朝の出勤のため駐車場までの道で犬に吠えられました。
小型犬なのですがそれはそれはけたたましく吠えられました。
あれを擬音語で「わんわん」と表現するのはちょっと違和感を覚えます。
どちらかというと英語の「bowwow」の方が近いと思いました。(今日は音楽の話しではありませんよ。)
そういえば,鶏の鳴き声は,頑張れば「こぉぉけこっっこぉぉおお〜〜〜!!」と聞こえないでもないですが,「COCK-A-DOODLE-DO〜〜〜!!」にはどうしても聞こえません。
また,ツクツクボウシの鳴き方について侃侃諤諤の議論をしたことがあります。
私の主張は「・・・・ジ・ジ・ジ・ジ・・・ボーシ・・ボーシ・・・ボ〜〜シ!!ツクツクボ〜〜〜シ!!(中略)オイッヨ!!オイッヨ!!(中略)ジ・ジ・ジ・ジ・・・・」であることに対して相手は「オーシンツクツク オーシンツクツク」と大変スマートな表現をされました。これは,炎天下に力の限り叫び続けているツクツクボウシのほか他の蝉たちの名誉にかかわることだと思い一言言ってやりました。「オーシではなくボウシだ!」と・・・
まぁいいんですが・・・・
人によって聞こえ方が違うというのは興味深いところです。ずいぶん前にビートたけし氏が,一つの色でも人によって見え方が違うのではないか,というようなことをおっしゃっていましたが,音についてもそうゆう推測が出来そうですね。
「わんわん」と擬音語で表現されれば誰もが犬の鳴き声を想像しますが,私のように実はわんわんと聞こえない人もいるでしょう。しかし,最初に犬の鳴き声を「わんわん」と表現した人にはそう聞こえたはずです。
日本では犬の鳴き声は「わんわん」という共通認識の基でコミュニケーションが成り立っています。私のように酒の席で是非について議論するのも肴としてはおもしろいのですが,共通認識とされていることにいちいち自分の主張を起てて噛みついていては話しが進みませんし,相手も迷惑すると思います。
この話において,〜聞こえ方〜これは個性だと思います。そして,それぞれ人に個性があるからこそ共通認識を作りコミュニケーションの円滑化を図る必要があるのだと思います。
一方で我々氷河期世代は一度は耳にした事があると思いますが,「個性を伸ばす」という教育方針がかつて謳われていたと思います。(今も言ってるのかな)
先の例で考えると個性を伸ばした子供が大人になったらいったいどうなる事やら・・・
人それぞれ個性があるからこそ大人になる準備として教育課程では共通認識を教える必要があると思います。
これは,得意なことに磨きをかけるとか好きなことを存分にすることと混同されがちですが全く論点が違います。好きなことや得意なことをするのは結構なのですが,その他にも最低限必要なものがあるということです。
人と違うことはおかしいことではなく当然のことであるはずです。だからこそ,伝える術,受いれる術が必要なのだと思います。