街を歩いていると有名芸能人の写真が掲載されている広告を良く見かけます。
そして,雑誌の表紙は有名アイドルだったりテレビ番組では俳優さん,女優さんが役を演じていてコマーシャルでも売れているお笑い芸人さんが出ていたりします。
その中でなんとなくそういう人たちのファンになって憧れてグッズを買ったり振り,付けを真似したり,髪形を似せたりしますが鏡に映った自分の姿は・・・・
いや,人間見た目じゃない!自分には秘めた才能があるはずだ。と考えて今度は芸術関係に手を伸ばします。
この世界は,いいものとダメなものとの線引きが曖昧なために自分の作品を必要以上に可愛がる事ができます。つまり,世間の評価が芳しくなくても「時代を先取りしすぎた」などという理屈で自己処理をできてしまいます。
実際にはどんな分野でもセオリーがあってそれを辿っていくのがスタンダードなんでしょうけど,正解がない世界だと自己流も間違いではなくなります。
だから,特に前衛芸術の分野では玉石混交だとおもいます。本当にセンスのいい人というのは何故か目を惹くような作品を次々と生み出します。こういう人の作品を見ていると人間の美的感覚というものは宇宙のように無限に広がっているのではないかとさえ感じます。
だから,むしろセオリーから外れた芸術の方が100m走の様な個人の露骨な才能の表現といった気がします。
奇をてらうということは容易いことです。セオリーから外れればいいのですから。しかし,そう考える人は沢山いる訳で,むしろその世界の方が人の目に入らなくなってしまうということもあるはずです。
ちゃんとセオリーを辿っていった方が色々な人から信頼されて人目に掛かる機会が多いかもしれません。
でも,どこか人と違うことを恐れるわりには自分を特別と思っていたい部分もあったりするので,人にどう評価を受けようと自分の意識をそのまま体現したいという心理っていうのもあると思うんです。それはそれで楽しんでやればいいんでしょうね。
以前,深夜(自分にとっては)テレビでマツコデラックスさんが,自身のお仕事について「ある意味社会不適者の集まりだから社会に適合できる人は,ムリして不適合者になる必要は無い」というようなことを言っていましたが,特殊な才能というのは社会適合性の裏返しになることもあるのかもしれません。
実際にテレビでやっているようなことを真似たりすることが学校や家や会社ではまずいこということが沢山あるはずです。それでも,それを公共電波で流して人気が取れるというのはその人の才能だと思います。
人はそれぞれ生まれたとき既に誰とも違う訳で,だから大人になるための準備として言語とか共有しなければいけないものを統一した教育により覚えていく必要があります。だから,それぞれどんな人にも個性が観念できるのは当然のことで,それは能力や人気にかかわらずです。
だから,どんな人も何をしていてようとも特別と思えば特別なんだと思いますよ。
他人に対してもそう思っていれば尊重することができるでしょうし。