趣味はボランティア
以前に就職活動サイトのTVCMの中で「趣味はボランティア」と動機として「人の喜びに繋がる仕事をしていきたい」とのことを履歴書に記載するシーンがありました。
ネットの反応はボロクソだったようですが,私は(CMとしてはともかく)現在における人の評価とか物事の認識などをよく現しているなぁという感想です。
ところで,ボランティア活動の原則として自発性,無償性,利他性,先駆性という4つ要素があるそうです。
この中で,自発性と無償性はわかりやすいと思いますが,“利他性”というのは他人を思いやる気持ちまたは欲求のことだそうで,“先駆性”というのは社会で何が求められているのかという内心だとのことです。
つまり無償性以外は主観に関わる事になります。
そうすると,履歴書に「ボランティアの経験あり」と書く目的のためにボランティアに行くことは利他性と先駆性という意味では当てはまりません。
ですが,自分で「結果的に履歴書に書くことになるが断じてそれが目的ではない」と思い込めばボランティアとして成立するんですねぇ。
もっとも,会社側の採用担当の人がボランティアの細かい定義まで知っているのか解りませんが,そもそも,ボランティア経験を評価の対象とすることはあまり無いんじゃないかと思います。
というのも,会社というのは利益を追求することが目的のひとつなので,どんなにいい行いだろうと無償で仕事をされたら困るのです。(もっともお給料要らないというのであれば別かもしれませんが)
会社が欲しがる人材というのは当然ながら売り上げを高める人材でしょうから,無償で行う代わりに社会的な責任も負わないボランティアというのは,経験としてはともかくメンタリティとして評価しにくいのではないかと思います。
実際に,ボランティアの要素である自発性,利他性,先駆性が客観的に表現できれば別かもしれませんが,他人の主観というものが解り難いからこそ大手の会社は人事のために部署ひとつ設けて綿密な採用試験を組んでいるのでしょう。
ただ,採用試験においてボランティア経験をアピールする人は多いそうで,会社側が欲しがる人材とアピールしていることに隔たりがあるのはなぜか,ということが気になります。
私が思うにこの隔たりは,自分という人間の存在を主観として認識するか,それとも社会的な認知により認識すべきか,という違いによって起きていると考えます。
要は,“ボランティアをやるような美しい心を持つ自分”というアピールが,多くの志望者の中で及第点を望む会社にとって必要か,ということではないでしょうか。
しかし,社会的にはボランティアの定義のうち自発性,利他性,先駆性という部分は営利を目的としていようともある程度必要な部分でしょうけど,それはボランティアを行ったという事実よりも良い方法でアピールできるでしょう。
そう考えると,「人の喜びに繋がる仕事をしていきたい」というのもとてもよく繋がる話で,仕事としてお金を頂く以上,(消極的なものも含んで)人の喜びに繋がらない仕事をしてはいかんはずなのです。
すなわち,寿司屋のカウンターで「寿司を食べたい!」といっているようなもので当たり前のことをわざわざアピールしていることになるのですが,これがもっともらしく聞こえてしまうのも,自らの存在を主観的に捉えすぎるあまり,社会は人材として自分を見ているという客観的な視点をおろそかにしてしまっていることの表れのように思います。
まるで,「我思う,ゆえに我あり」というデカルトの所謂コギトの話のようになりますが,すべての存在を疑った末に残ったのが“疑っている自分”ということなので,意識上で少なくとも自分の存在を否定しきれないということだと思います。
そうであれば自分以外にも,“自分以外を疑う面接担当官”は存在し,疑ってみても家族も兄弟も恋人も上司も部下も隣人も見知らぬ他人もみんな存在して社会はまわっていることになります。
屁理屈になりましたが,信念とか倫理とかそういった主観も見据える先は社会であって,単なる自分の思いつきであってはならないはずですが,戦後教育で個性というものをあまりに重んじたために自らが社会の一員という自覚が抜け落ちてしまっている気がします。
もっとも,私のろくでもない若き頃と比べると,今の若い人たちは実にしっかりしているという感じがしますので,やっぱり上の世代の責任なんだろうなぁと思うわけです。