なぜみんな横並びがすきなのか?
ため息がふと出てしまう今日この頃です。
プライベートの話ではありません。日々の業務上の出来事です。
この仕事を続けていて非常に(嫌になるほど)感じることは,横並び意識の根強さというか意地になって横並びに食い下がる姿勢です。しかも,多くの人は車や自宅など物質的な部分でその横並びを求めようとする傾向があるように思えます。
井戸端会議などで話を合わせるという行為から,意識的にも横並びの傾向があると言う風に思えるかもしれませんが,これは表向きだけのことだと思います。いざ自宅に帰れば,“あそこん家には負けたくない”が本音ではないかと思います。
そして,そのグループ内において皆が所有している物を,一人だけ持っていないということはありえないこととなるので,無理してでも買ってしまうという事があるように思えます。
それでも,どうしても持つ者と持たざる者は出てきてしまいます。
資本主義の社会においては,働く人の能力により収入が変わる事が多々あります。
また,資本主義でなくても生まれついて人は,運動能力や頭脳・顔やら手先やら一人として同じ人はいないわけで,それについて優劣を比較すると「平等などときれいごと」と言うことになります。
では,どうして生まれついて不平等であることが当然なのに平等という言葉があるのでしょう。
もともと江戸時代まで遡ると,当時は武士階級が支配していた封建社会でした。原則的に生産活動はせず,幕府や藩から支給される禄を食む存在でした。彼らの生活を支えるために農民が年貢を納めており,これはちょっと平等とはいえません。
ですが,大変平和で文化的であったことはご存知のことと思います。
その後,江戸時代が幕を閉じ明治政府が誕生しましたが,旧武士階級であった士族があちこちで反乱を起していることから,旧武士階級においては階級の撤廃についてかなり不満があったと思います。
その溜飲を下げるひとつの方法として,平等という概念がどれだけ素晴らしいかを周知させることは有効だったはずです。大河ドラマでおなじみの新島襄もかつて武士階級でありながら,翻訳された聖書を読んで平等思想に感銘を受けたといわれています。
なお,大日本帝国憲法においては平等原則についての一般的規定がなく,公務就任資格における平等について定めるにとどめています。
おそらく,新政府が発布した「四民平等」により日本における不平等は解消されしまうという,つまり平等とは階級がない世の中ということとして認識して,それ以上もそれ以下も無かったのかもしれません。
こう考えると,ドラマの中で新島夫妻がお互い名前で呼びあうような,夫婦間における平等の様なものとは,社会構造から差異を無くすことと慣習の幅を広げるということで,違った概念ということになるでしょう。
なお,国民が守るべき道徳的な規範は教育勅語として明治天皇からのお言葉として発布されています。日本人として当然のことが非常に分かりやすく書かれています。(不思議に思うのは,現在は人々の意識が教育勅語とは逆の方向に向かい始めていると感じることです。)
19世紀初頭に当時新興の民主主義国家であったアメリカ合衆国を旅したフランス人の政治思想家アレクシ・ド・トクヴィルという人がいました。その当時は,西欧諸国においては貴族制の国家が普通だったようで,アメリカに降り立ったトクヴィルは市民達が皆平等であることに大変驚いたと言われています。
そして,アメリカのデモクラシーについて多数者の幸福を目ざすという美点を挙げる一方で「多数者の専制」を生じるという懸念もしています。
すなわち,市民たちが平等になることにより,人々がある階級を盲信する傾向は減少してゆく代わりに,大衆を盲信する傾向は増えていき,すべての人々を導くものはますます世論になってゆくことを指摘しました。
そして,その多数派世論を構築するのは,今で言う所謂マスコミではないかと考えました。
今の日本じゃないか!!と思わず叫びたくなりますが,このことは日本が江戸時代のときから指摘されていたのです。
で,冒頭の話に戻りますが,物質的なものに横並びを求めるのはまさにマスコミに煽られているからだと言えるでしょう。
日本は,階級を廃止してだいぶ時が経ちましたし,現在において階級の撤廃という意味で平等を捉える感覚は,大衆においてはだいぶ薄まっているのではないかと思います。
一方で,貴族制の社会が普通であった時代にアメリカにおいてトクヴィルが見た平等は,結果として懸念した通りとなっているという笑えない事態になっています。
ですので,肥大してしまいがちな平等の意義を,法の下の平等に限定するなどした方が良いと個人的には思いますが,憲法14条では非常に不鮮明な様に思います。