バスや電車などに杖をつきながらお年寄りが乗車してきたとします。
そして,お年寄りは優先席のすぐ目の前にきて立たれました。優先席には若者が座っていましたが席を立ちませんでした。
それを見てどういう気持ちになるでしょうか。
それを少し離れたところから見ていた私は憤り優先席に座る若者に注意をしようと近づきました。
優先席の近くまで来て言葉を発しようとしたときに見えたのは座席に隠れて見えなかった若者の杖でした。若者は足が不自由だったのでした。
ちなみに架空の話です。
私が憤った理由としては,優先席に座った若い人はお年寄りに席を譲るべき社会的義務があり,お年よりは優先席に座ることができる社会的権利がなければならないといった社会的責任というような考え方だとしましょう。
そうすると上記のような場合,どうすればいいかが問題になってきます。社会的責任についての明文がないだけにどちらを優先するかを考えるのはとても難しいことです。先に座ったほうが優先か年齢の高い方が優先か実際にどちらが大変か判定をするのか,その他,社会的権利を主張する同士で不平等が解消されるまで様々な考え方から優先の基準を考えなくてはならなくなります。
車内のうち誰か一人が立てば一応解決する話なのですが・・・
それでも,実際には,争っている双方に社会的権利とかいう発想がある限りいさかいは収まらないのではないかと思います。形的に収まってもしこりは残るのではないかと思います。
権利主張には自らの正義が根拠となりますので正義と正義で争いあっても収拾がつくはずありません。故事にある矛盾と同じことです。
また,対立関係に捉われると柔軟な解決方法が思いつきません。思いついても面子が立たないということになるでしょう。
もともとは誰かの粋なはからいから始まった慣習だったのでしょうが,それが広まるにつれて何か社会的責任のように状況を無視した単純な伝わり方になってしまっているような気がします。私の場合は学校の道徳の時間に先生から「お年寄りには席を譲るべきだ」と非常にシンプルに教育されたと記憶しています。
だから,若者はみな状況判断に迷うのではないかと思います。
現に私の母親は譲られるのが怖いと言っていましたし,実際に譲ったのに断られてショックを受ける若者もいることでしょう。中には席に座る若者を杖でつつく老人もいると聞いたことがあります。
これだと,若者が優しい心の部分が育たず社会がなお殺伐としてしまうような気がします。
権利だとか義務だとかで物事を対極としてだけ考えても世の中を狭くすることにしかならないと思います。
もっと思いやって,もっと視野を広げて,もっと冷静になれば柔軟な対応ができるのではないかと思います。
事務所の近くにある視覚障害者支援施設から出てきた白杖を持った方の横を大きな音を立てながら走り抜けるスクーターを見てなんとなく書いてみたくなりました。