ここのところ急に冷え込んできました。
今年は気温の変化が急激過ぎて服装に迷うことが多い気がします。
そして,日中もだいぶ気温が涼しくなってきましたが,必要以上にしっかり着込んでいかないと夜の冷え込みに耐え切れないこともしばしば・・・
街を歩いていると人々の服装もまちまち(しゃれじゃない)でした。
ついこのあいだまで昼間はシャツ一枚で外出していた気がします。今年は暑さが長く続いたため衣替えにだいぶ期間をおいたような気がします。
自営なので出所のときはどんな格好でも誰かに怒られたりすることはないのですが,やはりスーツの方が身が引き締まる感じがするのでそうしています。
それでも,今年はとてもじゃないですが暑くて10月下旬くらいまでスーツを着る気にはなりませんでした。
上着を着るタイミングは自分の体感によりましたが,でも,結構周囲の変化は気にしていました。
今朝も傘を片手に持ちつつ周囲に同じく傘を持っている人を探していました。
人にはあまり周囲に捉われないと自称していてもやはり横並びが心地いいのかなぁとすこし自覚してしまいました。
これも村社会的な意識の名残なのでしょうか。
村社会のイメージといえば,相互扶助,排他性,あと代表的なものが村八分です。
村八分とは,秩序を破った者に対して無視という形で行われる制裁のことです。
なんでも,「地域の生活における十の共同行為のうち、葬式の世話(死体を放置すると腐臭が漂う、また伝染病の原因となるため。また死ねば全てを許されると言う思想の現れとも)と消火活動(延焼を防ぐため)という、放置すると他の人間に迷惑のかかる場合(二分)以外の一切の交流を絶つこと」(うぃき)というのが由来だそうです。
昔からある集落などの小さな地域でのコミュニティーの秩序維持方法だったようです。千葉市稲毛区育ちの私にはあまりピンとこないのですが,法事などで両親の故郷に行くと地域コミュニティーの強さを感じました。
ちなみに残り八分は成人式,結婚式,出産,病気の世話,新改築の手伝い,水害時の世話,年忌法要,旅行だそうです。
現代っ子の私には(別に・・・)といった感じですが,江戸時代などはこれをやられるとシャレにならなかったようです。
この無視という形で行われる制裁は,その他全員が示し合わせてこそ為せる業でありそれには違う価値観を排斥する必要があります。そして,その裏側には小さな社会だけに強烈なヒエラルキーがあったのではないかと考えます。
このヒエラルキーがもたらし易いのが独裁的な支配だと思います。そうであれば,理不尽な理由で村八分を食らった人も多かったかもしれません。
私生活においては,近隣住民との関係が希薄化し,また生活の利便性が大いに向上した現代においては集団で無視するという行為が制裁になりにくくなっていると思いますが,学校や会社でもあるというから昔の話では済まされません。
現在に至る周囲の人を気にし過ぎる風潮も制裁を恐れた結果なのかなぁと考えてしまいます。
以前,高校生への法律講座の講師としてある高校へ行った際に担当の先生から「今の子供たちはあっけらかんとしている様に見えて自分たちの世代よりも周りを気にしている」という話を聞いたことがありました。
結局,個性とか価値観とか大いに謳ってみたもののコミュニティーの裏側にある排他性や消極的攻撃性はむしろ強くなっているのかもしれません。
かといって,狭く資源の少ない日本で相互扶助を否定するのは良い考えではないような気がします。
問題なのは,各々のヒエラルキーへ依存の程度ではないかと思ってます。