとても見栄えの良い季節です。お茶摘みの季節でもあります。

 

それと,五月蠅いとかいて“うるさい”と読むぐらい蠅を始め虫や生き物,植物がとても元気になる季節です。

 

それにしても,何で人間だけダメになってしまうのでしょうかねぇ。

 

というか,外国の人も5月になると一斉に調子が悪くなったりすることがあるのでしょうかね。

 

ちょっと,ネットで調べて見ると,どうも日本独自のもののようです。

 

もっとも,暦ではなくとも月曜日に襲う独特な鬱の症状は外国でも共通のようで,アメリカでは,「月曜日に作った車は買うな」なんて言われたりするそうです。

 

でも,サザエさんシンドロームなんて言われるとおり,日本では日曜日の夕方からよるにかけてが一番症状が重い感じかも知れません。

 

いずれにしろまた日は昇ります。

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